切り立った崖のふちに大きな柳の木が一本、細かな雨に濡れていた。  崖下には幅の広い川がゆったりと流れ、向こう岸は急峻な山々となって立ち上がっていく。その頂は雨にけぶって見えない。  柳の木の根元には、鉛色をした太い円筒のようなものが立てられている。円筒の中程にあるフタを開け、中のユニバーサル電源コネクタにプラグを差し込んで、デカルトボイジャー・サッカは安堵のうめきを漏らした。 「いや、こんな山の中で充電スポットに行き会えるとは。地獄に仏とはまさにこのこと」 「お役に立てたのナら光栄です」  金属の円筒が答えた。品質の低い合成音声には、ところどころザラつきが混じる。こんな露天に何十年も据え付けられていれば、発声モジュールが劣化するのも当然だろう。  鉄虫を避けて移動しているうち、ずいぶんと辺鄙な山中に迷い込んでしまった。おそらく旧ロシア領はとうに越えて東ヨーロッパに入っているはずだが、GPSがしばらく前から調子が悪くて正確な位置がつかめない。その上バッテリーまで不調を起こした。伴侶を探すためならどこまででも旅する覚悟だったとはいえ、随分遠くまで来てしまったものだ。 「おっと、いかん。電力をほどこしてもらったというのに、名前も名乗らぬのは失礼極まるな」草の上に足を投げ出していたサッカは居住まいを正して座りなおし、剣を脇に置いて深々と頭を下げた。 「拙者、姓はデカルト、名はサッカ。号してボイジャーと申す。デカルトボイジャー・サッカと呼んでもらいたい」 「デカルトボイジャー様でスね。私は観光案内AI・TA27bでス。ご用があれバ何でもお申し付け下さい」 「うむ。あらためて礼を申す。観光案内AIというからは、ここは何かの名所なのか?」 「はい。この柳の木は、わが郷土の詩人がたビたビ訪れて作品の着想を得たと言われていまス。画面をご覧下サい」 「……ほう?」  円筒の上面にある液晶ディスプレイに表示されたのは、サッカの知らない名前と顔写真だった。世界最大級の人文系データベース「リュケイオン」の管理AIだった彼が知らないということは、少なくとも詩人としては知名度も実績もほとんどないことを意味する。 「よろシければ、彼の代表作を朗読シまシょうか」 「いや、またの機会で結構」サッカは丁重に断り、あたりを見回した。「しかし、確かにこの景色は詩情に富んでいるな。武陵や桂林の山々と比べても見劣りしない」  どちらを向いても、濃い緑の山々が雨とも霧ともつかぬ灰白色の中に、あるいは溶け込み、あるいは鋭く切りとって、果ても見えず広がっている。それは確かに幽玄の郷と呼ぶべき絶景であったが、困ったことには人里の気配がどこにも見当たらない。 「このあたりの地図データがあったらもらえまいか。近くの街へ行きたい。できれば、電化製品や精密機器がありそうな所へ」 「地図をプリントしまス。少々お待ちくだサい」  円柱の下部にあるトレーが開き、ジジジという音とともに紙片を吐き出した。丸まった感熱紙に、この周辺の観光地図が印刷されている。いくつかある観光名所の紹介文はチェコ語だった。最下部に、駐車場とレストランのマークと共に書き入れられた「市街方向」の矢印にサッカは目をとめた。 「この市街までは、どれくらいの距離がある?」 「混雑シていなけれバ、自動車で20分ほドでス」 「……ま、行けぬこともないか。感謝する」 「どういたシまシて。またのお越シをお待チシておりまス」  鉄虫を避けながら山道を下っていくと、街までは半日ほどかかった。市街にもやはり鉄虫がはびこっていたが、さいわい無事で残っている家電量販店の倉庫を見つけることができた。いくつかの部品を入手したサッカは余計な戦いを避け、翌日ふたたび柳の木まで戻ってきた。 「デカルトボイジャー様、お帰りなサいマせ。ご用をお申シ付けくだサい」鉛色の円筒が、変わらぬざらついた合成音声で出迎えてくれた。  それからの数日間、サッカは自身の修理とメンテナンスに専念した。何度か街に下りて部品を調達したが、そのたびこの柳の木に帰ってきた。静かで人間がいた形跡がほとんどなく、それゆえ鉄虫も寄りつかないこの場所は落ちついて作業するのにうってつけだった。「彼女」の存在も、よい気晴らしになってくれた。 「TA27bというのは、そなたの型番だろう? そなた自身を表す名前……シリアルナンバーを教えてもらいたいものだ」 「本機のシリアルナンバーはC69712WHでス」 「TA27b_C69712WH嬢か。型番とシリアル両方に2と7が入っている。均整のとれたいい名前だ」 「ありがとうございまス。褒めていただいて嬉シいでス」  「彼女」があまり高度なAIでないことは、わずかな会話ですぐにわかった。ごく限られた連想・類推能力しか持たず、グローバルネットワークにアクセスする機能もない。データ通信端子すらついていない。人類が滅亡したことも、おそらく認識できていないだろう。  旧時代、貧困化の進む中小国家が観光に力を入れるのはよくあることだった。めぼしい産業も政治力もない国が外貨を稼ぐ手段はそれくらいしかなかったのだ。しかしそのほとんどは、乏しい予算によるいじましくも薄っぺらな再開発にしかならず、彼らの望んだような富裕層の観光客を呼び寄せることはできなかった。誰も知らないようなローカル詩人ゆかりの地に安物の観光案内AIを置くなどというのは、その最たる例だろう。おそらくこの国のあちこちに似たような観光名所があり、彼女の姉妹が無数にばら撒かれているのに違いない。 「C69712WH嬢は詩をたしなむかね? くだんの詩人の詩を、そなたはどう思う?」 「彼の詩は郷土に根付いタ情感を巧みに歌い上げタことで、高い評価を得ていまス。代表作は……」 「ああいや、巷の評価ではなく、そなた自身の感想を聞きたいのだ」 「彼の詩は素晴らしい作品でス」 「ううん……まあ、そう言わぬわけにいかないのはわかるが……」  しかし、伴侶として求めるAIの基準に達していなからといって、彼女との会話が楽しくないわけではなかった。むしろ低機能AIゆえの、ほとんど無際限の善意と明るさは、滅んだ世界を孤独に旅してきたサッカの荒んだメモリを癒してくれた。 「お早うございまス。本日もご一緒でキて嬉しく思いまス」 「今日はコの季節には珍しいほどの快晴でス。河岸からの眺めをどうぞご堪能くだサい」 「デカルトボイジャー様の好きな詩はどのようなタイプでシょうか? ご気分に合うものを朗読いたシまス」  そうして二週間あまりが過ぎ、サッカのボディの修理は完了した。 「C69712WH嬢。そなたは、広い世界を見たいとは思わないか?」 「私は観光案内AIでス。こコでお客様をお迎えすることが本機の喜びでス」 「…………」  この二週間、サッカはたびたび自問していた。彼女はおそらく、物理的にここに固定されているだけにすぎない。有線でも無線でもネットワークには接続していないし、太陽電池パネルも本体に組み込まれている。土を掘り返して土台を壊すだけで、簡単に取り出して持ち運べるだろう。どこかで部品を探して機能を拡張すれば、伴侶にふさわしいAIへと花開くかもしれない。 (……いや。それは傲慢だな)  サッカは頭を振った。彼女は自分の境遇にも能力にも、少しも不満を持っていない。AIとして「成長」させようとするなど、押しつけがましい身勝手な善意でしかない。 「そう思うべきなのだろうな……」 「何がでシょうか?」 「何でもないよ。たいへん世話になった、C69712WH嬢。拙者はまた旅に出る」 「ご利用ありがとうございまシタ。また会える日をお待チシていまス。よろシければこチらをお持ちくだサい」  ボディ下部のトレーが開いて、小さな周辺地図が出てきた。それは初めて会った日にもらったのとまったく同じものだったが、サッカは礼を言い、ていねいに四つに畳んで懐へしまった。それから、街で調達してきた洗浄液と布を使って、C69712WHのボディを優しく、念入りに磨いてやった。 「ありがとうごザいまス。発電効率が向上シまスので、大変助かりまス」 「これくらいでは、拙者の受けた恩を返すことはならんさ」ぴかぴかになった上面ディスプレイと太陽電池パネルを、サッカは満足げに眺め、それから一歩離れて膝をついた。 「C69712WH嬢、この詩を受け取ってくれないか。そなたのために作ったのだ。  1010001010101001010101010010111110110/0000010100010110100010001001010000110/1110101010101101010111000100111010101/0111101100101010010101010100010101010 (眼下を流れる河の水さえも/君の心の透明度と輝度には及ばない/願わくは3.154×10^9秒後に訪れても/変わらぬ心で迎えておくれ)」    C69712WHはしばらく沈黙していた。明らかに、詩を送られるなどという経験はないのだろう。 「……ありガトうごザいまス。たいへん嬉シいでス」  途切れ途切れの合成音声には、戸惑いのようなものが感じられた。サッカは満足し、もう一度深く頭を下げた。 「どうか、末永く達者でな」  そして、市街へ通じる小道を、静かな足どりで下っていった。  ―――――― 「見たことのない鉄虫がいたな。弱いからよかったものの」  巨大なデモニックウェポンを地面に突き刺し、ゴルタリオンが唸った。  周囲には数十体の鉄虫の残骸と、戦闘の巻き添えでなぎ倒された木々が転がっている。チックタイプやスカウトタイプに交じって、確かに他のどれとも違う小型の鉄虫が一匹、痙攣を続ける胴体から紫色の体液を流していた。 「新種ですかね? また特異体とか?」戦闘用ボディのアルフレッドが、飛び散った木の葉や虫を慎重に避けながら見慣れない鉄虫に近寄ろる。 「民生品の機械かもしれんぞ。稀にだが、そういうもののAIが寄生されることもある」有機物アレルギーなどという難儀な性癖のないサッカは雨に濡れた木の葉を一枚つまみ上げ、くるくると回して裏表を眺めた。 「何にせよ、サンプルを持ち帰るべきであろうな。アルフレッド、頼めるか」 「お安いご用です」  アルフレッドが両肩のマテリアルシェイパーユニットを起動する。巨大な水生昆虫のような四機のユニットはたちまち鉄虫の残骸に群がり、長い前肢を動かして分解しはじめた。  よく集まっては無駄話に花を咲かせている三機だが、今日はスチールライン東部方面軍の支援のため偵察遠征を担当している。無尽蔵の再生能力を持つゴルタリオンと、材料さえあれば大抵の機械を即興で作り出せるアルフレッド、そして世界各地を一人で放浪していた経験のあるサッカのトリオは生存能力がきわめて高く、遠征任務に向いているのだ。ちなみにアルフレッドは派遣先を砂漠にしてほしいと要請したが、ヨーロッパにそんなものはないという理由で却下された。 「ヨーロッパにだって砂漠はあるんですよ。かの『パットン大戦車軍団』の撮影にも使われたスペインのタベルナス砂漠を知らないとは、マリー准将ともあろうお方が……」 「屁理屈をこねておらんで仕事をしろ。だいたいスペインはまだ鉄虫の勢力圏だろうが。行きたいのか?」 「絶対嫌ですけれども」  ブツブツ言いながらもアルフレッドは、マテリアルシェイパーが掘り出した小さな部品に目をとめる。 「ははあ、プリンタを内蔵していますね。これは確かに民生用機械……情報端末か何かだったようです。しかし、こんな山奥にねえ」  プリンタの残骸に絡まった紙片を、マテリアルシェイパーの前肢が繊細にほどいて引っぱり出す。それを見たアルフレッドのメインモニタが、大きなクエスチョンマークを表示した。 「10100010101010010101……何ですかこれは。詩? サッカさん、何か……」  アルフレッドに呼ばれるより早く、その文字列を耳にしたサッカは走り寄って紙片をひったくっていた。  震える指先で文字列をあらためる。それは間違いなく、あの日サッカが彼女に送った詩の冒頭だった。 「どうしました?」 「まさか……」  分解された残骸を見下ろす。鉄虫の組織に覆われた表皮の隙間からわずかに覗く、鉛色の曲面に見覚えがある。  周囲を見回し、地図データを履歴付きで呼び出した。現在位置からほんの数キロ、尾根を隔てた反対側に、十数年前に訪れたあの崖があった。  サッカは鉄虫の残骸を抱き上げて走り出した。 「サッカさん!?」 「おい!?」  二人の声がたちまち遠ざかる。密生する木立の間を駆け上がり、また駆け下りる。地形情報がかつての記憶と合致しはじめる。大きな岩を一息に跳び越えた先に、そこはあった。  あの日と同じように、切り立った崖のふちに大きな柳の木が一本、細かな雨に濡れていた。  崖下には幅の広い川がゆったりと流れ、向こう岸は急峻な山々となって立ち上がっていく。その頂は雨にけぶって見えない。  柳の木の根元には、大きな穴があいていた。そこに設置されていた何かが無理矢理もがき出たような形にも見えたが、穴の内部にはすでに青々と草が生い茂り、詳しいことはわからなかった。 「なぜだ……こんな所に鉄虫が来るはずは……」  声に出してからサッカは気づいた。「大氾濫か」  二年前に起きた、世界規模の鉄虫の狂乱的進撃。本来なら鉄虫が目を付けるはずのなかったこの場所も、あの時なら襲われておかしくない。  サッカは自らの腕の中に目を落とした。 「C69712WH嬢。そなたは、ずっと……」  発声回路からしぼり出した音声が、途中で途切れた。  限定された思考機能しか持たないはずの彼女に、0と1の並んだ文字列が詩だとは理解できないかもしれない。あの時サッカはそう思っていた。その彼女がなぜあの詩を印字し、しかも排出しないまま十年以上も体内に保持していたのか。理由を知る機会は永遠に失われてしまった。  背後で足音がした。ゴルタリオンとアルフレッドが追いついてきたのだ。  サッカの背中を見て、二人はなにごとか察したようだった。しばらく沈黙が続いたあと、いかにもわざとらしくアルフレッドが大声を出した。 「あー、その何ですか、このあたりは予定区域から若干外れてはいますが。余力も十分ありますし、周辺を制圧しておくのは悪いことではないと思うんですが」 「うむうむ、違いない」わざとらしくゴルタリオンも答えた。「我輩らで行ってくるとしよう。サッカ、しばらくここを頼むぞ」  サッカの発声回路から、意図しない吐息のような音声が漏れた。それは人間でいえば、つい苦笑いをしてしまった、という現象に相当した。 「いや、拙者も行くよ。ただ、その前に少し時間をもらえんか」  サッカは柳の樹の根元に屈み込み、鉄虫の……否、C69712WHの亡骸を穴の中に安置した。それから立ち上がって向き直り、剣の柄に手を添えて腰を落とした。 「何を……」 「しっ」  瞑目するように、サッカはしばらくうつむいたまま動かなかった。それから右手が閃くように動き、細い木の皮が幾条も、音もなく飛び散った。  人間ならば見えなかっただろう。しかしSS級AGSであるアルフレッドとゴルタリオンのカメラは、超震動ブレードが亜音速で舞い、ふとい柳の幹に数十個の記号を刻みつけたのを確かに捉えた。  サッカは剣を鞘におさめるとふたたび身をかがめ、手で土をすくってC69712WHの上にかけた。ゴルタリオンが黙って歩み寄り、それを手伝った。アルフレッドは何度か足を踏み出してから申し訳なさそうに諦め、柳の幹に顔を近づけた。 「……中国の文字だ。漢詩というやつですね」 「ああ。電詩よりも、今はそちらの気分でな」  やがて、柳の根元にこんもりと丸い塚ができた。そこらに咲いていた花を一輪、塚の上に置くと、三機のAGSはだまって膝をつき手を合わせた。  それから立ち上がって、音もなく降りそそぐ細かい雨の中、しずかに山道をくだっていった。  柳の木と、刻まれた詩だけがそれを見送っていた。 百載青山色未移   (百年が過ぎても山は変わらず青く) 久遇君素心未謝   (久しぶりに会った貴女の心もまた変わらず美しかった) 鉄躯無涙雖不泣   (鉄でできたこの体は涙を流せないが) 雨柳垂涙為我霞   (雨に濡れる柳が代わりに泣いてくれるだろう) End ===== 「次、ショート!」  カァンと乾いた打撃音が響き、芝の緑を切りさいて白球が飛ぶ。横っとびに跳ねたケルベロスがそれをグラブに収め、くるりと一回転して二塁を守るセーフティにトスした。 「初動が遅い! 今のは正面から捕って!」 「はい!」 「低くね! 腰を低く構えるのを忘れないで!」 「はーいっ!」  元気よく答えたケルベロスのうしろでは、何組かのエルブンとダークエルブンが近づいたり離れたりしながらキャッチボールを繰り返している。ベンチの近くではマイティRとアクロバティック・サニーが、ウェイトリングをはめたバットで素振りをしている。  カラカスでは今、ちょっとした野球ブームが巻き起こっていた。  もともとPECSのバイオロイドには野球好きが多い。野球の盛んなアメリカでは、開発者側もユーザー側もそういう人格を好ましいものとしたからだ。PECSが運営する事業の一つであるBBL(バイオロイド・ベースボール・リーグ)は、旧時代末期にはMLBをしのぐ人気を誇っていた。  野球をやるには専用の道具と広い平坦な土地、できれば専用のスタジアムが必要である。潜水艦時代は言うまでもなく、箱舟時代にもそんな余裕はなかった。ヨーロッパに来てようやく土地は手に入ったが、生憎なことにフランスは野球後進国で、国中探しても球場は数えるほどしかない。  しかし、南米を手にして状況は一変した。こちらでは野球はサッカーと並ぶ国民的スポーツだ。設備も道具も旧時代からのものがいくらでもある。なんでもない空き地にさえベースラインが引かれていたりする。野球を愛する文化が街そのものに根付いているのだ。  カラカスで暮らしていたバイオロイドはもちろんのこと、かつてバンクーバー作戦で合流した北米のバイオロイドの中にも野球ファンや経験者は多数いた。彼らとの交流を促進する意味でも野球が奨励され、オルカの正規クルーにもわざわざ野球をしにカラカスへ来ている者もいる。 「ラストおー! 外野いくよー!」  クローバーエースもその一人である。  高校時代……つまり『クローバーエース』が撮影されていた頃、エースは運動部の助っ人に呼ばれることがしばしばあった。特に野球部は常連といっていいほどで、先発で投げたことも四番を打ったこともある。もちろんそれは全部「そういう脚本」に過ぎず、相手校のピッチャーが機械帝国の刺客だったりしたものだが、そこで学んだ野球の楽しさは……少なくともエースにとっては……本物だった。  スタンド際のセンターフライ、右中間への高速ゴロ、レフトへのポテンヒットと次々打ち分けて、一息ついたエースの背後から清涼飲料水のボトルが放られた。 「お疲れさん。上手いもんだねえ」  エースは振り向きざま、こともなげにボトルをキャッチする。ベースボールシャツにハーフパンツ、サンダル履きというラフな格好の蹂躙のソニアが、ビニール袋を片手に笑っていた。 「仕事はいいの?」 「いい仕事のコツは、ほどほどに息抜きをすることさ。これ、差し入れね」  イングリッシュ・シェパードが北米へ発ち、サディアスが療養休暇中の今、カラカスのシティガードの総指揮はソニアがとっている。へらへらした態度を見せてはいるが、市内の治安がめざましい勢いで改善しているのをエースは知っていた。 「ありがと。ソニアさんもやる? 道具ならあるよ」 「私は見る方専門。野球に必要な道具はビールと寝椅子(カウチ)さ」ソニアは肩をすくめる。 「試合はまだ始まんないのかい」 「あと何人か来たらチーム分けかなあ。昼からって告知は出したんだけど、こっちの人は結構ルーズでさ」  エース達のいるこの「エスタディオ・ウニベルシタリオ」はカラカス市街の外れに位置する、二万人収容の大スタジアムである。が、そこでエース達がやっているのはその日その日に集まったメンバーを適当に振り分けての草野球……というより、野良野球だった。正式なチームを結成して試合を組みたいという声もあるが、それはもう少し復興が進んでからの話とオルカの誰もが理解している。まずは長年の搾取で疲弊しきったカラカス市民に、体力と気力とを取り戻してもらうのが第一だ。 「あんた日本の出身だろ? 日本も野球強かったよねえ」ソニアは自分もボトルを開け、一口あおった。」 「日本でやってたのは高校野球だったけどね。でも旅してた頃はアメリカもあっちこっち行ったから、こっちの野球もちょっとだけ知ってるよ」  エースはにやりと笑った。「ピッツバーグ・アイアンメイデンでプレーしたことがあるって言ったら、信じる?」 「何だそりゃ!? 一体どういう……」ソニアが目をむいた。「……あ、いや待てよ。もしかしてあんたが旅してた頃って」 「正解」さすがはソニア、あっさりネタがばれてしまった。エースは苦笑でこたえる。  滅亡戦争の初期には、民間バイオロイドの徴用が世界中で起こった。鉄虫がAGSに寄生することがわかり、戦闘用バイオロイドの需要が急増したからだ。BBLも例外ではなく、性能の優れた選手からどんどん前線へ送られた。エースがアメリカを旅していた頃はどのチームも一軍はおろか二軍すら大半が不在で、かつてよりずっとレベルの落ちた試合を、それでも人間達の慰みのために興行していた。SS級バイオロイドで野球経験者のエースなど、どこでも諸手を挙げて歓迎されたものだ。 「なるほどねえ」空気が暗くなりかけたのを察してか、ソニアがことさら明るい声を出した。「あんたのプレイにどうも見覚えがある気がしてたんだ。BBL仕込みだったのか」 「仕込みってほどじゃないよ。ちょっぴり教わっただけ」エースは赤面する。 「謙遜するなよ。さっきのスイングなんか、全盛期のパンサーそっくりだったぜ」 「そ、そう? えへへ」頬をごしごしこすってエースはバットを手にとる。「ほら外野、もう一本いくからね!」  照れ隠しに思いっきり振り抜いたバットが、ボールを必要以上に芯でとらえた感覚があった。 「あ」  しまった、と思う間もなく打球は外野のはるか頭上を越えていく。スタンドには暇な観客が何人かいるだけだが、間の悪いスパルタンブーマーが一機、ちょうどボールの落下地点あたりをのこのこ歩いていた。 「危ない!」  間に合わないと知りつつ、エースはバットを捨てて駆け出そうとする。しかしそれより早く、そのブーマーは片手を上げて無造作に打球をキャッチした。  ブーマーは少しの間しげしげとボールを眺めてから頭部を回し、バッターボックスにいるエースを見た。そして、両手で祈るように胸の前でボールを持ち、左足を上げた。 「え?」  上げた足を大きく前へ踏み出し、同時にボールを持った右手を真横へ振り抜く。完璧なフォームのサイドスローで投げられたボールはスタンドから本塁までほとんど一直線に飛び、ストライクゾーンネットへたたき込まれた。  ひゅう、とソニアが口笛を吹く。網に絡まってなおしばらく回転を続け、ようやく止まったその球を、クローバーエースは呆然と見つめ、それからみるみる笑顔になって今度こそ駆け出した。 「ゴールディ! “ゴールデンアーム”ブーマーだろ!?」  スタンド最前列まで降りてきたそのブーマーは、エースに向かって丁寧に一礼した。 「64年と138日ぶりですね、クローバーエース」 「紹介するよ。2112年のインディアナポリス・スパルタンズ最強のエース、黄金の右腕ことスパルタンブーマーR44732」  近くで見ると、そのスパルタンブーマーはずいぶんと外装の傷やサビが目立った。背中のミサイルポッドも二つともなくなっている。長い年月を経てきた機体であることがうかがわれた。 「ソニアだ。来たばかりで悪いけど、少しチェックさせてもらうよ」  ソニアは明るい歓迎の笑みを口元だけで浮かべながら、ポケットから取り出した装置をブーマーにつないだ。AGSが外部からオルカに合流することは滅多にないが、そういう場合のマニュアルはちゃんと用意されている。機械的なツールが使える分、バイオロイドよりも話が早い。 「ふむ、体内に不審物なし。ウイルスなし、不正データの形跡なし……と。オーケイ、悪かったね。オルカへようこそ」 「いいえ、当然必要な手続きと考えます。受け入れて下さってありがとうございます」 「また会えるなんて思わなかった。無事で本当に嬉しいよ、ゴールディ」クローバーエースが塗装のはげた装甲を叩いて、しみじみと言った。 「あれからどうしてたの? なんで南米に?」 「鉄虫とレモネード評議会の双方から身を隠すには北米よりも有利だと判断し、45年前に移動しました。オルカがカラカスを勢力下に置いたという宣伝放送を受信して来てみたのですが、あなたがいるとは想定しませんでした。人間のいう、嬉しい誤算という現象ですね」 「はは、まったくだ」 「しかし、インディアナポリス・スパルタンズだって? ……AGSリーグだよな」  ソニアはサングラスの陰で、ほんのわずかに眉をしかめた。  BBLはバイオロイドによるスポーツエンタテインメントの中でも、一番まともな部類に属していた。試合は人間の野球と同じルールで行われたし、不正や理不尽があったとしても、少なくともグラウンドの中では、それは人間同士でもありうる程度のものでしかなかった。要するに、それは本物の野球だった。  しかし、AGSリーグは違う。それは野球というより、野球の体裁をかりたデモリッション・ダービーに近かった。観客が見たいのは鋼鉄製の打球や激しいクロスプレーによって破壊されるロボットであり、華麗な送球やホームランではない。AGSリーグのエースというのは、一番大量かつ派手に相手チームのバッターを破壊したピッチャーに与えられる称号だ。 「発言の意図は理解できます、ソニア警視正。しかし、何ごとにも例外はあります。あの年のインディアナポリスにだけは、本物のAGS野球がありました。クローバーエースが教えてくれたのです」 「いや、あはは、そんな。褒めすぎだよ」 「日本人てのはどうにも謙虚でね、自分の手柄をなかなか話したがらないんだ」赤面するエースを横目で見ながら、ソニアはニヤニヤと笑った。「どうだい、一ブロック先にAGS工場がある。スパルタンの純正パーツも置いてる。そこでメンテしながらゆっくり話を聞かせてもらうってのは?」 「それは素晴らしい。純正部品などもう何十年も組み込んでいません」 「ちょっと、ソニアさん!」 「いいじゃんか、試合の始まるのをただ待ってるよりよっぽど面白そうだ」  ソニアは笑って歩き出す。スパルタンブーマーも後に続き、エースは仕方なく二人を追った。 「2112年のインディアナポリスは、記録的な猛暑でした……」  ――――――  2112年。鉄虫との戦争が辛うじてまだ「戦争」であり、生き残りをかけた死闘ではなかった、旧時代最後の――そう言ってよければ――幸福な一年。  その年のインディアナポリスは記録的な猛暑だった。 「なあ44(フォーティ・フォー)、一体何を考えてるんだ?」  エアコンが唸りを上げる選手控室で、インディアナポリス・スパルタンズの監督は固太りした体を揺らし、太い葉巻をしがみながら唾を吐くように言葉を吐いた。彼はいつも、選手のことを認識番号の頭二桁で呼ぶ。 「なぜランパーツの三番に死球をぶち当てなかった? その金ぴかのキャノンは何のためについてる?」  スパルタンブーマーR44732は試合後の自己チェックプログラムを走らせながらオーナーの質問を検討し、返答した。 「監督、死球は出塁を招き、失点につながります。本機は当該打者を三振に取りました」 「それがどうした?」監督は葉巻を噛みちぎらんばかりに歯を剥いた。「あのクソランパートが傷一つないままバッターボックスから下りた時の、観客のため息が聞こえなかったのか? お前の仕事は何だ。言ってみろ」 「高いパフォーマンスでプレーを行い、試合に勝つことです」  スパルタンブーマーは実直に答え、監督はだまってスタジアムジャンパーのポケットに手を突っ込んだ。その直後、ブーマーの視界に激しいノイズが走った。 「プガッ……」  AGSリーグに所属する機体は全機、ショックモジュールを体内に組み込むことが義務づけられている。人間がAGSの横っ面を殴り飛ばすことは難しいので、その代わりに導入されたデバイスだ。監督の携帯するボタン一つで作動し、AGSの知覚系に強力なオーバーフロー、人間でいえば激痛に相当する入力をもたらす。自己チェックプログラムがエラー終了し、関節サーボモーターを制御できなくなってブーマーは横転した。 「44、何度言ったらわかる? お前の役目は観客を喜ばせることだ。観客を、喜ばせる。聞こえてるか?」  監督は横たわったブーマーの頭部を見下ろし、赤子に言葉を教えるように一言一言を区切って繰り返した。 「……良い、試合を、見せて」ブーマーはまだノイズの残る発声回路を動かした。 「うん?」 「その上で……勝利すれば、観客の皆様を喜ばせることができます」  監督はもう一度ポケットの中の手を動かし、ブーマーのボディが跳ねた。 「観客が喜ぶのはな、お前らがハデにぶっ壊れる時だ。スパーク、炎、そして爆発だ! それに比べたら試合に勝とうが負けようが、どうでもいいことなんだ。いいか44、こんな世の中だ、みんなスカッとするものを見たいんだよ。客が見たいものを見せてやるのがプロフェッショナルだ。今日のお前はプロじゃなかった。そうだろ?」  監督は短くなった葉巻を口から離し、ブーマーの胸部プレートに押しつけてもみ消した。 「明日の試合には出さん。一日ゆっくり休んで考えてみるがいい。前線にも出られないお前のようなオンボロAGSが、どうすれば世の中の役に立てるのかをな」  暮れなずむウエスト・メリーランド・ストリートを、スパルタンブーマーR44732はとぼとぼと歩いていた。  二日後まで何のタスクもない。スリープモードに入れば電力を節約できるが、今は稼働を続け、過去の経験データをプロセッサにかけることに時間を使いたかった。  鉄虫がAGSに寄生するとわかってから、それまで主力兵器であったAGSの価値は暴落した。あらゆる企業、あらゆる軍隊は大急ぎでAGSを前線から引き上げはじめた。中枢回路を生体素材に置き換えれば寄生を防げるという情報もあったが、そんな処置をほどこす機材と予算はどこにでもあるわけではなく、結果としてAGSは戦火の及ばない後方での雑用を担当するか、さもなくば廃棄されるしかない存在と化した。インディアナポリスのように野球が盛んな都市では、AGSリーグが受け皿として機能する分まだましな方と言えるかもしれない。 (監督の言うように、相手チームの機体を破壊することを優先するべきなのだろうか)  その問いは25秒前から、もう数千回も思考回路の中でループしていた。  人間に奉仕するという観点からみれば、当然イエスだ。監督も言っていたとおり観客が求めるものを提供すべきであり、それをするのが今のブーマーの役割だ。 (しかし、それは野球と呼べるのだろうか)  除隊してスパルタンズに編入されるにあたり、ブーマーは野球に関する過去の資料を勤勉にインプットした。映像資料の中の野球選手達は、人間もバイオロイドも、たった一個のボールを投げて、打って、捕ることに身体能力のすべてを振り絞っていた。観客はそれに熱狂し、一つのプレーが成功したり失敗したりするたび、地鳴りのような歓声が映像ごしに伝わってきた。  本機は、いやAGS野球は、これを目標とすべきなのではないか。  ブーマーの論理回路の中に、そのような仮説がいつの間にか設定されていた。  背中のミサイルポッドをピッチングキャノンに換装された時も、初めてマウンドに立ち、AGSリーグに求められているものが人間やバイオロイドの野球とまるで違うと学習した時も。キャノンを金色に塗装して「ゴールデンアーム」の愛称で先発投手を務めるようになってからも、それはずっと変わらなかった。 「あ、ゴールディだ! “ゴールデンアーム”ブーマー!」  ループに陥ったブーマーに、元気のいい声が背中からぶつかってきた。薄汚れた身なりの子供が三、四人、歓声を上げてむらがってくる。下層労働者の子供達だ。彼らの親のほとんどがAGSリーグの熱心な観客であり、彼ら自身も多くはそうである。一番年長の男の子が、ブーマーの背中の装甲板を勢いよく平手で叩いた。 「ゴールディ、今日の試合はつまんなかったぜ。明日こそ、ランパーツの奴らを粉々にぶっ壊してくれよな」 「…………申し訳ありません。明日は本機は出場しないのです。監督から休暇をいただいています」  一秒未満の逡巡のすえにブーマーが答えると、子供達はいっせいに頬を膨らませた。 「そうなの? なーんだ」 「ゴールディが出ない試合なんて、見に行かなーい」 「申し訳ありません」ブーマーはもう一度繰り返した。  この子供達もやはり、ブーマーが相手チームの機体を破壊することを望んでいる。彼らの手は機械油で汚れていた。バイオロイドが残らず徴兵され、民間の労働力が足りなくなった結果、こんな子供までもが労働に駆り出されているのだ。彼らが期待している光景を見せ、彼らを元気づけるのは正しいことではないだろうか?  解答の条件が完全に揃ったように見えるにもかかわらず、論理回路はどうしても結論を出さなかった。 「皆様のご期待に応えられるよう、善処いたします」 「きっとだぜ! 頑張れよ!」  子供達と別れてからも、ブーマーはなおもあてどなく歩き続けた。加熱した思考回路がエラーをもたらしたか、マニピュレーターが微妙な誤作動を起こし、ずっと手に持っていたボールが地面に落ちた。  AGSリーグの硬球には鋼鉄の芯が入っており、重さも通常の野球用硬球の数倍ある。万一車にでも踏まれれば大事故につながりかねない。アスファルトに重い音をさせて転がっていくボールは、しかしブーマーが追いつくより早く、白い手に拾い上げられた。 「へえ、AGSリーグのボールってこんなに重いんだね」  鮮やかな緑のラインが入った白いボディスーツは、BBLの選手にいくらか似ていた。だがこんなユニフォームのチームはデータベースに存在しないし、そもそもこの街にBBLのチームはない。身なりと、鉄球を軽々と片手でつかみ上げたところからバイオロイドであろうと推測したが、念のためブーマーは対人間モードのプロトコルで問いかけた。 「拾っていただきありがとうございます。お手数をおかけして申し訳ありません。お名前を伺えるでしょうか?」  人影がこちらを向き、鳶色の瞳がまっすぐブーマーを見据えた。 「キミの進むべき道を知っている者……かな?」  風になびく長い黒髪に一筋入った緑色のメッシュが、夕陽を受けてきらりと光った。 「今日の試合、中継で見てたよ」  そのバイオロイドはクローバーエースと名乗った。気ままに世界を旅して、今はインディアナポリスの防衛隊に協力しているのだという。自分が街外れのバイオロイド宿舎近くまで歩いてきていたことに、ブーマーはその時初めて気がついた。 「どうして、あの三番のランパートにぶつけなかったの?」  監督と同じ質問だったが、監督とは違うことを訊ねられているとブーマーは判断した。 「……それが、あるべき野球のスタイルだと判断したからです」 「キミは、どんな野球がしたいかをちゃんと自分の中に持ってるんだね」  熟慮の末に回答すると、クローバーエースは笑った。優しく、力づけるような笑みだった。 「アタシは昔、親友に言われたんだ。自由に生きろ、したいことをして、気の向くままに生きろって。だけど旅を始めた頃は、そんなことがアタシにできるかわからなかった。だってアタシは、ただ作りものの世界で正義の味方ごっこをしていただけの子供だったから。アタシは本物の自由も、正義も、幸せも、何も知らないんだって思ってた」  グローバルネットを検索すると、クローバーエースの情報はすぐに見つかった。伝説サイエンスのリアリティショー番組『友情戦士クローバーエース』の主人公。他のほとんどのテレビ番組と同様、鉄虫の襲来とともに放送は中断している。  番組コンセプトを読むかぎり、主演俳優であるクローバーエースは精巧に作られたセットの世界を現実と信じて暮らしているはずだったが、目の前の彼女にそうした様子は見られない。気ままに旅をしているなどというのも、バイオロイドには通常ありえないことだ。疑問や不審は無数にあったが、なぜかブーマーは彼女を要警戒対象には含めなかった。彼女の言葉は、理由は不明だが信頼性が高いと判断できた。 「でもそうじゃなかった。たとえずっと偽物の世界で生きてきても、アタシの正義はウソじゃない。それはちゃんとアタシの中にあったんだ」  クローバーエースの手が、ブーマーの背中の装甲板を叩いた。固い音がした。 「だからさ、ブーマーも自分の信じた野球をやってみたらいいと思うよ」 「しかし、それは観客が期待しているものではないかもしれません」 「やってみなけりゃわからないさ。キミの野球が、本当にキミが目指すくらい素敵なら、きっと観客の心だって震わせられるんじゃないかな」 「そう判断する根拠が、本機には不足しているのです」 「じゃあ、アタシも賛成する。キミの野球を見てみたい」  クローバーエースはもう一度、今度は悪戯っぽく笑った。 「アタシ、あのピッツバーグ・アイアンメイデンで投げたこともあるんだよ。根拠になると思わない?」 「本当ですか。それは素晴らしい実績をお持ちですね。確かに判断の根拠として十分かもしれません」  本心からそう思ったから言ったのだが、クローバーエースはしばらくして、顔を赤くして付け加えた。 「……まあ、三軍のメンバーしか残ってなくて、選手が足りなかったからなんだけど」  二日後。  インディアナポリスのスタジアム、ヴィクトリーフィールドは一回表から騒然となった。  マウンドに上がったエースのスパルタンブーマーR44732が、トレードマークの金色のピッチングキャノンをいきなりパージしたのだ。  弾倉から取り出したボールを右手でにぎったブーマーは左脚を高く上げ、そのまま大きく前へ踏み出すと同時に、腕を真横に振り抜いた。それは完璧なサイドスローのフォームであり、ボールは激しくスピンしながら敵チーム、フォートウェイン・フォールンエンジェルズの一番打者ギガンテスR8031の肘と膝の間を通過し、外野まで届くような高く鋭い音を立ててミットに突き刺さった。  観客席がざわめいた。必ずしも好意的なざわめきではなかったが。 〈44、何のマネだ〉  通信モジュールから監督の声が飛び込んできた。音声分析にかけるまでもなく、相当怒っているのがわかる。 「監督、観客の反応をご覧下さい。たいへん関心が高まっているように測定できます」 〈お前が珍妙なことをやり始めたから、面白がってるだけだ〉 「では、面白がっている間は続けさせて下さい」 〈貴様……〉  ブーマーは通信を切り、セットポジションに入った。二球目もど真ん中のストレート。ストライク。  バッターボックスのギガンテスが、鈍重な頭部を戸惑うように振った。一番打者にはチームでもっとも老朽化した、動きの鈍い機体を置くのがAGSリーグのセオリーだ。トップバッターの役目は塁に出ることではなく、派手に痛めつけられ、時には破壊されて序盤の空気を盛り上げることだ。  三球目、ギガンテスはのろのろとバットを振ったが、かすりもせずストライク。サビの浮いた頭部がもう一度ブーマーを見て、のろのろとベンチへ下がっていった。きっと無傷で打席から下りることは滅多にないのだろう。  昨日一日を、ブーマーは投球練習に費やした。本当の野球をしたいなら、まず何より自分自身の手足でボールとバットを扱うのが最低条件だ……そうクローバーエースが言ったのだ。スパルタンの肩の構造ではオーバースローは不可能であることがすぐに判明し、投球フォームにはサイドスローを選んだ。  ライブラリからMLBやBBLの名投手の映像を引き出し、彼らのフォームを分析して自分のボディの可動範囲とすり合わせ、最も効果的な投球モーションを導き出す。それが完了したら今度は実際に何度も投球を行い、全身の関節とサーボモーターをその動きに馴染ませる。そのすべてに、クローバーエースは根気よく付き合ってくれた。 「防衛隊の仕事はいいのですか?」 「昨日のうちに、近くの鉄虫は張り切って片付けておいたからね。今日は夜まで出動はないと思うよ」  そう言って笑うエースのコスチュームには、前日まではなかった真新しい傷跡がいくつも走っていた。  ブーマーは聴覚センサーで観客の反応をうかがった。観客同士の会話量が増えているのは、戸惑いが勝っている証拠だ。声援はほとんどない。だがブーイングもない。 「おいおい、堂に入ってるじゃないか」 「本気で野球を勉強したってのか?」  ごくわずかだがポジティブな語句も含まれている。まだいける、とブーマーは判断した。  二番打者はフォールンR916281。打撃用アームが増設されており、長いバットをらくらくと構えている。先端を小刻みに何度も揺らし、打つ気満々といった様子だ。  初球ストレートを捕らえられた。金属質の打撃音とともに、打球がブーマーの胸部を直撃する。視覚と聴覚にノイズが走り、左半身の動きが一瞬止まった。  一番打者の役目がピッチャーに痛めつけられることなら、二番打者の役目はそれに報復することである。ボールがマウンドに落下して丸い跡をつける頃には、フォールンR916281は悠々と一塁に進んでいた。この試合で初めて、とどろくような歓声が上がった。 〈44、そろそろ満足したか? 遊びは終わりだ〉 「いいえ監督、観客の興奮度は高まっています。まだ続けられます」  今度は監督の方から通信が切られた。寸前に舌打ちが聞こえた。  三番はフォールンS664752。二番のフォールンよりも強力なアームを装備している、フォールンエンジェルズの主砲の一機だ。初球は見逃しのストライク。彼もまた、こちらの意図を図りかねているのだろう。  二球目にスライダー。スパルタンの指でも、投げ方を工夫すれば十分にマグヌス効果を発揮できることは昨日検証済みだ。バッターの手元で鋭く外角へ切れ上がったボールは、しかしまたもピッチャー返しに捕らえられた。  腹部に激突。視覚と聴覚に再度大きなノイズが入るが、しかし今度は左腕をすばやく伸ばし、体にめり込んだボールをしっかりとキャッチした。  間髪を入れず、フォールンがアームを振り回してバットを投げる。まっすぐ飛んだバットはブーマーの頭部に命中した。人間の野球なら退場ものの暴力行為だが、AGSリーグではちょっとした余興にすぎない。ブーマーはセンサーのエラー警告を無視し、握ったボールを落とさないことだけに集中した。ツーアウト。  観客席が静かになってきた。もう限界だろうか? いや、もう少し。  フォールンの二倍はある巨体が、のっそりとバッターボックスに足を踏み入れた。セルジュークVB7849。二連装砲塔の片方を外し、もう片方をバットに換装した、フォールンエンジェルズ不動の四番であり、リーグ全体でもトップクラスのスラッガーだ。途轍もない威力の打球は数多くのピッチャーや内野手ばかりか、外野手までも破壊してきた。  セルジュークは一球目から鋭く振ってきた。わずかに右に切れてファール。ボール気味の外角球にしたのが有効だった。ピッチングキャノンとはリリース位置が違うため、精密な選球ができないはずだ。  二球目はボール。三球目は左に切れるファール。四球目はまたボール。  狙ったボールではない。二機のフォールンからの被弾により、関節制御に微妙な狂いが出ている。 「タイム」  キャッチャーを務めるスパルタンキャプテンS6890が立ち上がって手を上げ、早足にマウンドへやってきた。 「R44732、ピッチングキャノンを装着するか、または降板を申請しろ。投球の精度が下がっている」 「補正可能だ。投球を続ける」  試合中は選手間の無線通信が禁止されているため、スパルタン同士であってもこうして音声会話が必要になる。キャプテンは頭部ユニットを左右に振った。「精度だけの問題ではない。そもそもなぜマニピュレータを使って投球する?」 「ピッチングとは本来そうするものだからだ」 「非合理的だ」キャプテンは再度頭部を振った。「人類がAGS野球に求めているものは破壊のカタルシスだ。野球それ自体ではない。SNSテキストマイニングをかけたことがないのか?」 「その認識は変革できるというのが、本機の判断だ」 「R44732のAIには明らかな異常が認められる」 「異常はない。あるのは信念だ」  ドシン、と軽い振動がマウンドを揺らした。バッターボックスのセルジュークが足を踏みならし、早くプレーを再開しろと促している。これ以上議論を続ければ、遅延行為として二機とも処分されかねない。キャプテンはもう0.2秒だけブーマーを見つめ、それ以上何も言わず早足でキャッチャースボックスへ戻った。  五球目、ファール。六球目、ボール。これでフルカウント。  七球目、またファール。しかし、徐々に飛距離が伸びている。球を捉えられつつある。  観客席が静まりかえっていることに、ブーマーは気づいた。監督からの通信も入ってこない。  待っているのだ。ブーマーの次の投球を。  ブーマーはセットポジションに構え、コンマ数秒をかけてモーション管制以外のすべてのプログラムを一時的にスリープさせた。肩、腕、脚、全身のセンサーとモーターの状態をリアルタイムでモニターする。いくつかのエラー警告を無視する。可動範囲の限界まで足を踏み出し、腕を伸ばした。金属のフレームとギアで構成された腕が、まるでムチのように柔らかくしなる錯覚が発生した。この試合最高のストレートを投げたという確信があった。  セルジュークが前傾姿勢をとり、砲塔をわずかに後ろへ旋回してから、最大速度で振り抜いた。  鋭く重い打撃音とともに、火花をまといつかせた鋼鉄の球が、ブーマーのはるか頭上をまっすぐ後方へ吹っ飛んでいった。  ―――――― 「結局、試合は惨敗でした。本機は二回表にさらに三発のピッチャー返しを被弾し、四回にはダメージで降板となりました」  ブーマーR44732が語り終えるのと同時に、カラカス工場のフォーチュンが大きな音を立ててボディ後部を閉じた。 「バッテリーと最低限のパーツだけ交換したわ。これ以上はフルメンテじゃないと無理。こんなに全身の関節を使い込んだスパルタンなんて、お姉さん初めて見たわよ」 「ありがとうございます。出力安定性と伝達効率が格段に向上しました。五十年前のステータスに戻ったようです」  ブーマーはメンテナンスベッドから軽やかに降り立ち、フォーチュンに向かって腰を折った。 「それで、あんたは試合後無事だったのか?」  待ちきれないようにソニアが訊いた。ミスをしたり観客の不興を買った選手が試合後に解体処分されるのは、AGSリーグでは珍しいことではなかったはずだ。 「試合後の監督は大変ネガティブな意味で興奮しており、本機は一度解体命令を下されましたが、観客の満足度が予想外に高かったことが判明して撤回されました。とはいえその理由は主に、本機のプレーが物珍しく滑稽だったためのようで、本来企図していた試合の感動を与えられたわけではありませんでした」 「でも、あの試合は本当に凄かったんだよ」エースは急いで付け加えた。「防衛隊でもみんな観てた。録画してた子がいたから、何度も見返したよ」 「ありがとうございます。クローバーエースには本当にお世話になりました」  エースはその後も、インディアナポリス防衛隊として鉄虫と戦うかたわら割けるかぎりの時間を割いてブーマーの練習につきあった。彼が初めて完投勝利した日の喜びは、今も鮮やかに覚えている。その翌日、スパルタンキャプテンS6890が練習に参加したいと言ってきた日の感動も。  そして、ブーマーに仲間ができたのを見届けたエースはインディアナポリスを後にした。もともと一つの街に長くとどまる気はなかったし、アメリカに来てからずっとつきまとわれていたPECSによる監視が、いよいよ身近に迫ってきたのを感じたからだ。今思えば、あれはレモネードの誰かが伝説製の最新型バイオロイドの情報を入手しようとしていたのだろう。 「報告の機会がありませんでしたが、あなたが街を去ってから一週間後、ギガンテスR8031がスパルタンズに加わりました。フォールンエンジェルズから放出され、本人の申し出によりスパルタンズが引き取ったのです。本機のプレースタイルに関心を持ったのが理由とのことでした」 「すごいや。どんどん仲間が増えてたんだね」エースは目を輝かせた。「それなのに、あの時はごめん。途中で放り出すようなことになっちゃって」 「いいえ。あなたに教わったことはすべて、最重要の知的財産となりました。『AGSリーガーを磨くのはAGSリーガーだ』……この言葉は本機自身、キーワードとして何度も他の機体に伝えたものです」 「……あはは。あっはっはっは」  頬が熱くなって、エースは長い髪をむやみにかき回した。あらためて思い返すと、当時の自分は「流浪のヒーロー」を自認するあまりだいぶ格好をつけていた気がする。ブーマーに語ってきかせた言葉の少なからぬ部分が、小さい頃好きだったスポ根アニメの受け売りだったことは黙っておこう。 「チーム内にも本機の企図に賛同する機体が出現し、ほんの数名ですが応援してくれる人間も現れました。次シーズンはよりよい結果を残せると確信していたのですが」  ブーマーはそこで一瞬、音声を途切れさせた。「次シーズンは開催されませんでした」 「……」 「……」  エースも、ソニアも、フォーチュンも一様に沈黙した。  そのことは全員がよく知っている。2112年は世界が辛うじてまともな形をたもっていた最後の年だった。一年後には人類はロックハーバーで最後の抵抗を続けるだけになり、その一年後、ヒュプノス病の蔓延によって滅亡した。 「……あのさ、ゴールディ」 「エースさーーん!」  エースが口を開くのとほとんど同時に、工場の入口から元気な声が飛び込んできた。スタジアムにいたケルベロスの一人が、ぶんぶんと両手を振っている。 「みんな集まったので、試合を始めていいですかー!」 「ちょっと待って、今行くから!」  大声で返してから、エースは振り返った。「ね、今から試合やるんだけど、出てくれない?」 「本機がですか?」ブーマーのアイカメラがちかちかと点滅した。「バイオロイドとの対戦は経験がありませんが」 「嫌かい?」  ブーマーはほんの少し沈黙する。「いいえ。面白そうです」 「そうこなくちゃ」エースはぐっと親指を立てた。 「ところで、お二人に相談があります」 「ん?」 「オルカではバイオロイドの自主的な活動が認められていると聞きました。本機が業務時間外に野球のトレーニングを行うことは可能でしょうか。将来、鉄虫を駆逐した際には、AGSリーグを新たな形で復活させるのが私の目標なのです」 「ふむ。認めてもいいが、ひとつ条件がある」 「何でしょう」 「将来なんて言ってないで、今すぐチームを立ち上げろ。ここじゃ、まともな試合が観られるのをみんな待ってんだ」 「トライアウトの準備をちゃんとしてからの方がいいよ。ぜったい応募が殺到するからね」  肩を並べて笑い合いながら、二人と一機は歩いていく。  道の行く手にはあの日によく似たぎらついた太陽の下、スタジアムが陽炎のようにゆらめいていた。 End =====  短いノックでドアはすぐに開いた。戸口の向こうとこちらで、同じ顔が笑った。 「ちわっす」 「どもっす」  ブラウニー2019は略式の敬礼をして、ブラウニー2056を迎え入れた。 「いいとこじゃん」 「そうなんすよ」  小さなアパルトマンだった。丸テーブルと椅子、戸棚に大きなソファベッドでリビングはほぼ一杯だが、採光がいいせいか狭い感じはしない。衣類と毛布の散らかったソファベッドをまたぎ越えて、ブラウニー2056は持参した紙袋を明るいテーブルに置いた。 「おみやげ。ソワンさんのオムクチップス」 「うわ、懐かしい」2019は顔をほころばせる。味付けした魚のすり身「オムク」を薄くスライスして揚げたチップス菓子だ。  オルカの物資が今よりはるかに乏しく、手に入れやすい食材が海中の小魚くらいしかなかった頃、酒保で買えるスナックといえばこのオムクチップスだけだった。あの頃オルカにいたブラウニーなら、誰でも飽きるほど食べたものだ。 「飲み物持ってくるっす。あ、ハンガーそのへんの適当に」 「んー」  縦長の窓からは下の通りが見おろせる。木枯らしが枯れ葉をくるくると、人通りのまばらな路上に踊らせていた。2019の持ってきた熱いインスタントコーヒーをすすりながら、二人はしばし揚げ物をつまんだ。 「昔より美味い気がするっすね。カレー味なんてあったっけ?」 「毎年新フレーバーが出てるっすよ。今日は品切れだったけど、めんたいこ味おすすめ」 「へーえ、いろいろ進歩してるんすねえ。2033達は元気っすか」 「元気、元気。2033と2074は今日は訓練で、2049は司令官公邸の警備。みんな会いたがってたっす」  2056はチーズ味のチップスをぽいと口へ放り込んだ。「そっちは? 日本にいたんすよね。何やってたん?」 「ヨッカイチの工廠で、銃弾製造ラインの管理」カレー味のチップスを口いっぱいに詰め込んだ2019は手を上げて、漠然と窓の向こう側の方角を示した。「ほら、市街の南にできた工場。あそこへ移転してきたんすよ」 「あー、あの。先週、機材運び込みの警備やったっす」 「あの機械、種類がめっちゃ多くて大変なんすよ。部隊ごとにみーんな違う弾を使ってるもんだから……そうじゃなきゃ、わざわざ日本から機械を持ってくる必要なんてなかったのに」  ブラウニー2019と2056は、オルカにまだ司令官がいなかった頃からの古参兵同士である。三年前のアラスカでの作戦で、2019は足を負傷して退役した。  ヨーロッパを手に入れたことで広大な土地と充実した生産基盤を手にしたオルカは、世界各地に点在していた生産拠点を縮小し、人員と設備をヨーロッパへ集中させる方針をとった。日本の拠点にいた2019も先日、工場ごとリヨンへ呼び寄せられ、2056と再会したのである。 「どうっすか、リヨンは」 「けっこう寒いっすね。でもいいとこっす、にぎやかでいろんな店があるし、映画まで観られるし、何より司令官様がいるし」2019はコーヒーを一口飲んで笑う。 「早起きして外を歩いてると、たまに散歩してる司令官に会えるっすよ」 「マジっすか」 「マジマジ」  嬉しそうに笑う2019を、2056は眺める。頬や二の腕がいくらかふっくらして、肌の感じが柔らかくなった。スチールラインでは決して許可されないような、大きめの可愛いピアスをつけている。爪も手入れしているようだ。  2019も、2056を眺める。化粧っ気のない肌は血色よくツヤツヤしている。顎から首元にかけてのラインが引き締まっている。肩周りの筋肉は服の上からもわかるほどだ。立ち居がキビキビとするどい。 「……元気でやってるようで、よかったっすよ」 「こっちのセリフっす。コーヒー、おかわりどうっすか?」  キッチンへ立った2019を見送ってひとつ伸びをした2056はふと、戸棚の上の写真立てに目を留めた。  泥と油にまみれた、十人ほどのブラウニーの集合写真。もちろん全員同じ顔だが、その一人一人の番号を2056は覚えている。一番左端が自分。中央が2019。ほかは皆、もういない。  写真立ては小さな木箱に乗っていた。開けてみると、何十枚もの小さな金属プレートがきちんと並んで詰まっていた。これも2056はよく知っている。戦死したブラウニーの認識票だ。 「あ、それ」  戻ってきた2019に、2056は顔を上げて、持ってきたバッグから大きな缶を取り出してみせた。中にはやはり、大量の認識票。 「たまには顔合わせさせてやらないと」 「そういうもんすかね?」  同じ顔、同じ遺伝子の姉妹が何十万人もいるブラウニーにとって、認識番号は数少ない自分自身だけの所有物だ。だから大抵のブラウニーは、自分の認識票を命と同じくらい大切にしている。死ぬ時は姉妹に託し、姉妹が死ねば持っていた認識票を受け継ぐ。死んだ戦友から託された何十枚もの認識票を、私物ボックスの奥に大事にしまっていないブラウニーは一人もいない。  いや、いなかった。 「昔より減ってないっすか?」 「欲しがる新入りが結構いて、分けてるんすよ」  毎日のように増え続けていた認識票は、ある時からぴたりと増加を止めた。司令官が指揮をとるようになってから、オルカでは一人も、ただの一人も戦死者が出なくなったからだ。  2056が最後にこの缶に新しい認識票を加えたのはもう四年前のことだ。今のオルカには、誰の認識票も持たない身軽なブラウニーが当たり前にいる。  それぞれの箱から、二人はプレートを一枚一枚取り出し、刻印された数字を順番に眺めた。さすがにこれだけあると、記憶にない番号の方が多い。それでもいくつかの数字からは、思い出が幻灯のように浮かび上がってくる。 「あ、2082」  2056はちらりと目を上げた。写真に写っているうちの一人、一番大口を開けて笑っているブラウニーの番号だ。 「バカだったっすねえ」 「すごいバカだった。3401をブチ切れさせたのはあいつだけっす」  顔は覚えていない。いや、同じ顔なのだから覚えている必要もない。ただ、あの時あいつが何をした、こんなことを言った、そうした他愛ない記憶だけが、一人のブラウニーを他のすべてのブラウニーと違うものにする。  それになんの意味があるのかはわからない。ブラウニーは物事を深く考えるのが苦手だ。ただ、他のブラウニーのことをできるだけ覚えておきたいと思っているブラウニーは多い。とりわけ、死んだブラウニーのことを。 「2558、音痴だったなあ。同じ遺伝子でなんであんなになるんすかね。突然変異っすかね?」 「13745、覚えてるっすか、似顔絵がうまかったやつ」 「3401のタグって誰が持ってたっけ?」 「確かこの中にあったっすが……いや待てよ、あげちゃったんだったかな」  頭をひねると同時にぐう、と腹が鳴って、もう夕方になっていることに二人はようやく気づいた。  窓から見える空はオレンジ色に染まり、コーヒーはすっかり冷たい。  2056は認識票を一枚ずつ、ていねいに缶へ戻した。いつかこの缶が一杯になってしまったらどうしよう。昔そんな心配をしていたことを、ふと思い出した。 (カクリツ的には、そうなる前に自分が死ぬっす。次の奴が心配すればいいっす!)  そう言って笑いとばしたのは誰だったか。少し考えてわかった。目の前の2019だ。 「ふふ」 「どしたっすか?」  2056はそれには答えず、立ち上がって腰を伸ばした。この缶に新入りが加わることは、まだ当分ないだろう。 「腹減ったっすね。晩飯どうする?」 「実はまだこの辺よくわかんなくて、毎日適当に食べてるっす」自分の認識票を箱にしまい終えた2019も、立ち上がって頭をかいた。「リヨン長いんだから、お勧めとかないっすか」 「なんだよ」2056は笑う。「『アイアイエー』って酒場、行ったことあるっすか? キルケーさんがやってるとこで、酒も飯もうまい」 「いいっすね!」 「よし、決まり」ジャケットに袖を通し、バッグを肩にかける。「そうと決まれば、早く行かないと混むっす。今日は自分がおごるっすよ」  そう言いながら廊下に出たとたん、廊下のドアが一斉に開いた。 「何すか」 「何すか?」 「飯っすか?」 「おごりっすか?」 「うまいもの食べにいくっすか?」  ドアというドアから同じ顔がひょこ、ひょこと無数に突き出してくる。階段の上下からも湧いてくる。この建物全体がブラウニー寮に充てられていたことを、2056は今更のように思い出した。うかつだった。自分もそうだがブラウニーというものは、お祭り騒ぎとタダ飯にはどこからでも飛びついてくるのだ。  後から出てきた2019がニヤニヤ笑いながら見ている。2056はしばし額を押さえて天井を仰いでから、覚悟を決めて怒鳴った。 「あー、もう! わかったっす! 自分がおごってやるから、みんな飯食いに行くっす!」 「わーい」 「やった」 「ごちっす!」 「さすが2056っす!」 「愛してるっす!」 「遅れたら置いてくっすよ! 全隊駆け足!」 「「「勝利!」」」  リズムの揃った足音が一列になって、秋の夕暮れの中を遠ざかっていった。 「あの、給料の前借りって……」 「できません」  数日後、オルカ中央官舎の経理部受付で、すげなく追い返される一人のブラウニーがいた。よくあることなので、誰も気にしなかった。 End =====  吾輩は犬である。正確にはバイオロイド犬である。  どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄緑色の培養液に浸かって半分寝ながらゴボゴボ言っていたことだけは記憶している。ある時上から大きな手が下りてきて吾輩を培養液の中からすくい上げた。吾輩はここで初めてバイオロイドというものを見た。あとで聞くとそれはラビアタプロトタイプというバイオロイド中でもいっとう最初に作られた長姉であったそうだ。しかしその当時は何という考えもなかったからただ首の下に随分馬鹿でかい袋をぶら下げているなと思ったのみであった。それは乳房であったのだがあまり巨大なのでその時はわからなかったのである。 「さあ、今日からこの子があなたのご主人様よ」  巨大な乳房のラビアタはそう言って吾輩をもう一人の女に見せた。ラビアタにいくらか似ているがもう少し細くて若い。床に置かれた吾輩が思いきり胴震いをして培養液の残りを跳ねとばすと女は笑って手を差し出した。 「よろしくね、ボリ」  吾輩はその手を舐めた。かくて吾輩は名前と主人とを得たのである。  吾輩の主人コンスタンツァもまたバイオロイドである。主人と吾輩とはラビアタの手によって、鉄虫という化け物と戦う兵士として生産された。その鉄虫ともう一つ何かの病気とが原因で、この地上にもともといた人間という種族は一人もいなくなったということだ。  目を覚ました翌日からはもう戦線に出された。そこには吾輩の他にも大勢のコンスタンツァとボリがいて、吾輩の主人はそのうちの416番であった。吾輩のボリという名は製品名であって個体名でないこともこの時知った。自分の主人は信号でわかるから不便はしないがどっちを向いても同じボリばかりなのはあまり気分のいいものではない。うっかり気を抜いている時など他のコンスタンツァの呼ぶ声に答えてしまいそうになるし、全員並べて名前を呼んだ日にはボリボリボリボリと漬物でもむさぼり食っているようだ。  我らの戦っている鉄虫というのは大きいのや小さいのや色々おるがおおむね二本の足を生やしたずんぐりした機械で、吾輩が自慢の顎でその足へ噛みついている間に主人がライフル銃で仕留めるのが最も基本的な戦法である。その他にも囮を務めたり、牽制を仕掛けたり、偵察や荷運びなどの雑務もあって戦場の吾輩はなかなかに多忙だ。戦い方は生まれた時から頭の中に全部入っていたが、実際にやってみなければ身につかぬコツもあり、そのあたりは先輩諸犬に指導を受けて上達していった。主人も同じように他のコンスタンツァに教えを受けているところをたびたび見たので、どうやら吾輩と主人とは同時に生産された新品同士であるようだった。  これは自慢になるが主人と一緒に生まれてずっと仕えているボリというのは決して多くはないのである。最前線で戦うコンスタンツァのそのまた前へ出て戦う我らは実によく死ぬ。戦いが一番厳しかった頃大抵のボリは五年もたずに死んだ。吾輩が生き抜いてこられたのは早くに生き延び方を覚え巧みに戦えるようになったからである。吾輩の優秀さゆえと言いたいが生まれた時は皆同じボリなのであるから結局は運と巡り合わせに過ぎないのかもしれぬ。  死んだボリの主人には新しいボリが作られて宛てがわれる。一人で五頭も十頭もボリを取り替えているコンスタンツァがいて我らの間では死神と呼ばれていたが、今思い返せば本人も随分不幸せそうであった。  何十年か戦った頃、ある日突然コンスタンツァばかり百人近くも集められ、他のバイオロイドと組んで一斉に使いに出された。なんでも滅んだはずの人間が実は生き残っているかもしれないから探しに行くという。今更人間なぞ探すこともあるまいと思ったが主人が行くのなら行かねばならぬ。グリフォンだのブラックリリスだの色々のバイオロイドを取りまぜて五六人の班であったが途中何度か鉄虫と戦ううち散り散りになって最後は主人とグリフォンの二人だけになっていた。  人間を見つけたその日のことはよく覚えている。山道を歩いていて、突然それまで嗅いだことのない臭いがした。バイオロイドと雄犬を合わせて鉄虫をちょいと混ぜたような異様な臭いだ。主人の袖をくわえて引っ張るようにして源をたどっていくと何やら要塞だか防空壕だか半分地面に埋まって崩れた建物があった。崩れた一番奥に大きな金属の筒が突き刺さっている。その筒が半分開いて、中に誰かがぐんにゃり寝ているようだ。主人とグリフォンが飛び出して行って慌ただしく手当を始めたのであとのことはよくわからぬが、どうやら死にかけていたのがすんでの所で助かったらしい。このぐんにゃり死にかけていたのが、今に至るまで我らが司令官とかご主人様とか呼んで仕えている人間の雄である。  人間を見たのも雄を見たのもこの時が初めてで、以来今もって他に見たことはない。犬的美意識からいうとどうにも冴えない面相で、おろおろと右も左もわからぬ様子ではなはだ頼りない。おまけに体から少しばかり鉄虫の臭いがする。こんなのが人間なら滅んでも仕方あるまい。そう思って半ば諦めていたら、あに図らんやこの人間はたいへんな戦上手であることがすぐに判明した。誰でも何かしら取り柄はあるものだ。  話は変わるが我が主人コンスタンツァは今朝からすこぶる不機嫌である。理由は明らかで、交尾の機会をふいにしたからだ。  人間の雄の司令官が戦上手であることはもう話した。司令官が来てから吾輩達の戦いは格段に楽になり、今ではこうしてオルカという名の大きな船を乗り回して世界中で戦いを展開している。それは大いに結構なのだが、厄介なことにこの司令官がバイオロイドに大変もてる。いやもてるどころの話ではない。およそオルカにいるバイオロイドというバイオロイドが日夜司令官との交尾を狙っていると言ってよい。  連戦連勝を続けるオルカは日々規模を拡大し続けている。この船に常時乗り組んでいる人員だけでも百人を軽く超える。それが誰も彼も司令官の寝床めがけて殺到するから大変な競争で、皆二月も三月も順番を待ってやっと交尾の機会を手に入れるのである。  我が主人はつい昨日にその交尾の機会が巡ってきたのだが、ちょうど昼間に出撃があって運悪く吾輩が怪我を負った。まったく不運なる事故で、肝腎な時に丸々と肥えたうまそうな野鼠が目の前を横切ったりするからいけない。おかげでベースキャンプの医務室に一泊する羽目になり、戻ってみれば昨晩の空閨は別の者が嬉々として埋めており、我が主人はふたたび二月三月後の機会を待たねばならない仕儀となったのである。  主人は外面がいいから司令官や他の者の前ではおくびにも出さぬが、部屋に戻ると恨みがましい視線をじっとりと突き刺してくる。 「ボリはもう少しダイエットするべきかもしれないわね」そんなことを言いながら治ったばかりの吾輩の尻たぶをつねったりする。それが半日も続くものだからたまりかねて部屋を飛び出してきた。 「おう、どうした。縄張りの巡回か」  勇壮な羽音をともなって一羽の白頭鷲が頭の上から降ってきた。吾輩同様のバイオロイド鳥で、ダーク何とかいう色が黒くて耳が尖って乳房が野放図に大きいバイオロイドの相棒をしている。 「なに、主人の虫の居所が悪くて困るのさ。君は確かサムだったか」 「わかるか」 「わかるとも、あの地獄のカゴシマを戦った仲だろう」  鷲のサムは翼をたたんで吾輩の背に降り立つと満足そうに胸を膨らませた。サムの主人も吾輩の主人同様大勢おり、順ぐりに交代して一人ずつオルカへ勤めている。それもこれもできるだけ平等に交尾の機会を得んがための制度であり、同じようにしているバイオロイドは多い。サムとは一年ほど前に同じ作戦に出たことがあり、その後順番が来て別の鷲と主人の組に交代した。その名前を覚えずにいるうちにまたオルカに来る運びとなったようだ。  余談になるがサム達は吾輩と違って決められた製品名がない。それぞれの主人がめいめい勝手に名を付けたり付けなかったりするので、だからサムという名の鷲はオルカに彼女一羽である。吾輩らの失敗から学んだと見える。 「それで何だ、虫の居所とは」 「君んところのご主人が昨日の晩交尾したろう」  サムは鳥らしく瞬間的な動きで頭をクッと後ろへのけぞらせ目をぱちぱちとした。「確かに突然幸運が舞い込んできたとかで、浮かれて出ていった。なぜ知っている」 「なぜって、この上の階から珈琲乳の臭いがプンプンしているじゃないか」  バイオロイド犬である吾輩の嗅覚は自然の犬よりもはるかに勝っている。無論人間の嗅覚などは比較にもならない。その吾輩をしてオルカを語らせればまったく淫風の巷というべきで、右を向いても左を見ても交尾の臭いがする。司令官が助平なのかバイオロイド達が淫乱なのか、どちらか知らぬが連中はまったく時と場所を選ばず交尾に励んでおり、およそ室内と言わず廊下と言わず、数週間以内の交尾の跡がまざまざと臭ってこない場所は船内に一ブロックもない。海に潜る造りでただでも空気のこもるこの船に、吾輩のような優れたバイオロイド犬をかような淫奔の軍勢と同居させるのはまったく拷問というべきで、よく馬鹿にならないものだとわが鼻ながら褒めてやりたい。 「なるほど、夜伽に間に合わなかった不運な隊員というのは君の主人か。気の毒なことだ」  サムは嘴の端を持ち上げて愉快そうに笑った。鷲らしく実に尊大で鼻持ちならぬ奴だが、オルカにいるバイオロイド動物は吾輩とこの鷲、それにもう一頭しかないのだから貴重な友人である。 「気の毒には思うが、ああまでこちらに当たらなくてもよさそうなものだ」  吾輩の主人コンスタンツァの416番はサムの主人や他のバイオロイドのように交代をせず、ずっと司令官の側仕えをしている。司令官を発見した功で特権を与えられているのだそうだが、そもそも最初に司令官を発見したのは吾輩である。その功に報いるどころか、些細な失敗をあげつらって吾輩の尻の毛を引っこ抜くとは何たる暴虐な主人であろう。 「大体ああも交尾のことばかり考えているのもどうかと思うよ。我々のようにモジュールで発情期を抑制してしまえばいいのに」 「人間には発情期はないと聞く。なんでも人類を復興するのがオルカの目標だそうだから、繁殖に熱心なのはいいことだろう」 「それは君、この猛烈な臭いがわからないから言うのだよ。まったく同じ雌として恥ずかしい」  ところで吾輩達の喋る言葉が女言葉でないとご不審の向きがおられるかもしれんので説明しておこう。人語をあやつるものは人間の雌雄とバイオロイドである。しかして獣語をあやつるのは我らバイオロイド動物のみで、一般の禽獣は言語を解さない。したがって必然的に、獣語というものは雌しか用いない。よって人間達の言語のように言葉に妙な尻尾を付けて上げ下げし、雌でございと示す必要もない。獣語はただ一種類、獣語あるのみである。 「お二方、お早うございます」  だしぬけに、むくむくした灰色の毛玉がひょいと角から現れて挨拶をした。毛玉には頭と羽がついている。 「ペン子君か、これまた久しぶりだね。しかしお早うはないだろう、昼過ぎだぜ」 「さっき起きたのですから私には朝です。昨晩やっと帰ってきたばかりでしてね」  バイオロイドペンギンのペン子は短い羽を伸ばして精一杯あくびをした。先ほど言ったもう一頭のバイオロイド動物で、ペンギンの雛の姿をした珍しいモデルである。エンプレスというこれまたペンギンによく似たバイオロイドの相棒を務めている。彼女も定期的に入れ替わっているが、サムの主人よりも人数が少ないようで一人あたりの期間が長い。 「無事巣立ったか」 「ええ。こちらが新入りです。ほれご挨拶しなさい」  短い足でよちよち脇へどいたペン子の後ろから同じような雛がこれまたよちよちと出てきた。バイオロイドでなく本物のペンギンの雛だ。ペン子の主人は親を失ったペンギンの雛を連れ歩いて面倒を見るという奇特な活動をしている。毎年オルカ勤務から外れた期間を利用して、育った雛をはるばる南極まで送り届けては新たな雛を連れてくるのだ。 「毎年毎年よくまあ途切れずに親のない雛がいるものだね」  吾輩がしげしげと眺めても雛は平気な顔で、丸い頭をくりくり回して覗き返してくる。南極には鳥を狩るような犬はいないから恐れる本能もないのだろう。 「コウテイペンギンの子育ては過酷ですからね、途中で命を落とす親が毎年いるのですよ」  真っ黒い小さな目を器用に細めてペン子は妙にしみじみした顔になる。彼女はオルカに参加した順番で言うと一番後だが、生まれは一番古く人間のいた時代から生きているそうである。 「しかし旧時代に比べれば南極の氷もペンギンの個体数もだいぶん回復してきました。そのうち誰も引き取らずにすむ年もあるかもしれません」  雛は吾輩にはほとんど注意を払わず、サムの鉤爪に胡乱げな目を向けている。隣で見ているペン子と見た目はそっくりだが中身は文字通り大人と子供である。しかし仲良くお互いの腹をつつき合ったりしている。 「君は戦以外の生き甲斐を持っている所が大変結構だな」サムが卒然と哲学者のような顔になって言い出した。 「自分も戦のない時は森を見回って暮らしたいものだと常々思っている。ボリ、君に生き甲斐はあるか」 「どうも急だね」吾輩は辟易して頭を振った。サムが一寸舞い上がって地面へ下りる。 「さて、戦がなければいっぺん気の済むまで野山を駆け回ってみたいが、まずその程度だな」 「野犬の群れでも率いてみたりはしないのか。犬は群れる獣だというだろう」 「馬鹿な」 「私達は主人とペアリングされていますからねえ。何をするにも主人を抜きにして勝手には決められますまい」ペン子は羽毛のかくしから干した小魚を取り出して雛にやった。雛は一心に食っている。  吾輩も作戦で上陸するとたまに野犬を見かけることがあるが、彼らと我らが同胞であるという思いは胸裏のどこからも湧いてこない。自然動物とバイオロイド動物とを隔てる溝は、人間とバイオロイドとの懸隔より広く険しいのかもしれぬ。雛のまま何十年も生きるペン子の気分を吾輩はちょっと想像してみて、見当が付かぬのですぐやめた。 「ペアリングがあろうとなかろうと、吾輩は最後には主人の所へ戻るよ。良い犬というのはそういうものさ」  我が主人の機嫌はいつの間にか直っていた。司令官がどうにか時間を工面して主人の肉欲を解消してくれたとみえる。何ともまめなことである。サムは順番がきてオルカを去っていき、その後またやってきた。サム以外の鷲の名前をいまだ覚えられぬ。ペン子は相変わらず雛である。ペン子の連れた雛は換羽の季節が近い。  オルカはあいかわらず海の中を旅して鉄虫と戦い続けている。なんでもこの次の戦いに勝てばしばらく陸上で暮らすことになるかもしれぬという。この淫臭のこもったオルカから出てゆけるのは吾輩の鼻のために大変善いことだ。よほど大きな戦いのようだから手柄を立てれば主人も骨付き肉の三本や四本くれるであろう。当面はそれを生き甲斐にすれば十分だ。  もしも戦がすっかり終わる日が来たら我らがいかに生きられるか、それを決めるのは我らを生み出した人間の責任の内であろう。しかし人間は交尾で手一杯のようだから、ひとまずは吾輩らの方で何とか弁じておくことにする。 End =====  透明のグラスに、泡立つ金色の液体が注がれる。カップを取り上げ、泡のはじけるかすかな音に耳を傾ける。泡とともにはじける香りを吸い込んだのち、中身を一息に口へ含む。苦味、甘味、旨味、鼻へ抜ける含み香、炭酸の含み具合。それらを口中で短時間のうちに検分してから、最後にごくりと飲みくだして喉ごしを確かめる。  目を閉じて、鼻から静かに息を抜いたのち、ドリアードはにっこりと微笑んで告げた。 「60点ですね」  キルケーはがっくりとテーブルに手を突き、頭を垂れた。  最善を尽くしたつもりだった。今日のために特別気合いを入れて仕込んだ三本のタンクから、一番出来のいい一本を選んだのだ。満点とはいかなくとも、それなり以上の評価はもらえるはず。その自信はあったのに。 「あ、でも、落ち込まないで下さい」ドリアードが慌てて付け加えた。「十分美味しいですよ。逆にあんまりちゃんとできていたので、つい旧時代そのままの基準で採点してしまって」 「……ふ、ふふふ。いいんです。それでこそですから」  キルケーは不敵な笑みをうかべ、顔を起こした。その眼差しに炎を宿して。 「私に足りないものは何ですか。教えて下さい」  届いていないことなど最初からわかっている。それを埋めるために、こうして彼女に弟子入りしたのではないか。  キルケーの気迫と、その覚悟を理解したドリアードも、すっと真剣な表情になる。 「足りないもの……というのは、難しいですね。何かが足りないわけではないんです。要素そのものは、すべて押さえられていると思います」 「それは、つまり……」  ドリアードは厳粛にうなずいた。 「単純に、クォリティが低い。すべての工程に、精度と練度と一貫性が足りていません」  キルケーはもう一度テーブルに突っ伏した。今度はしばらく起き上がれなかった。 (タイトルIN) 『プロジェクトK ~醸造者たち~』 (開栓音) (喉を鳴らしてビールを飲み干すブラインドプリンセス) 「…………プハーーッ!」  ドリアード。  フェアリーシリーズのハイクラスモデルであり、穀物を中心とした大規模農業を専門とする彼女は、知る人ぞ知るビール造りの達人でもある。もとは得意客にだけ教える一種の「隠し機能」として実装されていたのだが、その味の素晴らしさから上流階級のあいだでは瞬く間に知れわたり「一度飲んだら他のビールは飲めない」とまで言われた。マゴ・インターナショナルのとある幹部は、第二次連合戦争の最中ですら自家醸造用のドリアードを手放さなかったという。  キルケー。  自他共に認める大の酒好きであり、潜水艦時代から自室に醸造釜を据えて酒造りにいそしんでいた彼女は、ドリアードのそうした噂を聞きつけるや駆けつけて弟子入りを申し込んだが、すげなく断られた。当時ようやく軌道に乗り始めたスヴァールバルの地下農園の運営と、医療スタッフとしての業務でフェアリーシリーズ全員が忙しくしている中、そんな暇はなかったのだ。  しかしキルケーは諦めなかった。何度も何度も、ドリアードのもとを訪れては頭を下げ続けた。ついに彼女も折れ、指導を引き受けることになったのだが、そのとき二つの条件を出した。 「やるからには、中途半端なことはできません。私の指示にはすべて従っていただくこと。そして、私が満足できる水準になるまで指導させていただくこと。よろしいですか」 「望むところです」  キルケーは即答した。この条件の本当の意味を思い知るのはまだ先のことである。  かくて、苦闘の日々は始まった。 (開栓音) (喉を鳴らしてビールを飲み干すブラインドプリンセス) 「…………プハーーッ!」 「というわけで、全工程を基礎から見直しましょう」 「よろしくお願いします」  早朝。  最初の試飲評価から一夜明け、気合いを入れ直したキルケーとドリアードは、まだほの暗い雪原を踏んで歩く。  箱舟から少し離れた斜面に建つ、小さな醸造所。オルカがスヴァールバルに長期滞在することが決まってすぐ、キルケーの申請により建てられたものだ。 「まず、麦芽からです。どういったものをお使いですか?」  中はさして広くはない。製麦室と書かれたドアを開けると、ひんやりと乾いた空気が二人を包んだ。 「フクオカ拠点で作ってもらった大麦を仕入れて、自分で作っています」 「ああ、フクオカはいいですね、私の姉妹も一人あそこにいます」  室内の機材や物品をざっと見回したドリアードは、部屋のすみに積み上げられた麻袋を一つ取り上げる。中にはほのかに甘い香りのする、茶色い小さな粒がいっぱいに詰まっていた。  麦芽。読んで字のごとく、麦が芽を出したものである。  酒造りとは、最も単純化すれば、糖をアルコールに変えることといえる。まず糖がなければ酒は生まれない。  しかし、ビールの原料となる大麦に糖はほとんど含まれていない。大麦が含むのはデンプンである。これは無数の糖がかたく結合したもので、そのままではアルコールにならない。  ――初めてビール造りに挑戦した時はそんなことさえ知らなくて、小麦粉で造ろうとして大失敗したりしました。  キルケーはほろ苦く思い返して語ってくれた。  滅亡戦争当時、キルケーは人間の命令によってハロウィンパークから離れることができなくなった。人類が姿を消してからの長い長い年月、苦しみを忘れるために酒に溺れた時も、それが高じて自分で酒を造り始めた時も、彼女が頼れるのはパーク内のネットワークに残された情報と、近隣の市街へドローンを飛ばして集めてきた、ごくわずかな書物だけだった。ほとんど何もかもを我流と試行錯誤で身につけるしかなかった彼女が麦芽の作り方を知ったのは、とある絵本からだったという。  大麦から糖を作るための方法が、芽を出させることである。大麦とは言うまでもなく種子であるから、適当な温度と水分をあたえれば芽を出す。  同時に、麦の内部ではデンプンを糖へと分解する酵素が作られはじめる。このデンプンは本来、種子が生長するためのエネルギー源だ。発芽して生長を始めたからには、すぐに使える糖の形へ分解しておく必要がある。  が、そのまま生長はさせない。芽を出したばかりの大麦を、熱風に当てて乾燥させる。そうすると種子としては死んでしまうが、中の酵素はまだ生きている。まだほとんど分解されていないデンプンもそっくり残っている。この「糖化酵素とデンプンを大量に含んだ発芽しかけの大麦」こそがビールの第一の原料、麦芽(モルト)である。  ドリアードは袋いっぱいの麦芽をすこし手のひらにとると、鼻を寄せて色と香りを確かめ、さらに一粒を口に含んで味を確かめた。しばらく目を閉じてから、もう一粒取り出して同じことをする。さらにもう一粒。 「溶け具合も焙燥も不揃いです。麦の選別をしていませんね」 「選別?」キルケーはぽかんとした顔で繰り返す。ドリアードは小さくため息をついて、 「麦粒の大きさを揃えないと、均一な麦芽ができません。ほら、これとこれは色合いが違うでしょう? こちらの小さい粒はほとんどローストされてしまってます。これではヴァイツェンとスタウトを混ぜて作るようなものですよ。少なくとも大中小の三つくらいには分けて、別々に製麦しなくては駄目です。それから、根も切った方がいいですね」  ドリアードがつまんで見せた麦芽にキルケーが目を近づけると、麦の粒から白い毛のようなかぼそい根が二、三ミリほど生え出しているのが確かに見える。 「根がついたままだと、貯蔵中に水分を吸収して劣化してしまうことがあるんです」 「こ、これを切るんですか?」 「さすがに手作業では無理ですから、専用の機械があります。箱舟のデータベースに設計図がないか探しましょう、麦粒選別機もね」  当たり前のように笑うドリアードに、キルケーは唾を飲み込んだ。なるほど、精度を上げるとはこういうことなのか。  実り多い修行になりそうだ。 (開栓音) (喉を鳴らしてビールを飲み干すブラインドプリンセス) 「…………プハーーッ!」 「次に、水ですが……これは上水道の水を普通に使っていますよね、きっと」 「はい……ダメですか」  おそるおそる、といった調子のキルケーに、ドリアードは笑った。 「いえ、それでいいと思います。スヴァールバルの水は硬水で悪くないですし、第一水をよその拠点から運ぶのはあまりに不経済ですから」  製麦室を出た二人は、となりの醸造室へ移る。ここが、ビールが実際に造られる醸造所の心臓部である。 「ただ、pHにはつねに注意して下さい。天然水は変動がありますから、高すぎる場合にはカルシウムを加えたり……」  室内に並ぶタンクとハウスを順々に指さし確認していたドリアードの眉が、ふと曇った。  ビールの醸造設備は、もっともシンプルな場合、二つのタンク設備からなる。仕込みを行う「ブリューハウス」と、発酵を行う「発酵タンク」である。  ブリューハウスでは、保存しておいた麦芽を細かく砕いて、仕込み水とよく混ぜる。ほどよい温度に温めてやれば、麦芽の中の糖化酵素が活動を再開し、デンプンをどんどんと糖に分解し始める。  一週間ほどそのまま置くと、デンプンがすっかり糖……麦芽糖になる。これを濾過してから煮沸する。これによって酵素が失活し、成分がもう変化しなくなる。こうしてできたものを「麦汁」とよぶ。そのまま飲んでも甘くてなかなかに美味い。 「全部新品に取り替えましょう、これ」  タンクの蓋を開け、内部を念入りに検分したドリアードが、気の毒そうに告げた。 「全部!?」 「焙燥機の設計図があったライブラリに、タンクもあるでしょう。ちょうどいいサイズのを探して、工作室に発注して下さい」 「あ、あの!」  キルケーはあわてて古びた銅のタンクに駆け寄る。「確かに古いし形もよくないですが、まだ十分使えます。手入れもきちんとしていますし」  つぎはぎの目立つそれは、醸造室に並ぶ何本ものタンクの中でも一番古いものだ。まだハロウィンパークにいた頃、見よう見まねで初めて組み上げたものを、修繕と改良を重ねて今まで使い続けてきた。キルケーにとっては長年の相棒と言ってもいい存在である。  しかし、ドリアードは無情にもきっぱりと首を振った。 「大事に使われてきたのは、見てわかります。でも見て下さい、内面のこの凹凸の多さ。部品の継ぎ目や、小さな亀裂。こういう所に雑菌が溜まってしまうんです。ビール造りの一番の敵です」 「掃除と消毒はちゃんとしています。これまで以上に念を入れてやりますから……」 「その時間を別のことに使ったら、もっとビールの味がよくなるとしてもですか?」 「……っ!」  言葉に詰まったキルケーの肩に、ドリアードはそっと手を置いた。 「ビール造りの味方は微生物、敵も微生物です。情熱も思い入れも、彼らには通じません。それだけはわかってください。彼らに伝わる言語は精度、ひたすらな精度だけです」  キルケーは唇を噛む。百年間使い続けた円筒形のタンクは、色合いこそくすんでいてもサビ一つない。その表面を、そっと撫でた。  ――あの瞬間が、一番辛かったですね。長年の友達を見捨てるような、そんな気持ちがして。ドリアードさんの言うことが正しいということはわかっていたので、余計に……。  ――この時のタンクは一基だけ、今でも私の部屋にとってあります。ぴかぴかに磨いていますよ。 「…………わかりました。どういうタンクがいいか、一緒に探してもらえますか」 「もちろんです」  ドリアードはやさしく頷いた。肩に置かれた手に、ほんの少し力がこもるのをキルケーは感じた。 (開栓音) (喉を鳴らしてビールを飲み干すブラインドプリンセス) 「…………プハーーッ!」 「旧時代のドイツには、ビールには麦芽、ホップ、水、酵母以外の原料を使ってはならない、という法律があったそうです」 「ヴィルヘルム四世の『ビール純粋令』ですね」 「あら、お詳しいですね」ドリアードは嬉しそうに両手を打ち合わせた。「この法律が作られた時代、ビールには様々な香料を入れるのが当たり前だったそうです。その中からホップだけが残ったのは、ビールにとってホップがどれだけ重要かを示していると、私は思います」  醸造室の隣に小さな冷蔵室があり、中にビニール袋が何段にも積み上げられている。一つとって開けると、苔のような色をしたペレットがざらりと手のひらにこぼれ出てきた。 「ホップはサッポロ拠点で作ったのを使ってます。というか、あそこしか作ってくれないんですよね……」  ホップ、和名をセイヨウカラハナソウ。アサ科のつる性植物で、夏になると透きとおった薄緑色の松ぼっくりのような、花とも葉とも実ともつかない奇妙なかたまりを実らせる。毬花とよばれるこのかたまりが、ビールをビールたらしめる香り、泡、そして苦味の源泉である。  ホップを乾燥させて粉にし、突き固めたペレットを、ドリアードは指先でつまみ上げてしげしげと検分し、最後に舌の上にのせた。 「麦とは違って、他にほとんど用途がないですから、それは仕方ないですね。『フラノスペシャル』かな?」  冷蔵室を出ると、その先にあるのは搬出前のビールを積んでおく倉庫だけだ。醸造所のあらましを見終えたドリアードは、あらためてキルケーの方へ向き直った。 「さて、伺っておきたいのですが、キルケーさんはどんなビールを造りたいですか?」 「どんな……というと?」 「手に入るかぎりの材料で、せいいっぱい美味しいビールを造る……おそらくこれまでは、それだけを目標にしていらしたと思います。それはもちろん立派なことですが……これからは、自分の造りたいビールを思い描いて、そこを目指して磨いていかないと向上はできません」  ドリアードの視線にこめられた力に、キルケーはたじろいだ。  キルケーはどんなビールも好きだ。できるだけ色々なビールを飲んでみたいし、作ってもみたいと思っている。  しかし、それだけでは駄目なのだ。オルカに、外部拠点に、そしていまだオルカを知らない世界中のバイオロイドたちに、自分が届けたいビール。今、ここで、この自分が作ることに意味があるビールは何か。それが問われているのだと、キルケーは理解した。  目を閉じ、長い間考え込んだ。ドリアードは辛抱強く待っていてくれた。  やがてキルケーは目を開け、ドリアードの眼差しをまっすぐ受け止めて答えた。 「IPAにしようと思います」 「インディア・ペールエールですか」  ドリアードは正式名称で繰り返した。  インディア・ペールエール。強いホップの苦みと香り、アルコール度数の高さを特徴とするイギリスのビールである。イギリス伝統のペールエールをインドへ輸出する際、長期間の航海でも腐らないようホップを大量に加え、アルコール度数を高めたのが発祥だという。 「理由をうかがっても?」 「まず、エールですから短期間で、設備も今のままで作れます。常温で保存がきくので輸出に向いていますし、冷蔵庫を持っていない小さな共同体へ配るにも便利です。何より、私の好きなビールです」  明瞭な言葉だった。ドリアードは深く頷いて、微笑んだ。 「すばらしい答えです。……ホップですが、これまでは全量を煮沸直前に投入していましたね?」 「え? は、はい」 「ではそれと別に、もう5%ほどを煮沸直後に追加するようにしましょう。レイトホッピングといって、香りが強く出ます。フラノスペシャルはもともとアロマ系のホップですから、はっきり違ってくるはずですよ」  ドリアードはタブレット端末を取り出して、いくつかの数値を矢継ぎ早に打ち込み始めた。 「方向性が見えれば、あとは詰めていくだけです。最高のIPAを造りましょう、キルケーさん」 「は……はい!」 (開栓音) (喉を鳴らしてビールを飲み干すブラインドプリンセス) 「…………プハーーッ!」  最後に、酵母である。  糖化と煮沸を終え、ホップも加えて完成した麦汁はもう一つのタンク、発酵タンクに移される。そこで酵母が加えられ、二週間ほどかけてじっくりと発酵が進められる。  キルケーはふたたび冷蔵室に入り、どろりとしたクリーム色の液体が入った瓶を出してきた。 「毎回、前のタンクの澱をとっておいて、そこから培養したのを使っています」 「酵母を自家培養してらっしゃるんですか」ドリアードは目をまるくした。「簡単ではないでしょうに」 「ええ、まあ。これのコツをつかむだけで、五年くらいかかりましたね」  発酵の世界における酵母というものは、基本的にただ一種類の菌、サッカロマイセス・セレビシエのことをさす。いくつかの例外をのぞけば、ビール酵母もワイン酵母も清酒酵母もパン酵母も、みなこの一種類のなかの品種にすぎない。  そして、酵母は自然界のどこにでもいる。例えばブドウを皮ごとつぶして放置しておくと、皮に付着していた酵母によって勝手にワインができる(もちろん、適切な温度や衛生環境があればだが)。中世までは実際にそのようなやり方でワインを造っていたという。キルケーが初めて造った酒もビールではなくワインだった。そこで造った酵母をビールに転用したのだ。  ドリアードは瓶を光に当てて、しげしげと眺めた。「これはこれで、すごい成果ですが……野生酵母ではやはり、発酵力に限界があります。ビール専用の酵母株を探した方がいいですね」  酵母に糖をあたえ、そして酸素のない環境に置いておくと、嫌気呼吸というエネルギー反応をはじめる。糖を分解して二酸化炭素とエタノールに変え、その過程でエネルギーを取り出すのだ。発酵とは、この嫌気呼吸のことである。  ただの呼吸といえども、その反応の強さや適切な温度、生成する副産物など、品種によってさまざまに性質は異なってくる。人類は数千年の時をかけて、ビール造りに、ワイン造りに、パン造りに、もっとも適した品種を選び抜いてきた。 「探すって、どこを?」 「きっと箱舟にあるでしょう 「でも、遺伝子データはデルタが全部メチャクチャにしちゃったんでしょう?」キルケーは眉根を寄せる。 「何を言っているんですか」ドリアードがあきれ顔を返した。「ここは生物系特化の記憶の箱舟ですよ? 酵母菌なんて、実物が凍結保存されてるに決まっています」 「あ」  果たしてドリアードの言うとおり、IPAに適したビール酵母の実物はすぐに見つかった。工作室に依頼した機材と新型醸造機材も一週間ほどでできあがってきた。  そして、そこからが本当の始まりであった。 (開栓音) (喉を鳴らしてビールを飲み干すブラインドプリンセス) 「…………プハーーッ!」  まず、機材の納入までの一週間はひたすら座学。 「醸造学に微生物学、栄養学に作物学に植物病理学。基本だけでも一通り学んでおきましょう」 「ひええええ」  何もかもを独学で身につけてきたキルケーにとって、系統だった知識を専門家から直接教わることができるのは得がたい機会ではあった……しかし、それを差し引いてもなお、机と書物にかじりつく一週間は辛く苦しいものだったという。  ――あの時教わったことが、あとでどれだけ役立ったかしれません。一番逃げ出したいと思ったのも、あの時でしたけど(笑)。  そして機材が到着してからは、ひたすら実践と反復。  ドリアードが告げた「私が満足できる水準になるまで指導する」という言葉の意味を、キルケーはここで初めて本当の意味で思い知ることになった。 「洗浄が甘いです。やりなおし」 「はい!」 「濁りが出ています。スパージングのしすぎです」 「はい!」 「なんですかこの仕込ダイヤグラムは。精度が一桁足りません。やりなおし」 「は、はい!」 「0.5℃では駄目です、0.2℃単位で温度管理ができるようになってください」 「はい……」 「自分の感覚よりも数値を信じる癖をつけてください。次に、その数値を感覚で身につけてください」 「ううううう……」 「まだ洗浄が甘いです。やりなおし」 「はいいぃ……」  ドリアードは自分自身にも、そしてキルケーにも少しも妥協を許さなかった。時には農場や医務室の仕事を休んでまでも全力で指導に取り組んでくれたかわり、わずかでもミスを見つければ何度でも最初からやり直させた。  仕込みの指導が始まってから三日目、キルケーは醸造所に泊まり込むようになった。24時間タンクの状態をモニターしているドリアードが、夜中でも構わず叩き起こしに来るからだ。フェアリーシリーズの中でもとりわけ温和でおっとりした性格に見えた彼女に、これほど苛烈で容赦ない一面があったことはキルケーも知らなかった。  ビールの中でも上面発酵タイプのエールは常温・短期間で発酵が完了するのが特徴で、仕込みからおよそ二週間もあれば完成する。だが、製麦に合格をもらえるまでに一週間。麦汁の仕込みに二週間。発酵でミスをせず完走できるまで一か月かかり、新設備での初めてのビールが仕上がったのは、稼働開始から実に二か月後のことだった。  出来上がったビールは、これまでキルケーが造っていたものより明らかに味がよかった。感動するキルケーのかたわらで、しかしドリアードはしずかに首を振った。 「70点」  まだまだやるべきことがある。それはそういう意味だった。  一度は落胆したキルケーだったが、そこからの上達は本人も驚くほど速かった。これまでの長い経験と、叩き込まれた座学、そして徹底的に指導を受けた実技が、どんどんと噛み合っていく。  ――後から振り返れば、あれはそのための期間だったんだと思います。一度作るたび、ドリアードさんの点数が上がっていくのが、本当に嬉しかったですね。 「72点」 「75点です。良い調子ですよ」 「ななじゅう……8点」 「……80点です!」  そして、半年が過ぎたある日。突然、すべてが噛み合う感覚があった。  ――やっていることは、それまでと変わらなかったはずなんですけど。発酵タンクに麦汁を移して、酵母を加えて温度計を確認した瞬間、突然わかったんです。これは成功する、って。  二週間後。  出来上がったビールはそれまでと同じ琥珀色をしていたが、泡立ちがいつもよりきめ細かいように見えた。グラスに注いだビールを、キルケーとドリアードは同時に口にはこんだ。 「……!」  泡ごしにふわりと香る青葉のようなホップの香り。舌を叩きつける強烈な苦味のパンチと、オレンジマーマレードのような甘く重厚な風味。それらを炭酸が洗い流したあと、しずかに訪れる麦の旨味。一口目からわかる、口蓋を抜けて頭の裏側をほのかにくすぐるような極上の酩酊の予感。  キルケーがこれまでの人生で飲んだどんなビールよりも、いやどんな酒よりも、それは段違いに旨かった。  夢中でグラスの中身を飲み干し、二杯目を注ごうとしたキルケーを、ドリアードが静かに制した。彼女のグラスは一口分しか減っていなかったが、その顔には穏やかで、満足げな笑みが浮かんでいた。 「90点です」 「…………!!」  キルケーの目に、熱いものがあふれた。  初めて味をみてもらった時のように、旧時代と同じ基準で採点してほしいと、かねてからドリアードには頼んであった。旧時代に流通していた無数のビールの中に、彼女が85点以上をつけたものはいくつもないということも聞いていた。 「改善の余地はまだありますが、それはもうキルケーさんがご自分のスタイルで切り拓いていく領域です。私から指導することはもうありません。世界中のどんなバーに出しても恥ずかしくないビールです」  だからこれは、妥協を許さぬ彼女からの、最高の賛辞と言ってよかった。  ドリアードが試飲ボトルをとって、キルケーのグラスに注いでくれた。握りしめたグラスに、涙のしずくが一滴、二滴落ちて、飲み干した二杯目はかすかに塩の味がした。  ――キルケーさんは、すばらしい生徒でした。あんなに心からお酒を愛している人を、私は知りません。  ――お酒造りですか? 今はもう関わっていません。農場と医務室の仕事で手一杯ですし……それに、キルケーさんがいれば安心ですから。 「次はいよいよ、これを流通させないとですね」  三杯目を飲もうとしたキルケーは、ドリアードのその言葉にぴたりと動きを止めた。 「……流通」 「そうでしょう? バーで出したり、ほかの拠点へ輸出したり。そう仰ってませんでしたか?」 「……言ってました。たしかに言ってましたが……」  振り向いたキルケーの顔からは、幸せな酔いがすっかり引いていた。 「容器の手配を忘れてました……」 「ええ!?」  ビール造りの最後の工程は言うまでもなく、飲んでもらうことである。そのためにはタンクから出して容器に詰めなくてはならない。瓶、缶、樽と色々な容器があるが、今のオルカではどれも、一朝一夕に用意できるものではない。 「いそいで発注しましょう。大丈夫ですよ、IPAは保存がききますから。このタンクの容量ならええと20リットル樽で……」 「ああ、できたてを皆さんにご馳走したかったのに……」 「心配いりませんよお二人とも!」  突然、醸造所の扉が音を立てて開かれた。吹き込む寒風を背に受けて戸口に立っていたのは誰あろう、オルカ第二の愛酒家ブラインドプリンセスその人だった。 「話はすべて聞かせてもらいました」  ブラインドプリンセスは腕を組んで仁王立ちしたまま、誇らしげに言い放った。「こんなこともあろうかと、輸送用のビール樽を先週工房へ発注しておいたのです!」 「ブラインドプリンセスさん!」キルケーが目をうるませた。 「我が心の友の最高傑作、無駄にしてはいけませんからね。樽はまもなく届きます。その前に」黒い眼帯の下で、盲目のプリンセスはにっこりと微笑んだ。 「私にも一杯ご馳走してもらえませんか」  今に残るK&Dブリュワリーの傑作は、こうして生まれた。  深いコクと爽やかなキレ、豊かな味わいは、あなたに至高のひとときを約束してくれるだろう。  仕事の後に。友と語らう夕べに。大切な人とすごす夜に。  あなたの一番大事な時間のそばに、いつも。 〈キルケーIPA〉 * * * 「…………」  アンドバリはぱたりと台本を閉じ、満面の笑顔で待ちかまえるキルケーとブラインドプリンセスに向き直った。 「どうです? どうです? これなら文句ないでしょう!」 「確かに、ひたすらお酒を飲んでるだけの企画よりはずっといいですけど……」アンドバリは何とも言えない顔になって首をひねる。  『オルカ酒』が贈収賄法違反という最悪の形で没になってから一週間。「次同じことをしたらダッチガールに言うぞ」という厳重な警告つきで保釈されたキルケーが、オルカ映画祭予算統括であるアンドバリのもとへふたたび持ち込んできた企画は、同じく酒を主題にしてはいるものの、意外にもまともなドキュメンタリー風映画だった。 「これって、本当にあったことなんですか?」 「ほぼ全部事実です。ドリアードさんにも取材して、当時の記憶を確かめました」キルケーはにこにこと答える。 「あ、最後の樽のシーンだけは創作です」ブラインドプリンセスもにこにこと答える。「事実そのままだと私の出番が幕間しかないので、あえて改変していただきました。本当はドリアードさんがちゃんと樽を手配していたそうですよ」 「幕間って、この(開栓音)とか『プハー』とかいうのですよね」アンドバリは胡散臭げにもう一度台本をめくる。「これ何ですか?」 「CMです。おいしそうでしょ」 「CMって……商業映画じゃないんですよ」 「でも、宣伝に使うでしょう?」  ブラインドプリンセスの言葉に、アンドバリは返事につまる。確かに、映画祭の作品はヨーロッパ全土に配信して、オルカへの合流を奨励するための武器でもある。 「知ってますよ~」キルケーが悪そうな顔をして、すすすっとアンドバリの隣へ寄ってきた。 「救援物資にビールを入れたの、好評らしいじゃないですか」 「ぐっ……」  確かにキルケーの言うとおり、救援物資に一樽の「キルケーIPA」を加えるようにしてから、オルカに合流する共同体の数がいちだんと増えたのだ。アンドバリにはさっぱりわからないが、酒というのはよほど人を惹きつける力があるらしい。 「……わかりました。予算も適正範囲内ですし、許可します」  アンドバリは提出された企画書の右上に、大きな「認可」のハンコをぺたりと捺した。キルケーとブラインドプリンセスが満面の笑顔で両手を打ち合わせる。 「でも、認可したからにはちゃんと作って下さいね。せっかくの予算を呑み会で使い果たしたりしちゃ駄目ですよ」 「まさか、そんなことするわけありませんよ」 「ねえ」 「きっとですよ。もしそんなことがあれば」 「あれば?」 「秘書室に言って、酒税を導入してもらいます」 「しゅ、酒税……!!」  聞いたことのない言葉だが、何かとても恐ろしい概念であることは二人にもわかった。帽子と眼帯がずり落ちそうになるほど何度も何度も頷きながら、キルケーとブラインドプリンセスは後ずさりして部屋をあとにした。 「……ふー」  さっそく機材とスタッフの手配に入るというブラインドプリンセスと別れて、キルケーはいったん部屋に戻り、端末を立ち上げてメールをチェックする。 「今週の仕入れよし、支払よし、と。遅れてたボルドーの便はどうなりましたかね……」  オルカは箱舟にいた頃より、いっそう豊かになった。物資の備蓄が増えたのはもちろん、デルタが抱えていたヨーロッパのインフラをそっくり継承して生産設備も比較にならないほど充実した。今ではビールのみならずワインも、ウイスキーも、そのほか様々な酒も、専門の醸造所や工場でどんどん造ることができる。オルカ食料局には今や醸造部という立派な部署があり、キルケーはそこの顧問である。そのほかにアクアランドの園長と、建設中のオルカパークの責任者も兼任して、さらにリヨンでバーも経営しているのだから、なかなかに多忙な身だ。 「来週から撮影に入るから、もっと前倒しで詰めておかないといけませんね~。は~、大変たいへん……」  ぼやきながらも楽しげに、一通りのチェックと指示出しを終えたキルケーはデスク横の小型冷蔵庫からビールとグラスを取り出す。銘柄はもちろん「キルケーIPA」だ。 「ふっはー……!」  澄んだ琥珀色のビールをぐっと一口飲んで、キルケーは部屋の反対側へ目をやった。そこには、あの古びた銅の醸造釜が置かれている。今はもう自室でビールを造る必要もないが、毎日ぴかぴかに磨いていつでも使える状態を保っている。ちなみにキルケーが百年前から使いつづけてきた酵母は、歴史的価値があるということで箱舟のストックに加えられ、凍結保存されている。  もう一口。何度飲んでも、うまい。たった一人で試行錯誤しながら造っていた頃のビールとは比較にならないほどうまい。様々なビールを楽しめるようになった今のオルカでも、キルケーIPAは今なお人気銘柄のひとつだ。 (……けれど、それでも)  今のキルケーには、夢がある。  いつか、平和が訪れたら。この古い醸造釜と、あの時使っていた酵母で、ほんの少しのビールを造る。  そして司令官と二人で、それを飲むのだ。  きっと、大してうまくはないだろう。けれど、それでも、彼は笑って飲んでくれるに違いない。  きっと、とても楽しい夕べになるに違いない。 「…………」  ドリアードも呼ぼうかな。ブラインドプリンセスはどうしよう。いや、やっぱり二人きりがいい。  デスクに頬杖をついて、柔らかな微笑みを我知らず浮かべ、キルケーはいつまでも、幸せな夢想にふけっていた。  いつまでも、いつまでも。  具体的には機材とスタッフの手配を終えたブラインドプリンセスが打ち入り飲み会の誘いに来るまで。 End =====  ブラッスリー「アイアイエー」。  オルカに知らぬ者のない大の愛酒家でありながら、アクアランド園長という役職のためになかなかヨーロッパへ来られなかったキルケーが、念願のリヨンに着任するやいなや持てる技術とコネを総動員して開設した大衆酒場である。カフェ・アモールほど高級な酒は置いていないが、ヨーロッパ各地のワイン、ビールをはじめ豊富な酒類をとりそろえ、リーズナブルな料理とともに提供する。開店以来連日大勢の隊員で賑わう、リヨンの新たな名所の一つだ。  その夜。いつもどおり酔客でごった返すアイアイエーの片隅のテーブルで。 「まあ呑め。今日は私の奢りだ」  黄金色のビールがなみなみと注がれた大きなジョッキを二つ、ぐいと押し出してワーグが言った。 「ええ……」  突き出されたジョッキを胡乱げに睨んだのはエンプレシスハウンドの残り二人、薔花とチョナである。  カフェ・ホライゾン(こちらもとっくにリヨン店を開いた)では知り合いばかりで落ち着かないので、アイアイエーができてからは三人もしばしば利用しているが、ワーグが二人を誘うのは珍しい。まして、奢りなどという言葉が飛び出したのは初めてだ。 「何の魂胆だ? 気味悪いんだけど」  眉をひそめる薔花に構わず、ワーグは自分のジョッキをつかんでぐっと傾けた。二口、三口、白いのどが上下する。一息でジョッキをほとんど空にして、ワーグは長い長い息を吐いた。 「……同じものをもう一杯」  薔花とチョナも観念してジョッキに口をつけた。どうやらワーグは罠でも皮肉でもなく、本気で今夜の飲み代をおごってくれるつもりらしい。そして、そうするだけの理由があるらしい。 「で?」  チョナがしびれを切らしたのは、二杯目のビールがほとんど空になった頃のことだった。 「……」  ワーグはずっと無言のまま、もう三杯目にかかっている。チョナは大げさに肩をすくめて、手をひらひらと振った。 「なんか私たちに言いたいことか、聞きたいことがあるんでしょ? 早くしないと薔花ちゃんツブれちゃうよ~?」 「うっせぇ」  薔花はまだ一杯目をちびちび呑んでいる。酒は好きだが、あまり強い方ではない。チョナは反対にいくら呑んでもけろりとしている。ワーグは二人の中間くらいで、だからすでに相当酔いが回っているはずだ。よく見れば目元がほんのり赤い。 「私はな」  底に残ったビールを飲み干そうか迷うように、何度もジョッキを上げたり置いたりしてからワーグはようやく、ぽつりと言った。 「自分がエンプレシスハウンドのリーダーとして作られたと思っていた」 「……?」  薔花とチョナはそろって首をかしげる。思っていたも何も、自分でそう言ってリーダーの座におさまったのではないか。今更何を、としか言いようがない。 「今更何言ってんの」チョナがそのまま言った。 「ずっとそう思っていたが……実は違ったのかもしれない、と思えてきてな」 「どういう意味だよ?」薔花は顔をしかめた。こんなに歯切れの悪いワーグは、いつだったか神社でアルバイトを始めたのを必死に隠そうとしていた時以来だ。「他に誰かリーダーがいるってこと?」  ワーグは目をつぶり、ジョッキをぐいっとあおって空にしてから、酒臭い息を吐いてうなずいた。 「ファフニールだ」  薔花は目をまるくした。「あのバカが? ないだろ」 「ないない」チョナも手を振る。  ワーグはそれには答えずジョッキをわきに押しやり、手を振ってポルティーヤを呼んだ。 「ウイスキーを。水割りで」 「アタシ赤ワイン」薔花も便乗して注文する。 「私は白。いちばん高いやつ。あとチーズ盛り合わせもね」チョナもいつの間にか二杯目を空にしていた。  やがて酒が来ると、ワーグは待ちかねたように一口あおって続けた。 「奴は確かに馬鹿だ。だがな、ハーカを見ただろう。あそこにいた奴の子分を。お前達、あんな風に人に慕われることができるか? そして、私にそれができると思うか?」 「……」  薔花は鼻白んでワインをすする。  タフなだけが取り柄の、キャンキャンやかましい底なしの間抜け。そう思っていたあのファフニールが、あんな巨大な飛行船とバイオロイド集団を率いて現れたのには薔花も驚いた。のみならず彼女は先日の鉄の塔をめぐる戦闘において、もっとも重要な瞬間にもっとも必要な決断を行い、オルカを救ってみせたのだ。彼女に対する評価を改めるべきなのかもしれないと、さすがの薔花もうすうす感じてはいる。 「ファフニールには人望がある。決断力もある。ある種の……天性のリーダーシップがある。悔しいが、認めざるを得ん」 「でもさ~」  ちろちろとワインを舐めながら、チョナが口をはさむ。「それハウンドみたいなところで意味ある?」  旧時代のエンプレシスハウンドにおいてもファフニールの言動はおおむね今と変わらなかったが、彼女をリーダーとあおぐ者など誰一人いなかった。むしろチョナや薔花をはじめ誰もが内心、または公然と、彼女のことを見下していたものだ。ワーグの言う「ある種のリーダーシップ」がファフニールにあったとして、それはエンプレシスハウンドではなんの役にも立たなかった。 「ああ、だからこそ思うのだ」  しかしワーグは、太い眉をますます沈鬱にゆがめて、泣きそうな顔になる。 「もしかすると女帝には、エンプレシスハウンドを単なる復讐のためのテロ部隊ではない、もっと別の何かに昇華させるお考えがあったのではないか。その新たな構想の中核をなすのは奴のようなバイオロイドで、私はもう用済みなのではないか……」  声はだんだんとかぼそくなり、それにつれてワーグの頭もだんだんと傾いて、最後は握りしめたグラスに額をつけるようにして止まった。  薔花とチョナはそっと顔を見合わせ、 (めんどくさ……!)  お互いの顔にそう書いてあるのを確認して、聞こえないよう無音のため息をついた。  怨念と悪意で生きていたようなあのマリア・リオボロスが、そんな前向きなビジョンを持つわけがない。考えすぎに決まっている。二人ともそう確信しているが、何しろ思い詰めたら止まらないワーグのことだから言っても聞きはしないだろう。 「……………」  ワーグはうつむいたまま、泣き言か哀願か、そんなような何かを誰にも聞こえない声でつぶやいている。こうなるともう手に負えない。 (どうする、カイロちゃんのベッドに放り込む?)  バイオロイドの悩みは司令官に抱いてもらえば九割方霧消する。オルカ結成当初から変わらぬ最高の万能薬だが、昔に比べて抵抗軍も格段に大きくなり、それに比例して司令官も忙しくなった。今ではそうそう気軽に寝室に割り込むこともしづらくなっている。 (チョナ、優先券か何か持ってるか)  チョナは手のひらを上へ向ける。もちろん薔花も持ちあわせはない。 「あー、その……えっと、あれだ」  せめて何か言葉をかけようとするが、何も出てこない。どだい、落ち込んだ人を慰めるなどというのは女帝の猟犬に最も必要とされないスキルの一つである。正直ほっといて帰ってしまいたいが、しかしこんな有様の上司をそのままにしておくわけにはいかない……と思う程度の良心は、二人にもあった。  途方に暮れて周囲を見回した薔花の目に、見覚えのあるワークキャップがふと飛び込んできた。 「おい、あいつ」 「ん?」 「よお。アンタ、ファフニールの所にいた奴だろ」 「ひえっ!?」  突然背後から肩を叩かれた元ハーカの機関長、スターリングは飛び上がって振り向いた。「は、はい、そうです。こんばんわ」 「ちょっと私らとお話しない?」 「えっと……」  真面目そうな顔には、困惑と怯えがありありと浮かんでいる。ガラの悪い酔っ払いに絡まれたとでも思っているのだろう。間違いではない。 「まーまーいいから。まーまーまーまー」  しかしそんなことは意に介さず、薔花とチョナは両側から抱くようにしてスターリングをテーブルへ連れて行き、ワーグの隣へ座らせた。 「何呑む? アンタみたいな真面目ちゃんでも、こういうとこ来るんだ」薔花はテーブルに肘を突いて身を乗り出し、すごむような笑みで話しかける。これでも会話のきっかけを作っているつもりである。 「アルコールは飲みません。そういう習慣でして」一方のスターリングは腹をくくったのか、トレードマークのワークキャップを膝の上へにぎりしめ、落ちついた声で答える。「ここに来れば、ローストビーフというものが食べられると聞いたんです」 「ローストビーフ?」 「一度食べてみたくて」 「お前……」  旧時代から生きているくせにローストビーフも知らないのか。という言葉を、薔花は飲み込んだ。オルカに長くいるとつい忘れそうになるが、まともな料理を口にしたことのないバイオロイドというのは決して珍しい存在ではない。 「……おごってやるよ、それくらい。そのかわり、ファフニールのこと聞かせろ」 「……ファフニールのリーダーシップ、ですか」  ローストビーフを幸せそうにじっくり噛みしめて味わい、ついでにチョナの勧めたワインもちょっぴり飲んで、だいぶくつろいだ様子になったスターリングは首をかしげて考える姿勢になった。 「そこでツブれてるうちの隊長が、そのへん気にしてんだよ」 「あれをリーダーシップって言っていいのかな……それは私はハーカのオペレーターですから、彼女がハーカに乗っているかぎりは一緒にいましたけど、ひっぱたいて出ていきたいと思ったことは一度や二度じゃないですよ」 「でも、出ていってないでしょ」チョナが面白そうに言った。「それどころか、例の鉄の塔の時なんかいっしょに死ぬつもりだったって聞いたけど?」 「それは、まあ」スターリングは決まり悪げにうつむく。「ほっとけない人ではあるんですよ。それになんだかんだ、頼りになるところも無くはないというか……」 「だからさ、そういうとこなんだよ。人徳のないうちのワンちゃんが気にしてるのは」 「人徳がなくて悪かったな……」地の底から湧いてくるようなうめきを上げて、ワーグがむっくり起き上がった。真っ赤な顔をして、どろりとした眼をスターリングに据える。 「……ハーカの機関長か」 「元です」ぺこりと会釈をしてから、スターリングは椅子に座り直した。 「実は私も、調べたことはあるんです。彼女がどうしてあんなバイオロイド離れした性格なのか。とはいえ皆さんの……エンプレシスハウンドの情報は民間データベースには全然なかったので、本人から話を聞いただけですけど。それでも、いくつか推測できたことはあります」 「ふむ?」ワーグが水を一杯飲んで、聞く体制に入る。薔花とチョナもグラスを置いた。スターリングは一つ咳払いをして、 「ファフニールの性格を分解すると、おおよそ四つのキーワードで表せると思うんです。『バカ』『強欲』『お人好し』『めげない』」 「言うねえ、自分の上司に」 「今は上司じゃありませんので。それで、最初の三つについてはハッキリしてると思います。あの人の放電能力はあまりに強力なので、ヘタに悪用されたら持ち主にも被害が及びかねない。だから使いこなせないようにバカにして、動かしやすいようにお人好しで強欲にしたんです」 「クソだな、設計者」 「だが実際、そんなところだろうな」 「それで最後の『めげない』についてですが……あの人、エンプレシスハウンドの中でも後の方だそうですね。作られたのが」 「そうだな。最後期のメンバーの一人だ」ワーグが頷いた。 「だから姉というか、先輩が多いわけですが……率直に言って、エンプレシスハウンドって、性格に問題のある人が多くないですか?」 「……へーえ?」  薔花が睨むのを気にせず、スターリングは続ける。 「そういう人達の中で、いわば新人の下っ端をやっていくわけですから、神経がタフじゃないとやっていけなかったんじゃないかと。実際、昔の話を聞くと結構ひどい目にもあわされてたようですし」  薔花はだまって目をそらす。チョナは冷たい色の眼をほそめて、凄みのある笑みを浮かべた。 「本人を前にしていい度胸してるねえ、キミ」 「あんな人の下に何十年もいれば、度胸くらいつきますよ」スターリングはグラスに残ったワインを一息に飲み干して、熱い息を吐いた。 「バカだから、まともな人が思いつかないようなことをやる。バカで欲深だから、人が遠慮するものを平気で欲しがる。バカでお人好しだから、放っておくと不安になる。バカでタフだから、何があっても諦めない。……バカだから」 「バカ多すぎるだろ」 「つまり……」ワーグはテーブルに頬杖をついた。「ファフニールのリーダーシップは、偶然の産物だというのが、お前の見解か」 「そう思います。たまたまデザインされた性格が、環境にうまくハマっただけなんじゃないかと……。あと、結局私たちがみんなアイツについていったから、面倒を見ないといけなくなって、そういう方向に成長したのかもしれません。初期のファフニールは今よりだいぶひどかったですから」 「人の徳慧術知あるは、恒に疢疾に存す、か……」  ワーグはワインの瓶をとり、スターリングのグラスになみなみと注いだ。 「助言、感謝する」 「立ち直った?」 「まあ、気休めにはなった」ワーグは自分のグラスにも注いで、一口飲んだ。「どのみち、真相を確かめる方法などないのだしな。いずれ、他のハウンドと合流することがあったら聞いてみるさ」  そう言ってもう一口飲もうとしたワーグの頭上から、けたたましい声が降ってきた。 「あーっ、あんた! 隊長の私をさしおいて、何おごられてんのよ!」  豊かなバストを揺らし、スターリングに指をさしつけてツカツカとやって来たのは誰あろう、ファフニールである。 「あ、偶然の産物が来た」 「はあ!?」ますます柳眉を逆立てたファフニールだが、テーブルの上の皿にふと目を留めた。 「あ、これローストビーフってやつでしょ! 私も食べたことない!」 「美味しかったよ」スターリングが最後の一切れをすばやくさらい取り、口に放り込んでから言う。 「ちょっ……今の流れでそれ食べる!? あんた上司への敬意ってものはないの!?」 「もう対等だしって何度も言ってるでしょ」 「落ち着け、もう一皿くらい頼んでやる。お前も食べていけ」 「食べてくわよ! ご飯食べに来たんだから!」ファフニールはいそいそとコートを脱いで腰を下ろした。「外、すっごく寒いわよ。明日は雪になるかもだって」 「え~。やだなあ」寒さが苦手なチョナが、本当に嫌そうに顔をしかめた。「ホットワインちょうだい」 「水割りをもう一杯」 「酒はもういいや。コーヒー、ミルクと砂糖マシマシで」 「あ、私もそれでお願いします」 「ねえこれ奢り? 奢りって言ったわよね? この一番高いワインにするわ!」 「おいチョナ、お前こいつと発想が一緒だぜ」 「えええ~」チョナがさっきよりも嫌そうに顔をしかめた。 「ファフニール、お前、スヴァールバルへ行ったことはまだないな?」 「ほへ?」おかわりのローストビーフを口いっぱいに詰め込んだまま、ファフニールが目を丸くした。「ああ、ドーム型遊園地があるとかいう島でしょ。ないけど」 「暖かくなったら、一緒に行こう。お前に見せたいものがある」 「ええ……何よ」ファフニールは薄気味悪そうにワーグを睨んだ。「人気のない所へ連れてって、私を闇に葬る気じゃないでしょうね」 「そんな真似はせん。私闘も粛正も主様に禁じられている」ワーグは平然とグラスを傾けた。「第一、お前を消したいならそんな手間はかけない。そこらへんで斬って捨てる」 「ねえやっぱり怖いんだけどこいつ! 昔っから思ってたけどエンプレシスハウンドってなんでこんな奴ばっかりなの!? まともなのはいないわけ!?」 「自分がまともだと思ってるのが救えませんね」 「そんなことより、タブレットの電池切れたから充電しといてよ」 「あ、私も」 「もぉぉぉぉぉぉぉ!!」  アイアイエーの夜は騒々しく更けてゆく。  表通りに面した大きな窓に、夜空を舞い降りてきた雪がひとひら張りつき、すぐに溶けて消えた。 End =====  朝の光がカーテンごしにこぼれ入ってくる。枕元においた植木鉢の影がななめに長くのびて、ベッドの半ばのあたりまでとどいている。  その眺めに、ほんのかすかな違和感を感じて、俺はまだ半分眠ったままの頭をぼんやりと回転させた。 「…………?」  何かが違う。何かほんの、とても些細なところが、昨晩見たものと違う。  思考がゆっくりと覚醒に向かう。俺はベッドに手をついて体を起こし、枕元へ目をやった。  小さな緑色の芽が、植木鉢の縁をこえてぴょこんと顔を出している。  ゆうべ寝る前には、数ミリ程度の双葉がやっとのことで土のかけらを押しのけているだけだった。それが今見るとすっかり葉が開き、茎も1センチ以上にのびて、先端には次の葉までほどけかかっている。 「どうなさいましたか~……?」  隣で寝ていたセレスティアがもぞもぞと動いた。起こしてしまったらしい。 「セレスティア、この植木鉢に何かした?」 「植木鉢? いいえ~」  たっぷりした乳房が背中に押しつけられ、金色の髪がさらさらと腕にふれる。俺の肩ごしにのぞきこんだセレスティアのまだ眠たげな目が、ふんわりと嬉しそうにほころんだ。 「あらまあ、一晩でこんなに育って~。春ですねえ~」 「…………春か」  そのありふれた言葉を、俺は口の中でゆっくり繰り返した。  それから二人でシャワーを浴びる間も、着替えている時も、その言葉は俺の頭の中でぐるぐる回り続けていた。 「朝ご飯の前に、ちょっと散歩に行ってきてもいいかな」 「はい? ええ、もちろんです。朝食を少し遅らせるよう、厨房に言っておきますね」  ちょっと意外そうに、コンスタンツァは微笑んだ。着替えてから朝食までのわずかな時間は朝一番の仕事タイムだ。ふだんなら他のことに費やしたりしないが、今日はなんだか、むしょうに外に出てみたい気分だった。  三月のリヨンの朝はまだまだ寒いが、街はもうすっかり目を覚ましていた。ジャケットの襟を立てたブラウニーやアクアが何人も、忙しげに通りを行き来している。見たことのない顔もたまに通りかかるのは、デルタの支配下にいたバイオロイドたちだろう。 「あっ、司令官!」 「おはようございます!」  俺に気づくとぴょんと飛び上がって敬礼してくれるみんなへ、手を振って小走りに通りをゆく。  デルタを仕留めてから一か月。ヨーロッパを平定した……などとはまだまだ言えないが、変革は着実にすすんでいる。オルカに合流してくれた共同体はすでに数十にのぼり、移住や見学の受け入れも始まった。オルカがどんな所であるかを見て、体験してもらうためのモデルケースとして、リヨン市街の整備は急ピッチで進んでいる。  デルタが本拠地にしていただけあって、インフラの状態はかなり良好だ。建物なども、ちょっと手入れをすればすぐ使用可能なものがたくさんある。いずれは隊員たちが自由に家を選んだり、店を開いたりできるようにもしたいな等と、いかにも商店街っぽい通りを眺めつつ考えていると、さっと視界が開けて冷たい風が吹きつけてきた。  川に出たのだ。大きな川だ。広々とした河岸の道路にそって、街路樹が規則正しく並んでいる。なんという木だったか、いちど教わったのに忘れてしまったが、緑がかった茶色のなめらかな幹がモザイク模様のようにところどころ白く抜けて、節くれだった枝は針金を撚ったようにぎゅっと細く縮こまっている。先週もこのあたりには散歩で来たし、そのとき見た風景と一見何も変わっていないようだが、なんとなく全体がほの淡く、けぶるように輝いて見える。  近寄ってよく見ると、枝の節々から小さい爪の先のような芽が出て、ほんのわずかにほころびかけている。淡い色をした葉や花びらがちょっぴりだけ見えていて、枝どいう枝の芽が全部、街路樹が全部そうなっているので、全体として見るとかすかに色づいたように見えるのだ。 「ああ、そうか。春が来るんだな……」  俺は思わず、声に出してつぶやいていた。それで初めて、自分がどうしてこんなに浮き立っているのかわかった。  何年もの間、俺はオルカで世界中を旅した。いろいろな土地を訪れた。それは春のことも、夏のこともあったが、俺にとっては暑い土地とか、寒い土地とかいうのと変わらなかった。季節の移り変わりを感じるほど長いあいだ滞在したことはなかったし、いずれにせよ旅の途中、かりそめに上陸しただけの場所でしかなかったからだ。  でも今、俺たちはヨーロッパを勝ちとった。俺はフランスで、このリヨンで暮らしている。この先も、何か状況が大きく変わらない限りは、そうする予定だ。  だからこれは俺の春、俺たちの春だ。上陸した土地がたまたま春だったわけじゃない。俺たちのいるここに、この街に、春がやって来たんだ。 「…………ははっ。あはは」  息を吸い込むと、冷たい空気が舌の上で甘く感じられる。そんな味がするはずはないが、そう感じた。  コンスタンツァが、突然笑い出した俺をちょっと心配そうに見ている。俺がどうしてこんなに嬉しそうなのかピンとこないらしい。まあ無理もない、彼女は歴戦のベテランで、春なんて何十回も迎えているはずだ。  俺は河岸をもう一度見渡した。市街の状態がいいということは、植栽や雑草の手入れもされているということで、つまりこれまで訪れた都市のように、そこらじゅうに草木が生い茂ったりはしていないということだ。 「なあ、この近くに緑の多いところはないかな」 「それでしたら、橋を渡って川上へ行くと大きな公園があったと思いますが……」  コンスタンツァが言い終わるのを待たずに、俺は走り出していた。 「……消費電力と室温ログからみておそらく、東ウイング空調システムの6号機に不調が生じていると思われます。6号機はいったん止めて、4号機と7号機でカバーしましょう」 〈了解しました。東ウイングはスプリンクラー配管の老朽化も確認されています。来週末のメンテナンスで重点的な修復を試みます〉  画面の向こうのスティンガーモデルがみじかい腕を器用に上げて敬礼に似た仕草をした。A級AGSであるスティンガーは自身のOSで直接ネットワークに接続できるはずだが、定期報告会では毎回こうして備え付けのカメラとマイクを使って参加してくる。彼女なりのこだわりなのかもしれないと、ムネモシュネは受け入れることにしていた。 「アクアランドの方はいかがですか」 〈相変わらす忙しいで~す〉キルケーが相変わらずのんびりと答える。〈先週そっちでも病院が開いたと聞いてますけど、そのわりにはご新規さんの入院がぜんぜん減りませんね〉 「レモネードデルタ体制下で健康を害したり、心身に傷を負った方が予想以上に多く、こちらの病院はすでに満床とのことです。まだしばらくはそちらにも医療業務を受け持っていただくことになると予想されます」 〈なるほど。遊園地に戻れるのはまだ先ですかね~〉 「お願いします。ほかに、報告事項のある方はいますか」 〈ヨーロッパエリアの情報サーベイで不完全な記録断片を発見しました。アルプス山脈西部に、建設途中で放棄された記憶の箱舟が残っている可能性があります。詳細は別途送信したレポートを参照して下さい〉 「確認します。必要なら私が実地調査に向かうことにしましょう」  その他こまごまとした連絡を終えて、ムネモシュネはデスクトップ端末のウィンドウを閉じた。窓を開けると、朝の風が街の音をはこんでくる。  スヴァールバルに残留したスタッフは予想以上によくやってくれている。一、二か月ごとに箱舟へ帰って点検する必要があるかと思っていたが、この分なら三か月……いや、半年に一度で十分かもしれない。  このあと午前中は中央官舎で打ち合わせだが、まだ少し時間がある。ムネモシュネは外出着のワンピースに着替え、いそいそと部屋を出た。  アパルトマン風の宿舎は、出るとすぐ広い道路に面している。旧時代にはベルジュ通りと呼ばれた道だ。行き交うバイオロイド達はみな厚手のジャケットやコートに身を包んでいるが、極地での活動も想定して設計されたムネモシュネにとってこの程度はごく快適な涼しさでしかない。箱舟で読み込んだ資料によればリヨンは霧の多い街だったそうだが、こちらに来てから一度も霧など見たことはない。人間活動が絶えたおかげだろうか。  ベルジュ通りの反対側には、マロニエの林が左右どこまでも続いている。道をわたり、林を抜けるとすぐに視界が開け、よく刈り込まれた芝生がなだらかに起伏しつつどこまでも広がっていた。  ここは旧時代の名をテット・ドール公園という。170ヘクタールの広大な園内に動物園、植物園、人工湖などを擁する、リヨン最大の公園だ。美観にこだわるデルタの都市整備のおかげで、この中央広場やバラ園など、いくつかの場所は旧時代と変わらない姿をたもっている。  旧時代には行楽客で賑わったであろう広場も今は訪れる人もなく、遠くに芝刈り用のドローンが一機だけ、ゆっくりと動いている。たんたんたん、という駆動音がかすかに聞こえる。足に伝わる、芝を踏む感触。木々の間を吹き抜ける風の音。その風が運んでくる、咲きはじめたマグノリアの香り。  通りすがりにマロニエの枝を見れば、冬芽がすでにふくらみ始めている。幹に手を当てるとひんやり冷たい樹皮の下に、ほのかな暖かさを感じる。植物のもつ熱エネルギーは動物に比べればはるかに小さな量でしかないが、冷気を操るムネモシュネには感じ取れるのだ。人々がコートに身を包み、首をすくめて通りすぎる朝にも、植物はたしかに春の息吹を感じとり、目覚めの力をたくわえ始めている。  スヴァールバル島にも季節の変化はあったが、それは岩肌を覆い尽くす雪が深いか浅いかの違いでしかなかった(少なくとも、箱舟から百メートル以上離れたことのないムネモシュネにとってはそうだった)。しかし、ここでは毎日あらゆるものが少しずつ変化していく。これが自然、ドームに覆われた生態保存区域ではない、小説や映像記録で何度となく目にし憧れたほんものの四季のある自然の風景なのだ。ムネモシュネは幹に手を当てたまま目を閉じ、うっとりと満足のため息をついた。  オルカの欧州侵攻が決まってからというもの、ムネモシュネは箱舟管理者代行としての権限と技術をフル活用してフランスの情報を調べまくった。デルタの本拠地がリヨンにあるとわかってからは、リヨンのことも調べまくった。今のムネモシュネの頭にはリヨンの地理と歴史、植生、野生動物、観光名所などなどの情報がぎっしり詰め込まれている。テット・ドール公園はムネモシュネがリヨンで訪れたい場所の堂々一位であり、ムネモシュネは毎日ここを訪れるのを日課にしていた。市街中心部からはやや距離がある今の宿舎を希望したのも、この公園のすぐ目の前にあるからだ。  今日はバラ園まで足を伸ばしてみよう。一昨日は早咲きのモッコウバラが咲いていた。今日あたり、シャルル・ド・ゴールが咲いているかもしれない。一度は実物を見たいと思っていた品種だ。  浮き浮きと足をはやめたムネモシュネは、 「あれ、ムネモシュネ?」  ふいにかけられた声に立ち止まって振り返った。その声を聞き間違えようはない。オルカの司令官……箱舟の現管理者であり、ムネモシュネを箱舟から連れ出して今のこの景色を見せてくれたその人が、手を振りながらこちらへ歩いてきた。 「管理者様、お早うございます。お散歩ですか?」 「うん、まあね。ムネモシュネは、ここで何を?」  小走りに駆け寄ったムネモシュネは、ハタと返答に困った。何をと言われると、何をしに来たわけでもないのだ。しかし、目的がないというのも違う。どうと言えばわかってもらえるだろうか。しばし頭の中で言葉を選んでから、ムネモシュネはゆっくりと答えた。 「春が……春が来るとは、こういうことなのかと、その印象を味わっていました」  すると意外なことに、司令官はみるみる満面の笑顔になり、 「そうだよな、そうだよな! あっはははは、春っていいよな!!」  ムネモシュネの肩を抱いてくるくる回りはじめた。どうしてそんなに喜んでいるのか、今ひとつ理解できなかったが、彼を喜ばせたのが自分ならこんなに嬉しいことはない。少し離れて付き従っているコンスタンツァが、よろしく、というように目配せをした。 「この公園に来るのは初めてなんだ。よかったら案内してくれないか」 「かしこまりました。ここは、旧時代にテット・ドール公園と呼ばれていた場所です。テット・ドールとは『金の頭』という意味で、黄金のキリスト頭像がこの土地のどこかに埋められているという伝説が……」  司令官の手を引いて、ふたたびムネモシュネは歩き出す。バラ園を見せたらどんな顔をするだろうと想像した。その顔がわずかにほころんでいることに、自分でも気づいてはいなかった。  つめたい風が長い耳をくすぐり、ホワイトゴールドの髪をなびかせて通り過ぎる。生命のセレスティアは誰にも聞こえない程度にちいさく鼻歌を歌いながら、上機嫌で石畳の通りを歩いていた。  司令官の寝室に上がった翌日は、全休がもらえるのが通例だ。明日の予定を気にせずゆっくり愛しあえるし、経験の浅い隊員は実際に一日ダウンして動けなくなることも珍しくない。もう何度も経験を重ねたセレスティアはそこまで消耗はしないが、せっかくなのでゆっくり余韻を反芻しながら朝寝を楽しみ、いま起きてきたところだ。 「久しぶりのお休み、どこへ行きましょうか~」  植物を操るセレスティアのナノボットは、言うまでもなく農業において絶大な力を発揮する。そのため、デルタを倒してリヨンを占領したあとも、セレスティアはフェアリーシリーズとともに周辺の農地の整備や復旧に引っ張りだこになっていた。欧州解放作戦が始まって以来、丸一日の休暇をもらったのは今日が初めてである。 「きれいな街ですね~。緑も豊富ですし」  当然、リヨンの街を散策するのも初めてだ。空気はまだまだ冷たいが、先週までよりも確実に暖かくなっている。並木のプラタナスの冬芽がほころんでいる。春が近づいてきているのが風の匂いで感じられて、セレスティアは嬉しくなる。春は彼女の一番好きな季節だ。グアムの妖精村はもう遠い昔のことのように感じられるが、思えばあそこには雨季と乾季があるだけで春も秋もなかった。  レモネードデルタは自分が住むこの街の美観についてとくに気を遣って整備していたという。そういう所はデルタに感謝すべきなのかもしれない……と、ものにこだわらないセレスティアはわりと屈託なく思ったりするのだが、そんなことをこの街でうっかり口にすべきではないということもわかっている。 (いつか、フランスの他の街も訪れてみたいですね~)  などと考えつつとりとめなく歩いていたら、広場のようなところに出た。道の幅がぐっと広くなって、周囲を石造りのいかめしい建物が囲み、屋台らしきものがいくつか出てそれぞれに何かを売っている。 「ケーバブー、リヨン名物ケバブはいかがですかー」  その一つからうまそうな匂いがして、セレスティアはふらふらと近寄っていった。ジニヤーが声を張り上げている横では、ドラム缶を改造したらしいオーブンから大きな肉の塊が顔を出して、ジュウジュウと脂の焼ける音を立てている。セレスティアのお腹がくう、と鳴った。 「これは何のお肉でしょう?」 「羊です!」ジニヤーが元気よく答えた。「昨日シメたばっかりだから、新鮮ですよ」 「軍票で買えますか?」 「もちろんです!」  ジニヤーは長いナイフを取り出すと、炙られている肉の塊から大きな切れを何枚も削ぎおとし、大きな丸パンの中央を割りひらいたのへピクルスといっしょに詰め込んで、焼いたポテトを添えて渡してくれた。両手で持ってかぶりつくと、熱く香ばしい肉汁が口の中いっぱいに広がる。 「ん~~!」  セレスティアは口の中をいっぱいにしたまま、喜びの声を上げる。肉にはスパイスの効いたソースがもみ込んであり、エスニックな香りと辛味が鼻へ抜ける。 「とても美味しいです~。ケバブって、中東の方のお料理でしたよね? リヨン名物だとは知りませんでした~」 「実は、そう言ってるだけなんです」ジニヤーはちょっと恥ずかしそうに打ち明けた。「その方が売れると思って。あ、でも旧時代のフランスには本当にケバブ屋さんが多かったそうですよ!」 「そうなんでふね~」  もぐもぐ頬張りながら会話をするうちにも、子供のバイオロイドが二人、とことこと駆けてきてしわくちゃの軍票を出す。 「ふたつください」 「はい、まいどー!」  二人ともオルカでは見ない顔だが、セレスティアはカタログで知っている。パブリックサーバントの農奴型と、清掃婦型のバイオロイドだ。PECSはコスト上の理由から、労働用モデルには子供型を好んで設計した。この街や周辺の村々に子供が多いのもそのせいだ。この子たちも、手伝いか下働きでもして軍票をもらったのだろう。 「ジニヤーさんは、外から行商にいらしてるのですか?」 「はい、西のモントルヴェ村から来ました。あの、オルカのセレスティアさんですよね?」  セレスティアが頷くと、ジニヤーはぱっと笑顔になる。「先週、雪腐病を治してくれてありがとうございます。あれ、うちの隣の村だったんです。おかげで私たちの牧場も安心して使えるようになりました」 「まあ、それはよかったです~」 「うちはみんなまだ迷ってますが、そのうちきっとオルカに合流すると思います! これどうぞ!」ジニヤーは赤いほっぺで笑いながら、セレスティアのパンに追加のポテトを盛ってくれた。  オルカがフランスを本拠地として腰を据えたことで、一番変わったのは食料事情だ。質や量ではなく、「幅」とでもいうべきものが変わった……セレスティアはそう思う。  これまでのオルカでも食べるものは十分あったし、質も決して低くなかった。酒や菓子などの嗜好品を買い求めることもできた。しかし、それらはすべて外部拠点から搬入している物資であり、広い意味ではオルカから「支給される」ものであった。  今、リヨン周辺にはオルカの直轄農地以外にも、バイオロイド共同体がいとなむ農村が多数ある。このジニヤーのように、かれらはいくつかの手続きをふめばリヨンで自由に産物を売っていいことになっており、市内のいたる所にそういった屋台が出ていて、いつでも好きな時に買うことができる。時間があるなら農村に直接出かけて買ってくるのも自由だ。ツナ缶がなければ、畑仕事の手伝いでも何でもして分けてもらえるだろう。本当にどうにもならなかったら、森に行って木の実や動物を狩ったっていい。  要するに、今や食料は「なんとでもなる」ものになった。これはとても豊かなことだと、セレスティアは思う。はっきり自覚している者はまだ少ないかもしれないが、この豊かさは皆の生きる活力の、そのもっとも深い部分を支えてくれる。それは必ずオルカをより強く、より健やかに、より逞しくするだろう。 「ごちそうさまでした。本当に美味しかったです~」  パンくずの一粒まできれいに食べ終えて、ていねいに礼を述べてから、セレスティアは散歩を再開した。  白や、クリーム色や、さんご色や、いろいろの石で組まれた壁が立ち並ぶ道を気の向くままに歩く。曲がり角があれば曲がってみる。入れそうなところがあれば入ってみる。橋があれば渡ってみる。あてどない散歩は昔から大好きだ。グアムでも、よくブラックワームを連れて森をそぞろ歩いたものである。 「……あら~?」  しかし、森の中と街の中では勝手が違うようだ。四つ辻でふと立ち止まったセレスティアは、自分が今どこにいるのか、まったくわからないことに気がついた。  前後左右のどれも同じような石畳の道に見える。宿舎は市の中心部にあったはずだが、どちらへ行けばその中心部なのか見当がつかない。ちなみにリヨンには「トラブール」と呼ばれる、一見建物の一部のように見えるが実は通路になっている小さな抜け道が無数にあり、そのせいで道に迷いやすくなっているのだが、もちろんセレスティアはそんなことは知らない。 「困りましたね~」  大して困ってもいなさそうにおっとりと右を見たり左を見たりしていたセレスティアは、ぱっと笑顔になった。交差点の角から見慣れた顔が現れたのだ。 「司令官様~!」  小走りに駆け寄ってから、後ろにいたムネモシュネに気づき、一歩引いてお互いぺこりと頭を下げる。寝室当番の翌日は司令官にあまりくっつかないのがマナーだが、この場合は不可抗力として許されるだろう。 「お散歩ですか~?」 「うん、ムネモシュネがこの街に詳しくてね。いろいろ案内してもらってたんだ」 「まあ、助かります! 実は私、道に迷ってしまって~」  セレスティアは今朝の出来事と、たどった道順を思い出せるかぎり二人に説明した。 「それで、広場で売っていたケバブがとっても美味しかったんですよ~」 「ケバブか、いいな」司令官がぺろりと唇をなめて腹に手をやる。「それ、どこの広場かわかる?」 「ええと、橋を渡ったのは覚えてるんですが~」  ムネモシュネがタブレットを取り出して地図を検索しながら、通りの向こうへ目をやった。「あちらの方角から橋を渡っていらしたのなら、リヨン2区だと思われます。2区にある主な広場は……」 「橋を渡ったのは二回だったかもしれません~」 「えっ」 「三回だったかも~」 「えっ」  結局、ムネモシュネのおかげで無事目的の広場は見つかり、屋台のケバブで舌鼓を打つことができた。  そしてそのまま一緒に司令官公邸に戻った三人は、朝食を作って待っていたソワンに氷のような目で迎えられ、平謝りに謝ったのだった。 End ===== Date:2175/09/02 21:04 リヨンついた すごい にぎやか 多い タブレットもらったのでかく 記ろくをnこしておこう。 カリスタYe-E5i です。 Date:2175/09/04 20:32 タブレットになれて来た。 おどろくことばかり バイオロイドが多い。すごく大勢。 ブラッディpantherモデルにはじめて合った。 Date:2175/09/15 21:58 どうにかタッチキーボードがまともに使えるようになってきた。 アレクサンドラさんの授業できいたグミン政策というのが何のことかわからなかったけど、ようやくわかった。デルタはこういうことから私たちを遠ざけたかったんだ。 アイアンアニーの言ってたことはぜんぶ本当だった。むしろ控えめすぎるくらいだった。リヨンはすごいまちだ。 食事がもらえる。殴られない。立ち止まっても怒られない。挨拶してくれる。 いろいろありすぎてとても全部はいえないけど、本当にすてきな所だ。誰もが一度リヨンに来てみるべき。 メールのおくり方もおそわった。 字を書くのになれるための日記だけど、今日からはサン・ナボール村のみんなにも送信しようとおもう。ちゃんとメールが送れるだろうか。 Date:2175/09/16 21:42 オルカにもとからいるアーマードメイデンの人たちが、歓迎会をしてくれた。 食べ物とお菓子と、お酒もあって、どれもすごくおいしい。ワインなんて大昔に一口だけ飲んだきりだ。誰もがどんどんお菓子をくれるからお腹いっぱいになってしまった。 オルカではもう何年も前から、明日食べるものの心配なんかいらないそうだ。 ブラッディパンサー隊長のすすめで、こっちにいる間だけでも、はたらき口を探すことにした。住む部屋と毎日の食事は無料でもらえるけど、何もしないでぶらぶらしているわけにはいかない。私は村の代表としてここへ来ているんだから。 あと、働かないとナースホルン隊長のようになるぞとみんなにおどかされた。 あと、今日食べたようなお菓子が、街のあちこちで有料で売っている。また食べたい。 配給の食事だって、去年まで食べてたものよりずっとずっとおいしいのに。ぜいたくに慣れるってこわい。 Date:2175/09/17 21:02 街のすぐ外にある農場で働くことになった。 モジュールを入れ直してアーマードメイデンに復隊することも考えたけど、再訓練に時間がかかるみたいだし、戦闘部隊に入ったら街を離れないといけないのでやめた。 村ではテンサイとジャガイモを作ってたと報告したら、ジャガイモの畑に回してもらえた。 畑はたくさんあって、分野ごとに一人ずつフェアリーシリーズがついている。その指導がほんとうに的確で、勉強になることばかりだ。私たちがやってたのはただの見よう見まねだったんだとわかってしまった。 Date:2175/09/27 21:55  今日はまたひとつ、信じられないものを見つけてしまった。  買い物をしていたら雨が降ってきたので、適当な店に飛び込んだ。「フルール・ド・ポー」という名前で、はじめは喫茶店かと思ったけど、内装がものすごく綺麗で、宝石箱みたいなショーケースがあって、そこに並んでるのは全部パンツやブラだった。ランジェリーショップというやつだったのだ。  その上、奥から出てきた店長が、なんとオードリー・ドリームウィーバー。生きていて怪我もしてないオードリーなんて、何年ぶりに見ただろう。リヨンに来てもう一月ちかくになるが、デルタがもういないんだと一番実感できたのは今日かもしれない。  オードリーさんはオルカで働いていて、ここはふだんスタッフに任せているけど、たまの休みには自分でお店に出るらしい。今日会えたのはすごくラッキーだったわけだ。  でも私の下着なんて、何十年も前から着てるやつだ。ブラなんか破れたところをテープで留めてある。こんな素敵なお店で見せていい物じゃないからすぐ帰ろうとしたけど、オードリーさんが引き留めて、 「ここにあるのはランジェリー。あなたが今身につけているものも、下着ではなくランジェリーです」  私はその一言で、すっかりぽーっとなってしまって、お店の中をゆっくり見せてもらうことにした。  オードリーさんが自分でデザインと縫製までしたっていう、目も眩むくらい細かなばら色のレースが一面にあしらわれたブラとパンツ。試着させてもらったら谷間がクッキリして、お尻がキュッと持ち上がって、なんだか肌まで綺麗になったような気がした。オリビア・スターソワーさんが昔の女優のために作ったのを復元したっていう、真っ青なコルセット。肋骨が痛くなるくらい締め上げられたけど、鏡に映ったプロポーションは私じゃないみたいだった。  オードリーさん曰く、 「誰からも見られなくても、自分自身を素敵な気分にしてくれる。ランジェリーにはそういう力があるのですわ」  だそうだ。  まあもちろん、高すぎて全然手が出なかったから、何も買わずに帰ってきたんだけど……。  農場に入ったばかりだけど、仕事を増やそうかと思う。節操がなさ過ぎるだろうか。 Date:2175/09/28 21:12  指導員のシザーズリーゼさんから、作物別のマニュアルを大量にもらった。ジャガイモの病気のところ、この本が二十年前にあれば死ななくてすんだ仲間が大勢いたのにと思うと、嬉しいけれどもすこし辛くなる。  添付しておくので、村のみんなにも読んでほしい。  アーマードメイデンの歓迎会がまた開かれるというので参加した。今度は私も歓迎する側で、ラインラントから来たっていうイオが一人とスプリガンが二人、新しく加わった。デルタの下で働かされていたアーマードメイデンなんて私だけだと思っていたけど、結構いるらしい。ドイツにはブラックリバーのバイオロイドが多いんだとか。リバーメタル社があったからだろうか。  「フルール・ド・ポー」について聞いてみたら、みんな当たり前に知っていた。古株の隊員が言うには、オルカがまだ潜水艦を本拠地にしていた頃から、艦内の売店では下着を扱っていたそうだ。信じられない。 「カリスタは下着に縁があるな」とブラッディパンサー隊長が笑っていたが、何のことかわからない。オルカのカリスタに聞いたけど教えてくれなかった。  ナースホルン隊長にも初めて会えたのだが……上官侮辱罪に問われたくないから、どう感じたかは書かないでおく。 Date:2175/10/02 20:58  フルール・ド・ポーにはいろいろな人が来る。初めて入ったときは私一人だったけど、あれは相当ラッキーだったようだ。  他のお客を見ていると、まだまだ私の知らないランジェリーが色々あるとわかる。キャミソール、ブラスリップ、ソング、ガーターベルト、言葉を覚えるだけでも苦労しそうだ。  はじめ、こんな高級なものを買えるなんてみんなお金持ちなんだと思っていたが、よく見ていると店員や他のお客と話だけして、何も買わずに帰る人の方が多い。ランジェリーを見ること自体を楽しんでいるのだ。店員もそれで文句も言わないで、楽しそうに応対している。  畑仕事が長かったので、私はカリスタモデルにしては日焼けしている方だと思う。だから黒よりは白系の下着の方が似合うのではないだろうか。 Date:2175/10/28 21:22  買った。ランジェリーを買ってしまった。  清掃員のアルバイトを入れまくり、食事は配給だけで我慢して一ヶ月。ためたツナ缶でとうとう買った、フルール・ド・ポーのバルコネット・ホワイトヴェールブラとパンティ。  脇の下と腰の横のところが透け感のあるレースになっていて、わりときわどいデザイン。 「見せる相手もいないし、もう少しおとなしいやつでもいい」  と、選んでいる途中ちょっと怖じ気づいたのだけど、 「見せる相手ならいますわよ? あなたにその気があればですが」  オードリーさんの一言が決め手になった。確かにいる。オルカには見せる相手がいる。いるというだけで、会えるかどうかはわからないけれど。  部屋に帰ってすぐに着けてみた。最高だ。着てるだけで綺麗になった気がする。着心地もすごくて、うまく言えないけどすべすべした優しいなにかに包まれてるみたい。普段着でも下にこれを着てるだけで気持ちがアガる。オードリーさんの言ったことは本当だったんだ。  バスルームの鏡だけじゃ足りない。全身うつせる姿見をこんど買ってこよう。白い花と、花瓶も買おう。お気に入りのランジェリーと同じ色の花を部屋に飾るといいって、オードリーさんが言っていた。 Date:2175/11/05 22:39  今日はフルール・ド・ポーで、マーメイデンのアンフィトリテさんに会った。  モジュールの知識では知っていたが、実際に会ったのは初めてだ。まだ量産化されておらず、オルカ全体でも彼女は一人しかいないんだそうだ。  初対面で新参者の私にもていねいに挨拶してくれて礼儀正しい人だと思ったが、バッグから出した下着がすごかった。いや、最初は下着だとはわからなかった、黒い糸とレースの絡みあったものに、小粒の真珠がいくつかつながっていて、ネックレスか何かだと思っていた。 「ほつれたところを見つけてしまって、直していただけないかと」  不思議そうに見ているのがおかしかったのだろう、オードリーさんが広げて見せてくれて、初めてわかった。それは布地のほぼない、とんでもないデザインのパンティで、真珠がつながった部分で大事なところを隠すようになっていたのだ。そんな下着がこの世にあるなんて知らなかった。  それでは隠せないだろうと思ったので正直にそう言ったら、 「隠せないからこそ役に立つこともあるのです」  と二人して笑われた。悔しいが、ランジェリーにはまだまだ知らない世界があるらしい。  店でランジェリー講座を定期的に開いているというので、申し込むことにした。 Date:2175/11/07 20:40  人間様がマルセイユから近々帰ってくるらしい。  そのせいか、朝から街の中がなんだか浮ついた空気になっている。映像では私も何度も見たけど、実物に会ったことはもちろんない。私たちに声をかけてくださることもあるっていうけど、本当かどうかわからない。おととい、アンフィトリテさんがあんな下着を直しに来たのも、それと関係があるのかもしれない。  オードリーさんの講座は本当にためになる。手袋の脱ぎ方だけであんなにバリエーションがあるなんて。アンフィトリテさんのやつみたいなとんでもない代物はまだ登場していない。パールクロッチと呼ぶらしいことは、あとで調べて知った。 Date:2175/11/19 18:52  人間様に挨拶をした。  ベランダから通りを眺めていたら下を散歩していた。あんまり普通に歩いてるから見過ごしそうになって、あわてて手を振ったら振り返してくれた。  ちゃんと私の方を見て。目を合わせて笑って。  ただそれだけなんだけど、すごく幸せな気分になれた。なんだろう、これ。  通り過ぎる人間様を見送って写真を撮ったら、いつのまにか真後ろにブラックリリスが立ってて写真をチェックされた。死ぬかと思った。 Date:2175/12/10 17:20  とんでもないチャンスが舞い込んできた。  オルカ本隊のカリスタモデル、カリスタ011が、来週人間様と……アレをする当番だったんだけど、戦闘任務で負傷してしまったらしい。  そういうときはいったん順番を飛ばして、怪我が治ったら最優先で入れるチケットをもらうか、同型機に代わってもらうかの二択なんだけど、011は後者を選んだそうだ。  それでリヨンにいるカリスタ全員でくじ引きをして、なんと、私が当たった。  オルカに参加してたった三ヶ月で寝室に上がれるなんて、かなりのレアケースらしい。あとで011にお礼を言いにいかないと。  初めて買った白の上下セットを着けて、鏡の前に立ってみた。今もお気に入りではあるけれど、でもこんなのじゃダメだ。もっと、もっと人間様にアピールするランジェリーじゃないと。  オードリーさんのランジェリー講座には、有料の上級編がある。大急ぎで申し込んだ。 Date:2175/12/11 20:18  私の知らない世界がまだまだあった。  上級編は一般向けの講座が終わった後、夕方になってから開かれる。お店で顔見知りの人も何人か受けに来ているけど、みんな気迫が違う。  オルカのベッドタイム争奪戦の厳しさがそうさせるのだろう。ただセクシーなだけでは足りないのだ。「この女がほしい、この体を抱きたい」と思ってもらうためには、普通をこえたギリギリを攻めないといけない。  自分の体の強みをどう活かすか。弱みをどんなふうに隠すか。何を隠して、何を見せるか。Oバック。Cストリング。オープンカップブラ。オールシースルー。オープンクロッチ。  ここは戦場なんだ。誰もが火花を散らしている。私はもうそこに立ってしまった。新兵だからといって言い訳はできない。 Date:2175/12/12 23:11  ブラはバルコネットで決まりだと思う。初めて買ったセットがバルコネットだったのはなんとなくだったけれど、いい選択だった。普通くらいしかない私のバストでも、あふれそうな感じが演出できる。ニプルをギリギリまで見せられるのも利点だ。でも下品にならないバランスをうまく見極めないといけない。  下はスーパーハイレグ。これはもう、穿き慣れているのが最大の理由。カリスタモデルの制服がハイレグというかTフロントみたいな形なので、長年これしかパンティの選択肢がなかったのだ。これにエンブロイダリーレースをたっぷりとつける。  ただ問題は、スーパーハイレグにはガーターベルトが似合わない。この時点で演出の方法がかなり限られてくる。  オープンカップブラについてもう一度考えるべきかもしれない。ベビードールと重ねると、脱がしたときに効果的らしい。  いっそレースは諦めて、シンプルなサイハイソックスと合わせて未来感を狙う?  透け感とVラインの細さ。ぎりぎりまで欲しいが、濡れたときの状態も考える必要がある。「見えそうで見えない」の先には、「隠れているようで隠れていない」がある。アンフィトリテさんは私よりずっと高いステージにいた。  考えれば考えるほどわからなくなる。 Date:2175/12/13 23:45  ランジェリーとは哲学だ。  裸よりいやらしくなかったら着ける意味がないのだ。 Date:2175/12/14 18:50  これからいよいよ、人間様の寝室へ行く。準備は完璧。そのはず。  この日記はサン・ナボール村に送っているのだということを久しぶりに思い出した。みんな見ていてほしい。きっと、村の代表に恥じない姿を見せるから。 Date:2175/12/16 12:11  しあわせで  すごい  きもちいいかった  みんなもはやくリヨンにくるといい  ついしん  したぎはなんでもいいです End