「待った待った!落ち着いて三幸!!」 「離せハルカ!こういう奴はさぁ!」 自席から立ち上がり、拳を振り上げた犬童三幸を、ストレートヘアの少女が羽交い締めにして取り押さえる。教室は一瞬ざわついた後、その視線の先、喧騒に至るであろう始まりが誰なのかを確認すると、またか。と言わんばかりに生徒たちの視線は、各々の向き合う方に戻っていく。 「だーかーら!三幸はやりすぎるからダメ!私のことはいいの!言わせときなさい!」 「ぐぬぬ……スゥ……フゥ……はぁ…」 怒りで荒くなった呼吸を整える。胸の奥で燃え上がっていた激情の火が、少しずつ小さくなり、やがて種火へと戻っていく。 深呼吸は嘆息に変わり、やがて三幸は、右頬から痛みがしないことに疑問を覚えたが、それを無視して怒りを向けた相手を睨みつけた後、ドサりと乱暴に机に座り直す。 「……全く、うるさいイヌッコロとヤギですこと」 「あんたぁ!私の親友に何言ったぁ!!」 「落ち着いてハルカ!というか!さっき私にはやりすぎるからダメって言ったでしょ!?」 今度は三幸が、立ち上がったハルカを取り押さえる。その最中でふと、右頬に出来ているはずの傷に触れてみる。 無い。肌触りが全て同じ。痛みも、やはりない。 「……はぁ……やっぱり夢かぁ……」 教室でまた喧騒を巻き起こした夢から覚め、三幸はゆっくりと体を起こす。眠い目を擦った後、薄っすらと右頬から痛みがすることで、嫌でも夢ではない事を思い知らされ、ため息をついた。 隣では赤い毛皮の狼、ファングモンが掛け布団に包まって未だに寝息を立てている。寝返りでも打った拍子に叩き起こさずに済んだこと、そもそもベッドから落ちなかったこと……それと、落とさなかったことに少し、安堵した。 三幸は、中高一貫の女子校で寮生活を送っていた。そこで、寮の同室となった八木原ハルカと仲良くなり……夢で見たように、誰かと揉めてはお互いを抑え合うような、およそ華やか、お淑やかではない生活を送っていた。 昔から、喧嘩っ早い自覚はある。小学生の時も度々女子とも男子とも喧嘩をしては、両親にも先生にも、姉にも怒られた。 今にして思えば両親は、既に働いている姉も通っていた学校で、同じように寮生活を勧めたのは、自分のそういう所を、誰かと共同生活を送って、良い方向に持って行かせたかったのだろう。 そのあたりは多分、今までよりはマシになってきたはずだ。今も怒ったりカッとなったりはする。それを少しでも抑えるために、お嬢様のフリをして、少しでもそれらしく振る舞うなんて形から入ることにした。それも怒ると、すぐに消える。 この振る舞いは、クラスメイトからは色々言われたし、ハルカからも流石に合わないよと苦笑いされたが、三幸自身がそれなりに気に入っているのもあり、ついムキになってやめないと宣言してしまった。今にして思えば、ここでムキになって、時に怒るような自分を少しでも良くしようと言うのにだ。 「みんな、今頃どうしてるのかな……」 そうやってクラスメイトのこと、親友と思っている相手のことを思い出すと、そこから先生のこと……点が繋がって線になる。両親、姉、兄、弟……線は、家族へと枝分かれしていく。 自分が急にいなくなって、何を思って何をして、どう過ごすのだろう。想像しきれない。三幸に分かるのは絶対に大変だろうな。という漠然としたことだけである。 いつまで、ここで過ごすことになるのだろう。戻って来る頃に、みんなは、そして私は、どうなってるのだろう。 いや、そもそもここでどう過ごせば良いのだろうか?そこまで思い至ったと同時に、腹が鳴った。 三幸は一気に顔を赤くした。そして、まだ眠っているはずのファングモンを見た。起きる気配はなく、胸を撫で下ろす。 「いつから食べてないんだっけ…そもそも水…」 腹の虫が、不安や恐怖、不満を呼び起こし、濁水が胃の底から滲み出るような気持ちにさせる。その滲み出た濁水が食べ物、飲み物、三日目以降の行動、自分の今後……次々と新たな負の思考の呼び水となり、不安や不満が濁流に変わり、やがて洪水へと変わっていく。 安心して眠り、却ってスッキリした頭が、逆に先行きの見えない恐怖を認識させる。それを認識すると三幸の身体からぶわりと嫌な汗が流れ出し、それでまた、洪水の勢いが増す。 「……篤人さんに聞こ……」 お腹が空いた。汗で気持ち悪い。自分の奥底から無限に繰り返される喚きを押し殺し、三幸は隣で眠るファングモンに構わず、ベッドから降りる。 頼れるかは分からない。でも、聞ける相手はいる。一抹の期待を持ってドアを開けた。助け……というより、縋る相手は、この不安の洪水を堰き止めることが出来そうな人は、自分には彼しかいない。 「っと、ごめ……おはよう犬童さん。少しでも寝れたかな?」 「おう。起きたかミユキちゃん。わりぃな驚かせちまって」 ドアを開けたと同時に、その一抹の期待をかけた少年とそのパートナーは、ドアを開けたすぐ目の前に居たのであった。 「あ、篤人さんとジャンクモンも……おはようご、ざ………あの、朝早く何を……?」 伸びたから切ったを繰り返しているような、こだわりの無さそうな黒髪に眼鏡をかけた少年、片桐篤人はぎこちない作り笑いを三幸に向ける。 それまで着ていた詰襟ではなく、土に汚れた紺色のつなぎを着て、何かが入った袋を両手で持っている。額から薄っすらと見える汗から、外で仕事をしてきたであろうことだけは察するが、まだ出会って24時間も経っていないのもあって、どうにもそんなイメージがまだ沸かなかった。 そして何故か、袋から……鼻孔を通り、腹の虫がまた騒ぎ出しそうな、香ばしい匂いがする。ジャンクモンの空き缶で作られたの大砲の下にある袋からも、同じような匂いを感じる。 騒ぐな腹の虫。鳴ろうものなら、顔から火が出るような恥ずかしさを通り越して、ヘルガルモンみたいに炎で包まれるような心地になりかねない。唾を飲み込み、三幸は堪える 「えっと……犬童さん……寝不足?体調不良?それともまた別の理由?」 「だ、大丈夫ですわ篤人さん!!睡眠は私、必ず8時間は眠ってますの!! 夜更かしはお肌の天敵!育成ミス連発の切欠!!それに……」 三幸の硬い挙動を不審に思った篤人が少し困ったように話しかけると、三幸は肩を跳ね上げた後、悶々とした気持ちを誤魔化すため、思いついたままを話し続ける。そんな三幸を篤人は手で制すると、その手を見て三幸は小さく声を漏らし、俯いた。 そこから間を置いて、少し俯き、顔を逸らしてから、三幸が改めて口を開く。 「あの……篤人さんとジャンクモンは、何?私よりきっと早く起きてるじゃないですの……」 「あー、言って無かったなミユキちゃん……俺様とこいつで畑仕事しててな……この集落、手伝えば食い物分けてくれる所で助かったぜ」 一抹の希望の話をする前に、彼のパートナーであるジャンクモンが、三幸にとっては欲しかった言葉に繋がる単語を聞いた瞬間、不安の洪水の勢いが、少し削られた。 「…畑?食い物?」 「デジモンだってお腹空くからね」 不安の洪水の勢いが削れたと同時に、パートナーとなったファングモンのことが頭をよぎる。彼女も空腹かもしれない。幾ら余裕がなかったとはいえ、気づけなかったことが、さっきまで湧いてきた濁水とはまた別の代物で、苦い気持ちにさせてくる。 とにかく、食べ物のことは気にしなくて良い。それだけでも心中の洪水の勢いが収まっていく。体の重さが、軽くなる。一番大きな心配が、意図せぬ形で堰き止められた。 「とりあえずさ、朝ご飯にしようよ犬童さん。ここ宿、食事は出るからさ」 「朝飯もだがアツト……先にちょっと、シャワーで体流さねぇか?1回スッキリしてぇ」 シャワー。その言葉に、滲み出た濁水も一気に止まったように思えた。篤人が一瞬だけ考えて、ジャンクモンの提案を受け入れようとする前に、三幸は無言で踵を返して部屋に引き返す。 「んん?おいおい、どうしたよミユキちゃん……」 その様子を見たジャンクモンの困惑の声は、三幸の耳には一切入らなかった。そして、未だにベッドの上で寝息を立てるファングモンを、米俵のように一気に担ぎあげた。 「うおぉ!?急に起こしやがって!何する気だミユキ!?」 「シャワー!!行きますわよファングモン!!」 突然のことで慌てふためくファングモンを三幸は肩と両手でしっかりと担ぎ上げて、部屋から飛び出す。その姿を見た篤人とジャンクモンが、目を丸くして呆然としている。肩の上でジタバタするファングモンに構うこと無く、口を半開きにして沈黙する篤人とジャンクモンの前で、さっきまでの何かを誤魔化していた様子が嘘のように、目を光らせながら、急ブレーキをかけて立ち止まる。 「ジャンクモンのシャワーは先に女の子達に譲ってもらいますわよ!!」 「は!?お前いつ気付いた!?」 「最初にあった時!感覚ですが何となく!!」 パートナーを肩に担いで宿の廊下を爆走する三幸の姿を、篤人とジャンクモンは立ち尽くしたまま目で追っていたが、完全に姿が見えなくなってしばらくしてから不意に篤人が、口を開いた。 「ファングモン…女の子だったんだ………」 「お前気づいてなかったのかよアツト!?」 「バカな追いはぎの性自認なんて、あの時気にもしなかったからさ」 申し訳ないことを思っていたものだ。篤人は小さく嘆息をすると、三幸のデジヴァイスに食堂の場所を伝えるメッセージだけをいれ、着替えるために一度部屋に戻った。 「スッキリしましたわ!!ファングモンもこの通り綺麗さっぱりと!!」 寝起きから感じた不安はどこに行ったのやら、にこやかな表情で食堂へやってきた三幸は、無地のテーブルクロスがかけられた席で待っていた篤人の向かいの座席に腰掛ける。その少し後ろからきたファングモンも、どこか心地よさそうな顔をして、前足をひょいと乗せると三幸の隣のイスに登り、そのまま足を揃えた姿勢を取る。 先に待っていた篤人とジャンクモンは、あまりに勢いの良い三幸の行動を思い出すと、苦笑いをして「それは良かった」と答える。三幸はその様子を見てから自分の行動を思い出し、少し気恥ずかしくなったのか僅かに顔を俯けた。 「えっと、そうだ……篤人さん……その、さっきまで持ってた袋って何が……」 自分の勢い任せの行動の話が続かないように、と思いから話を逸らそうとした矢先、腹の虫が、寝起きの時よりも大きく騒ぎ出した。ファングモンとジャンクモンから集中する視線、宿を利用している他のデジモン達から、一瞬感じた視線。どれもこれもで矢で射られたような心地となり、三幸は顔を真っ赤にして、俯く。顔から火……いや、全身から火どころではない、今度こそヘルガルモンの地獄の業火が全身を包み込むような熱と感じるほどだった。 「あー、ごめん。外で動き回ってたものだから僕、お腹空いちゃってさ……」 その熱は、咄嗟にこめかみを掻きながら申し訳なさそうに苦笑いを浮かべる篤人の姿でじわりと消えていく。一瞬、間を開いてから篤人の隣に座るジャクモンが、戸惑い気味に呆れたような顔をテイマーに向けた。 三幸が顔を上げると、篤人と目が合った。彼はまるで余計なこと言ったかな?と思ったかのように、頬を掻きながらすぐに顔を逸らした。 嫌悪感は無い。ただ、小学校でも女子校でも、今までに受けたことのない対応で、三幸はすぐに言葉が出てこなかった。ファングモンが、何か言えよと言いたげな渋い顔でこちらを見てくる。でも、まだ言葉が出ず顰め面で返してしまった。 一度、咳払いをした。そこで自然と苦笑いが出て、その苦笑いの反射で、口走る。 「全くもう、篤人さんったら……でも、私もお腹減ってしまいましたし……ね?」 篤人が、三幸の返しに少し目を丸くした後に短く相槌を打った。そこから間もなく、従業員のデジモンが配膳カートを押しながらやってきた。 おまたせしました。の一言の後に、4人分の大皿が配られていく……が、三幸は先に配られたジャンクモンの大皿を凝視した。 その大皿には、三幸にとっては漫画やアニメでしか見たことのないような、骨付き肉が乗っかっていたのだ。 大皿が4人分配られる。細長いバゲットと、骨付き肉。その後には瓶入りのミルクも4人分。 既に何度も鳴っている腹の虫のためにも、齧り付きたかった。テーブルの周りを見渡す。少なくとも、外食先で置いてあるような調味料の類や割り箸だのは、見当たらない。置いてあるのは、手を拭くためのペーパータオルのみ。 「あの……つかぬことをお聞きしますが……ナイフやフォークとかは……?」 篤人だけではなく、ジャンクモンやファングモンまでもが首を横に振る。その様子を見て、三幸の虚しい期待は当然のように打ち砕かれ、肩を落とす。 「あー……ミユキちゃん、デジタルワールドの施設は基本、人間が使うことを想定してねぇ。 この椅子とテーブルも多分、人型のデジモンを想定してのものだろうしな」 椅子からテーブルに乗り移ったジャンクモンの、歯に何かが挟まった説明で三幸は、シャワーのバルブが妙に低い所にもあったことを思い出した。多分、体の小さいデジモンへ対応したものだろう。ここは本来……人間がいるべき世界ではないこと。それを意外な形で、理解することになった。 「どうしたミユキ……食べないのか?」 「えっと…その……」 単純な、躊躇だ。親友の前でも憚られる手掴みでの食事。それをよりによって、人前で。しかも自分と大差ない年齢であろう男子の目の前でだ。 しかし、ジュワリと焼けた音が聞こえるような、大きな肉。手を伸ばせば、腹も心も満たす代物。匂いが鼻を通って、本能に訴えかける。 大口を開けて、一気にいけ、と。 「……犬童さん、まさかお肉ダメ?」 「い!いえ……ソンナコト……ない、ですわ……」 小さく唸りながら戸惑う三幸が篤人の言葉で、体をビクリと跳ねさせた。その様子を見て、篤人は一度だけジャンクモンと顔を合わせる。その後、徐に骨を掴むと、ゆっくりと持ち上げて、齧りつく。 三幸は思わず、小さく羨むような声を漏らす。そこから、意識をしてか咀嚼音を出さないように噛んで、飲み込む。三幸は、目の前で食べる様子と周りから聞こえる咀嚼の音で、固唾を飲む。 「……言い忘れてた。この肉、デジタルワールドのよくある食べ物だからさ、がぶりついても誰も何も「いただきます!!」 篤人の言葉が終わる前に、三幸は篤人とは違い、勢いよく肉にがぶりつき、噛み千切る。 「……!!」 一口食べて、感嘆の声が漏れる。柔らかな噛み応え、じわりと溢れる肉汁、口内に広がる、小さくとも確実な幸せの味。飲み込んで喉を通った熱まで、一つの味と思えてくる。 もう一口。更にもう一口。いつしか不安の洪水は完全に堰き止められ、滲んできた濁水の代わりに、もっと食べたいという、素直な欲求に変化する。 「……相当腹減ってたみてぇだな、ミユキちゃん」 「まぁ、食べてくれるほうが全然いいしね」 目を輝かせな肉を頬張る三幸の様子を見て、篤人とジャンクモンは顔を見合わせ、小声で話す。三幸はそんな二人が見えて、ハッとなり食べる手を止めると、小さく咳払いをした。 「……これも言いそびれたけど、さっき持ってた袋の中身も、これより小さいけど、肉なんだよね。」 「は?肉……え?畑で肉……あーなるほど……大豆ミートや遺伝子組換食品ってそういう……」 「ここは常識組換ワールドだけどね」 自分の持ち合わせてる感性や常識では到底ありえない篤人の言葉に、三幸はもう一度肉に伸ばすはずだった手を止め、自分の知りうることを無理矢理当てはめて納得……と言う名の逃避を計ると、篤人はそうなるよな……と小さく呟き、何かを思いついた様子で、会話を続ける。 「そうだ。犬童さんも後で、畑に行かない?」 「あーそりゃいいなアツト……あれは人間にとっちゃ、早めに見せたほうが早い」 三幸は、ジャンクモンと篤人の朝の話をもう一度思い出す。 「……その、手伝えば食べ物……分けて貰えますの?」 「んん?おう……出来ることあっかは、行かなきゃ分かんねぇが……どうしたミユキちゃん」 「……その……少々……足りなくて……」 「……そっか」 顔を背けて細々と、それでも先ほどより恥じらいが薄い様子の三幸の言葉に、篤人は相槌を打つしかなかった。 「全く……忙しいテイマーなこった……畑の肉は静かに、そして骨まで味わうものだろうによ……」 そんな少しだけ慌ただしい朝を、三幸の隣でファングモンは、これも悪くないと思いながら、肉を、骨ごと噛み砕いた。