黎明蜻蛉  地下階から地上に出ると、それまでなりを潜めていた熱気がむっと体中にまとわりつき、殺人的な陽射しが容赦なく肌を焼いてきた。たまらず顔をしかめて口許とマスクの間に空間を作り、手にしたハンディファンで風を送る。  出先から事務所へと出勤する道中、ふだんは利用しない駅で電車を乗り換える手間をうっかりと面倒に思ってしまい、一駅くらいならと、どういう風の吹き回しかたまには外を歩こうなどと気まぐれを起こしたのがそもそもの間違いだった。今しがた改札を出たばかりだというのにひとりでに回れ右をしようとする足をどうにか押し留めて、鞄から制汗シートを取り出して首元を拭く。メントール成分とアルコールの気化熱でひとときの涼を得て、遠くに見える巨大な入道雲と青すぎる空をひと睨みしてから腹をくくって帽子の位置を調整した。 「あれ、もしかして」  ふと、背後から耳に飛び込んできた誰かのそんな発言に瞼をしばたたかせる。どこかで聞き覚えがある声のような気がしたからだ。それも、少し面倒な類の。 「人違いだと思いますけど」 「またまたぁ!ウチが見間違えるワケないやんか〜!何年同じ釜の飯食った仲やと思てんねん!」  思い出す限り、同じ炊飯器のご飯を食べた覚えはなかったはずだ。懐かしのお好み焼き会でも、家主である彼女がお好み焼きをおかずにご飯をもりもり食べていたのを、私は遠巻きに見るだけだったから。けれど、一緒に外食をしたこともあるし、その場合は同じ釜のご飯を食べた仲にカウントされるのだろうか。気温の高さも手伝ってか、頭がこんがらがってきた。 「ニコルは今から事務所行くん?」 「ええ。そういう河野さんは?」  だんだんと面倒になってきてついには考えることを放棄して普通に振り返り、南国を連想させるトロピカルな柄のシャツにゆったりめのサロペットといった出で立ちの河野都に向き直る。 「近くで打ち合わせがあんねんけど、早く着きすぎてもうて暇しとんねん。時間あるんならコーヒーでもしばかへん?」  大雑把で怖いもの知らずなように見えてその実、河野都は驚くほど小心者でガラスのように繊細な心の持ち主だった。気心の知れた仲ならまだしも、関係性の深くない相手との待ち合わせなどはとにかく早めに現着して、そして今のように暇を持て余すのが常であったし、初対面にもなると前述のようなくだけた方言丸出しの口調はなりを潜めて、慣れない標準語で借りてきた猫のように物静かになったりするのがなんだか面白かった。  誘いを受けて一瞬ビルの窓に反射した空に視線を遣って、取り出したスマホの画面を確認した。仕事の集合時間にはまだ二時間以上も間がある。午前中に個人的な用事があったから早めに家を出て、空いた時間は涼しい事務所内で読書でもして過ごそうと思っていたので特に急ぐ理由はない。したがって断る理由もなかった私は、彼女の申し出に首を縦に振ったのだった。 ◆  滝川みう自身の口から卒業の意志をはじめて聞かされた時は、その場では思っていたよりも心は動かないものなのだなと拍子抜けした覚えがある。内々に向けての(彼女が定めたであろう)発表の日、その直前に前もって私と藤間桜の二人にだけ先んじてその意志があることを聞かされたのだ。  けれど、悲しみだとか怒りだとか放心だとか、そういった類の感情は不思議と沸き起こらなかったことに何よりも自分自身が驚いていた。私はてっきり、私が彼女に対して執着のような感情を抱いていたと思い込んでいたから。  彼女の意を決した告白に対して私の返答は「そう」の一言だけ。それは藤間も似たようなもので、特に示し合わせたわけではないけれど、お互いに心のどこかではもうとっくに覚悟めいた準備のようなものは済ませていたんだろうと思う。 「あの、ニコルちゃん、いつもありがとう……」 「貴方、これから一人で飛行機乗る時どうするつもりなの」  フライト中ずっと隣の席の私の腕にしがみついていた彼女に呆れ顔でそう言うと、「たとえ時間がかかっても絶対に新幹線にしか乗らない」と青ざめた顔で後ろ向きすぎる宣言をされてしまい、私は巨大なため息とともに打つ手なしと閉口した。  外向けの発表から1週間。ファンの戸惑いもおさまらぬままに、私たちは北の大地の東端へと赴いていた。ライブ出演のオファー。それもグループ単独で、さらに言えばアイドルと名のつくものはまだ誰も踏んだことのない会場での披露。大変に光栄な話ではあったけれど、何故?という意見が先に出てしまう。確かに過去に北海道出身のメンバーは在籍していたし、私も休業中に世話になった親戚が住んではいたものの、それらはもっと西、札幌近郊に位置していた。なんの縁かと思いきや、楽曲を提供してくださった根室出身の作曲家の方との繋がりだったらしい。 「は?根室?函館ならまだしも根室?え、実家の近くだからよければ帰省のついでにって?あのさぁ…北海道ナメてんの?むしろ東京からのが全然近いんだけど。(以降強烈な津軽弁)したっけ、へばね!」 「開催おめでとうございます。せっかくお誘いいただいたのですが、辞退しようかなと。いえ、都合がつかないわけではないんですが、お仕事ならまだしもプライベートで行くにはまだ少し抵抗がありまして。いい思い出がまったくないわけではないんですが」  というのは、近隣(とは言っても会場からは数百キロ離れている)出身者ふたりの言だ。貴重な機会を見てもらえないのは残念だけれど、プロなのだからお遊戯会じゃあるまいし縁者が見てくれないと寂しいなんて感情は持ち合わせてはいなかった。  空港から一歩外へ出るとひんやりと張り詰めた空気に身震いをして、もっと分厚い上着を持ってくればよかったと軽く後悔をする。5月半ばを過ぎたとはいえ北の大地はまだ初春の気候で、ようやく桜が咲いたくらいの時期だ。 「ここがあかねさんを育んだ大地ですか」 「たぶんもっと西の方だと思うけどなぁ」  過呼吸になりそうなくらい謎の深呼吸を連発する織原純佳に冷や水のような言葉を浴びせかける瀬良穂乃花の横を素通りし、寒さから逃げるようにこぢんまりとした貸し切りバスに乗り込む。ふと、バスの最後方に目を向けると、いつの間にそこにいたのか滝川みうが着席し、手荷物を脇の席に置いて一息ついたところだった。  ううむ、一番いい席は取られてしまったか。少しだけむっとして、通路を挟んで何席か前の座席に腰を下ろした。 ◆ 「コーヒー、ね」 「コーヒーはコーヒーやろ。なんや文句あるんか」  店頭に鎮座するマシンにカップをセットしながら不機嫌半分、悪戯心半分といった具合の声をあげた河野都に「別に」と返して私も精算を済ませたカップを置いてボタンを押した。  装置が駆動して豆を粉砕し、すぐさまドリップされた焦茶色の液体を氷の上に注いでいく。微かに香ばしい香りが鼻腔をくすぐった。気づけばすっかり定着して珍しくもなんともなくなったコンビニコーヒーといえど、味も香りもなかなかどうして侮れない。さらに安価で手軽で24時間いつでも淹れたてが味わえるともなれば、出始めの頃のブームも頷けた。  店舗二階の冷房がきいたイートインコーナーに場所を移し、午後の人もまばらな席のうちのふたつを拝借し、対面して腰掛ける。 「昔はもっとグイグイツッコんでくれたのに、最近のニコルはスルーを覚えてもうてボケがいがないわぁ」 「仕事前だから余計な体力使いたくないし」 「あー、でもそういう冷ややかなんもおもろいなぁ。一緒にM1目指さへん?」 「別件で忙しいんで」  言ってにこりと営業スマイルを浮かべ、コーヒーと一緒に購入した菓子パンにかぶりつく。  会話は取るに足らない内容ばかりの、いかにも時間潰しの雑談といった内容ばかりだった。偶然街でばったり、という状況であったし前もって会話デッキも用意できていなかったせいかすぐにネタが尽きて、いつしか話題はおそらくお互いに意図的に避けていたであろうものへと行き着く。 「そういや、もうすぐやなぁ。みうの卒業」  頬杖をついて窓の外の景色もへったくれもない、向かいのビルに反射した群青を眺めながら河野は呟いた。 「……そうね」  ことがことなだけに、耳にしていないわけがないのだ。ちゃらんぽらんな風に見えて、何かとメンバーの世話を焼いて気にかけていた河野都だからこそきっと思うところのひとつやふたつもあったろう。 「それにしてもあのみうがなぁ。立派に成長してくれて都ちゃんは嬉しい」 「こっちとしては複雑よ」  卒業した側から見ればそうかも知れないが、まだ所属している側からすればそれこそどう言い表していいか私は未だにこれといった答えが出せずにいた。メンバーがひとり抜けるとなれば単純に戦力ダウンであるし、かといって一般的に言えば独り立ちとはめでたいということであり、彼女自身の口からそれを聞かされた時に即座に引き止めなかった手前、今さら私から何を言えばいいものやらだ。 「ええやんか、複雑で」  胸に渦巻いたもやもやとしたわだかまりに眉根を寄せる私のことを、ゆるく微笑みながら河野はそれでも肯定した。 「複雑ってことはそれだけ思うところの種類があるってことやろ。ニコルがみうのことに関心がある証拠や。好きの反対は無関心やからな」  そこで言葉を切って河野はストローに口をつけ、茶色い液体をひと口啜った。 「自分も、他人も、人の心なんて全部理解できるわけないやんか。なんとなーくでええねん。そう思っとくと気が楽やで」  なんとも河野都らしい、ざっくりとしたアドバイスである。 「そういうものかしらね」 「そういうもんや」  なんの根拠もないというのに自信ありげにそう言う様子がなんだか可笑しくて、小さく笑った。 ◆  ダンスのステップがわからないと相談を受けたことがあった。もうずいぶんと昔、ほぼ素人だらけで何度もカットを挟みながら四苦八苦して、1stシングルのMVをどうにか撮った時のことだ。  今でこそ技術では私が勝っていても表現力という点においてはグループ随一と評される彼女も、駆け出しの頃は未経験の歌やダンスに相当に手間取っていたようだった。  体育館でのジャケ写を終え、MV撮影の始まる夕刻まで待機を大人たちに命じられた私たちはロケ地である廃校となった学校内で暇を持て余していた。  どうしてジャケットが朝の体育館で、MVが夕暮れの校舎なのだろう。どこをどう組めばこんなタイムスケジュールになるのか。言いたいことは山ほどあったけれど、デビュー前のまだ何者でもない身で文句など言えるはずもなく、空いた時間が惜しいと私は許可を貰ってレッスン着に袖を通した。ここには小さいけれどおあつらえ向きにステージもある。鏡張りのレッスンルームでの自主練にも飽き飽きしていたところだったし、いい機会だと思った。  他の連中のことは知らないが、きっと無人の校内を散策でもしているのだろう。とくにアメリカ出身の藤間桜は興味津々といった具合に興奮した声をあげていた覚えがある。今もじっと耳をすませば、校内のどこからかあのきんきんと耳障りな甲高い声が微かに聞こえてきた。  自主練を見学させてほしいと、蚊の鳴くような弱々しい声で滝川みうが申し出てきたのはそんなタイミングだった。  アン、ドゥ、トロワ。ダンスの基本はリズム感だ。幼少期からピアノを弾いていた彼女はその点は問題なく、あとは身体を頭で思ったとおりに動かせるかどうかだけが課題だった。それがうまくいかない原因はフィジカル面にあると思われがちだけれど、私はそうは思わない。身体なんてものは鍛えればあとからいくらでもどうにかなる。  要はイメージ力なのだ。ダンスの構成を理解し、寸分違わず頭の中に思い描けないのなら、どだい踊れるわけがないのだ。設計図もなしに家は建ちはしない。  しんと静まり返った体育館に唐突に拍手の音が響きわたる。脳内で流れていたメロディがぷつりと途切れ、今までしなやかだった筋肉にすこしだけ緊張が走る。まだ最後まで踊りきっていないというのに、気が早いものだと思った。 「拍手はいいから」  踊り始めのときは三角座りをしていたのに、彼女はいつの間にか立ち上がっていた。格好良かったと、スタンディングオベーションだ。いくらか気分がいいけれど、内心は嬉しさと腹立たしさがないまぜになって、形容しがたかった。 「そうじゃなくて、ステップは理解できた?」  そう聞いているのはこっちだというのに、少し興奮した様子で普段よりすこし大きな声でどんなことを考えながら踊っているのかと逆に質問をされる。コミュニケーション能力に多少難があった。まるで昔の自分を見ているようでまた少しだけ苛ついた。  どんなことを考えているかだって?  一瞬、いじわるな白雪姫に馬乗りになった小さな背中が脳裏にまたたいた。  彼女はきっと忘れてしまったのだろう。私は片時だって忘れたことなんてなかったというのに。私はいつだって挫けそうなときにイメージの中で貴方の伴奏で踊っていたというのに。  ほんの少しだけ目を細めたあと、きっぱりと言い放った。 「自分のことだけよ」  何も言わないのはただの隠しごとだけれど、言葉にしてしまったらそれはたちまち嘘になる。  ちくりと胸のどこかが痛んだ。 ◆ 「前にな、みうとあかねが服出したことあったやん。組み合わせにも驚いたけど、珍しくみうがRAINしてきてそん時はたまげたなぁ」  そういえば河野は初期の頃、アイドルになる前は服飾の道を志していたと聞いていた。相談を持ちかけるのにこれほど適した卒業メンバーはいなかっただろう。  漫画家の立川絢香や日舞家元の嫡子神木みかみのようにもともと歩んでいた道に戻る者もいれば、サッカー好きだった東條悠希やデザイナー志望だった河野都のように卒業後もアイドルとはまた違った芸能を続けるタイプもいた。  自分という白紙に何をどういう割合で描き込むかは自分次第だ。前はその考え方が理解できなかったから反発もしたものだった。  失望という落差は好意という高さがあって初めて大きくなる。何人もがグループを離れていったあのとき、私は自分でも気づかないくらいに彼女たちのことを信頼して、自分で思っていた以上に好いていたらしかった。だからあそこまで腹を立て、裏切者と罵ったのだ。  からからと、ストローでカップの中身をかき混ぜる。氷が溶けて、コーヒーが薄まっていく。 「なんかな、ウチが選ばんかったことをみうが選んでくれたみたいで嬉しいねん」 「滝川さんはそんな気はないと思うけれど」  おそらく、やりたいと思ったからやるのだ。過去のことはきっかけに過ぎない。 「それでもや。なんとなーく、繋がっとるんやなってウチが思えれば」 「貴方、ほんといい性格してるわ」  ポジティブが過ぎる。そこだけはある意味数少ない見習いたいポイントだった。 「せやろせやろ。河野都は性格美人で売っとんねん。ま、顔もええけどな……って、もうこんな時間やん!喋ってたらあっという間やなぁ」  河野の視線に倣って振り向くと、店内の壁の高い位置にに掛けられた時計が目に留まった。日照時間の長い夏の間は、屋外の雰囲気だけでは体感時刻が計りづらい。気づけばいつの間にか集合時間がすぐそこまで迫っていた。現在地からは徒歩でもそこまで時間はかからないにしろ、ぎりぎりに駆け込むというのも格好がつかない。  河野は残っていたコーヒーを一気に啜り、ほんの少し残った氷を口に搔き込んでぼりぼりと咀嚼してからカップをゴミ箱に放り込んだ。  私は事務所までの道中のお供にしようと手に持つ。コーヒーは水分補給には適さないとはいえ、喉の渇きくらいは潤せるだろう。 「ほんならまたな、ニコル」 「えぇ、また。なんだかんだ楽しかったわ」  空調のきいた店内から外に出た瞬間、忘れかけていた陽射しと暑さが肌を灼く。けれどそれは地下鉄の駅を出た時よりはいくらか和らいでいて、今しがた背後で閉まった自動ドアの向こうに戻りたいという気持ちは起こらなかった。 「ええてええて。友達やろ」 「貴方と友達になった覚えはないのだけれど」  楽しかった、という社交辞令を拡大解釈してさも自分の手柄のように振る舞う河野に対し、私は憎まれ口を叩いた。空き時間の有効活用としては確かに有意義ではあったけれど、一方的にそんな態度をとられるのはなんだか癪だ。 「なんや、ツレへんなぁ。せやったら……戦友?」  なるほど、それは言い得て妙だった。思いのほかしっくりとくる。  手を振ってお互いに逆方向へと歩き出しながら、ストローに口をつける。心地よい苦みを舌に感じて、河野の言葉を脳内で数回繰り返した。  そうあれかしと思ったことなどなくとも、それは過ごした時間の中でいつの間にか繋がれていたらしい。  気障ったらしい別の言い方をするならば、それはきっと絆とでも呼ぶのだろう。 ◆  まだ薄暗いうちから叩き起こされて、全員が貸し切りバスに乗り込んだ。降雪の繰り返しで痛んだ路面に身体を揺さぶられてもなお眠ることへの執着を捨てきれなかった私たちは、ほうぼうの体で目的地に着いたバスからゾンビのように這い出ていく。  暖房のきいた車内から外に出た瞬間、凍るような激しい海風が肌を突き刺し、一瞬のうちに身体にまとわりついていた眠気を吹き飛ばしていった。  寒い眠いと不満を垂れながら数歩先を歩くメンバーたちはけれど、どこかわくわくと期待に胸を躍らせているようにも見える。  そして岬のビュースポットへとたどり着く。眼下には断崖がそびえ立ち、東の空は黒と青とオレンジがグラデーションをつくりあげ、それを視界にみとめた連中が駆け出していった。 「見れるかなぁ、空のエメラルド」 「レア現象らしいからどうだろうね」  そんな会話が風切り音に混じって耳に届く。藤間桜は後輩たちに混じって柵に体重を預けていた。滝川みうはその様子をすこし離れた位置で見守っていた。私はそれらを眺めながら、歩くスピードを緩める。 「混ざらなくていいの」  声をかけられて振り向いた彼女の手には、一台のフィルムカメラが握られていた。もはやお約束となった、彼女のスナップ写真撮影だ。 「私は、あんまり騒ぐような性格じゃないから」  困り笑いのようなものを浮かべながら、彼女はちらりと件の連中へと視線を遣った。  海と空の境界線がオレンジに染まる。もう数分もしないうちに太陽が昇るのだろう。気の早い陽光が眼前の景色を照らし、次第に逆光で彼女の顔が見えなくなっていく。 「どうして泣いているの」  彼女の言葉で、はじめて私は涙を流していたことに気がついた。 「風で」  目にごみが入ったと誤魔化そうとして、そんなものもう既に意味のないことと気づいて思い直す。嘘を重ねる必要なんてない。だってこれを逃したらきっと今後ずっと、私は嘘つきのままだ。頬を手で触ると、水滴が指先についた。 「……なんだか、急に実感したから」  滝川みうがもうすぐここからいなくなってしまうことを。  やはり悲しかったのだ。彼女の決断を聞かされてからずっと胸中にわだかまっていたものの正体から目を逸らし続けてきたけれど、理性で押さえつけた本音がついに悲鳴をあげる。  だって滝川みうなのだ。儚げで、一瞬目を逸らしたらもう次の瞬間にはかげろうのごとく消えてしまいそうな存在だから。  本当はそんなのダメだって言いたかった。  私はついぞ彼女を連れていけなかった。彼女を最高の舞台へと連れて行きたかった。一緒にそこへ立ちたかった。人生最高の瞬間を分かち合いたかった。けれどそこまで考えて、別の私が違うと叫び声をあげる。  そんなもの自分勝手で一方的な独りよがりだ。連れて行ってどうするつもりなのか。私の人生を変えた人はすごいだろうと、見せびらかしたかったのか。傲慢が過ぎる。そんな理由で彼女を縛り付けてしまってはいけないなんてことは火を見るより明らかだった。  彼女がグループに入った理由はなんだったか思い出せ。生活のためだ。生きるためだ。彼女の日常を、世界を守るためだ。きっと最初の最初から、私たちの目指す場所は違っていた。  けれど、彼女なりに両腕を伸ばして作り上げた私たちという日常を壊してまで、手放してまで卒業を選んだことが、おそらく私は悲しかったのだろう。だって彼女と私には何も繋がりなどないのだから、離れてしまったが最後、きっとそれきりになってしまう。 「悲しんでくれて、うれしい」  流れてしまったものはしょうがないと、上着の袖で両頬の筋を拭う。 「なによ、それ」  彼女の言葉にそう返すと、柔らかく笑いながら彼女はカメラを構えて、許可もなしにシャッターを切った。勝手に撮らないでと言うと、「どこにも出さないから。ていうか、これからは出すところなんてないし」と眉を下げる。タレントの顔をSNSにも出さずに私的利用ということだろうか。 「理由なんてないよ。友達だから」 「貴方と友達になった覚えはないのだけれど」という言葉が口を衝いて出そうになったところで、ようやく私は自覚した。  きっと私は、ずっと彼女と友達になりたかったのだと気がついた。なんて迂遠な遠回り。なんて余計な回り道。10年以上も前の言えなかった言葉は、一緒に過ごした時間の中でいつの間にか言葉になんてせずとも叶っていたらしい。背中を追い続けていた気になっておいて、背中を向けていたのは誰でもない私自身だった。  崖際の人だかりが歓声をあげる。そろそろ水平線の向こうから太陽が顔を出す頃合いのようだ。 「あのね」  実は私、小学生のときに貴方に会ったことがあるの。  最初は気が付かなかったけど、途中から思い出したよ。  そんな子どもの頃に戻ったような会話をしながら並んで見た眩しい光には結局、緑色なんて含まれていなくて徒労に終わったけれど、昔のことよりも、これからのことよりも、今この瞬間が一番大好きだって、そう素直に思えた。 ◆  最後のペアでのFCラジオを録り終えて、息をついてブース外の椅子に腰を下ろした。ブースの中では次のペアが放送作家と台本を指さしながら打ち合わせをしている。 「お疲れ様、ニコルちゃん」 「それはこっちの台詞よ。今までお疲れ様」  ウォーターサーバーから汲んでくれた水の入ったカップを受け取りながら、お互いに労いの言葉をかけあった。  正真正銘最後の録音だったのだからもう仕事は済んだはずなのだけれど、滝川みうは名残を惜しんでいるのか隣に腰を下ろして何度も通って見慣れたはずの室内やガラスの向こうの後輩たちを眺めていた。  まだ数日後には卒コンが控えているし、先撮りのバラエティ番組や各所でのインタビューでさんざん彼女の卒業について語ってきたから、むしろ逆に実感が湧いてこなくて感情の持っていき方がわからず、今までの中でも一番難しいラジオ収録だったように思う。これではプロ失格だ。気合を入れ直さなければ。 「そういえば、来る途中に偶然河野都に会ったわ」  プライベートということもあり、ラジオ内では話題には出さなかった事柄を告げると、滝川みうは目をまん丸くして驚いていた。なかなかに珍しくて面白い表情で、こんな表情に遭遇したら思わずカメラを構えてしまう気持ちが分かった気がする。 「招待してるんでしょう。みんなにも」 「何人か予定が被ってる人もいるけど、調整してみるって言ってくれたよ」  それが叶えば後輩も含めて初めて全員が揃うことになる。直前も直前ではあるものの、そうであればいいと願うばかりだ。  客席から彼女のパフォーマンスを観られるのが少し羨ましいと思ったこともあった。けれど、それを実現するにはここを離れるしかない。そんなこと、今はできるわけがないのだ。  あの頃私の両目に彼女を焼き付けたように、今度は彼女の視界にステージ上の私の姿を映す番だろう。なら、私は立ち続けなければ。 「あっ、忘れるところだった」  ふと、彼女は何かを思い出したように声をあげ、荷物の中身をまさぐった。はたして取り出されたのは無地で、簡素な白い封筒。隅に米粒のような小さな字で私の名前が記されている。 「フィルムを現像してきたから」  差し出されたものを一瞬躊躇いながら受け取る。それなりの厚みがあり、開封せずともけっこうな枚数が中に仕舞われているのがわかった。 「私的利用でいいのに」  彼女の性格上、現像を依頼しに店舗へ出向くのも相当に勇気がいる行為だったろうに。 「でも、いい顔してたから、見てほしくて」  開けてみると、収録やロケの合間に撮られたスナップ写真が何枚も姿を現して、けれどその大半はオフモードの私らしく愛想の欠片もない澄まし顔ばかりだった。改めて自分で見ると、たいして面白くもない。 「……ひっどい顔」  何枚も重なっていたそのうちの一枚を外気に触れさせて出た感想がそれだった。頬が心なしか熱くなる。  朝陽のオレンジに照らされながら光沢のある四角に焼き付けられたあのとき、どうやら私はまるで子供のような泣き笑いを浮かべていたらしい。 「そうかなぁ」  言ってくすくすと笑う彼女の姿を睨みながら、今を両の目に焼き付けた。 了