「はぁ……」  仕事帰りに溜息をつき、疲れ切った足取りで夜の街路を歩く一人の女性。  名は胎苗ミチル(たいなえ みちる)。  都内で暮らす三十路独身OLだ。  ミチルは鬱屈していた――。  つい先日、家族のように愛情を注いで飼っていたモルモットの「ゲンキ」が老衰で亡くなったのだ。  災害で家族を失い、天涯孤独のミチルにとって唯一の家族と言える存在だった。 「うっ、うう……」  また涙が止まらなくなる。  立ち止まり、ハンカチを目に当て啜り泣く。  ゲンキが逝ってからというもの、よくこんな状態になる。  ケージがあった場所を見つめた時、処分し損ねた飼育グッズが出てきた時、独身には大きな部屋を契約した理由を思い出した時、自分が居ない間にもエアコンを点けていた理由を思い出した時。  生活の中で不意にゲンキの事を思い出し、喪失感で涙が溢れる。 「どうして私を置いて逝っちゃうの……」    ゲンキの葬儀が終わり、骨壺になっても、飼育していた頃のクセはすぐには抜けない。  「もうしなくてよくなった事」はそのまま心の穴となってミチルを苛んだ。 (新しいペット飼わなきゃおかしくなっちゃうよぉ……)    老いたゲンキが死ぬ事自体は前からわかっていた。  逝ったら、もうペットは飼わないと決めていた。  だけど、ペットロスがここまで苦しいものだとは思わなかった。  死に別れの悲しみ以上に、自分の生活にぽっかり空いた穴が苦しい。   「あいたっ!」  泣きながら歩いていたら、電柱にぶつかってしまった。 「いたた……ん?逃げたペットを探してください?」  電柱に迷子ペットの張り紙がしてあった。  逃げ出したペットの「ペロちゃん」を探して欲しいと書かれている。  だけれど、そこに載せられた写真は犬や猫のような、慣れ親しんだ可愛らしいものではなかった。  青紫色の体色でお腹は白く、アザラシを短く縮めたような体型をした見たこともない生物が写っていた。 「なにこれ……ハラマスベロチュウショクシュ?」  種類の欄にはそう書いてある。 「どういう生き物?」  聞いたことがない。  多分、外国の生き物だろう。  目は見当たらないが、口角の上がった分厚い唇はどこか微笑んでいるように見えて可愛らしい。  頭部にはオレンジ色の、角とも耳ともつかない部分が1対、額には小さなひし形の模様がある。  先端がとぐろ状になった触手のような2本の尻尾を持っている。  どことなくウミウシに似ているが、どんな生態なのだろう。  ミチルはネットで調べようとスマホを手に取った。  ガサッ――。  その時、近くの草むらから音がして振り返ると、写真の生物が倒れ込むようにそこに居た。    「いっ……いたー!?」  慌てて近寄り、もっとよく姿を確認する。  間違いなく張り紙の子だ。   「キュウ……」  元気のない声。  近づいても逃げずにじっとしていて、明らかに弱っている。 「ええっと、連絡。連絡しなきゃ!」  40cmほどの小さな身体を抱き抱え、張り紙に書いてあった連絡先に電話をかける。 『はい、触苗(ふれなえ)です』 「あっ、あの……私、胎苗ミチルと言います。迷子の子……ペロちゃんを見つけました!いま抱きかかえてます!」 『本当ですか!?ありがとうございます!』    飼い主らしき女性は心底安堵したといった口調で、ミチルに感謝を述べた。 『これからすぐ引き取りに……んぎぃっ!?』 「ど、どうされました!?」  突然、相手が苦しみだした。 『なんっ、で……予定より……はやいぃ……ッ!』 「だ、大丈夫ですか!?」  なんだかビチャビチャとした水音が聞こえる。  トイレにでもいるのだろうか? 『ごめっ……なさい……!今日と明日は無理っ……なので、土曜日まで預かってもらえま……せんかぁ……おほぉっ!?』 「あ……あのっ、どうやってお世話すれば……!?」  相手の女性は随分具合が悪そうだが、命を預かる以上これだけは聞いておかなければ……。 『あ、暖かくして……人肌に温めたホットミルクを……ほぉっ!』 「保温と人肌のホットミルクですね。わかりました」 『あとは……ネットで調べれば情報が出て来るはず……なので……出るぅ、出ちゃうう……!』 「す、すいませんっ!お時間取らせました……お、お大事に!」 『んほぉっっっっっっ!』  通話を切る瞬間、絶叫とともにブチュルルルル!という凄まじい水音が聞こえてきたが、お腹を下す日なんて誰にでもあることだとミチルは気にしないことにした。    それより、今は自分の腕の中にいる命のことだ。  土曜日まであと2日、2日預かるくらいならいいだろう。  何より、自分に抱きついたまま離れようとしないペロに、心の穴が埋まっていくような感覚があった。    ―――― 「はい、ホットミルク出来たよ〜」  帰宅し、毛布にくるんだペロに人肌の牛乳を与えると、口元に添えられたマグカップから中身をちゅるちゅると舌で舐め取り、飲み始めた。 『皆さん、こんにちは〜♪触手専門店nursery(ナーサリー)店長の子宮孕巳(こみやはらみ)でーす♪』  その片手間、ミチルはスマホで触手の飼育方法についての動画を見始める。  いかにもインフルエンサー然とした、動画映えするメイクと身体のラインが浮かび上がるピッタリとした服に身を包んだ女性が、朗らかな笑顔を浮かべて触手の魅力を語っている。   『触手は最近、独身女性を中心に人気が爆発しているペットで……』 「マジで?こんなのが?」  大人しくて鳴き声はかわいいが、見た目は犬猫や小動物の方がずっとかわいいだろう。   「キュイ……?」  けど、そんなどこか嫌悪感のある見た目が逆に興味をそそるのかもしれない。  キモかわいいとでも言えばいいだろうか。 『皆さんが触手と聞くと、イソギンチャクのような形でヌルヌルネトネトした姿をイメージされる方が多いと思うんですけど、触手の中には普段全然ヌルヌルしてない種類がいるんです。代表的なのが……この子です』 「あっ、この子だ」  動画の中で抱きかかえられたペロと同じ種類の触手が机の上に置かれる。 『この子は西アメリアにあるハラマス島の奥地で10年ほど前に発見された種で、陸棲触手の中でも乾燥系と呼ばれる種類になります。犬や猫のように人間と同じ空間で飼うことが出来て、感情表現が豊かで女性によく懐きます。ペットらしさと触手らしさをいいとこ取りしたような種類で、従来の触手のイメージを覆した今のブームの立役者なんです♪』 「へぇー、キミってそんなにすごい子だったんだ」 『繁殖が簡単で突然変異も生まれやすく、今ではブリーダーの手によって形や色の違う様々な品種が生み出されています』  画面に映し出されたバリエーションには柄名の後にそれぞれヘテロなんちゃらと、よくわからない名前が沢山付いている。 『ちなみにお値段ですが、ノーマルでも平均40万ほどで売られています』 「40万!?」  自分の給料2ヶ月分じゃないか。  ミチルはそんな高額のペットを預かっていることに若干恐怖を覚えた。 『では、ここからは触手の飼育方法について解説したいと思います』 「キュイ……」 「あ、全部飲んだ」  だが、まだ元気がなさそうだ。  ミチルは検索をかけ、触手が弱った時の対処法を探す。  すると先ほどと同じブリーダーの動画が出てきた。  触手を初めてお迎えした時にやるべき3つの事、と銘打たれている。 『初めて触手ちゃんをお迎えした時にまずやるべきことは、水分補給です。人肌に温めた牛乳や35度くらいのお湯を張った湯船で温浴させてください。身体を暖めると同時に水分補給も出来ます』 「お風呂に入れればいいんだ」  ペロを抱き抱えたまま立ち上がる。    『それでも元気がない時は特効薬があります』 「え、なになに?」 『それは女性の唾液です』 「……へ?」 『女性の唾液に含まれる成分が触手ちゃんをとっても元気にするんです♪』