くるん、と視界が反転したままの勢いで、少年は床に蹴倒される。 頭が大理石に衝突する前に、あらかじめ敷かれた霞網が彼を受け止めたが、 ひっくり返った状態で目を白黒させて手足をばたつかせるその様は、さながら虫のよう。 ぴったりと重なった二人分の笑い声は、きんきんと甲高くその上を周回していて、 してやられた、と己の失態を自覚した彼の四肢が止まるや否や、身体を引き起こされる。 まだけたけた笑う一方は、自分の仕掛けた侵入者用の網の目の細かさを自画自賛し、 もう一方は、その廊下を通るであろう件の騎士にとって最も見えにくい角度と位置を、 緑色の羽をはためかせ一人呟きながら、ためつすがめつ検討していた。 桜色の羽を持つ妹の方は――己の手にした燭台から薫る香煙を網に焚きしめ燻らせて、 視覚と嗅覚を眩ませた上で、獲物を恐るべき罠に仕掛ける算段でいる。 ――結果がどうなったかは、二人して網に叩き込まれてもがく姿を述べれば十分だろう。 彼女らを引き起こしたのは、あの時とは逆――執事見習いの少年であった。 この城の権力構造において、この三人は最下層に位置する――その中でも、 執事見習いの彼は、殊に立場が弱い。一人だけ人間である、ということもあろう。 目の前の二人を末妹とした四人姉妹の使用人たちとその女主人、五人の悪魔の住まう城、 そこにたった一人の男ともなれば、どうして彼の意向が通ろうか? 罠を仕掛けた彼女たちが、まんまとその罠に叩き込まれる姿を予想するのは容易かったが、 かといってそれを具申したところで、一笑に付されるのがおちだったことだろう。 また、くるりと視界が回る。垂直にではなく水平に。壁の中へと溶け込むように。 電灯の光もない、埃臭い廊下脇の倉庫。その中に急に、少年は引き込まれたのだ。 扉は巧みに隠されて、指でなぞっても敷居の在り処は悟れぬほどだ。当然、彼も知らない。 暗がりの中、目の慣れるより前に――少年は、頬にひんやりした冷たさを感じた。 それと裏腹の、とく、とく、とく、と高鳴りつつ響く心音をも。 そして彼がそちらに視線を向けるより先に、弾力ある何かが唇を覆う。 またか、という眼で少年は目の前の影を見た。瞳を撫でるのは肌の仄明かり、 隙間から微かに漏れる光に照らされた、冷ややかな白磁の煌めきである。 影は己が何者かを彼に問うように指を絡め、肌を擦り付け、耳たぶを食む。 ご丁寧にその服はしっかりと脱ぎ去られていて、裾の長さで判別することはできない。 限られた明かりの中では、彩度を失った羽は緑か桃かもわからない――のに、 少年が彼女の耳元でぽつりと一言呟くと、白い肌は驚きと喜びとに赤く染まり、 弱々しく、正解、と答えるだけに留まって動きもそこで止んでしまうのであった。 そして彼が羽の付け根を――指でかりかりと掻き、尻尾の付け根を圧すと、 石化していた悪戯者は、どん、と強く突き飛ばすように彼を押し退ける。 するとまた視界がくるり、彼の目の前には見慣れた白亜の城がある。 隠し扉は一向に開く気配もない。向こう側から鍵を掛けられているかのように。 少年の視界が奪われるのは――何も壁際、秘密の部屋の近くだけでなくて、 灯を揺らめかせる蝋燭の、唐突に昇る煤煙の中においてもだ。 やはり誰かが、肢体の――隠しきれない女としての柔らかさだけを見せながら、 しかし何者かを隠して、彼に迫ってくる。“どちら”であるか、見抜いてほしくて。 少年がわざとその名を――決して取り違えて欲しくない片割れの方だと言ったなら、 嫉妬深い乙女たちは、彼の首筋に小さな唇の跡を付ける。互いに競い合いながら。 その誰何は、彼女らが手塩にかけた罠が無残に失敗したときに、 あるいは仕事の上で、長姉次姉に叱られたときにより激しくなる。 暴風のように侵入者が通り抜けた後、瓦礫の山と化した家具の片付けに人手が要るのに、 決まって一人二人と、そこから姿が消える――その行為はさらなるお小言を呼ぶ。 しかしそれは少なくとも末妹二人にとって、唯一姉達に勝ち誇れることであった。 いつも偉そうにしている――ように見える――姉たちと、主人との預かり知らぬところで、 自分たちは陰の、煙の中でこのたった一人の人間の唇をいいように弄んでいるのだから。 その日も同じだった。だが、少年の口から一つの名がこぼれ落ちた。 姉の名。主の名。うわ言のようにぽつりと、熱に浮かされたように柔らかに。 その響きは、恋人に向ける言葉そのものの甘さを持っていて。 幼き悪魔たちは、狂おしく胸を焼かれた。耳の奥に溶岩を流し込まれたようであった。 ただ自分と、双子の姉妹の名だけを象っていた彼の囁きが――別の女の名となった。 子供同士の、親愛と性愛との区別のないじゃれ合いとは違う、雌臭い、女の名。 自分たちだけが、彼のことを好きにできると思っていたのに――それどころか、 既に姉や主人の手つきであったとは。無垢な彼をからかっていたつもりが、 大したことのできない子供だと思われていたのであろうか? 陰の中に引きずり込まれ、蝋燭の灯に照らされて。彼の前に現れたのは、二人分の裸体、 それまでは闇と煙の中にしか見えなかったものが、もう、すぐそこにある。 そして三つ目の裸体が、抵抗らしい抵抗もできぬままに拵えられていく。 二つの唇は、彼の肌の上に点々と赤い跡を付けていった――身体の表と裏の別なく。 まだ割れてもいない胸板、生えているのは柔らかな産毛だけというのに、 悪魔たちはそこに指を這わせ、舌でなぞり、彼の肉体の所有権を上書きする。 彼女らもまた薄い胸を彼の二の腕や腿に押し付け、なくはない膨らみを擦り付ける。 次第に三人の息はあがる。混ざり合っていく。鼓動も、興奮も、何もかも。 頭の中がぼうっとして――片割れの顔もやがてぼんやり霞み、ただ彼の顔だけが見える。 自分が誰のものなのか、彼にわからせてやるつもりでいたのに――今では、 少女らは上気した赤い肌を少年の前に無防備にさらけ出しているばかりで、 反撃に転じた彼の指が滑らかに皮膚の上を躍るたびに、面白いようにびくびく震えた。 頬を撫でられる。口の中で舌がひくひく動いて、彼の唇を求めるように悶える。 鎖骨を撫でられる。かくん、と段差を跨いだ途端、“次”を予期して腰が動いた。 だが次に撫でられたのは、乳房の付け根にあたる緩やかな坂のその境目と、 そこからほんの少し登って――突端には程遠い中腹の箇所だけだ。 そして期待にひくつく乳頭を無視して、指先は鎖骨の凹凸を確かめるように脇に抜け、 横をぐるりと回って、臍の上から正中線をなぞり――臍を中心に、くるり、くるり。 身体の中心の、弱い箇所を彼の指がくすぐっている――さらに下に降りていき、 触られているだけでぽうっと身体の内側の熱くなる場所を、指の腹が確かめていた。 それは互いに性的に成長しきった雌雄においては、己の子を孕めという意思表示、 お前を俺のものにする、という言葉ならぬ宣言に等しいものだ。 だが彼は、いくらか女の味を知ったとはいっても、まだ子供なのである。 彼がどれだけ自覚的に、少女らの未使用の“女”を刺激しているかは怪しかった。 それでも、今ここで自分たちは抱かれるのだ――との覚悟をさせるには十分すぎる。 蝋燭の灯を、誰かが吹き消した。二人分の小さな悲鳴が上がり――二つともが、止まる。 一人は唇で。一人は挿入された彼の性器によって。少女らは与えられた刺激によって、 彼以外の世界を認識できなくなるほどに、感情を昂らせ、溺れ、流されていった。 相手は一人しかいない。物理的に、どちらかが“先”であったはずだ。 だが二人ともが、自分が先に彼に抱かれ――唇を交わしたように感じていた。 夢幻の中に、確かに双子の姉妹は同時に彼に身体を捧げて居たのである。 その違和感の解消のために、二人で記憶のすり合わせを試みたものの――途中で、 彼の思いがけず男性的な肢体を思い出すと、思考はぐにゃぐにゃと蕩けてしまう。 当然、彼に問いただしたところで明確な答えが返ってくることはなかった。 壁の裏で、執事の声がする。仕事の途中で姿を消した部下を呼ぶ声だ。 それへの返事を、少女らは許さない。彼の唇を競い合うように塞いで、肌と肌で挟み込む。 権力を傘に正面から身柄を奪われるぐらいなら、隙を見てさらってしまえばいい。 その結論に至ってから、二人は共謀して執事見習いの彼を物陰に引っ張り込むのだった。 もっとも、これは時間との勝負でもある。妹二人と部下がまとめて姿を隠していれば、 おおよそ何をしているかの検討は付いてしまうものである。 邪魔をされる前に、彼の身体中に自分たちの証を付けておきたい――同時に、 自分の身体の“中”にも、彼から受け取ったものを残しておきたい。 そして生憎なことに、ちょうど一人目が腹部の熱を心地よく味わっている最中に、 目敏い次姉は、妹たちの隠れ家の場所を探り当ててくるのである。 ならば当然、次に起こるのは、双子同士での出し抜き合いだ。 より頻度を増し、より素早く、誰かに見つかるより先に。 妹たちの匂いを身体中に纏わせた彼が、乱れたままの服で城を歩くのが見つかれば、 当然、“上司”か、“雇用者”が彼と一対一で、じっくり一晩話し合いをすることになる。 そうなればまた次の日、新たなる上書きのために、少女らは策を弄するのだが―― そういう時に限って騎士姿の邪魔者が、色ぼけした悪魔どもの企みをかき回すのだった。 下腹部に、ぽうっと残る熱。ひんやりした白磁の肌とは裏腹の、生々しい温かみ。 自分たちにはないもの。男だけが持ち、女に授けるべくして授けられるもの。 その存在を感じるたびに、少女らは胸の内に火の灯ったような感じを覚える。 そして片割れの胎に、その熱のないことを願った。己だけの悦びであることを望んだ。 二人で一人、ではなく、一人の女として、彼に見てもらえたかのように思えたからだ。 その暗い悦びは――熱が冷め、白いただの汚れとして排出される頃には、 双子の妹を、あるいは姉を裏切ったという後ろめたさへとそのまま置き換わる。 先を越されて、息の荒い二人を見たときの、心を掻きむしられるような苦しさは、 敵わないと初めから諦められる姉や主たち相手の時よりもずっと深く、重たい。 それを、相方もまた同じように感じている――感じさせている。 結局時間もそう掛からずに、彼女らの“悪戯”は二人一組のものへと戻った。 と、いうよりはお互いを出し抜く行為の意味そのものが薄れてしまったためであった。 少女らは、また彼の裸体に己の裸体を擦り付けて匂いの上書きをするものの、 擦り付ける部位は、舌や乳房よりも、下腹部であることがずっと増えた。 彼に触らせる箇所も、やはり臍下の、ほんのりと膨らみの起こり始めた部分である。 少年が少しでも、彼女ら以外の――たとえば途中で妨害された仕事だとか――ものに、 意識を向けようものなら、二人は息を合わせて彼の右耳と左耳に、 この腹部の責任を取れ――そんな風に囁くのであった。 彼が自分たちだけのものにならないのは、姉や主たちの胎を見ればわかること。 それでも、仲間外れにされなかった、女として、生命をつなぐ役目を果たせている―― そんなことが、彼女らにとってはとても大切な自己を定義するための材料なのである。 主によって作られ、使われ、やがてはまた土に還っていくはずの自分たちが―― こうして、その運命の輪から離れた在り方のできることがどれだけ幸福であることか。 自分の囲っている男が被造物――執事、庭師、女中――そんな“他の女”に手を出しても、 白銀の乙女は、彼を咎めようとはしない。彼もまた、それを悪びれもしない。 彼女らに女としての生き様を与えてくれるよう、閨で頼んだのは主自身であったのだから。