荒い息。乱れた衣服、飛び跳ねた髪。時に、それらすべて。 彼の所作は、彼女の目からすれば永遠に及第点を得ることのできぬものであった。 若いから――そんなものは言い訳にならない。唯一の男だから――それが何か? そして彼女は、機械のように正確に、一滴もこぼすことなく茶碗に湯を注ぎ入れ、 一分一秒の狂いもなく抽出した最上の味を、主に届けるのである――なぜこれができない? 少年は見事に茶器をひっくり返す。完璧に焼き上げられた菓子を台無しにする。 それだけならいいが、主は横っ面に跳ねた滴に大騒ぎして、机ごと倒してしまうのだ。 けれども粗忽な執事見習いが、そのことで主より叱られたことはない。 悪意がないから、で誤魔化すには目に余るだけの回数をやらかしても。 そして翌朝には、必ずと言っていいほど、少年の髪も息も、乱れているのである。 苦言を呈したことはあった。もっと厳しい教育をしていいかと許可を求めたことも。 それらの“執事としてあるべき”姿のための言葉は、しかし黙殺される。 執事としてこの広い城の雑務を完璧にこなしてみせる彼女が彼のような失態を犯せば、 たちまちに家事は回らず――誇り高き女主人の名を汚すことにもなろう。 嵐の吹き込んだようにずたずたにされた絨毯の切れ端を、女中たちが拾い集めている。 大きな刀傷の付いた暖炉と置き時計は顔をしかめながら慰め合っていて、 不発に終わった吊り天井は床に食い込み、落とし穴の蓋はひらひら間抜けに揺れている。 主と客との日課のじゃれ合いは、また我らの敗北に終わったようだ――趨勢が決まると、 執事は明日からの日々のために、さっさと損壊箇所を特定し、補修の手続きを始める。 そんな一番忙しい時間に、また新たな破損箇所を増やされては困るのである。 確か窓の破片を掃き集めるための掃除具を持ってくるようにと命じたはずなのに、 どうしてあの少年は折れた箒を抱えてべそをかいているのだろう? 小さな身体の上へ、ずい、と彼女の背高な影がかかる。 曇り一つない片眼鏡の中の蒼い瞳は、努めて無感情に部下を見つめたつもりであったが、 それが却って、冷徹な――自分を見捨てるかのような――視線に映ったらしい。 少年の表情は、仕事のできない焦りから怒られるやもとの不安に塗り替わり、 涙が今にもあふれ出そうな有様。何と愚かしいことか――執事は内心にため息を付いた。 けれど彼女の表情はぴくりとも動かない。怒りの感情さえ僅かにも感じない。 陶器のように滑らかな肌には、ただ生まれつきの白い色だけがそこにあって、 生まれてこの方、生理的現象で染めたことのないのが、密かな自慢でもあったのだ。 身長差のせいで、彼女の顔は少年からは見えない――いや、向いたところで、 前に大きくせり出した障害物のせいで、陰になってしまっている。 その質量を仕事の邪魔と感じたことはないものの、こうして相手の顔が直接見えず、 ただ鼻をすする音しか聞こえないのは、実に面倒な話である。 膝立ちになって、泣き止むように言うと――その声色がまた冷たく響いたか、 少年の表情はさらに険しくなった。決壊寸前の情けない顔を見ると、 つい、どうすれば泣き止むのですか、との声を掛けてもしまう。 すると少年は――涙と鼻水でぐっしょり濡れた顔を、彼女の胸にぐっ、と押し付けた。 執事服が彼の体液で濡れるのを感じながら、ぐすぐすと疼く鼻の動きを肌で受け取る。 女の鼓動は、いかなる時も一定の間隔で動いていた――乱れた時は一度もなく、 また至近に、こうして生々しい、他者の生命の在るのを感じたこともなかった。 己の脈動に、これまで知らなかった、乱れきった雑音が重なってくる―― するとどうだろうか。その不協和音の生じるたびに、彼女の心拍は、 生まれて初めての、経験したことのない周期でもって打ち始めるのであった。 それにつられて、何かじんわりと温かなものが身体の中心から広がっていく。 二人して仕事を放棄して、廊下の真ん中でじっと立っているわけにはいかない――のに、 女は少年を引き剥がそうという考えを、ついぞ忘れてしまっていたのである。 彼の鼻の動きが弱くなり、胸に押し付けられる頭の揺れもそれに小さくなるのに比して、 彼女の鼓動はむしろ不規則になり、息も少しずつ荒くなり始めてくる。 すっかり泣き止んだ少年は、やはり無言のまま服越しの乳房に顔を埋めていた。 彼の動揺を感染されたように――乱された調和は本来の静かな水面を取り戻せず、 彼女の頬には、ほんのりと理解し難き赤が浮いた。汗が一筋、頬の半ばに差し掛かる。 何かを言わねばならぬと思った。が、どう言えばいいか、がわからなかった。 今や彼女の肉体の主はこの小さな少年の方であって、これまで管理してきた己は、 彼のために、そうして生まれてきたかのようにも思えるのである。 がしゃん、とどこかの棚の残骸が硬い音を立てて崩れ落ちたのを幸いに、 女は少年の身体を、ぐっ、と離した――そして、先ほどの泣き顔とは違う、 落ち着きのある、あどけない、殺人的なまでに無垢な顔を見てしまったのである。 急に胸の温もりを奪われたその顔は、なぜそうされるかもわかっていないかのようで、 彼の鼓動から解放されたはずの胸の鼓動は、より一層激しく乱れ始めた。 彼女にはもう、己の頬に溜まった熱の正体を誰何している余裕はない。 そう、服の汚れたままではあちこちに汚れを振り撒いてしまうだけだろう。 そう、だから早く服を着替えて身体を清めてから、仕事に戻ろう。 そう、一人でばらばらに動くよりは、二人して済ませた方が合理的だ―― 歯車の狂い始めた頭は、少年を伴って脱衣所に行くことの道理を見失わせた。 そして彼がてきぱきと自身の執事服を脱ぎ終えて洗濯籠に放り込み、 上司が脱ぎ終えるのを待っていることに気付いたとき――急に、 異性の前で自ら服を脱ぐ、ということの恥ずかしさを自覚したのである。 少年の目は、なぜそうしないのか、という疑問の彩しか纏ってはおらず、 彼女が感じているような、脱ぐ、という行為への羞恥心は一切なかった。 自分が脱いだ以上、相手も脱ぐもの――それが異性であれ――という常識が彼にはあって、 それに従っていない彼女の方が、理屈に反していると思ってもいるかのようであった。 一人の時は――あるいは妹達と湯浴みをする時には、何気なく外していた下着の留め具が、 ぷちん、と指の中で外れる感触がするだけで、彼女の平穏はまた崩れた。 執事服という固い殻の中に押し込められてなお彼の頭を抱き込めるほどにあった胸は、 一切の制約から解き放たれた今、重たげにぶるん、と重力に素直に揺れる。 そして谷間には――これまで最低限の汗しかかいてこなかったというのに、 先程の抱擁で、想像以上の――だが不愉快には思えない――汗が溜まってしまっていた。 それが乳房の解放とともに、むわりと湯気を立てるかのごとく起こるのである。 少年の瞳は、深い谷間とその境の陰をじっと見つめていた――だが不思議だったのは、 それは好奇心、というよりも、見慣れたものをそこにも見つけた、という気安さであり、 己の頭ほどもある異性の乳房など、一体どこで見慣れるというのか――ということだ。 少年は彼女の疑問を塗り替えるように、さも当然のように谷間に顔を埋め、 陥没気味の両乳首を、手慣れた風にくりくり、と悪戯気味に弄り始めた。 怒らなければならない。引き離さなければならない。なのに――彼女の肉体は、 彼のする通りに、柔らかで高い声を奏で始める。自分でも聞いたことのない声が出る。 服という彼我を隔てる壁が失われ、直肌に彼の肌、その鼓動を感じると―― 自分とは違う性である彼が、自分をそうする権利を有しているかのように思えてくる。 二人分の服の放り込まれた籠の方へと、押し倒されるように身体が重なって―― 少年はひどく落ち着いた様子で、女はひどく取り乱したような様子で、 互いの性器の、粘膜同士の境界が消え去っているのを感じていた。 純潔を失った痛み――それはあるはずなのに、それを味わうよりも、 年不相応に発達した彼の腰の動き、そしてそれを彼に覚えさせた“誰か”への嫉妬。 ぼんやりと、敬愛する主人の顔が浮かんだのは――本当に彼女への義理によってか? 己が女に生まれたのと同様に、彼は男に生まれ――そして当然のように異性を求める。 一人の男としては見ていなかったはずなのに、どうしてこんなに心地よいのか。 当然、雌雄の交わりのその果てに何があるかを、彼女はよく知っている。 ああ、自分は何をしているのだろう。少年一人にいいようにされ、身体を求められ、 拒むこともできずにそれを開いている――どこまで、自分は差し出してしまうだろう。 彼の指がようやく掘り出された乳頭と、乳房の空白とを意地悪に摘んでくると、 その本来の役割――子を生し、その腹を満たすための器官を、“きちんと”使いたくなる。 それが、彼との子であっていいのか――自分はそれを孕むことを許されているのか? 問は逆説的な子宮の疼きを呼ぶ。いけない、とわかっていればいるほど、火照る。 また主の顔が瞼の裏をちかちかした――なぜか?その理由はわからない。 彼女の知らぬ脈動が下腹部に現れたのを理解すると、また新たな温もりが全身を包んだ。 射精の余韻でうっとりとした少年の顔と――上がった息を見て、 なぜ主が彼の粗相を叱ってこなかったか、その意味が一気にわかるようであった。 だからといって、少年の手際がこの日より劇的に改善するといったことはありえない。 また当然のように彼は食器を同質量の不燃ごみに変え、主の肌に湯の雫を飛ばす。 けれど――上司としてそれをとやかく言うことはなくなった。 代わりに、しっかりと“教育”をするので姫様はご安心ください、と、 主が彼の身元を引き受けるより先に、確保しようと試みるようにもなった。 そこまでしなくてもいい、雇用主としての責任が――と主が言い出すのを、 執事長としての職務を盾に断るようになったのも、これまでの彼女にはなかったことだ。 そして結局、翌朝の少年の息、服、髪が乱れることに変わりはない。 初めてを彼に主導権を握られて――彼女は何度も、上司の威儀を正そうとはした。 だが一旦裸同士になって、彼の頭が乳房に埋まってくると――全てを彼に委ね、 思うがままに、執事としての自分の姿を壊して欲しいような想いに囚われる。 腹部に、遠慮なしの射精を受けるたびに――もし、これで――と、 あってはならないはずの妄想の己の姿が、酷く羨ましく感じられてならないのであった。 彼の指が、頬に触れ――白い肌に浮く青い皹のような痣の上を通ると、 それのない、艶々として若さのある彼の肌との差を、感じてしまう。 主のような、生まれつきの滑らかな肌との違いを考えてしまう―― 彼女の鼓動は、またいつものように正確で乱れのないものに戻る。 少年が何かやらかさない限り、至近に近づかない限り、それは乱れない。 けれど彼が主と連れ立って――息を荒くするのを見ると、途端にそれは暴れ出す。 自分の冷静さが失われていくのを感じる――そして彼女は決まって、 新たな鼓動の宿った下腹部に、そっと手を乗せるのだ。まだ膨らみの目立たぬ、そこに。 彼の肌から伝わった熱と鼓動が、そこにも残っていることがわかるからこそ、 主に対して不敬にも抱いた嫉妬の炎は、燃え上がることなく消化されるのである。 彼女の完璧なる執事としてのあり方の崩れるのを――主は喜びを込めて見つめた。 女の悦びを分かち合えたこともあろう。彼の良さを知り得たことへの祝福もあろう。 だがそれ以上に――己の手に掛けた物が、一つの命と成ったことを彼女は喜ぶのだった。