ヴェルナヒルトン 82階スイート イザベルが首だけの貴婦人:ヘルマリィと契約を結んだ夜。マスターの店で飲んだ後、彼女はヘルマリィが宿泊しているスイートに同行した。 「ベッドもバスも好きに使っていいのよ」 そう告げられたが、イザベルは最低限のシャワーで汗を流すに留めた。贅沢な調度品に囲まれ、心は落ち着かなかった。聖騎士団時代の質素な鍛錬の日々、そしてその後の賞金稼ぎとしての荒んだ日々を過ごしてきた彼女にはそれは馴染みのないものであった。また、心のどこかで、自分は楽をしてはならないという思いが爪を立てていた。だから、イザベルはソファで眠る事にした。しかし、スイートのソファは彼女が今まで使ったどのベッドよりも柔らかく、張り詰めた糸が切れるように緊張が解けてしまうのを感じた。自分を戒める言葉をなんとか思い浮かべようとしたが、すぐに深い眠りに落ちていた。 目を覚ました時、窓の外にはすでに陽が昇り、時計の針は九時半を指していた。なんということだ。これでは護衛失格ではないか。ばつの悪い思いで水差しに手を伸ばした時、誰かが遠慮なくスイートの扉を開け放ち、入ってきた。イザベルは反射的に剣へ手を伸ばす。だが、すぐにその立ち居振る舞いが、ヘルマリィのそれであると悟った。 スレンダーな首のない身体が、舞うようにヘルマリィのもとへ歩み寄る。 そのシルエットは若い女性のものである一方、四肢の関節や腹部では機械的な金属の骨組みが剥き出しになっていた。無数の配線やクランクが音もなく動き、まるで機械仕掛けの時計が呼吸しているようであった。 「これは…」 イザベルが言葉を探す間に、機械の身体は儀式めいて動き、クイーンサイズのベッドでくつろぐヘルマリィの頭部を拾い上げる。そしてゆるやかに掲げ、首の上にぴたりと据えた。 「原理は、貴女のその右腕と変わらないわ」ヘルマリィは微笑む。 機械が彼女の生体部分を柔らかに包み、固定される。その瞬間、機械の身体は生々しい一体感を得た。もはや人の肉体と見分けがつかぬほど調和し、裸体の貴婦人がそこに立っているように錯覚させた。 「この旅で使っていた身体が少し調子を崩したの。だから、二番目に気に入っていた身体を取り寄せたのよ。正確に言えば、その身体が自律的にわたしのもとへ歩いてきたのだけど…。道中では随分と目立ったでしょうね」 ヘルマリィはボディが携えてきた大型犬ほどの大きさのヴィトンを開き、中からラベンダー色のリネンのドレスを取り出した。身に纏うと、機械の肢体は一気に優美さを増した。それは青灰色の魔族の肌と淡いコントラストを生み出し、ボディの陶器のような外殻は両者の色調を橋渡ししていた。 「身体も装飾品なのですね、貴女にとっては」 「そして武器でもあるわ。私は外交官だったから」 贅沢な生活を送る女に見えるが、その背後には何か強靭な意志と矜持が隠されている。イザベルは、ヘルマリィという女に奇妙な興味を感じた。 「最初の任務よ。明日はショッピングへ行くわ」ヘルマリィは言う。 「ドレスはもうお持ちになられているでしょう?」 「“私の”はね。従者になったからには貴女ももう少しエレガントなものを着てもらうからね」 1等客車 蒸気の香りと金属シャフトの振動が床から伝わってくる。ヴェルナを発って半日。四人掛けの個室で、ヘルマリィはイザベルと向かい合って座っていた。深い緑色のベロア張りのシートは、固めではあったが清潔だった。食堂車の利用をイザベルが反対したため、給仕にサンドイッチとティーを届けさせた。 イザベルはブルックスのゆったりとしたドレスシャツとスラックスの上に、ハイム・タクティカル・サプライ製のアーマーを身につけている。ヴェルナのポートトレードセンターでは当初イザベルに自由に選ばせていたが、彼女がフリル付きのドレスばかり手に取るため、結局ヘルマリィが選んでやった。アーマーは炭と樹脂を組み合わせた新素材で、ダークグレーのスラックスとよく調和していた。合金製のものに比べ異常に軽いためイザベルは最初不安げだったが、今ではどうやら気に入っているようだ。 列車は大河を渡り、見渡す限りの平原を切り裂くように走っていた。窓の外に広がる景色はどこまでも豊かで、戦争が遠い夢のように錯覚させる。 ヘルマリィは荒涼とした故郷を思った。私たちの土地もこれぐらい豊かだったら。戦争は起きなかっただろうか。いや、私たち魔族はあの枯れた大地があってこその存在だった。魔族の歴史は過酷な環境との戦いだ。魔族は生き残るために様々な技術をつくり出してきた。それは戦うための技術だけでなはない。哲学、科学、美学──。人類社会でも我々の文化を評価し、学ぼうとしていた人々は大勢いた。この列車の熱力学エンジンも基礎理論は若き日のエゴブレインが築いたのだ。一方、それを応用した機械で遠隔の都市間を繋いでしまおうと思いつき、実現してしまったのは人類だ。両者が手を取り合えばなんだってできるようになるはず。そう、たとえばマグマオーシャンの向こう側へ行く事だって──。 ヘルマリィはかつて社交界や学会で出会った人々を思い出していた。彼らはいまどうしているのだろう──そう考えていた矢先、人類側のある団体から知らせが届いた。その団体は貿易会社を母体とするシンクタンクを名乗り、サカエトル市域で発生している事件の捜査に協力すれば、人類側の要人との会談の場を設けると伝えてきた。聞き覚えのない名前ではあったが、怪しいところは見当たらない。何より気になったのは、その捜査がバーティルーンの痕跡を示唆していたことである。約束が果たされるかは分からないが、今は情報が欲しかった。 ヘルマリィは、サカエトルへ行くとイザベルへ告げた時の事を思い返していた。イザベルの目には微かな動揺が感じ取れた。 「カンラークを思い出すわね。お気の毒に」 「いえ、今のカンラークには何も思い入れはありません。今あの土地には本当に何もないのです」 イザベルは窓の外を見つめながら口を開いた。 「カンラークインシデントの後、知り合いがサカエトルで消息を絶ちました」 ヘルマリィは首を傾け、続きを促した。 「彼は英雄でした。エビルソードを退け、何よりも数万人規模の撤退作戦を成功させた。その中には私も含まれていた。難民キャンプで私が昏睡から醒めた時、彼はもういなかった」 そして洞穴のような目で、イザベルは言った。 「あの者は今、エビルソードの配下にいます」 ヘルマリィは素早く記憶を巡らせた。エビルソード軍で最近新たに迎えられた仮面の侯爵。エビルソードに次ぐ強さと、極度に官僚的なモラレル軍でもとりわけ頭の硬いエビルソード軍団の中で、柔軟な知略を交える戦い方は注目を集めていた。 「リャックボーがそうだというの?」 「記録映像を見ました。あの動きは彼そのものです」イザベルは機械仕掛けの右手を握る。 「腕と剣を奪われた私には、これが必要だった。歩けるようになるとすぐに旅に出ました。サカエトルには…あの者の仮面を剥がす手がかりが残っているかもしれない」 「わかったわ。捜査の中で何か見つかるといいわね」 「ありがとうございます」 リャックボーがボーリャックである明確な証拠はない。しかし、騎士であるイザベルは直感的にその偽装を見抜いた。一方、ヘルマリィの外交官としての直感は、彼の目的を悟っていた。ボーリャックは危険な賭けをしている。 イザベルはいつ真実に辿り着くだろう。その時、彼女はボーリャックを許すだろうか。復讐は今、彼女の唯一の支えになってしまっている。いきなりこれを取り除いたら、イザベルはバラバラになってしまうだろう。復讐心に縋らなければ押し潰される──彼女は、そういう脆さを抱えている。 ヘルマリィは黙ってカップのティーを傾けた。口に出せば彼女を傷つけると分かっている。それでも、真実を見抜いたことを胸に刻んだ。 外の空は徐々に曇りはじめ、遠くの地平にサカエトルの都市の稜線がシャーレで培養した菌類のように浮かび上がっていた。