蜃気狼、という魔物がいる。砂漠に棲むこの肉食獣の、体躯は大きな犬ほど、膂力は並の狼よりもやや劣る。サラバ砂漠という土地において、この程度の魔物は危険のうちに入らない。その能力を勘定に入れなければ、だが。  半分欠けた月に照らされ、サラバ砂漠の砂の上に、白亜の都市が影を落としていた。  藍色の空を切り抜いたように、白い街が浮かび上がる。街を囲う壁の向こう側で、家々の窓にはあかりが灯り、ほのかに煙が流れ出ていた。整然と並ぶ建物の間から、背の高い尖塔が顔を出す。離れていても目につく大きなレリーフは、宗教の意匠だろうか。  美しい都市だった。故郷を失ったばかりの難民ならば、偽物と知っていても歩み入りたくなるだろう。蜃気狼は幻を生み出す魔物だ。獲物を誘う術を心得ている。  カンラークという都市は、もう存在しない。サラバに逃れる難民は、飢え乾く魔物と残酷な太陽よりも、なお恐ろしいものから逃れてきたのだ。  エビルソード。彼が単独で都市を落とすのは、これで二度目だ。おそらく近いうちに、四天王の座につくだろう。アテンが望み、手に入れられなかった地位だ。  不意に、白い壁を炎が青く照らし上げる。都市の幻は瞬時に消え去った。茫漠と広がる砂の上を、青い炎が暴れ狂う。遣い手の姿を見ずとも、その魔術が誰のものかはわかっていた。  サラバ砂漠の警備主任、ハトシェケプリが、カンラーク側に立って何かをしていることを、アテンは知っている。何をしているかは知らない。知れば止めねばならないだろうからだ。 「カンラークの難民に干渉すべきではありません」  そう彼女が言ったのは、カンラーク襲撃の報せが入ったとほぼ同時だった。 「難民は軍人ではありません。保護とまでは言わずとも、サラバに逃れた者たちを、攻撃する必要はないはずです。確かに魔王軍とカンラークは敵対していますが、サラバはそもそも我らの土地です」  ハトシェケプリは、常日頃の呑気な様子からは想像もつかない剣幕で、カンラーク難民の処遇についてまくし立てた。魔王軍側も突然の事態に混乱しているのだろう、ろくに指示はなされなかった。それをいいことに、血気にはやる魔族共を退けて、難民への不干渉を勝ち取り、それから数日。彼女は配下の魔族たちを連れ、カンラーク側に留まっている。難民を救う義理などないはずなのに。  カンラーク陥落の日に、彼女が誰と何を話したのか、アテンは知らない。だがおそらく彼女は、死者と約束を交わしたのだ。サラバに棲まう蘇りの不死者ではなく、死して、行ってしまったものと。  ハトシェケプリが戻ってきた。主の姿を目にして、彼女はいささかも悪びれはしない。少し足を止め、頭を下げて、立ち去ろうとする背に向けて、アテンは声をかけた。 「ハトシェケプリ」  ハトシェケプリは振り向いた。二言目を声にしようとした途端、何を言おうとしていたのか、思い出せなくなってしまった。アテンは口を開いたまま数秒戸惑い、結局何も思い出せずに、新たに思いついたことを聞いた。 「……失われるさだめのものに心を寄せることを、愚かとは思わんか」 「いいえ」  彼女は小石を落とすように、ぽつりと答えを吐き出した。 「ビールを飲んでいる時、飲み終えることを考えて悲しむでしょうか。ビールを飲み終えた時、失った酒を惜しんで後悔するでしょうか」  馬鹿馬鹿しいことを問うたものだ。返答を聞きながら考える。不死者にとって、失われるさだめでないものはほとんどない。 「愚かとは思いません。私はビールが好きです」  砂漠の彼方、夜闇が揺れた。新たに蜃気楼が立つ。 「そうか。それだけだ。行くがいい」 「はい」  ハトシェケプリは再度礼をし、駆け出した。  失われないものはない。無情な獣の生む幻と、残されたものの記憶だけが、その姿を留める。