よい子のにこにこトリッカル劇場 「もっぺるゲンガー」 ある日のこと、男はしばらく顔を合わせていない友人に街中で声をかけられた。 久しぶりだな、と挨拶すると友人は3日前に遊んだばかりだろうと笑っていた。 男は友人の冗談だろうと受け取り、そのまま友人と話し始めた。するとやはりどうも話が噛み合わない。 友人は冗談は言っても、手の込んだ嘘をつくような人間ではない。 どうやら友人は本当に男と3日前に遊んでいたようであった。 しかし、男の3日前は金相場を操作する仕事に忙殺されていて遊ぶ余裕などなかった。男は適当に話を合わせながら、友人から3日前のことを聞き出すことにした。 友人が言うには、男は「最近疲れているから、もちもちしたクッションが欲しい」と雑貨屋をハシゴしていたらしい。 男には全く身に覚えがない。そもそも、もちもちした物への特別な興味もない。気味の悪さを感じながらも、ちょうどいいところで話を切り上げて友人と別れた。 自分の記憶がおかしくなってしまったのだろうか。 だが、そんなはずはないという確信はあった。必死に操作した金相場のチャートがそれを示していた。 男の脳裏にひとつの仮説が浮かぶ。 自分の知らないところで「もう一人の自分」が勝手に動き回っているとしたら。 恐ろしい!と慄く男の背筋に冷たいものが走るのを感じた。 数日後、男は金の龍を捕まえる仕事の準備で疲れ切っていた。 アパートの自室のドアを開けた男は、言葉を失った。 部屋の真ん中に、色とりどりのクッションが山のように積まれていたのだ。 ひとつ手に取ってみると、もちもちとした心地よい手触りだった。 クッションをもちもちしていると、背後から声をかけられた。 「もっぺりたくなっていただきありがとうございます…」 男は驚いてもちもちしたクッションの山に倒れこみ、そのまま振り返ると、よく知った顔の人間が立っていた。 その顔は「自分」だった。 恐怖で声も出せずにいると、そのもう一人の男は、にこにこと人の良さそうな笑顔を浮かべながら男に語りかけた。 「ここにいたんだね。これで君もトリッカルの一員だ!」 そう言うと、もう一人の男はすっと男に近づいて肩に手を置いた。 次の瞬間、男の視界がぐにゃりと歪んだ。 もちもちしたクッションはプリンのようにぷるぷると揺れ、壁紙の模様は虹色に波打って溶け出していく。 「あ…あ…」 声にならない声を漏らす間もなく、男の体は噛んだ後のガムのような柔らかい何かに、どこかへ引っ張られていく不思議な感覚に襲われた。 次に男が意識を取り戻した時、彼は見知らぬ場所に立っていた。 四方八方から聞こえる怒号、燃え盛る石と木で造られた街並み。 そして彼の周りには、男の腰ほどの背丈の「もちもちした人型の生き物」が2匹?2人?きょとんとした目で男のことを見つめていた。 あの「もう一人の自分」の姿は、どこにもない。 男は、自分がとんでもない世界に飛ばされてしまったことを悟り、もちもちした生き物に囲まれながら、ただ呆然と立ち尽くすのであった。