そして三人は末永く幸せにくらしましたとさ。めでたしめでたし。 ぱたん、と戸が閉じられる。観客は口の中に溶け残った練り飴を舐めながら散っていく。 そこに漂う、寂しげな雰囲気――僕はいつも、その空気につられて、泣きそうになる。 騒いでいた子供たちが絵と語りに段々と静かになっていって、時に悲鳴をあげ、 時に歓声をあげ、一つの塊のようにくっついていったものが――剥がされる痛み。 彼らには帰る場所がある。帰りを待ってくれている父と母がいる。 そのことを想うと、僕は不意に、この世界から切り離されたように感じてならなかった。 ぼうっと呆けた僕の頭の上から、師匠の声がする。語りのための優しい声とは違う、 少しがらがらとした、飾りっ気のない声だ。慌てて、僕は紙芝居の道具を畳んで括り、 荷台の方へとまとめて乗せるのだった――いつも、こうだ。 師匠の家に戻る道すがら、彼女は何も僕に言ってはくれない。交差点や曲がり道、 長い直線の半分ぐらい過ぎたところで――ちらり、と僕の方を見るだけだ。 それは僕の歩きが遅いのを咎めているのではない、と心の中ではわかっていても、 つい、僕は母が僕を見捨てて去っていったときのことを思い出してしまう―― ちょうど師匠の身長は、当時の母とほとんど同じぐらいだったから。 僕が後手に玄関の扉を閉めると、ぱっ、と一斉に蝋燭の灯が点いた。 師匠は既に椅子に腰掛けて、僕が近くに来るのをじっと待っている。 椅子の横に紙芝居の入れ物を置く――師匠は指で、机の上に置かれた二つの杯を指す。 一つには血のように赤い葡萄酒が、一つには白く透き通った炭酸水が。 僕達は無言のまま、かちん、と音を立てて乾杯して――それぞれの中身を、喉に通していく。 ほふぅ、と師匠の口から酒臭い息が漏れた。ほんのりと赤く色付いた頬は、 酒の色が、師匠の肌の中に巡っている証のように見えて――僕をどこまでも魅了する。 息を吐き終えた師匠は、僕に一言、お疲れ様、とだけ言ってすぐに目を閉じてしまった。 道具の手入れをしながら、僕はちらりと彼女の寝顔を見た。 彼女の家兼工房で、弟子のような生活をし始めてからもう一年近くになる。 今日のような紙芝居をしているのを見かけて、終わった後の引き裂かれるような悲しみに、 僕はべそをかいていた――その時の話の内容が、母と四人の娘の話だったこともあるだろう。 飴も買わずに紙芝居の中身に入れ込んで、終わってからも去ろうとしない子供―― 本当なら、彼女は僕のことなど気にしないでとっとと帰ってもおかしくなかっただろうに、 声をかけて――目線を合わせて、手を繋いで。その時の優しい声は、今も耳に残っている。 師匠が今の紙芝居屋の前に、どんな仕事をしてきたか、教えてくれたことはない。 物置には、色々な魔術の道具や宝石が置いてあるようだったけど―― 寝ている師匠に膝掛けを掛けてあげると、その綺麗な顔がますますよく見える。 色素の薄い髪と肌は、おとぎ話の中の住人のようだった――そこに魔女の被るとんがり帽子、 なおさらこの世のものではないかのような、不思議な感じを漂わせている。 でも、僕は知っている。前に一度、師匠が水浴びをしているところに出くわしてしまった時、 彼女の身体が、その魔女然とした服装とは対照的にきゅっと絞られていたことを。 その肌に、いくつもの傷――通り過ぎてきた道の過酷さが残っていることを。 僕の視線はつい、服越しに彼女の身体を想像してしまう――良くないとはわかっていつつも。 そして当然、視線は大きく開かれた胸元、柔らかそうな谷間に吸い寄せられる。 こういう時は、自分が男だということを強く自覚させられる――不可抗力、というやつだ。 だめだ、と思うほどに白い膨らみは僕を惹きつける。心臓が激しく打つのを感じる。 喉に落ちていく唾の音、どうか師匠には聞かれないで欲しい――そう願っていても、 自分でも恥ずかしいぐらい、音はうるさく響いた。幸い、まだ起きてはいないようだ。 思い通りにならない指は、ひざ掛けを引き上げるような振りを見せて――胸元へ。 これは不可抗力、触れてしまうのも仕方ないんだと言い訳をしながら――おい。 眼鏡の下から、琥珀色の瞳が僕を見ていた――全身の筋肉が強張って、止まる。 怒られる、という考えより先に僕の頭の中を掠めたのは、追い出される、という考えだった。 拾ってもらった恩を忘れて、自分の居場所のことだけを考える自分勝手な、子供。 でも師匠は、その一言を発してから、何も言わなかった。僕がじっと固まっているのを見て、 逆に、その胸元にぐっと抱き寄せた――柔らかな、ほんのりと甘い匂いがする。 師匠の指が僕の髪をすっと梳いて――頭骨をなぞるように横に逃げていく。 そして耳の横でぱちり、と何かの鳴らされる音がした――視界はぐるんと回転し、 師匠の寝室、毎日僕が整えている寝具の上に、二人は飛んでいた。 胸に埋もれて彼女の顔は見えない。何か言ってくれるようなそぶりもない。 でも、師匠が僕を受け入れてくれているのは感じる――どこまで?どうして? 僕は彼女にとって何なのか。僕だって、男ではあるというのに。 また寝息を立てだした師匠の腕の中で、僕は眠れない夜を過ごした。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― あの柔らかな感触を思い出すと、僕の中に熱いものが渦巻くのを抑えられない。 いや――有り体に言えば僕は、師匠の腕に包まれて寝たあの晩から、 彼女の肌の艶めかしさ、ほんのり香る女性らしい匂い、視界のすぐ端に映る谷間―― そういったものにすっかりやられてしまっていた。これまでほとんど考えてもこなかった、 自分が男であるということを、否が応にも、意識させられる羽目になっていた。 目をつぶっていると、自然にあの時の光景が瞼の裏に浮かんでくる――慌てて目を開けると、 そこには幻ではない本人がいるのだからたちが悪い。言葉の通わない帰り道、 もやもやとしたものを抱えた僕の心を知ってか知らずか、やっぱり師匠は何も言わない。 旅をしていた、とか。色々と危ない橋も渡ってきた、とか。そういうことはわかっても、 師匠がどんな人で、どう暮らして、どんなことを乗り越えて――結局のところ僕は、 師匠が一人の女であるということを改めて知ると同時に、酷く嫌な想像に囚われていた。 “誰か”が彼女の過去にいたのだろうか、と。疑念はより強い渦として心の中をかき回す。 問えるわけもない。答えが得られるはずもない。それに耐えることの方が辛い。 浮ついた気持ちが表れたのか、ある日の紙芝居で、僕は紙を出す順番を間違えた。 引き込まれていた観客が、一気に現実へと醒めていくあの――居た堪れない空気は、 師匠の拳骨の形を取って、一発がつんと僕の頭にたんこぶを残す。 普段何も言ってくれないのに、こんな時だけ――と、被害者の気分になった僕は、 自室の中、いつもとは違う想いを抱えて、ずっと師匠の顔を思い浮かべていた―― だが却って、心の中のもやもやは、普段と同じ色を帯びてくる。 師匠をぎゃふんと言わせたいという――具体性を一切持たない幼稚な復讐心は、 次第にあの白い肌と、甘い匂いとに書き換えられていって、僕の頭の中を埋めていく。 師匠。師匠。師匠。頭も胸も、ぐるぐるとうねる感情でいっぱいで苦しくなってくる。 枕に顔を埋めると、その白い生地があの肌のようで――包まれているかのようで、 逆に苦しさの増した僕は、身体の下に枕を抱える格好で丸くなって脚に力を込める。 何かに強くしがみついていないと、どこまでも転がり落ちていきそうな不安感―― かろうじて息継ぎをしながら、僕は何度も彼女のことを呼んだ――頭の中がぼうっとする。 だから、師匠が何かの用事で逆に僕を呼んでいたことも、待ちかねて呼びに来たのも、 とても気付くことはできなかった――その結果がどうなったか? また僕の視界は埋まっていた。でも、枕や布団で、じゃない。 あの柔らかな胸を顔に押し付けられながら、僕は後頭部ごと髪を撫で付けられている。 赤ん坊をあやす時の姿勢に、それは近い。飼っている犬や猫をなだめるのにも似ているだろう。 ただ師匠は――僕の頭を撫でながら、たまに聞かせてくれたあの声で囁く。 そのたび、背中にぞくっ、ぞくっ、と電流が走って身体が反ろうとする――でも、 頭の後ろに手を置かれているせいで、僕の身体は倒れられず――下半身に力が入る。 まずい。と、直感的に思う――僕が健全な男子である以上、下半身において最も意識するのは、 つまり、それの状態だ。顔にこんな柔らかでいい匂いのものを押し付けられては――へぇ。 少し低い声が、耳元で響いた。膝の上に、ずん、と体重が乗ってくる。 下半身を横に逃がすこともできなくされて、僕は師匠に捕まるような格好になってしまった。 そして――嫌な想像はあたる。下半身が、熱の集まるのとは裏腹に涼しくされていく。 ぎゅっ、としなやかな指が、僕を包んだ。もう、何も隠せない。 力を抜け――と言われて言葉通りそんなことができるだろうか? 緊張で強張る身体を、胸の感触で無理やり柔らかくほぐされていって、 ただ一つ硬さの残るその箇所を、ぐに、ぐに、と確かめるように握られている。 あっ、と思う間もなく、僕の内側から何かが弾けた。全身に溜まった力が抜けていく―― 息がますます荒くなる。目の前の柔らかな何かに、ほとんど反射的にしがみつく。 僕のものを包んだままの“何か”は、僕の放ったものを捏ねるように開いては閉じたり、した。 そのままさらにもう一度、今度は握るだけでなく――縦に、粘り気を残したまま、擦る。 二度目が――一度目より早く、でも少なく――爆ぜて、目の前がちかちかして何も見えなくなった。 それから師匠は、僕の様子がおかしくなると――こうして、家に帰ってから、 そのおかしくなった“元凶”を吐き出させてくれるようになった。最初は、こうして手で。 それで二回ほど出してしまうと、もうその晩の僕は何もできなくなってしまうのだが、 ある日、勢い余って――滴が、師匠の顔、片眼鏡と、鼻先にぴたりと飛ぶのが見えた。 疲労感に沈みそうになりながら、僕は怒られるか、と身構えたのだけれど、 師匠はぺろりと舌を出して――手で拭ったそれを、舐めた。その妖しげな舌の動きと言ったら。 師匠の顔が僕の視界からふっと消えたかと思うと、股の方から、彼女の声がする。 何を言ったのかはよく聞こえなかった。ただ、両腿をしっかりと手で押さえ込まれて、 それまでの、指ではない――もっと温かくて、滑って、湿り気のある大きな空間―― もっと言えば、彼女の口が、いつの間にか僕のものをぱくりと咥え込んでしまっている。 与えられる刺激の質と量とが激変して、全てを吸い付くされてしまうかのようで、 僕は夢中で、だめだ、とかやだ、とかそんなことを言っていたような気がする。 でも――やっぱり、僕の意思に反して、それは固くなってしまうし、出てもしまうものだ。 舌が、あらゆる角度から僕を包む。口をすぼめて飲む時の、喉の奥に引っ張り上げる力―― それが魔法のように、僕の芯から様々なものを吸い上げ、持って行く――代わりに、 師匠の唾液がべっとりと付いて、しかも、その唾液自体を彼女の唇が拭うのだ。 師事する相手に、自分の一番汚いところを口にされて――全部を、見られている。 きっと僕の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだったろうし、ごまかすだけの余裕もない。 なのに――師匠は僕を慰めるどころか、彼女自身も熱に浮かされたように頬を赤らめ、 じっ、と僕の顔を見つめていた。その瞳から、僕も目を逸らすことができない。 何度目かもわからない、点滅する視界の向こう――師匠は、確かに笑っていた。 はっ、と目を覚ますと、僕は師匠の部屋にいることに気付いた――なぜそれがわかったか? 肌に触れる沈み込むような柔らかな生地は、子供向けの弾力ある小さな寝台のものとは違う、 寝転がるだけですぐに眠りに落ちそうな代物だったからだ――だがそれよりも柔らかな、 彼女の肌、しかも僕との間に何も挟んでいない直のものが、そこにあった。 僕が意識を取り戻したのを確認すると、師匠はぎゅっ、と僕を抱きしめる。 柔らかくて、硬くて、でもしなやかで、甘くて。肌の匂いも、鼻に直に通る距離だ。 悪かったな――と、僕の頭を撫でながら彼女は言った。お前の、好きにしろ、とも。 好きにする?何を――決まっている。師匠の、身体を。 しかし僕は、抱きしめ返す以上の何をすればいいのか、全く見当もつかなかった。 下半身はまた、性懲りもなく暴発寸前の有様なのだが、それを、どうすればいいのか? わからない。自分の得たかったものが、目の前にあるのに――その箱の開け方がわからない。 僕はほとんど泣きそうだった。子供である、ということがとても悔しくてならなかった。 すき、と何度か呟いたような記憶はあるが――大人はこういうときに、 どうやって“好き”を相手に示すのだろう――そして師匠はそれを知っているのだろうか? そんなことを考えると、彼女が自分だけのものではなくて、既に誰かがかじった後の、 余り物を――それでも食べるに食べきれずに腐らせてしまったかのような虚しさが胸を塞ぐ。 いよいよ僕は、泣き出してしまった――その理由を彼女に問えるわけもない。 あなたは既に、僕以外の誰か――男の人と、こうなった経験はお有りなのですか?と。 師匠は、何も言わず――僕を抱いたまま、ごろんと転がって仰向けになった。 必然的に僕は天井側に来て、彼女を見下ろすような体勢になる。 僕よりずっと背の高い彼女の顔を、こうして上から見ると――胸の奥に、ずん、と来る。 師匠の腕が、一旦僕の腕から離れ――彼女の下半身へと、ゆるゆると降りていく。 それを目で追う――男と、女の違い。出ているところと、へっこんでいるところ。 彼女のそれを見て、その指が恥ずかしげに開いて見せた赤い肉の色を見て、 ぷつん、と鼻の奥に痛みが走った――だが、そんなことを気にしている余裕はない。 “ここ”と、唇だけが動いた。今や師匠の顔の方が、僕より赤いのではないかと思われた。 僕の方は、彼女そんな反応に――言葉に表しようのない、高鳴りのようなものを覚えた。 抱き合っているうちにすっかり準備を整えてしまった僕のものは、 収まるべきところに収まりたい、と逸る気持ちを抑えられずびくびく震えている。 ずぷぷ、と沈んでいく。手でも口でもない、本来、それの入るべき先。 本当は、大人の男と大人の女が、そうしてくっつけ合うための場所に、 まだほんの子供でしかない僕が、入ってしまっている。でも、それを怒る大人はいない。 師匠はむしろ自分から僕を受け入れて――僕の好きなように、させてくれようとしている。 わからないなりに、僕は懸命に先端をぐっ、ぐっ、ぐっ、と押し込んでいく。 加減がわからなかったせいか、何度か途中、師匠はくっ、と顔をしかめるそぶりを見せた。 それを見ていると、なんだか僕は背中をぐぐっと押されたような感じになって、 ごめんなさい、と心の中で謝りながら、より強くなっていく腰の動きを止められなかった。 奥の奥まで達した後――それ以上は進めないのだから、どうしても戻らないといけなくなる。 引き抜くように腰を引いていく――と、それまでは硬い土を掘るようだった内側の壁が まるで絡みついてくるかのように僕を引き留め、あらゆる角度から締め上げてきた。 思わず、彼女に口でしてもらった時のように――出ちゃう、と言葉が漏れて、 果たしてその通り、僕は情けなくもすぐに“一回目”を終えてしまう。 たった一往復で、全速力で走った後のような疲れが全身にべったり張り付いていたが、 引き抜いた後で――師匠の股間から垂れている赤白い雫の意味を聞くと、 僕の中の――男の部分が、彼女への独占欲を強く強く燃え上がらせてくる。 二度目は、もう、この行為の目的を理解してのもの。彼女に、僕の赤ちゃんを―― そう意識すると、身体が僕自身のものではなくなったように歯止めが利かなくなった。 この人に全てを受け入れてほしい――この人の初めての相手としてだけでなく、 この人の全てを僕だけが知っていたい――この気持ちは、分不相応だったろうか? だが止められない。止まらない。この最中に、女の人に何を言えばいいのかも知らず、 僕はただ、目の前にある、僕だけの人の身体から振り落とされないようにしがみついていた。 頭の両横に、柔らかくて大きな二つの枕があって――それがぐいぐいと耳を押し潰してきて、 鼻はその間に溜まった彼女の汗の匂いを、かくそばから常に吸い続けていく。 血の臭いと混ざってなお、くっきりとわかる、脳を揺さぶる、本能を刺激する匂い―― そしてまた、僕の肉体は限界を迎えて、彼女の身体を敷き布団にして寝入ってしまう。 師匠の手と足が僕を包んで――掛け布団めいて身体を覆うのを背中に感じながら。 そのたった一度きりで、僕の願ったことが果たせるわけもなかった。 だけど、師匠の用意する杯が、どちらも炭酸水の晩は、こうして―― 口付けの際、僕に酒を飲ませないための配慮であるらしかったが、 子供扱いしてくる割に、いざ身体を許せば、そこに子供も大人もなくなるというのに。 僕の身体にしっかりと手足を絡めてくる彼女の姿は――むしろ、あどけなくさえあるのだった。 師匠と肌を重ねるようになってから、一月ほどが経った頃、僕たちの家に、来客があった。 その人を見たときの師匠の顔には――隠しもしない鬱陶しさと、ほんの僅かの喜びがあって、 ちらりと僕を見やった客人の瞳は――よろめきそうな、不気味なうねりを纏っていた。