魔法学園の棟の縁から張り出すように設えられたテラスで薬草を詰めた葉煙草を吸っていたら、背後から誰かが近づいてくる気配がした。  フィリュネは振り返る。灰色のローブと同じ色のとんがり帽子を被った白髪白髪の老人はこの学園で知らぬ者の無い顔だ。  なんせ、入学式の壇上の真ん中にいるのだから。  「なかなか美味そうなものを嗜んでおるのぅ。どれ、わしにも一本くれぬかの?」  「キンドール先生にでしたら是非に。己れが片手間でちょちょいと作った拙作ですけれどね」  御年72歳の人間の老人はフィリュネの差し出した煙草入れから皺くちゃの指先で1本摘みとる。咥えた煙草の先端で指を鳴らすとそれだけで火が点いた。  吸い慣れた仕草で薬草を枯れた木の葉で包んだ煙草の紫煙で肺を満たすと、満足げな溜め息と共に煙を吐き出す。  「うむ。刻んだ薬草の香りが胸いっぱいに広がるわい。近頃煙草というとパイプでばかり吸うでな、じゃがこういうのも気軽でいいのぅ」  「たまにやると頭がすっきりして“詰まり”が取れる気がします。いつも吸っていると癖になりそうで自重しているんですけどね」  テラスの欄干に体を寄せ、ふたり並んで煙草を咥える。たなびく煙の尾が清く澄んだハールーンの青空に混ざって消えていく。  隣りにいるこのキンドール・グラフという翁はこの魔法学園の長だが、それを感じさせない洒脱ぶりが生徒からの人気の理由だ。  フィリュネは時折こうして魔法使いにとっての初等教育を施す施設である魔法学園で臨時講師をこなしているので、キンドールは上司といえる。  更に言えば彼はフィリュネが在籍している魔術師学院の教授でもあり、ふたりは先生と教え子という関係でもあった。  もっとも、魔術師学院の在籍歴に関してはフィリュネの方が長い。このハールーン魔術研究王国とは故郷を出て以来もう八十余年の付き合いだ。  彼女がのんびりと魔術を研究している間に若き日のキンドールは瞬く間に頭角を表し、今ではハールーンにとって無くてはならない人物となっている。  エルフであるフィリュネからすれば他の種族は皆生き急ぐ。別に珍しいことじゃない。大抵の知り合いは自分より先に墓の下へと入っていくのだ。  「もう授業は終わったんじゃな。フィリュネくんの授業はのう、『すごくよく分かる!』という子と『全然分からん!』という子で二分されるからのう。   今頃は後者の子らが他の先生へ質問しに向かっている頃合いじゃろうな」  「え~? 己れはこれでも真摯に授業しているつもりですよ? それを全然分からないなんて、今どきの子たちは贅沢だなぁ。   己れがこの学園にやってきた頃はもっと投げっぱなしな授業をされましたよ?」  「ふぉっふぉっふぉ。おぬしが学園にやってきた頃というと80年は前か。わしがまだ生まれてない頃の講師陣についてまでは文句を言われても困るわい」  わはは、とふたりして笑いあった。  魔術師学院に居座って魔導の研究を進めるタイプのエルフはだいたいがフィリュネのように何十年も、下手すれば何百年もいるので学院の名物となってしまう。  性格は十人十色ながら教授たるこのキンドールともこんなふうに緩やかな関係を築いている者がほとんどだ。  困ったことにそういう類のエルフに限って『肩書を得て責任を背負わせられるより研究に没頭したい』という偏屈者ばかりなので在籍年数と学院内での地位が比例しないのは全くもって珍しいことではなかった。  「───そういえば、近々この学び舎を離れると聞いたのじゃが?」  不意にキンドールが話を切り出してきてきた。フィリュネは尖った耳をぴくりと震わせる。  曖昧に「ええ」と返事をしつつ、テラスから彼方を見下ろした。  王都ハールーンはタミール山脈の南斜面に築かれていて、そしてこの魔法学園は王都でも比較的高いところに置かれてある。  そのためここから外を眺めると南の低地に広がる市街地や、王都の両脇を流れているリダス河とフェルメ河などが一望できた。  美しい国だ、とフィリュネは思う。物事の深奥へ分け入ろうという洞察力を備えた国だ。あのお仕着せの箱庭のように感じていた故郷よりも何倍も愛している。  魔術の学びの殿堂としてもユーシズより好ましい。あの魔導大国よりもよりアカデミックで研究者気質な人々がこのハールーン魔術研究王国には集うように感じる。  その空気感がフィリュネには居心地良かった。でも────  「夢を叶えるためには、この国にいるだけではダメだと気付いてしまったので」  「ふふん。学院にいるエルフは皆そういうようなことを言ってある日突然いなくなるんじゃ。   で、何十年も顔を見せなかったと思いきや去った時と同じようにいきなり帰ってきたりもする。忘れ物を取りに戻った、くらいの軽々しさでの」  フィリュネは苦笑いをした。それはまあ、否定できない。  エルフなんてそんなものだ。他の種族とは命の長さも捉え方も違う。人間なんて100年も経たずに死んでしまうのに、エルフはゆうに500年は生きるのだから。  フィリュネももうじき100歳を迎える。ハールーンにやってきた頃に知り合った友人も既に何人も鬼籍に入ったし、それが彼らと自分が過ごす時間の違いなのだということも分かっていた。  「確かに。そういえば顔を見なくなったなぁ、というエルフの先輩にも何人か心当たりがありますね」  「じゃろう? 旅先で出会ったらわしがよろしく言っていたと伝えておくれ。たまには顔を見に帰ってこいともな」  「ええ、分かりました。なんといってもキンドール先生の頼みは断れないなぁ。己れも散々世話になってるしなぁ」  「ふぉっふぉふぉ! ついこないだも尻を拭ったばかりじゃったな!」  キンドールは快活に笑うと短くなった煙草をフィンガースナップひとつで燃やして灰にした。ぱらぱらと零れ落ちた薬草の焦げた欠片が風に乗って消えていく。  単純かつ簡単そうに見えたが長くこの地で研鑽を積んできたフィリュネには分かる。たったこれだけの仕草の中に熟練の魔法使いの業がある。それだけでこのキンドールという翁は敬意に値する。  そうか。この人間の男の美しい魔法を目にすることもこれが最後かもしれないのか。  「次に再会するとしたら下手をするとわしの来世かのう」  「かもしれませんね。当分ハールーンには戻らないと思います。とか言って、気が向いたらさっさと戻ってくるかもしれませんけど」  「ま、ふと気がついたら人間の一生分くらい過ぎていたというのがエルフのうっかりというものじゃ。さほど期待はしておらぬわい」  「いえいえ。他の諸先輩方はどうだか知りませんけど、己れはこの国やこの学舎には割と愛着ある方だと思ってますよ。また会う確率はそこそこ高い方かと」  「そこで“そこそこ”と付け加えておくのがきみの信用ならぬところじゃからなぁ」  翁の言葉ににやりと微笑んだ。バレてる。その通り、己れはいい加減だからなぁ。そのあたりの自覚はあるとも。長い付き合いだしそりゃ分かってるか。  フィリュネは自分の吸い終えた煙草を指で弾き、キンドールの真似をして燃やしてみた。おおよそは灰になったが、彼ほど細かく燃やしきれていないのが自分でも分かる。  エルフの100年を他の種族たちはエルフよりも短いその一生を燃やしてあっという間に追い抜いていく。分かっていたが、少し悔しくて切ない。  フィリュネは欄干に預けていた身を起こした。軽く服を叩いて煙草の灰を落とし、可笑しそうに笑顔を浮かべているキンドールと同じように笑いながら見つめ合った。  「どのみち己れの夢が叶うとしたら、先生の来世のそのまた来世のそのまたまた来世以降になりそうなので。己れの夢の成就についてはその時お話しますね」  「うむ。じゃがエルフは長生きだし病にも強いが、死なぬわけではないからの。なるたけ元気でな、フィリュネくん」  「ええ。キンドール先生もお元気で。なるべく長生きしてもらって、己れがこの国に帰ってきた時まだご存命だったらまた会いましょう」  学園長と挨拶を交わし、フィリュネはテラスから魔法学園の棟内へと戻っていく。その背中をキンドールが優しい眼差しで見送っていた。  ───フィリュネ・コルフェインが最初にタメル=ガーメという人間の若者に出会い、その後偶然から同道することになった子たちと冒険するようになる一年前。  これからエルフとしての長い長い人生が待っている彼女にとっては瞬きくらいに短い間一緒にいた人々とのかけがえのない日々。その前日譚となる。