視線の先、波打ち際を歩く彼女の小さな足跡を辿る。 夜明けを控えた渚、濃紺が空を征する世界に二人は一人きりだった。 足元を潜り抜ける波、横たわる水平線、頭上に広がる星空、そして俺に。 記憶に景色を焼き付けているのだろう。エイドは忙しくないものの、留まらず身体を動かした。 こう見ると俺が保護者みたいだな。 そんなことを言えばお前は怒るだろうけど。 エイドの動きに合わせて、俺も景色を目で追った。 燦然とは程遠い冴えた瞬きの星々が、深蒼に沈んだ天蓋に張り付き、溟海の上で漂っている。 星座や星の種類には明るくはない俺だが、それは美しく感じられる。 均整の取れたものとは言えないが、世界全体が不足を補い、それぞれが欠けているからこそ際立つ調和がそこに在った。 以前ならば、ただの視界に映る情報として心動かされることもなく処理していただろう。 随分と勿体ないことをしていたな。お前と共に見たいと思える景色があったかもしれないのに。 改めて、エイドを見やる。 表情までは見えないが、華奢な指の動きと浮ついた身体運びから今を楽しんでいることは明白だった。 俺がいるからそうしてくれるのか。 俺がここにいなくともお前はこの海に、空に、同じようにしてみせたのだろうか。 そんな思考が脳裏を埋め尽くしたのは一度や二度ではなかった。 あんまりにあんまりな嫉妬を繰り返す自分に、本当に嫌気がしてくる。 ……分体ながら神を斃し、俺がこれからも生き続けられる希望が垣間見えてから、お前を見かける回数も、交わした言葉も、随分と多くなった。 出会う度に、話をする度に、別れる度に、長年塞ぎ込んでいた栓が緩んでいく実感があった。 『追跡者』が薄れ、『エヴィ』が顔を覗かせることも増えてきていた。 俺の内側で湧き上がる感情へ名前を付けるのには相当に苦戦した。 なにせ生まれてこの方、お前と出会うまでそんなものを抱えて生きた時間などなかったのだ。 得るはずだった多くのものを置いて、捨てて、視界に入れないことを選んだが故に。 結果、こうして巡り合えたのならそれは正解だったんだろうが、口にする勇気を必死で繕うのにはより時間がかかってしまった。 そうして何とか言語化できたものが、『お前の幸せに俺がいて欲しい』、なんて。 あまりに浅ましい激情だった。 それを今から伝えようというのだから、猶更にタチが悪い。 息を吐いて、吸い込んで。律動とは程遠い高鳴りを落ち着かせるように努める。 こうして今も費やす時間を無駄とは思わない。 お前にために使うなら、何一つだって惜しくはないから。 『エヴィ』の世界に色を与えてくれたお前になら、これまでとこれからの全部をくれたっていいと想えるから。 エイド、お前は笑うだろう。 私は当然のことを言っただけと。 その"当然"に、俺は救われたんだ。 狂気の中に身を委ね、諦めを懐に隠し持って、わき目もふらずに|走り《逃げ》続けた。 そんな俺に、自分でさえ希望を抱けなかった未来を見せてくれた。 語った絵空事を迷わず信じてくれた。 超えることのできない壁にぶつかり、転がるだけの愚か者を笑わないでいてくれた。 擦り切れ、進むこと以外の思考を投げ捨てた『追跡者』を憐れまないでいてくれた。 海岸の先を歩いていたエイドを呼び止める。 彼女はいつものように微笑んで、言葉の続きを待った。 勝算は、自惚れでなければ──少しだけ。 「エイド、俺は──」 深蒼が明け行き、薄明が訪れた。 その瞬間だけ、空は紫紺に染まりきる。 エイドの髪によく似た、見慣れた色に。 「──元から短い人生だったが、お前と出会ってから過ごした時間は一番幸福だった」 ぴたりと足を止めたエイドに、一歩ずつ近づく。 暁の中、どこか緊張した面持ちのエイドに構わず、揺らぎそうになる自分の意志を固めるように砂上へ跡を刻んだ。 俺に残された時間はあまりに短い。 傲慢だと思った。伝えることも、想うことも。 「もっとずっと、その時間を続けたいと思った」 二十にもなって来世以外の未来を語るハイマンははたから見れば滑稽だろう。 そこまで生き残ったハイマンに世界が許す時間は甘く見積もっても残り十年しかない。 世迷言で、出鱈目な、下らない夢物語。 よほど来世を願う方が堅実とさえ言える。 「より近く、お前の隣で、死すら追いつかない遥か涯てに行きたいと思った」 だが今なら、そんな悠長な理想論だって語れる。 触れることさえ叶わぬはずの神の一片を打倒し、身勝手な願いに一手をかけた今だから。 「──エイド、お前が好きだ」 「この世の何より、お前が欲しい」 身をかがめて、俺はエイドの手を取った。