赤薔薇  いつの頃からか、最後のステージには真っ赤なドレスで立とうと決めていた。  肌ざわりのよいベルベットをまとって、頭には主役の特権であるティアラを載せて、胸元にはバラの花をあしらった飾りをつけて。まるで気分は舞踏会へと赴くシンデレラ。  一夜限りだからと存分にわがままを言ってやろう。  そうして十二時の鐘が鳴って魔法が解けたなら、心の血をたっぷりと吸い込んだドレスを脱ぎ捨てて、私はようやく自分にかけた呪いを解くのだ。 ◆  包み隠さず始めに言ってしまえば、私は彼女に恋をしていた。  だから彼女がグループを離れる決断をしたとき、すべてが終わったような気がしたのだ。  活動の初期の頃から。歌声をはじめて聞いた時から。もしかしたら初めて会った瞬間から。  私は佐藤麗華という女性に恋をしていた。  それがふつうではないことくらい充分理解している。けれどそう思ってしまったのだからそれはしようのないことだろう。だからその是非については深くは触れないが、佐藤さんが卒業を口にしたとき、ほんの一瞬ではあったけれど私も一緒に、と思ってしまった。  その思いは活動を続けていく間もしつこく私につきまとい、誰かがここを去っていくたびにまるで蛇のようにゆっくりと首をもたげていった。  立川さんに向けて「指令」が下されたとき、あぁ、次はきっと私だと直感した。  むしろここまでよくもったと言えるくらいだ。今思えばそれくらい当時の私は磨り減っていたように思う。  私をグループに留めていた理由はひとえに、半分くらいは私がそれを口にしてしまったらぺしゃんこに潰れてしまいそうに見えた滝川さんの存在だった。直接的に話し合ったわけではないけれど、おそらく立川さんも同じ気持ちだったのだろうと思う。だからあともう少しだけ、と鉛のように重い脚をどうにか前に進めることができたのだ。  入ってきたばかりの後輩たちの存在も大きかった。私を慕ってくれていた織原さんなどは特に。  中学も高校も部活には所属していなかったから後輩というものにはとんと縁がなく、彼女たち八人は生まれて初めてできた後輩と言える存在だった。正確にいえば神木さん達三人も後輩としてカウントされるのだろうけど、一年というごく短い期間しか加入時期が違わなかったし、歳の頃も近かったのでなんだか後輩という感じがしなかった。彼女たちの方も接し方が先輩後輩の間柄、という風ではなかったし。  辞めそびれてしまってから二年ほど。立川さんがここを出ていったあと。ぼんやりと宙ぶらりんだった私にもついに「指令」が吐き出され、それを受けると申し出たときの織原さんのこの世の終わりみたいな表情が今でも脳裏に焼き付いている。  私ももしかして、佐藤さんの時にこんな顔をしていたのだろうか。つとめていつも無表情を貼り付けていたつもりだったのだけれど。  私が感情的に振る舞うと、きっと自分もまわりの人間もみんな不幸にしてしまう。運命なんていうものは「私」は信じていなかったけれど、その一点だけはそういう星の下に生まれてきてしまったのだと不本意ながらも受け入れていた。幼い頃の出来事のせいで。  だから佐藤さんへの感情は墓まで持っていくつもりだったし、眼鏡を外して笑って終わったあとになって、思わずしまったと後悔した。  私は最後の最後で間違えた。  よい先輩を全うできなかった。  こんな私のことを愛してくれている後輩を失望させ、傷つけてしまった。  メンバーのみんなもファンの皆さんもみんな私のわがままに涙を流してくれたというのに、ただひとりの少女をあの日に置き去りにしてしまった。  あんな終わり方をしてしまうくらいなら、感情があるふりをして首を縦に振らなければよかったのだ。もし本当に感情がないのなら、どんな痛みにだってどこまでも鈍感でいられたはずなのだから。  東京ドームのステージに立ちたかった。国民的なアイドルになりたかった。  だってそれだけの偉業を成し遂げられるだけの実力があれば、多少長く芸能界に身を置いていても収入には困らないだろうから。そうすればきっともうあと少しだけでもこの活動を続けていられただろうから。  けれどそれももう終わり、タイムリミットだ。  時の流れというのは残酷だ。使い古され擦り切れた言葉だけれど、痛いほどにそう思う。  年齢を重ねれば重ねていくほどにどんどんと可能性というものは狭まっていき、最後に出来上がるのはなにもない人間だ。私ももう20代半ばにさしかかる。これからの身の振り方を考え始めなければならない頃で、母にもいつまでも心配はかけられない。  なにより、私のとなりにはもう彼女がいないのだから、たとえ何かの間違いで夢に見た場所に爪の先が引っかかったとしても、それはきっと空虚な蜃気楼に過ぎないだろう。  無邪気な「わたし」のきらきらとしたあどけない夢を、無感情な「私」が的確に、冷静に、否定して、却下する。けれどそれすらもきっと間違いで、私はすっかり雁字搦めに陥っていた。  彼女に想いを告げる勇気もなくて、彼女の想いに応えられる度胸もない。  そんな半生、じつに虚ろだ。 ◆  就活のかたわら、昼前から夕方まで短時間ではあるけれどアルバイトを始めた。  母と二人で暮らす自宅からは少しばかり遠いけれど、住宅地の片隅で壮齢の夫婦がこぢんまりと営む雰囲気のいいパン屋だ。パンの味もいいし店主の夫婦の人当たりもよく、客足はまずまずといった具合でお昼時などはなかなかに忙しい。  接客業に就くのははじめてだったけれど、アイドルも広義的な目で見れば接客業のようなもので、いままで経験してきたことを応用すれば仕事に慣れるのにはそう時間はかからなかった。  面接のときに前職はアイドルでしたと正直に話した瞬間のオーナーの顔が忘れられない。 「丸山さん、お昼のラッシュも落ち着いてきたから今のうちに休憩行ってきて」 「ありがとうございます。では、いただきますね」  店長である奥さんと店番を交代し、厨房で生地をこねるオーナーに一声かけて数席あるオープンカフェスペースへと向かった。  賄いで頂いた惣菜パンと店員割引が適用された洋菓子の載ったトレイをテーブルに置いて、一息をつく。  郊外のせいかここいらは比較的緑が多く、店の敷地内からも見渡せば通りの向こうの背の高い銀杏並木のてっぺんが見えた。気付けば葉も黄色く色づきはじめており、空気も少しひんやりとしてきた気がする。もうじき十月も終わるというのにようやく秋の訪れだ。今年もせっかく買った秋物の服はほとんど出番がなさそうな気配で、ぼんやりしているとあっという間にクリスマスの時期が来てしまう。  トレイの脇に裏返しで置いたスマホがぶるる、と短く震えた。何かの通知が来たのだろう。総菜パンの包みを開きながらスリープを解除し、ずらりと並んだ通知を眺めた。  そのうちのひとつ。織原純佳、と送信元が表示されたRAINの通知を目にして、心臓がどくん、とひときわ高く跳ねる。卒業してから数ヶ月、ずっと音沙汰のなかった後輩の名前だ。  今になってどうして。  私はあなたを傷つけてしまった。出会った頃からずっと被り続けてきた仮面をこれ見よがしに脱ぎ去って、見ていたものはまやかしだったと突きつけた。なのにいったいいまさら何を言うことがあるのか。  決まっている。きっとこれを開けば考えうる限りの罵倒の言葉や恨み言が綴られているのだろう。  それは裏切りの代償であり、彼女にはその権利がある。そして私にもそれを受け入れなければならない義務があった。  ごくりと唾を飲み込んで、震える指で通知をタップした。アプリが起動するまでのほんの数瞬がやけに長く感じられる。心臓はやかましいほど脈打って全身に血流を送り込んでいるのに、指先は痺れたみたいに冷たかった。まるで真冬の雪原にいるかのようだ。  果たしてディスプレイに表示されたのは数行の白い吹き出し。 「ご卒業おめでとうございます  お祝いの言葉が遅れてしまってごめんなさい  いままでもこれからもずっと  私はあなたのことが大好きです」  表示された文章を頭が理解するよりも先に、画面に雫が滴った。滑り落ちていく水滴のふちがプリズムみたいに何色ものスペクトラムを形成して、まるで虹のようでまぶしかった。  休憩を終え、仕事に戻ると赤くなった目を指摘されて視力はずっと1.5以上をキープしているのにコンタクトがずれたと嘘をつく羽目になったし、たまたま通りがかった常連のお婆さんに目撃されてぎょっとされたし、急いで口に詰め込んだエクレアはしょっぱくて飲み込めたもんじゃなかったけれど、やっと胸のつかえが取れたような、すっきりとした気持ちでその日の仕事を終えられたような気がした。  眼鏡の有無程度で振る舞いを変えられるくらい実は単純な私だから、些細なすれ違いで気分が沈んだりするし、その逆に大切なひとたちのほんの一言でどこまでだって歩いていけるような気がする。性格の根底が子どもなのだ。  家路を辿るまるで羽根のように軽い足取りが証明している。  こんな気持ちにさせてくれるたくさんの出会いがあったアイドル人生はきっととても楽しいものだったと、わたしと私は誇らしげに胸を張れるのだ。 ◆  今年も各所で点灯の始まったクリスマスイルミネーションを見に出かけようと約束をした。  新しく買ったコートに合う服を姿見の前であれやこれやと組み合わせてみるものの、どうにもしっくり来ず、私はクローゼットから引っ張り出した服が散乱するベッドに体を投げ出す。  織原さんとはそれ以来、数ヶ月の沈黙が嘘のようにRAINのやり取りが再開された。毎日というわけではないけれど、日々あったことを報告したり、相談に乗ったり乗られたり。八神さんと永峰さんのことや、最近は藤間さんとよくつるんでいるようで、彼女の傍若無人さの愚痴をよく聞いているかと思えば、藤間さんの方からは織原さんの当たりの強さの文句を聞いたりと忙しい。我慢強くて芯の硬い子だから、なるほど暴走しがちな藤間さんのブレーキ役には適任だと思った。  直接会うのは久しぶりだ。突然名前を呼び捨てにしたりしたらまた驚かれてしまうだろうか。私ならあいも変わらず名字にさん付けなのだろうけど、わたしはもっとくだけた感じに接したいと思っているわけで。けれど、何事にも順序や段階というものが必要だろう。  ベッドの脇のチェストに置きっぱなしになっている伊達眼鏡を眺める。仕事にはかけていっていない。もともと視力は悪くないのだから、そもそもはじめからかける必要すらないのだ。  仮初の私と本来のわたし。どちらも正真正銘私には違いないのだから、いきなりどちらかを完全に捨て去るようなことはできるはずもない。いい塩梅に折り合いをつけて、どちらともうまく付き合っていくべきだとわたしも私も意見は一致していた。  誰がどういった呼び方が似合うかを頭の中でシミュレートしてみる。織原さんは名前にちゃん付けというイメージがいまいち湧かない。立川さんあたりもサバサバとした性格のおかげか名前を呼び捨てにするのがとてもしっくりときた。  逆に瀬良さんなどは可愛らしいイメージがあるからちゃん付けがとても似合う気がする。勇ましいイメージの桐生さんは照れてしまうからちゃんを付けないでと言っているのを耳にしたことがあるけれど、あえてたまにそう呼んで照れさせるというのもいいかもしれない。先輩特権というやつだ。  そうやってメンバーの呼び方などを再考し、口に出して語感などを確認していくうちに、とうとうその人の番がやってきてしまった。別に避けていたわけではなかったのに、結局最後の一人だ。 「……麗華」  こうやってシミュレーションしておいて良かったと心の底から思う。もし対面してほんの思い付きでそう口走ってしまった時には、言い逃れなどできようもないだろうから。  両手で顔を覆ってひとしきり身悶えたのち、乱れた息を落ち着けて渋い顔のままむくりと半身を起こした。チェストの眼鏡をひっ掴んで顔にかけ、まるでバラの花のように真っ赤になった私が映り込む姿見を睨みつける。  なんだか鏡に映るわたしが滑稽にもほどがある私のことをお腹を抱えて笑っているような気がして、つい、カッとなって枕元のぬいぐるみを投げつけてしまった。  私だって、感情的になってしまうこともあるのだ。 了