三叉路  憧れていた人がいなくなった。  べつに命を落としただとか、どこか手の届かない遠いところへ行ってしまったというわけではないし、転居したという話も聞いていないのでいまも私の見上げるこの大都会の狭い空の下で、きっとあいも変わらずに規則的な呼吸をしているのだろう。  だというのに私と彼女のあいだにある隔たりは想像していた何倍も高く深く、私は時折RAINのトーク画面を開きはするものの、数十分ものあいだ一文字も入力できないまま閉じることばかりを繰り返していた。  朝、事務所に顔を出す時、レッスンルームの防音扉を開ける時、楽屋でメンバーと駄弁っている時、壁の部屋の無闇矢鱈に重苦しい空気に押し潰されそうになった時。視界の隅でいるはずもない彼女の姿を探してしまう。もうここには姿を現さないなんてことは分かりきっているはずなのに、瞼の裏に焼き付いている背筋をぴんと伸ばして静かに読書をする彼女の姿を幻視する。  目の覚めるような真っ赤なドレスに身を包んだ彼女がつい、と眼鏡を外した次の瞬間に浮かべた笑顔が、私の記憶のどこを探しても見当たらないものだったから、殊更に鮮明に脳裏にこびり付いていた。  それがなんだか私の中のあかねさんのイメージとあまりにも乖離しすぎていて、卒業の日まで泣いてばかりいたのに途端に感情の向けどころが迷子になってしまい、それ以来奮起するどころか塞ぎ込んでしまって、膝に力が入らずに浮き上がることすらままならない。  私が憧れていた人は、きっともうどこにもいないのだ。 ◆  予定していた収録が機材トラブルのため後日に延期になり、事務所に連絡して指示を仰ぐと今日はもう午後からフリーということになった。  電話口の合田さんは先方からの連絡で状況は既に把握している風ではあったけれど、流石に想定外ではあったみたいでいつものどっしりとした声音の端に少しだけ焦りの色を滲ませていた。 『ええ、今日はそのままお帰り頂いて構いません。よろしければ車を手配しましょうか』  同行者に通話の内容を告げると首を横に振ったので丁重に断る。すっかり仕事モードに入っていて私も直帰するような気分ではなかったのでちょうどいい。 『わかりました。今後のスケジュールは追ってお伝えします。お疲れ様でした』 「はい、お疲れ様でした」 「すーちゃんもお疲れ様〜」  通話を切って息をひとつつくと、みかみさんはガードレールに腰掛けて何が楽しいのかにこにこしながら足をぶらつかせてのんきな声をあげた。 「今日の相方がすーちゃんで助かったわぁ。ウチひとりやったらどうすればええかわからんかったもん」 「こういうのって普通、先輩がやるものだと思うんですけど……」 「やー、頼りになるなぁ」 「話を聞いてください……もう」  報連相は済ませたものの、依然として今日のこれからの予定は決まってはいない。はじめから決まっている休みならなにをしようかと事前に計画も立てられるけれど、ぽんと降って湧いた自由時間ほど持て余すものもないと思う。メンバーの中でもどちらかといえばインドア派に属する私だからなおさらだ。気分で合田さんの提案を断ったのは早まったかと思ったけれど、なんだかんだで上京してきたものの観光らしい観光もしたことがなかったので、いっそのこと思い切って足を伸ばしてみるのも手かもしれなかった。 「お腹空いたなぁ」  時刻を見るとお昼のすこし前。私は朝ご飯を少し遅めに摂ってきたので余裕はあるけれど、どうやらみかみさんの腹時計はとても正確らしく、鞄の中をごそごそとまさぐっておやつを探している。 「どこか入りますか?近くのお店調べますけど」 「やっぱりすーちゃんは頼りになるわぁ」  観光スポットを検索する手を止めて食事のできる場所の検索に切り替える。 「なにか食べたいものあります?」  聞くと「せやなぁ」と口元に人差し指を当てて、みかみさんはビルと空の間あたりの何もない空間に視線をやった。その仕草が可憐なうえにごく自然で、私の眼の前にいる人はとても手はかかるけれど根っこは生粋のアイドルなのだと再認識させられる。なんの計算も下心もなしにこういった可愛らしい行動ができるのだ、この人は。  みかみさんの返答を待っているとぶるる、とスマホが震える音が聞こえてきた。私が手に持っているものは微動だにしていないのでこの振動はおそらく、 「あっ、ウチのやわぁ」  コートのポケットからスマホを取り出して数タップ。通知を確認して表示された文面を読み終えると、みかみさんはわぁ、と語尾にハートマークがいくつかついたような甘ったるい声をあげる。 「なぁなぁ、すーちゃん今から時間ある?」 「時間があるからごはん屋さん調べてたんですけど……」 「堪忍なぁ。行くとこ決まったかもしれへん」  言って、みかみさんはディスプレイに表示されたトーク画面をそのまま私の方へ向けてきた。 ◆ 「織原さんはどんな風になりたいんですか?」 「もちろんあかねさんみたいになりたいです」  あかねさんの問いに間髪を入れずに即答する。わりかし勇気を出して告げた言葉だったけれど、あかねさんはそんな答えも予想していたのか、ほんの一匙分だけ微笑んで動じることもなく淡々と返してくる。 「ありがとうございます。でも私のことはあまり参考にしない方がいいですよ」  その言葉がなんだか突き放しているみたいで、私は思わず目を見開いた。 「そうなることと、そう演じることは似て非なるものですから」  的を射なくてぼんやりとしていて、言っている意味がわからない。日頃から論理的な言動と冷静に状況を分析してくれる頼りになる憧れの先輩だったのに、そんな自分のことを見習うなと彼女は言う。  さぁ、と血の気が引いて体温が急激に下がったのを感じる。あかねさんは真っ直ぐに私の目を見つめてくれているのに、視線を合わせることができない。おかしな顔をしていないだろうか。恥ずかしい。 「どちらかといえば貴女は佐藤さんに似ていると思いますし、私なんかの真似をしても良い方向に進むとは思えませんので」 「なんかなんて言わないでください!」  思わず声を荒げ、両手で顔を覆う。泣きそうだ。  加入したての頃から、少しとっつきにくいところはあるもののクールで優しくて、本当の本当に憧れだったのに、目前に迫った卒業を前にして急にどうしてそんな突き放すようなことをするの。 「ごめんなさい。ですが、事実ですから」  ふわりと背中に腕が回されて、胸に抱かれながら子供をあやすように頭を撫でられる。 私のこの癇癪みたいな反応も予想済みだったのか、服越しに肌に伝わる彼女の心音は相変わらず一定のリズムを刻んでいて、変化がみられなかった。  せめて、少しくらいは心を乱してくれてもいいのに。 ◆ 「あっ、みかみちゃん、純佳ちゃんこっちこっち!」  ステンドグラスが窓枠に嵌められた古めかしい扉を開くと、からんと年経た金属の擦過音が静かな店内に響いた。SNSでバズるような派手さはないけれど、渋くて上品な、雰囲気のいい店だった。俗に言う隠れ家的な、というやつ。足を踏み入れるとコーヒー豆の香ばしい香りが鼻腔をくすぐった。 「あ〜、さーちゃんや〜。れーちゃんもおる〜」  雰囲気に似つかわしくない桜さんの不必要に大きな声と、みかみさんの気の抜けるようなのんきな声が交錯する。  それよりも、今は桜さんの向かいの席に座る女性の存在だ。入口側に背を向け、少し赤みがかった長い髪を翻して、振り返ったその人の風貌には見覚えがあった。見覚えどころの話ではない。直接の面識はなかったけれど、よく知っている人がそこにいた。  佐藤麗華。私達三期生の加入よりも前に22/7を卒業した、元メンバーだ。  驚きはない。みかみさん宛のトーク画面に送信されてきた二人の自撮り写真とそれに添えられた「二人も来る?」というメッセージを見た時にしこたま驚いておいたからそれなりに覚悟はしていた。……いや、それでも少し……いやかなり緊張している。 「麗華ちゃん、この子が織原純佳ちゃん」 「は、初めまして、佐藤さん」  少しだけ声が裏返ったし、どもってしまった。もしかしたらステージの上よりも緊張しているのかも。 「麗華でいいよ。OGなんだし、桜やみかみと同じような感じで」  麗華さんはそう言ってくれてはいるものの、会ってすぐには少し難しい。  自己紹介を済ませて促された席に着いて注文を済ませる。お腹を空かせていたみかみさんはがっつりめにオムライスを頼んだけれど、私はといえばもともとそれほど空腹ではなかったことに加えて、こんな先輩だらけの圧迫面接みたいな席でおすすめのナポリタンをずるずると啜れるほどの胆力もなかったので、アメリカンをひとつ所望した。 「いやぁ、えらい目に遭うたわぁ」 「むかーしは仕事でトラブルに遭うことはあっても延期なんてことは少なかったのにね」 「最終的には丸く収まったものね」  久し振りに直接会った先輩方は昔話に花を咲かせていた。多少の蚊帳の外感は感じるものの、興味深い内容もあって私は終始耳をそばだてていた。 「あっ、私知ってます、その話」 「知ってる知ってる。この前番組でやってたわね」  お互いがお互いのことを画面越しに一方的に知っているという奇妙な関係ではあったけれど、なるほど、あかねさんの言うように私と麗華さんは世話好きの委員長キャラということで似通うところがあったようで、初対面にしてはそこそこ会話も弾んでいたような気がする。 「こんな先輩ばっかりで苦労するでしょう、純佳」 「あっ、麗華ちゃんひどーい」 「ほんとですよ、まったく」 「心外やわぁ」  食べ終わった軽食の皿を下げてもらって飲み物を注文すると、桜さんはお手洗いに立ち、「ウチも〜」とみかみさんもそれに帯同していった。  お見合いか何かではないのだから、今日初めて顔を合わせた同士を残して二人して席を立ったりするだろうか、ふつう。  ただまぁ、二人の前ではしづらい話をするには好都合だとは思った。 「……あの」 「ん、なに?」  紅茶のカップに息を吹きかけながら、麗華さんは私の問いかけに返事をする。  いえ、なんでもありません、と取り下げるなら今のうちだ。けれど、逡巡のうちに脳裏にあかねさんのあの笑顔がちらついて、意を決して飲み込みかけた言葉を捻り出した。 「麗華さんはどうして卒業するって決めたんですか」  私の言葉に麗華さんは一瞬面食らったように僅かに勝ち気そうな目を見開いたあと、困ったように眉を下げて笑った。 「言いにくいことを聞くね」 「……すみません。言いたくなかったら全然、いいですから」  芳しい反応が得られず、思わず縮こまって俯いた。私はなんて失礼なことを。  麗華さんはカップを置き、砂糖もミルクも入れていないのに手持ち無沙汰気味にティースプーンで濃い琥珀色の液体をぐるぐるとかき混ぜ、小さな渦を作った。言葉を選んでいるのだろうか。 「やりたいことができたから……って言い切れれば格好もつくんだけど、たぶん欲しい答えは違うよね」 「…………」  おそらく麗華さんも察しはついているのだろう。  ごく最近、同期の叶愛ちゃんと楓ちゃんがグループから卒業をした。どちらも突然のことでしかも立て続けで、発表後にステージに立つ余裕すらなく私達のもとを去っていった。  悲しくて悔しくて不安が心を埋め尽くして、藁にも縋る思いだった。 「壁がそう言ったから」  悪い予感が当たり、歯噛みした。  記憶が確かならば、私の加入後に四度だけ、事務所の地下に聳える壁が吠え声をあげた。  ひび割れ、一部が崩落してもなお本格的な補修はされず、簡易的にトラロープが張られているだけのそれが向こう側に誰もいないのに遠隔操作でもされているのか唸りをあげながら突然金属片を吐き出したのだ。  今の事務所の前身にあたるG.I.Pの社名が刻印されたそれには決まって『卒業発表をせよ』とだけ書かれていた。  絢香さんはその時が来るのがわかっていたかのように気まずそうに頭を掻き、叶愛ちゃんは悔しそうに顔を歪めながら胸中を打ち明け、楓ちゃんは膝から崩れ落ちて両肩を抱いて泣いていた。  あかねさんはといえば、まるで天気の話でも振られたかのように「そうですか」とだけ呟いて、プレートを見つめていたのをうっすらと覚えている。 「……壁が言うことならなんでも従わなきゃいけないんですか」 「そんなわけないじゃない」  怒りにも似た感情に声を震わせてやっとのことで絞り出した言葉を、果たして麗華さんは即座に否定した。はっとして顔を上げる。 「デビューして一年は理由もわからずに従ってたけど、壁の提案を蹴るか受けるかは、結局当人次第なんだから」 「でも、卒業しろって言われた人たちはみんな……」 「そうなのよね。見透かされてるみたいでそこは腹が立つわ」  肩をいからせ腕を組んで眉をしかめながら麗華さんは怒りをあらわにしたのち、目を細めながらほんのりとティーカップから立ち上る湯気を眺めた。 「……癪だけど、見透かされてるのよ。何がしたいかとか、何をすべきなのかとか、全部」  寂しげに揺れるその瞳の奥にどんな気持ちが渦巻いているのかわからないけれど、なんだか触れづらい雰囲気を感じ取って二の句が継げなかった。 「そういえば、みうは元気?」  突然、脈絡もなく発された麗華さんの言葉に思わず面食らう。  部屋の隅でぼんやりとしていたり、大きな物音に怯えたり、お弁当の嫌いなものをメンバーに押し付ける姿を思い浮かべる。 「えっ……元気といえば元気だと思いますけど……」  偏食家でインドア派の究極みたいな人の日常を元気と形容していいものかと首を捻るが、あんなに不健康そうな生活をしているのにたいして体を壊したりなどはしないので元気ということでいいのだろう。たぶん。 「そう、ならよかった」  頭の上にハテナマークをいくつも浮かべる私をよそに、麗華さんはちょうどいい温度になった紅茶のカップを傾けた。 ◆  グループに入りたての頃、塔子たちが面白半分で壁に開いた穴から奥を探検してきたことがあった。  私も誘われはしたけれど、不気味ではあったし立入禁止の札がぶら下がっている場所に入るというのも気が引けたので遠慮しておいたものの、無事に帰ってきたメンバーに中に何があったかを聞くくらいには興味があった。 「期待してたようなものはなにもなかったよ」と、叶愛ちゃん。 「よくわかんないプレス機?みたいなのが部屋の真ん中にあったよ」と、穂乃花ちゃん。 「全員でキャンプできるくらいには広かった」と、楓ちゃん。  そんな退屈な報告を聞いて「なーんだ、つまんないの」と大きく嘆息をつくと、同期メンバーは揃って目を丸くした。曰く、もっと無機質で真面目寄りの性格だと思われていたらしい。 「機械じゃあるまいしそんなわけないでしょう」と頬を膨らませると、誰かがぷっと吹き出してそのままみんなが笑いだして、たいへん不愉快な思いをした覚えがある。  けれど、そんなことがあったから、地方から出てきたばかりで毎日緊張で張り詰めていた糸がほんの少しだけたわんだ気がして、肩の力が抜けたのを今更になって思い出した。  そうだ、だから私はあかねさんのようにはなれないのだ。  眼鏡を外して浮かべた子供みたいに無邪気な笑顔が、視界にまるで飛蚊症のように焼き付いている。普段の小さな微笑みとあの時の爛漫な笑顔はどちらが本当のあかねさんなのだろう。思うにきっとおそらく、後者なのかもしれなかった。  それを目の当たりにしたとき、何に対してなのかはわからなかったけれど、私は少なからずショックを受けた。ずっと騙されていたという失望なのか、憧れていたものが実は張りぼてだったという落胆なのか。  いや、きっとあかねさんがキャラクターを演じていたということ自体よりも、憧れを否定された事実をあの笑顔で補強されたことが、突然指針を失ったみたいに思えて怖かったのだ。  だってそもそも私とあかねさんは違っていたから。目指したものへの道程でほんの少しだけ似通った部分を見つけて思わず駆け寄ってしまった、ただの寄り道。  加入してからこれまでのほんの短い期間ですら、私は優等生を演じきれなかった。卒業するまでという長い期間のあいだ、舞台で役を演じきるという意思を宿したあかねさんはいったいどれだけの精神力を持っていたのか。卒業という選択を提示されたとき、彼女はどう思ったんだろう。清々した?肩の荷が下りた?もう少し演じていたかった?  全部を知っていると思っていたのに到底理解が及んでいない。博識なことと理解をしていることは似ているようでまるで違うように、何かに成りたいことと何かに憧れることもまた違っていた。  そう思い至ったとき、突き放すように感じたあの言葉が、ふわりと背中を押す風のような優しさに満ちていたということに遅まきながら気付いてしまった。  スマホのスリープを解除して緑のアプリアイコンをタップし、何ヶ月も動きのない個別トーク画面を呼び出す。  あれだけ頭を捻ったのに一文字も打てなかった文言が、あとからあとから溢れ出してくる。あまり長文になりすぎても重くて引かれてしまうだろうし、書き上がった文章を校正して削りに削った。何度も見返して誤字脱字がないかを確認し、震える指で紙飛行機を模したボタンをタップすると緑色の吹き出しが画面に現れた。  スマホの画面を穴が開くほど見つめる。永遠かとも思えるような時間。すぐに既読がついたり返信が返ってくるとは思わなかったけれど、迷惑にならない時間を選んだし、祈るように両手でスマホを掲げた。  なんの前触れもなく送信時間の上に既読の文字が浮かび上がり、びくりと全身を震わせる。ばくばくと鳴る心臓の音がうるさかった。  続けざまに四つ吹き出しが現れて、そこでようやく呼吸をすることを思い出した。 「ありがとう」 「嬉しい」 「あなたも頑張って」 「応援してるから」  全身が弛緩してベッドの上でうずくまった。 『ご卒業おめでとうございます』  たったそれだけを伝えるのにずいぶんと長い時間がかかってしまった。  ディスプレイに雫が落ちて画面が滲む。気づけば枯れ果ててしまったと思い込んでいた涙がぽろぽろと零れ落ちていた。  あぁ、そうか。たぶん私はそれを伝えたくなかったんだ。だって伝えてしまえば本当に彼女は、彼女たちは私の中からいなくなってしまう。だからなんだかんだと理由をつけて先延ばしにしてきたんだと、ようやく気付いた。 ◆ 「織原ちゃん、最近すごくよくなってきてるよね」  バラエティ番組の収録の合間に、MCの方がそう声をかけてきてくれた。 「はぁ、ありがとうございます」 「トークも面白いし、案外ガッツもあるし、それだけじゃなくて弱い一面も見せてくれてバラエティ的に美味しいよ」  ベタ褒めの言葉がこそばゆい。プロの芸人さんにトークが面白いと言ってもらえるのは相当に光栄なことだ。 「なんかあったの?心境の変化とか」 「眠ってた才能が覚醒したのかもしれませんね」  話せば長くなるし、恥ずかしいのでその場は小ボケではぐらかした。  ケータリングのドリンクを紙コップに注いで窓際まで数歩。楽屋の窓のブラインドを開いて空模様を確認すると、晴れとも曇りともつかない曖昧な空が広がっていた。  ちら、と視線を横に遣ると部屋の隅の壁際でいつものようにみうさんが椅子と椅子の間の床で体育座りをしていた。お腹を空かせているだろうし後で何か差し入れてあげないとと心の中でリマインドして、視線を窓の外に戻す。  そういえば、気付けば最近は視界の隅に彼女の姿を探さなくなっていた。だって彼女はもうここにはいないことは理解できているから。  私の憧れていた人はもうどこにもいないけれど、私の大好きだった先輩はきっと今もこの空の下にいるのだ。  そう思うことで、少しだけ前に進めたような気がした。 了