1  両親は共働きで、いつも僕は家に一人でいた。  親密な友達を作ることも苦手だったので、家に人を招いたり、遊びに行ったりもしない。  別に虐められているというわけでもなかったけど、人見知りが激しいほうで、自分から壁を作っていたのが理由だ。  まぁ、自分からそうしていたというのもあるし……それを苦というほど苦にしていないから、我儘を言って両親を困らせるということをしなかったんだと思う。  泣き喚いたりするようなタイプでもなかった。  その分は宿題をやったり、本を読んだり、ゲームをしたりして過ごした。  一人の時間を楽しめるほうの人間……というと語弊があるかな。  一人じゃないと楽しめない、が近かったのかもしれない。  今日は近所の本屋に行って、何を買うでもなく歩き回っていた。  特に目当ての本があるわけでもなく、面白いものはないかと探すのが好きだった。  今眺めているのは、ゲームの攻略本のコーナー。  ゲームの攻略本って最近は売れないらしいけど、僕は好きだ。  遊んだゲームの資料としての価値は高いと思っている。  世界観に浸ったり、想像する余地がいっぱい広がるから。  だから、逆説的に遊んだことのないゲームの本は買うことがない……はずだった。  ふと、クラスメイトが話していたことを思い出す。 「超かっこいいカードが最近当たってさー!」 「なんて言うのー?」 「とらいぶりげーどあーむずぶー……」 ……固有名詞は、聞き耳から入れるには複雑でよくわからなかったけど。  超かっこいい、って具体的にどういうのなんだろう。 「どれが超かっこいいカードなのか」よりも、「超かっこいいカードがある」という事実が、僕の関心を動かした。  パックなんて封入がランダムなものを買っていたらお金がかかってしょうがないし、そもそも僕には対戦相手なんて居ない。  カードのこと知るだけならこの本で十分じゃないか。  そう思った時にはもう、妙に大きなそれを手に取っていた。  そこからはまぁ、流れというか。  結局イラストで楽しむだけではなく、カードの実物も欲しくなってしまった。  本の中にはすごく色んなカードがあって、かっこいいものだけじゃなくて、怖いのとか、綺麗なのとか、本当にどれもこれもが魅力的だったから。  そうして僕は、黄色い銀杏の葉が散らばった道を往き、近所のカードショップに足を運んだ。  顔を出すのは初めてだったけど、店員さんは親切でほっとした。 「これとこれとこれが入ってるパックが欲しい」と言ったら素直にいくつか教えてくれた。  ただ……それはいいんだけど……その上で「こちらもどうですか」と勧められたのは、少し断りづらかったな。  さて、家でカードを開封するということも、僕にとっては初めてのこと。  未知の感覚……率直に言ってすっごい楽しい。  最初のパックから出てきたのは……《氷水のエジル》。  氷水カードはみんな綺麗で、個人的に好きだ。 「あれ、こっちもエジルか」  まばらに3種類から買ったけど、どうやら別の種類のエジルがこっちには入っていたみたいだ。  この《氷水啼エジル・ギュミル》は白い枠だし、ピカピカ光っててかっこいいぞ。 「またエジル?」  それから出てきたのは、《氷水帝エジル・ラーン》。  最終的には、なんかもう氷水デッキを組んでもいいんじゃないかってくらいに引きが偏ってしまった。  後は出てきたカードたちを整理して、きっちり保管する。  こうして見ると満足感があるなぁ……。 「……ねぇ」 「えっ、誰!?」  家に僕しかいないはずなのに、人の声がする!  鍵は閉めてたはず!  強盗か!  そう思い振り返ると、視線の先にいたのは……。 「……こんにちは」 ──これを後から思い返してみると、とにかく不思議だった。  何故すぐに“そう”だと理解し、“そう”だと受け止めることができたのか。  幼少期故の適応能力とでも言うべきなのだろうか。  とにかく俺は、実在するはずのない透明な彼女が目の前にいて、口を開いたことになんの疑問も抱かなかった──。 「……エジル?」 「うん。わたし、エジル」 「なんでここにいるの?」 「そうだなぁ……気付いたら居たというか……。今の自分がどういう存在なのかはなんとなく解るんだけどね。わたしは別の世界から来たんですって言って、伝わる?」 「わかる!」  神さまとか、サンタクロースとか、僕はいると思っている。  エジルも本当にいて、たまたま来てくれただけなんだと。  瞼にあたるそれを瞬いて、一呼吸してからエジルはまた喋りだした。 「……へぇ。……まぁ、別にどっちでもいいよ。しばらくここに居たい。いいかな」 エジルの懇願と同時に、エンジンを吹かす音が聞こえてきた。 バックで車庫に車を入れている……つまり、帰宅の合図だ。 「あっ、帰ってきた。ごめん、いいかどうか聞かないと」 「大丈夫、わたしはきみにしか視えないから」  これも、そういうものかと納得した。  そして、僕が納得した後にドアを開けた母が驚く素振りを見せないあたり、彼女は嘘をついたりなんかしてないことを再確認する。  そういうわけで、奇妙な同居人がここにできた。 2 「エジルって、その……」 「なに?」 「……えっと」  エジルと友達になった晩に、色んな事が聞きたくなるのは道理だった。  何から何まで未知の生命体だから。  ただ、何から聞いていいのかは困る。 『聞いてはいけないこと』だけは避ける言葉選びが難しい。  それは僕が『聞きたくないこと』でもあるから。 「やっぱり夏場は大変だったりするの?」 「どうかな。わたしの故郷は、いつも涼しかったから」 「あっ……。じゃ、じゃあさ、ここは日本っていう国なんだけど、ひょっとしたら新鮮な体験になるかもしれないね」 「日本っていうんだ。どうして、未知になるかな」  いけないいけない、どうにか会話の軌道を変えられたけど。  気を付けないと。 「日本は、夏場は暑くなるだけじゃなくて湿度が凄いんだ」 「じゃあ、私がいたらもっと湿度上がっちゃうかもね。」 「それは……」 「大丈夫だと思うよ。私がいたら、涼しいが先にくるから。ほら」 「ひゃっ!?」  冷たい!!  エジルが唐突に首裏に手を置いたので、僕は何歩か脚を踏み出す羽目になった。  意外とスキンシップが激しいよ……。 「なにするの!?」 「ふふっ、ごめんね。でも、こんな私なら夏でも一緒にいて快適だよ?」 「この……!」  手をワキワキし、口角を上げているエジルを見て、第一印象のおとなしそうな不思議ちゃんという印象が少し傾いた。  よーし、それなら僕も。 「この街の夏はそんなんじゃないんだぞー!」 「へえ、具体的には?」 「道路とか、壁とか、車とか、とにかく熱い!暑いんじゃなくて熱されてるの!割った水風船の中身がすぐ乾いちゃう!」 「え……怖……」 「えっへん!」 ──相手を引かせたのがなんか嬉しくって、後から思い返してみると言い張ってるのは自分のことじゃないのに、それは滑稽で。  こういう幼少期特有の張り合いってあったなぁって、少し思う──。  そんなこんなで、エジルとの会話がヒートアップしていく。  初めての一日は、楽しかった。 3  何日か経って、エジルと過ごす日々にも慣れてきた。   確かに楽しいけど、ちょっと気を使う。  自分にしか視えない彼女と話していたら周りに変だと思われちゃうから、「二人で話す時は二人きり」を心がける必要があった。  問題は学校がある日。  一緒に居られなくて、心配以上に別の何かが湧いてくる。  そう……多分、“寂しい”んだと思う。  一人で過ごしてる時はこんな気持ちにはならなかったのに、一度できた友達とは、離れているだけでそわそわしてしまう。  早く会いたい、会いたいって思いながら授業を受けた。  エジルのほうは自由気ままに歩いているみたいで、下校時間になると来てくれる。 「おかえり。今日も色んなものを見て楽しかったよ」 「良かった、お話聞かせて!」  既に分かってるけど、それを身構えた上で尚、エジルと手を繋ぐとひんやりする。 「このくらいの大きさで黒い生き物を見つけたんだけど、よじよじ歩いてる姿が面白い。足はいっぱいあって、なんか丸っこい」 「それはダンゴムシっていうんだ。触ると丸まるんだよ」 「既に丸いのに?」 「うん」 「何それ、見たい」 「探してから帰ろっか」 ──母さんに怒られちゃった。  日が暮れるの、早くなったなぁ。 4  エジルの人となりも、少しずつ分かってきた。  エジルは床を歩くと濡れてしまうので、いつもふよふよ浮いている。  つまりはそういうことへの気遣いができる人(?)ということでもある。 「いい天気だよね。日差しでキラキラしててエジルの身体が綺麗だよ!」 「………………」  ただ、なんだか心ここにあらずというか……。  ぼーっとどこかを眺めてることが多くて、話しかけるのに躊躇してしまうことがある。  今日もエジルは、窓の外をじっと見つめていた。 「……あっ、ありがとうね」  そんな何かを思い詰めている時でも、気付いて笑顔を作ってくれるから、本当は優しい人なんだと思う。 ……でも、どういう身の上なのかは聞いていない。  氷水についての話もしていない。  できるだけ、来てからの話をするように心がける。  氷水の話を僕は知っている。  言ってしまえばそれは、とっても悲しい物語。  エジルがどういう風にしてここに来たのかは知らないけど、そこを聞くと、どうしてもそっちについても触れてしまいそうな気がした。  でも、それこそ薄氷を踏むような真似だ。  とても嫌な気持ちになると思うし、何より僕も踏み込む勇気がなかった。 5  彼がもう眠ったことを確かめて、窓から月を見上げる。  夜空だけは“あっち”のほうが綺麗だった。  星が視えない。 ──だけど、私にそんなことを言う権利はない。  一人残された私には、時間だけはあった。  現実から目を背けるように調べ事をした。 “ここじゃない世界”を知ってからは、更に行く方法の研究に没頭する。  逃避に逃避を重ねた末に今がある。  そう、私は総てを知って、全てを投げ出したのだから──。  彼の人となりも、少しずつ分かってきた。  いい子。  別段何か取り立てて変わったところはなく、少し一人で居ることが多いだけの普通の子。  それがこの少年。  少なくとも、この心への傷薬にはなってくれていると思う。  それに一人なのは、むしろ良かった。  私だけを見てくれるから。  一対一で話してくれるから。  何も知らない“という体で”接してくれるのも嬉しい。  自分が「氷水のエジル」であることからは逃げられないけど、「氷水帝のエジル」とは見做していないようだから。  友達として接して、極端に敬ったり、役目を押し付けてもこない。  でも、もどかしい。  きみが知らないフリをしていることも、私は知っている。  手袋を嵌めてから、本棚に向かう。  この手袋は水を通さないから、触れても物が濡れることがなくなる。  何も触れないのは寂しそうだからと、彼が買ってくれたものだ。  伸縮性もあって、使い勝手は良い。  この手袋についてだけでいつまでも語っていられそうだけど……。  そういう気持ちもありがたいけど……。  それでも、この胸のざわめきは消えないから。  本棚から一冊の本を引き抜いた。  この本には、わたしたちのことが書かれている。  彼との会話がぎこちなく感じたのは、最初からのことだった。  何か隠しているんじゃないかと部屋を物色して、見つけてしまった。  初めて盗み見た時は、目を疑って何度も何度も読み直した。  でも……紛れもなく事実だった。  この本についての解釈は、色々できる。  わたしのように、こちらから向こうに干渉した者が記したのか。  この本が何かしらの預言書めいているのか。  わたしたちの世界が創られた物語なのか。  まぁ、今ではみんな被造物でも別にいいか……なんて思ったりする。  そう綴られたのなら、諦めもつく。  そんなことよりも、今(かれ)のこと。  踏み込んでこない、彼(いま)のこと。  こんな本を持っているのにも関わらず、“向こうでの私”について触れてはこない。  無神経でないのは、いいことだと思う。  この年頃なら“友達について”だとか聞いてくることもあるだろうから、本当に賢しい子……。 ……だから……でも……。 ……参ったなぁ。  きみはこんなに幼いのに、色んなことが浮かんでくる。色んなことを求めてしまう。  嗚呼、踏み込まれたくなんてないけれど、全てを曝け出してしまいたい。  二律背反。  それ自体はそれなりにあるかもしれない心理じゃないかなぁ……と、少しだけ自分を赦してみる。  でも“こっち”に関しては、酷いことだと自分でも思う。  全部、彼の全部を、思い通りにしてやりたい。  真っ白のキャンパスに黒い絵具を塗りつけるように。  真水を濁すように。  酔い潰すように。  泣かせたって構わない。  嗚咽混じりだっていい。  それでも、きみとわたしで同調したい。  そうして、その上で初めて聞くことのできた本音は、できる限りわたしと同じ気持ちであってほしい。  そうじゃないなら、わたしと同じ心持ちに近づけてしまいたい。 ……つまりは……。 「よくないよ……」  瞳から、一滴の雫が零れ落ちた。  水で出来た身体の瞳から滲み出るそれを、わたしたちは人間と同じように涙と定義している。  最近になって、また出てくるようになった。  もっともっと前は、いっぱい出していたな。  想いは堂々巡りで、結局何かを起こすこともなく。  月明かりに照らされながら過ごす、そんな夜がたまにあった。 6 「………………」 「……………………」  今は彼と並んで道路を歩いている。  おつかいでスーパーに行くらしい。  楽しそうに歩いているけど、話しかけることはできない。  人通りもある場所で虚空と喋っていれば、当然不思議がられてしまうから。  もし、わたしが彼以外からも視えれば……尚更驚かせちゃうか。  じゃあなんで一緒に歩いているかって、まぁ、それはただの気まぐれなんだけど。 ……そう、気まぐれ。  でも、もどかしいなぁ。  学校と違って、すぐそばにいるのに。  それとも、今ここで……。 「ふふっ」  誰に聞こえるわけでもない声量で、自嘲してしまった。  浅ましいよね、こんなわたしは。 「何か言った?」  おや、聞こえちゃってた。 7 「……………………」 「………………」  エジルと一緒に歩いているけど、話しかけることはできない。  流石に世間体を悪くして浮きたくはないから。  一人でいるならまだしも、可哀想な子として目立ちたいわけじゃない。 ……ただ。  それでもエジルが一緒に歩いてくれることが、僕には嬉しかった。  多分、心配されてる。  そして何より、僕と一緒に居てくれることを優先してくれることが嬉しい。  喋れずとも共に居る時間を優先してくれているんだから。 「ふふっ」  そんなことを考えていたら、丁度、エジルが笑ったように聞こえた。 「何か言った?」  もしそうなら、嬉しいな。  僕だってずっと一緒に居たい。 8  何気ない日常の中で誓いを立ててから、早数年。  中学にも上がると両親の意向もあり、部活に入らざるを得なくなった。  流石にコミュニケーション能力に問題があると思われてしまったらしく、何かしらに属することでの改善が狙いのようだ。  俺にはかけがえのない相棒がいるんだけど……まぁ、親の立場なら仕方ないと思う。  ちなみに、入ったのは美術部。  人見知りが激しい自覚はあったので心配だったけど、意外にも問題はなかった。  そういう傾向のインドア人間が集まった部活だから、むしろある程度の統一性があったという……。 “ぼっちあるある”なんかで共感しあったり(盛り上がるとは少し違う)、あまり相手に踏み込まない、過干渉しない距離感を心がけたり……。  そういった居心地の良い空間を作ろうという共通の意識ができていた。  運良くカードゲームという共通の話題もあり、結果的には両親の狙い通り友達を作ることはできた。  そう、カードゲーム。  俺は今のように、部活終わりに友人たちと対戦するくらいに打ち解けている。  だが……。 「表が出たから先攻で。《氷水のエジル》を召喚」 「ほい《灰流うらら》」 「特にチェーンはなし。じゃあ《クリスタル・シャーク》を捨てて《氷水帝エジル・ラーン》を発動ね」 「出たー、いつものコンボ」 「お前いっつもエジル手札にあるよな。ちゃんとシャッフルしてるか?」 「ははは、カットしたのはそっちじゃないか。ははは」  出てくるのは、“そこにいる彼女”とは真逆に乾いた笑み。  カードの精霊という立場には拘りがあるのか、俺が対戦する時は決まってエジルは駆け付けてくる。  手札にエジルが来るのも、そういう恩恵なんだろう。  それは嬉しいんだけど……その顔は、いつもむっつりと楽しくなさそうな表情をしている。  故に、肝は冷える。  前に「戦うのが好きじゃないなら、別のデッキを組んでみるのも考えてるんだけど……」と尋ねてみたけど、「違うよ」の一言で済まされてしまった。  最近のエジルは、笑うことが減っている気がする。  何か嫌なことがあったのか。  それとも、やっぱり昔のことが辛くなってきたのだろうか。  未だに俺から切り出したりはしていないけど、昔の自分とは違う。  もしもエジルに限界が来て吐き出してきたら、しっかり受け止められるようにはしたいと思う。  何戦かのデュエルを経てお開きになった後も、エジルの態度はつれないものだった。  俺が声をかけるよりも早く、その場から去ってしまう程に。  外はもうすっかり暗くなっていて、寒風が吹きつけてくる中を歩いて帰る。  友達は増えたのに、俺は今、虚しい。 9  人は成長する。  成長しなきゃいけない、ともいう。  わたしは無理矢理にでも成長せざるを得なかった。  成長した先には何もなかった。  彼は、健やかに順調に成長している。  成長した先で、新しい友達を得た。  羨ましいな。  妬ましいな。  わたしだけが彼の傍にいて、彼だけがこの世界でわたしの全てだったのに。  ある日から彼の周りにも人が増えた。  ふたりぼっちなのは、わたしだけになった。  そんなのずるいんじゃないかな。  今まで私を踏み留まらせていたのは、それが良くないことだって自覚……だけじゃない。  彼も孤独だったから。  わたしと一緒だったから。  でも、もう違う。 「……いや、好都合かな」  わたしだって、最初から何もなかったわけじゃない。  大切なものがあったから、奪われたんだ。  今のきみからなら、奪うことができる。  ねぇ、わたしと一緒になってよ。 10 「あれ、どうしたの」  朝、美術室に人だかりができていた。  空気……というべきだろうか。  淀んだそれが、嫌なことが起きたのだと、日常が壊れてしまったのだと告げているような気がした。  出入り口を通してもらうと、合点が行く。  美術室が水浸しになっている。  俺の作品の周りだけを除いて。 「お前じゃないのは分かるよ」 「濡れ衣狙い、ってやつだろうなぁ」 「何上手い事言ってんだよ」 「別に言ってねぇよ!」 「ああ……うん。疑わないでくれてありがとう」  こんなことができるのは、一人しかいない。 「犯人に心当たりがあるから、行ってくる!」 「どこに!?」  みんなを後にして、俺は駆け出した。  こういうのは思い出の場所とかに行ってそうなものだけど、生憎今の彼女が俺の家にいるとは思えなかった。  となると、もう虱潰しだ。 ……あれ、居る。  いよいよ校門を走り抜けようとした直前、横目で見えた光を反射する身体は、間違いなくエジルだった。  ビオトープ付近のベンチに腰掛けて、池を眺めている。  そんなに遠くに行ってなかったのは、隠れる気がなかったんだろうか。  あるいは、後悔で動けなかった……とか。  近寄っても、逃げ出す様子はない。 「エジル……隣いい?」 「…………………………」  返事はないが、エジルは左にずれて座り直した。  その態度は、了承と受け取って良いだろう。  どう事情を聴き出そうか思いながら座った矢先、口を開いたのは彼女のほうだった。 「ねぇ、どう思った?」 「……辛いかな」  深呼吸して、心を落ち着ける。  それでも、手は震えている。  それでも、いよいよ彼女と向き合う時が来たのかと、覚悟を決める他にない。 「これでまた、ひとりぼっちだね」  エジルの行動の狙いは、俺をまた孤独にすることだったようだ。  でも、その理由はまだ分からない。 「いや、誰一人として俺を疑わなかったよ」 「……そっか。じゃあ、何が辛いの?」 「君がこんなことをしてしまったこと。君にこんなことをさせてしまったこと」  考えはまとまらないけど、伝えないと。  紛れもない、思考のフィルターすら通してない俺の本心だ。  エジルには自分しかいないから、きっと自分のせいでもある。  その自覚が、どうかエジルにも伝わって欲しい。 「ふぅん、辛いんだ。よかった、もっと辛くしてあげる」 「え?」 「きみの部屋にある本、全部読んじゃった」 ──その瞬間、すべてが止まる。  世界も時間も呼吸も視界も聴覚も。  あるいは意識だけが光を越えて、すべてを置き去りにしてしまったのか。  それ程までに静寂な一瞬だった──。  つまり、エジルは、あんなに、辛い目に、遭った後で、自分が、どんな存在か、自覚を……。  そんな、じゃあ、じゃあ……! 「うっ……ぐっ……うぅぅ……」 「私ね、ずっと知ってたの。……きみがわたしの過去を知っているのも、避けていたのも」  今までの自分の甘さを突き付けられると、もう、涙を押し留めることができない。  ずっと、ずっと、ずっと、エジルは全てを知っていて、俺を……!? 「きみの気遣い……意味なんてなかったんだよ……!」 「うっ、あぁぁぁ……」 「うん、いい声。でも、もっと言いたいことがあるの」 「な……に……?」  聞きたくない。  俺の、俺達の時間を、思い出を否定しないでくれ。  そんな願いは届かず、エジルは続ける。 「わたしの最後の戦いは知ってるよね」 「……」 「わたしが手にかけた『あの人』は……あこがれだった」 「…………ッ!」  そんな想いも察することなく、俺はエジルとの日々を何も考えずに享受するだけだった。  エジルにとっての俺は、一体なんだったんだろうか。  そんな思いを抱えながら、俺とずっとここまで一緒に居た真意は。 「どうして……。結局、どうしてこんなことをしたんだよ……!何がしたかったんだよ……!」 「それはさっき言ったと思うけど……まぁいいや」  茫然と涙を零す俺の顔を除き込むように、エジルは俺の目の前にしゃがみ込んだ。 「見たい顔も見れたし、話してあげる。要は……わたしとお揃いになって欲しかったんだ」 「お揃い……?」 「昔からそう思ってたんだけどね、私と……全部失って……同じ気持ちになって欲しかった。友達も、平穏も、誰かに奪われて。ひとりぼっちに」 「………………」  更にそれについて「どうして」と問いたくなるが、俺はエジルに口を挟むことを諦めた。  いや、諦めざるを得なかった。  声が出なかったから。  絶句、という表現が正しいのだろうか。  それ程までに、彼女の闇は深かった。 「結局、失敗しちゃったけどね。残ったのは、水浸しになった美術部だけ。まぁ、犯人が証明できなくて不和になっても、それはそれで平穏は壊せたのかな」 「…………」 「わたしも『あの人』の仲間入りを果たした訳だけど、なんだか半端になっちゃった」 「……」  あの人の。  あの人は……エジルにとっては、あこがれだった……。  あこがれの人から、全てを奪われた。  エジルは、俺にエジルのようになってほしかったらしい。 ──なら、エジルにとっての俺って。 ……黙ってる場合じゃない。  それに気付けたなら、ちゃんと向き合わなくちゃ。  最後まで話して、モヤモヤはここで壊さなくちゃいけない。 「……ねぇ」 「なにかな。もう話すこともないと思うけど。きみだって、もう私が憎いはずだよ。これまででしょ……?」 「……エジルって、俺に好かれてるって自覚があったんだよね?」 「!」  こうも見事にハッと息を飲むところを見たのは、初めてかもしれない。  いつもぼやぼやと過ごしているエジルがああも冷淡になったのもそうだったけど、こっちの顔のほうがよっぽど意外だった。 「エジルにとってのあこがれが『あの人』で、俺にとってのあこがれがエジルなら、同じにするってそういうことなんでしょ?」 「そ、それは……!」  さっきまでの相手を叩き伏せるような圧倒的な態度は、もうそこにはなかった。 「完全に突き崩されました」と顔に書いてある。  崩して崩されてという意味でも、俺たちは同じになったのかもしれない。 「その通りだよ。俺はエジルが好きだ」 「うん……!」 「でも、この話は一旦お預けにするからね」 「うん……」  急に全部が顔に出るようになった。  というか、頭から湯気が登っている。  こんな素顔を知ることなく数年過ごしたのか、俺は。 「エジルの中には嫉妬とか、羨望とか、慕情とか、色々なものがあったのかもしれない。」 「……うん」 「俺は……恐怖があった。エジルを傷つけてしまうんじゃないかって。エジルとの日常を壊してしまうんじゃないかって」 「それは……知ってる」 「そうやって、自分のことが好きなのに気を使われている事実に気付いて、エジルがどう思ったのかを言い切ることは、俺にはできないよ。 でも、もし俺から全部を奪いたかったとして、実行するまで数年間……葛藤がきっとあったはずなんだ」 「あっ……」  言うことが、全て的中していく。  俺がエジルと過ごした時間は、無駄じゃなかった。  あの日々の中で感じていた、向けられていた感情の全てが偽りだったはずがないのだから。  人となりを完全に覆い尽くすことなんて、出来ないんだ。 「なんだったら、エジルはきっとまだ葛藤してるんじゃないかなって」 「どうして、そう思うの……?」 「だって、俺に見せる面はいつも優しかったから」 「そんな、ことは……」 「自覚があったのかは分からないけど、エジルも俺みたいに日常を壊すのが怖かった。知られてしまいたくなかった気持ちもあるから、ここまで黙っていたんじゃないの?」  ここまでくると言い切りが過ぎるかもしれない。  でも、何故かは分からないけど、多分当たってる。  今は“エジルに好かれた自分”を信じたい。 「葛藤があったなら、均衡が壊れた理由もあるはずなんだ。教えて欲しい」 「私は……友達が増えていくあなたに……焦りがあったのかな。羨ましかったのかな。寂しかったのかな。さっきあなたが言ったように、どうと言い切ることもできない……」 「いや、心あたりを知れただけで十分だよ。でも、これだけは言わせて欲しい」 「うん……っ」 「俺も、エジルが変わって寂しかった。今日のことじゃない。ここ最近から、ずっと」 「ごめん、なさい……!」  とうとう、エジルも涙が堪えきれなくなった。  しゃがんでいた彼女は、そのまま掌で顔を覆ってしまった。  俺は手の冷たさを以て、彼女のこうべに暖かさを伝えることにした。 11  彼に意向を伝えて、わたし達は一緒に美術室に戻った。 「やっぱり、エジルは優しい人だよ。君自身が思っているよりも」  美術室で濡れていたのは、床だけだったらしい。  用務員がモップで拭いて、それで終わりだった。  確かにその時のことは、わたしも頭の中が混沌としていてよく覚えてなかった。 「無意識に良心が働いたんじゃないかな」 「……だと、良いのかな」 「そこは言い切って、いいんだよ」  わたしは、“あの人”のようにはなれなかった。  あるいは、ならなかった。  でも、それで良かった。  大切な人に大切なものが壊されたのがわたしだけど、大切なものを新しく作れたし、また大切なものを失わずに済んだから。 12  その後のことは、彼がどうにかボカしてくれたらしい。  もう、本当に頭が上がらない。  だからといって、それを引き換えに何かを要求してくる人物ではないのだけれど。  彼は、こんなわたしをまた信じてくれた。  これからのわたしにできることは、彼を信じることなんだと思う。  ふたりとも「心は一緒」なんだって。 「ん……んちゅ……」 「んむ……」  今は、そんな思いを確かめあいたくて、接吻を交わしているところ。 ──ちょっとくらいなら大丈夫だよね。  そう思って、少し「わたし」を、彼の喉奥に流し込んでみる。 「ご……ぼぼ……!が……」  あっ、やばい、溺れてる。  ちょっと胸部を押すからずぶ濡れになっちゃうけど、それもごまかしてね。  それくらいできるって、信じてるから、多分これが「甘える」ってことだと思うから。  おしまい。