その日の夜は眠れなかった。 布団に入って、目を閉じても、すぐに昼間の光景が蘇る。 ドームの天井。 フィリオ・アスピーダのシルエット。 そして―― 『うちの学校に、気になる新入生が二人います』 『もう一人は、あなたです』 舞夏先輩の声が、何度も、何度も、頭の中で再生される。 (私が‥‥?) ベッドの上で、ごろりと寝返りを打つ。 (ジュニア優勝の人と、戦う‥‥?) 無理。どう考えても、無理。 スーツも着たことがない初心者が、そんな相手に挑むなんて、恥をかくだけに決まってる。 ‥‥なのに。 健康な筈の胸の奥の、どこかが。 ――少しだけ、熱い。 布団の中で、天井を見つめる。 結局、ほとんど眠れないまま、朝になった。 翌日の授業は、正直、ほとんど何も頭に入らなかった。 黒板の文字をノートに写しながらも、意識はずっと、別のところにある。 (船津 三夜‥‥) 隣のクラスに居る彼女の名前を思い出すたびに、胸がざわつく。 帰りのホームルームも、上の空で。 気が付いたら、もう、放課後になっていた。 (‥‥行くだけ、行ってみよう) 断るにしても。 ちゃんと、顔を見て、話さないと。 そんな、言い訳みたいなことを考えながら、私は、校舎裏のドームで。 答えを出せないまま、昨日と同じように見学していた。 (‥‥やっぱり、格好いい) 胸が、きゅっとなる。 あの時の事を思い出す。 今の私は、まだ憧れのまま、見ているだけ。 (‥‥逃げたら) 逃げたらきっと、憧れは憧れのまま、終わる気がする。 でも、憧れを現実にしたいから、私はここに来たんだ。 (‥‥私、何しに来たんだっけ) スーツを着て。 思いっきり身体を動かして、カッコよく、泥くさくても戦って。 そのために、この学校を選んだんじゃなかったっけ。 練習が一区切りついて、スーツの駆動音が止む。 先輩たちが互いに声を掛け合いながらクールダウンに入る。 私は、舞夏先輩の元に歩き出した。 近付くにつれて、心臓の音が、やけに大きくなる。 (ボコボコにされたらとか、戦いにすらならなかったら、とか‥‥) 考え始めたら、きりがない。 だから、考えるのを、やめた。 舞夏先輩は、タオルで汗を拭きながら、他の先輩と少し話していて、私に気付くと、少しだけ首を傾げた。 「‥‥雛芽さんですか」 私は、一度、深呼吸をしてから。 ぎゅっと、拳を握りしめる。 「昨日の、お話のことなんですけど」 舞夏先輩は、私の顔を見て、少しだけ真剣な表情になる。 「はい」 「‥‥私」 鼓動の音がうるさい。 でも、ここで言わなきゃ、ここまで来た意味がない。 「――戦います」 一瞬。 ドームの中の音が、遠くなった気がした。 「船津 三夜さんと‥‥戦います」 自分でも、声が少し震えているのが分かる。 「正直、怖いです。勝てる気もしません。たぶん‥‥普通にやったら、ボロ負けすると思います」 だけど。 「逃げたら、私、ずっとこのままなんだって、思ったんです」 舞夏先輩を、まっすぐ見る。 「憧れてるだけで、見るだけで‥‥それで終わりになるのは、嫌で」 もう一度、はっきりと言う。 「だから‥‥やらせてください。」 少しの沈黙。 舞夏先輩は、私の顔をじっと見て――ふっと、柔らかく笑った。 「‥‥そうですか」 どこか、安心したような声。 「ありがとうございます‥‥正直に言うと、断られる可能性の方が高いと思っていました」 少しだけ、苦笑いを浮かべて。 「でも‥‥あなたなら、そう言ってくれる気が、どこかでしていました」 ここから。 私のヴィクトル―ドが、始まるんだ。 翌日の昼休み。 私は、お弁当をほとんど味わった気がしないまま、そわそわと落ち着かずに席に座っていた。 ――今日は。 今日は、三夜さんに会いに行く日。 (ほんとに‥‥行くんだ‥‥) 昨日、あれだけ覚悟を決めたはずなのに、時間が近付くにつれて、心臓がどんどんうるさくなる。 そんな私のところに、舞夏先輩が迎えに来てくれた。 「行きましょうか、雛芽さん」 「は、はい‥‥!」 教室を出て、廊下を歩く。 隣のクラスの筈なのに、一歩一歩がやけに長く感じる。 「‥‥船津さんは、今はどの部活にも見学に行っていません」 歩きながら、舞夏先輩が教えてくれる。 ドアを開けて中を覗くと、彼女は、窓際の席で、ぼんやりと外を眺めていた。 頬杖をついて、どこか遠くを見るような目。 ――あ、この人だ。 なんとなく、そう分かってしまう。 「‥‥あの人が」 「ええ。船津 三夜さんです」 舞夏先輩は、そう言ってから、迷いなく教室に入っていった。 私は、半拍遅れて、その後に続く。 ざわっと、クラスの視線が少しだけ集まるのを感じるけど、今はそれどころじゃない。 舞夏先輩は、三夜さんの机の横に立って、穏やかな声で話しかけた。 「船津さん。少し、いいですか?」 三夜さんは、ゆっくりとこちらを見る。 「‥‥何ですか。御楯先輩」 声に、あまり感情がない。 「あなたに、少しお願いがあって来ました」 「‥‥嫌な予感しかしませんけど」 舞夏先輩は、気にせず、続けた。 「戦ってほしい同級生がいるのです」 三夜さんは、一瞬だけ、目を伏せてから、そっけなく言った。 「‥‥もう、ヴィクトルードはやりません」 はっきりと。 「中学で、懲りました‥‥そういうの、もう十分です」 胸が、少しだけ、ちくっとする。 「相手は、この子です」 「‥‥はあ」 三夜さんの眉が、わずかに動く。 そして、私の方を見る。 ――じろり。 「‥‥冗談ですか」 少し、呆れたような目。 舞夏先輩は、はっきりと言った。 「雛芽 初花さんです。ヴィクトルード部への入部希望者で、今回の相手です」 三夜さんは、しばらく私を見てから、ふっと、ため息をついた。 「‥‥正直、意味が分かりません」 少し考えるように、視線を窓の外に戻して。 「‥‥まあ、正直断り続けるのも、面倒ですし」 そう、淡々と。 「戦います。それで終わりなら」 私は、思わず、息を詰める。 それで、終わり。 そして、念押しするように、こちらを見ずに言う。 「‥‥言っておきますけど、戦ったからといって、入部するつもりはありません。そこは、勘違いしないでください」 舞夏先輩は、少しだけ残念そうに微笑んだ。 「分かっています。ありがとうございます」 三夜さんは、それ以上、何も言わずに、また窓の外に視線を戻した。 私は、その横顔を見ながら、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるのを感じていた。 昨日。 三夜さんと戦う事を決めた日、家で彼女が優勝した時の試合の動画を見た。 攻撃的な、生き生きと相手にぶつかるプレイスタイル。 そんな彼女の様子と、目の前の彼女は結びつかなくて。 少し、残念な気がした。 「試合の日程ですが‥‥入部届の提出期限、その前日にしましょう」 三夜さんは、窓の外を見たまま、少しだけ視線を動かす。 「‥‥今すぐでも良いんですよ」 「いえ、貴女と戦って貰う為に、しっかり鍛える時間も欲しいですし、だからと言って新入部員が全員決まった後からになると、部も本格的に動きますので、スタジアムも空きませんし……」 そう前置きしてから、舞夏先輩は続けた。 「その日なら、ちょうどスタジアムも空いています」 私は、横でその会話を聞きながら、胸の奥が、少しだけざわついた。 それに、その日にした理由も、分かってしまう。 (‥‥勧誘が目的、だからだ) 三夜さんが、もし。 もしも、私と戦って――「やっぱり、やりたい」と思った時に。 まだ、間に合う日。 入部出来る、最後の日。 そのために、わざわざ、そこを選んだんだ。 三夜さんは、小さく息を吐いてから、短く答えた。 「‥‥分かりました。その日で」 そして、念を押すように。 「結果がどうなっても、気持ちは変わりませんから」 「承知しています」 舞夏先輩は、静かに頷いた。 約束は、それで成立。 (あと、何日‥‥?) 頭の中で、勝手にカウントダウンが始まる。 舞夏先輩に連れられ、廊下に出たところで。 先輩は、私の方を向いた。 「雛芽さん」 「は、はい‥‥!」 「‥‥覚悟は、出来ていますか?」 息を飲む。 「‥‥正直に言うと、時間は、全然足りません。実力差も大きいです」 はっきり言われて、苦笑いしか出来ない。 「ですが」 舞夏先輩は、少しだけ、真剣な目で言った。 「それでも、出来る限りのことはします」 そして。 「試合までの間、私や、部員達であなたを鍛えます」 「‥‥え」 「基礎から叩き込みます。スーツの扱い方、動き方、考え方‥‥必要な物全部です。」 胸が、ぎゅっと締まる。 「楽だとは言いません」 なぜか、少しだけ、楽しそうに。 「たぶん、かなりきついです」 でも。 「‥‥それでも、やりますよね?」 でも、もう、答えは決まっていた。 「‥‥やります」 舞夏先輩は、満足そうに、少しだけ微笑んだ。 「では、今日の放課後から、です」 その瞬間、予鈴が、廊下に響いた。 「あ‥‥」 昼休みの、終わり。 現実に、引き戻される音。 生徒たちが、それぞれ教室に戻っていく中で、私は、少しだけ立ち尽くした。 (‥‥始まっちゃった) もう、逃げ場は、ない。 色々な事全部が、一気に、現実味を帯びて、のしかかってくる。 でも不思議と。 怖いだけじゃ、なかった。 (‥‥やるんだ) 私は、教室に戻りながら、そっと、拳を握りしめた。 放課後。 私は、ヴィクトルード部の部室――あのドームの中にある、更衣区画の一角に立っていた。 目の前には、大型のコンテナ。 中に収まっているのは。 ――私のスーツ。 学校の備品じゃない、誰かのお下がりでもない。 紛れもなく、“雛芽 初花のために”用意された、一着。 昨日。 舞夏先輩に「戦う」と告げた時、スーツの話になって。 私は、少しだけ躊躇ってから、こう言った。 『‥‥自分の、持ってます』 その瞬間の、舞夏先輩は、不思議そうな顔で。 「‥‥持っている、とは?」 聞き返されて、もう一度、同じことを言った。 『‥‥自分用の、All-Exスーツです』 しばらく、沈黙。 『‥‥驚きました』 心底そう思っている顔だった、それも、そうだと思う。 スーツは、とても高価だ。 普通は、まず部の備品で練習して、実力がついて、「このスタイルで行く」と決まってから、ようやく専用機を考える。 いきなり、最初から“自分のスーツ”を持っている新入生なんて、ほとんど、いない。 『専用スーツは、普通、ある程度練習してからです。いきなり買ってもらう、というのは‥‥ほとんど、聞きません』 『‥‥ですよね』 私も、そう思う。 高額だし、扱いも難しいし、何より――続くかどうかも、分からない。 『もしかして‥‥経験者ですか?』 そう聞かれて、私は、慌てて首を振った。 「い、いえ! 本当に、初心者です!」 それは、嘘じゃない。 私のヴィクトルードの選手としての経験は、ゼロだ。 「‥‥ご両親が、ですか?」 『‥‥はい。入学祝いに』 舞夏先輩は、少しだけ、言葉に詰まってから。 『‥‥それは、随分と、思い切ったお祝いですね』 そう言っていた。 私は、その時、曖昧に笑うしかなかった。 カチリ、と、スーツの固定が完全にロックされる音がする。 軽い駆動音。 違和感は、ない。 このスーツは。 私が「夢を追う」と言った時に、両親がくれたものだ。 「準備は、出来ましたか?」 舞夏先輩の声。 振り向くと、すでに練習用のスーツ姿で、腕を組んで立っていた。 「は、はい‥‥!」 「‥‥それが、あなたのスーツですか」 改めて、じっと、私の機体を見る。 「‥‥なるほど。バランスのいい構成ですね。癖も、あまり強くなさそうです」 専門家の目で評価されて、少しだけ誇らしいような、くすぐったいような気持ちになる。 「では」 舞夏先輩は、にこりともせず、はっきり言った。 「今日から、特訓開始です」 その一言で。 胸の奥が、きゅっと引き締まる。 「覚悟は、いいですね?」 「‥‥はい!」 気持ちをこめて、頷く。 「よろしい」 舞夏先輩は、踵を返しながら、言った。 「それじゃあ、始めましょうか」 ドームの方へ、歩き出す背中を見ながら、私は、そっと、拳を握る。 (‥‥このスーツに、恥じないように)