伏魔御廚子。その中心に鎮座するは、呪いの王と謳われる両面宿儺。対するは、歴代の十種影法術師が誰一人として手懐けることの叶わなかった最強の式神、八握剣異戒神将魔虚羅。 静謐な空間を支配するのは、数千の椀が積み上げられた異様な光景と、出汁の香りが混じり合った重苦しい空気である。これは単なる大食いの戯れではない。神話の時代より続く、魂と存在の根源的な優劣を決定づける、文字通りの「捕食」を巡る神事であった。宿儺が魔虚羅を真に調伏せんとするならば、その圧倒的な武力のみならず、生存の基本原理たる「摂取」においてさえ、この怪物を凌駕し、屈服させねばならぬ。 宿儺の四本の腕が、漆黒の漆器を掴み取り、その筋骨隆々たる肉体を静かに震わせた。彼の腹部には、常人にはあり得ぬもう一つの亀裂、即ち「腹の口」が醜悪に、しかし機能美を湛えて開いている。それは食らうためだけに特化した深淵の入り口であり、呪いの王が持つ尽きることのない貪欲さの象徴でもあった。 魔虚羅の頭上で、カチリと黄金の法輪が回転を始める。その無機質な巨躯は、既に目の前の事象――「麺状の物体を連続的に嚥下する」という行為への適応を開始していた。 「始めよ」 宿儺の冷徹な号令と共に、給仕を務めるのは影から這い出した無数の式神たち。彼らが一斉に、わんこそばを投げ入れる。 最初の百杯。宿儺の動きは洗練された舞の如く、無駄が一切排除されていた。上の二本の腕が箸を操り、主口へと吸い込ませる。その刹那、下の二本の腕が別の椀を掴み、腹の口へと流し込む。咀嚼という過程を最小限に留め、喉を単なる通路として扱うその様は、まさに生物の域を超越した処理能力の顕現であった。 対する魔虚羅は、当初こそ人間の動作を模倣するようなぎこちなさを見せていたが、二百杯を過ぎた頃、その生理構造そのものを変貌させ始めた。法輪が二度、三度と回転する。魔虚羅の喉が異常に肥大し、食道が常に開かれた状態へと固定される。咀嚼を完全に放棄し、重力と筋肉の波状運動だけで蕎麦を胃袋へ叩き込む。それはもはや食事ではなく、一つの物理現象へと昇華されていた。 (ほう、適応の速度を上げたか) 宿儺は心中で、冷ややかな愉悦を感じていた。魔虚羅という存在は、受けた事象に対して最適解を導き出す。ならば、この勝負の本質は、魔虚羅の適応が「満腹」という概念を上書きする前に、その処理限界を物理的に突き破ることにある。 宿儺の腹の口から、粘着質な唾液と共に、不気味な咆哮に近い嚥下音が響く。主口で味わい、腹口で蹂躙する。宿儺にとって、食とは支配と同義であった。彼は蕎麦の繊維が舌の上で解ける感触を楽しみつつも、意識の深層では魔虚羅の適応パターンを冷静に分析していた。 五百杯、千杯。椀が床に叩きつけられる音は、もはや一つの連続音となって、伏魔御廚子の結界内に反響する。 魔虚羅の肉体に異変が生じる。その腹部が、不自然なほどに膨張と収縮を繰り返し、摂取した物質を即座に呪力へと置換し、体外へ霧散させ始めたのだ。適応の極致。排泄という時間のかかるプロセスを排除し、純粋な「通過」のみを目的とした肉体改造。魔虚羅は今、全存在を懸けて「蕎麦を流し込む管」へと成り果てようとしていた。 宿儺の四つの瞳が、妖しく細められる。 (愚かな。管になれば、それはもはや神将ですらない。ただの器だ) 宿儺は自らの内臓に、反転術式を並列で走らせる。絶え間ない過食によって悲鳴を上げる胃壁を瞬時に修復し、拡張し、さらに縮小させる。彼は「食べる」という行為を、自らの呪力操作の延長線上に置いた。 宿儺の手が加速する。四本の腕が、もはや視認できないほどの残像を残し、空間を切り裂く。腹の口は真空の如き吸引力を生み出し、投げ入れられる蕎麦を椀ごと飲み込むかの勢いで吸い寄せる。 二千杯を越えた時、魔虚羅の法輪が激しく火花を散らした。適応の限界――いや、適応の「方向」が狂い始めたのだ。宿儺が放つ、食事を超えた「圧」が、魔虚羅の生存本能を攪乱させていた。 魔虚羅は、宿儺の食事風景そのものに適応しようと試みる。それは、自らも腹に口を作り、多腕を持つ存在へと変異することを意味していた。しかし、それは宿儺という唯一無二の存在の模倣に過ぎず、宿儺の根源にある「呪いの王としての矜持」まではコピーできない。 「食らうとは、奪うこと。奪うとは、己を肥やすことだ。貴様のように、ただ通過させるだけのものに、真の飽満は訪れぬ」 宿儺は三千杯目の椀を、腹の口で噛み砕くようにして飲み込んだ。彼の内臓は、極限まで圧縮された蕎麦の質量で満たされているが、その表情には微塵の苦痛もない。むしろ、肉体的な限界を意志の力で踏みにじることに、至高の快楽を見出している。 魔虚羅の動きが、一瞬だけ止まった。 その隙を、宿儺は見逃さない。彼は四本の腕で同時に魔虚羅の喉元を掴むような威圧感を放ち、自らの存在そのものを「無限の食欲」として定義し直した。 適応の輪が、悲鳴を上げるように高速回転する。魔虚羅は、宿儺の放つ「底なしの飢え」に適応しようとして、自らの胃袋を無限の空間へと繋げようとした。だが、それは神将という個体の器を崩壊させる危険な賭けであった。 宿儺は笑った。その笑みは、獲物を完全に追い詰めた捕食者のそれである。 「適応しろ、魔虚羅。この俺の、尽きることのない渇きにな」 四千杯、五千杯。もはや数は意味をなさず、ただ二つの巨大な存在が、物質を虚無へと変えていく光景だけがそこにあった。 魔虚羅の肉体が、内部から崩壊を始める。適応しようとした「無限」の概念が、皮肉にも魔虚羅自身の構造を内側から食い破ったのだ。法輪が最後の一回転を残して停止し、火花と共に黒く煤ける。 最後の一杯。宿儺は優雅に、主口で蕎麦を啜り、腹の口で深く息を吐いた。 魔虚羅は、膝を突いた。その巨躯はもはや蕎麦を受け入れることを拒絶し、全身から適応の代償たる呪力の霧を噴き出している。 宿儺は立ち上がり、動けぬ魔虚羅を見下ろした。四本の腕を組み、不遜な表情で、従わぬ怪物の首根っこを掴み取る。 「満腹か? ならば、次からは俺の影の中で、俺の食い残しを待つがいい」 その瞬間、魔虚羅の全身に、宿儺の呪力が楔のように打ち込まれた。最強の式神は、その圧倒的な「食」の暴力の前に完全に屈服し、一筋の影となって宿儺の足元に吸い込まれていった。 残されたのは、山をなす空の椀と、満足げに腹の口を閉じる宿儺の姿のみ。呪いの王は、食という原初的な儀式を通じて、また一つ、神の領域にある力をその手中に収めたのである。 伏魔御廚子の静寂が戻る。宿儺は自らの指に残った蕎麦の露を、名残惜しそうに舐め取った。その味は、勝利の美酒よりも遥かに濃密で、残酷なまでの充実感に満ちていた。