Star Tracer 「管制塔、管制塔、こちら船体ID314159265359、外宇宙探査船セブンスレインボー。入港許可願います。どうぞ」 「こちら管制塔。船体IDおよび航行証と事前寄港申請の照合が完了しました。スキャンを開始します」  おんぼろスピーカーから生真面目そうな声が流れ出し、間もなくして二基の小型ドローンが近づいてきてスキャンレーザーを船に照射し始めた。数秒ののち、まるで巨大な目玉のようなそれの虹彩にあたる部分が黄色から青色に切り替わり、有害物質の付着や違法貨物の積載がないことを告げる。固唾を呑んでいた私は補助席に座る少女と一瞬視線を交わし、ほっと胸をなでおろした。 「船体スキャン完了。問題は検出されませんでした。すぐに許可証が発効されます。ただちに19番ゲートに入船してください」 「アイサー」  手元のコンソールに表示された寄港時の同意書の文面を指ではじいて読み飛ばし、下部の枠で囲まれた生体認証ボックスに親指を押しつけて瞳を近づける。生返事を寄越して液晶の操作盤に届いたちかちかと明滅する許可証を航行プログラム上へとドラッグして指を離すと、すぐに自動航行モードへと切り替わり、年代物の型落ちデュアリウム融合炉が唸りをあげて船全体がかすかに振動した。操舵室の天井から吊るしたマスコットがふわりと揺れる。 「長旅お疲れ様でした。当ステーションは貴船を歓迎します。お帰りなさい、セブンスレインボー」  メインモニタに表示されたオペレーターの女性がかすかに笑みを浮かべ、聞こえてくる声にもいくらか優しさのようなものが含まれていた。 「お疲れ様です、ニコルさん」  漆黒の宇宙空間に白線が投影され、それに沿って船は指定されたゲートへと舵を切る。傍らの少女が緊張をほどいて小さく伸びをし、私もそれに倣うようにシートに体重を預けて目を瞑り細く息を吐いた。 「航行中は船長と呼びなさい、ニシウラ二等航海士。ドックに船をつけるまでは気を抜かないで」  気の抜けきった状態で放った言葉にどれだけ説得力があるかはわからないけれど、ニシウラ・ソラは慌てたように背筋を伸ばした。  なにせ半分くらいは違法行為なのだ。毎度のことながら入港のときだけはまるで生きた心地がしない。 ◆  公式には宇宙探査船と銘打っているものの、実態としては何でも屋と称した方が正確かもしれなかった。  ひとたび依頼が舞い込めば人は乗せるし、ものも運ぶ。ときには熱心なお得意さんの前で歌って踊ったりだってする。未知の宙域に赴いての探査の方がむしろオマケといえた。それもこれも我らが副キャプテン兼自称スナイパーたるフジマ・サクラが、どこからともなく厄介事を請け負ってくるせいだ。  船内に限って言えば立場上は私の方が上司ということになるはずなのだけれど、乗船歴からすると彼女の方が長いこともあり、どうにも頭が上がらない。 「そんなこんなで事態は収束したわけだけど、ヤツが最後とは思えない……いずれ第二第三の……」  前回の太陽系クルーズツアーで起きた事件の顛末をふたりの店員にぺらぺらと得意げに話すサクラを横目に、私はレンゲでチャーハンを口に運んだ。席の対面ではホノカが心底幸せそうに回鍋肉を咀嚼し、白米をかきこんでいる。  ステーション産とはいえ、やはり合成ものではないちゃんとした食材を使った料理は美味しい。航行中はホノカが手をかけ工夫を凝らしてそれっぽい料理に仕上げてくれるものの、言っちゃ悪いが雲泥の差だ。含まれている栄養素はまったく同じなのに食材プリンタで出力されたものは不思議と味気がなく、人類はまだまだ技術進歩の余地が残されている。 「今回もなんだか大変だったんですねぇ」 「そんな毎回トラブルに巻き込まれることってあります?」  ピークタイムを過ぎていたためか、店内には私たち以外には客の姿は見られなかった。顔馴染みのウエイトレスたちもひとりはかろうじてテーブルを濡れ布巾で拭いているものの、もうひとりは空いた席にちょこんと腰かけて暇そうにサクラの話す盛りに盛られた壮大なスペースオペラの一端に耳を傾けていた。 「麺、伸びるよ」 「おっといけねえや。続きは食べ終わってからね〜」 「「ごゆっくり〜」」  サクラが割り箸を割ったのを合図に、店員たちは興味を失ったのかようやく解放されたと悟ったのか、散り散りになる。小柄な方は厨房へと引っ込んでいったが、背の高いもうひとりは店頭の掃除でもするのか入り口の方へひとつにまとめた長い髪を揺らして駆けていった。 「そういえば私さぁ、麺うまくすすれないんだよね」 「なんで頼んだの」 「昔賭けに勝ってここなら100食までタダなんだよね。だから何事も経験かなって思っへ」  はむはむと野菜タンメンを箸でつまみ、口へと運ぶサクラ。どうりで毎回このステーションに寄った時はここへばかり足を運ぶと思った。 「今何食目だっけ〜?」 「21です」  返事が返ってきた方をちらりと見ると、厨房の主が不本意そうに眼鏡を指で押し上げていた。  不意に、ホノカが空になった茶碗を持って席を立ち、鼻歌混じりにカウンター近くに備え付けられた巨大な炊飯器に向かっていった。ただでさえ良心的な価格設定だというのに、タダ飯食らいと大食らいのダブルパンチで、思わず店の経営状況が心配になりながら、たまごスープに口をつける。 「二名様ご来店で〜す」  ほわほわと間延びした声に振り向くと、件の店員を先頭にしてソラとスミカが古びた自動ドアをくぐってくるのが見えた。心なしか浮かない表情のソラの様子から察するに、どうやら今回の捜索も空振りに終わったらしい。  通路を挟んで向かいの二人席に腰を下ろすと、すぐさま同伴していた店員がオーダー用コンソールを取り出した。 「ご注文お伺いしま〜す」 「んーと……私ラーメンセットの半チャーハン。スミカちゃんは?」 「天津飯を気持ち小盛りで」 「どっちもお値段変わりませんけどよろしいですか〜?」  店員の問いかけに二人ともが頷いたのを確認して、手元の機器に注文を打ち込み終えるとカウンター席上部に設置されたテーブル表示が空きから調理中に切り替わった。  ミズキとトウコは物資補給のついでに食事を済ませるらしく、合流はおそらく夜時間になるだろう。  ぼんやりと次回の航行計画を頭の中で練りながら、チャーハンを咀嚼した。けれど、今晩は水の残りを気にせずにお風呂に入れることや広いベッドで眠れるという俗な期待が邪魔をして、なかなか考えがまとまらなかった。  どうにも周りが賑やかで思考に邪魔が入る。  まるで何かに深く考えるなと言われているような気分だった。 ◆ 「あなただけでも目を覚ましてくれてよかった」  身体を誰かに抱き締められる。  頬に熱を帯びた液体が滴った。  触れられている感覚はあるのに、言葉を発することはおろか、指先ひとつすら満足に動かせる気がしなかった。  覚えているのは照明が眩しいのに瞼を閉じられなかったことと、何人かの人に囲まれていたこと。顔はぼんやりと判然としない。声にも聞き憶えはない。けれど新鮮なのになんだか懐かしくて安心したこと。  何か考えようとしても、頭が割れるように痛くて視点が定まらなかった。  やがて瞼がぴくぴくと痙攣しはじめて、ようやく瞳を閉じることに成功する。  意識はまた深いところへと落下していき。  そのまま未来永劫消え去った。 ◆ 「……次は周辺20光年範囲のフレア予報です。N46星系の中心星が今後100時間以内に恒星活動が最も活発となる予想です。お近くを航行の際は磁気嵐にお気をつけください……」  貨物ハッチの片隅に腰かけて行き交う整備士やロボットたちを眺めて足をぶらぶらとさせていると、やがてミズキとトウコが物資を満載にしたターレットを伴ってドックに現れた。 「あとは引き継いでおくから」  せっかくの寄港休みだ。うちのフネは福利厚生にも気を使っているのだから、クルーには積極的に休息をとってもらいたいところだ。 「でも、ニコル船長も休みはとらないとですよ」 「そうですよ。今回は特にいろいろありましたし」  そうは言うがトラブルに巻き込まれるのは悲しいかな、いつものことでよくあることだ。休息をとることが悪だとは言わないが、そのたびに気を抜いていてはキャプテンとしての面目が立たないだろう。  それに、一人で考えたいこともあったからと、理由をつけて強引にミズキの手にした端末から船長権限で補給物資のリストを取り上げて自分のものへと転送した。  サンライズ商会とペイントされた飲食用の資材コンテナのチェックを終えてリフトユニットに格納の指示を出し、クルー各個人の荷物の電子タグに承認印を捺す。他と比べてホノカとスミカの物量が思いのほか多くて、給料を使い込んでいないか少し心配になった。  搬入を終えて船内清掃の最盛期を迎えたドローンたちをかき分けながら操舵室の扉を閉める。操作盤でフロントガラスの透過をオフにすると、ほんの一瞬の暗闇ののちにすぐにライトが点灯した。光量を絞り、シートに腰を下ろして膝を抱く。ようやく一人になれて、考えを整理できる時間ができた。例の顛末の際にサクラが打ち明けたことについてだ。  私にはいまから五年以前の記憶がない。気がついた時にはいつの間にかこの船に乗っていたのだ。  船内の生命維持クレイドルで意識を取り戻した時に、初めて会ったのがサクラだった。というかその時、船には私と彼女の二人しか乗船していなかった。  聞けば、航行中の事故で統一宇宙標準時間換算にして一年近く眠っていたらしい。何が起きたのかは記憶になく、ほんの少しの間私は自分が何者であるかすら思い出せなかった。  不幸中の幸いなのかそれは覚醒時の混乱によるもので、自分がサイトウ・ニコルであること、一般教養、社会の常識や一等航海士の操舵技術についてはすぐに思い出すことができたし、言語障害や目立った傷痕もなく五体満足だったおかげで日常生活に支障をきたしたことはなかった。それらは「前の私」の無意識下に染み付いたものであったらしく、そう簡単に忘れることはなかったのだと思う。  ただ、思い出だけがすっぽりと抜け落ちてしまっていた。  生体IDに刻まれていた故郷の星にも帰ってみたものの、両親も実家も風景もなんとなく見覚えはあるような気がしたけれど記憶のどこを探しても確たる輪郭が見つからず、逃げ出すようにして結局またこの船に戻ってきてしまった。  今でこそ7人で動かしている船なのだ。私とサクラの二人だけで正常に航行できていたはずがないなんてことはよくよく考えればすぐにわかることなのに、突然任命された船長職と集まってきた新しい乗組員たちとの交流に忙殺されて考えることを放棄していた。いや、もしかしたらその時の私はそれについて考えたくなかったから、忙しいふりをしていたのかもしれない。  日常で感じる違和感。誰かがいた痕跡。デジャヴュ。  シートのふちをなぞる。指先にひっかかった傷は誰がつけたんだっけ。初めて私がここに座った時から天井に吊るされていたウサギのマスコットは誰のものだったのだろう。補助席の方へと視線を向ければ、ソラではない誰かが座っていたような気がしてならなかった。思い返すと、食堂の厨房ではホノカではない誰かが鍋をかき混ぜていたような記憶がある。  あの状況下では誰かに解決をまかせた気がする。あの状況下では誰かに指示を仰いだ憶えがある。怒ったことがあった。笑ったことがあった。誰に対して?  シチュエーションばかりが湯水のように溢れ出してくるというのに、詳細だけがモザイクがかかったようにあいまいで、頭蓋に反響する幻聴はノイズまじりで聞き取れない。  膝を強く抱いた。  行くところが思い浮かばなくて途方に暮れていた私を受け入れてくれたのは、この船とサクラだけだった。 ここしか居場所を知らない私をこれまでずっと何も言わずにいてくれた。  新入りたちが乗り込んできてもう四年も経ったのだし、きっと頃合いだったのだろう。事件の発生は切っ掛けに過ぎないが、運命ともいえる必然だったのだと思う。ずっと居場所を定められていなかった私に対しての。 「宇宙統一標準時、18時になりました。居住区の照明が落とされます」  船外からかすかに聞こえてくる防災無線に顔を上げて、ようやく立ち上がってコックピットをあとにした。 ◆  スタイラスペンがかつかつとディスプレイを擦る音が止み、スミカが親指を押し付けるとすぐに私の手元の端末にもカルテが送られてきた。 「今回も問題なかったですよ。どこからどう見ても健康体です」  医務室のデスクに座るオリハラ・スミカは音楽家として乗船していたが、看護師の資格も併せて有していた。採血、静脈注射、問診、救急救命等の一通りのスキルを買ってクルーの健康管理なども一任している。大雑把であればすべて機械まかせにもできるものの、人の目による所感もやはり必要だろう。 「みんなソラちゃんやニコルさんみたいに真面目に定期検診受けてくれたら楽なんですけどねぇ。寄港直前になって慌てて駆け込んで来るから嫌になっちゃいます」  順調に航行が進めば、約60時間後には今いる辺境宙域とシティ級中継ステーション近辺を結ぶワームホールのゲートを通過する予定だ。言動から察するに、ここ最近はたいへん忙しかったと見受けられた。 「船長命令でも出そうかな」 「それでも来ない子多そう。特にサクラさん」  大きなため息をつくスミカにおどけて少し大げさな提案をすると、彼女は神妙な顔つきで不機嫌そうに眉を寄せた。  医務室を出て少しすると、ミズキから着信が入る。 「船外活動の許可を申請しまっす!」  意思を持って攻撃してくる隕石ほどではないにしろ、少し前に手違いでデブリ帯に突っ込んだ時の船体ダメージを目視で精査したいらしい。補助員がホノカというのは気がかりではあるものの、当然問題はない。 「許可します。ご安全に」 「ご安全に〜」  点呼ももはや埃を被った流れ作業と化していた。この調子ではそりゃあ定期検診もすっぽかすというものだ。ただ、悔しいかな(※良いことである)腕は確かなメンツが揃っているので大目に見ている節はあった。彼女たちももう新人や若手を抜け出した頃で、自分で歩く道を決められる分別も身に付いているはずだ。  開閉パネルに触れてレクリエーションルームの扉をスライドさせると、部屋の中央に据え付けられたソファにサクラが身体を預けているのが視界に入った。見れば長い金髪を振り乱しながら寝息を立てていて、見る人が見れば緊急事態とも取られかねない。  部屋の隅のサーバーの画面をタッチしてホットコーヒーをマグカップに注ぎ、サメのクッションを抱いて腰を下ろす。 「何があったか、聞かないの?」  カップを置いて暇つぶしに端末を取り出そうとした瞬間、かけられた声に驚いて振り向くと、サクラは私が入室してきた時と変わらない姿勢のまま口を開いていた。 「私って眠り浅いから誰か来たら起きちゃうんだよね、いつも」  続く言葉に数秒置いて、ひねった腰を元に戻して背中をソファに預ける。 「聞いてもきっと思い出せないだろうから」  聞きたいことなんてそれこそ山ほどあったけれど、じっくりと吟味して出した答えはそれだった。  今の私は「前の私」から名前と身体と技術を奪って生きているだけの簒奪者だ。記憶にない経験を語られたとしても、それを自身のものとして捉えられなければそれは画面の中の動画や旅先で買った絵葉書のお土産のようなものでしかない。その場にいれば振り返るだけで景色は切れ目なく広がっているというのに、継ぎ接ぎの昔話の情景は色褪せてどうしようもなく不連続だ。 「でも」  言い出せず、機会を作ろうともしなかったけれど、それは今の私にとって知っておくべき事柄のように感じられた。外宇宙探査船セブンスレインボーの建造理由を知った今となればなおさらに。  ブラックボックスの中でどのような処理計算が行われているかわからないからこそ、わだかまりは払拭しておかないといけないと思った。迷いを抱えたままではいつまた星が翳ってしまうかわからない。私は船と船員の命を預かるキャプテンなのだから。  たったニ音の返答でもどうやら意思は伝わったらしく、サクラは「どこから話そうかなぁ」と前置いてまるで服を選ぶみたいに記憶のクローゼットを開き始める。 「センターノヴァって知ってる?」 「……名前くらいは」  歴史の教科書で見かけた覚えがあった。それも前の私の知識によるものなので今の表現が正しいかはわからないが、大昔に人類が宇宙に進出して星歴が始まった頃にたまに見られた現象だったと記憶している。  曰く、人が消えてしまうとか。 「当時のメンバーのひとりが消えちゃって、それを止めようとしたニコルちゃんもそれに巻き込まれかけてさ」 ◆  船渠から宿泊施設までの道すがら、着信を受話しようと手を耳元にやった瞬間、サクラの姿を視界にみとめた。街灯の下のベンチに腰かけて、何が面白いのかホロの投影も終わり透過モードに移行して見慣れた星空を映し出すだけの天井を見上げている。  ジェスチャーで通話を繋ぐと待ち構えていたかのような声が耳朶を打った。 「あ、ニコルちゃん今どこ?」 「すぐそこ」  短く返すと驚いたようにきょろきょろと周囲を見回して、目が合うと誤魔化すように笑いながら頬を掻いていた。 「わぁ、ぐうぜーん……」  なんとも白々しい。普段はちゃらんぽらんな印象の強い彼女だが、本質は心配性で世話焼き、臆病で涙もろいというイメージと真逆な性格をしていることはとうの昔に知れている。 「どうしたの、こんなところで」 「いやまぁ、その〜……」  何もない風を装って微笑みかけると、珍しく歯切れが悪い。 「トウコちゃんたちが心配してたよ」 「本音は?」 「話したこと気にしてないか責任感じてます。サー」  言いながら彼女は背筋を伸ばして大仰に指先をこめかみに当てた。こんなにきれいな最敬礼は初めて見たかもしれない。小さくため息をついて空いている隣に腰を下ろした。 「ひとりになって考えてみたけど、やっぱりわからないものはわからないや」  彼女の話してくれた五年以前の出来事、私の知らないセブンスレインボーのかつての仲間たち、決定的な事故。それらの取っ掛かりのようなものは感じるけれど、全貌はどれだけ頭の中を探しても靄がかったようにはっきりとしたものは掴めやしなかった。  ……きっと怖いのだ。思い出してしまうことが。  もしすべてを思い出してしまったら、今の私が前の私に塗りつぶされて消え失せてしまうような気がして恐ろしかった。それくらい私はどうしようもなくにせもので、空いた席にうっかり座ってしまったサイトウ・ニコルの皮を被った何者かでしかない。だから無意識のブレーキを踏んで、記憶の深いところへと潜るのを躊躇わせていた。  不意に肩に手が置かれる。ちら、と視線を向けた先では唇を引き結んで唾液を飲み下す仕草が見て取れた。ごくりという音が聞こえてくるかのよう。 「ご免なさい。やっぱり私はサイトウ・ニコルにはなれそうもない」 「そんなこと」  サクラの口を衝いて出た言葉が途切れた。  それもそうだろう。その続きを言うということは前の私との決別を意味する。そうなってはセブンスレインボーに乗り込んだ最初期メンバーはついに彼女ひとりになってしまう。それはおそらくきっと寂しいことに違いない。 「そんなこと言わないでよ!!」  だというのに、大粒の涙をぼろぼろと溢してサクラは怒りすら滲ませながら私の肩をがくがくと揺すった。 「ニコルちゃんはニコルちゃんでしょ!?前も今も関係ないし、記憶があろうがなかろうがあなたはあなたでしかないはずだよ!一度原子レベルまで分解して再構築したわけじゃないし、ワープ航法の前と後の人ははたして同一存在かみたいなよくわかんない哲学の話してるんじゃないでしょ。そりゃあ記憶がないんなら借りっぱなしだったクレジット返さなくていいやラッキー!とか思ったりしたし、お上にバレたらマズいあれとかこれとかそれとか握られてた弱みも全部チャラになってハッピー!とか思ったりもしたけど、ニコルちゃんはニコルちゃんとしてちゃんとここに存在してるでしょ?何かにならなきゃなんて思わないでよ。もうあなたはあなたなんだよ。だから、そんなこと言わないでよ!偽物だとか本物だとか関係ないよ!なんなら五年も経ったら私たちの付き合いはとっくに前の頃より長いんだから私にとっても今のニコルちゃんの方が割合多いんだからね!?あぁ、なんかすっごい腹立ってきた。勝手にミウちゃんのお尻追っかけて勝手に巻き込まれて勝手に記憶失って一年も寝るなんて最悪もいいとこだよあのムッツリ!気付かれてないとでも思ってたのかな???気付いてないのは本人たちだけだっつーの!あのあと残された私らがどれだけ苦労したと思ってんのって話だよ!レイカちゃんが船降りたから航海士の資格持ってたのニコルちゃんだけだったんだから無茶されたら困るのは私らだってのにさあ!操舵だって見様見真似だったし遭難しかけた時だって意識ないけど生存反応だけはあったからIDと指紋と網膜読ませていろいろ間に噛ませてやっとのことでシステム起動して犯罪スレスレのことしてなんとか戻ってこれたんだからね!?ねえちょっと聞いてるニコルちゃん!?」 「まってまってまって」  とんでもない早口の長台詞で半分以上頭に入ってこなかったんだけど、いくつか聞き捨てならないことを口走ってた気がするのは気のせいだろうか。  突然浴びせかけられた言葉の奔流に呆然とする私をしっかりと抱き締めて、サクラは言葉を続けた。 「記憶が戻ってもあなたが目覚めてからの思い出がなくなっちゃうわけじゃないでしょ。それに、今のクルーたちにとっては最初からずっとあなたは紛れもなくニコルちゃんなんだから、もうそんなこと思わないで」  頬に熱を帯びた液体が流れ落ちた。  悩みながらも、引け目を感じながらも私はいつの間にか地に足をつけて歩いていたらしい。 「ありがとう。サクラちゃん」  謝罪ではなく感謝が的確だと思ったから、そう言った。 ◆ 「管制塔、管制塔、こちら船体ID314159265359、外宇宙探査船セブンスレインボー。出航準備整いました。開門願います。どうぞ」 「こちら管制塔。船体IDおよび航行証と航行計画書の照合が完了しました。エアロック閉塞確認ヨシ。ゲート開きます」  一瞬の浮遊感ののちに姿勢制御が完了し、メインモニタいっぱいに広がる重厚な鉄扉が何枚も割れていった。最後のゲートが開かれると、見慣れた漆黒と星明かりの海が顔をのぞかせる。中空に途切れ途切れの白線が投影され、進むべき方角を指し示した。  心臓がどくどくと早鐘を打つ。期待なのか不安なのか、出港前はいつもこうだ。けれど不思議と心細さだけは感じなかった。 「デュアリウム融合炉出力良好。いつでも出れます、ニコル船長」  補助席のソラが計器をつぶさに観測し、ゴーサインを待っていた。  ヨーソロ。出発進行。 「ボンボヤージュ、よき航海を。セブンスレインボー。いってらっしゃい、お気をつけて」 「ありがとう。いってきます」  安航の祝福を受け取って、礼を返してゆっくりと船体は前進していく。 「前方障害物なーし、巡航に切り替えますね」 「長いようで短いお休みだったねぇ」 「しっかり休息とれたけん、エンジンも久し振りに動けて喜んでるみたいだ」 「今なら隕石だろうとデブリだろうと宇宙怪獣だろうと真っ二つにできそう!」 「怪我だけはしないでよね。医者なんて、出番ないに越したことないんだから」  自動航行に切り替わって、出航に際して操舵室に集まったクルーたちのおしゃべりを聞いていると、ふと、精々頑張りなさい、という声が聞こえた気がして後ろを振り返った。そこには無機質な鉄の扉があるだけで誰もいやしない。  辿っていたほうき星の尾は気づけばもうはるか後方で、目の前には一歩先すら見えない暗闇が広がっている。だというのに、足を踏み出すことに迷いは感じなかった。  言われなくても、頑張るよ。  もう私は他の誰かじゃない私でしかないのだから、目の前にあるのは私の世界で、歩いているのは私の人生にほかならない。  彼女はあの子と同じ場所に行けたのだろうか。そうであるなら、良いと思った。  傍らで欠伸をしながら同じ方向を見る彼女に目を遣って、ほんの小さく笑みを零す。  視界の隅ではウサギとサメのマスコットが並んで揺れていた。 了