『La rosa è una figura simbolica così densa di significati da non averne quasi più nessuno.(薔薇にはあまりに豊かな意味があり、もはや何の意味も残されていない)――ウンベルト・エーコ』  ①  スタイリストは最後に、青薔薇の造花を丁寧に取り付けた。  鋭く優雅な線を描いた柳眉と、真紅に燃えるアーモンド形の瞳。栗毛の前髪はくるりと顔を包み、リング状に結んだ後ろ髪は呼吸に合わせて葉擦れを奏でていた。マットな黒いカバーを着けた左耳からは、ハート型の金線が唐橘の実のように垂れ下がっている。その金色の中央、空白の玉座にたった今献上されたレガリアが青い薔薇だ。  良く似合っていますわね、当然だけれど。鏡の前でジェンティルドンナは頷いた。堂々として力強く、それでいて神秘的。瞬きを繰り返すと、伸びやかな曲線を描いた睫毛もそれに従う。偏執的なほど丁寧にアイライナーを滑らせた瞼の重たさは、満足感と呼ぶに相応しい。  無論、主役を引き立たせるためのドレスも完璧だ。立ち上がり、その場でくるりと回ると、二重構造のそれは運動と重力に従って踊る。インナードレスはホルターネック、腰まではぴたっとしており、その下ではスカートが鐘状に広がっている。金縁の黒が放つ絢爛は、自信に満ち溢れた今の気分に丁度良い。その上に着た濃紺のアウタードレスは、胸元のドレープやスカートのトレーンにグリッターの星が夜空に広がっている。パールと雫の胸飾りには、やはりというべきか、ここにも耳飾りと同じ青が咲いている。  鏡の前に立つ貴き淑女に、煌めきの魔法がかけられていた。ならば横に立つスタイリストは魔女だろうか。尻尾をぶんぶんと振って両耳を忙しなく動かした、落ち着きのない魔女だ。 「うん! とってもお似合いですよ! ホルターネックで肩幅の印象をすっきりとさせつつ、エレガントさもアウターのシルエットがしっかりと保ってくれますし、何よりもこの青色! 落ち着いた大人の魅力が出ますね!」  矢継ぎ早に捲し立てるのは、自己肯定感でジェンティルの背を押したかったのだろう。公の場に立つとき、彼女は朱色を身に纏うことが多い。例えば代名詞とも言える勝負服がその典型だ。もっとも、当のジェンティル本人は殆ど聞き流していたのだが。そもそもこのドレスを選んだのは他でもない自分自身。十数年来付き合った自分のために選んだのだから、似合うに決まっている。彼女が釈迦に説法するのを止めなかったのは、その間、姿見を眺めていられるからに過ぎない。  職務への忠実さは評価に値するかしら。興奮すると少し回りが見えなくなるみたいだけれど。そんな沈殿した思考をかき混ぜるようなスタイリストの両手が肩に乗った。 「はい、お疲れ様でした! 流石ジェンティルさんです! 衣装合わせは完璧ですね、とっても素敵ですよ。……よろしければ、お写真をお撮りしましょうか? ……えぇ、確認もできますので!」  希い潤む赤紫色の瞳がくしゃりと潰れた。まるで熟したオリーブのように。「あら、どうしましょう?」とわざとらしく首を傾げると、それに合わせて魔女の耳と尻尾も傾く。どうやら素直さと引き換えに、冗談と駆け引きはめっぽう弱いらしい。 「くす……。冗談ですわ、お言葉に甘えさせていただきますわ」 「はいっ!」  流れるようにポーズを幾つか、そして最後はパドックではすっかりおなじみになったカーテシー(西洋式のおじぎ)。スタイリストはその度に栗毛色の尻尾を振って健気に応じた。誰かの網膜に消えない影を焼き付けたのは一度や二度ではない。吐息の届く距離で好意や敬意、その他一切の情熱を向けられるのも。その他一切というのは敵意や害意、打算や下心を始めとした無価値なものが殆どだったが。それでもいつだって、剝き身の感情に触れるのは心が震えた。必死な人は、その人の心の切先は、焦点の覚束ないそれを必死に握り締める姿は、いつだって可愛らしい。その興味が自分に向いているのなら、最高だ。世界を愛するコツがあるなら、それは世界に愛されることだ。だからジェンティルは、この世界が概ね好きだった。  一通りを終えたところでジェンティルは腕を組み、個撮の機会を与えられた一人のウマ娘を改めて眺めた。恐らく初対面の彼女だが、どうにもそんな気がしない。殆ど無意識にジェンティルは腕を組んだかと思えば解いて、その後は顎先を撫でたり唇を撫でたり、それらを繰り返して記憶を掘り起こした。しかし該当する人物はいない。素人のカメラマンはそんな絵にならない瞬間も容赦なく切り抜いた。 「あっ……い、今の、は……違いましたか……?」  一瞬、ジェンティルの眉が僅かに吊り上がったのを見逃さなかったのだろう。濡れたオリーブと垂れた耳は無力で無抵抗に許しを請いている。  十秒か、二十秒が過ぎた。沈黙の思案はスタイリストにとって、値踏みをしているように映ったことだろう。そして、単に楽しんでいるようにも。実際はそのどちらでもなかったが。 「ふぅん……。構いませんわ。貴方にそう見えたのなら、そうなのでしょうから」 「は、はい!」  仔犬のような瞳と、その奥でゆらめく情熱。名前を呼ぶと僅かに掠れる声色。それら印象の集合体は漠然とした木の葉の陰となってざわめき、記憶の中に既視感の影を落としていた。ジェンティルはただ、思い出せなかっただけだ。これには二つの可能性がある。一つ。彼女は今日まで、自分に何の足跡も残さなかった。そしてもう一つ、彼女が全くの別人として振る舞っている。いずれにせよ、今日、彼女は完璧な仕事をした。それで十分ではないか。鏡に咲いた青薔薇を撫で、ジェンティルはそう結論を出した。  ②  午後五時四十五分、菫色の制服と椿色のジャージが行き交う放課後。赤と紫の織りなす花畑の中で一人、場違いな青色のジャージに身を包み、ヴィルシーナは佇んでいた。  遠目には、彼女は極限まで抽象化した青空のように映るかもしれない。オフホワイトを主体に爽やかなブルーのラインが、肩に一本と胸に二本。胸元には木槿の刺繍が淡い色合いで施されている。長い丈が風を受けて翩翻と翻るせいか、余計に空に溶けてしまいそうだった。足元から続いた影は西日に引き伸ばされ、肩口からやや下がった位置にあるフリルがどことなく翼を思わせる。その一方で、だぼっとしたオーバーサイズの袖口から覗く四肢はすらりと伸びて婀娜っぽい。ターフの中にぽつんと浮かぶその姿は、さながら天使だ。とはいえ頭部にあるのは光輪ではなくピンと尖った耳だったし、臀部から垂れる尻尾はどちらかと言えば悪魔のそれだ。  ヴィルシーナが落ち着かないのは、場違いだと考えていたからだ。このような服は自分には似合わない。多少の贔屓目はあるかもしれないが、フリルも地雷系もサブカルも水色界隈もラテ系も似合うのは三姉妹の末っ子、ヴィブロスの方に決まっている。ヴィルシーナは努めて客観的な判断に主観の漬物石を乗せ、誰にもひっくり返されないようにしていた。そのような理由で、最愛の妹がねだったお揃いの服を今日までクローゼットで寝かせていたのだ。  それに袖を通しているのも、イメチェンを決意したとか、今日は特別な日だからとか、そういった理由ではない。合同でトレーニングをしていた三姉妹のジャージに揃って穴が空いてしまったのだ。危ないからと二人に自分の予備を貸したは良いが、それが手持ちの最後の二着。おまけに購買は既に閉まっている時間。かくして、けたたましく回る洗濯機のラッパを背に、天使を象る悪魔がターフに降臨したのだ。トレセン学園において信仰が向かう先は大抵三女神なので、悪魔を迎え入れたのは薄暮だけだった。  ◇ 「お待たせいたしました、ヴィルシーナさん。あら……うふふ。よくお似合いでしてよ」  合同トレーニングの相手、ジェンティルドンナは約束の時間ちょうどに現れた。隣では彼女のトレーナーが大きな荷物を背負っている。挨拶もそこそこに、軽いストレッチと共にジェンティルはバ場状態を確かめている。よく乾いた芝を指先で弄ぶ姿すら、様になるのが憎らしい。  対して自分は、とヴィルシーナは長く伸びた足元の影を見下ろした。翼のようなシルエットは歪で未発達だし、手足は徒長して今にも折れそうだ。お似合いだなんて言葉がそれを如実に示している。大体いつもこんな調子で、ジェンティルの言葉はヴィルシーナの神経を逆撫でした。愛玩動物でも見るかのように柔らかい弧を描く瞳も、あしらうような冗談を言われるのも、癪に障るのだ。激情の火は肺臓で逆巻き、吐息の熱だけを残して思考の淀みを焼き尽くした。  あの人はきっと、負ける可能性など微塵も考えてはいないのだろう。それも今日までだ、と彼女は拳を握った。いつか、必ず。次こそきっと。今日こそ、絶対に。折々に重なった決意が重たくなるほどに、ヴィルシーナは研ぎ澄まされるのだった。 「……私が何を身に纏っているか気にするなんて、随分と余裕ですこと。ですが、余所見をしている間に足を掬われることのないよう。敗者の弁など聞きたくはありませんもの」 「余裕? ほほほ……相手を観察することをそう表現するのなら、ええ。綽々ですわね」  貴方こそ気が緩んでいるのではなくて? そう言いたげに目尻を歪ませ、ジェンティルは長嘆息を漏らした。ポケットから取り出した鉄球を念入りに撫でると、ろくに見もしないでトレーナーへと放り投げた。相手はくぐもったうめき声を上げたが、その間も彼女の視線は獲物を捉えて離すことはなかった。 「ああ、それとも。私の気を紛らわそうとでも?」 「――っ! ち、違います! こ、これは……」  臨戦態勢のはずなのに、思わず声が裏返った。それから、そんな自分を見てにやついていたジェンティルにヴィルシーナは気付いた。仕方がないのだ、予想外の質問だったのだから。言うまでもないがヴィルシーナがそんなことを意図するはずもない。先述の通り、ちょっとばかりの事故が起きただけなのだ。ただそれだけのことなのに。可哀想なヴィルシーナは、すっかり貴婦人のペースに乗せられていた。  それに満足したのか、ジェンティルは口元を緩めた。 「……ふっ、結構。語り合うなら言葉より走りで、でしょう?」 「二人ともー! 一本目はウォームアップだからねー! それじゃあ、構えてー! いくよ、せーの……」  数秒後、乾いた空気にホイッスルの音が響いた。薔薇色に燃える太陽が西へ沈む夜のまだき、二人の競争者も飛び出した。ターフという茨の道へと真っすぐに。  ③  太陽が沈み、代わりに無機質なナイター照明が降り注ぐ。ヴィルシーナが限界を迎えていることは誰の目にも明らかだった。肩のフリルは呼吸に合わせて上下するが、羽ばたきとはまるで呼べるものじゃない。瞳と同じ青紫に咲く胸の花はくしゃりと折れていた。暗がりに潜るとジャージのラインがビビッドに浮かぶのは、蓄光プリントが施されているからだろう。早秋の優美に不釣り合いの鮮明さは、凛と足掻くヴィルシーナを彩るにはお似合いの光だ。  挑まれたのなら万策尽きるまで応じてやるのが強者の務め。普段からそう心がけていたジェンティルだが、ここしばらく彼女に挑む者は殆どいなかった。  例えば、かつて鎬を削ったオルフェーヴルは海外に照準を合わせたトレーニングが殆ど。ゴールドシップたちもそれに付き合っていた。同室のブエナビスタは柔和な雰囲気もあってか後輩たちから引っ張りだこだ。  後輩たちがジェンティルに向けるのは、雲上に咲く曼珠沙華へと向けるような遠巻きな憧憬や畏怖。教えを請う物好きはいても、牙を剥く者はいなかった。彼女たちの中ではもう、ジェンティルドンナは歴史や伝説になっていたのだ。偉大な先達という名の、生きた化石に。見上げられるばかりの大樹など、歩道と車道の間に立つ街路樹のメタセコイアと同じだった。  ただ一人の例外を除いては。 「……も、もう一本……お願い、します……。次こそ、次こそは……」  ヴィルシーナだけが、違った。出会ってからの数年でお互いに背は伸びたが、少しも変わらない角度から、少しも変わらない釣り目でジェンティルを睨んでいた。そして今も変わらずに、ジェンティルの責任を追及し続けている。  本当に、退屈をさせない方。十秒、ジェンティルは返事を保留した。胸の内で幾つもの言葉を投げては湖面の波紋を確かめて、何度目ともしれないこのやり取りを反芻した。力をひけらかすのは度を過ぎれば下品だし、敗者を甚振るのは単純にみっともない。挑戦者を跪かせることにサディスト的喜びがないと言えば嘘になるかもしれない。だが同時に、嗜虐欲では決して満たせないものをヴィルシーナは存分に与えてくれた。それが何であるかに目を向けたことはなかったが。  相変わらず果敢ですこと。脳内のコンペ会場で、空想のジェンティルは前髪をさらりと撫でた。ヴィルシーナには見えるはずもないのに。けれど、今の貴方から得るものは何もない。私も、貴方自身も。胸に手を当て、やはり変わらない角度で見下ろし、そう、それから、口角も思いきり上げて。揺らぐことのない声で、確定的な事実として、そう告げるのだ。そうしたらヴィルシーナはどのような顔をするだろうか。きっと悔しさを隠そうともせずに視線を逸らし、けれど頷くことだろう。ヴィルシーナは頑固だが聞き分けの悪い子ではない。  ところがその宣告は空気を震わせることがなかった。代わりに、ぱん、と乾いた合掌の音が響いたからだ。 「今日は終わりにしましょう、二人とも。ジェンティルはもうアップの時間。……それに、ヴィルシーナ。貴方は普段のメニューもこなしていたんでしょう? これ以上はオーバーワークになります。自分の担当じゃなくても、看過できません」  間に割り込んだのはジェンティルのトレーナーだった。生成り色の鈴懸の樹を思わせる真っすぐな背筋と白い肌。それがジェンティルより僅かに低い位置からヴィルシーナを見下ろしていた。毅然さを模した低い声が、響くというより震えている。自らの担当へと振り向かないのは、せっかくの決意が折れてしまいそうだったからだ。言うなればそれは一種の虚勢、強がりに違いない。  トレーナーの言葉は正しい、それは二人もわかっていた。良いライバルはお互いを高め合うが、道すがらに燃え尽きては意味がない。人は流星になれないし、灰は何も願えないのだから。それに一筋の光が夜空をどんなに綺麗に駆けたとしても、黎明の輝きには霞んでしまう。どうせ輝くのなら、一番強い光であるべきだ。  それでもヴィルシーナは自ら舞台を降りたくなんてなかったし、ジェンティルもその負けず嫌いがお気に入り。例えば友人や恋人同士の関係がそうであるように、二人の役割はそれで固定されていた。歪に刈りこんだトピアリーはその役を演じ合うことで保たれているのだ。そして平時ならジェンティル手ずから剪定するのだが、今日は仕事が遅かったので、責務を果たした庭師を責めることはできまい。 「……っ!」 「そう。……確かに、仰る通りですわね。トレーナー、本日もご指導いただきありがとうございます」  なので、恭しく会釈をした。声にはほんの小さな棘と、それを包んだ柔らかい了承が込められている。ようやく振り向いた女性を、ジェンティルの視線は逃がさなかった。 「ああ、記録はそちらに。私は少しヴィルシーナさんと……そうねぇ、話したいことがあるの」 「え? ちょっと、ジェンティル……」 「あらまあ、乙女の薔薇の下に立ち入るおつもりかしら?」  トレーナーは何か言い返そうとしたが、結局は自らの担当に従った。なるほど確かに、ジェンティルの言葉はメスのように冷たくて、鋭い。そしてきっとそれを扱うのを楽しんでいるときもあるだろう。だが決して無闇に人を傷つけるような愚か者でもなかった。相手がヴィルシーナであれば尚更だ。そうだというのにジェンティルの反応を待たなかったわけで、換言すると信頼しなかった。  このような負い目や葛藤があったのだろう。トレーナーはもう、あらゆる力を失っていた。力を失った人間が背負うのは罪悪感だけだ。 「はぁ……。クールダウン、忘れないこと」 「ええ、ご心配なく」  トレーナーの背中は、照明が消灯されると共に闇に沈んだ。同時にジェンティルの意識はヴィルシーナへと向いた。彼女の表情は黄昏のヴェールの下に霞んでいる。光の下、月輪の返照とジャージの残光だけが浮かんでいた。 「そういうことですから、少しお茶でもいかがかしら。ヴィルシーナさん」 「は? はぁ……。構いません、けれど……」  蓄光塗料のラインは肩から肘を通り、手首と思しき辺りまでおぼろに続いている。ちょうど遠目から見た誘蛾灯みたいに頼りない光だ。ジェンティルは躊躇うことなくその光源の末端へと手を伸ばした。誘蛾灯と違って溺れるほどの深みもなければ、燃えるほどの熱もない。しなやかな筋肉に覆われているとはいえ、握ってしまえば親指と中指の円に収まる葦のような細腕だ。これではジェンティルを捕まえるのにあまりにか弱い。だというのにその葦の、さらに細い五本の指が、過去に何度もジェンティルの背中を引っ掻いたのだった。爪痕は彼女の心の中の、今も変わらぬ座標上で真っ赤な蚯蚓腫れを残している。 「ちょっと!? ジェンティルさん、急に……」  今さら何を仰るのかしら、貴方の手首には荊棘など生えてないのに。  確かにジェンティルは愚かでもないし、詭激でもなければ、衝動的でもない。だが心の伴わない拒絶の声を聞き入れてやるほど優しくもなければ、蒙昧でもない。風に舞う木の葉が躊躇いがちなパドドゥを踊る中、二人の歩みだけが迷いなく直線だった。 「無礼ですっ!」 「ほほほ……」 「……自分で歩けますから!」  真っすぐに、ヴィルシーナはジェンティルの横を往くのだ。ジェンティルがやったことはただそのきっかけを与えたに過ぎない。その証拠に彼女はもうヴィルシーナを握っていない。それでも二人の目的地は一致していた。  ④  この時刻のカフェテリアは多くの生徒が思うままに過ごしている。トレーニングを終えてひと息吐く者や、自主トレーニングに備えてエネルギーを補給する者。煮詰まった作戦会議の気分転換だろうか、トレーナーと共に軽食を取る者。あるいは単に遅めの夕餉をとったり、友人と駄弁っている者。ヴィルシーナとジェンティルもそれらの例に漏れず、スポーツドリンクのボトルを点対称に並べて向かい合っていた。夜風ですっかり汗は引いたが、未だヴィルシーナの胸は落ち着かない。というのも、周囲を見回すと、やっぱり自分が浮いているような気がしたからだ。実際のところ、奇人変人の集うトレセン学園で多少浮いているなんてことはみんなすっかり慣れっこなので、彼女に好奇の目が向くことなどなかったが。 「ですが、どうしたんですか? お茶だなんて」  飲んでいるのは生ぬるいスポーツドリンクなので、お茶というのは名目上のものだ。 「たまには良いでしょう? ……以前、私のトレーナーにトレーニングを見てもらったそうですわね、ヴィルシーナさん。貴方のそうした柔軟性は美点よ」  だとしたら。と、ジェンティルは彼女のトレーナーから回収したタブレットを差し出した。 「私自身の言葉から学ぶものも多いのではなくて?」 「そ、それは……けれど……」 「勘違いなさらないで頂戴、愉悦や憫察のためではないのよ。貴方と話すことで、私自身も理解を深めることができるもの」  画面には、先の勝負の記録が数字と図で記されている。数字は嘘偽りがなく、ウマ娘にとって自身の走りは何よりも雄弁だ。ならばレースを解剖したこれらの数字は、言葉の外縁から零れ落ちた何かしらを伝え得るのではないか。ジェンティルはタブレットの画面を迷いなく叩く。その度に画面が切り替わり、数字は様相を変えて語りかけていた。 「一本目の併走。私の脚を測るつもりだったのでしょう? メトロノームのように一定のペースを保つことで私の体内時計を狂わせつつ、次の伏線にする。……面白い趣向でしたわ」  分析の結果は極めてシンプル。各コーナーでヴィルシーナは極めて正確なタイムで走っていたという、それだけのことだった。ウォーミングアップだからそれで良い。むやみやたらに突っかかって疲弊してしまう方がバカげている。ジェンティルのトレーナーも注意をしていたことではないか。 「そして、二本目。序盤からスローペースで逃げて脚を溜めつつ、一本目の貴方の背を追う感覚を意識させる。中盤からペースを上げ、気付いた頃にはもう手遅れ……。一本目でお得意の逃げ方に緩急をつけたのね。うふふ、お可愛らしい策だこと」  解釈には常に主観が付きまとう。違う、と言ってやりたかった。過大評価だと。一本目はただ必死に足音を遠ざけていただけだ。自覚はしていたが、ヴィルシーナは何事においても過剰なまでにジェンティルと張り合ってしまうきらいがあった。だから、最も近くに彼女を感じる場所で試してみたのだ。自分のペースを守れるのか。自分を律することができるのか。そうした挑戦も実験も、決して恥ずべきことはない。  だったら、どうしてヴィルシーナは素直に白状できなかったのだろうか。 「……何であれ、貴方には通じませんでした」  認めてしまうのが、怖かったからだ。レースの世界では「呑まれる」とか「引き込まれる」という言い回しがある。有り体に言えば、相手の圧力に屈して冷静さを欠くこと。自分の走りを見失うことを指す。  タブレットの画面をスワイプすると、映像が最後の直線へと切り替わった。トップスピードに乗った赤い影がヴィルシーナと並ぶ。そしてその瞬間、フォームが崩れた。追い縋ろうとするあまり、ピッチ(脚の回転数)が上がり過ぎ、バランスを崩していたのだ。  まだデビュー前に遡るが、ヴィルシーナはジェンティルと公開模擬レースに挑み、そして、彼女に呑まれた。突き放したと思った相手との距離が徐々に縮まる。足音や視界に映る影が近付くに連れ、水中を走るように両脚が重たくなる。スローモーションで映像が流れ、交差し、その背が遠くなっていく。  完敗だった。もう二度と彼女と走りたくないと願ってしまうほど徹底的で屈辱的な敗北だった。トレーナーと出会わなければ、今もジェンティルから逃げ続けていたのかもしれない。レースではなく、それ以外の全部で。それほどに、あの痛みは鮮烈に焼き付いていたのだ。  今、その疼痛が蘇った。主観で言えば彼女の圧を感じこそすれ、怯みはしていない。そのはずだ。だが、本当にそうだったのだろうか。意思のないものは嘘を吐かない。感情が立ち入る隙間のないものは醜い自己弁護や保身を行うことはできない。録画映像と自分自身、どちらが誠実かなんて天秤にかけるまでもなく明らかだった。  成長の化粧板で覆い隠していただけで、私は呑まれていたのだろうか? 今日までずっと、引き込まれていたのだろうか?  顔を上げると、赤い瞳に気付いた。紅玉の持ち主は超越者気取りで指先を遊ばせ、挑戦的で挑発的な口角で問いかけている。「貴方なら、もうおわかりでしょう?」と。日頃から自らの哲学を獅子吼するジェンティルだが、このような沈黙の内にこそ、その神髄は眠るのかもしれない。 「覚えておきなさいな。絶対的な強者と挑戦者の違いとは視点の数と、視座の高さ。見るべきものを捉える力。だからこそ、貴方が私を見つめるその目で私は貴方を見ることはない、と」  二人の間にある幾つもの相違点――身長体重や垂直飛びの記録、MBTIや好きなピアニスト。週末の予定に昨日の朝食、家族構成から幼い日の憧れに至るまで――の中には、当然、思考の到達点も含まれているに違いない。それも天地のように果てのない差が。それがヴィルシーナの下した結論だった。  あるいは主観の天地とやらは客観的に見れば花一重に過ぎないのかもしれない。だがヴィルシーナにはどうでもよかった。埋められない差、その確かな存在だけが結果という形で表れている。花弁のひとひらに人の心は癒されるし、乱されるのだ。 「とはいえそれだけでは足りない。真の強者とは、あらゆる状況の中でも揺るがぬ強さを持つ。選択肢を実行できる絶対的な『力』こそ、対応力の裏付けに他ならない。そうは思いませんこと?」  言うまでもないが、相手の策を打ち破れるのもまた力だというのがジェンティルの持論だ。実際、それは正しい。  負けたのは、まだ足りなかったからだ。あの豪脚から逃げ切れなかったから。あの走りに引き込まれたからだ。いつだって静かに燃える石炭のような双眸が最後にはヴィルシーナを捉え、高炉の中へと彼女を放り込むのだ。そうやって何度も何度も叩きのめされ、何度も何度も精錬されて、ヴィルシーナは挑み続ける。彼女が鋼ならとっくに今頃は鋭い刀になっていたことだろう。果たしてその切っ先は鍛冶師に届き得るだろうか。 「えぇ、難しいでしょう。無理もありませんわ、貴方の瞳は私でいっぱいだもの。周りを見る余裕まで求めるのは酷、ですわね」 「――っ! そ、そんなこと……。……今日、私に教えたことを後悔させてあげる。次は必ず……!」 「うふふ、私と同じ武器を少々手に入れただけで……本当に、お可愛いこと。それなら大事になさって頂戴。例え小さな希望だとしても、縋っている間は幸せだもの」  ジェンティルは目を瞑った。ご自慢の哲学によれば、幸せだったからだ。もっともヴィルシーナにそれは伝わらない。伝えてないのだから当然なのだが。  代わりにヴィルシーナは、理解を求めているか、挑発しているかだろうと考えた。というよりも、その両者を兼ねているのだろうと。他のいついかなるときにそうでなくとも、今この瞬間、間違いなく二人は理想的な師弟だった。例え師の教えが猛毒や劇物の類だとしても、弟子は躊躇わない。  これは庇護かもしれないし、あるいは試練かもしれない。強者が配る頑是のない愛情はいつだってその境界線が曖昧だ。だからこそヴィルシーナは証明するために、その杯を仰いだ。  これは試練で、私は貴方を乗り越えてみせます、と。  タブレットの画面は真っ暗になっていた。気付けばカフェテリアの人影は殆どが夜に溶け、遠くの方で笑い声とも叫び声とも区別のつかない音が聞こえるばかり。スポーツ飲料はすっかり常温になっていた。ぬるくて爽やかなイオンとナトリウム味の時間を、二人は飲み干した。 「でしたら、その刃が貴方の喉首に届く日が楽しみですわね、ジェンティルさん。……来週、同じ時間にもう一度、模擬レースを申し込みます!」 「また一つ、貴方に予定を埋められましたわね。よろしくてよ、ふふ」  ジェンティルがタブレットを撫でるとぱっと画面が明るくなり、カレンダーアプリに切り替わった。様々な予定で染まったスケジュールはまるでスイートピーの花畑だ。一瞬でその全てを把握することなんて到底不可能だし、そもそも見る気もなかったが、自分との予定が青色だということだけはすぐにわかった。今日の日付の横を白い星が飾っている。『18時 ヴィルシーナさんと模擬レース』。それを二本の指で叩くと、真下にも全く同じ文字が浮かんだ。青色の予定はこれで、今月九つ目だ。  結局、ヴィルシーナの選択肢は一つだけしかない。  逃げられなかったのはジェンティルの鋭い末脚だけではない。赫々と燃える両の目の赤色からも逃げられないのだ。それらに違いがあるのなら、その前者からは勝利のために逃げ続けなければならず、その後者には立ち向かい続ける必要があるというだけ。いつかこの執着的な戦いにも終わりが訪れるのだろうか。 「……ところで、少し雑談なのだけれど」  画面が再び無機質な黒へと戻り、つややかな表面はペットボトルとその先のヴィルシーナを映した。 「雑談?」  ジェンティルさんが、私と? 確かに多少はすることもある。けれど今? どういう風の吹き回しかしら、それともまだ、鼓吹し足りない何かがあるとでも? 疑問符の答えを探してヴィルシーナの脳は高速で回転を始めた。しかし、微動だにしない貴婦人を前にしては空回りするばかりだった。 「ええ。そちらの……新しい、勝負服かしら?」 「え?」  だから。ジェンティルの指が、視線が、本当に何の含みもない調子で発した言葉が虚を突いた。本当に雑談だなんて、思わないじゃない。咄嗟に浮かんだ言い訳を、自分への、口に出す価値のない言い訳を振り払う。 「いえ、こちらは……ただの、練習着です」 「あぁ、先ほどのことなら……責めているわけではないの。現に貴方は以前よりも力をつけておりましたもの」  もごもごと返したヴィルシーナを見て、ジェンティルは何度目か、くすくすと笑って見せた。 「……これは妹と……ヴィブロスと買ったものなんです。私は選んでもらっただけ、ですけれど」 「私と同じバッグを選んだ子かしら。ほほほ、随分と貴方を見ていらっしゃるのね。……その刺繍なんて特に」  ジェンティルが指差したのは、胸元に咲く木槿の刺繍。淡い青紫のどこがお気に召したのか、満面の笑みを浮かべている。もちろんサディスティックないつもの笑顔だ。「これですか?」と当然の疑問をぶつけるのと、「そうなんです、あの子は本当によく気が利きますから」と最愛の妹を褒めるの。どちらを優先しようかと逡巡する間に、ジェンティルはヴィルシーナの疑問へと答えた。 「その花……木槿は一日花でありながら毎日新しい花を咲かせる」  楽し気な調子を隠さないジェンティルだったが、その眼差しは真剣そのものだった。瞳には花と少女が同時に映っている。 「何度散ろうと、何度折られようと食い下がる貴方によくお似合いでしょう?」  ヴィブロスがそこまで考えていたのかなどヴィルシーナが知る由はないし、尋ねるつもりもなかった。そこに何があったにせよ、あるいは何もなかったにせよ、末妹にとって一目惚れした服だということだけが事実。そしてジェンティルにとって、その花はヴィルシーナの象徴だということだけが事実だった。  今日散ろうとも、明日にはより強く美しく咲いてみせること。それをジェンティルは求めていた。その花を再び摘むことを願っていた。幾つの花弁を集めれば気が済むのだろうか。幾つあろうと足りるはずがない。どうしようもなく強欲な人だもの。  ヴィルシーナは、欲張りな赤色を睨んだ。挑むしかないのだ、これからも。明日も木槿は咲くのだから。 「ありがとう、ございます。……今日の私が散ったことは否定しません。ですが、いずれ……」 「いずれ? ……ええ、楽しみにしておきますわ。とはいえ、待ちぼうけになるかしら」 「長くお待たせするつもりはありませんわ、生憎ですけれど」  そのとき、ぶぶ、とジェンティルのスマホが揺れた。連動してタブレットにもメッセージが浮かぶ。どうやら彼女のトレーナーからのようだった。  驚くほど速やかにジェンティルはその通知を消したため、何が書いているのかは読めなかったが、大方の想像はつく。もう遅いから休むようにとか、そんなところだろう。 「首を長くしてお待ちしておきますわ。……それではヴィルシーナさん、失礼いたします。本日はお誘いいただきまして、ありがとうございました」 「こちらこそ、お付き合いくださり心より感謝します。……おやすみなさい、ジェンティルさん」  ジェンティルは目を丸めた。石炭の瞳に炎が灯り、公私の間に吹く風で一瞬揺れた。それからゆっくりと、一音一音を確かめながら、こう返した。 「ええ、おやすみなさいませ」  言い終える頃には、二つの炎は煙もなく消えていた。  ⑤  これまでジェンティルは、数え切れぬほど多くのステンドグラスを見てきた。多くの場合それは教会や大聖堂の窓にあり、神秘的で壮麗な光と影を産み落としていた。  いくつもの教会を訪れ、いくつものステンドグラスの光を浴びたが、ジェンティルはただの一度も祈りを捧げたことがない。形式的な動作はあれど、心が伴うことは一度となかった。  そんなことをせずとも、もっと良い方法を知っていたからだ。ジェンティルはいつも、礼拝の代わりに虚空へと手を伸ばす。跪くことなく悠々と歩み、聖句を唱えるのではなく深く息を吸う。そして目を瞑らず、瞬きの一つもせず、その全てを網膜に焼き付けるのだ。隙間なく並んだ石畳や、それを見下ろす遥かな穹窿。荘厳なパイプオルガンの音色と、それに寄り添う物悲しいカリヨンの調べ。光を浴びるステンドグラスと、そこから落ちる総天然色の影。現存する多くの聖堂は、数多の暴虐と混乱の時代を乗り越えてそこにある。さらなる幸運と努力が重なれば、これからの数世紀も残り続けることだろう。だとすればこの建造物、空間こそが実際的であり、尊敬に値するのではないか。  その敬意にこそ、聖性のエッセンスは宿っている。なぜなら神聖とは神へと向けた比喩だから。比喩はやがてその輪郭と面影を曇らせる。  荒野を歩む旅人に、柵の中で暮らす羊の気持ちはわからない。可哀想なジェンティルはきっと永遠に、羊飼いになれないのだ。  今、ジェンティルは青色の光差す教会に立っていた。それは明晰に夢だった。断片を繋ぎ合わせたという点で、夢はステンドグラスに似ている。ただしそこに計画性は微塵も存在せず、でたらめな配置が偶然に、抽象画の真似事をしているに過ぎない。記憶の瓦礫で組み立てられた一夜の教会は目覚めとともに砂へと還った。  それでもジェンティルは、呼吸の度、尊ぶべきものが肺に満ちていくのを感じていた。そのため、柔らかな光の下でただ一度だけ目を閉じた。瞼の裏に焼き付いた光は暖かく、優しく、落ち着いた。静謐で、幸福によく似ていた。  スマートフォンのアラームでジェンティルの夢は幕を引く。  いつもと同じ起床時刻。床を挟んだベッドの向こうでは、同室のブエナビスタを包んだ布団が規則正しく上下している。部屋の中央にはカーテン越しに優しい光が漏れ、代わり映えのしない朝を告げていた。  多くの夢は翌朝まで持ち越されることはない。レム睡眠とノンレム睡眠の浜辺で砂絵のように波風にさらわれるからだ。翌朝まで持ち越した僅かな残り滓も大半は朧気なもの。目覚めに残るのは大概、漠然とした瞬間的な感覚と強い感情の残り香だけだ。ナイトアロマのネロリに鼻をくすぐられ、朝露みたいに滲んだ汗を指先で拭い、額にへばりついた前髪を軽く払った。  残念、もう少し見ていたかったのに。無意識に浮かんだ口惜しさを化粧水と乳液で洗い流し、CCクリームとファンデーションに埋め、コンシーラーとミストの仕切り板ですっかり覆い隠した。それからようやくジェンティルは、鏡の前の自分を睨んだ。寝起きの頭がすっかり覚醒し、根を下ろして揺るがなくなるまで、真っすぐと。  何を余所見していたのかは知らないけれど、見るべきものはここにある。やるべきことは残っている。例えば差し当たり、アイシャドウを塗ること。目を離してまで優先すべきものなど、何があるというのだろう。  ◇  駅前のビル群の一つへとちらりと視線を送っては、それきり目を向けることはなく、次の建物へと向かう。過ごすには丁度良い曇天の空が、薄い膜のような影を街に落としていた。くすんでいる。新作の鉄球飾りやケースも、靴も、バッグも、化粧品や宝石類も、どれも心には響かない。  せっかくのオフだというのに、纏まりのない考え事を浮かべてジェンティルは逍遥していた。昨夜の夢のせいだろう、青色の光が蔦となって網膜に絡みつき、一夜の内に他の色を奪ってしまったのだ。洗っても化粧をしても、瞼の裏の残光は拭えない。  もどかしさの蔓が胸まで届く頃、ようやくジェンティルは解放された。  信号を挟んで向かいに、気合の入ったゴシックロリータのウマ娘が立っていた。くすんでいるのではなく自前の白と黒で、そのために鮮やかに、彼女は信号を待っている。過剰な美白が儚さを強調させる大陸風のメイク。多重構造のフリルが目を引くワンピースは修道女をイメージしているのだろうか。やけに長い日傘を杖にして、体重を逃がしている。ジェンティルは、彼女に見覚えがあった。都内のレースやイベントでいつも前列に立ち、自分へと声援を贈る見慣れた顔。活動的ではないが熱心なファンに支えられている、ジェンティルドンナ・ファンクラブの会員だ。  信号が変わり、通行人はぎこちない隊列を組んで一斉に歩き出した。不動のジェンティルを人の波が避けて行く。ゴスロリのウマ娘も例に漏れず、ちょうど正面のジェンティルへと向かっていた。左脚の跛行(歩行異常)から察するに、どうやら傘を杖にしているのは伊達でないらしい。見ればその傘も単に丈が長いわけではなく、石突の部分もやたらに伸びた特殊な作りをしていた。  ゴスロリは一バ身の距離で一度ジェンティルを認め、すぐに俯き、再び顔を上げた。お手本にしたいくらいの二度見だ。同時に、重たい前髪が跳ね、その奥で二つの光が覗いた。モノトーンの中で唯一鮮やかな緑色の光、若く瑞々しいオリーブの果実の色だった。 「……え?」 「――あぁ、失礼」 「ふえ!? え、え……! ジェンティルさん!? 本物? し、失礼しましたっ! どうして、ここに……!?」 「随分と賑やかですこと。私とて外を歩きますけれど」  その上擦った声と、そこに込めた熱。さらに瞳、もっと正確に言うなら虹彩の模様。忙しない耳と尻尾の動き。その仕草は、つい昨日にも覚えがある。 「……貴方。そう、貴方でしたのね。常よりの御声援、感謝いたします」  雰囲気こそ違うが、彼女こそが昨日のスタイリストに違いない。ジェンティルは得心した。既視感を覚えたのも、そうでありながら記憶の誰とも結びつかなかったのも、魔法にかけられていたからなのだ。服と化粧と髪型の組み合わせは人の印象を容易く変える。特にその内の一面が強烈であればあるほど、光に対する影のように、そのもう一面は見落とされてしまいがちだ。加えてカラコンでも入れているのか、昨日の成熟した赤紫の輝きはどこにもない。今日の緑と昨日の紫、どちらが彼女の本当の瞳なのかはわからなかった。そして重要でもなかった。  どのような服を着ても鏡に映るのは自分自身。何を履こうが残るのは自分の足跡だ。誰かのふりをしようが、誰でもなくなろうとしようが、自分であることは変えられない。だからこそ、好きな服を着れば良い。人間様は好きな色になれるカメレオンだ。舌の代わりに腕を伸ばせば、望んだものを掴むことができる。  目の前の彼女がそうであるように。ジェンティルは頷いた。二度目のことだった。 「わ、私のこと……認知して下さってた……。あわわ……」 「ええ。……今、ようやくですけれど。昨日もお会いしていましたわね、気が付かず大変失礼をいたしました」 「い、いえいえいえ! お気になさらないでください! 普段? と全然違いましたし、それに、仕事中でしたので……。ああ、どうしよ……。私もう顔を洗えないかも……!」 「落ち着きなさい。昨日の貴方はしっかりと背筋を伸ばしていましてよ?」 「ひゃいぃ……」  両耳と尻尾が力なく垂れ下がる。それに合わせて彼女の杖を飾った青い薔薇が揺れた。杖ではなく傘かもしれないが。いずれにせよ、その造花の青色には見覚えがあった。夢で見たあの青色、ステンドグラスを構成した欠片だ。 「そちら。よくお似合いですわね」 「はいっ! ありがとうございます! あのあの、こちらですね。き、昨日、ジェンティルさん、こちらをお気に召されていたようなので、個人的にも欲しくなって、ええ。けれどあれは特注品でしたので、これは、その、代わりと言いますか……」  舌が回らないのに早口で喋るのは、随分と緊張しているからなのかしら。首肯をしつつも、ジェンティルには一抹の罪悪感があった。自分は彼女にとっての青い薔薇になってしまったのだ。造花は何の香りもしないが、その代わり枯れることもない。プラスチックなら土に埋めたって帰らないし、自然の摂理から逸脱をしている。彼女の中でその花はどれだけ咲き続けることなのだろう。おかわいそうに、向日葵が太陽から目を背けられないように、あの方はもう、青色を見る度に薔薇を想い、薔薇を想う度に私を想わなければならないのね。そんな風に彼女を憐れんだ。ゆえに、どれだけ咲き続けるか、という自問にはこう答えるだろう。  無論、いつまでも。沈まない太陽は存在しないが、不滅の象徴として君臨することはできる。そうやって世界中を手のひらの内に収めるのが、ジェンティルのいたいけな夢だった。 「もしご迷惑でなければ、ですけれど。どちらで買われたのかお伺いしても? 私ももう一つ、欲しくなりましたもの。ふふふ」 「よ、喜んで……! ご案内いたします!」 「そこまで手を煩わせなくてもよろしくてよ?」  ジェンティルの言葉に合わせてぺたりとゴスロリのウマ娘の両耳が垂れた。「素直でよろしい」ジェンティルはそう笑って、いたずらに続けた。 「でしたら、リードはお任せしますわ」  返事と一緒に、彼女の尻尾が風切音を上げた。リードはリードでも、まるで犬のそれだ。ジェンティルはそんなことを考えた。  ◇  駅からは歩いて二十分程度の雑居ビルの一階、といってもごちゃごちゃとした細い通りの一角に、その店はあった。店先から店内までを彩る様々な造花が、ドブネズミ色のビル群で唐突に存在を主張している。中でも目を引くのは薔薇だ。赤に白、青、黄色、橙、ピンク、紫に緑。中には虹色や黒色など、人間の手でしか生み出せない非現実的な色もある。非現実的、といえばこの店自体がそうだ。季節も気候や風土も関係なく、一様に花々は咲き誇っている。それが命を模造しているからではなく、命にあまりにも似ているからこそ、完璧に保たれた調和が浮世離れしていた。 「――あの薔薇を作ってくださったのも、こちらの職人さんなんです」  ゴスロリのウマ娘に相槌を打つ間も、ジェンティルは店内の観察を怠らなかった。カサブランカや桜、アーモンドに蘭。白木蓮、リコリス、梅、チューリップ、椿。ジェンティルが名前も知らない多くの花や草木。ブエナビスタも花を愛でていた覚えがあるが、あれは何だったろうか。店内を巡るうちに、それがアルストロメリアであることを知った。原産地は南アメリカで、切り花でも長持ちすることから、花言葉は持続や友情を意味する……。このように、造花はその一つ一つに様々な解説が添えられていた。例えば花言葉をはじめ、季節や民間伝承、毒性や薬効。店主の粋な計らいなのだろう。  ジェンティルは、再び薔薇の前で立ち止まった。特注品との言葉通り、並んでいるものは昨日のそれと比べると幾分か簡素な造りをしていた。 『薔薇には多くの逸話があり、ここにその全てを記すことはできません』 『古くは紀元前8世紀。古代ギリシアの詩人、ホメロスがイーリアスに記述したところまで遡り……』  今日に至るまで、多くの詩人が薔薇にあらゆるものを重ねてきた。例えば赤色は女神や太陽。その生涯は美と老いで、鋭い棘は罪と罰といった具合に。そうして比喩を背負い続けた薔薇には、もはや余白など残されていない。一片の隙間もなく手垢で汚れてしまったのだ。  青いドレスを選んだとき、ジェンティルはまだ若く実績も少ないスタイリストに任せてみた。具体的な指示は出さず、「ドレスに合わせた装飾品を」とだけ注文した。本来であれば、一流のスタイリストを指名して自分の考えを擦り合わせるにも関わらず。どのような気まぐれが働いてそうさせたのだろうか。  結論としてジェンティルは彼女を、その情熱やプロフェッショナルを信頼したのではない。自分ではない誰かの手に何か、自分のことを委ねるというのはとても恐ろしいことだ。根拠がなければやっていけない。だが根拠があるから信じるのなら信じたのは根拠であり、その人ではない。手のひらに何を握っていたとしても、それをどう扱うかは握った本人に委ねられているように。何かを持っているとか、何かを為したことがあるとか、そんなものは信頼の理由になり得ない。  信じたのは、自分のセンスだった。直観と言ってもいい。人は誰かを信じるとき、その人を通して自分の何かを信じる。ジェンティルの場合は、胸の内にしまった、誰にも言えない願い事を。  比喩の届かぬ場所、ただ一人が到達できる場所に行きたい。頂きを見上げる人々の、象徴となる場所に。比喩というのはその主体が常に客体の後塵を拝んでいる。何かに例えられるとき、それは、自身の敗北を意味するのだ。だからこそ薔薇のようなジェンティルでなく、ジェンティルのような薔薇でなくてはならない。そして見事スタイリストはその願いを叶えたのだった。青色の薔薇にジェンティルを見出して。  そう、左耳に飾られたあの青色は美しかった。平たく言えば、気に入った。他の何色にも染まらない、素敵な青だった。 「……あのぉ、ジェンティルさん?」 「ふふっ。お気に召されましたか?」  五枚に分かれた解説板の一枚目を読み終えたあたりで、見計らったように二つの声がジェンティルを呼んだ。一人は先ほどのゴスロリで、もう一人は車椅子に乗っている。ぴんと伸びた背と首は殆ど動くことなく、へそ辺りの高さからジェンティルを見つめていた。 「あら……失礼。興味深い読み物でしたから」 「いえいえ、こちらこそ! そう仰っていただけるなら光栄です。あっ、自己紹介が遅れましたね。私、当店の店主でございます。ジェンティルドンナ様、この度はお越しいただきまして誠にありがとうございます。……楽しんでいただけておりますか?」  一気呵成に言い切ると、彼女は軽く頭を下げた。均衡と色彩の静けさの中で鹿毛の耳が跳ね、左耳を飾るトラデスカンチアの髪飾りがゆらゆらとそれに続く。一瞬ウマ娘だと気付かなかったのは、その幻想的な白と紫のコントラストのせいだろう。身体は芯から細いが、しゃんとした背筋はほとんどぶれることがない。一朝一夕で身につけた体幹でないのは想像に難くなかった。 「ええ、とても」  ジャギーの入った前髪の向こうで、琥珀色の瞳が覗く。気泡のような虹彩が瞳孔を閉じ込め、透き通る活力の光、神秘的な練達の静けさが湛えられている。存外に、年の頃も近いのかもしれない。ジェンティルの同期に、よく似た雰囲気の者がいたことを思い出したのだ。そのような感傷的なことを考えたのは、傍に立つ歩行杖のウマ娘のせいなのかもしれない。こういう出会いは一度なら偶然だが、二度目もそうなのだろうか? もちろん偶然だ。世界は偶然で構成されている。運命なんてものは単なる手順書と同じだ。工場の機械が作ったネジにすら不良品が混ざるように、あらゆる偶然の入り込む余地がある。  そして彼女が何であれ、誰であれ、今の彼女はここにいる。その事実は微塵も揺るがない。過去に心を預けて現在を蔑ろにするのは愚者のやることだ。 「ありがとうございます! エヴァさ……お連れ様からお話を伺いましたよ、私の作品がお気に召されたと」  エヴァと呼ばれた例のウマ娘は咄嗟に両手で顔を覆ったが、店主は快活に手を振ると弾むような声で続けた。 「予備ですが、納品したものと同じものがございまして。もしよければ、ご覧になりますか? さっ、ご遠慮なさらずに!」  通路を旋回し、車椅子が二人に背を向けた。慣れた様子で手押しハンドルに尻尾が巻き付く。背中を押すには及ばない、と言いたげに。ジェンティルはエヴァを一瞥した後、返事も待たずにその背を追った。追い越さないように、慎重に。不規則な杖の音がそれに続いた。  ⑥  秋の訪れは夢に似ている。始まりは夜に赴く驟雨。それは数日の内に、早朝の澄んだ空気によく馴染んだ。  早朝のロードワークは季節の変化が肌に伝わる。喉の奥のむず痒い乾燥や、皮膚に吹く風の鋭さ。風になびいた髪の間をすり抜ける冷たさ。街を抜けて河川敷に出ると、ススキが揺れていた。土手の奥では彼岸花が蠱惑的な紅白を咲かせている。もう数週もすれば、街角のあちこちから金木犀が香るはずだ。それらの後には秋薔薇が咲く。ヴィルシーナは、薔薇のことを考える度に妹のヴィブロスを思い出す。  薔薇の産出量で世界一を誇るのはケニアで、そのケニアから日本へと輸出をする中継点はドバイだという。いつだったか、そんな話をヴィブロスから聞いたことがある。だとすれば、とヴィルシーナは貨物機を思い浮かべた。その中には薔薇の花が所狭しと並んでいるはずだ。家族でドバイに旅行をしたその帰り、自分たちを乗せた飛行機と同じ空を、数時間差で、その貨物機も飛んでいたのかもしれない。その日からヴィルシーナのドバイには、芳しい薔薇の香りが溢れた。  ヴィルシーナにとって、薔薇はヴィブロスだった。笑顔とともに鮮やかな花が咲き、甘い香りで心を癒す。そして私が木槿なら、シュヴァルに相応しい花は何かしら。浅い呼吸と共に、秋の中をヴィルシーナは駆け抜けた。答えは見つからなかったが、考えるのは楽しかった。  舗装されたアスファルトが砂利道の坂に切り替わり、公園とも広場ともつかない場所に出た。生え放題だった先ほどのススキと違い、手入れされた草木が等間隔に並んでいる区画だ。どこかうら寂しいが、休むにはちょうど良い。肺臓の空気を循環させるように深呼吸を繰り返し、軽くストレッチをした。ヴィルシーナは特別植物に明るいわけではない。したがって、たった今目に留まった一本の木など昨日まで名前も知らなかった。 「木槿……」  高さは二メートルほどだが、脛くらいの高さから広がった枝を葉が覆っており、予想よりも威圧的なシルエットをした木だ。その若々しい濃緑の枝先を矯めつ眇めつなぞり、梢から下闇まで目を配る。  探し物は樹下にあった。慎ましやかな白い花弁。萎れた花弁が幾つも土の上に裸で横たわっていた。今日はもう、散っていたらしい。木槿は一日で花が散る。  明日は、咲いてくれるだろうか。――そうでありますように。  ヴィルシーナは、散らばった亡骸の一つへと手を伸ばした。指先が泳ぎ、淡い白を持ち上げた。地面に触れていた箇所は茶色く滲み、冷たく湿っている。祈りの仕草のように、手のひらでそれを包んだ。スマートフォンのアラームが鳴るまで、ずっと、そうしていた。  ◇  数年前、ヴィルシーナは秋華賞で敗れた。勝者はジェンティルドンナ。史上四人目のトリプルティアラウマ娘が生まれたその日、史上初めてその影で二着となり続けた者が生まれた。それがヴィルシーナ、ジェンティルと共に語り続けられる宿命を背負わされたウマ娘。  トリプルティアラと呼ばれるレースの内、「桜花賞」と「オークス」はそれぞれ特定の植物から名前を冠している。すなわち美しい桜と、力強い樫。ヴィルシーナはそれぞれでジェンティルに後れを取ったのち、しばらくの間それらを見かける度に屈辱を思い出す羽目になった。  最後の一つ、「秋華賞」は少し異なる。その名の由来は中国の詩に遡るが、具体的な植物を指してはいない。秋華とは、象徴だ。真っ赤に燃える山麓や蕭々と吹く風の音、土に転がった銀杏の実や遠くで鮮やかに揺れる野菊、そして川を燃やし、空を焼きながら沈む夕陽の。ためにヴィルシーナは、秋の風に、香りに、花に、陽に、闇に、秋華賞がちらついた。もっと具体的な名前がついていれば、苦しみもいくらかは減っただろうに。  ちらつきはいつも、決まった情景から始まった。   「ありがとう、ございます」  サテンの白い手袋が、ヴィルシーナを求めている。観音様を気取って掬い上げるように、あるいはダンスのパートナーへとそうするように。どちらであっても何の違和感もない完璧な仕草だった。卑屈に謙遜するのではなく、悪辣に晒上げることもない。ヴィルシーナの理想を鏡映しにした完璧な女王の振る舞いで、ジェンティルはヴィルシーナを掬い上げようとしていた。  それを思い出す度に、ヴィルシーナは恥ずかしくなった。震えるばかりの両脚と、呼吸のたびに上下する肩。敗れそうなくらい胸を叩く心臓と、それを抑えようと無意味な抵抗を続ける手。身長差以上に低い場所から、荒いピントで彼女を見上げるしかできないこと。それら全てが情けなかったし、そんな考えを抱いたことが何よりも恥ずかしかった。誰しも結果に胸を張らねばならない。それが何事かに全力で挑む者の負う最低限の責任だ。外野から不運を託つのは卑劣でみっともないが、自分自身を讒訴するのはもっと悪い。  そうすることのないように、王者は差し出したのだった。共に駆けた十七人が今日を誇りにするための、大乗的な手のひらを。  賞賛は必ずしも勝者だけに与えられるものではない。これは手のひらの上でヴィルシーナが得た美しい学びだ。  公式戦に限ればこの半年、それ以外ではもっと前から全てを尽くし、彼女は挑み続けた。戦いの日々は二着という結果以外に、何を残したのだろうか? 物語だ。それがたった今、結ばれた。握手と共に、感謝の言葉と共に。  競い合った二人が認め合うなんていうのは、ありふれているのかもしれない。探せばネットのあちこちで毎日アップされているだろうし、創作で見るには食傷気味だ。挙句に捻りを加えなければテンプレ的だと叩かれるかもしれない。  そうだとしても、当事者にとってはこの上ない奇跡に他ならない。ところでここでの当事者とは、それを見届けた全ての者を指す。なぜなら瞬間は体験を通じ、私的な記憶から私的な歴史へと変わるのだから。したがって見る人によって異なる翻訳をされるのも当然といえる。そしてヴィルシーナの場合、彼女の脳の叙事詩的な部分には、次のような一節が刻まれた。 『そのとき結ばれた手は連理となり、赤と青の秋華が咲いた』  ジェンティルとヴィルシーナの物語があるとすれば、この一文は、ある章の終了を意味している。  そして、次の章の始まりを。 「貴方は強い。――ですから、先に進むわ。次の舞台は――ジャパンカップ。私の引率がまだ必要であれば、どうぞ貴方もいらっしゃいなさい。また今日と同じ結末になると思いますけれど……。ほほほ」  笑い声のような音を漏らしたが、ジェンティルは微塵も笑っていなかった。これから先、二人の進む道は決定的に分かたれる。幾朶に分かれた枝先でそれぞれの碧が芽吹くように。ジェンティルとヴィルシーナはかつて競い合った二人になる。そうして、それきりになるのだ。ジェンティルは、それを選ぶ権利を、ヴィルシーナに委ねた。  そんなのは、嫌だ。だって、まだ――。ヴィルシーナはその続きを胸にしまい、首を振った。  まだ。そのとき、その言葉は、ヴィルシーナにとってあるものの象徴になった。全身に溶けて希釈され、呼吸によって世界へと溢れた。もしかすると目の前の人も吸い込んだりしたかもしれない。 「今の私では、まだ……」  届かない。今はまだ、そのときでは、ない。  まだ。その言葉を使うとき、人は未来のある瞬間に点を描く。来週は良い点を取れるかな。次はいつ会えるのかな。来月には怪我が治るのにな。夏休みはどこに行こうかな。明日こそ変われるといいな。早く大人になりたいな。いつか自分を好きになれるかな。次こそは、勝ちたいな。  様々な人が様々な点を描く。数多に浮かぶその点を、希望と呼ぶ。  当為を為せずに抱いた雲は涙の雨と共に消え、澄み渡る晩秋の空に爽籟が溢れた。しとどに濡れた秋華が誇らしげに揺れている。宙ぶらりんになったヴィルシーナの手は、誓いを握り締めていた。いつか再び相見える日に果たす、大切な誓いが。秋華は、ジェンティルとヴィルシーナの繰り広げた最高峰の戦いの証。今一歩及ばなかったとしても、二人が最大のライバルであった証となった。  三女のヴィブロス風に言うならお姉ちゃんはちょーかっこよくて、次女のシュヴァルの言葉を借りれば姉さんはすごい。さらにジェンティルの言う通り、ヴィルシーナは強いのだ。かっこよくてすごくて強くて、おまけに奇跡を起こしたのだから、まるでヒーローではないか。その日、ヴィブロスが密かにヒーローの背に憧れたことや、シュヴァルが双肩に背負う重圧を覚悟したことなど、当の本人は知る由もない。繰り返すが、瞬間を個人的な歴史とし、そこで何かを見出すのはその場にいた個人だ。  ◇  クラシック級のレースは世代戦――同じ時期に本格化を迎えたウマ娘たちの戦い――を中心に展開される。例えば三冠路線は皐月賞に始まり、菊花賞で結ばれる。同様に、ティアラ路線の掉尾は先日の秋華賞だ。その先は世代を超えたレースが主戦場。より研鑽を積んだ先達や、国外の有力ウマ娘が相手となる。だからこそジェンティルはそこに孤高へ至る道を見出し、ヴィルシーナは腕を磨く好機を見出した。  二人の道は分かれた。  ヴィルシーナが照準を合わせたのはエリザベス女王杯。結果はここでも二着に終わった。もちろん二着というのも立派な成績だが、それで満足できるはずがない。自分はジェンティルのライバルなのだ、こんなところで立ち止まるわけにはいかない。自分が弱いためにジェンティルの評価を落とすなんてのはもっての外だ。慰めや健闘を称える言葉を速やかに脳内から消すと、代わりに自分を責めて、追い込んだ。自罰の棘が痛む間は脚を止めることができないから。立ち止まったら折れてしまいそうだった。実に難儀な生き方だ。  二週間後、第32回ジャパンカップは開かれた。路線と世代の異なる二人の三冠ウマ娘が揃ったその日、東京レース場が強烈な熱気に包まれていたことは言うまでもない。観客席で広がる侃々諤々の議論を聞き流すヴィルシーナと次妹のシュヴァルもその渦中にいた。 「なんでジェンティルドンナさんが3番人気なの? 超強いの、ティアラ路線で見せたでしょ~?」 「かなり不安要素が多いんだよな。やっぱクラシック級のティアラ路線の子は歴史上勝ってないレースなのと……」 「相手はオルフェーヴルだぞ、オルフェーヴル! 去年のクラシック三冠ウマ娘! そんでフランスの最高峰GIレース、今年の『凱旋門賞』堂々の2位!」 「オルフェーヴルに『凱旋門賞』で勝ったソレミアは日本が初めてだしね。ホームで負けることはないでしょ」 「ルーラーシップはどうなん? 香港のクイーンエリザベス2世カップに勝ってから来てる気がするけど」 「私はビートブラック推しかな! 今一番乗ってるよ!賭けてもいい!」 「賭けるのはだめだろ……。でも、逃げの子が勝ったらいつぶりになるかね」  ざわめきを切り裂き、メインレースの始まりを告げるファンファーレが高らかに鳴り響いた。秋晴れの空の下、十七人のウマ娘がそれぞれのゲートに向かい、乾いたターフを踏みしめる。誰もが息を呑んでそれを見守るものだから、そのときの喉の渇きをヴィルシーナはよく覚えていた。  今日は偵察だ。ヴィルシーナは自分にそう言い聞かせていた。建前としては、客観的にジェンティルを見つめるために来たのだ。彼女の選んだ道、信じた哲学を知ること。その神髄に触れること。それはある意味で信頼の一形態で、信頼とは応援の延長線上にあるのだが、合理的な理由が本心を苔のように覆っていた。もしかすると理解していなかったのかもしれないし、理解しようとすらしなかったのかもしれない。例えばティアラ路線のウマ娘がジャパンカップで勝った前例はない。人気で言えば、ジェンティルはオルフェーヴルとルーラーシップに次いだ三番手だ。それでもジェンティルの勝利を信じて疑わないのに、根拠など欠片もない。根拠の代わりに信じたのはナンセンスなトートロジー、精神論者もびっくりの運命論だった。  熱を内包した奇妙な沈黙の中でゲートが開いた。一枠一番のビートブラックが鮮やかにハナを取り、ぐんぐんと加速する。トーセンジョーダン、ジェンティルドンナとそれに続いて先頭集団を形成していく。オルフェーヴルは中団、ルーラーシップは相変わらずの後方からのスタートだ。  レースが動いたのは最終直線の残り約二〇〇メートル。先頭を守り続けたビートブラックがついに失速し、二人の三冠ウマ娘が躍り出た。すると勢いそのままに後続をぐんぐんと引き離していく。気付けば観客の視線は釘付けにされていた。もちろんヴィルシーナも例外ではない。刹那の攻防の中で、何が起きていたのかを見届けようと必死だった。けれど印象に残ったのはただ一つ。  ジェンティルは、笑っていた。それもトランプのジョーカーみたいに凶暴な笑顔だ。ヴィルシーナがよく知るクイーンみたいなそれじゃない。もしも時間を止めることが出来たなら、このときを止めただろう。その表情をじっくりと観察しただろう。だがそのようなことを考える間もなく、二人はほとんど同時にゴールを割った。  そして、協議の時間が訪れた。ヴィルシーナは無意識の内に拳を握っていた。頭の奥がじんじんと熱を帯びていた。貴婦人の仮面の下に眠る獣性の破顔が網膜に張り付いていた。  永遠とも思えた二十分が過ぎ、ジェンティルドンナの勝利が告げられた。勝った。あの人が、勝った。咀嚼の終わらない唾液が口の中に残り続けた。  貴方の、そんな――楽しそうな顔、私は知らない。ぐちゃぐちゃになったパンフレットが右手から落ちた。ただの一度も向けられたことがないのだから、知るはずがない。ただの一度も引き出せなかったのだ。あの人の本当の笑顔と、本当の強さを。  道は分かれた。それを選んだのは自分自身、他の誰でもないヴィルシーナだ。だからそれ自体は苦しくなかった。  どのような結果であれ、人は全力で挑んだ結果を受け止めねばならない。ギリシア神話のアトラスが世界を背負うのは神々に敗れたからだが、人は誰しも生まれながらに形而上の世界を背負う。ヴィルシーナは長女としてあらゆる困難に打ち勝ち、世界を背負ってきた。何度ジェンティルに敗れても、その存在がどれほど大きく重たくなっても、決して手放すことはなかった。しかし今、ジェンティルは消えた。英雄的な召命によって比翼の鳥となり、オルフェーヴルとともに遥かな頂きへと飛び去ってしまった。無数の足跡と、片割れを失った連理の木を残して。ヴィルシーナは、眼前の出来事をそのように翻訳した。  何が最高峰の戦いだ。何がライバルだ。何が、『貴方は強い』だ。掲げた言葉も、贈られた言葉も、全部が軽かった。  その通り、言葉は軽いのだ。そよ風に舞う花びらよりも、ずっと。言葉の描く風景は、心だけで視る無形の景色。形なきゆえに容易く美化され、上書きされる性質を持つ。そしてこの不可視の美を守り抜くには、言葉も、比喩も、象徴も、そして奇跡までもが多すぎた。  ヴィルシーナの秋華は散った。それとともに、積み上げたヴィルシーナも崩れた。最高峰じゃない。ライバルでもない。強くなんかない。比喩もなく、象徴もない。役割だと思っていたものは何もない。あの人には、もう、届かない。もう二度とあの日々を誇ることはできない。もう二度と、あの人に関する記憶の、その一切合切を思い出したくもない。それならば、裸のヴィルシーナはどこにいるのだろう。  世界の重さが失われた。敗北の重さではなく、喪失の軽さがあった。苦しいのは、それだった。  枝の折れるような、音がした。梨にナイフを突き立てたみたいに瑞々しいえずきが漏れた。優しい甘さとしゃりしゃりの果実の代わりに、苦くて酸っぱい胃液がカラカラの喉を焼いた。心はハートの形で描かれることが多いが、あれは嘘だ。嘘じゃなければ間違いだ。世界を亀が支え、空から神様や天使様が我々を見守っているというのと同じ、単なる想像力の産んだおとぎ話。多分本当は、それは樹に近い。根っこがあって、幹が支えて、枝が伸びて、葉が茂る。挫折や悲しみのたびに枝が折れ、喜びや感動のたびに花が咲く。  聞こえたのは小さく可愛らしい音だったが、折れたのは幹だ。絶対にそうだ。折れて、吹き飛び、心室をずたずたに引き裂いた。  ヴィルシーナはそこにいた。安普請の誇りの跡で、丸くなって泣いていた。  ◇  人生の幸福が自己実現にあるのなら、期待に応えられないことは不幸だ。大なり小なり人は自己に期待をするが、それを裏切るのは最悪と言っていい。幼いヴィルシーナは自らに「理想の姉」という役割を課した。それは誰に頼まれたのでもなく彼女自身が望み、設計し、作り上げた高潔な姿だった。あろうことか、それを裏切ったのだ。  嫌になってしまった。自分が、自分じゃなくなっていくことが。どうしてそのようなことを考えたのだろうか。自分自身を裏切ったからだろうか。もっと卑近な例を出すならジェンティルに勝てず、その好敵手の座も失い、妹たちの模範であることを守れなかったからだろうか。  否。期待に応えられない自己自身こそが本当のヴィルシーナであるからだ。ジェンティルに勝てず、模範であれない自分。自分の心を満たせない自分。もう見たくもないし、もう信じる気も起きない、もうこれっぽちも期待なんてできない自分。そんな自分に付き合っていかねばならないこと。  もう。その言葉がヴィルシーナの内に溶けた。「まだ」がそうであるように、「もう」もまた、未来に点を描く。その点は永遠のピリオドとなって、後には何も残さない。ただ一つの、絶望以外には。  この種の絶望は、いつでも、他人を探していた。自分こそが絶望であるなら、最後の逃げ道は他人だけだ。もしもヴィルシーナが絶望したのなら、彼女が探すのは「理想のお姉ちゃん」に相応しい誰かになるだろう。これこそが本当の自分、これこそが本当の人生であり、自分よりももっとヴィルシーナ的である、本当の自分なのだと。自己投影はなんともコスパの良い生き方なので、そういった理由で今日、この現実逃避の影芝居は世界中で上演されている。アモラル極まりないグラン・ギニョールの天幕の下で。  それではヴィルシーナも絶望したのだろうか? 自分自身を消し去りたいと願い、この劇団の一員となったのだろうか?  その日からヴィルシーナは、同じ悪夢を見るようになった。三つのティアラを戴く自分。ジャパンカップで勝利したジェンティルを、称える自分。いつの日か、ジェンティルと再び戦う自分。勝ちたかったが、勝てなかった。勝てなくとも、誇りを失いたくなかった。ただそれだけだったのに。高々と挙げた恥知らずの簒奪者の手のひらは、いつだって空っぽだった。  柔らかな夢の殻が割れる度、ヴィルシーナは借り物の化粧を落とそうと躍起になった。顔を洗っても落ちる気がしない日はメイクを厚くしたし、頭上に荊冠を感じたら髪型を変えた。鏡の前で切歯扼腕し、その痛みで自分を確かめるのが日常になった。夢は、半年間醒めなかった。  心の底から自分を捨てたいなんて願う者は、とても悲しい。今日まで出会い、これから出会う全てを捨てることに等しいのだから。それはつまり、過去と未来のどこにも自分を見出せないということに等しい。  ヴィルシーナは違う。もう嫌ってほどに打ち倒されて、咽び泣いてしまっても。弱音を吐き出して、夢の中でどれほど他人の栄光に染め上げられたとしても。出口のない地獄の中で苦しみ続けたとしても。そんな自分に本当に、本当に、本当に疲れてしまったとしても。それでも、自分を手放すことなんてできなかった。そんなのは最愛の二人の妹、両親やトレーナー、多くの友人たちを手放してしまうことだから。たとえジェンティルのことを思い出したくなくっても、忘れたくはなかったから。精神的なリストカットで瘢痕だらけの心が、叫んだ。  私は弱い。弱いけれど、それが私だと。  かつて幹があり、秋華の咲いた土の下には、今も確かに脈打つ根がある。期待の底で眠っていたそれは、ぎらつく太陽にもどしゃ降りの雨にも負けないとびきり強い自慢の根っこだ。シュヴァルグランの生まれた日、初めての妹の産声と共に、その根も生まれた。元気に泣いたしわくちゃな妹への、期待よりももっと素朴で、もっと抗いがたくて、もっとナマモノでミズモノの感情のために。ヴィルシーナは姉だが、姉であるヴィルシーナは、シュヴァルの双子の妹だ。  赤子が泣いていると、不愉快だった。だからそれを泣かせる原因は徹底的に取り除いてやらねばならない。おしめを取り換え、離乳食を食わせ、延々と同じ遊びを繰り返してやるのは、小さくてふわふわな可愛らしい妹が泣いているのが我慢ならないからだった。そして、それが笑っていると、どうしようもないほどに心が満たされるからだった。利害関係において何度裏切られても期待を続けるのはバカだが、ヴィルシーナはそのような視点に立ってすらいない理外のおバカさんだ。愛のお勘定を清算する小銭なんて、端から持ち合わせていないのだ。  ヴィルシーナは惨めに傷付いていた。もう立ち上がれないかもしれないと嘆いていた。自分の強さを支えた象徴性がまるで失われてしまったと感じていた。だが彼女は、そのようなものを本当に欲していたのだろうか? 両親の素晴らしい教育方針のおかげで、ヴィルシーナはただの一度も「お姉ちゃんなんだから」と何かを要求されたことがない。誰もそれを強いることはなかった。こうありたいと願ったものは全て、一つの例外もなく、行動に伴う影法師のようなものでしかないのだ。そしてヴィルシーナの強がりは重ね張りした虚勢の賜物だが、強さの本質はやくざな紛い物なんかではない。誰に見せても百点満点の真実だ。  言葉や比喩、役割や象徴、物語や奇跡の総和が人だというなら、その証明は不完全。何かを選ぶとき、人は同時に何かを手放している。姉だからヴィルシーナなのではなく、姉であることを選んだからヴィルシーナなのだ。  与えられた愛が、選んできた愛が、愛のために諦めたあらゆる全てが、ヴィルシーナをヴィルシーナにした。  手放さなかった気持ちを胸に、ヴィルシーナは再び走り出した。誇りは、史上初となるヴィクトリアマイルの連覇で応えた。  ◇  一週間、ヴィルシーナの期待は裏切られ続けた。それでも彼女が愚直に足を運び続けたのはおセンチな期待からだ。木槿は強さの象徴。再生の象徴で、ヴィルシーナの象徴。ジェンティルから認められた証。だから咲いていてほしかった。ただの一輪が、ただの一度でいい。かそけき希望を抱いたヴィルシーナが、期待の陥穽から抜け出すために。  薄汚れた花弁の残骸は、日に日に汚くなっていく。数が減っても増えることはない。誰の目にも明らかに、もう、今年、この木は咲かない。ヴィルシーナは、足元に転がった最後の一輪へと手を伸ばした。湿った空気が肺を循環し、吐息となって病的な白茶を揺らす。濡れた土の上で眠っていたそれは、不快な冷たさを纏っていた。  これは私ではない。もう二度と、呑まることもない。比喩にも、貴方にも。  スマートフォンのアラームが鳴る前に踵を返した。一掬の茶色い残骸が零れ落ち、地面にぶつかって、ばらばらになった。  ◇ 「もう結構。気持ちが入っていないのなら大人しく休みなさいな。――今の貴方から得るものなどありませんもの」  約束の模擬レースは散々な結果に終わった。  トレーニングやロードワークには何の問題もない。むしろ好調と言っても差し支えがないくらいだ。ところが最終コーナーに到達した途端、全てが乱れてしまった。肉体の制御が効かない。筋肉が強張り、一歩が重い。頑丈な蔦に絞め付けられているようだった。そんな状態では勝負になるはずもなく、終わり際にはお互いのトレーナーが飛んでくる羽目になったのだ。 「外傷、屈腱炎、及び一切の怪我や異常なし。……少なくとも、差し当たっての心配はないみたい……。痛みとか違和感はある?」 「いえ……」  無機質なメディカルチェックの結果を震えた声が読み上げる。トレーナーが言わんとすることはヴィルシーナもよくわかっていた。原因は心の内側、精神の問題。決意を新たに、ヴィルシーナは挑んだ。自分ではないものに振り回されることなく。自らの手で選び抜いたものを見つめ直して。挫折を経て歩み出したあの日から変わらない、走る理由で。その結果がこれだ。  年季の入った医務室のベッドに潜り目を瞑ったが、眠気は一向に訪れなかった。乳白色の天井に並んだトラバーチン模様がリフレインしていた。今朝の木槿の冷たさや、鋭く響くジェンティルの声が身体から離れなかった。その声が、もっと決定的な言葉を告げるような気がしてならなかった。  もしも、あの人が――。主語はぼかすが、ヴィルシーナの恐れは具体的なイメージが多かった。「勝負を受けてもらえなくなる」とか「誰かの指導者になる」、「レースの世界から身を引く」、「卒業する」とか。敢えて抽象的で漠然とした言い回しにしなかったのは、避けていたからだ。それらの事象を俯瞰し、共通項に気付いてしまうのを。  言語化こそしていなかったが、ヴィルシーナは恐れていた。興味を失われること、見向きもされなくなること、もっと悪く言えば、見捨てられることを。  信頼とは何かと問われたら、見守ることだとヴィルシーナは即答する。妹たちを相手に、ずっとそうやってきたからだ。自己主張が苦手で気弱なシュヴァルの気持ちをきちんと汲めるように。あちこちに目移りするヴィブロスがはぐれてしまわないように。見守るというのは見るだけでもなく、守るだけでもない、非常にほどよいニュアンスを持っている。興味を持っていて、きちんとその主体性を認めて、何があろうと見失ったりなんかしない。その全部を内包しているような気がするし、安心できる。さらにはに奥ゆかしさすらあるかもしれない。要するにヴィルシーナは、見守っていてほしかった。妹たちに。あるいは、大事な全ての人たちに。  安心の対極には不安があって、不安とは恐ろしいもののことなので、ヴィルシーナの恐れも明白だ。一瞥もされなくなること。自分と今朝の木槿に何の違いもなくなること。  多忙なあの人のことだ、合同トレーニングも、模擬レースも、並走も、相手には困らないだろう。というより、レース以外にも責務は多いはずだ。一族で複数の事業を抱えていると聞くし、彼女自身が一種のカリスマ的な存在でもある。そんな彼女のカラフルな予定の内、差し当たって今は青色を独占していた。青とヴィルシーナは比喩の鎖で繋がれている。けれど、もし、もしも。  もしも、あの色が自分でなくなるとしたら、そのときは。  色素を持たない花は輪郭線を残し、透明に咲くという。青色を失ったヴィルシーナも透明になるのかもしれない。そうして光すら立ち止まることのない、忘れられゆく者の流刑地に送られてしまうのだ。  ◇  同期のジョワドヴィーヴルは、よく笑う子だった。誰からも愛されていたし、ヴィルシーナもその例に漏れない。  レースに関しても、彼女は非凡な才能の持ち主だった。史上最短でG1勝利を果たし、ジュニア期にはジェンティルやヴィルシーナを差し置き最優秀ウマ娘に選ばれるほどの逸材だと言えば話が早いだろう。勢いをそのままに桜花賞でも堂々の一番人気を背負ったジョワドだが、ご存知の通り、この年のティアラ路線はジェンティルに蹂躙されることになる。挙句に相方は決まってヴィルシーナ。時代は常に主役を求めており、その座を勝ち取ったのは彼女ではなかったのだ。六着で桜花賞を終えたジョワドを待っていたのは、右第一足趾骨の骨折だった。かくして彼女は緞帳の裏へと回ることになる。  それでも、ジョワドは強かった。ただの一言も弱音を吐かずに明るく振る舞っていたし、本当は自分も走りたかったはずのオークスと秋華賞には最前線で声援を送っていた。翌年に復帰をしてからは黒星こそ続いていたが徐々に調子を取り戻していたし、ヴィルシーナと二度目の直接対決となったヴィクトリアマイルでも、彼女のG1初勝利を惜しみなく称えた。ヴィルシーナはジョワドの笑顔の源泉を知らなかったが、前向きな姿勢に密やかな敬意を覚えていた。  皮肉なことに、ジョワドの最後の相手もヴィルシーナだった。ヴィクトリアマイルを終えたのち、次戦に向けたトレーニングの最中に彼女は再び怪我をしたのだ。  左下腿骨の開放骨折。ヴィルシーナはその話を聞いて真っ先に完治までの期間を調べたが、検索結果に紛れた画像のせいで身震いをした。次に折れた骨が皮膚を突き破ると知って、吐き気を催した。真紅の絵具だまりを鋭い白磁の槍で引っ掻き回したようなあれが、小柄で人懐っこいジョワドを切り裂いたのだという実感が、想像上の痛みを引き連れて最後にやってきた。ジョワドヴィーヴルの選手生命は、終わった。徹底的に、絶対的に終わった。  車椅子に乗った小さな背中と、万斛の涙を流す横顔。それがジョワドに関するヴィルシーナの最後の記憶だ。それだけが、烙印となって海馬に焼き付いていた。大好きだったはずの笑顔はもうおぼろにしか描けない。炎の温もりは記憶できたとしても、その形は揺らぎ続けるように。痛みと涙のベルニサージュがジョワドの笑顔をすっかり覆い隠してしまっていた。今やジョワドは色素を失い、輪郭だけで微笑んでいる。それはもう、彼女が忘れられる場所に立っていることを意味していた。  彼女の涙を思い出して、泣きたくなった。  どれほど痛ましい出来事があって、それがどんなに深い爪痕を残し、どれだけ多数のお涙を頂戴したとしても、時は流れる。人生は続くし、誰もが日々を生きるしかない。  ジョワドの引退によってヴィルシーナは心底胸を痛めたが、だからといって彼女のために走るというのは、違う。きっと上手に説明できないが、絶対に不誠実だと言い切れた。  私はあの子が走る理由も、背負っていたもののことも知らないのだから。ヴィルシーナはそう信じていた。彼女の無事や快復を祈ったり、自分の行動の何かが良い影響を与えることができればと願うことはあったが、彼女を錦の御旗として掲げるのは尊厳に関わる問題のような気がした。そうやって彼女の人生を消費する可能性の方がよっぽど怖かったのだ。  ヴィルシーナは自分とジェンティルの、そしてオルフェーヴルとジェンティルとの関係に、ジョワドを重ねていた。ヴィルシーナはジェンティルになりたかったわけではない。オルフェーヴルのようになりたかったのだ。彼女のように強くて、ジェンティルを追い詰め、たとえ敗れたとしても、堂々と振る舞える人物になりたかった。それによって、ジェンティルから認められたかった。  日頃のオルフェの王様ごっこに関しては全く何の共感もしなかったし、したがって彼女に対して一切の憧れを抱くこともない。年長者への、それも三冠を達成した偉大な先達への六文銭の敬意、すなわち人並みのそれがあるだけだ。だとしても、あの日のオルフェーヴルに、ヴィルシーナは確かに救われていたのだ。それに気付いたのは、随分後になってからだが。  救いとは、必ずしも具体的な形では訪れない。オルフェには彼女の言葉でいうなら彼女を慕う民草がおり、ヴィルシーナには恐らくは未来永劫理解することのない世界があり、価値観がある。そんな唯我独尊で我儘尽くしの王様が大切な人々を蔑ろにするはずがなかった。  天空を背負うアトラスには逃れ得ぬ責務があり、王たるオルフェーヴルには絶対的な民への、推定するに愛がある。何かを背負うには相応の責任か莫大な愛、またはその両方が必要だ。そして素晴らしいことに、誰にだって背負っている世界、責任ある、愛する、守りたい世界がある。自己憐憫や自画自賛のためにその大事な世界を放棄し、あまつさえ他人様の大事な大事な世界を背負い込もうというのなら、それこそが悍ましい大罪だった。栄光を奪うのと何も変わらないではないか、そんなものは。  ジョワドは全ての見舞いを断っていた。当然、ヴィルシーナも断られた。誰もジョワドの続編とならないように、誰も自分を手放すことのないようにという、まことに大乗的な雲隠れだった。誰にも託さないことで、彼女は、平気だと叫んでいたのだ。だから、誰もが自己自身の為に生きてほしい、と。  トレセンに落ちてレースを諦める者もいれば、入学しても未勝利のまま引退する者もいる。重賞の壁にぶつかる者もいれば、怪我で将来を絶たれる者もいる。悲しいことに、残念なことに、円満無事な理想の引退を迎えられる者はほんの一握りだ。  幸運なことに、ヴィルシーナはまだ走れている。けれどまた、不幸にも目指している場所はまだ遠い。もしもヴィルシーナが立ち止まったとしても、ジェンティルは先に進むだろう。ひょっとすると惜しまれたりはするかもしれないが、決して歩みを緩めることはないと断言できる。仕方がない。愛情という紐帯は言葉通り個人と世界とを繋げ、そのために一方が沈めば他方も沈みゆく危険を孕んでいるが、ジェンティルとの関係はそのような類のものではないのだから。それは丁度、ジョワドとヴィルシーナがそうであったように。二人の間には踏み越えることのない決定的な一線があって、その向こうへと行ってしまった相手を追うことはできない。そして今のところ、いつだってヴィルシーナは追いかける側だった。立ち止まったらそれすらも終わる。道半ばで終わってしまうなら、それが、一番怖い。  だって、まだ、示していないのだから。告げてもいなければ、応えてもいない。手帳に刻まれた何年分もの青インクの価値のいくばくかも、まだ、返せていない。  このまま終わっては、あまりに報われないではないか。私も、貴方も。  ヴィルシーナは、その日、再び悪夢を見た。夢の中のヴィルシーナは、今日なんてなかったかのように振る舞っていた。まるで今日という現実こそが夢なのだと言わんばかりに。  ⑦  三日が過ぎたが、ヴィルシーナの姿を見かけたのは一度きりだった。それもカフェテリアの向こうで微かにそれらしき尻尾を見かけただけ。それがどうにも面白くなかった。  ヴィルシーナに怪我はない、と彼女のトレーナーから聞かされていた。そのような気遣いも面白くなかった。確かにヴィルシーナは自分に挑むとなれば危なっかしい面はある。とはいえ出会ったばかりの頃ならいざ知らず、今では闇雲に噛み付くほど愚かでもない。ましてや勝負の前にコンディションを疎かにするなどありえないことだ。  そうだというのに、いかなる理由か、ヴィルシーナは失速した。  全知を気取って腕を組み、後方理解者面で睥睨していたジェンティルだが、その実わからないことばかりだった。面白くないことばかりだった。憤りを押し花のように圧縮してから、新たな面白くない感情の推移に気付いた。これではまるで、彼女の心配をしているようではないだろうか。心配というのは不確定なものに対する無知が生む恐れのことを指す。何を騒ぐ必要があるのか。いつだってヴィルシーナは戻ってきた。より強く、より鋭くなって。ときに導いてやることこそあれど、ただの一度も私を裏切ったことはない。だから騒ぐ必要はないのだ。高みに座して、自らを磨いていれば良い。それこそが彼女に対する最大の誠意ではないか。そして、自分自身に対しても。  帰納的推測の導き出した自家撞着を、ジェンティルは心の至聖所で結論だということにした。悲しいかな、何でもご存知のジェンティルは気付いていないのだった。やっきになって否定を積み重ねる行為こそが心配という名の拘泥の証左、主導権を握るのは常にヴィルシーナだと白状したことを。  スマートフォンのバイブレーションが左大腿の辺りをスカートごと揺らした。 『ヴィルシーナのトレーナーから連絡。今日の練習前に、向こうのトレーナールームに来て欲しいとのこと。スケジュール上は問題ないけど、ジェンティルは大丈夫?』  殆ど反射で了承の返事を送っていた。誤解されがちだが、ジェンティルだって現代を生きる女子高生だ。顔認証からフリック操作で返事を送るまでの動きは極めて洗練されている。無駄のない動きでスマートフォンをポケットに戻すとそのまま手鏡を取り出し、小さく頷いた。尻尾を軽く振り、前髪を整えた。耳を左右に動かし、それから手鏡に視線を戻した。全て平常通り。高みへと至るための一歩を、謙虚で大胆に邁進する鍛錬の日々の一部。ただ、トレーニングの前に、ほんの小さな用事があるだけのこと。鏡の奥に溜息をしまい込むと、ジェンティルは歩き出した。  アレグロ・モデラートの足音が廊下に響いた。  ◇  トレーナールームというのは得てして所属するチームのカラーに染められるものらしい。全体的に小綺麗なのはヴィルシーナの影響だろうし、小物の在庫が妙に多いのはシュヴァルグランのおかげかもしれない。一角に大量の化粧品や救急箱の中身が集まっているのはヴィブロスのせいだろうか。表面上は整理整頓が行き届いているが、キャビネットや戸棚の各所が開けっ放しになっている。恐らくこちらは部屋の持ち主に起因する。 「お久しぶりですわね、ヴィルシーナさん」  三日ぶりの相手にかける言葉ではない。学年すら違うことも踏まえるなら、相変わらず頻繁に顔を合わせる方だ。付け加えるなら、三日ほど顔を合わせないというのも別に珍しくはなかった。もしも皮肉でないのなら、この三日の間にジェンティルの中で何かが変わった可能性を考える方が自然だ。例えばこれまでとは全く違う密度でヴィルシーナのことを考え続けていた、とか。  各々の席には『対人関係の同調によるアスリートのパフォーマンスについて』と没個性的なゴシック体で書かれた資料が置かれていた。表題にしてはサイズが小さく、居心地が悪そうに若干右に寄っている。ジェンティルはヴィルシーナの正面に陣取った。三日会わない相手を刮目して見ると、どうだ。顔色が優れなければ頬も僅かに痩せているではないか。睡眠不足に加えて食も細くなっているに違いない。軽い会釈と共に微かに口を開いた彼女だが、その喉が空気を震わせることはなかった。部屋の主の疲れた声が二人の間に挟まった。 「お二人とも、お忙しい中ご足労いただきありがとうございます」  そう言うと、女は今にも倒れそうな調子で頭を下げた。もしかすると本当に立ち眩みでも起こしたのかもしれない。そう思わせるほどに、ヴィルシーナのトレーナーは酷い有様だった。  充血した眼球の下で涙袋が不健康な青紫に浮かび、ショートウルフのシルエットがマッシュルームのように膨らんでいる。むくんだ顔とストレートネックがこの数日の不摂生をありありと語っていた。顔見知り程度にしか知らない彼女だが、少なくとも外見を蔑ろにするような人物ではなかったはずだ。 「堅苦しいのは抜きにしましょう、今日はどうしたんですか?」  あまり長く立たせているのは酷だと考えたのだろう。ジェンティルのトレーナーが右手で着席を促した。余裕のない人間というのは大体そうだが、彼女もその例に漏れず、気付くことはなかった。 「失礼しました。……では、早速本題を。先日の……模擬レースで発生したことの分析、ですが……資料の二ページ目を、ご覧ください。……ヒトの陸上競技で確認された事例です」  途切れがちな言葉と共に彼女が手元のラップトップを操作すると、配布された資料と同じPDFがスクリーンに映った。  短距離走の世界大会、決勝戦のことだ。常人離れしたストライド(歩幅)で走るチャンピオンと、ピッチ走法を武器とする銀メダリスト。トップスピードに到達した二名の間に変化が訪れた。スパートの最中、両極端な二人のフォームが互いに変質したのだ。チャンピオンはピッチ数が上昇し、相手の選手はストライドが広くなっていた。 「運動の同調については、今も多くのことが研究されています。……例えば、周囲に引っ張られてセルフペーシングが出来なくなったり……ラストスパートで相手と競り合う際に普段以上の加速をしたり……そのような現象はご存知かと思います。物理学的には……。あー……理屈はさておき、重要なのは相手との同調によって両者の能力が大きく向上したという事実です。……ちなみに、このレースで両者は自己ベストのタイムを記録しました」  ウマ娘の二人はもちろん、ジェンティルのトレーナーも苦々し気に頷いた。例えば逃げウマ娘はこの恩恵を最も活かしていると言えるだろう。スローペースで周囲を攪乱しつつ体力を温存して後方の有利を潰しても良いし、持久力にものを言わせてハイペースで走って後続のリズムを乱しても良い。あるいは、中団から仕掛けるウマ娘はこれに対抗するのが肝要だ。周囲のペースに呑まれてかかってしまうことは珍しくもない。恐らくこの手の出来事に泣かされた回数で言えば、トレーナーという職業は一番だ。 「ジェンティルとヴィルシーナの間で発生することもありましたね。私たちの間では追い比べるとか言うことが多いと思いますが」 「……続けましょう。AIによる映像分析と姿勢測定を用いてこれまでの二人のレースの分析をしたところ……」  クリック音に続いてスライドが切り替わる。次のデータはヴィルシーナとジェンティルの対戦記録だ。主要関節の動きやストライド長の変化、瞬間速度の計測結果が事細かに記されている。中でも目を引くのは二人の接地タイミングを計る波形のグラフ。当初はばらばらだった二人の波が刹那に歪み、その後は美しい弧を交互に描いていた。つまり、二人が互いに影響を与えていることを示している。 「当時は話題になりましたもの、当然存じ上げておりますわ。強者との戦いは単なる精神的高揚を生むだけに留まらない。能力が引き出されるという点では、同意いたします」  ジェンティルはヴィルシーナがいて、ヴィルシーナはジェンティルがいて、互いに高め合うことができた。美しい話だが既知の事実だ。一度も否定したことはなかったし、常々公言していたことですらある。UWBやIMUを用いた運動解析も試験的に行われつつあったし、個人的に設備の導入をしようとしたことすらあるほどだ。接地場所や管理など多くの問題から実装を見送ったのだが。 「……では、具体的な影響について、ご説明します……えーっと……」  がさごそとポケットを漁った後、トレーナーは二つの蹄鉄を取り出し、デスクの上をポリリズムで叩き始めた。半ば無意識にその音を追ったところ、四分の四拍子と八分の七拍子だった。つまり、両者の公倍数で足音が重なる。 「通常、走行中の走者はこのようにそれぞれのリズムを保っています。ですが同調が発生した際は……着地のタイミングは完全な同値となるか逆位相となるか……。そのどちらかになります。……このように」  五十七拍目で二つの足音が重なった。それから蹄鉄は互いの隙間を埋める二倍速のソリストとなって、金属製のテーブルを叩き続ける。白い塗装が剥げ、グレーの下地が露わになっていく。 「ジェンティルとヴィルシーナの場合は逆位相になることが多かったようですね」 「仰る通りです。しかし、前回の模擬レースでは……これが一切見られませんでした」  やかましい蹄鉄の音が止み、再び画面が切り替わる。スクリーンに映った波形は見事なまでに無秩序な曲線を描いていた。ジェンティルのグラフはペースを上げるのに合わせて波の幅も狭まるが、リズムは一定を保っている。途中までは、ヴィルシーナも同様だった。それなのに、途中から彼女の波形だけが大きく乱れた。カーブに際して過剰に身体を歪めたようだ。 「……トレーナーさん。後は、私が」  立ち上がったヴィルシーナは、震える拳を心窩部にぎゅっと押し当てていた。か細い声で、瞳は疲れ切っていたが、それでも青く揺らめく確かな決意が込められている。決意で、ジェンティルを真っ向から射抜いていた。ヴィルシーナは強いのだ。ジェンティルのお眼鏡にかなうだけはある。ふうっと息を吐いて、ヴィルシーナは続けた。 「私、は……ジェンティルさん。意図的に、貴方を拒みました」  拒んだ? うすら寒い空調の下で、ヴィルシーナの言葉は静かに溶けた鉛となって、ジェンティルの頭蓋へと注がれた。鉛は頭のてっぺんから胸元までするりと滑り落ち、ハート型の心臓をサイケデリックに染め上げ、そこで留まった。目の前にいる青毛のウマ娘が、ほんの一瞬、ぼやけた。  もちろんヴィルシーナが無策なはずはない。ジェンティルと感想戦をした先日の合同トレーニングに話は遡る。  カフェテリアで見た記録映像の中で、ヴィルシーナに小さな疑惧の念が生じたのだ。例えば、スパートを掛ければフォームが変わるのは当たり前だ。だが注目すべきは、その変容がジェンティルに引っ張られていたこと。彼女の存在がトリガーとなり、彼女のピッチによって自らのそれが変わるのであれば、それは、彼女に『呑まれた』のではないか、と。確かにその二つの区別は非常に難しい。ヒトの長距離走で顕著だが、自分の時計を正確に刻むのは極めて重要な能力だ。ゆえにヴィルシーナはそれを確立する必要があると考えた。ジェンティルに合わせて勝てないのなら、いっそ逆の手を打ったのだ。その結果は惨憺たるものだったが。  おおよそそんなことを言っていたが、ジェンティルの関心は理屈よりもそれを漏らした木槿の萎れようにある。世界が終わったかのような悲愴な面持ちでヴィルシーナは言葉を紡いでいた。それがまるで理解できないのだ。拒んだと聞いて最初は驚いたが、蓋を開けてみれば何のこともない。結局、それは不可能なのだ。  ヴィルシーナは何度散ろうが咲き続ける。確かに此度は失敗をしたかもしれないが、挑戦をした結果に過ぎない。怪我もないし、原因が判明したのなら次は修正すれば良い。ヴィルシーナにはそれができる。もしも本当にこんなつまらぬ小石で躓いて立ち上がれないような者ならば、彼女への興味などとっくに失せていたことだろう。彼女の強さは意地の強さだ。何よりも今、ここに、立っている。それこそが不撓不屈の証明に他ならない。 「ずっと、ずっと昔から……私は、ジェンティルさんから逃げることができていなかったのかもしれない。……そう、思っていました」 「そうね、貴方は私から逃れられない。私が絶対に逃さないもの。けれどそれこそが、我々の関係に他ならない、そうでしょう?」  不愉快だった。ヴィルシーナは、決意のはずの、強さのはずの目元を滲ませていた。そうやって、訴えていた。  赤子の泣き声を聞くのと同じように、不愉快だ。赤ん坊の泣き喚く理由など大体の場合わからないが、どのような理由であれ、それを聞くとあるべき秩序が乱されている気がする。ヴィルシーナの涙は強さに向かって流れるものでなければならない。それだけしか感情表現を持たないからではなくて、そうしなければ注目を集めることができないからでもなければ、そうすることで誰かの同情を勝ち取るわけでも、そうやって救いを得るためでもない。こんなのはヴィルシーナには全く相応しくない、弱くて惨めな涙だった。困ったことにこの場にはベビーシッターがいないため、ジェンティルがヴィルシーナを宥めてやらねばならない。  このようにジェンティルはヴィルシーナの涙を分析したため、自らの哲学という帝国を支えているものが何であるかも気付かなかった。 「無理に意識をしたため、脳と身体に齟齬が生じたのでしょう」  見るに堪えないヴィルシーナの言葉を、彼女のトレーナーが引き取った。 「……記録によれば一本目、ウォームアップでヴィルシーナは一定のペースを保って走っていますね。これは……彼女が独立して走る能力を持っている証拠でもありますが。しかし、他者のリズムを無視して走るのは非常に難しい。通常とは比べ物にならないほどの精神力と集中力が要求されます。……疲労が溜まれば神経の伝達速度が遅くなり、違和感も生じることでしょう」 「ですね。それに、確かその日の彼女は通常のメニューもこなしていたはずです。……すいません、私も一緒にいたのに」 「いえ……皆様のせいではありません。……自己管理と分析を怠った私のミスです」  数字には嘘偽りがない。ただし、それを扱う者が正しく解釈できるとは限らない。どんな不幸だって詩人気取りで語れば悲劇へと美化されてしまうように、主観のフィルターが世界を簡単に書き換えてしまうのだ。トレーナーの話を聞けば今日までの不調の原因も快刀乱麻に断たれていく。オーバーワークによって肉体ではなく脳の疲労が蓄積し、得るべき実験結果を読み間違えたために、誤った手段を選んだ。ただそれだけのことに対して、ヴィルシーナの主観は彼女を少々弱く描いていた。  貴方は助けを求めることしかできないトロフィー代わりのアナクロなお姫様ではない。あんなにも貴方の強さを教えてやったというのに。  そのような考えが浮かぶくらいに、ジェンティルの不快感はすっかり消えていた。原因が全て明かされたのなら、賢明なヴィルシーナに必要なのは最後の調律だけ。そしてそれを行うことこそが自らの役目なのだとご満悦ですらある。錯誤だらけのヴィルシーナへの憤りは、今や、聞き分けの悪い子どもの理解を得た喜びにすり替わっていたのだ。だから貴婦人の次の言葉には、些かの苛立ちもない。いつも通りの、尊大な仮面を被ったジェンティルドンナのそれだった。 「随分と遠回りですわね。結局のところ、ヴィルシーナさんと私が再び走ることでそれは解決する、そう仰りたいわけでしょう?」 「……はい。ジェンティルさん、先日は醜態をお見せいたしましたが……どうか、もう一度。もう一度だけ、私と走って下さりますか?」  見知った顔で、ヴィルシーナはジェンティルを見つめていた。左胸を抑えた拳が静かにわななく。どう足掻いても、二人の間に必要なものはこれだけなのだ、とジェンティルは震えた。これが運命の第何楽章であれ、最終小節は華々しいファンファーレによって結ばれることだろう。クライマックスへと向かう物語は常に、血の滾る熱情を伴っていた。  ◇  右回り芝二〇〇〇メートル、条件は秋華賞と同じ。あの日は十七人の素晴らしい相手がいたが、今はヴィルシーナただ一人だった。とはいえ当然のことでもある。トゥインクルシリーズに臨み、その中で出会った相手にいつまでも執着し続けている方が異常なのだ。  らしくないことに、極めて感傷的な思想がジェンティルの胸の内に渦巻いた。昂揚の行進曲が鳴らすファンファーレの見せたイメージなのかもしれない。芸術のそのような作用について、ジェンティルは深い造詣があった。  彼女はこれまで挑んだ公式戦の日々を思い出していた。レースというほんの限られた交点の中で、大きな成長の糧となってくだすった、最高の負荷の皆様を。オルフェーヴルは海外に発った。エイシンフラッシュは祖国へと凱旋し、トーセンジョーダンは夢を叶えるために日々奮闘中だ。神出鬼没のゴールドシップは今でもたまに姿を見かけるが、相も変わらず奇行に走っていることが多い。ドバイでジェンティルを下したセントニコラスアビーは痛ましい怪我で引退し、ジェンティルが下したシリュスデゼーグルはその後も世界を回ってレースに挑み続けていると聞く。エピファネイア、ジャスタウェイ、スピルバーグ、ハナズゴール、エーシンフルマーク……。かつてジェンティルを破った相手もそれぞれの道を歩んでいる。  一人、一人、思い浮かべる度に彼女たちの道程が――望んだかどうかに関わらず進み続けるしかない道が――そこにかつて存在していたはずの点が、最早振り向いても見えない場所にあると気付いた。あれから随分時間が経っていた。  そんな中で、ただ一人。ヴィルシーナだけが今もここにいる。このような発見はこれから勝負に臨むにあたって全きノイズなので、すぐにそのようなイメージを拭い去った。 「二人ともー! 行くよー!」  ヴィルシーナのトレーナーが声を張り上げる。自分の声の大きさで倒れてしまいそうなくらいのふらつきだったが、そんな姿もすぐに視界からは薄れた。眼前に広がるのはよく整えられた芝の緑色と、およそ三〇〇メートル先のカーブのみ。ヴィルシーナの息遣いが澄んで聞こえた。心臓は極めて平静に鼓動を保っていた。数秒後、トレーナーがホイッスルを吹いた。  燦爛と輝く太陽に向かい、二人の競争者は飛び出した。ターフという栄光の道へと真っすぐに。  ヴィルシーナは現役時代から最後方以外のあらゆる場所で勝負ができた。自らが先頭に立てばスローペースのレースを作るし、前方で足を溜めつつ機を伺うことも多い。積極的ではないかもしれないが、中団で戦うこともあった。そして今日のヴィルシーナは、ジェンティルのほとんど真後ろに位置していた。秋華賞の前哨戦、ローズステークスの再来を思わせる徹底的なマーク。ジェンティルの脚を測り、差し切るつもりなのだろう。普段は前を走ることの多い彼女が、今は最初から自分の後ろにいる。それは奇妙な感覚ではあったが、決して悪いものではなかった。精神的な話をすればいつだってジェンティルこそが彼女を牽引していたからだ。  ジェンティルを風除けに利用し、ヴィルシーナは背後に潜む。これこそが、望んでいた戦いだ。足音と呼吸音の二重奏が歓喜のリズムを刻んだ。心は、第一主題への爆発的な回帰を今か今かと待っている。一歩、また一歩、最終直線へと続く芝を踏みしめ、ジェンティルは笑った。さあ、着いてきて御覧なさい。そう言わんばかりに。  甘美な時間は一瞬で終わった。燃えるような感覚がニューロンを焼いて脊髄を焦がす。  嗚呼。ジェンティルは、深く息を吐いた。庶幾してやまない瞬間がここにあった。ヴィルシーナがいた。影を踏み、風を裂き、この背を貫かんばかりに牙と爪を剥いたに違いない。視界が溶け、思考が上書きされていった。音が置き去りになり、風景が置き去りになり、もやい結びの臓腑が世界を繋いだ。二人きりの世界で、一人分の鼓動が何度も脈打った。  なんと素晴らしいのだろう。もっと速く。もっと先へ。その願いが雲路となって目の前に現れたのだから。  昼と夕の青と赤が溶け合うマジックアワーの空が、感動的なパノラマで勝者を包んでいた。 「ヴィルシーナさん、感謝いたします。貴方のお陰で――」  振り返った先にもう一人の主役がいるはずだった。だが、ヴィルシーナはそこにいない。ゴールのすぐ先で、膝を突いて打ち拉がれていた。 「どうしてっ……! どうして、どうしてなの……!」  何も言えなかった。計測器を抱えた二人のトレーナーがそれぞれの担当ウマ娘へと駆け寄った。これは望んでいたフィナーレではなく、描いていた栄光の終点でもなかった。だが現実に、ここではそれが起きていた。だから絶句したのだ。 「一人、のときは……走れて、いたんです、私っ……こんな、どうして……」  これは、間違えている。そんな言い訳、祈り、願いも虚しく、断じて何も間違えてなどいなかった。ヴィルシーナは失速したし、もっと言えば二人の間に流れていたのは単なる不協和音だった。それがゴールと共に鳴り止んだに過ぎない。 「落ち着いて、ヴィルシーナ。ゆっくり、息を吸って。大丈夫、大丈夫だから」 「ごめんなさい……ごめんなさい、私っ……」 「大丈夫、謝らないで。深呼吸をして……」  トレーナーが担当の背中を撫でていた。嗚咽混じりの空咳が唾液をターフに撒き散らした。 「ジェンティル、貴方も落ち着いて。……後で映像を確認しましょう」  返事はできなかった。ふと視線を上げれば、あれほど眩しかった太陽は、もう、沈んでいた。鶴瓶落としの秋の陽が照明を忘れたターフを真っ暗に染め上げた。  ◇ 「まずは、ジェンティル。貴方自身についてだけれど」  トレーナー室に戻るなり、トレーナーは呟いた。出会ったばかりの頃ならいざ知らず、この数年間で彼女の体格は見違えるほど屈強になった。しかし今でも時折見せる手探りの優しさは、どこか頼りなさげなものとしてジェンティルには映る。力で解決できない問題を挑むとき、二人は揃って不器用だった。 「タイムは平均よりやや下くらい。ここ最近のデータと比較した場合は少し悪いけれど、ヴィルシーナの走りが乱れたことに影響を受けたのなら、自然だと思う」 「……私が、ヴィルシーナさんから?」  トレーナーは頷いた。ジェンティルの不機嫌やからかい混じりの威圧をいつでも正面から捉える毅然さで、力強く。 「おほほ、何を仰るのかと思えば。確かにヴィルシーナさんから強さを学ぶことはございました。けれど、影響?」 「貴方ならわかっているでしょう? レース中に相手の影響を拒むことは難しい。……この話、さっきヴィルシーナのトレーナーもしていたけれど」  わかっている。単に認めたくないだけだったのだ。ジェンティルは確かに大人びているかもしれない。ストイックで少々変人かもしれないし、ちょっぴりナルシストで存外ピュアかもしれなくて、大分サディストで乙女チックに一途かもしれない。けれど、そういうものの前に、ただ個人的に、本当に私的に、哲学的にアイデンティティで認めたくないのだ。これは理論が正しいとか正しくないとか、そんな話ではない。子どもっぽいかもしれないが、まだまだ花の女子高生なのだから、嫌なものは嫌だと言わせてほしい。  もしも相手の影響で弱くなったというのなら、そんなのは、何よりもヴィルシーナに失礼ではないか。そんなのは理屈じゃなくて、感情で認めたくなかった。高め合うのと同じように、互いが沈めば相手も沈むなんて、間違いであってほしかった。 「……もしかするとヴィルシーナは、イップスなのかも。あちらのトレーナーから連絡があったけど、やっぱり検査の結果に異常はないみたい。それに、この三日間のトレーニングでも普通に走れていたって。……さっきだけ走れなくなってしまったのは、きっと……レースに上手く向き合えなくなったんだと思う」  貴方が悪いんじゃない、とトレーナーは付け加えたが、ジェンティルの耳には届いていなかった。そもそも前提が間違えているからだ。ヴィルシーナがイップスになど陥るわけがない。スランプに嵌る時期はあったが、それだって彼女は乗り越えてみせた。確かあのときはちょっとばかりのアドバイスをしてやったが、それと今日との間に何も違いはない。 「大なり小なり似たような事例はあるし、それは本人だけが乗り越えられるものだから……。だから、絶対に貴方の責任じゃない。ただ……少し、今は彼女のことを見守ろう」 「トレーナー。……くす。貴方の目には私がそんなにか弱く見えるのかしら?」  そんなときこそ虚勢を張らねばならない。ヴィルシーナへのアプローチが、つまりは自分が間違えていたのかもしれない。間違えたのならば修正が必要だ。たったそれだけのこと。次への糧にすれば良い。トレーナーの差しだしたタブレットを払いのけ、ジェンティルは貴婦人の仮面に深く顔を預けた。 「運動の同調は……レースとは無関係に様々な分野で発達してきた。ですわね、トレーナー?」  過去に読んだ幾つもの論文を記憶の書架から引っ張り出す。物事には全て原因と因果があり、解決のためにはそれを解き明かすのが肝要だ。トレーナーの首肯を確認すると、ジェンティルは続けた。 「例えば非線形力学で言うところの相転移……。向き合って両手の指を同時に振ると、速度を上げるに連れて次第に動きが固定されるように。ヴィルシーナさんの失速の原因が我々の同調にあるなら、競争というアプローチそのものが、今回の場合は不適当な選択だったということではないかしら?」 「ええと……ヴィルシーナが周囲の影響に対して過敏になっているから、まずはそれを取り除く必要がある……? 確か、運動のシンクロは単純な動作ほど発生しやすいっていうけど……。二人でおせんべ焼けたかな、とかする?」 「ほほほ……それも悪くありませんわね」  まだ手はある。理屈が必要だった。考えることは呼吸に等しい。それが例え現実逃避を発端としても、考えている間は前を向けた。笑っている内は希望があった。過去形にしないことで問題に向き合えた。何も考えられなくなったのなら、陸に上がった魚と同じだ。何もできずに口をパクパクさせて、のたうちまわって死ぬしかない。考える葦が考えることを放棄したのならそれは単なる葦だ。だから、まだ、どこか、探さなければ。未来に繋がる一手を。頭蓋にすっぽり収まるよくできたスパコンは、これについて素早く希望を提示した。 「明日のヴィルシーナさんのスケジュールを確認してくださるかしら? トレーナー、すぐに」 「えっと、待ってて……。あ、大事を取って一日オフ……だって」 「でしたら、伝えて頂戴。私と……そうね、少し歩きましょう、と」  走れないのなら、走らなければいい。歩幅が揃うまで歩けば良い。ゴルディアスの結び目を引きちぎるジェンティルにとっては容易いことだ。  放課後に、つつがなくその約束は取り付けられた。ジェンティルは手帳とカレンダーアプリのそれぞれに、その予定を書き込んだ。青色の文字で、厳かに。  もしも、もしも。もしもヴィルシーナがもう二度と、走れなくなるのだとしたら。一瞬そんな問いが浮かんだが、考える意味もないのでそんな問いはすぐに忘れた。杞憂というのだ、そういうものは。確かに彼女は繊細な面も持っている。本当はきっと臆病だろうが、そんなものを必死に隠そうと努めている。弱さというのは、きっと多くの人が持っているのだろう。そのために多くの人は他人の弱さを探して共感するが、ジェンティルにとっては全くの逆だった。弱さを押し殺せる強さがあって、それによって自己陶冶を成し遂げられること。そちらの方がよっぽど愛でるに値した。無論何でもお見通しのジェンティルにとってそんな演技は微笑ましいお遊戯に等しい。しかしその微笑ましさを含めて、強さというのは価値があるのだ。  ジェンティルは必死な人が大好きだ。必死に、一途に、虚勢を張って自分の前に立つ人なんて、愛らしさでおかしくなってしまいそうだった。希望と期待とが綯い交ぜになってジェンティルの自認はごちゃごちゃに絡まっていたが、ヴィルシーナのことが大好きなのだ。言い逃れできないほどに証拠は揃っているが、いちいち挙げるのも野暮なので、一つだけ述べよう。  こんなにもヴィルシーナに執着するのは不合理で、はっきり言って、異常だ。  ⑧ 「お待たせしました、ジェンティルさん」 「あら。……くすくす、お可愛いこと」  今日の服装について、ヴィルシーナは大いに悩んだ。ジェンティルからの提案は青天の霹靂だったが、お利口さんのヴィルシーナは、お釈迦様の垂らした蜘蛛の糸が単なる救済だなんて考えない。カンダタの慈悲に釈迦が期待したように、貴婦人が散歩に誘うのも必ず理由があるに違いない。それでは自分のお釈迦様が期待するのは何か。強さの証明、すなわち、復活だ。だからこそ、決して、間違えてはならなかった。  放課後ならば制服のままだろうか。いや、きっと、あの人と再び走る必要があるだろう。だったらすぐに走れるジャージの方が相応しいのかもしれない。けれどオフだと告げたことを知った上で求めるかしら? そんなことをぐるぐる考えていたところで、ジェンティルから追加の指示が与えられたため、悩みは一瞬で別のものに変わった。 「さて、それでは……予定通りエスコートして下さるのでしょう?」  言葉通り、ジェンティルはヴィルシーナに今日を委ねるというのだ。二人で何かをするのは珍しくなかったが、外出そのものを目的としたランブリングはただの一度もない。何を求められているのだろうか? 結局、同室のホッコータルマエのアドバイスを受けて『着替えを用意して、私服で』という実に無難で浮ついたものになった。見たところジェンティルも私服だったので、少なくとも悪い選択ではなかったらしい。レースでもないのに心臓が破れそうだった。 「……っ! ええ、お望み通りに」  普段の関係と同じように、ヴィルシーナはジェンティルよりも先に踏み出した。すぐにジェンティルは隣に並び、そして、二人の足音は重なった。  ◇  最初の信号にぶつかった辺りで、ヴィルシーナは気付いた。二人は当然ながら歩幅が違うし、どう考えてもジェンティルの方がヴィルシーナより一歩は大きい。だというのに、ヴィルシーナは一度も足を速める必要がなかった。つまり、ジェンティルが自分に合わせているということに。 「少し、ペースを上げた方がよろしいでしょうか?」 「ふぅん……。何を言い出すかと思えば。ご自由になさって頂戴。お気遣い感謝いたしますわ、ほほほ……」  応じるように、信号が変わるのと同時にほんの僅かに歩幅を広げた。まるで恐る恐るアクセルを踏む教習車だ。寸分違わぬ二人分の跫音が乾いたアスファルトを淑やかに鳴らす。教習車のブレーキは教官の足先次第だが、ヴィルシーナの場合は外付けのブレーキなんてない。いっそ、逃げ出したかった。広げても早めても、狭めても緩めても、ジェンティルはぴったりと合わせてくる。その楽し気な笑顔を、どうしようもなく、振り払いたくなった。  常歩で進む一メートルが、水中を歩くように重い。どうやら及第点だということはわかるのだが、それがどのような理由からなのかというのは皆目見当もつかない。数学のテストなら解法があって考え方も評価されるのに、人の心は結果ばかりに目を向ける。過程が見えないのだからそうする他ないのだが。わが国の憲法でも定められている通り、人の思想信条や内心は自由であるために、ブラックボックスだ。自由さのために、この上なく窮屈だった。ちなみにヴィルシーナは知る由もないが、ジェンティルからすれば隣にいるだけで花丸だ。 「……普段、この道をロードワークに使っているんです」  住宅街を抜け、河川敷へと向かう舗装の荒い道に出た。ジェンティルはどのようなエスコートを期待していたのか定かではないが、ヴィルシーナがこのような選択をしたのは、彼女なりの抵抗だった。とてもじゃないが二人きりでショッピングなんて楽しむ気にはなれない。私的な自分ではなく公的な自分で相対したかったのだ。とはいえこれはまずかったかもしれない。街中を歩けばいくらでも風景の話題をできるのに、ここから見えるものと言ったらヒガンバナの紅白とススキの金色だけだ。楽しい雑談をできる自信がないからそれから逃げたが、雄弁の方が沈黙よりも楽なこともあるという当然のことを忘れていたのだ。追い詰められた者の哀れな視野狭窄だった。 「ここを歩いていると、季節の変化を感じられるような気がして……。きっと、退屈だとは思いますけれど」 「……」  初めて、ジェンティルの歩みが止まった。道の続く先を見つめ、それから、広がった河川敷を一瞥した。ヴィルシーナもそれに合わせて立ち止まる。そして彼女の視線の先を追う。ジェンティルの瞳にだけ見える何かがあるのなら、それを知りたくて。 「ジェンティルさん?」 「……いえ、お気になさらず」  キンモクセイの香りが鼻先をくすぐる。昔は、この香りが嫌だった。いくつかのヒガンバナが萎れていた。昔は、あの鮮やかさが嫌だった。ススキが揺れていた。昔は、あのシルエットが嫌だった。それら全部が秋華を思い出させるから。今は別の意味を持つ。  しばらく歩くとアスファルトが途切れ、砂利の坂道へと続いていた。あのとき広場とも公園ともつかないこの場所に降りたのは、間違いだったのだろうか。真っすぐに進み続けることができれば、今、こんな風になってはいなかったのだろうか。それとも木槿に気付いたのが悪いのか。それを見てセンチメンタルな同情を抱いたのが悪いのか。後悔は数あれど、たらればに身を委ねて過去を偽るくらいなら、誠実でいたかった。虚勢を張るのに疲れてしまっただけかもしれない。どちらでもよかった。然したる違いはないのだから。 「ここで折り返して、それから……」  河川敷の全部が木槿に繋がっていた。もう咲かない、冬へと向かう寂しい木々の一本がそれだった。薄汚い花弁がいくつか、その木から離れた場所に散らばっている。 「……そう、それから。ジェンティルさん、ご存知ですか? この木は……」  その残骸をヴィルシーナは拾った。薄汚れたそれは、ジャージの左胸に咲いていたあれとは似ても似つかない。刺繍じゃないから枯れるし、蓄光素材なんか使われていないから掌中の闇に容易く沈む。生きているだけの花に、誇りなんてものはなかった。だけどそれこそ木槿なのだ。毎日咲いても毎日散るし、散ったものはその辺で腐るしかない花こそが。  指先でくるくると踊る茶色のゴミすら、ヴィルシーナにとっては切った爪と同じくらいには自分の一部なのだ。それに全くの興味を示さず、微動だにしない貴婦人を遠くに感じた。木槿は強さの象徴だと、彼女は言った。ヴィルシーナのようだと。ジェンティルの考えるその花は、常に咲いているのだろう。地に落ちて腐った花なんて誰も気に留めないのだから当然だ。世間一般からすればジェンティルは変わり者だが、今だけは彼女こそがマジョリティでヴィルシーナはマイノリティだ。だからこそ、地に落ちて惨めさに塗れたとき、一番必要なのは理解ではなく共感だった。言い換えれば、単なる相槌。そうしたものは、ジェンティルに最も期待できないものでもあった。 「木槿、ですわね。花は散り、貴方とは似ても似つかないけれど」  正解。博識のジェンティルは学校のテストなら満点を取れるかもしれない。しかしヴィルシーナに対しては、共感はおろか理解すらできていたとは言えなかった。 「ええ。……もう、咲かないんです。今年は」  わかってもらわなくてもいいのだ。理解のために分解するんじゃなくて、わからなさを受け入れてほしいのだから。ヴィルシーナはすっかり参っていた。こんな極端なことを考えるくらいには。けれど想像こそが愛の本質なのは疑いようがない。  ヴィルシーナだって二人の妹を完璧に理解できていなかったが、それは妹たちの心にメスを入れることを拒んだからだ。鉗子を片手に二人の心を引っ掻き回せるのなら、もっと踏み込むことだってできただろう。そうしたらもしかすると、シュヴァルの抱えた鬱屈にもっと寄り添えたかもしれない。もしかすると、ヴィブロスが笑顔の裏にしまった強さを信じられたかもしれない。そうだとしても、二人を傷つける可能性は、二人を理解できない可能性よりもずっと悪い。ヴィルシーナは妹たちを心から愛していた。自分の知らない余白があっても、何の問題もなく愛せていた。わからないなりに想像し、共感し、寄り添って、それで正解を掴める愛の天才だった。 「そう。けれど、貴方は違うでしょう?」  ジェンティルは、違った。どちらが優れているとか正しいという話ではないが、二人は同じ目で互いを見つめていないのだ。とっくの昔にジェンティルは同じことを言っていたが、ヴィルシーナに伝わったのはたった今だ。二人の間ではこんな風に同じ言葉が異なる意味を示している。けれどまた、時間をかけて、誠意を尽くせば、その乖離を埋められるのかもしれない。  期待を裏切ることは辛いが、そもそも信じられないことはもっと辛い。だからヴィルシーナは、信じてみることにした。最強だからとか、立派な哲学を持っているからなんて実利的な理由ではない。信じたいから信じるのだ。いつだって自分に応じてくれた、自分の為に時間を割いてくれた、拙い言葉に頷きつつずっと歩幅を合わせてくれた、そんなジェンティルドンナを。 「……確かに、私は木槿じゃありません。ずっと咲き続けられるほど、強くなんてないんです。今にも折れそうなほどに……本当は、ずっと、怖いんです。……ジェンティルさん、貴方のことが」  その通り、ヴィルシーナはジェンティルの全部が怖かった。特大の瞳が怖かったし、声に纏った覇気が怖い。吊り上げた口角が怖いし、立ち居振る舞いも怖い。分厚い胸板が怖くて、山脈みたいな背中が怖くて、丸太みたいな太腿も怖い。ピンと伸びた背筋や揶揄うような指先が怖い。茶目っ気のある笑顔も、からかうような笑顔も、サディスティックな笑顔も、凶暴な笑顔も怖い。カッコよさが怖くて、愛らしさが怖くて、強さが怖くて、優しさが怖くて、期待が怖い。その一挙手一投足の全部が、ふわふわのハムスターみたいな心臓を握り潰しそうなのだ。例え優しく撫でられるだけだとしても、気が気じゃなかった。  おおよそ三日に一度叩き付けられる不遜な後輩からの挑戦状は、決して当たり前のものではない。今にも不安で潰されそうなヴィルシーナが必死に勇気を振り絞って贈る、辛くて切ないラブコールなのだ。三日前も、先週も、先月も。これまでの挑戦の、一つ一つが、全部。残り僅かなチューブから絞り出したヴィルシーナの、痛みに耐えたウルトラマリンの勇気の証だった。 「……」  ジェンティルドンナは立ち尽くしていた。雄弁でキュートな赤いお目々がぱちくりと何度か瞬きをして、迷子のように何度もぐるりと回っていた。口に出すのも怖い言葉を吐き出したという意味で、ヴィルシーナの吐露は告白と何にも変わらない。つまり告白と同じように相手にその処理を委ねるということで、それは、とてつもなく暴力的な性質を持っている。なぜって、告白は本当の本当、卵黄みたいに柔らかい弱点だから。ちょっと突いたらどろどろの中身が溢れてしまうのだ。無防備で剥き出しの弱点を守るために人は虚勢を張って、嘘を重ねて、目を瞑る。触れたら壊れる真実を相手に預けるのが暴力じゃなければ、何だと言うのだ。  暴力を突き付けられたジェンティルは、三度、深呼吸をした。 「あっ……違う、違うの……。わ、私……」  取返しの付かないことを、言ってしまった。この後に及んでそれを悔いるくらいに、ヴィルシーナには正気が残っていた。こんなにも恐ろしいジェンティルだって、必要不可欠なのだ。怖いことは山ほどあるけれど、何より怖いのはずっと前から変わらない。こんなに怖くて、怖いくらいに自分を想うその人を、台無しにしてしまうことだ。  重さは人生の試練だ。ジョワドの試練は彼女の脚を砕いたし、ジェンティルは数多の試練に打ち勝ってきた。だがヴィルシーナはあらゆる重さよりも、軽さの方が辛い。軽さは喪失だ。昔は象徴を失うことが怖くて、今は愛を失うことが怖い。ヴィルシーナは愛を背負って生きている。それは何度だって心を鼓舞してくれる代わりに、裏切ることのできない呪いでもあった。例え重たくて歪んでいて、有毒で棘があって、怖くて怖くて怖くて仕方がない愛だって、手放すのは嫌だ。絶対に嫌だ。  けれど怖いって白状するのは、裏切りではないのだろうか? 「……本当に、おかわいそうに。今更そんなこと、私が気付いていないとでも?」  だから、そんな顔をなさらないで。  ジェンティルは大股で歩み寄ると、手の内の腐った花弁ごとヴィルシーナの手を握った。泥の汚れで気合の入ったネイルが台無しになるのも厭わずに。ぼろぼろの花弁が二人の手のひらの中で崩れ去った。  繰り返すが、ジェンティルはずっと待っていた。いくらでも他の用事があるだろうにいつだってヴィルシーナの挑戦を優先してきた。一人で立ち上がれないときには発破をかけた。今日だって彼女はヴィルシーナのためにいるのだ。彼女にそんな義務なんてないし、こんなややこしい展開を期待したことだって一度もないというのに。 「そうですわね、貴方は木槿ではない。……ヴィルシーナさん。お時間を頂戴できるかしら」 「ええ……。ですが、私……」  ヴィルシーナの華やかさはシュヴァルに劣等感を与え、挫折はヴィブロスの重荷になった。同様にジェンティルの絶対性は、ヴィルシーナの卵黄をスポンジ生地みたいにぐちゃぐちゃにした。  しかし今度は、ヴィルシーナがジェンティルを傷つけた。愛っていうのはいつでも上手くいかない。そのくせ大事で大事で仕方ない、とんでもない弱点だった。だからみんな冗談のように性質の悪い急所を守るために必死なのだ。  ジェンティルが、ヴィルシーナを掴んだ。いわずもがな、腕は光らない。泥にまみれていたし、葦のように細くて、やっぱり荊棘なんて生えていない。百日紅のように白くて滑らかで、けれど強い。百日紅を万力が挟み、砕くのではなく、固定していた。 「えっ!? ちょっとジェンティルさん、痛っ……」 「失礼、あんまり動かないものでしたので。貴方は木と違って自分の脚で前に進めますもの、ねぇ?」  怪力無双のジェンティルだけが、今この場で、ヴィルシーナを導くことができる。だからこそヴィルシーナは、万力のよすがを頼ることを選んだ。再び、歩き出すために。  風に吹かれた木の葉と花弁がファンダンゴを踊る中、二人の歩みは不揃いに、けれど確かに、前進していた。子どものように手を引きあって、敗残兵のようによろめく不格好な歩みで。  思えばヴィルシーナの人生は、誰かに合わせた歩みの連続だった。母の腕が自分ではなくシュヴァルを抱くようになった日、ヴィルシーナの両脚は初めて地面をしっかりと踏んだ。母は小さな長女の隣をずっと守っていたが、ぼんやりとした長女を置いていかないようにとずっと神経を使っていたに違いない。ヴィブロスが生まれ、シュヴァルが歩けるようになると、今度はヴィルシーナがシュヴァルに合わせた。もちろん母がそうしたように、大事な妹から決して目を離しはしない。やがて姉妹が並んで歩くようになる頃には、景色の見え方も随分と変わっていた。シュヴァルの手を引くのは大体ヴィブロスだったが、彼女が興味のままにどこかに行かないようにするのはヴィルシーナの仕事だった。いつしか家族は何の意識もせずに、お互いの歩幅を自然に揃えていた。隣にいるのがトレーナーになってからもそれは変わらない。彼女もきっと、始めはヴィルシーナに合わせる努力をしていたのだろう。それが今では互いの右足にとっての左足のような理想的な二人三脚で前に進めている。これまでの歩みは、素晴らしい愛に溢れ、誇りに満ちた人生の総括だった。  それらは、ジェンティルと共に歩くこれとは異なる。二人は合わせようとしては失敗するし、傷つけないための手のひらで傷つくこともあるかもしれないが、それでも離れるなんてのは言語道断。そんな風に歩んでいくことしかできないのだ。  だって私たちは、ライバルなんだもの。  ⑨  意外だと言われることも多いが、ジェンティルは彫刻が得意だった。偉大な彫刻家のミケランジェロは大理石の中にダビデ像を見出したと言うが、ジェンティルはその感覚が全く理解できなかった。それは単に彼女が彫刻家として彼の域に立っていないからかもしれないし、もっと哲学的な理由によるのかもしれない。少なくともジェンティルは、次のように考えていた。神秘家の天啓はいつだって自らのシナプスが繋げた青写真。謙遜は美徳なのかもしれないが、同時に悲しいことでもある。ゆえに私が何を彫るかを決めるのは、私自身でなくては。  あるべき姿など、心なき無機物は持っていない。それでは掘られたものが岩や木でなかったときは? 樹液ではなく血液を流し、無言の悲鳴を上げるとしたら、手を止めるべきなのだろうか。ダイヤモンドを研磨するにはダイヤモンドのカッターが必要だ。潰れたペン先、砕けたノミ、散りゆく花、潰れた鉄球、去りゆく者たちの物語。そして、ヴィルシーナの涙。人生が彫刻であるなら、このようなものを避けることはできない。競争社会はそうして成り立っている。  しかしこれらの犠牲に意義を与えることなら、少なくとも、できる。その方法はただ一つ。ジェンティルが君臨し続けることだけだ。  三度、深呼吸をした。腕の力は微塵も弱まらない。不思議なもので、行く先を知らないというのにヴィルシーナの歩調が乱れることはなかった。速足になろうと、曲がり角でぎゅっと掴もうと、それでも、絶対に。 「随分っ……! 乱暴なエスコートですことっ!」 「あら、失礼。貴方には速過ぎたかしら」 「……っ! そんなことっ!」  緊張をしているのだとジェンティルは自覚した。ヴィルシーナは怖いと言った。それは正しいのだろう。ただの一度も、誰に対しても、優しい先輩として振る舞ったことはない。優しさを持つことと優しい印象を持たせることは全く違う。自分にとって重要ではない人々からの印象など、心血を注ぐ価値もない。芸術と同じで、わかる人にわかれば良いのだ。自分というものは。  当然、恵まれているジェンティルの周囲には優れた審美眼を持つ人だけが残された。今でも権力に群がる蚊はいるが、そんな連中は払えば終わりだ。そんな具合なので、わかってほしい人にわかってもらえなかった可能性など、彼女は微塵も考えていなかった。更には、理解しながら傷つき続ける人がいるなんてのは想定外も想定外だ。  謙虚なヴィルシーナは自身をジェンティルの理解者だなんて思ったことは一度もない。その余白を許容していたからこそ、彼女の青色が塗り替える可能性に怯えていた。しかしジェンティルの場合は逆だった。ヴィルシーナのことなんて何にもわかっていない。では、なぜ、理解できていなかったのか。簡単だ。理解に先立って信頼していたからに他ならない。  人を信じるのに根拠が要るなら、それは根拠を信じたに過ぎない。だが根拠が要らないのなら、それは妄信に過ぎない。盲目の信仰でジェンティルは目を閉じていた。よりにもよって、ヴィルシーナの前で。無神論者のジェンティルも、個人的な聖域の中では手製のステンドグラスに必死に祈りを捧げているのだ。想定と確信を取り違え、継ぎ接ぎの偶像をヴィルシーナと呼んでいただけなのだ。けれどそんな哀しい錬金術を誰が否定できるだろう? 誰もいない。だからジェンティルは、祈り続けていた。 「あらあら、ご無理なさらず。ほほほ……」  慈愛に溢れたお釈迦様は、手のひらの上で飛び回るお猿さんを握りつぶす恐れを抱いたことがないのだろうか。全く的外れな共感と心配でジェンティルは自分を保とうとした。ヴィルシーナの柔肌に小さな赤い花を咲かせる可能性は憂慮すべきだが、皮肉の殻で隠さなければ醜い真実が流れてしまう。二人が挑んでいるのは負け戦だが、最悪の負け方は避けられる余地がある。ジェンティルを包んでいた緊張感の正体は、絶望的なモチベーションで最良の結果を目指すための悪足掻きだ。 「ご安心を。貴方には……遅れを取りませんもの……っ!」  相対的に見て二人は加害者と被害者で、強者と弱者だ。だとしても、絶対的に、二人とも敗者だった。ジェンティルは傲慢な振る舞いでヴィルシーナのちっぽけな暴力を笑い飛ばしたし、それで彼女に赦しを与えたのかもしれない。だが無罪の判決が降りようが、罪悪感は残るし痛みも消えない。平気なフリをしたって痛いものは痛いのだ、お互いに。  結果だけを見るなら、ジェンティルは強者の務めを果たしている。スランプになった後輩へと手を差し出して、今まさに、先導しているのだから。ついでに仲睦まじく二人は手を繋いで散歩をしているわけで、客観的には随分甘ったるい関係に見えるかもしれない。それでも、敗者だ。そうすることでしか繋ぎ留めることもできない敗者と、それがなければ置き去りにされる敗者。一点の曇りなき象徴とはほど遠い、心ある一人が、二人。  ロマンチックで惨めな行進は続いた。行き先はジェンティルしか知らない。けれどジェンティルだって、着いた先で何が起こるのかはわからなかった。  ◇  二度目に訪れた店内は、相も変わらず完璧な調和に包まれていた。鳥と風の歌、本来出会うことのない季節に咲く花々、立ち並ぶ木々、永遠に若々しく萌える種々。ここは変わらない。呼び鈴を鳴らすと遠くから返事が聞こえた。 「こちらは……?」  ヴィルシーナの言葉に、ジェンティルはどのように説明をするべきか迷った。本当はもっと異なる歩みでここに来るはずだったからだ。ヴィルシーナはとっくに復活していたし、ジェンティルはそれを彼女なりに祝うつもりだったからだ。  本当は、とジェンティルは考えていたが、訂正する必要がある。本当の二人は筒抜けの強がりでここに辿り着いた。先ほどの言葉を校閲するなら、本当ではなく理想になる。  いずれにせよ、先日訪れた際、ジェンティルは造花の作成を依頼をした。それはヴィルシーナに贈るための青い薔薇だった。渡す理由は何だってよかったが、シチュエーションには気を配る必要がある。そしてヴィルシーナの問いに対する答えは、答えないこと。実に賢くて不義理だった。 「お付き合いいただいたこと、感謝いたします。ヴィルシーナさん」  青い薔薇の花言葉は大きく二つの意味がある。一つは不可能。自然界に存在しないその花を人は何とか作り上げようと苦心した。何百年も叶わなかったその願いから生まれた花言葉だ。そしてもう一つは、奇跡。長い品種改良の末、今日、それは実在している。その不断の努力、前進の意思のために、その花は相反する意味を与えられた。不可能の象徴が、奇跡の象徴として再誕したのだ。  理想のヴィルシーナは青い薔薇のような人だった。木槿のような人で、ステンドグラスのような人でもある。しかしこうした人生の比喩と要約を見下していたのもジェンティルだ。人は理不尽を前にすると、物事を劇的に考えたがる傾向を持つ。安易な言葉で物語にし、偶像にし、現実から切り離してしまう。そんな傲慢さをジェンティルは何より蔑んでいた。  ◇  数年前に遡る。当時、同期のジョワドヴィーヴルが怪我をしたというニュースは最もセンセーショナルに報道された。誰からも愛される才女の身に降り掛かった悲劇にはそれだけの力があったからだ。引退の後、彼女は報道やレース関係者との様々な繋がりを絶ったと聞く。そのときは彼女に心底同情をしたものだ。  かわいそうに。涙を誘うお飾りにされるのも、一方的な同情を寄せられるのも、さぞかしお辛いことでしょう。ですがご安心なさってくださいませ。私はそのような無責任な人々とは違いますもの。私は、貴方を悲劇で終わらせたりはしない。貴方を下した私が、必ずやその強さを証明して差し上げましょう。貴方の失われた未来を嘆く人々に、その未来の先に立ってご覧に入れましょう、と。  強さは天まで続く豆の木に似ている。高所になるほど空気は薄くなり、隣を走る者も減っていく。昇った先に巨人がいるのなら喜んで相手をするのだが、そこに立つのは巨人ではなく同じように上を目指した挑戦者ばかりだ。ならば倒れた者の想いを背負うのは、進み続ける者の義務ではないか。敗者から学び糧とすること以上の誠実などありはしない。  ジェンティルはそれを愛情だと思っていたし、そうなのかもしれない。愛には重さが伴う。というよりも人は、重たさこそが愛の証で、重さによる試練に打ち勝ってこそ愛を証明できるのだと考える。そして彼女の愛は至極単純でパワフルな論理で成り立っていた。自分が頂点に立てば、自分に敗れた全ての者は報われる。自分に挑む全ての者がさらに強くなれる。そうやって世界は、もっと愛する価値があるものに生まれ変わるのだ。象徴になるというのは、全てを背負うことに他ならない。より多くの、より重たい愛を背負うジェンティルの高密度な身体には、筋肉よりもぎっしりの愛が詰まっている。  ところがこの愛も完全無欠にはほど遠い。なぜなら背負うというのは、その対象をある瞬間に磔とすることだからだ。だからヴィルシーナは苦しんでいた。磔られた上に、その意義が失われることを。ジェンティルの愛は確かに重たいが、決して一人で支えていたのではない。いつだって、愛した人々と半分こだ。  ジェンティルは自らが軽蔑していた人々と、何の違いもない。なぜなら他でもないヴィルシーナを薔薇に象嵌しようとしていたのだから。幸いにもジェンティルはヴィルシーナがウマ娘であることを思い出したが、残された約束と予定は月に一度の憂鬱のように重たく横たわる。 「お待たせいたしました、ジェンティル様。お早い到着で……あら」  先日から少し髪を切ったであろう店主が二人を迎えた。相変わらずの車椅子と、相変わらずの背筋で。髪飾りは先日と同じ植物のものだったが、色が異なっている。前回は銀と紫で、今日は緑とピンクの鮮やかな組み合わせだ。 「こちらの商品を受け取る約束をしておりましたの。少しお時間をいただいても?」 「ええ、私は構いませんけれど……」 「ふふふっ。お連れ様もいらしたのですね、失礼いたしました。いらっしゃいませ! 少しジェンティル様とお約束がありますので、お待ちいただけますか? よければ店内をご覧になっていてくださいね。もしお疲れでしたら、入口の右手側にベンチがありますので」  店主に促されるまま、ヴィルシーナは迷路のような色彩の渦に目を回した。比喩ではなく本当に、店内には色が溢れていたのだ。例えば葉の緑だって、一様に同じではない。アイビーの緑は鮮やかで、シェフレラの緑は深い。アロエの緑には張りがあり、モスの緑は陰影で表情を変える。  ジェンティルの指を飾るラズベリーのネイルチップには、乾いた泥の汚れがこびりついていた。それでもこれをラズベリーと呼ぶ他なかった。意識をしなければ気付かない程度の違いでも、違いは違いだ。店主はその泥を拭うように、自らのハンカチで包んだ。 「さ、ジェンティル様。どうぞ、こちらへ」  時速5キロの電動車椅子が、ジェンティルを引っ張った。  ◇  造花店のバックヤード、というよりもそこは、単なる作業部屋だった。鼻を突くアルコールの揮発臭と、僅かに燻るポリエステルやハンダの残り香。壁一面のパンチングボードにニッパーやペンチ、大小様々なワイヤーが整然と並んでいるのは威圧感すらある。切り抜いた後のサテン生地が作業台の上に置かれているのを見るに、つい先ほどまで作業をしていたらしい。花園を支える屋台骨は金属にプラスチックと布を巻いて作られている。ちょうど植物のための支柱のように。  慣れた手つきで店主は机の下の引き出しを開け、一つの箱を取り出した。 「ご入金は先日頂いておりますので、本日は商品のお渡しのみとなります。……はい、ご確認をどうぞ」  高級感のある深い群青を基調にした箱の中央に、それよりもさらに深く神秘的な青色が鎮座している。かつてジェンティルを飾ったレガリアと瓜二つだが、決定的に異なる箇所があった。中央から外側へと、海中から水面を見上げたように光を強める青色のグラデーションだ。 「……素晴らしい出来栄えですわね。感謝いたします」  それはそれは見事な、ヴィルシーナの勝負服をイメージした、その人のための薔薇だった。美しく、穢れなく、神々しいと言っても差し支えないほどに完璧で、理想的且つ象徴的な一輪だった。  先ほど拭われたはずの指先が、その完璧に触れるのを躊躇い、泳いだ。ジェンティルは、誰にも、何にも届かない場所に行きたいと願った。比喩ですら届かぬ場所に。この花はそこに咲いている。 「……お気に召しませんでしたか?」 「いいえ。非の打ち所のない傑作、そう呼ぶに相応しいでしょう。私の……理想、そのものですわ」  理想は大抵の場合、本当が至れない場所を指している。ジェンティルの指は本当の本物で、目の前の薔薇は理想だ。それは遠い場所に咲いていて、ジェンティルへと叱責をしていた。  これは、ヴィルシーナではない。眼前の青は彼女のように表情豊かではなく、妹への愛も、その心臓を動かす勇気も存在しない。もしもこれがヴィルシーナの何かを象徴するのなら、ジェンティルに耐え続けた彼女の痛みでしかない。 「ジェンティル様。一つ、お尋ねをしても?」  車椅子の高さを調節し、店主は作業台の正面を陣取った。彼女は返事を待たずに続けた。 「あなたがどなたのためにそちらを贈るのか、私は知りません。ですが。……これは、ええと、皆様にお伝えしているのですけど」  店主は、青色の花をそっとジェンティルの手から取り上げ、愛おしそうに撫でた。琥珀色の瞳に宿る深い慈愛が、小石のように記憶の湖へと投げ込まれる。 「どのような気持ちで、それを贈るのですか? あぁ、言わないで結構です。あなたの気持ちに、あなた自身が答えてあげてください」 「……」  なぜ。それを一言で語るには、あまりにも内包するものが多い。自身とヴィルシーナの関係。薔薇の持つ多様な意味に、その中でも青色の持つ特別な意味。造花であることに更なる解釈の余地が生じるかもしれないし、一輪であることも無視できない。薔薇を贈るその行為には多重に絡み合う意味があったが、意味は理由ではなかった。いつから、それを混濁していたのだろう? 「人はなぜ、花を愛でるのでしょう。職業柄ですかね、そんなことを考えます。……花には数多くの意味がある。どうして人はこんなにも花にたくさんの意味を込めたのでしょうか?」 「……何が仰りたいのかしら」  独り言なのだろう。ジェンティルにもそれはわかっていた。ただし相手の存在を前提とした独り言だ。 「最初に花を贈った人は、何を理由としたのでしょう?」 「それを知ることに意味があるとは思えませんけれど。理由など個人的なものではなくって?」  他人の決めた意味など、過去が残した足跡の化石に過ぎない。そんなものに縛られるなど不自由極まりないではないか。ところが今まさにジェンティルが自らを縛っているものもそれと同じ不自由さ。雁字搦めた意味による不自由さだった。 「その通りです。飢えや乾きを満たすためかもしれない。傷を癒すためかもしれない。その人に喜んでもらいたかったからかもしれない。その人に自分の好きなものを伝えたかったからかもしれない。同じものを好きになって欲しいのかもしれない。……それが何だって、私たちには関係がありません」 「意外ですわね、そんなことを仰るなんて」 「そうですか? ふふ、けれど、そうなのかもしれませんね。ですけど私、本当にそう思っているんですよ。だって……寂しいじゃないですか。最初の理由が何であれ、そこにどんな由来があったって……花を見て抱いた気持ちや、誰かに贈りたいと思うその気持ちの方が、ずうっと大事なのに」  店主は柔らかく微笑んだ。ジェンティルもそれに応じた。瞳に放られた波紋が幾つも揺らいでは重なって、記憶の中の人物と合致した。 「あら、まあ……。どこかで見たことがあると思えば。貴方でしたのね。本当に……お久しぶりですこと」 「……わかりますか?」 「さぁ。ここにいる貴方と私の知る貴方は、別人かもしれませんもの。いずれにせよ」  職人の手から受け取った青薔薇に、神聖な輝きは存在しない。ただ美しいだけの、よくできた造花だ。花は青色、葉は緑に染められたサテンでできており、それを針金が支えている。特別に作られた、特別な造花。まだ何の意味も持たない、裸の一輪。 「ご忠告、痛み入ります。ご安心なさって下さいませ。私は、私の理由で贈りますもの。……改めて、ありがとうございます」  ◇ 「お待たせいたしました、ヴィルシーナさん」  彼女は木槿を眺めていた。先ほど二人が触れたような枯れ果てた残骸ではなく、永遠に咲く花を。もちろんそこにも一枚の解説板が添えられている。 「いえ……。素敵なお店ですね。時間が経つのを忘れてしまうほどに」  爽やかな青紫の花弁は中央でぎゅっと赤が強くなり、そこから白い柱頭が伸びている。それは散ることがなければ新たに咲くこともない。不屈を意味する不変の存在だった。 「そう仰っていただけると嬉しいです、ふふっ」  ジェンティルのへそ辺りの高さから店主の声が続く。 「紹介が遅れましたわね、こちらは店主の……」 「はい、ご紹介にあずかりました通り、当店の店主です。そちら、私の作品なんですよ」 「とても素敵な作品ですね」  店主はヴィルシーナへと顔を上げたが、彼女は視線を合わせるために屈んだ。夜の海のような瞳がいつまでもさざ波に揺れていた。 「……ジョワドさん?」 「……えっ?」 「あっ! いえ……。し、失礼いたしました、知人に似ていたもので……」 「ん〜……そうですか、そっか。そっかぁ。鋭いなぁ、お二人とも」  店主は天を仰いだ。降参だと、そう言いたげに。するとジェンティルと目が合ったので、苦笑して再び前を向いた。昔からこんな風に、感情表現の豊かな子だったとジェンティルは思い出した。何も変わっていないのだ、彼女は。 「そうですよー、ジョワドです。覚えていてくださったんですね。……結構イメチェンしたのになぁ」  彼女なりの白旗なのだろう。ぱたぱたと手を振って、ジョワドは笑った。彼女の選択は常に軽さの愛情を目指していた。けれど忘れることができない大切な繋がりもこの世にはある。輪郭がぼやけ、形骸化しても尚、零れきってしまわないようにと必死に握り締める、大事な思い出が。  ジョワドに否があるとすれば、それは自身の掛け替えのなさを軽んじたこと。人が一人いなくなるという意味を考えなかったことだ。なぜなら彼女のことを忘れずに、多くのものを背負い続けた人物が、少なくとも二人はいるからだ。そしてその人数はもっと多い。 「ええ。初めは気付きませんでした。けれど……」 「貴方の笑顔を見たら、すぐに思い出しました。ジョワドさん、本当に……良かった、と言っていいのかはわかりませんけれど……。また貴方の笑顔を見ることができて、良かったです」 「ま、待って! 待ってください! 今の私は、ほら……仕事中、と言いますか……」 「でしたら知人に会ったときの対応くらい決めておきなさいな。くすくす」  努力も虚しく、ジョワドは多くの場所で悲劇の象徴として扱われてきた。ジェンティルもある意味では同類だし、ヴィルシーナだって覚えていたのは彼女の泣き顔だけだ。けれどそんなものよりずっと強いものがある。  朗らかさだ。ジョワドヴィーヴルはよく笑う子だった。いつだって生きる喜びに溢れていた。笑顔をイコンに書き換えて、涙ばかりを回顧するのはとても寂しいことだ。例えそれがどんなに尊い理由であれ、弔鐘の中でジョワドを語るのは、軽さを目指したその愛を踏み躙るに等しい。  きっとずっと、ジョワドもそれが悲しかったに違いない。ジェンティルも悲しくなったし、ヴィルシーナも悲しくなった。その悲しみは、刹那に喜びへと変わった。あらゆる象徴よりもずっと強い真実があって、しかもそれが微笑みの中の、例えばえくぼにあったからだ。  三者の笑い声は店内に溶け、すぐに風と鳥のさえずりが戻った。  再会の余韻を噛みしめ、ジェンティルは息を吐いた。二人は尚も話を続けていたが、気にしなかった。 「さて。お騒がせいたしました」  この花を贈る理由は、何か。ヴィルシーナが不屈で、前に進み、奇跡を起こそうとするからだろうか? そうであって欲しいからだろうか? 彼女の青色や、自分のドレスの青色のためだろうか? それらは全て後付けの理由だった。そのような運命的でカッコよくて哲学的でみんなに自慢できるようなものではない、ジェンティルドンナがヴィルシーナに贈りたい理由があった。 「今日ここに来たのは、貴方にこちらを渡すためでしたの。ヴィルシーナさん」  芝居がかってジェンティルは箱を取り出した。表面を軽く撫でると、蓋を持ち上げた。青い花が、色彩に溢れた店内をいっとう鮮やかに染める。 「……受け取って、下さるかしら?」  ジョワドはこれを誰に贈るのか知っていたのだろうか。依頼主は伝えていなかったが、完成品を見れば明らか。公然の秘密というのはそういうものだ。  真実を曝け出すのは勇気が必要だ。だから多くの人々は嘘とハッタリを重ねて、傷付いても平気なデコイを作り上げる。だがジェンティルは違った。本当の自分というものがあるのなら、それ自体を鍛える方がずっと良い。誹謗中傷も物理的な脅威も意に介さぬくらい強くなれば、何にも怯えなくて済むのだから。実に見事なコペルニクス的転回なのだが、この発想も欠点があった。  ジェンティルだってヴィルシーナが怖かった。自分でないから怖い。心臓から尻尾の毛の一本に至るまでの何一つ、自分のものじゃないのが怖い。からかって楽しむのは執着を確認するためで、盲目的な信頼は聖性を維持するためのもの。それらは単に恐怖の裏返しに過ぎない。本当は失いたくないのだ、ヴィルシーナを。 「……ジェンティルさん、ありがとうございます。けれど」  受け取って欲しい。例えそれが苦痛を伴うとしても、自分のために耐えて欲しい。耐えて、私の望む貴方でいて欲しい。これからも挑み続けて欲しい。これからも折れないで欲しい。これからも期待をするから、これからも応えて欲しい。それは信仰を盾にした酷い冒涜なのかもしれない。けれどそんな涜聖の大好きがジェンティルの本当だった。  赤色が好きだ。青色が好きだ。私は赤で、貴方は青だ。二色が混ざった瀝青のドキドキは、どんな恋より粘ついていた。 「受け取ることができません……今の私では」  真実はいつだって暴力だ。だから受け入れられないことを嘆いてはいけない。ジョワドが二人へと交互に視線を動かしていた。 「まだ……まだ、私は、貴方の気持ちに相応しくない」 「ふっ。そう仰ると思っておりましたわ」 「あら、でしたら。……戻ったら、私とレースをして下さりますか? お待たせするつもりはありませんもの!」 「オフの予定でしたのに、健気なこと。――ああ、でも。ご安心なさってくださいませ。造花は枯れることがありませんもの。おほほ……」  ジョワドがほっと胸を撫で下ろしたのを認め、ジェンティルは続けた。 「……さて、そろそろ失礼いたします。改めて、お騒がせいたしました、ジョワドさん」 「また来てもよろしいでしょうか?」 「ええ! 大歓迎ですよ! あっ、ところでLANEとウマスタ教えてくれませんか? 前のアカウント消しちゃって……」  手を振り続けるジョワドを背に、二人は店を後にした。一つの約束に向かって、ただ、静かに。いかなる比喩を用いても決して語れぬそれだけが、二人の関係の総括だった。  ⑩  午後五時四十五分、空気には冷たさが混じり始めていた。薔薇色に燃える太陽は西へ沈み、代わりに無機質なナイター照明がターフを白く染め上げる。菫色の制服と椿色のジャージが行き交う放課後から、夜の静寂へと切り替わる分水嶺。  ヴィルシーナは、スタートラインに立っていた。 慌ただしく整備されたコースには当然ゲートなど気の利いたものはない。あるのは右回り芝二〇〇〇メートルの楕円のみ。顔の表皮が緊張でひりひりと焦げた。 「準備はよろしくて?」 「そちらこそ」  二人のトレーナーはそれぞれスタートとゴールに立ち、二人の旅路の成果を見守っている。 「……じゃあ、ホイッスルの合図で行くからね。5、4……」  乾いた空気に甲高い音が響き、二人は一斉に飛び出した。  ハナを取ったのはヴィルシーナ。加速を繰り返す両脚に世界が引き延ばされ、唸る風が耳を切る。  ジェンティルはヴィルシーナの背後にぴったりと位置を取り、彼女を風除けにして足を溜めている。ザクザクと地面を踏みしめる音。衣擦れと呼吸音、踏み出す度に伝わる振動。視界以外のあらゆる情報が警報を鳴らしている。決して離れることのない存在に。ジェンティルの狙いは完璧にヴィルシーナを差し切ること。先日の意趣返しでありながら、最大級の敗北感を与える方法でもあった。こと勝負の場において、ジェンティルドンナというウマ娘に容赦の二文字はないのだ。だからこそ覚悟を決めた。彼女が動くその瞬間こそが勝負所なのだと。  ジェンティルの足音を最も近くで、最もよく聞いていたのはヴィルシーナだ。どのような展開が得意か、どのようなコースに強くて、どのような特徴を持っているか。そのような座学的な理解ではなく、もっと非言語的なもので彼女を知っていた。その直感が告げる。 (仕掛けてくる!)  同時に視界の端に純白の手袋の残像が現われる。そして一刹那、真っ赤な瞳と目が合った。  これまでずっと、ヴィルシーナはジェンティルを恐れていた。今だってそうだ。しかし、その為に抱いた敵愾心は、果たして正当なものだったのだろうか? ヴィルシーナは、彼女のどこかに自分を傷つける茨がどこかにあるはずだと信じて疑わなかった。あの青い薔薇を握る指先や眼差し、自信に満ちた言葉の中に。だが、どこを探してもそんなものはなかったのだ。唯一隠されていたものすら、淀みの中にそびえ立つ愛だけだった。  ヴィルシーナはその一瞬の交錯の中で、自分がどれほど残酷な自己欺瞞に陥っていたかを悟った。理不尽は人の思考を単純化させるが、ジェンティルはヴィルシーナにとって理不尽そのものだった。理不尽に自分より強くて、身体が大きくて、頭が良くて、年齢が上で、走るのが速い。ところがそれを認めてしまうのは生涯に渡って負け犬となるに等しい。だからこそヴィルシーナは、異なる色眼鏡を掛けて守らねばならなかった。 「ふっ!」 「……っ!」  爆ぜた蹄音がヴィルシーナの髪を巻き上げた。ジェンティルの半身が視界にはっきりと現れる。酸素が足りない。身体が重たい。熱くて苦しくて、逃げ出したい。それでも、それでもだ。 (負けない! 今度こそ、今度こそ、私はっ……!)  揺るぎない足取りを差を広げようとする女王に、ヴィルシーナは追い縋る。 (挫けてなんて、あげないわ!)  レンズ越しのジェンティルは怖かった。怖いけれど理不尽ではない。怖いけれど向き合える。怖いけれど戦える。そうやって彼女は勇気を絞り出してきた。皮肉なことに比喩に対する最大の武器もまた比喩なのだ。ところが悲しいかな、その代償は高くついた。やることなすことの全てを怖いと定義した瞬間から、ジェンティルの愛は裏切られていくのだから。相手がウマ娘であることを忘れていたのはヴィルシーナも同じなのだ。  本当のジェンティルドンナは怪物などではない。平均より遥かに横暴ではあるかもしれないが、平均よりも遥かにヴィルシーナを愛する一人のウマ娘ではないか! 彼女の愛に焼き灼かれるというのなら、それ以上に強くなれば良い。彼女が耐えてほしいと望むのなら、気にもならないと笑ってやれば良いのだ。そこに理屈や正当性はない。徳倫理学的な正しさもなければ社会通念上の善もない。そんなものは、必要なかった。  どうしてこんなことにも、気付くのに時間がかかってしまったのかしら、とヴィルシーナは考えた。答えは単純明快。ヴィルシーナはジェンティルの全てを知らないからだ。彼女の見てきたジェンティルドンナなど、所詮はステンドグラスのようなもの。巨大で美しく荘厳で、敬意を表するべきかもしれないが、光の実体を写すことはない。スピードが二人を隔てたガラスを砕き、最後の花だけが揺れていた。 「はぁぁっ!」  ヴィルシーナも負けじと踏み込んだ。苦し紛れの一歩。だがその一歩はジェンティルの蹴り上げた芝の隙間を縫って地面を貫いた。二人分の両脚は今や四足歩行の獣となって四拍子を刻み、最後のコーナーを駆け抜けた。異なるものが山ほどある中でただ一つ、渇望の通奏低音だけが地面を揺らす。 (もっと! もっと強く!)  乾いた芝はヴィルシーナに応えるように推進力を与えた。景色すら風と共に置き去りにして。  唐突に、その感覚は訪れた。限界を超えて軋んだ身体から痛みがふっと消え去った。ジェンティルの汗がダイヤモンドのように照明の下で弾けた。見え過ぎている、とヴィルシーナが気付いたのはそれからだ。全てがスローモーションになり、音の消えたターフで二人の思考が溶け合い始めていた。あらゆる感覚が薄れ、残されたのは意識だけだ。その意識は勝利の先にある、別のものを求めていた。なぜなら勝利はゴールにあるけれど、心はもっとずっと遠くを目指していたのだから。 (……貴方が怖い。だって貴方の前の私はいつも、無防備だから) (ええ、それでも……。離れられないのね)  今にもぶつかりそうな肩と肩が、互いに入れ替わりながら前を奪い合う。両者譲らぬ激突の中で、不気味なほどに心は穏やかだった。 (不思議ね。貴方の考えが手に取るように伝わるのですもの) (それで、私に勝てる策は見つかって?) (すぐに――ご覧に入れて差し上げます!)  最後の直線が闇の向こうの白色へと続いている。引き延ばされていても尚、終わりが迫っているのだ。この光の向こうを、私たちはどんな風に走るのだろうか? 確かなことはただ一つ、それを知るのは今日ではないということだった。ジェンティルがハナ差で前に出た。ヴィルシーナがすかさず食らいつく。 (……楽しい時間は一瞬ですわね、いつだって) (ええ。叶うならば、もっと……)  もっと、貴方と走りたい。 「はあああああああっ!」 「あぁぁぁぁぁ!」  二つの影がゴールを突き抜けた。  ◇  ヴィルシーナは膝に手を付き、肩で息をしていた。心臓が張り裂けそうだし、膝の力もまるで入らない。悲鳴を上げる肺を必死に抑えて横を向くと、そこには汗を拭うジェンティルがいた。髪は乱れ、泥も跳ねているが、それでもやはり背を伸ばしているのが彼女らしい。 「はぁ……っ、はぁ……っ」  そう、彼女らしいと思ったのだ。それがたまらなく可笑しかった。きっとジェンティルの自分らしさっていうものは、あの背筋にあるのだろう。そう考えると、彼女に怯えていた自分も可笑しくなった。 「……ふっ、ふふ……」  この人は、私が思っているよりもずっと強がりだ。ヴィルシーナは笑った。朗々というよりはぜいぜいの、今の彼女に出せる最大限の朗らかさで。伊達酔狂の虚勢を纏う貴婦人を受け入れるために。 「……あら、判定の前に勝ったおつもり? 秋華賞で学んだと思ったのだけれど」 「違います! ……ふふ、ジェンティルさん。ありがとうございます」  本当に、嫌味でもなんでもなく、彼女はそう思っていた。それを伝えたくて右手を伸ばした。  大きくて赤くて、何よりとびきりプリティーなジェンティルの瞳が何度か開いては閉じた。流石なのは動揺をほんの一瞬しか見せなかったところだが、悲しいかな、一瞬見せたので伝わってしまう。今、二人の気持ちが同じだということが。 「へぇ……。そんな顔を、私にも向けるのね」  照明の下にジェンティルは立っていた。月光の下にヴィルシーナは立っていた。二人の間には一つの架け橋があった。 「さて。感謝をするのはこちらの方ですわ。……ヴィルシーナさん」  手を叩いて遠くで見守っていたトレーナーを呼ぶと、ジェンティルは彼女から青い箱を取り上げた。  二人は見つめ合った。邪魔にならないようにと気を利かせたのか、そそくさと立ち去るジェンティルのトレーナーは妙に哀愁を誘った。  ⑪    あらゆる感覚は、例外なく個人に帰属する。事の発端である木槿の花を例に挙げると、ジェンティルはそれをまさにヴィルシーナ的であると考えた。しかしヴィルシーナにとってみれば、それはヴィブロスとの繋がりを示す数多のものの中から、その一例に過ぎないジャージを構成する要素の、さらに一部に過ぎない。  悲しいことに、この種のすれ違いは幾度となく縮尺を変えながら繰り返されてきた。空の青さや勝利の素晴らしさ。理想の示すものや、信じるという言葉の意味。自分と相手の大切さや、お互いの強さと弱さ。ヴィルシーナがジェンティルの中の青色を守ろうと奮闘していたように、ジェンティルもまた青色にヴィルシーナを少なからず結び付けていたが、それによって保たれたのは青色という繋がりだけだった。二人はただの一度も赤の赤さを、青の青さを共有できなかったのだ。言葉の不完全性はそこにある。言葉は内心を正確に伝えるのではなく、それ自体が感情に向けた比喩のようなもの。比喩は外縁をなぞり、ぼやけさせることで奥ゆかしくもその意味を象徴的な記号へと変える。繰り返し尽くした比喩によって、いつしか二人の間には果てしない断絶が広がっていた。  どうにかしてこの溝を埋める術はないのだろうか? 二人はこれからもすれ違いの悲しみを受け入れ、そうして連星のように一定の距離を保って回り続けることしかできないのだろうか? 「貴方のお陰で私は――私たちは、更なる高みへと至りました」  ただ一つだけ、ある。それを確かめるべく、ジェンティルは無礼にも身を乗り出すと、ヴィルシーナの耳元でささやいた。 「あのとき――きっと、貴方も同じだったのでしょう?」  あのとき、というのはかえって抽象的な言葉だが、それで間違いなく伝わるのだと彼女は信じていた。普段のコミュニケーションの打率を考えれば博打もいいところなのだが、今回ばかりは絶対的な理由がある。しかしこの理由を理解しているのは当事者であるただ二人だけなので、言葉にするのは無粋だろう。 「私たちは確かに同調し、そして、それだけに留まらなかった。……いつ以来かしら、あの領域に到達したのは」  それだけ言って、ジェンティルは目を細めた。その視線を受けるヴィルシーナもまた、確かに同じ瞬間の記憶を反芻していた。彼女の方は最終コーナーから先の記憶が殆ど曖昧になっており、それがひどくもどかしかった。  ヴィルシーナは一つのイメージを抱いていた。彼女は海辺に一人で立ち、夕陽を眺めている。それは水平線の向こうへと静かに、けれど確実に向かっており、ただ見送ることしかできない。夕焼けが特別綺麗なわけでもないし、一日の終わりに対する何らの感情も抱かない。しかし確かに、彼女の胸は言い様の無い寂寥感に襲われていた。もしも人間の善悪や喜怒哀楽がプリセットであるなら、このような気持ちになるのは義務なのかもしれない。そんな絶対的な何かが、ヴィルシーナを締め付けていた。心象風景の茜色の下、ヴィルシーナは必死に言葉を探した。 「……貴方の意思が、伝わってきた」 「意思。……くす、詩的ですこと」 「身体が軽くなって……頭がすっきりとして。……今までよりもずっと鮮明に、貴方が見えて」  それから? ヴィルシーナはその先を言葉にできなかった。彼女の中で、夕焼けの空があの瞬間と密接に結びついていた。実際の空の色なんて重要ではなく、ただ同じ感情になるというだけの理由で。だが、それをそのまま言葉にしてもジェンティルに伝わるはずがない。ゴールのずっと先にある眩しさも、黄昏のノスタルジアも、イメージであって本質ではないのだから。それらの鎹となる言葉を探して、詰まってしまった。象徴というのはかくも脆い。脆く不完全で、けれど、形なきものを収めるにはどうしても必要な器だったのだ。 「私からも、貴方がよく見えましたわ。貴方の呼吸、リズム、足運びの意図。……そして、何よりも」  貴方の心の声が。ジェンティルはそう言おうとして、すぐに口を噤んだ。そんなはずはない。テレパシーなどこの世には存在しない。考えるまでもなく、それは自身が彼女の内心を勝手に喋らせていたに過ぎない。そうだというのにどうしてか、ジェンティルはそれが彼女との対話のような気がしてならなかった。そのため、小さく首を振ってメルヘンチックな空想の芽を摘んだ。 「……いえ。ヴィルシーナさん、脳間同期を知っているかしら」 「ええ。確か……ジャズのセッションなどで発生する現象だと聞いたことはありますけれど」 「勉強熱心ですこと」  ヴィルシーナの回答に尻尾を振ったジェンティルは得意げに続けた。 「それは特定の条件下で強い同調が発生したとき、脳波の動きまでもが完全に重なり合うこと……。すなわち、我々の脳はあの瞬間、全く同じ速度で、全く同じ情報を処理し、全く同じ結論を導き出していた。……もっとも、絶対的なフィジカルの差は覆せないけれど。おほほ……」 「……だから、なのですね。貴方が内へ切り込む前に、そうするのがわかりました。その隙に距離を稼ごうとしたのです」 「では、貴方がピッチを更に上げる前に、私にもそれがわかった、と言ったらどうかしら?」  二人とも、笑ってしまいそうだった。時間にすれば何秒なのかも定かではないが、肉体なんて境界を飛び越えて二人は同じになれたのだ、あの瞬間だけは。そして今はもう、いつものやり取りに戻っている。互いに弓を構えたまま、面白おかしく話している。ひょっとすると鏃はハートの形かもしれないが。 「貴方って、本当に……」 「もちろん、ご存知でしょう? 私は、貴方の大好きなジェンティルドンナですもの」 「はぁ……でしたら、もう一つだけ」  ヴィルシーナは、照明の下に一歩踏み出した。額に張り付いた前髪をさらりと払うと、普段通りの釣り目がジェンティルを真っすぐに射抜いた。少しの躊躇いもなく、いつもと変わらない角度でジェンティルを見上げていた。決意を告げるように口を開いた。彼女がジェンティルへと向けた全てに覚悟と勇気が込められていた。  いつだって変わらない、勇気に溢れたウルトラマリンの瞳だ。 「あのとき、私は……私の中の貴方は、『もっと走りたい』と、そう叫んでいました。……貴方は――」 「……その答えは」  薄い唇に人差し指を押し当てて彼女を黙らせると、ジェンティルは深く息を吸った。 「こちらですわ、ヴィルシーナさん」  そう言うと、青色の箱を差し出した。その中央に位置するレガリアが、青い薔薇だ。  ◇  弱さというのは罪だ。自分が弱いせいで愛する人をがっかりさせてはいけない。自分が弱いせいで愛する人の重荷になってはいけない。自分が弱いせいで愛する人の利益を奪ってはいけない。自分が弱いせいで愛する人を傷つけてはいけない。だから弱さを告白する際には改善の意思を示す必要がある。真面目なヴィルシーナはこのように考え、それを実現させてきた。ジェンティルからの贈り物は、ヴィルシーナにとって罪が雪がれたことを意味している。  しかし、ジェンティルの考えは僅かに違った。この青薔薇こそが罪の告白なのだ。ジェンティルドンナの抱く人間らしさの醜い煮凝り、愛という名の弱点そのもの。自分では絶対に動かせないし止めることもできない第二の心臓。その証拠に、風もないのに脈を打ち、震えている。 「この花の持つ全ての意味を、貴方に……」  それは元々彼女が脳内で温めていたとっておきのキラーフレーズだ。あらゆる過去の上に立つ我々にこそ相応しい、そんな決意が込められた言葉だった。だが、それすら口に出した傍から紛い物へとなり果てた。どんな意味も適切ではない。青い薔薇の花言葉も、一輪の薔薇に込められた意味も。奇跡も、永遠の愛も、まるで足りないのだ、伝えたいものには。どのような既存の意味よりも、自らの気持ちに価値がある。ジョワドヴィーヴルは確かそんなことを言った。なるほどジョワドらしいけれど、ジェンティルらしい考え方でもある。過去に敬意を払うとしても、それらの引用に甘んじるつもりなどないのだから。  可能な限りの芝居っぽさでジェンティルは頭を振った。ここまでが全て台本通りであるかのように。 「……いいえ、それではまるで足りない。ですから、私の気持ちを加えて」  本当の自分を強くするために彼女の積み重ねはあった。つまり、今、こんなときに勇気を奮うために。大切な人のために用意したとっておきのプレゼントを不安げに渡すのは興醒めだ。受け取り手を不安にさせるプレゼントなんて下の下ではないか。  だから片膝を突いて、貴婦人らしからず、跪いた。誠実さで首を垂れた後、敬意で面を上げた。さながらあべこべの叙勲式だ。しかしその掌の中にあるのは栄光でも名誉でも、地位でも権威でもない。私的な記憶と私的な愛着を表すための、この上なく芸術的な物的証拠だ。 「何を込めたかは、ご想像にお任せいたします。……ねぇ。受け取って、下さるかしら」  理想を描いたステンドグラスの向こうから、ヴィルシーナは現れた。永遠に咲く木槿ではない。奇跡を体現する薔薇でもない。ヴィルシーナが、ヴィルシーナとして、一糸纏わぬジェンティルの前に立っている。指と指が触れ合った。  信じるっていうのは何の根拠も、何の証拠もない、恐ろしい博打だ。正気の人間はあてずっぽうのギャンブルに自分の一番大切なものを賭けたりはしない。賭博は浮いたお金でやるのが健全だし、信頼するなら裏切られても耐えられるように余力を持つべきだ。しかしジェンティルは致命的に賭け事の才能がないので、全身全霊でヴィルシーナを信じた。彼女になら裏切られたって、そのせいで傷ついても構わないから、それくらい信じたいから、信じたのだ。そしてヴィルシーナはいつでもジェンティルのジャックポットだった。  信頼が報われる喜びは、いつだって筆舌に尽くし難い。箱から薔薇を取り出して、ヴィルシーナは口を開いた。ミディアムに焼かれた脳が希うただ一言を。 「……私も同じ気持ちですもの、きっと。ありがとうございます、ジェンティルさん」  そして花は、贈られた。  ◇  その日も、放課後のトレセン学園には指定のジャージの赤色がそこらに散らばっていた。そんな中で、青色を身に纏った人物が二人だけ。上機嫌なヴィブロスと、その横を歩くヴィルシーナ。二人は胸元に木槿の花があしらわれた、白地に青のストライプのジャージに身を包んでいた。 「えへへ〜、お姉ちゃんとお揃っち〜」  意気揚々と歩く妹を見守る姉は、どこか不思議といった表情だ。 「もう……そんなにお揃いが良かったの?」  フリルの装飾や、蓄光ライトのビビッドなライン。いわゆる水色系というやつだが、確かにヴィブロスにはよく似合う。だが自分には可愛らしすぎる気がする。というのが、やはり、ヴィルシーナの率直な感想だった。 「うん! だってだって〜、お姉ちゃん、この前のジェンティルさんとの模擬レースのとき、これ着てたでしょ? なのに私と一緒のときは着てくれなかったもん!」  頰を膨らませたヴィブロスに、ヴィルシーナは目を丸めて応じた。お揃いが良い理由の回答としては不十分だし、だいたい、学園指定のジャージだって全校生徒でお揃いだ。甘えん坊の末妹のわがままは不合理で、けれどそのために、彼女自身に忠実だった。 「あのときは他に着る物が無かったからよ。……ごめんなさい、ヴィブロス。貴方が選んでくれたのに、蔑ろにしていたわ」 「えっ!? 気にしないでいーよ〜。それに、ん〜……」  ヴィブロスは、大きな瞳を二、三度開いては閉じた。それをじっくりと見つめて、ようやく気付いた。フリルとか、ラインとか、シルエットは重要ではなかった。姉妹の心臓の上に咲く花を、ヴィブロスがどうして選んだのか。 「お姉ちゃんみたいに綺麗な色だったから、やっぱり、お姉ちゃんに似合うなーって!」  ただ、気に入ったからだ。そこには何の歴史もない。小難しい哲学も、ご大層な意義もない。ただ見たままの理由があって、ただあるだけの愛があった。  ヴィルシーナは、胸の木槿の花を撫でた。青い薔薇の髪飾りを取り外して眺めた。それはとても、とても、綺麗だった。  贔屓目もあるかもしれないが、ヴィルシーナは姉として、妹が誇らしくって仕方がなかった。満面の笑みが、ヴィブロスの顔にぱっと咲いた。ヴィルシーナもそれにつられた。姉妹は、一つの木槿を摘んだ。