銀髪は墨に漬けたように黒くなっていく。白髪の発生を逆回しにした光景がそこに現れる。 もはや端切れと化した白い装束は、同じように断片となった無数の紫紺へと変わりだす。 息は荒い。生命を繋ぐための、辛うじての呼吸が胸郭を軋ませ、血の塊が喉を逆流する。 しかし上下する胸はなだらかな曲線をほとんど歪ませず、血が乳房をなぞって降りもしない。 視線は虚ろに、雲に隠され始めた月を追うように夜空を泳ぐのだった――助けを求めて。 彼女の相棒は敗北と共に地の果てまで吹き飛ばされ、必然、両者の絆は物理的に途切れた。 ならばそこに残るのは、無力で、脆く、この春に高校に通い始めたばかりの――少女でしかない。 入学の日の夜。彼女は選ばれた。己の血に繋がる古の妖魔、その遠い遠い祖先との縁―― 人ならざるものの力を身に宿し、人に害なすものを打ち倒す調停者の役割に、 まだ全能感の抜けきらぬ幼い魂は打ち震えた。自分が正義の執行者であるように錯覚した―― 事実その才能は、見出されるだけはあったのである。異形の骸は積み上がり、 一層、彼女を酔わせた――あたかもそれが己一人の力であるがごとくに。 そうして今、愚かな少女は天を仰ぎ見る。脳内にちかちかと、日常の光景が巡り巡る。 もはや自分の衣装が、巫女を思わせる白と赤が闇に紛れる暗い色に戻ったことも、 それが自分の裸体を隠すに足りないことも、意識するだけの余裕を持ち得ない。 死という言葉さえ、幼い脳裏には朧気であった――痛い、とも、言葉が浮かばぬ。 いまだ全身を駆け巡っている霊力は、麻酔めいて苦痛を和らげていた。なおのこと、 わけのわからない倦怠感と脱力感とが、彼女の全身を地に縛り付けているのだった。 月を隠す雲ごと、少女の視界は暗くなった――顔を覗き込むように、湿った、熱、 長い鼻先を銃口めいて突きつける、獣の、顔。己の力と根源を同にする怪しげな雌の正体が、 こんな非力な人間の小娘であったかと、五百年来人を喰ろうてきた妖狐は嗤った。 雄の狐の臭いが彼女の身体を護るように纏わりついていたが、それも鼻息で吹き飛ばされ、 彼女の柔肌を、握り拳よりも太い牙が筆のようになぞった――そして突き立てるより早く、 獣の顔は悪意を具現化したように歪んだのである。思い返せばこの臭い、 かつて自分と縄張りを奪い合い、山三つ越えた先まで追い返した憎たらしいあいつのものだ。 彼の脇腹の古い噛み傷は、その時のことを思い返すたびにしくしくと惨めに痛むのである。 こんな小娘の血を啜ったところで食前酒にもならぬ――ましてや肉の食いがいもない。 ならばこの身体に、決して消えぬ跡の一つでも残してやるべきであろう。歯列はまた歪んだ。 四つの赤い瞳は少女の肌の上の端切れを見る。剥ぎ取る手間が省けたというもの、 小便臭くはあるが最低限の性成熟を果たしてはいるのが本人の体臭からわかった。 いまだ老狐の帰る様子はない――山七つは吹き飛ばしてやったのだ、すぐには帰れまい。 黒い毛並みをざわざわと風に泳がせて、狐の瞳が一層赤黒く光る―― 少女は肌に当たる風の冷たさだけを感じていた。目の前の獣に舐められた箇所は特に、 氷を直に当てられ、霜の降りたように凍える――それが彼の力とは知らず。 そしてその箇所は増えていく。若い皮膚は鳥肌をいくつも立たせて震え、 震えは自然と、それまで意識の外にあった恐怖をも呼び寄せ始めた。 だが、まだ危機感の足りない彼女は冷気が股間の、陰唇までを包んだことの意味を知らぬ。 焼けるように熱い獣の性器がすぐ近くに寄って来てさえ、冷えた身体はそれをありがたいと、 その奥に招こうとしていたのである――意味するところを知らず。 溶鉱炉から取り出したばかりの鉄の棒、それに貫かれるかのような熱さ。 下腹部から、物理的な実体を持ったものが脳天まで貫く勢いで薄い身体を突き刺す。 破瓜の痛みもまだ、異物感としてしか残らない。ただ、えづく程度である。 雄に貪られることに――雌の本能は未成熟な主に必死で警鐘を鳴らしてはいるのだが、 痛みという信号が断ち切られている今、それは曖昧な不快感しか残さない。 そして倦怠感の方がずっと強く、彼女の身体を支配しているのだから、どうにもならない。 少女の視界はまた、空を仰ぎ見た。雲の晴れた――けれど既に欠けてしまった月。 彼女に力と役目を与えた白い妖狐は、己が穢されたことも自覚せぬ哀れな少女のために泣いた。 遠吠えは山々を震わせたが――それは負け狐の敗北宣言にしかならなかった。 せめてもと彼女の肌の汚れを舐め取ってやろうとして伸びた舌先は、 直に唐辛子を擦り付けられたかのようにびくびく震え、唾液をぼとぼとこぼす。 恐る恐る伸びた指もまた、電流でも流されたかのように弾け飛ぶ。 別の雄の臭いを塗りたくられただけではない。自分の力を預けていたその場所、 清らかなる乙女の最奥に――既にそれは仕込まれているのだ。 悲しそうな目をして泣いた狐は、風の吹くと共にぬるりと消えた。 少女の身体の上には、どこからか運ばれてきた襤褸布が掛けてあったが、 無論それでは、失われたものの替えにはならない――ようやく正体を取り戻した彼女は、 ぼんやりとした影が二つ去ったことを、ただ漠然と理解するのみである。 夜遅くに家の風呂の中で、肌に残った切傷に染みる湯を咄嗟に手で跳ねるだけである―― 次の夜も少女は性懲りもなく己の役目を果たすために街に出た。 獲物をどこまでも追い骨片まで焼く霊炎を操る力は、なぜか魂を凍らせる霧を操る力に変わり、 彼女の積み上げるものは灰から、砕け散った妖魔の絶望した貌の破片となった。 白と赤の装束が、すっかり黒と青のそれに変わってしまったことだけは納得がいかなかった―― 制服と比べて色の差が小さく、変身した、との思いを抱かせてくれないからであった。 口うるさく、戦闘の後に毎度毎度反省会を開いていた相棒の姿が見えぬことにも、慣れた。 自分を一人前と認めて、口出しすることをやめたのだろうと、楽天的に思うた。 そして今、彼女は全てを――不確かだった敗北の記憶が一筋の線になるのを感じた。 身体が覚えている、歴然とした力の差。種としての、喰うものと喰われる餌の立場の差。 自分を活かし――放り出して、遊んでいただけの、絶対的な上位者の存在を。 四つの赤い光に射すくめられて、少女の身体は鉛と化したようにずんと沈み、 自分をものにした雄を――見上げるように魂を抜かれた。指は寒気以外のものに震え、 一方で身体の奥底、雌の証はかつて植え付けられたものを思い出して、かっかと火照る。 鼻先に垂れたそれは、以前のように、印を付けるため――人の身に妖の印を刻み、 力の授受を行う契約のための、お遊びのような使い方ではなく、本来の、 雌の胎に種を蒔くための、凶悪な反りを見せていた。そして見るのは間違いなく初めてなのに、 彼女の肉体は、それを収めるために今まであったのだ、と完全に理解してしまった。 目を逸らすことができない。獣の、妖魔の、決して受けてはならぬものの種を―― 自分の身体が、狂おしいほどに欲しているのを、幼い彼女は自覚した。 そして黒い毛並みの中に覗く黄ばんだ歯列、そこから漂う屍肉の臭いさえ、彼女を興奮させる。 これからこの獣のものにされ――つがいにされるのだ、との思いが強くなっていく。 人としての理性は、こんな化物の血を残すことに自らを捧げてはならないと訴える。 だがもうだめなのだ。生かされ、子を仕込むのに充分に育つまで待たれていた今、 それを拒むことはできなかった――何より全身を巡る彼の霊力は、細胞単位で愛着を刺激する。 己が主の血を引く黒い毛並みの仔を己の股ぐらよりひり出せたなら――どんなに幸せだろう? 自然と、少女は妖狐の前に頭を垂れていた。そうしなければならないと感じていた。 この感情もまた、人の身を用いて子孫を残す彼らの戦略――魂の汚染によるものであると、 彼女が知る由もない。力を与え、振るわせるのもその一環に過ぎない―― そして以前の相棒が――純粋に彼女の血に、かつての己の過ちの跡を見つけ、 償いとして、子孫への無償の愛を注いでいたことも。