○01 覆面パトカーのドアを閉めると、シュウは懐から暖かい缶を取り出してすみれに差し出した。 「悪いな。自販機遠くてさ」 「ありがと…えーっと」 すみれは軽く微笑み、缶を受け取る。 振り向きざまにラベルを指でなぞり、缶を回す。 「甘酒と…おしるこ…」 「どっちがいい?俺はどっちも好きだけど」 シュウは、当然のような顔で言った。 すみれは無言でじっと缶を見つめた末、不服そうにおしるこを引ったくった。 「…色々あってもこの二つは選ばないわよ」 軽く缶を振りながら、そのままシュウへ突きつける。 シュウは甘酒を口元に運ぶ。 次の瞬間、反射的に顔をしかめた。 「うあっちぃ」 「ふふ。中年の猫舌はかわいくないわよー」 車内に甘い香りが広がる。 窓の外には、オノゴロ市の人工島に広がる夜景。 その奥に、FE社の本社ビルが静かに光っていた。 これで乗っている車が覆面パトカーでなければ─すみれは一瞬だけそう思い、顔を見せないように小さく笑った。 オノゴロ島…それは、FE社の巨大な本社がそびえ立つ東京都所属の人工島。 すみれは今、シュウを仕事に付き添わせる形でここにいる。 現地警察が人員不足を理由に、デジモン犯罪に精通した電捜課へ協力を要請した。 派遣された彼女が張り込みと情報収集を担当し、荒事は現地警察が受け持つ。 (放っておいたら、絶対ロクなことしない…!) 表向きは単純な役割分担だが、本音は別にある。 異父妹・ミヨ失踪の手掛かりが、FE社にある…シュウからそう聞いた時のことを思い出す。 指先が白くなるほど、写真を握り締めていたあの顔も。 (ミヨちゃん、か…) だから、ここに連れてきた。 「まさか祭後くんが夜な夜な街中で暴れる事なんてないと思うんだけどぉ」 おしるこ片手に繰り出されるのは、逃げ道を塞ぐための冗談めいた牽制。 「おいおい。俺は善良な一般市民だろ?」 意図を察しながらも、シュウは笑って受け入れる。 幼馴染みの頼みを断れるほど、彼が強くないことをすみれは知っていた。 「じゃ、まだ付き合いなさいよね」 互いに作り笑いを浮かべたまま、言葉を交わす。 彼を止めたい、失いたくない。 それが職務なのか、罪悪感なのか─それとも別の感情なのか。 すみれは考えないようにしていた。 「…にしても、なんだかこうしてると逃避行みたいじゃない?」 「いや全然。都心だろここ」 「あっそ」 その時、無線からノイズ混じりの声が入る。 『港北倉庫で火災発生、爆発音を確認』 近い─遠くから、金属が軋む音と破裂音が微かに届く。 シュウは車のドアに手をかけた。 その手を、すみれが掴む。 「これは私たちの仕事じゃない。現地の警察と消防の領分よ」 すみれは無線を確認し、張り込み任務を優先する。 だがシュウは違和感を覚えていた。 あの音は、ただの火災ではない。 「あ!」 「…」 シュウが唐突に声を上げ、明後日の方向を見る。 だが、すみれはジトーっと彼を睨むだけだ。 「あーーっ!」 もう一度そう叫ぶシュウに、すみれは仕方なくそちらに目を向ける。 シュウはその一瞬で、手首をするりと抜いた。 「はい。姉さんはここで待ってな」 「あー!」 すみれの制止を振り切り、シュウは車を飛び出す。 追いかけようとシートベルトを外したその瞬間─目の前を、FE社のロゴ入り輸送車が走り抜けた。 「…倉庫の方から来た…?」 ○02 倉庫の中は、見た瞬間にダメだと分かる有様だった。 軋む鉄骨、砕けたコンテナ、止まない破砕音。 暴れ回るデジモンに、現地警察は距離を取ることしかできない。 「くそっ、まずいぞ!」 一体のデジモンがパネルを持ち上げ、警察官へと投げつける。 その軌道に、一つの影が割り込んだ。 「どっせーい!」 ユキアグモンが飛び込み、全身で受け止める。 鈍い音と共に弾き飛ばされ、パネルが壁へと叩きつけられた。 「いちち…ちょっと痛かったゼ」 手に息を吹き掛けるユキアグモンを見て、現地警察がざわめく。 「件の応援人員か!」 「そゆこと。よきにはからえ?」 遅れて姿を見せたシュウが、わざとらしく仰々しく振る舞いながら前に立つ。 「って一般人!?」 警察官は驚愕し、反射的に動きを止める。 その間に、チンピラが苛立った声を張り上げた。 「てめー、調子乗ってんじゃねぇぞ!」 彼は手首のスレイブ型デジヴァイスを見せつけるように掲げる。 それに呼応するように、複数のデジモンが唸り声を上げた。 ユキアグモンが目を細め、構える。 「シュウ、あいつ…」 デジモンの体には、不自然な装置が食い込むように取り付けられていた。 脈打つたびに肉と機械が動きがわずかに軋み、シュウの声がわずかに低くなった。 「デジヴァイスはリズと木野さんの時に見たやつだな」 「あの変な感じ、カブテリモンの時と同じだゼ…!」 次の瞬間、コンクリート片がユキアグモンの足元で砕け、散った。 唸り声を上げるデジモンたちが、一人と一匹に狙いをつけていた。 「ヤツは強盗を働いて逃走中の危険人物だ!下がれ!」 「…ああ、そういうの知り合いにいっぱいいるんで大丈夫ですよ」 警察官が怒鳴ると、シュウはひらひらと手を振り返した。 ─直後、カチャリと乾いた音がなった。 シュウは一度、手首を見てから、もう一度見た。 その両手にはしっかりと冷たい手錠がかかっていた。 「あの…これは…?」 「お前にも用事ができた」 ユキアグモンが目を光らせ、鼻息を荒くする。 「なんだそれ!新しい特訓か!?」 「比喩表現なんです!比喩表現なんですよ!」 シュウは両手を広げて必死に弁解した。 「だ…だから俺様を無視してんじゃねぇ!」 「ごめん!なんかコイツ捕まえられそうだったから!」 チンピラが声を荒げ、唾を飛ばす。 その叫びに呼応するように、スレイブ型デジヴァイスが強く発光した。 複数のデジモンが一斉に踏み込む─床を叩く足音が重なり、距離が一気に潰される。 「くそ…こっちは忙しいんだよ。団体行動の仕方を教えてやれ!」 「よっしゃ、負けねーゼ!」 ユキアグモンが鼻を擦り、真正面から接近する。 最前列のハグルモンへ、勢いのままにドロップキックを叩き込む。 着地の勢いを殺さずそのまま身体を捻ると、スッと足払いを行う。 軽い体のバコモンは体勢を崩し、その隙へ一気に肩からぶつかる。 横から伸びてきたエコモンの腕を背負うように掴み、そのまま地面へ叩きつけてしまう。 そして間髪入れず回転─勢いをつけて投げ放った。 エコモンは吹き飛ばされた先で、倒れていたバコモンたちを巻き込み─まとめて転がった。 パッコーンと衝突音が重なり、三匹の動きが止まる。 「どーだ!オレの筋肉!」 ユキアグモンは自慢気にポーズを決め、視線をシュウにちらっと向ける。 「だから比喩表現なんですって〜!」 「いいから来い」 シュウはまだ手錠をかけられたまま、警察官に引かれていた。 ○03 「なんか忙しそうだしオレが片付けちまうゼっ!」 ユキアグモンが敵を相手に大立ち回りを続ける中、不意に天井のスプリンクラーが作動した。 白い消火フォームが、遅れて降り注ぐ。 「ん…水じゃないぞ?」 警官の一人が手のひらを見つめ、顔をしかめる。 次の瞬間、液体に触れたスレイブ型デジヴァイスが激しくスパークした。 「なっ…!?」 器機のあちこちで火花が散り、短い破裂音が連鎖する。 火花はすぐに収まるが、出力が乱れたのは明らかだった。 制御を失った改造デジモンたちが、ぎこちない動きで立ち尽くす。 そして、ゆっくりと、その視線が自分たちを操っていた原因へと向いた。 「─んあっ!?そんな話聞いてねぇぞ!」 シュウがチンピラの元へ一歩踏み出す。 「それ外せ!巻き込まれるぞ!」 その時─天井の暗がりから、影がひとつ落ちる。 とん…と、軽い着地音が騒音の中にかき消される。 体操選手のように無駄のない動きで着地した少女は、舞台に降りたマジシャンのように静かに立ち上がった。 「証拠隠滅にしては、少し雑ですね」 銃声─その弾丸はスレイブ型デジヴァイス本体ではなく、手首に巻き付いた固定リングのみを正確に撃ち抜く。 バチっと金属が弾け、拘束が外れた。 「にょひっ!?なんで俺様なんだよ!」 チンピラが目を瞑りながら仰け反った瞬間、物陰からプロットモンが飛び出す。 地面に落ちるより早くスレイブ型デジヴァイスを咥え、そのままくるりと回転して着地した。 白いフォームに濡れながら、警察官たちは混乱して視線を彷徨わせる。 その中心で少女は、プロットモンから放られたスレイブ型デジヴァイスを片手で軽く受け取った。 「かっ…怪盗セレニャーデ!」 「あらあら皆さん。今日もお疲れ様です」 わずかに首を傾げ、怪しげにくすりと笑う。 「いやぁ、生憎の雨で」 白いフォームに煙る視界の中心に立つその姿だけが、不自然なほど目立っていた。 その光景を前にしながら、呆気に取られたシュウはうっかり大声を出してしまった。 「か、怪盗ぅ?世界観変わってないか!?」 「はい。以後、お見知りおきを」 名乗りとも挨拶ともつかないその一言は、妙に場に馴染んでいた。 そのやり取りを遮るように、甲高い悲鳴が響く。 チンピラはデジモンから逃げるように柱へ飛びつき、無様にしがみついた。 「お、おい!喋ってねーでコイツらをなんとかしてくれよ!」 「元はオメーのせいだろ!そういうのワマガガって言うんだゼ!」 「ワガママな」 ユキアグモンの妙な言い間違いに、シュウは慣れた調子で返す。 その間にも、改造デジモンは制御を失ったまま暴れ続けていた。 「あら。訳知りみたいね」 プロットモンは軽い足取りで一体の懐に潜り込む。 噛みついて体勢を崩させ、そのまま口内に集めた光を至近距離から叩きつけた。 ユキアグモンも踏み込み、別の個体の腕を絡め取る。 関節を極めて地面に押し倒し、そのまま動きを封じた。 「そらよっと!」 叩き潰すのではなく、意識だけを刈り取る制圧。 その動きは荒いが、狙いは正確だった。 だが次の瞬間、鈍い振動が床を走った。 一体の改造デジモンの体が内側から押し広げられるように膨れ上がった。 装着された器官が脈打ち、暴走したエネルギーが制御を食い破る。 爆光─シュウのデジヴァイス01が警告音を鳴らす。 【サイクロモン:成熟期】 咆哮と共に振り下ろされた拳が、コンクリートの床を叩き砕く。 衝撃が爆ぜ、ユキアグモンとプロットモンの体がまとめて弾き飛ばされた。 床を滑るように転がりながら、ユキアグモンが顔をしかめる。 「なんかヤバそうじゃねーか!?」 「そっち、抑えられます?」 気付けば、怪盗はシュウのすぐ横に立っていた。 移動の気配はほとんどなく、警察官たちは混乱に目を奪われてその存在に気付いていない。 「夜だってのに元気なお嬢さんだこった」 「貴方は眠そうですよ」 軽口を交わすその声に、緊張はない。 「もう夢の中かもな。ユキアグモン!」 呼びかけに反応したユキアグモンは、サイクロモンの正面へ踏み込んだ。 振り下ろされる拳を引き付け、限界まで引き寄せる。 「おせぇ!」 素早く横へ飛び抜けると、拳が空を切って地面を砕いた。 その背後で、怪盗は静かに腕を持ち上げていた。 「さてと。プロットモン、進化だよ」 銃を顔の前で交差させ、指を鳴らす。 乾いた音が戦場に鮮明に響くと、紫の光がプロットモンへと収束する。 圧縮され、殻のように閉じ、内側から膨張する。 そして、再び戦場に光が弾けた。 「プロットモン進化…チェシャモン!」 光を割いて現れたその姿は、紫の猫を思わせるしなやかなシルエットだった。 鋭い眼光と柔らかな動きは、どこかメイクーモンに酷似している。 「その銃…デジヴァイスなのか!?」 「初めて見るデジモンだゼ!」 テンションの上がるユキアグモンをよそに、チェシャモンは一直線にサイクロモンへ飛び込む。 それを迎え撃つように、サイクロモンが口を開いた。 拡散する熱線が、空気を焼きながら広がる。 「ひょえーっ!?」 「ほげーっ!」 警察官たちとチンピラは慌てて身を伏せる。 広がる熱線は、そのままチェシャモンをも飲み込もうとしていた。 「くっ…コレまずいかも…援護お願いできますか!?」 「任せろだゼ!!」 ユキアグモンが割り込み、熱線に向かって氷を撃ち込む。 だがその瞬間、チェシャモンの身体がわずかに揺らぎ、そのまま色を失うように透けた。 「通り抜けた!?」 シュウが目を見開く。 熱線も、ユキアグモンの攻撃も、サイクロモンの巨体さえもすり抜け、チェシャモンは何事もなかったかのように背後へ回り込んでいた。 サイクロモンはなおもユキアグモンへ熱線を浴びせ続けている。 その意識は完全に前方へ固定されていた。 そして振り向きざまに、チェシャモンの爪が光を帯びる。 【フェイズクロー】 怪盗は楽しげに目を細め、わざとらしくモノクルに触れる。 「ま、嘘ですけどね」 シュウは反射的に首元のゴーグルへ触れ、デジヴァイス01と連動させる。 視界の隅に走る解析情報を追いながら、わずかに息を詰めた。 (フェイズ…位相遷移…) 素早く振り抜かれた一撃は装甲ではなく、後付けの装置だけを正確に切り裂いた。 火花が散り、器官が弾け飛ぶ─サイクロモンの巨体が大きく揺れ、そのまま崩れ落ちた。 重い衝突音が倉庫に響き、動きが止まる。 一拍遅れて、ハッとした警察官たちが一斉に動いた。 「確保だ!動くな!」 腰を抜かしていたチンピラはあっという間に取り押さえられ、床に押し付けられる。 「待て待て!俺は雇われただけ…ぐえっ!」 そのすぐ横で、シュウにも視線が集まっていた。 「お前もだ。さっきから好き勝手やってくれてるな」 「いや俺は助けた側なんですけど!?」 警察官が一歩詰める。 シュウは手錠をかけられたまま、引き気味に笑った。 その背後で、何かが転がる音がした。 小さな球体が、床を転がってシュウの足元で止まる。 「…あ?」 次の瞬間、ボシュッと煙が噴き上がった。 視界が一気に白に塗り潰されると同時に、チェシャモンが前へ跳び出した。 【プチデヴァイン レゾルブ】 「うわっ!?」 閃光が炸裂し、警察官たちの視界を完全に奪う。 混乱の中、シュウの首元に何かが引っかかった。 「ちょっ─」 襟首を掴まれ、そのまま強引に引き寄せられる。 体が浮き、抵抗する間もなく引きずられる。 「えっちょっ待っ…!」 「よろしければ一緒に来ますか?」 耳元で、楽しげな声が落ちた。 「強制じゃねーか!」 「嘘ですからね」 「オレもオレも〜!」 ユキアグモンは反射的にデジヴァイス01へと戻る。 煙と光が視界を覆い尽くす。 数秒後。煙が晴れた時には、そこにシュウたちの姿はなかった。 「ぐっ…怪盗め!また逃がしたか!」 ○04 「大丈夫そう…」 周囲の気配を一通り確認してから、怪盗が小さく息を吐いた。 「お〜い。もういいか?」 返事も待たずに、シュウは壁に取り付けられた梯子の前で欠伸をする。 登る気配はない。 鈴は一瞬だけ視線を下げ、自分のスカートの裾を軽く押さえた。 「実はデリカシーとかない人ですか?」 「誘拐犯に配慮するデリカシーなんかあるのかね〜」 皮肉っぽく言い返す声音に、緊張感はほとんどない。 シュウの手首に巻かれたデジヴァイス01から声が漏れる。 「シュウがたまにご飯を注文する…」 「…もしかしてデリバリーのことか?」 「なるほど…」 妙に納得したような声。 状況だけ見れば連れ去られているはずなのに、その実感が妙に薄い。 その間に、鈴はさっさと梯子を登り切る。 靴音が軽く響き、すぐに頭上から声が降ってきた。 「はい。いいですよ」 「……なにか忘れてる気がするな」 ようやく梯子に手をかけながら、シュウがぼやく。 「確かに。なーんか忘れてるなぁ」 「ねぇプロットモン。このおとぼけコンビ、本当に大丈夫かな…」 「うち的には面白いからアリよ〜」 鈴は小さく肩をすくめると、懐から回収したスレイブ型デジヴァイスを取り出した。 白い照明の下で、それはまだ微かに不安定な光を帯びている。 「ま、この人たちが変に騒ぎを大きくしてくれたおかげで、ようやくコレが手に入ったわけだし」 軽く振ってみせるその仕草は、成果を確かめるというより遊びに近い。 遅れて、シュウがマンホールの内側から這い上がる。 外に出た瞬間、潮の匂いがわずかに混じる風が頬を撫でる。 視界に入ったのは、人工島に似つかわしくない古びた建物だった。 外壁はところどころ剥がれ、鉄部にはうっすらと錆が浮いている。 整備されているはずの島の中で、そこだけ時間が取り残されたように見えた。 シュウは目を細め、入口に掲げられた看板を読む。 「…Empatia?」 ─店内には、客の姿がなかった。 裏口から入ってきた鈴を、カウンターの奥にいた男が一瞥する。 驚きも詮索もなく、いつも通りとでも言うようにカップを取り出した。 「どうぞ。彼女が着替えてくるまでお待ちください」 促されるまま、シュウは椅子に腰を下ろす。 差し出されたコーヒーを一瞥し、そのまま角砂糖の瓶を掴んだ。 どぼぼぼ、と音を立てて中身をそのままカップへ流し込む。 止める間もなく、白い塊が次々と沈んでいく。 表面張力でかろうじて溢れていないだけのそれを前に、男は作業の手を止めた。 「そんなに砂糖を入れる人は初めて見ました」 呆れたようでいて、その声にはわずかに愉快さが混じっている。 奥の扉が開く。 戻ってきた鈴は、すでに店の制服へと着替えていた。 そのままの流れでカウンターに立ちかけ─ふと、シュウのカップを見て足を止める。 「…おいしいですか?」 「あぁ」 即答。 「おお。話のわかる人だ」 男は満足げに頷き、空になった砂糖瓶を受け取る。 鈴は明らかに納得していない顔をしたまま、視線だけを二人の間で往復させた。 やがて男が、静かに口を開く。 「さて。我々から説明しなければならない事がありますね」 店内はひどく静かだった。 窓の外の街灯が、潮風に揺れるカーテン越しにぼんやりと差し込んでいる。 「私はマーヴィン。この店、Empatiaの店長です」 シュウは椅子に深く座ったまま、カップの表面を見つめている。 「ここは単なる喫茶店ではありません。ここは、デジモンと人間の共存を目指した者の拠点なのです」 「…共存、ですか」 「ええ。しかしその一方で、デジモンを道具として扱う者たちもいる」 差し出された写真には、見覚えのある光景が並んでいた。 装置を取り付けられたデジモン…そして、意志を奪われ暴走する個体。 環境学習センターでの一件、蒲田で見た脱獄犯たちの使役個体。 助けられなかったカブテリモン…点と点が、嫌な形で繋がる。 「なるほどFE社か」 シュウの呟きに、マーヴィンは小さく頷いた。 「だからこそ、我々は対抗手段を持つ必要がある」 その視線が、鈴へ向く。 「彼女の力─そして銃型デジヴァイス・D-ブラスターは、その中核になります」 「その彼女ってのは」 シュウから視線を向けられ、怪盗は一歩前に出る。 制服姿のまま、どこか芝居がかった所作で軽く会釈した。 「薛定鈴です。博士の元で、正しいことのために力を使いたい─そう思ったんです」 「世を忍ぶ仮の姿は、かわいい喫茶店のアルバイトなのよ〜」 物陰から、プロットモンがぴょこんと顔を出す。 シュウはしばらく二人を見てから、ゆっくりとコーヒーを口に運んだ。 うっすらとした甘さが、舌にまとわりつく。 「なるほど。真面目なんだな」 口元をわずかに歪ませた鈴は、身を屈めるようにして距離を詰めた。 そして、上目遣いでシュウを楽しく観察するように視線を向ける。 「ま、嘘ですけどね」 「…」 鈴の言葉に、シュウは無言のままカップを置いた。 「悪さをしてたら博士に捕まっちゃって〜」 軽い調子で言うが、その顔には罪悪感の欠片も伝わってこない。 「なぁなぁ。それは本当なのか?」 「さぁどうでしょう。貴方はどう思います?」 ユキアグモンが首を傾げると、鈴は楽しそうに問い返す。 「信じるよ?」 シュウは間を置かずに言った。 鈴の眉が、ほんの僅かに動く。 「だって、鈴ちゃんが俺を助けてくれたのは本当だろ?」 その言葉はあまりにもあっさりしていて、嘘を見抜こうとする気配すらない。 シュウは懐から手錠を取り出すと、指先で軽く回した。 「…そう、ですね」 鈴は一瞬だけ視線を外す。 そのまま、何事もなかったかのように小さく笑った。 少しだけ間の抜けた空気のまま、シュウはコーヒーを置いた。 「あ。俺は、祭後終」 「シュウさん、シュウくん、祭後さん、祭後くん…どれがいいですかね?」 鈴は楽しげに指を折りながら並べてみせる。 頭をかきながら、シュウはしかめっ面になる。 「な〜〜んか忘れてる気がするなぁ」 「なんだっけなぁ」 ユキアグモンも同じ調子で首を傾げた。 「ま、いいや」 あっさりと切り捨てると、シュウは視線だけを少しだけ鋭くする。 「今、俺たちはたぶんFE社と敵対してる」 「"たぶん"ですか」 マーヴィンが静かに問い返す。 「これまで潰してきた連中が、全部これで繋がってた」 「マフィア、ヤクザ、ニセ宗教…色々いたゼ!」 シュウは回収されたスレイブ型デジヴァイスへ視線を向けた。 淡く不安定な光が、まだ内部で揺れている。 「なるほど…だから"たぶん"」 マーヴィンが小さく納得すると、シュウは一度だけ息を吐いた。 「それと…妹がいる。ミヨっていうんだけど」 シュウは言葉を継ぐ前に、ほんの僅かに視線を揺らす。 好奇心旺盛なプロットモンが、鈴の変わりに口を開いた。 「妹ちゃん?」 「今、デジタルワールドにいるらしい」 あまり感情を乗せない声音だった。 「それを教えたデジモンは、FE社の人間に消された。つまり何かあるんだ」 一拍も置かずに続けられたその事実だけが、妙に重く残る。 「それに、デジモンたちにひでーことさせるのもムカつくしな!」 ユキアグモンが拳を握ると、シュウとハイタッチする。 「ふーん。ちゃんと理由がある人なんだ」 軽い調子…けれど、鈴の視線はわずかに上がった。 「…鈴さん」 「なんです?」 「彼らには話しておいてもいいんじゃないですかね」 「別に、いい…ですけど」 砂糖の瓶を拭きながらそう話すマーヴィンから、鈴は少し躊躇いを見せて言葉を詰まらせる。 「この店には、もう一人怪盗(あるばいと)の子がいたんですよ」 「ほへー」 「…いた、とは」 聞いてるのかよくわからない反応のユキアグモンに対し、シュウは切り込んで質問を行う。 鈴は黙ったまま、壁の写真を見つめていた。 そこには、鈴と少しだけ背が高い少女が写っていた。 「あの子は…凛ちゃんは、FE社に復讐をしようとしてたんです」 鈴は兄のことで奔走していた友人のことを思い出す。 いまでも丁寧にまとめられた彼女の銀髪を、脳裏に浮かべることができる 「…そうか。辛いなら話さなくていい」 「ヤロー、許せねぇゼ…!」 いきり立ち、両手をグッと握るユキアグモン。 「別に死んでませんけどね」 鈴は軽く笑う。 「凛ちゃんはケガで入院中です」 「へー。お得意の嘘かい?」 「えー?これはお兄様が勝手にそう思っただけですよぉ?」 「あ、そう呼ぶようにしたんだ」 鈴はシュウを挑発するような笑みを浮かべ、頬をつつく シュウは鈴がなんだか無理しているようで、上手く笑えなかった。 ○05 次の日の夜、シュウと鈴はFE社の搬入口の前に立っていた。 街灯に照らされたコンクリートは、夜の湿気を含んで鈍く光っている。 大型トラック用の鉄製ゲートは半ば開いたまま、内側の白い照明だけが地面を切り取るように照らしていた。 その光の境界を前にして、シュウは昨晩のことを思い出す。 「俺たちにも何か手伝わせてください」 「おおー!オレはやるゼ!」 シュウの答えに、横のユキアグモンも勢いよく身を乗り出す。 「ありがたい。いや…言うと思ってはいましたが」 マーヴィンは肩をすくめて笑っていた。 「実はFE社の地下に、何かが隠されているという噂があるんです」 鈴は一歩前に出て、迷いなくそう言った。 「既に協力者が内部に入り込んでいる。君たちが地下に潜る間、彼らが陽動になるでしょう」 静かに頷いたマーヴィンの言葉は、それだけで十分だった。 「なんだなんだ!?なんかかっけぇぞ!」 「…真面目な話をしてるのよ?」 ユキアグモンの浮かれた声に、プロットモンの呆れた声が重なる。 ─シュウが昨日のことを思い出していると、不意に低い警報音が空気を震わせた。 続けて遠くから響く爆発音、振動が足元から遅れて伝わる。 「ん。始まったみたいですね」 工具箱を持った作業着姿の鈴は、搬入口の暗がりを見据えたまま呟く。 その横顔には、昨晩の軽さはほとんど残っていない。 「ほら、行きますよ。お兄様?」 鈴から袖を軽く引かれる。 「はいはい。生意気盛りな年頃ってやつだな」 シュウは気の抜けた声で返しながら、遅れて認識が追いついてきたような表情でいる。 眠そうな顔のまま、伊達メガネの位置を指で押し上げた。 白い光の中へ、二人は足を踏み入れた。 ─同時刻、FE社上層階の監視室。 壁一面を埋め尽くすモニターが、白い光を絶え間なく瞬かせていた。 数十の映像が切り替わり続ける中、白衣の研究員たちは慌ただしく動き回る。 「上層階で爆発です!」 「警備部隊が対応中!」 怒号と報告が飛び交うその中心で、ただ一人だけ動かない存在があった。 重厚な椅子に深く腰掛けた老人。 背後には、大きな青いエンブレムが掲げられている。 彼は赤く分厚い髭をゆっくりと撫でながら、ただモニターを見ていた。 騒ぎとは無関係な場所にいるかのように静かだったが、その一言は空気を変える。 「86番のカメラ、履歴を映しなさい」 研究員たちの動きが一瞬だけ止まり、すぐに操作へと移る。 映し出されたのは、騒ぎが起きる直前の搬入口。 作業員に紛れた二つの影─青年と少女。 「その映像を拡大してください」 ズームされた映像の中で、二人の動きだけが妙に静かだった。 周囲の慌ただしさから、わずかに切り離されている。 「あっ、この作業員…ID確認を通過していません!」 ざわめきが走る─陽動と侵入は、完全に同期していた。 二人は、騒ぎに便乗してID確認のゲートを素通りしていた。 「パウル博士…なぜ彼らを怪しいと思われたのですか…?」 恐る恐る投げられた問いに、パウルと呼ばれた老人は視線を動かさないまま答える。 「この状況で、あそこまで均質に動ける人間はいない…怪しさしかありません」 感情の起伏はハッキリせず、ただ"異物"を切り分けるための観察だけがある。 「カメラに異常!同一映像のループを検知しました!」 「ハッキングされています!」 遅れて、事態の全体像が浮かび上がる。 研究員が遠隔操作を解除しようとした時、虹色に輝く【チャンネル登録よろしく】という文字とURLがモニターのど真ん中に現れる。 「なっ、なんじゃこりゃあ!?」 強制的に画面が移り変わると、金髪で背の高い女子高生が自らの意味不明な行動を記録した動画が何窓も展開されはじめる。 それはハッキングというより、手の込みすぎたイタズラだった。 「さて。こちらも実験データを盗まれないように手を打たなければ」 「ぐっ…地下の防御を強化します!」 動画に見向きもしないパウルの一声に、職員のざわめきが再び膨らむ。 「リーゼロッテに対応を?」 「それもよろしいでしょう」 すでに結論は出ていると言わんばかりに、パウルはあっさりと告げた。 視線は、再びモニターへ戻る。 その背後には、一人の男が立っていた。 整った顔立ち、無駄のない立ち姿。 胸元には、ワーグナー社と記されたID。 彼は騒ぎを眺めながら、わずかに口元を歪める。 「月並みだが…面白い」 その声は小さく、しかし妙に残った。 空気に溶けるでもなく、誰にも届かないまま、そこに留まるように。 ○06 地下通路を進んでいた鈴が、ふいに足を緩めた。 一定だった足音のリズムが崩れ、空気の質が変わる。 「どうした」 「気付かれましたね」 振り返ることなく答えながら、鈴は作業着の内側に手を入れる。 取り出したのは、小型の銃型端末─Dブラスター。 その動作には迷いがない。 まるで、この展開を最初から織り込み済みだったかのように。 「なら俺に任せろ」 「頼りにしてますよ?」 鈴は軽い調子で話すと、銃を構える。 シュウは何かを飲み込むような間の後、伊達眼鏡の変わりにゴーグルを装着する。 通路の奥から、複数の足音が重なる。 金属と靴底が擦れる音が、一直線にこちらへ向かってくる。 やがて姿を現したのは、数人のFE社戦闘員。 腕には無機質な装置─スレイブ型デジヴァイスが巻き付いていた。 「侵入者だぁっ!」 叫び声が反響し、狭い通路の空気が一瞬で張り詰めた。 逃げ場はない…正面からぶつかるしかない距離だった。 彼らのスレイブ型デジヴァイスが不規則に発光し、複数のデジモンが通路へなだれ込む。 「さ、行こうか 」 シュウが短く言うより先に、デジヴァイス01からユキアグモンが前へ飛び出していた。 「うおおおっ!まとめて来いってやつだな!」 一直線に踏み込み、最前列へそのまま突っ込む。 敵の初撃を避けると、その背中を踏み台にして跳び上がった。 空中で身体をひねり、別の個体の顔面へ蹴りを叩き込む。 着地と同時に爪から冷気を放ち、そのまま数匹を切り裂いた。 「ほらほらどうした!全員まとめて相手してやるゼ!」 「あら、元気ねぇ」 プロットモンが軽い足取りでユキアグモンの横をすり抜け、大柄な敵の懐へ潜り込む。 相手の死角に滑り込むように回り込むと、背中へ勢いよく体当たりする。 バランスを崩したところへ、至近距離から光を叩き込む。 鈍い音とともに一体が沈む。 「はい、おやすみなさいっと」 くるりと回転しながら、背後から伸びてきたFE社戦闘員の腕をひらりとかわす。 すれ違いざまにデジヴァイスへ軽く触れ、噛みつくようにして引き剥がした。 制御を失った個体は、その場で力なく倒れ込んだ。 「無理させられてるだけでしょ?かわいそうに」 ユキアグモンの放った氷が弾け、鋭い音が通路に響いた。 直後、スレイブ型デジヴァイスが内側から破裂し、装着していた男の身体が大きく吹き飛ぶ。 受け身も取れないまま床を滑っていくが、その勢いは不自然に止まった。 ヒールの靴音がひとつ…誰かの足が、その背を軽く踏み止めていた。 「あらら。また会ったわね」 軽やかな声─視線を上げれば、派手な装いの男…男?が一人。 長い睫毛の奥で楽しげに目を細める。 「ワタクシの職場で暴れるなんて、随分いい度胸じゃない?」 鈴の視線が鋭くなる。 「Ms.レア。FE社の研究員…いえ、幹部クラスですね」 即座に銃口が向けられるが、"彼"は気にも留めず肩をすくめた。 「困るのよねぇ。侵入者なんて通されちゃ」 足元へ放たれるその言葉とは裏腹に、声色にはどこか緊張感がない。 視線だけが、ふとシュウへ滑った。 「ねぇ?」 呼びかけるような、試すような声音。 シュウは答えない…ただゴーグルの奥で、わずかに目を細める。 「知り合いなのにご挨拶もないなんて。アナタ、モテないんじゃない?」 一拍置いて、強ばった表情の鈴が吹き出した。 「…なんで笑ったの?」 「そりゃ面白いからですよ?」 空気のズレをそのままに、"彼"は満足げに頷く。 「無粋なオトコには、ワタクシがレクチャーしてあげないとネ」 その瞬間、手に構えたデジヴァイス…デジモンアクセルが淡く光った。 次の瞬間、影が落ちる。 天井近くから降りてきたそれは、床へ到達するよりも早く脚を振り抜いた。 轟音と共にコンクリートが砕け、衝撃が通路を走る。 ユキアグモンとプロットモンは反射的に跳び退き、直撃を避ける。 「ひゃっ。危ないわね…」 砂煙の中から現れたのは、しなやかな体躯を持つ獣人型デジモン─。 【バステモン:完全体】 追撃のように繰り出された蹴りを、ユキアグモンが腕で受ける。 鈍い衝撃に押し返されながらも、壁を利用してぐっと踏みとどまる。 歯を食いしばる。 「いつかのバステモン…!」 その横から、プロットモンの光弾が走る。 だがバステモンは身体をひねるだけで軌道を外し、ほとんど触れさせない。 鈴も間髪入れずに引き金を引くが、弾丸は弾かれ、火花だけが散った。 「ほらお兄様、来ますよ!」 "彼"はその様子を一歩引いた位置から眺めていた。 通路の奥へと、わずかに身体を下げる。 「恋の駆け引き…教えてあ・げ・る」 挑発のようでいて、どこか誘うような言い方だった。 シュウは一度だけ、奥の暗がりへ視線を流す。 「…わかりやすいな」 低く呟き、数歩下がってから背を向けようとする。 「その手に乗るほど、俺は簡単じゃない」 しかし…振り返った時には、鈴はすでに前へ出ていた 「置いてきますよ」 プロットモンも軽やかに後を追い、ユキアグモンも跳び跳ねた。 「おー!オレも行くぜぇ!」 「ちょっ、おい!」 取り残された形になったシュウは、小さく舌打ちした。 「…くそ」 結局、その背中もまた、同じ方向へと向かっていく。 ○07 レアを援護すべく現れる戦闘員たちを退けながら、即席怪盗団はその背を追って地下通路を進んでいた。 一定の距離を保ったまま、レアは軽やかに後退し続ける。 逃げているようで、逃がしているようでもある動きだった。 鈴は無言のまま前を見据えている。 その足取りにほんのわずかな速さが混じっていることに、後ろから追いかけるシュウだけが気付いていた。 やがて通路の先に、防火扉が並ぶ区画が見えてくる。 厚い金属扉が等間隔に並び、空気がわずかに重く淀んでいた。 「追い詰めましたよ」 「ふぅん。追い詰めたと思ってるよりワケ?」 鈴が応じるより先に、空気が変わった。 鼻を突く腐臭と、焼けた鉄のような匂いが混ざる。 天井がじわりと滲み、輪郭を持たないまま膨れ上がる。 やがて、天井のコンクリートが溶けると、べちゃっとなにか粘ついた質量が落下してくる。 崩れた肉塊のような何かの全体像が、遅れて露わになる。 【レアモン:成熟期】 ユキアグモンが鼻を押さえ、一歩だけ下がる。 「このニオイ…前のヤツと似てる気がするゼ」 「え、なにあれ…ただのレアモンじゃない?」 プロットモンが顔をしかめる。 「つまり、ただのレアモンじゃないってことさ」 シュウは声をわずかに低くしつつも、乾いた笑みを浮かべる。 その間にも、レアモンは質量を広げ続ける。 通路を埋めるように、じわじわと迫ってきた。 そのとき─シュウたちの背後から静かな駆動音が、床を這うように近づいてくる。 規則的で、感情のない音。 視界の端に白いフレームが滑り込んだレアは、そちらへ視線を送るとわずかに目を細める。 「…あら、そっちが来るのね」 歓迎でも、拒絶でもなく、予定にない要素を認める声だった。 「来たぜ。大変なヤツが」 軽く言っているが、シュウの視線はすでに戦場を測っていた。 前方ではレアモンとバステモンが、通路を完全に塞ぐ構図となっている。 その様子を一瞥した鈴は、すぐに視線を奥へ向けた─防火扉の向こう側へ。 「なら、突破しましょう。時間をかける意味がないです」 銃を握る指先に、わずかな力がこもる。 シュウはその変化を横目で捉え、小さく息を吐いた。 それまでの軽さとは違う、目的に引っ張られた判断だと思った。 「…やはり貴方でしたか」 通路の奥、段差の手前に電動車椅子が静かに止まっている。 金属製の黒いフレームが浮かび上がり、その上の少女の輪郭が遅れて像を結ぶ。 色素の薄い青髪と、血の気のない肌…彼女は驚きもなくシュウを見ていた。 シュウはわずかに目を細める。 「やっぱり君か、リズ」 「その呼び方はやめなさいと言ったはずですよ」 温度のない声が、ほんの僅かだけ硬くなる。 レアが楽しげに口を挟むが、リーゼロッテは視線すら向けない。 「あら。一緒にワタクシの恋愛教室を受けたいワケ?」 リーゼロッテの膝の上で、スレイブ型デジヴァイスが淡く光る。 「前回は随分と手間をかけさせていただきましたが…今回はもう少し効率的に進めましょう」 わずかに間を置き、静かに言い切る。 「祭後終。貴方はここで排除します」 その言葉の裏に、過去の光景が僅かに過った。 夜の灯り、柔らかく笑う顔、自分には向けられなかった表情─奥歯が、わずかに噛み締められる。 「ずいぶん嫌われてるわね」 「お兄様って明らかに嫌われそうなタイプだからね」 プロットモンが小さく呟くと、鈴が軽く返す。 「やだも〜。器も小さければ身長も小さいわけね〜?」 「はい本当に」 レアは手を頬に添えながら腰をくねらせるが、リーゼロッテは視線を外さないまま即答する。 そのやり取りにシュウは真顔で割り込んだ。 「俺は平均身長だ」 「ンなことより!どーすんだゼ、シュウ!」 ユキアグモンの声に、シュウは視線を逸らさないまま答えた。 「これから仲良くなればいいさ」 軽口と同時に、デジヴァイス01が応じるように光を放つ。 「じゃ、私も」 鈴も続いてD-ブラスターを光らせ、白と紫の光が通路に満ちる。 「ユキアグモン進化─ストライクドラモン!」 「プロットモン進化─チェシャモン!」 進化した二体が横に並び、前方へ踏み出す。 その先でレアモンがさらに質量を膨らませ、通路を塞ごうとしていた。 リーゼロッテはその様子を一瞥し、わずかに視線を落とす。 「…勝手に動かないでください。制御が乱れます」 命令とも独り言ともつかない声音。 だがレアモンは応じるように蠢き、空気をさらに濁らせた。 前方は腐敗した質量、後方は静かな観察者…逃げ場は、もうない。 ○08 鈴は周囲へ視線を走らせながら、短く指示を飛ばす。 応じたチェシャモンが一気に距離を詰め、レアモンへ鋭い爪を振り下ろした。 しかし、その一撃は届かない。 見えない壁に叩きつけられたように、チェシャモンの身体が弾き返される。 「ヤツの厄介な所は空間を固めて、自分の周囲に防御を行う所だ」 シュウが低く呟く。 「周知が早くて助かります…ですが、あの時と同じ手は使えませんよね?」 リーゼロッテは静かに応じ、レアモンが口を開く。 【ヤミブラスト】 ボバッと吐き出された闇の弾が炸裂する。 チェシャモンは身をひねり、それを紙一重で回避した。 その直後、チェシャモンの顔に影が落ちる。 「ほら逃がさないにゃ!」 上空からバステモンが降り、鋭い脚を振り下ろす。 だが、踏み込んだはずの一撃は空を切った。 「─あにゃっ!?」 勢いを殺しきれずに落ちかけた体を、バステモンは猫のように捻って着地した。 「やっぱりな」 シュウの視線が細まり、デジヴァイス01の入力画面に指が走る。 前回と今の挙動が重なり、一つの像として結びつく。 (一拍遅れて物体を抜ける透化能力…そして) 【透過が解けた瞬間だけ、出力が上がる】 デジヴァイス01に表示された解析結果─それは、能力に適合した必殺技・フェイズクローの存在だった。 「あ。その顔、バレちゃいました?」 鈴のいたずらっぽい声に、シュウはわずかに口元を歪める。 「壁を張らせろ」 「なるほど…いいでしょう」 その返答がシュウの答えだと確信した鈴は、一瞬だけ目を細めて微笑み返した。 デジヴァイス01から指示を乗せた赤外線が放たれ、チェシャモンに命中する。 紫猫はわずかに軌道をずらしながら、それでも正面へ踏み込む。 再び、レアモンの周囲は黒い霧を歪ませて壁のように硬質化させた。 シュウは指を鳴らしながら、口元をはっきりと歪ませた。 「これなら待つより早い」 弾かれる─チェシャモンの身体が大きく吹き飛ばされ、しかし即座に着地した。 「…させないわ!」 レアが即座に声を飛ばす。 応じたバステモンが割り込み、チェシャモンへ飛びかかった。 だがその軌道に、横合いから蒼影が突き刺さる。 【ストライクファング】 全身に蒼炎を纏ったストライクドラモンがぐわわっと脇腹から体当たりを叩き込み、バステモンの突進を受け止める。 衝突音が弾け、二体の足が床を削りながら滑った。 「ぐぅ!こいつ…!」 「邪魔させるかよォ!」 その一瞬でチェシャモンの輪郭が揺らぐ。 淡く透けた身体が、何の抵抗もなくやみのころもとレアモンを通過した。 チェシャモンはバリアの内側、逃げ場のない背後を取った。 「リズ、君は自分たちで作った壁に閉じ込められたって事さ!」 「何を…?」 透化が解ける─瞬間、チェシャモンの爪が光を帯びた。 紫光をうならせる一点に、逆に力が集中する。 【フェイズクロー】 透化解除と同時に振るわれた爪が、レアモンの身体を深く切り裂いた。 「グォォォッ!」 レアモンの咆哮が空間を震わせ、裂傷と同時に走った衝撃が集中を乱す。 やみのころもが霧散し、守りが消える。 「生意気ニャのよ!」 「それを待ってたんだよぉ!」 バステモンが鋭い蹴りを放つが、ストライクドラモンも脚を振り上げて受け止める。 力を拮抗させ、衝撃を殺さず、そのまま踏み台にした。 そのまま跳躍・反転し、空中で一瞬だけ静止─次の瞬間、右脚に青い炎が灯った。 「ストライクドラモンッ!」 【ドラモンクロー】 加速した飛び蹴りが、一直線にレアモンの胸へ叩き込まれる。 衝突から遅れて鈍い音が響く。 レアモンの巨体が大きくのけぞり、地を踏み外す。 遅れて吹き荒れる衝撃の余波に、リーゼロッテは顔を庇った。 「らしくないんじゃないか?」 「黙りなさい」 叩きつけるような声とともに、手すりを強く打つ。 彼女の怒りに応じたレアモンが咆哮を上げ、再びヤミブラストが放たれた。 「あ〜ん、加勢するわよ」 レアの指示にバステモンが両手を掲げ、自身のエネルギーを収束させる。 素早く放たれた弾・メガシャドウレゾルブが、吸い寄せられるように重なる。 一瞬の静止から、二つの闇が爆ぜた。 融合した闇が砕け、無数の破片となって周囲へ降り注ぐ。 連鎖する爆発が床を砕き、ほとんど無差別に壁を抉りまくる。 「ぐっ…!」 ストライクドラモンが爆風に呑まれ、吹き飛ばされる。 チェシャモンはその身のこなしに透化の繰り返しを合わせ、紙一重でそれをすり抜けた。 轟音が収まり、粉塵が漂う中で壁面の一角が崩れ落ちていた。 シュウはゴーグル越しに視界を固定し、その奥へと目を向ける。 暗い空間に整然と並ぶ棚には、分厚いファイルが図書館のように連なっていた。 眉間に指を当て、思考を引き戻す。 「資料室─そりゃそうか。デジモンを前に電子媒体は悪手だモンなぁ…」 鈴がわずかに眉を寄せるが、シュウは独り言を続ける。 「お兄様、何を…」 「…けど、正直出来すぎてるな」 配置、壊れ方、露出の仕方…視線が、空間全体をなぞる。 そんはなシュウを見たレアの口元が、わずかに緩んだ。 「ぼーっとしてていいのかしらぁ」 バステモンが腰を落とし、しなやかな四肢に再び力を溜める。 その視線を正面から受け止めたストライクドラモンも、間を置かずに体勢を起こすと次の瞬間には地面を蹴り砕いていた。 「言われなくっても─ッ!」 踏み込みと同時に爆ぜた衝撃が、崩れかけたコンクリートをさらに抉る。 一直線に伸びた軌道の先で、バステモンの影と正面から噛み合った。 激突─振り抜かれた爪同士がぶつかり合い、噛み合ったまま押し返し合う。 接触点から弾けたエネルギーが火花のように散り、きしむように互いの体が震えた。 その衝突を横目に、シュウの視線だけが戦場の奥へと滑る。 「鈴ちゃん、チェシャモン!アレが目的のモノのはずだ!」 崩れた壁の向こう、露出した資料室。 整然と並ぶファイルの列を捉えたまま、視線は一度も戻らない。 「チェシャモン、行こう!」 「りょーかい!」 呼応は短く、迷いもない。 二つの影が同時に踏み出し、戦線の脇をすり抜けるように加速した。 「やはり…レアモン!」 リーゼロッテの声が鋭く空気を裂く。 青黒く膨れ上がった肉塊が口を開き、内側で圧縮されたエネルギーが歪んだ光となって吐き出された。 瞬間─ストライクドラモンとバステモンがまったく同じタイミングで踏み込んだ。 それぞれの爪から連続で繰り出されたエネルギー波が軌跡を描き、真正面から衝突する。 次の瞬間には耐えきれずに弾け、連鎖する爆発が周囲の空間を乱した。 生まれた衝撃の余波が軌道を押し流し、レアモンの放った弾はわずかに逸れて壁面へと叩きつけられる。 遅れて炸裂した闇がコンクリートを抉り、そこに大きな穴を開けた。 「あぁん、邪魔よ!だから小娘ってやーね!」 甲高い声とともに、レアが身体をくねらせる。 その過剰な仕草に、リーゼロッテの眉間がわずかに歪んだ。 鈴とチェシャモンが穴へと近づいたその時、天井から鈍い音が響いた。 天井から粉塵が落ち、鈴が一瞬だけ足を止める。 「…?」 ズドンッという凄まじい衝撃が上から叩きつけられた。 天井が"内側へ"大きく歪み、コンクリートが軋む。 シュウが、鈴が、レアが、リーゼロッテが─視線を上に向ける。 「崩れ…いや、押されてる…!」 (ちっ。そろそろ誰か来やがると思ってたわよ…!) レアは舌打ちすると、今後に備えてバステモンのデータをデジヴァイスで測る。 直後、爆裂音が空間そのものを引き裂いた。 天井が耐えきれずに弾け飛び、砕けたコンクリートが雨のように降り注ぐ。 その中心を貫くように、ひとつの影が真っ直ぐに着地していた。 叩きつけられた衝撃が床を割り、空気が押し潰される。 巻き上がった土煙の中、その輪郭だけが異様なほど鮮明に浮かび上がっていた。 黄金の装甲、圧縮された闘気、研ぎ澄まされた殺意。 【ウォーグレイモン:究極体】 ○09 シュウのデジヴァイス01が、激しく警告音を鳴らす。 解析表示が追いつかないまま流れ続け、ストライクドラモンの足がわずかに後ろへ滑った。 「な、なんなんだゼ…この気迫は…!」 "強い"では足りない。 視界に捉えただけで、本能が距離を取ろうとする。 「─ようやく見つけた」 低く落とされた声が、煙の向こうから届く。 竜戦士の肩に、ひとりの女が腰掛けていた。 揺れる青髪、リーゼロッテとは別方向に冷たく沈んだ瞳…その瞬間、戦場から音が消えた。 「ああ…!よりによって、朽業夭下じゃないの…!」 レアの小声からは軽口も余裕も消え失せ、視線は明確な警戒と焦燥に染まっていた。 計算が崩れる…ここまでは、自分が手の内で転がしていた。 バステモンも出力を抑えていたからこそ、ストライクドラモン程度の相手も対応できていた。 だが─これでは"加減する側から押し潰される側"に回りかねない。 ウォーグレイモンと夭下…その二つの存在を視界に収めた瞬間、別の場所でも何かが断ち切られていた。 鈴は、その動きを止めて大きく目を見開いていた。 呼吸が浅くなり、胸の奥が強く鼓動を打ち、視線だけが固定される。 力の抜けた手から、工具箱が鈍い音を立てて転がった。 「あいつが…あいつが…凛ちゃんを…!」 落ちていく翼。飛び散る鮮血。動かない身体─過去の断片が、順序もなく視界に差し込まれる。 現実と記憶の境界が曖昧になる中で、鈴の手だけが確かな動きを取った。 鈴のつま先が工具箱を弾き上げるように蹴り抜いた。 蓋がひしゃげるように開き、中身が露わになる。 シュウはそれを、ただ自分たちが作業員に見せかけるための道具だと思っていた。 だが違う…中に収められていたのは、作業用の工具ではなかった。 「おいっ!やめろ!」 何かわからないままシュウの声が反射的に飛ぶ─だが制止は届かない。 「倒します!」 鈴は振り返らない。 その視線は夭下へと縫い付けられ、他のすべてを切り捨てていた。 足元で蹴り開けられた工具箱に詰め込まれていたのは、作業用の器具ではない。 D-ブラスター用のデジモンカードが、異様な量で重なり合っていた。 束になったカードがまとめて浮き上がり、そのまま吸い込まれるようにD-ブラスターへと流れ込んでいく。 認識も、選別も、間に合わないまま、全てが強制的にスキャンされる。 処理限界を超えたエネルギーが、一気に流入した。 「ゔああああ゙あ゙っ!!」 D-ブラスターから溢れたエネルギーが鈴に痛みを走らせ、その喉から悲鳴が漏れる。 震える指がトリガーに食い込み、そのまま握り潰すように引き絞られる。 D-ブラスターの銃口から解放された光が、広がった。 出現したデジモンたちの幻影が壁面を這い、床を埋め、天井を隠す。 現実を塗り潰すかのように、半実体の存在が大きな廊下を覆い尽くした。 振り下ろされた鈴の腕を合図に、無数の光が同時に放たれた。 直線や面でもなく、空間ごと叩き潰す質量の奔流がウォーグレイモンへと殺到する。 「ちょ、ちょっとコレは…!」 レアの声が、明らかに一拍遅れる。 予想外の連発に、余裕の色がほとんど剥がれていた。 バステモンが反射的に前へ出ようとし、レアモンも続く。 「─要りません」 短い一言で、場の動きが止まる。 夭下は視線を揺らさず、ただ正面を見据えたまま、その場に立っている。 熱・光線・風・闇…放たれる数々のエネルギーが全方位から廊下を呑み込み、視界を焼き潰す。 空気が引き裂かれてもなお、半実体の群れは止まらない。 同時に、幻影の突撃班が次々と竜戦士を押し潰すように自らを叩き込んでいく。 そして攻撃の最後尾を、ひとつの影が無理やり押し出されるように追っていた。 それは、本来の輪郭が崩れかけたチェシャモンだった。 流し込まれたパワーアップ効果のカードが許容量を超え、身体の内側で制御不能のまま膨張していた。 骨格(フレーム)か、肉(データ)か…その境界すら曖昧なまま、全身が悲鳴を上げる。 表面を走るノイズが像を歪ませ、存在そのものが一瞬ごとに揺らいだ。 収まりきらないエネルギーが一点に偏り、爪の形を歪めながら肥大する。 小柄なチェシャモンの全身よりも大きなそれは、もはや刃というより"塊"に近かった。 「ぐううう──っ!!」 押し潰されそうな声を漏らしながら、それでも前へ出る。 暴走した力に身体を引っ張られるようにして、ウォーグレイモンの影へと突っ込んだ。 振りかざされた爪には、制御も精度もない…ただ質量と出力だけで叩き潰す一撃。 それは攻撃というより、現実を塗り替えようと必死に放たれる暴力だった。 次の瞬間、炎が内側から弾けた。 押し破るように黄金の影が飛び出す─爆炎を踏み砕く勢いで、ウォーグレイモンが前へと踏み込んだ。 迫るチェシャモンの爪に、ウォーグレイモンのドラモンキラーが突き込まれる。 紫色を伴って肥大した爪が、キィンと軽い音を立てて根元からへし折られた。 「貴様には過ぎた力だ」 流れるように拳の一撃が振り下ろされ、直撃。 チェシャモンの身体が弾き落とされ、地面へと叩きつけられる。 そのまま跳ね上がり、天井へ激突─鈍い音とともにコンクリートへとめり込んだ。 「粒子化ワーム、No2─!」 鈴は夭下の手元で光を失ったカードに気付き、息を呑む。 「そう。貴女のやったことは、全部無駄」 夭下の低く、淡々とした声…それは、カードの力を無効化するカードだった。 爆炎、幻影、光─空間を満たしていたエネルギーは、届く前から解けていた。 チェシャモン…いや、プロットモンの体は天井にめり込んだまま動かず、崩れた破片だけが乾いた音を立てて床へと落ち続ける。 鈴はD-ブラスターを握りしめたまま、息を詰めていた。 震える指に力だけが残り、引き金を引いた感触がまだ手の奥に焼き付いている。 あれだけの力を叩き込んだ、凛のために全部を使った…それでも、届かない。 「なんで…」 漏れた声は、驚くほど軽かった。 視界の奥に滲む"あの時"─焼き付いたままの赤が、瞼の裏で何度も繰り返される。 見たくない…空いた手で目を覆う。 だがそれが無意味なことくらい、理解していた。 膝から力が抜け、そのまま床に手をつく。 言葉にならない何かが喉の奥で潰れ、吐き出されることもなく沈んでいく。 どうしたらという問いだけが、内側で鈍く残った。 しかし、そのすぐ傍でシュウは別のもの─レアの言葉に浮かんだ焦りを見ていた。 (…勝てるのに、どうして) 先程までの軽口とは明らかに違う…リーゼロッテも唖然としているが、自身の敗北を意識した表情ではなかった。 シュウは眉間を指で叩き、小さく息を吐く。 (何かまたが噛み合ってない…なら、やりようはある) そして、シュウは視線を前へ戻した。 ○10 ウォーグレイモンが、重い音を刻みながらゆっくりと歩み寄る。 圧力だけで空間が沈み込むような錯覚が広がり、誰も動けない。 「最早、抵抗する気力すらないか」 その言葉が落ちた直後、何かが飛来した。 一直線に叩き込まれたソレがウォーグレイモンの頭部に直撃した瞬間、爆ぜるように電撃が走った。 閃光と轟音が、張り詰めていた静寂を無理やり引き裂く。 「なに…?」 夭下は咄嗟に顔を庇う。 煙の向こう、間の抜けた音を立てて転がった影がひとつ。 金色に光る鳥型の完全体デジモン・シンドゥーラモンが、床に倒れ込んでいた。 「や、やっちゃったワ…」 「うおーっ!オバチャン!」 およよ…と場違いな声を発する彼女を見たストライクドラモンは、顔がぱっと明るくなる。 「シンドゥーラモン…ってことは…!」 シュウが反射的に振り向いたその瞬間、視界いっぱいに影が迫った。 衝撃─すみれから勢いよく叩き込まれた蹴りで、思考が一瞬白く飛ぶ。 「お前コラ、どこ行ってたんじゃ!」 壁へと叩き付けられ、そのまま胸ぐらを掴み上げられる。 「ちょっ、待っ…あーっ、死ぬ!死ぬってこれ!」 「ほんっっっとに人のことを心配させて!」 「なにこれ」 「いつもこんな感じだゼ」 呆気に取られるレアに、ストライクドラモンは慣れた様子で気にもしない。 「貴方は人の気持ちとか考えたことあるの!?そもそも…」 「あ」 不意に漏れた一音で、すみれの動きが止まる。 「はい祭後くんどうぞ。言い訳は思い付いたかしら?」 「ずっとなにか忘れてる気がしてたんだよ〜!これ姉さんの事だった!」 ムスッとしたすみれに対し、シュウは超今風な満面の笑み。 場違いなほど軽いその表情に、すみれの指先がわずかに強張る。 「…そう」 力が抜ける。 掴んでいた手が、ゆっくりと緩む。 「私、一日待ってたんだけど」 小さく、わずかに霞んだ声色はその場の誰よりも重かった。 一瞬だけシュウの表情が揺れ、言葉を探すように視線が泳ぐ。 その間を切り裂くように、衝撃とシンドゥーラモンの絶叫が走った。 「ほあーっ!すみれーっ!」 ハッとしたすみれは、シュウの襟から手を離す。 「─後で説教するからね!」 指を指し、そう告げながら前に進み出る。 すみれは黒髪を揺らすほどの勢いで懐からデジヴァイスを引き抜き、力を込めた。 ウォーグレイモンの爪が、空気ごと抉る勢いで振り下ろされる。 しかし、シンドゥーラモンはその直撃コースから気味の悪い挙動でズレてみせる。 まるで往年のギャグアニメかのようにカクつき、それでいて嫌に滑かだ。 「こんなに雑なラヴコールじゃオバチャン堕ちないワよ!あっこの…若い頃はこんなの余裕で避けてみせたのに!もしかしてオバチャン新しい恋かしら!?こんなにガツガツ迫ってくるコって何年振りかしらね…確かに愛ってのは少し痛い目を見るくらいが丁度いいって思う時もあるのよネ!すみれは真面目過ぎるけど、オバチャンみたいにもっと恋愛してみたらどう?!」 振り抜かれた爪が床を砕いてもなお、シンドゥーラモンは喋るのをやめない。 横・後ろ・上─軌道の外へ滑り続ける。 ウォーグレイモンの爪が追う─だが次の瞬間、シンドゥーラモンは四肢を鎧の内側へと引き込む。 完全な球体へと変形したシンドゥーラモンは、そのまま真正面から振り下ろされた爪を受ける。 ガキッという甲高い衝突音…火花が散り、球体が弾かれる。 わずかに眉をひそめたウォーグレイモンの声が、低く落ちた。 「面倒な…」 弾かれた勢いのまま、シンドゥーラモンが地を滑る。 一度、二度と跳ね、そのまま円を描くように軌道を変える。 周囲を旋回し始めた黄金の球体は、回転を重ねるごとに速度を増していく。 残像が幾重にも重なり、実体の位置を掻き消す。 振るわれた爪が、空を裂く─捉えたはずの影が、すり抜ける。 「おほほほほほ!捕まえてごらんなさ〜い!」 その様子を見上げたすみれが、緊迫した空気の中で騒ぎ続ける相棒に向かい、半ば呆れたように声を張り上げた。 「あ〜もう!あなたはいつも…ていうかそんな長生きしてたっけ!?」 返答は、回転の中から飛んできた。 「今ヨ!」 「わかってる!」 間を置かず、すみれが噛みつくように応じる。 デジヴァイスの光が強くなり、旋回する影へと流れ込む。 だがその瞬間、軌道がわずかに乱れた。 球体が足元の瓦礫を弾き、バランスを崩したまま跳ね上がってしまった。 そのまま天井へボゴッと鈍い衝突音を立ててめりこんだ。 回転が止まりぐらりと傾く球体は、完全に勢いを失い床へと転がる。 やがて鎧がわずかに開き、目を回したシンドゥーラモンが顔を覗かせた。 それを見たストライクドラモンが、なぜか妙に熱のこもった声で叫ぶ。 「いいずっこけっぷりだゼ!」 すぐ横で、バステモンが短く鳴いた。 「あニャ」 さらに遅れて、レアモンから間の抜けた声が転がる。 「ほげ」 張り詰めていた空気が、わずかに緩む。 「大人しくしていれば、痛い目を見ずに済んだものを」 低く落ちた声とともに、ウォーグレイモンが地面を踏み締める。 重い音が床を鳴らし、空間そのものが押し沈められる。 だが─その視界から標的の姿は消えていた。 わずかな空白…次の瞬間、背後に気配が割り込む。 「…!」 ハッと素早く、ウォーグレイモンは振り向く。 しかしその動作は、ほんのわずかに遅れていた。 【よきせぬいちげき】 直後、見えない打撃が連続して叩き込まれる。 それはただの一撃ではない…時間差で解放された衝撃が、全身を内側から揺らした。 装甲が軋み、わずかに上体がのけぞる。 その死角、背後にシンドゥーラモンが姿を現した。 「これが、恋の駆け引きヨ」 「…作戦通り!」 すみれは咄嗟に拳を小さく握った。 その横で、シュウがわずかに眉をひそめる。 「ホントかよ」 間を置かず、一人と一匹は前へ出る。 シンドゥーラモンが軌道を切り裂くように飛び、すみれがそれに合わせて位置を取る。 意図的に戦線を押し上げ、ウォーグレイモンの意識を前方へ引き寄せる。 「そんなことより…あまり持たないわよ!早く何か考えて!」 その様子を、少し離れた位置からリーゼロッテが見下ろしていた。 「貴方たちは─そうやって、勢いのまま愚かに生きているのですね……」 それは苛立ちが一周し、かえって冷えたような声音に戻っていた。 前線では、シンドゥーラモンがなおも奇怪な軌道で動き続けていた。 爪が振るわれるが、紙一重で外す。 「オバチャン死んじゃうワ!これ無理無理!」 悲鳴めいた声とは裏腹に、その回避は一切の乱れを見せない。 夭下がわずかに視線を動かすと、ウォーグレイモンも視線を静かに収束させる。 「油断しないで。こいつら、悪ふざけしてるようで侮れないわ」 淡々とした物言いだが、それだけで停滞しかけていた戦場の空気が切り替わる。 「言われなくてもわかってます」 「ワタクシもお手伝いしますわ」 二人の返答と同時に、バステモンとレアモンが踏み込んだ。 振り抜かれる爪、レアモンの口腔から放たれる闇弾。 それに対抗するようにストライクドラモンは拳に炎を纏った。 異なる軌道と速度を持つ攻撃が、広い地下空間を一気に埋め尽くしていく。 シュウは視線だけを戦場を走らせる─速いもの・重いもの・離れるもの・近づくもの。 それぞれの流れが頭の中で分解され、組み直されていく。 (方や速く、方や重い…やはり正面からやり合う相手じゃない) ストライクドラモンの拳が、レアモンへと叩き込まれる。 鈍い感触─受け止めたのは、障壁ではない。 ぐずり、とストライクドラモンの青い拳が沈む。 バリアを捨てたレアモンは、そのまま自らの肉体で衝撃を呑み込んでいた。 「元よりこの程度、意識して受ければダメージにはなりません」 リーゼロッテの言葉通り、レアモンは粘つく体表を歪ませて衝撃を拡散する。 直後、ストライクドラモンは即座に間合いを切った。 踏み込みの反動を殺し、そのまま後方へ跳ぶ。 (次が来るゼ…!) ストライクドラモンの予測通り、空間が歪む。 バステモンの放った闇のエネルギー弾が、わずかに遅れて同じ軌道へと叩き込まれた。 それは、先ほどまでストライクドラモンがいた地点を、正確になぞるように。 ストライクドラモンの視界をゴーグル越しに見たシュウの視線が細まる。 (遅れた─?) ほんの一瞬の間…だが、それは偶然にしては整いすぎている。 自分の眉間を親指で叩くと、思考が一段と深く沈む。 バステモンの間合いで、取りこぼしが出るはずがない。 あの距離、あの踏み込み─本来なら、追撃は完全に重なる。 だが、そうはならなかった。 爆発音、衝突音、咆哮…連続するはずのリズムの中に、わずかに"外れた音"が混じる。 ほんの僅かな遅れだが、それが二度、三度と繰り返される。 つまり偶然ではない─噛み合うはずの連携が、意図的に外されている。 シュウの脳裏に、先程の爆発がよぎる。 レアは焦ったことなんてもいかのように、いつもの軽薄そうな笑みを浮かべている。 だがその奥、ほんのわずかに力の入り方が違うように思えた。 攻めているようで、こちらを崩せる場面で手を緩めている。 シュウは戦場の流れをなぞり、確信が浮き上がった。 (そうか─あいつ、勝つ気がないんだ) ○11 散り散りになったカードの上に、鈴が崩れるように座り込んでいた。 指先がその一枚に触れ、乾いた音を立てる。 鈴は顔も上げられないまま、掠れた声による問いを投げる。 「…諦めないんですね」 「俺は粘着質だからな」 その返答は短い。軽口の形をしているが、そこに揺らぎはない。 「私、敵討ちのために来たんですよ。これでも義理堅いんで…ふふ」 鈴は笑おうとするが、崩れて吐息になる。 「でも、何もできなかった…あはは。私、馬鹿ですね」 散らばったカードの中で、その身体だけが現実の重さを持っている。 震える指が、倒れたまま動かないチェシャモンに触れる。 シュウはその様子を、何も言わずに見ている。 脳裏に過るのは、伸ばした手が届かなかった記憶。 振り切られるように遠ざかった友の背中。 それは夜空に焼き付いた光の残像のように、今も消えない。 ほんの一瞬、思考が過去の記憶れ傾く。 親指で眉間を軽く叩いて意識的に切り離すと、深呼吸した。 「…俺は、突っ込んで怒られてばっかりだ」 ぽつりと零したあと、視線をわずかに横へ流す。 すみれがシンドゥーラモンに振り回されて酷い顔をしている。 ああいう顔、もう何度見たか分からない。 「バカみたいに焦って、一人で勝手に抱え込んでいてさ…ちょっと似てるかもな。鈴ちゃんと」 「そんなこと…」 否定は弱い。 顔を上げないまま、鈴はプロットモンを抱き寄せる腕に力を込める。 「でもさ、それじゃ届かないのは…もう分かっただろ?」 シュウは一歩踏み出し、足元に転がっていたD-ブラスターを拾い上げる。 「その子にはまだ会えるんだろ?」 その顔は、相変わらず寝起きみたいな表情だった。 しかし、声は柔らかくも力強い。 「なら、帰るために戦うんだ」 そのとき、不意に間の抜けた声が割り込む。 「いってて…んもー、痛いことさせないでよ」 プロットモンが顔をぺたぺたと触りながら身を起こし、そのまま鈴を見上げた。 抱き締めていた腕がわずかに揺れる。 「あんたには、うちがいるじゃない」 生意気な顔で軽く笑う。 「一人で行くなら止めるし、一緒に行くなら、最後まで付き合うよ〜」 「はは…鈴ちゃんも怒られたな」 シュウが小さく肩をすくめる間に、プロットモンはするりと腕を抜けて鈴の隣に立つ。 「うちには鈴を巻き込んだセキニンもあるしね」 「責任…?」 「こっちのはなし〜」 軽く跳ねるその動きが、まだ戦えることを示していた。 シュウはD-ブラスターから埃を払うと、グリップを向けて鈴へまっすぐ差し出した。 苦笑いだが、その視線は逸らさない。 「だから一緒に帰ろう。鈴ちゃん」 「まったく…みんな欲張りですね」 「鈴ちゃんはそれなりで満足するのか?」 「ふふっ。そんな訳ないでしょう?」 D-ブラスターを受け取った鈴の声は、先程よりもはっきりとしていた。 その時、鈴の足元に散らばっていたカードがわずかに震えた。 一枚…また一枚と引き寄せられるように浮かび上がり、他のカードを飲み込むように重なっていく。 それは絵柄を大きく変え、見たことのない一枚へと融合した。 鈴は迷わずそれを拾い上げ、そのままD-ブラスターへと装填する。 低く鳴る待機音に鼓舞されるかのように、ゆっくりと立ち上がる。 「…帰ろう」 小さく呟き、そのまま引き金を引く。 「プロットモン超進化─!」 放たれた光が、旋回を繰り返してからプロットへと突き刺さる。 紫に膨張したエネルギーが、今度は澄んだ青へと塗り替えられていく。 光が卵のように閉じた殻を形成し、その表面にひびが走る。 ─そして、砕けた。 内側から弾けた光の中に現れたのは、金髪と青いドレスの少女…一見誰もが見たことのある童話の主人公に酷似していた。 だが、球体関節や隠れた顔から、この姿が歪んだ話の断片が形となった姿だと理解できる。 しかし、その声はやわらかくも力強い。 そして彼女は、どこからともなく飛来した大剣を当然のように掴み取る。 「─アリスモン!」 振り抜いた剣の刃が、重い音とともに床を掠めた。 「ほう…」 ウォーグレイモンの視線が、わずかに動く。 だがその隙を狙うように、シンドゥーラモンが再び飛び込んだ。 しかし、振り抜かれた爪が金の弾丸を弾き返してみせた。 「あら〜!若いっていいわネ〜〜!」 「うおおおっ!凄…ぐえっ!」 ストライクドラモンは楽しそうに騒ぎだすが、ゴロゴロと転がってきたシンドゥーラモンに激突された。 「アリスモン…」 「こりゃすげぇイメチェンだな」 鈴が反射的に感嘆の声を漏らし、シュウはゴーグル越新たな存在を捉えていた。 そして、ウォーグレイモンの踏み込みがドンッと空気を裂く。 次の瞬間には間合いが消え、振り抜かれたドラモンキラーが一直線にアリスモンの首元へと迫っていた。 速く、重く、正確だ。 進化したはずの身体でも、そのすべてに追いつけていない。 アリスモンは後ろに倒れこむよう、咄嗟に大剣を引き上げる。 受けるしかない─そう判断した、その瞬間だった。 ドラモンキラーの刃は確かに軌道を捉えていた…だが、その切っ先は想定外にズレる。 空を裂いた一撃が、アリスモンの頬先を掠めて通り過ぎた。 「避けた…!?」 思わず鈴の声が漏れる。 ウォーグレイモンは一瞬だけ視線を落とし、次の踏み込みへと繋げる。 「まだその身体に馴れているわけではあるまい」 再び振るわれる一撃…今度こそ確実に捉えたはずの軌道。 アリスモンの足元に、わずかな歪みが走る─床の輪郭が揺れ、距離感が一瞬だけ狂う。 だがこの数センチは、戦いにおいて致命的なズレ。 大剣と爪が擦れ合い、火花だけを散らしてすり抜けた。 わずかな静寂…背後で夭下の瞳が細まった事を認識したウォーグレイモンの動きが、様子を見るように止まる。 「…なるほど。運が良い訳ではないようね」 低く、興味を帯びた声。 「面白い力(おもちゃ)…当たっているはずの結果が、外れている」 「空気か、空間か…いや、因果か?確かなズレを感じる」 夭下は淡々と告げ、ウォーグレイモンも静かに返す。 その言葉に、鈴の呼吸が一拍遅れて引っかかる。 「…今の」 視線をアリスモンへ向ける。 「今のもう一回、できる?」 アリスモンはゆっくりと首を傾げた。 関節の球体がわずかに軋み、ニヤリと笑う。 「…鈴がうちを信じるなら」 その静かな声に、わずかな勝機を見出だしたすみれが鈴を守るように前へ進み出る。 視線はウォーグレイモンから外さない。 「時間を作る。そこに合わせて」 「はい。えーっと…」 その言葉に鈴が小さく頷き、名前を呼ぼうとする。 次の瞬間、空気を引き裂くような声が割り込む。 「ちょっとちょっとアンタたち!さっきから聞いてたら随分と楽しそうなことしてるじゃないのヨ!オバチャンも混ぜなさいよネ。こういうのはチームワークが大事なのヨ?若い子はすぐ突っ走るんだからホントにもう見てられないワ!でもそういう所も若さのなせる技よネ!でも安心しなさいオバチャンがついてるからには百人力ってやつヨ!昔はねもっとすごかったのヨ?ホエーモンだって片手でひょいっと─」 「もー!長いんだって!」 「お兄様といたし、お姉様でいいか…」 胸を張りながら騒ぐシンドゥーラモンを、思わずすみれが遮る。 「お話は終わったか」 場違いなやり取りが一瞬だけ空気を緩めるが、痺れを切らしたウォーグレイモンが再び踏み込んだ。 足元の瓦礫が砕け、衝撃が遅れて押し寄せる。 違和感を認識した上で、なお押し潰す一撃を押し付けようとしてくる。 アリスモンの大剣が受け止めるが、押し切られる。 ウォーグレイモンが追撃に走ろうとした瞬間、横合いから黄金の塊が割り込んだ。 「アナタ体はオバチャン好みだケドそろそろしつこいわヨ!」 シンドゥーラモンが球体のまま激突する。 衝撃が弾け、わずかに軌道が逸れる。 その"わずか"に、アリスモンの放つズレが重なる。 ウォーグレイモンの体が、攻撃を外した時のように大きく隙が生まれた。 「今っ!」 鈴の声を合図に、空間が歪む。 幾何学的な線が走り、空中に縦向きのチェス盤が展開された。 次の瞬間─四隅へ打ち込まれた駒が光を放つと、ウォーグレイモンの身体が盤面へと引き寄せられる。 四肢が引き裂かれるように開かれ、そのまま固定される。 「この程度の磔など…」 ウォーグレイモンが抵抗しようとしたその時、盤面そのものが音もなく浮き上がる。 床から切り離された空間がそのまま上空へと持ち上げられ、戦場の"位置"だけがずらされる。 それでも、金色の竜王は止まる事を知らない。 ウォーグレイモンの全身が軋み、クロンデジゾイドの装甲が唸りを上げる。 だが…力任せに引き剥がそうとした瞬間、拘束が"ズレる"。 外れたはずの位置に再び引き戻され、逃れようとする動きそのものが盤面に縫い直されていく。 完全な拘束ではない。 だが、抜け出すための"結果"だけが成立しない。 「いくよぉッ!」 アリスモンは大剣を構え、踏み込む。 その身体はウォーグレイモンを通り過ぎ、そのまま盤面の端に打たれた駒を蹴り抜いた。 その反動で身体が跳ね、軌道が折れる。 続けざまに別の駒を踏み換え、空中を跳ねるように加速していく。 直線では届かない。 だからこそ、折れた軌道の連続で間合いを詰める。 迎撃に振るわれたドラモンキラーが迫るが、その一撃はあとわずかという距離で外れる。 今度は、アリスモン自身の位置がほんの僅かにズレている。 そのまますれ違いざまに振り抜かれた大剣が、装甲を裂いた。 しかし、それは一度で終わらない。 駒を蹴って反転し、背後へ回り込み、さらにもう一撃。 跳ねるたびに位置が歪み、読むはずの軌道が成立しないまま連続した斬撃だけが積み重なっていく。 ウォーグレイモンが強引に拘束を引き裂こうと力を込めると、盤面に亀裂が走る。 だが、その抵抗すらズレる。 外したはずの腕が、次の瞬間には"外れていない位置"へと引き戻される。 その隙を、逃さない。 アリスモンは一度だけ大きく距離を取り、盤面の下方へと降り立つ。 膝を沈め、すべての反動を溜め込んだまま、次の瞬間には一直線に跳び上がった。 【ワンダフルチェッカー】 最も勢いを乗せた一撃が、ウォーグレイモンの胸部へと突き込まれる。 衝突─爆ぜるような衝撃が空間を打った。 縦に立ち上がっていたチェス盤がその瞬間にひび割れ、拘束を支えていた構造ごと崩壊する。 盤面は耐えきれずに砕け散り、光の破片となって宙へと舞い上がる。 爆炎と閃光が視界を焼き潰し、やがて光が収まった。 ○12 アリスモンの剣は、確かに突き刺さっていた。 だが根元までは届いていない─そう、途中で止まっていた。 「…っ!?」 アリスモンは遅れて、ウォーグレイモンの腕が刃を掴んでいることに気付く。 その足元には、外されたドラモンキラーが無造作に転がっていた。 素手で、刃を受け止めている。 (大きい武器を捨てて防御に走った…!) 遅れて状況を理解した鈴の息が、詰まる。 肉と刃が互いに軋むが、押し込まれているのはむしろこちらの方だった。 「惜しかったな」 次の瞬間、ウォーグレイモンは剣を掴んだまま腕を振り抜く。 剣ごと引き剥がされ、アリスモンの身体が宙へと投げ飛ばされた。 そのまま叩きつけられ、床に転がるチェス盤の破片が宙を舞う。 「なんてこと…」 すみれの声が、わずかに震えた。 限界まで動き続けたシンドゥーラモンも、転がるように着地し、そのまま力を失ってぐったりと伏す。 「いいえ。防御用のカードを使う必要もなかったわ」 夭下の声は相変わらず低く、揺らぎがない。 彼女の静かな一言が、場の温度をわずかに下げた。 連続する斬撃の最中、アリスモンは"攻め"に意識を割きすぎていた…彼等はそこを見逃す相手ではない。 だがウォーグレイモン自身にもダメージはあるようで、重い音を残して床をわずかに擦った。 装甲のテクスチャーは破損し、データが血液のように流れ出している…しかし致命には程遠い。 その光景を、リーゼロッテは戦線の端から見ていた。 彼我の戦力は依然として有利─だが同時に、噛み合わない感触が残る。 バステモンの間合いと攻撃パターン…それが、どこかで掛け違っている。 その違和感に思考が触れた瞬間、耳元でノイズが弾けた。 『…リーゼロッテ、応答してください』 パウル博士の声だった。 「戦闘中です。手短に」 『レアの動きが妙です。"彼"には何かの企みがありそうです。この戦闘、深追いはする必要はないでしょう』 僅に、リーゼロッテの視線が止まる。 疑惑が確信に変わる。 さらに視線を滑らせた先で、追い詰められているはずのシュウが笑っていた。 余裕を含んだ、わざとらしい、見せつけるようなしたり顔。 (その顔…) 思い出すまでもない─これは、勝ち筋を見つけた時の顔だ。 小さく息を吐く。もう、十分だった。 「…レアモン、離脱準備です」 短く落とされたその一言で、レアモンの体が崩れるように広がる。 この場に留まる理由は、消えていた。 「は?ちょっと待ちなさいよ、まだ─」 「参加意義の薄い戦闘に付き合うつもりはありません」 レアの声は被せるように遮られる。 リーゼロッテは前を見たまま、車椅子をわずかに後退する。 「ごきげんよう」 僅にトゲのある物言いだ…そうレアが思ったときには、レアモンは膨れ上がった身体を一気に縮ませた。 「ちょっ─」 レアの声ごと飲み込むように、じゅわっとした霧がレアモンの体内から弾けた。 視界を裂く煙が広がり、霧が晴れる頃にもう姿はなかった。 「…逃げたんだゼ?」 「いや─おそらく切ったんだよ。この場を」 シュウがストライクドラモンの問いを短く否定する。 その先で、夭下とウォーグレイモンたちは静かにリーゼロッテたちが消えるのを見送っていた。 ○13 「お・に・い・さ・ま〜」 「うわっ。鈴ちゃん、なにやってんだ」 シュウの横に、いつの間にか気配が寄る。 振り向くより先に、鈴がぴたりと隣に張り付くように立った。 何も言わず、手元のケースを少しだけ開く。 中に収められていたのは、FE社のロゴが入った複数の資料だった。 「おー、手癖が悪いな」 「お兄様がおまぬけなだけですよ」 さらりと返しながら、鈴は懐からもう一つなにかを取り出す。 それは、シュウが先程つけていた伊達眼鏡だった。 「…いやホントに手癖が悪いなぁ…」 「この本、結構ゲキヤバっぽいですよ」 伊達眼鏡を受け取りながら、シュウはわずかに苦笑する。 鈴についさっきまでの沈んだ気配は、もうない。 そのやり取りのすぐ背後で、すみれが駆け寄る。 「いや二人して余裕ぶってる場合じゃないでしょ!」 ウォーグレイモンと夭下を前に立ち上がるアリスモン、その横に立つストライクドラモン。 そして、二匹の足元でひっくり返ってるシンドゥーラモン。 逃げ場はない─ただ、今は三方向に散っていた戦線が一つに収束していた。 「よし…ん?これで目的は達成か」 そう呟いた直後─ウォーグレイモンの爪が床へ叩き込まれ、砕けた。 遅れて響く轟音とともに足場が崩落し、その下に隠されていた構造体が露出した。 崩れた床の下から姿を現したそれは、空間に固定されるように浮かんでいた。 円筒を基軸にした構造体─外殻は幾重ものリングで分割され、それぞれがわずかに位相をずらすように回転している。 接合部には規則的な発光ラインが走り、それはまるでSF作品に出てくるスペースコロニーのような姿をしていた。 (ちょっと…こんなモノがあるなんて聞いてないわよ…!?) レアの内心を遮るように、夭下が淡々と告げる。 「これは我々の管理するデジタルゲート…FE社の社外秘事項」 その意図が、空気を一段冷やした。 つまり、それはお前たちを消すという宣言だった。 「ちょっと待ってムリムリムリ!オバチャンもう足パンパンなんだけど!最近ほんと動いてなかったツケが一気に来てるワよこれ!」 シンドゥーラモンが荒い呼吸のまま叫び、アリスモンも疲労が目立っている。 シュウは一度、眉間に指を当てかけて─止める。 考える必要もない。 「…俺たちが前に出る」 「だよなぁっ!」 デジヴァイス01に指を走らせるシュウの横で、ストライクドラモンが即答しながら笑う。 「シンドゥーラモン、行けるか」 息を整えきれないまま、それでも名を呼ばれた当人は大きく肩を揺らして立ち上がる。 「行くしかないンでしょ!?ここで逃げたら後で怒られるのはオバチャンなんだからネ!ホントもー若い頃ならこのくらい余裕だったのに最近運動不足で階段すら避けてたツケが一気に来てる感じがしててネ!でもやる時はやるのが大人オンナってモンでしょそうでしょ!やってやるワ!!」 荒い呼吸のまま腕を組み、強引に胸を張る。 「へー、誰に怒られるの?」 すみれが半ば呆れたように返す。 「反省会のメンバー追加だな」 シュウは吹き出しかけながら、デジヴァイス01のパネルに指が滑らせる。 入力された指示(コマンド)が、赤外線となって走る。 【前方に電撃を打ち込み、視界を奪う。その隙に全員離脱。】 無駄のない一行だけが、各々のデジヴァイスへと伝達・共有される。 その間にも、露出した構造体が低く唸るように回転を始めていた。 幾重にも重なったリングが位相をずらしながら噛み合い、接合部を走る発光ラインが明滅を繰り返す。 中心に穿たれた空白へ向かって、歪んだ光が引き寄せられ、渦を巻く。 スパークが弾け、空間がそのものがじわりと引き延ばされる。 空間が一度だけ沈み込み─二昔前のゲームで見たようなワイヤーフレームのトンネルが開いた。 「排除とは、必ずしも殺すことではないのよ」 夭下は突き出した手をゆっくりと、力強く閉じる。 「いや…ここで殺されるよりも酷いかもしれんな」 言葉と同時に、ウォーグレイモンが一歩踏み出す。 たった一挙動で熱が膨れ、押し出されるように広がる…場の主導権が塗り替えられる。 「んじゃあ〜よォ。オレがオマエを落とせば、勝ちって事だろ?」 だが、それでもストライクドラモンは笑ったまま一歩前に出る。 「…生意気な」 ウォーグレイモンが手をかざす。 床に転がっていたドラモンキラーが応じるように跳ね上がり、その腕へと吸い付いた。 ガチッと装着された音と同時に、空気が締まる。 胸部の裂傷からは、なおも赤いデータが滲み出ていた。 それは、アリスモンの一撃が確かに届いている証だった。 ストライクドラモンは首を鳴らし、息を吐く。 左腕に力が籠り、リュウのデジメモリが淡く発光する。 結晶の粒子が幾重にも重なりながら拳へ収束し、薄い層となってその前に張り付いた。 【変異種防壁】 守るための"絶対"を、殴るために押し出す。 「行くゼッ!!」 戦闘竜が地面を蹴る─吹き飛ぶ瓦礫を伴いながら。 距離を詰めた直線へ、遅れてウォーグレイモンが踏み込んだ。 重く鋭い音を連れて、不気味な構造体の上空で二つの影が正面衝突した。 光と火花が弾け、圧が空間を押し広げる─だが、その均衡は一瞬で崩れた。 「是非も無し」 振り下ろされた爪が、防壁ごとストライクドラモンを叩き潰す。 咄嗟にアリスモンも手をかざすが、負傷した体から捻り出されたズレなどで、最早ウォーグレイモンは止まらない。 「ぐがっ!」 耐えながらも止めきれず、そのまま弾き落とされた身体が一直線にゲートへと引き込まれていく。 だが、シンドゥーラモンの電撃が既に前方を薙ぎ払っていた。 反射的に撃ち返されたバステモンの闇と正面から衝突し、二つのエネルギーが噛み合う。 「んもう!こうなったらヤケクソのフルパワーヨ!!!」 「んにゃあ!?押され…っ!」 閃光が爆ぜ、遅れて轟音が空間を押し潰し、視界は一瞬で白に焼き潰された。 その中で、落ちていくストライクドラモンの軌道に、シュウが迷いなく飛び込んだ。 「なっ…待っ─!」 すみれは腕で顔を庇いながら踏み出し、手を伸ばす。 しかしシュウの身体は崩れた床の縁を越えてわずかに沈み、そのまま視界の外へと滑り落ちていく。 「アイツ、ほっとけないだろ?」 その手は幼馴染みのどこに掠めることも叶わず、指先は空を切った。 「その盾がいかに凄くても、竜殺しに砕けないものはないのよ」 夭下の声が、白の向こうから淡く落ちる。 彼女はスレイヴ型デジヴァイスをチラりと見るものの、興味を失ったようにすぐ画面を閉じた。 「悪い、先に帰っててくれ」 遅れて届いた声だけを残し、二つの影はゲートの奥へと消えていった。 ○14 爆発の余韻が遅れて空間を揺らす中、すみれの身体は鈴に抱え上げられていた。 砕けた床の向こうで歪んだ光が一瞬だけ強く脈打ち、やがて何事もなかったかのように収束していく。 伸ばした手は、結局なにも掴めなかった…空中に取り残されたままの指先が、ようやく力を失って揺れる。 撃ち込まれたワイヤーが二人の体をまとめて巻き上げて、暫く経っていた。 耳障りな駆動音とともに、一気に地上へと引き戻されていく。 「まぁ、大丈夫ですよ。お兄様は帰るって言いましたから」 軽い声だった。 けれど鈴は、一度も下を見ない。 でも、すみれは違った。 崩れた穴の奥を見つめたまま、ゆっくりと手を引く。 「昔からそう。何も言わないし、すぐいなくなるし…」 ぽつりと零れた言葉に、鈴の目がわずかに細まる。 そのまま、口元だけが楽しげに歪んだ。 「それぇ、お兄様を自分のモノだと思ってないと出てきませんよぉ?」 「へ?いや、そもそも人間っていうのは誰かのモノとかじゃなくて…」 反射的に顔を上げる。 鈴はほんの一瞬だけ間を置いてから、にこりと笑った。 「…じゃあ、私が取ってもいいですか?」 「ぶっ!?ブボフッ!?」 すみれの予想以上の反応に、鈴はニヤけ顔が押さえられない。 「い、いらないわよ。あんなの…ふふ…」 堪えきれずに吹き出した笑い声が、すみれの中の張り詰めていた空気を少しだけ緩めた。 「ま、嘘ですけ…ど…ありゃりゃ」 「鈴の負け〜」 その言葉を最後まで言い切る前にすみれからカウンターを受けた鈴は、やれやれと肩をすくめた。 D-ブラスターの中から、プロットモンがけらけらと笑っている。 ワイヤーに引かれながらも、さっきまで穴の奥を見つめていた顔とは別人のように、力の抜けた笑いだった。 「…でも、励ましてくれてありがとね」 「いいえ。はー、弄りがいがないですね」 つまらなさそうに唇を尖らせる鈴の様子は、イタズラが見抜かれた子供そのものだった。 その軽さに引きずられるように、すみれの呼吸も少しずつ落ち着いていく。 「欲しいとかそういうんじゃなくてね…その…」 言葉が続かない─視線を逸らし、握った拳に力がこもる。 「こういう時に踏み込めない私って、ほんとにバカだなって…」 上昇する風の音に紛れて、かすかに震えた声がこぼれる。 口の中だけで潰した言葉は、結局どこにも届かないまま消えていく。 (昔はそんなこと、なかったのに) おわり 数日後、薄暗い店内に食器が触れ合う乾いた音が小さく響いていた。 「…ったく、無茶苦茶やってくれるわよね」 レアはテーブルに肘をつき、深く息を吐く。 向かいに立つマーヴィンは、何事もなかったかのようにカップを置いた。 「無事で何よりです、ミスターレア」 「だから、ワタクシはレディよ。失礼ね」 レアは机を指先でトントンとつつきながら軽く睨む。 「すみませんね。ニンゲンの事はまだよくわかってなくて」 「そのつまんない冗談、聞くたびに怒る気無くなるわ。あーホントに最高」 肩をすくめるマーヴィンに、レアは呆れたように息をついた。 「といっても、たぶん勘づかれてたわね」 リーゼロッテの妙な撤退の速さを思い出し、わずかに目を細める。 「でも確信はないと」 「ええ。あの子、なーんでも自分より下だと思ってそうだから」 レアは背もたれに体を預けながら、友達いなさそーと呟く。 「だから、ギリギリセーフかも」 「はい。どちらにせよ、資料は持ち出されました」 テーブルの端に置かれたファイルへ、二人の視線が揃う。 「上の騒ぎ、アレもあんたの差し金なワケ?」 「ええ。上層で暴れてもらいました。監視の目をそちらに向けるために」 さらりと言い切る。 「朽業夭下とヤり合ったワケよね。そこの坊やたち」 「あるお方から推奨されましてね。実際、中々最適だったでしょう?」 レアは店の端へ視線を流した。 トゲトゲ頭の少年と、黒服の男が向かい合っている。 「あそこでああすりゃよかったの!」 「僕の指示が間違っていたとでも?もう少し脳味噌の容量を筋肉以外に割いた方がいいぞ」 うるさい少年に対し、無愛想な男は持ち帰られた資料を読んでいた。 「いや…なんか喧嘩してるわよ…」 今にも取っ組み合いになりそうな空気に、レアはうんざりしたように視線を戻す。 カップの中の液面が、わずかに揺れていた。 「…概ね、問題ありません」 マーヴィンが咳払いし、淡々と告げる。 「それにアンタ、怪盗だか忍者だかが来るとか言ってた癖に…」 レアは指を組み、わざとらしく目を細める。 脳裏に浮かべたのは、筋骨隆々で無駄のない動きをする超人然とした紳士たち。 だが実際に現れたのは、派手な服装の少女と眠たげな顔のちんちくりんな男だった。 「でもあのイケてない男、バステモンの攻撃タイミングをズラしてることに気付いてた」 「ほう」 レアは自身のデジヴァイス…デジモンアクセルを操作し、ひとつのログを呼び出して見せる。 【前方に電撃を打ち込み、視界を奪う。その隙に全員離脱。】 「─これ。あっちから来た指示」 その場で"乗った"という事実が、行間に残る。 「危険な判断です」 「警察なんてそんなもんでしょ?」 軽く言い切ってから、レアは目の前のカップを取り上げ、遠慮なく一口飲んだ。 一瞬固まったレアの表情が、露骨に歪む。 「…不味いわね」 .