# 短編:神奈の拒絶 ― 侵されざる神域 ## 一 放課後の旧校舎へと続く連絡通路は、埃っぽい熱気と、窓から差し込む斜陽のオレンジ色に満たされていた。 授業が終わってから十分。部活動の喧騒もここまでは届かず、ただ遠くで運動部の掛け声が小さく反響しているだけだ。 「――だから、付き合ってほしいんだ」 制服の第二ボタンを所在なげにいじりながら、目の前に立つ同級生の男子生徒――クラスメイトの佐々木は、耳まで真っ赤にして頭を下げた。床に落ちた彼の影が、緊張で小刻みに震えている。 巳巫神奈は、彼の告白を静かに受け止めていた。 彼女の姿勢は非の打ち所がないほど真っ直ぐで、ブレザーの胸元はしっかりと閉じられている。だがその衣服の下、白い肌に直接食い込んでいるのは、あの儀式の夜に晴明の手によって首へ巻き付けられた、赤い絹の首縄だった。 佐々木がどれほど熱烈な言葉を並べようとも、神奈の肌が感知しているのは、首縄の生温かい圧迫感と、彼の告白を聞くたびに子宮の奥で疼く「カミ様への隷属の欲求」だけだった。神奈にとって、目の前の男子生徒は「雄」ではなく、ただの背景にすぎない。 神奈は、いつもの『しっかり者で優しい学級委員』の完璧な微笑みを唇に湛えたまま、静かに口を開いた。 「ありがとうございます、佐々木君。でも、そのお気持ちにお応えすることはできません」 声のトーンはどこまでも穏やかで、冷たさを含まない。だからこそ、佐々木は自分が拒絶されたことを一瞬理解できず、呆然と彼女の顔を見つめた。 「どうして……? 誰か、他に好きな奴でもいるの?」 「いいえ、そういうわけではありません」 神奈は形の良い眉を優しく下げ、胸元にそっと右手を当てた。衣服越しに首縄の結び目の感触を確かめ、下腹部を灼熱させる蛇の紋様の疼きを抑え込むように。 「私の身は、すでに蛇神様の巫女としての役割を果たさなければいけませんから」 それは、彼女が浮かべたこの日一番の、息を呑むほどに美しい笑顔だった。 カミである晴明に身も心も捧げ、人権すらも明け渡して『道具』となることを決定した女の、陶酔と幸福に満ちた、侵されざる聖域の笑み。 だが、世間一般の平凡な高校生である佐々木に、その笑顔の異常な重みが理解できるはずもなかった。彼は眉をひそめ、神奈の言葉を単なる「古臭い家柄の都合による無理な縛り」だと解釈した。 「は? 蛇神様……? なんだよそれ。巳巫の家が歴史ある神社なのは知ってるけどさ。現代にそんな怪しい神様だか風習だかに、嫌なのに従う理由なんてないよ。自分の人生なんだから、無理して従う必要なんてないだろ? そんな古臭い縛りなんて無視して、俺と普通の恋をしようよ。俺なら君を縛ったりしないし、絶対に幸せにするから」 佐々木は一歩踏み出し、神奈の手を握ろうと腕を伸ばした。 彼にとっては、想い人を怪しい風習から救い出そうとする、正義感に駆られた行動だったのかもしれない。 しかし、その瞬間。 連絡通路を満たしていた生暖かい西日の温度が、一瞬にして氷点下まで叩き落とされたかのような錯覚が、佐々木の全身を襲った。 ## 二 神奈の瞳から、スゥーっと光が消え失せた。 それは比喩表現などではなかった。先ほどまで夕日を反射してきらきらと輝いていた茶色の双眸が、またたく間に光を一切反射しないガラス玉のような虚無へと変貌したのだ。瞳孔が針のように細く収縮し、眼球の奥にある底無しの暗闇が佐々木をじっと見つめている。 「――え?」 佐々木は伸ばしかけた手を止めた。心臓が嫌な音を立てて跳ね上がり、背筋に冷たい汗が噴き出す。 神奈の全身の筋肉が、限界まで強張っていた。 ブレザーの袖から覗く指先が、不自然なほど真っ直ぐに硬直し、その爪が手のひらに食い込んで白い皮膚を赤く染めていく。呼吸は極端に浅くなり、彼女の喉元――首縄が巻かれているあたりが、微かに、しかし激しく痙攣していた。 神奈の胸中に渦巻いていたのは、到底言葉では表現しきれないほどの、暗く黒い、底知れぬ狂気の怒りだった。 怒りの二割は、代々引き継いできた巳巫の血脈と信仰を、無知な凡人に侮辱されたこと。 そして残りの八割は――自分たちの絶対的な主人であり、愛しい最愛のカミである『水池晴明』という存在を、怪しい神様などと呼び、無視すればいいと吐き捨てたことに対する、絶対に許し難い激怒だった。 (晴明様を……。わたしたちが全てを捧げた、あの尊く、優しく、ご立派なカミ様を……) (この汚らわしい凡人の雄が、今、侮辱した……?) 神奈の頭の中の理性を繋ぎ止めていた鎖が、音を立てて千切れ去る。 彼女にとって、晴明は信仰そのものであり、存在の意義そのものだった。その晴明を否定されることは、自分の内臓を素手で掻き回されるよりも苦痛であり、激しい怒りを引き起こすものだった。 神奈の一歩が、無音で踏み出される。 彼女の指先が、まるで行く手を阻む獲物の喉元を切り裂く爪のように、鋭く固まっていた。佐々木を見つめるその視線には、クラスメイトに対する感情などは微塵も残っておらず、ただ『カミを侮辱した不浄な害獣』を排除しようとする、野生の毒蛇のような殺気だけが満ちていた。 「佐々木君。今、何と――」 彼女の唇から漏れ出たのは、自分の声とは思えないほど低く、平坦で、底冷えする声だった。 佐々木は恐怖のあまり足がすくみ、呼吸の仕方を忘れたように口を開けたまま立ち尽くすことしかできなかった。神奈がもう半歩近づけば、彼は恐怖で腰を抜かしていたかもしれない。 その、一触即発の極限の緊張状態に、ひょうひょうとした軽い足音が割り込んだ。 「あらあら、そこまでにしていただけますか?」 ## 三 「ふふ、お邪魔してしまいましたかしら?」 廊下の影から滑り込むように姿を現したのは、神奈と瓜二つの顔を持つ双子の妹、舞香だった。 いつものように、何を考えているのか分からない、穏やかで達観した微笑みを浮かべている。 だが、舞香の内心は、人生で初めて経験するほどの強烈な焦燥とパニックで埋め尽くされていた。 (お姉様……! お願いですから正気に戻ってください! ここは学校です、そんな男のためにその美しい手を汚して、晴明様を悲しませるおつもりですか!?) 舞香はひょうひょうとした態度を崩さないまま、素早く神奈の前に割り込み、佐々木から彼女の視線を遮るように立った。そして、怯えきって震えている佐々木の肩を、ポンと軽く叩く。 「佐々木様。お姉様は少し、その……実家の神事の準備でお疲れなのですわ。告白の件は、お姉様の言う通り『お応えできない』ということで、これ以上はご容赦いただけますかしら?」 「あ、ああっ……う、うん……」 舞香の有無を言わせぬ涼やかな笑みと、その背後から依然として漂ってくる神奈の恐ろしい殺気に押され、佐々木はついに限界を迎えた。彼は短く悲鳴のような声を上げると、振り返りもせずに旧校舎の廊下を全力で走り去っていった。 騒々しい足音が遠ざかり、連絡通路に再び静寂が戻る。 「……お姉様」 舞香は振り返り、神奈の肩を優しく抱きしめた。 神奈の身体は、氷のように冷たく強張ったままで、その目はまだ虚無の深淵を見つめていた。舞香は彼女の耳元で、静かに、しかし明確に、カミの名の呪文を唱える。 「お姉様、もう大丈夫ですわ。あの無知な男は去りました。……晴明様のお耳を汚すような雑音は、もう何もありませんわ」 『晴明様』という名前が鼓膜に届いた瞬間、神奈の身体が大きくビクンと跳ねた。 収縮していた瞳孔がゆっくりと広がり、瞳の中に、夕日の暖かいハイライトが再び灯る。強張っていた指先から力が抜け、彼女は自分のブレザーの胸元を強く握りしめながら、深く、長い呼吸を吐き出した。 「……舞香。わたし、今……」 「ええ、分かっておりますわ、お姉様。……わたくしも、あの男の言葉を聞いた瞬間、その不浄な舌を引き抜いて差し上げたい衝動に駆られましたもの。でも、ここは学校ですわ。わたくしたちの全ては、晴明様のもの。晴明様を困らせるような真似は、絶対に避けなければなりません」 神奈は自分の胸元を触り、首縄の結び目を指先で何度も確かめた。 「……そうね。わたしのこの身も、この怒りも、全ては晴明様のもの。あの男のために使うなんて、晴明様に対して不誠実極まりないわ」 神奈の表情に、いつもの穏やかな『しっかり者』の笑顔が戻る。 しかしその胸の奥底には、カミである晴明への狂信的な愛情と、彼を侮辱するすべての存在を許さないという、牙を剥いた獣のような独占欲が、より深く、強固に根を下ろしていた。 ## 四 その日の夕方。 巳巫神社の境内は、夏の終わりのヒグラシの声と、涼しい夕風に包まれていた。 西日に照らされた石段の途中で、晴明は一人、手すりに寄りかかって町を見下ろしていた。儀式を終えてからというもの、自分の日常が音を立てて崩れ去っていくような感覚と、三人の女を『所有』してしまったという現実感のなさに、彼はいつも押し潰されそうになっていた。 「晴明様」 背後から、衣類の擦れるかすかな音と共に、涼やかな声がした。 振り返ると、そこには舞香が立っていた。いつもの掴みどころのない微笑みを浮かべ、制服の上から赤い首縄を少しだけ見せている。 「舞香……。どうしたんだ?」 「ふふ、晴明様のお顔が見たくて、お迎えに参りましたの。……実は、今日の放課後、学校で少し面白いことがありましたのよ」 舞香は晴明の隣に並び、彼と同じように手すりに手を置いた。彼女の細い指先が、晴明の袖口に微かに触れる。それだけで、彼女の下腹部の紋様が嬉しそうに熱を帯びる。 「学校で……? 何があったんだ?」 「お姉様が、クラスの男の子に告白されたのですわ」 「えっ――」 晴明は心臓が跳ね上がるのを感じた。 神奈が告白された。当然だ、彼女はあんなに美人で、優しくて、学校でも人気があるのだから。だが、その後に続いた舞香の言葉は、晴明の予想を遥かに超えるものだった。 「お姉様、笑顔でお断りになられましたの。『身も心も蛇神様に捧げておりますから』と。……そうしたら、その愚かな男の子が、晴明様のことを『怪しい神様だか風習だか』と、無視すればいいと侮辱いたしましたの」 舞香はそこで言葉を区切り、晴明の横顔をねっとりとした視線で見つめた。 「その瞬間のお姉様……目がスゥーっと光を失って、まるで獲物の喉元を今すぐ噛み千切らんとする毒蛇のような殺気を放たれましたの。わたくしが間に入らなければ、今頃あの男の子は、息をしていなかったかもしれませんわ」 「そんな……神奈が……?」 晴明は愕然とした。 神奈はいつも真面目で、誰にでも優しく、自分に対しても(儀式の時以外は)気遣いを忘れないしっかり者だ。そんな彼女が、殺気を放つほど激怒する姿など、到底想像できなかった。 「お姉様があんなにお怒りになるのは、生まれて初めて見ましたわ……」 舞香はそっと晴明の腕に自分の身体を寄せ、その温もりを貪るように吐息を漏らした。 「お姉様にとって、そしてわたくしにとっても……晴明様は、単なる家柄の都合で従うべきカミ様などではないのです。わたしたちの命も、尊厳も、この身体の全ての穴も、すべてを捧げて平伏すべき、絶対的な主人……。晴明様を侮辱されることは、わたしたちの存在全てを否定されることと同じなのですわ。……ねぇ、晴明様。そんな風にわたしたちを狂わせてしまった責任、今夜の奉仕の間で、たっぷりと取っていただきますわね?」 舞香の蕩けた瞳と、その言葉の裏にある「狂信の重み」に、晴明は背筋が凍りつくような恐怖を覚えた。 だが同時に、それほどまでに自分を求め、自分のために人としての理性をかなぐり捨てる彼女たちへの、甘やかで暴力的な支配欲が、彼の17歳の身体の奥底で、ドクドクと脈打ち始めるのを止めることはできなかった。 「……ああ。分かった」 不器用に応える晴明の言葉に、舞香は至上の幸福に満ちた、美しい微笑みを浮かべて寄り添うのだった。