ええと、何の話だったかな?……そうそう、『アリーナ』の話だったね。 まだトウジが生まれる前、俺が父さんの子供になって間もない頃だったかな。 父さんがアリーナに通って頃があったんだ。 そうそう、薄力粉を入れたらココアパウダーと、それからベーキングパウダーを……ふるいに……軽くだよ軽く!強くすると飛んじゃうから! え、修行?そうだね、そういうことになるね。 これはね、何年か前に樫戸さんから聞いた話……誰って、樫戸さんは樫戸さん……ああそっか、DJ-38号さんのことだよ。 ……ジャッジメンターさん、ね。トウジはそう呼ぶ方が好きなの? じゃあ、そのジャッジメンターさんに聞いた話なんだけど、それは俺が父さんの子供になったからだったんだ。 俺が生まれた未来の世界でも、戦いが無くなっていないことが、ショックだったんだって……父さんらしいよね。 どう?……うん、上手上手。じゃあ次は耐熱ボウルを……そっちじゃなくて、分厚いほうね。 それにこっちの板チョコを……つまみ食いしないでよ?え?しない?そっか……それはそれで淋し……ううん、なんでもない。 これは、俺の母ちゃん……カメリア母さんじゃなくて、俺を産んだ一華母ちゃんのほうね? 前に言ってたんだけど、生き物から争いを無くすことはできないって。 生き物はより上を目指すから必ず格差が発生する、差があるとそれは争いを生むって……難しい? じゃあそうだな、トウジ、お前は世界最強のデジモンになりたいって思うだろ?でもさ、お前が最強になったら世界で2番めや3番目のデジモンが出てきちゃうだろ? そいつらは頑張ってトウジに勝とうとして……つまりトウジと争うことになるわけだ。 全部入れた?じゃあ今度はバターを切って入れるよ。……そんなビックリしないでよ。お菓子ってのは油と砂糖のカタマリなんだぞ? じゃあこれを蓋してレンジにかけて……ちょっと待つ。 話を戻すね。じゃあ争わないように1番を目指さなければいいってのもよくないんだ。 今よりもいい、今よりも上、それを目指さなくなった生き物はどんどんダメになっていっちゃって……終わっちゃうんだ。 ああ、熱くなってるから気をつけて!……うん、溶けてるね。じゃあこれを泡だて器でかき混ぜるんだ。 結構大変だけど修行だと思って、飛び散らせないよう慎重にね。 じゃあどうすればいいんだ、ってトウジがそう思うのも当然だよね。俺もそう思ったよ。 これは……カガリおばちゃんの旦那さんの受け売りなんだけど、考え方を変えればいいんだって。 争いを無くすんじゃなくって、争いで生まれる憎しみや悲しみを無くしたほうが大事なんだって。 ……逆じゃないのかって?憎いから争うんじゃないのか?そこに気づけるなんてトウジは賢いな。 そういうことも無くはないけど……一番問題なのはそこじゃないんだ。 争いで何かが壊されたり、誰かが死んだりして、憎しみや悲しみが生まれて、増えていく。 それはまた新しく争いを生み出して、また更に憎しみや悲しみを生み出す。これが延々と続くのが問題なんだ。 ……うん、そっちはもう十分だね。じゃあ次は薄手のほうのボウルを出して。 卵を割って……上手い上手い、ほんとトウジは器用だな。そういうとこ父さんそっくりだ。 あとは砂糖をたっぷり……それに牛乳を加えて混ぜる。 争いは完全に無くすのが無理なら、せめてそういう悲しみ憎しみを無くしていけば、みんな幸せになれるかもしれない。 ……かもしれない、ってだけだし、すごく大変で難しいけど、俺……俺達にとって、それは何もしない理由にはならないんだ。 俺は生体兵器の血筋で、誰かのために力を使いたいって本能があるのは教えたよね。 だから俺も、最初は父さんのために自分のこの力を振るいたいって思ってた。 でも、父さんと母さんと接しているうちに、それは何か違うって感じるようになったんだ。 じゃあトウジ、今のボウルにさっき混ぜてたチョコを少しずつ混ぜていくんだ。慌てて全部入れちゃダメだよ。……そうそうその調子。 俺の生体兵器の力で、父さんを幸せにできるのかな、って思った。考えて出した結論は、ノーだった。 デジタルワールドで必死に生きてきた父さんと母さんが幸せになるのに必要なのは、暖かい家庭なんじゃないかって。 ……俺の父ちゃん、実の父親のほうの拝父ちゃんって、孤児だったんだ。 それで、子供のいない夫婦の子供になったんだって。いろいろ悩んだりもしたけど、ちゃんと家族になれたんだって。 だから、俺も。俺も父ちゃんみたいに、リンドウ父さんの家族になって幸せにしてあげたいって思ったんだ。 忍者の本能とか関係無しに、あの小さな体で必死に頑張ってる父さんにできるだけのことをしたいって。 よし、ツヤが出てきたね。じゃあ香り付けにバニラエッセンスをチョチョっと……何?おいしそうな匂い? 手出して……舐めてみて……ハハハ、ごめんごめん!苦かった?これ、匂いだけなんだ。 じゃあオーブンを予熱して。170度で。 ……だから俺は、リンドウ父さんとカメリア母さんの子供になったんだ。 子供のいなかった夫婦の子供になって、みんなで一緒に幸せになるために。 だからねトウジ、俺はお前が生まれた時は本当に心の底から嬉しかったんだ。 今度はふるった粉を混ぜるよ。少しずつ、ざっくりと切るようにね。 ダマにならないように気をつけて。……うん、慣れてきたね、いい感じだよ。 ……父さんが、俺やトウジの未来のために、少しでも争いのない世界にしようって気持ちはすごくわかるし、嬉しい。 そのために、父さんが強くなりたいっていう気持ちは、俺も同じだから本当によくわかる。本当に、すごく。 じゃあ次は焼き型に紙を敷こうか。四隅から切り込みを入れて型の隅っこまで密着させるんだ。 トウジって……やっぱそういうの俺より上手いな。じゃあできた生地を流し込んでいこうか。 でも、父さんはがっかりするだろうけど、多分この世界で俺やトウジが生きてる間に争いが完全に消えることは無いと思うんだ。 このデジタルワールドが平和になっても、リアルワールドもまた平和には程遠い。 それに、他の世界、違うデジタルワールドや違うリアルワールドから誰かが争いを仕掛けてくるかも知れない。 格差ってのは人と人、デジモンとデジモンの間だけじゃなく、人とデジモンの間、あるいは世界と世界の間にもあるからね。 オーブンの予熱も十分みたいだね。じゃあこれをオーブンに入れて焼こう。 熱くなってるから気をつけて……鍛冶で慣れてる?そうだったそうだった、忘れてたよ。 そういう戦わなくちゃいけなくなった時に、少しでも悲しいことを無くすために、俺も父さんみたいに強くなりたい。 父さんと母さんの幸せと、トウジ、お前の未来を守るためにね。 ……ミコ!?……あ、いや、ミコは守りたいっていうよりも……俺と一緒に守る側になってほしいっていうか…… 俺はあいつと一緒に同じ道を歩いていきたいから、互いを守り合いつつ、誰かを守る側になりたいかな。 コレ、ミコにも父さん母さんにも言うなよ!約束だぞ! 俺は父さんたちのために戦う覚悟はある。父さんも俺達のために戦う覚悟がある。 俺やトウジが戦うとなったら、父さんも母さんも全力で助けてくれる、それは間違いないよ。 それでも父さんは、できれば俺達が戦わなくてすむほうがいいって思ってるだろうし、俺も同じ意見だ。 俺だって、俺のこの忍者の力が振るわれることなく、ただの河戸リンドウの息子、ただのショコラティエとして、二人を幸せにできたらなって思う。 だからトウジ、約束してほしい。 俺達の大好きな父さんと母さんを幸せにするためにどうすればいいか、一生懸命考えてほしい。 そして、そのために俺達二人の力を合わせて一緒にがんばろうって。 ……ありがとう、さすが俺の自慢の弟だ。 とりあえず父さんたちを幸せにする最初の一歩だ。 焼きあがったブラウニーを切り分けて、父さんと母さんに持って行こう。 ちゃんと俺の分とトウジの分と……あとちょっと、ミコの分も残しておいていいかな? (焼き上がり)