1 「ドッペルゲンガーは知っているかい? 自分と瓜二つの人間が自分の預かり知らない場所で目撃されている。そんなお話だ」 夜の東京は、昼間よりも輪郭が曖昧になる。ビルの窓に映った信号機、濡れたアスファルトに伸びる街灯、コンビニの白い明かり、閉店後の飲食店から漏れる油の匂い。それらが混ざり合う歩道を、藤原遼輔は松葉杖をつきながら歩いていた。隣を歩くのは、小綺麗な子供服を着た少年だった。背にはランドセル、顔立ちは幼く、背も低い。けれど、その目の下には深い隈があり、口から出てくる言葉だけは年齢を完全に置き去りにしている。 無量塔陵介。 そう名乗った少年は、まるで夜道の散歩でも楽しんでいるかのように、軽い足取りで藤原の隣を進んでいた。 「都市伝説かな?」 藤原は、少し息を整えてから答えた。 「そうそう。人間は、自分と同じ形をしたものに不吉を見いだす。鏡を覗き込みすぎると、覗かれている気がするのと同じだね」 陵介は満足そうに頷く。 「ちなみに、私は鏡を覗くのは嫌いじゃない。こちらの顔色が悪い時、向こうも律儀に悪い顔をしてくれるからね。なかなか誠実な相手だ」 「君の話は、いつも最初と最後で別の場所に着地するね」 「寄り道を嫌う者は、旅人ではなく配達員だよ」 藤原は返す言葉を探し、結局やめた今夜だけで、この少年とまともに会話しようとする努力がいかに危険か、少しずつ分かってきたからだ。 ほんの少し前、最終バスを逃した停留所で、彼は突然現れた。自分と同じリョースケという名前を名乗り、祭後終のことを知っていると語った。 十五年来の竹馬の友。 その言葉には奇妙な軽さがあった。親しげなのに、具体的な思い出を一つも持ち出さない。終の名を口にする声は馴染み深そうなのに、どこか記録を読み上げているようでもある。 藤原はそれを問い詰めるべきだったけれど、できなかった。そして気づけば、彼はこの得体の知れない少年と夜の街を歩いていた。 「……つまり?」 藤原は松葉杖の先を歩道へつき、慎重に段差を越えた。 「私の顔をした何者かが、私の知らない場所で、私の名前を使っている。しかも厄介なことに、私が各地に用意しておいた巣穴へ出入りしているらしい」 「巣穴?」 「アジトってやつさ」 藤原は思わず横目で陵介を見る。 「いくつもあるのかい?」 「少なくとも、私を探す者が一日で回り切れない程度には」 「それは、普通の人間の生活ではないと思う」 「普通の生活とは、普通でいる努力を毎日積み立てる営みだ。私には少々、貯金が足りなかった」 陵介は平然と言った。 「リアルワールドにいくつか。ARフィールドにいくつか。それから、擬似デジタルワールドに少し。今回行くのは、現実側に残してある一番手近な穴蔵だ」 「つまり、これから行く場所は普通の建物なんだよね?」 「そうとも。普通の街にある、普通のビルにある、普通ではない一室さ」 「やっぱり普通じゃないじゃないか」 「結論を急がないことだ。世の中には、一見して異常なものより、一見して普通のものの方がずっと危ない」 陵介はそこで足を止め、夜空を見上げた。 高架の向こうに、秋葉原の明かりが見えていた。 深夜に近い時間でも、街はまだ完全には眠っていない。電気街の大通りから少し外れた場所に入ると、人通りは目に見えて減る。それでも、ビルの隙間には換気扇の音があり、裏口の灰皿には火の消えた煙草が残り、どこかの階から遅い笑い声が漏れていた。 人を隠すには人の中。建物を隠すなら建物の中。 「秋葉原にアジトって……君らしいと言うべきなのかな」 「私らしさを知っているような口ぶりだね」 「今夜だけでも、少しは分かってきたよ」 「それは危険だ。無量塔陵介を理解したと思った者から順に、だいたいひどい目に遭う」 藤原はため息をついた。陵介は古びた雑居ビルの前で足を止めた。 2 一階には、すでに閉店したらしい電子機器修理店の看板が残っている。シャッターは半分錆び、端には古い貼り紙が何枚も重なっていた。隣のテナントは深夜営業の小さな飲食店で、油とにんにくの匂いが路地へ流れている。 見上げれば、二階、三階には古い事務所名の看板が並んでいた。どれも光っていない。窓の内側には段ボール箱やブラインドが見え、どこまでが営業中で、どこからが廃墟なのか分からない。 「秘密基地には見えないね」 「秘密基地に見えたら、それは秘密基地として失格だよ。髑髏の看板を掲げるのは、悪の組織と観光地くらいのものさ」 陵介は店の横にある狭い階段へ向かい、藤原はその後ろを追う。 階段は古く、手すりも冷たかった。松葉杖を使う身には少し厄介な高さだったが、陵介は何も言わず、ただ歩く速度を落とした。気遣っているのだろうか。 陵介は二階の踊り場、奥の扉の前で止まる。 扉には、古い文字で「立入禁止」と書かれた札がかかっていた。その下に、電子部品らしき黒い箱が取りつけられている。 陵介はそれを見つめ、ほんのわずかに眉を動かした。 「……鍵が変わっている」 「君のアジトなんだよね?」 「だからこそ面白い。巣穴に別の獣が寝ていたら、普通は腹を立てる。私は少し感心している」 「感心している場合なのかい?」 「もちろん、腹も立てているよ。感情は一部屋に一つしか置けない家具ではないからね」 陵介はランドセルから小さな端末を取り出した。 藤原はその様子を見て、やはりただの子供ではないと改めて思う。ランドセルの中身が、教科書ではなく工具とコードで埋まっているような少年だ。 端末を黒い箱に近づけると、かすかな電子音が鳴った。 次の瞬間、扉の鍵が開いた。だが開錠音に続いて、別の機械音声が流れる。 【認証記録照合】 【直近入室者:無量塔陵介】 【生体情報:一致】 藤原は思わず陵介を見た。陵介は機械音声を無視して扉を開けた。 中は、表の寂れた外観からは想像しにくい空間だった。とはいえ、映画に出てくるような広大な研究所ではない。 狭い。壁際には中古のサーバーラックが並び、床には配線が何本も這っている。机の上には基板、分解された携帯端末、謎の金属片、空の栄養ゼリー、古いノートPCが無秩序に積み上げられていた。天井には小型のプロジェクターが吊られ、壁一面に何重もの図面やメモが貼られている。 「ここが……アジト」 藤原は呟いた。 「正確には作業場だ。アジトという呼び名には、少しばかり冒険心が宿る。狭い部屋も、言葉を替えれば心持ちだけは広くなる」 陵介は部屋へ入り、床の配線を器用に避けて進む。藤原も慎重に部屋へ入った。 陵介は古いモニターを起動し、キーボードを叩く。画面には無数のログが流れ始めた。 【入室記録】 【認証:無量塔陵介】 【アクセス権限:最上位】 【外部通信:遮断】 【転送記録:三件】 【データ欠損:十七件】 藤原には専門的な内容は分からないが、陵介の顔から笑みが薄れたことだけは分かった。 「何か盗まれたのかい?」 「盗まれたと言うより、食べられたかな」 「食べられた?」 陵介は画面を切り替える。そこに映ったのは、防犯カメラの記録だった。 狭い作業場へ、一人の少年が入ってくる。 白衣を着た少年。髪型も、顔も、目の下の隈も、隣にいる無量塔陵介と同じだった。ただし、その映像の中の少年はランドセルを背負っていない。小さな身体に不釣り合いな白衣をまとい、無表情に部屋を歩いている。 藤原は息を飲んだ。 「本当に……君だ」 「よく見たまえ。私はもっとハンサムだ」 陵介の声は静かだった。 「結局何をを取られたんだい?」 「私の研究記録の一部。古い認証鍵。いくつかの移動経路。あとは……」 陵介はそこで言葉を切った。 「私がどう考え、どう失敗し、どうやって次の手を選んできたか。その足跡だね」 「それは、武器より危ないのかい?」 「私が恥ずかしいだろ」 陵介はモニターの映像を止めた。白衣の少年が、こちらを見ているような一瞬で停止する。 その顔は無表情だが、藤原には奇妙に感じられた。 陵介はモニターを消し、部屋が一瞬暗くなる。 その暗がりの中で、奥の棚の下から青い光が漏れていることに藤原は気づいた。 「今のは?」 「あちらも気づかなかったか。あるいは、不要と判断したか」 陵介は棚へ歩み寄り、工具を一本取り出して隠し蓋をこじ開けた。中にあったのは、魚や両生類のような小さなオブジェだった。 「これは?」 「水のヒューマンスピリット。私が非常用に取っておいた小道具だよ」 陵介がそれを指先でつまみ上げると、その瞬間、青い光が激しく震えた。まるで触れられることを拒むように。 藤原にも、はっきりと分かる。それは陵介を嫌がっている。 「……それ、大丈夫なのかい?」 「これは本来、選ばれた者に応じる力だ。水の性質を持ち、流れ、包み、時に押し潰す。なかなか優雅な力だよ」 「察するに君は選ばれていない」 「もちろん」 陵介は当然のように言った。 「私はデジタルワールドに対して、あまり礼儀正しい客ではなかったからね。招待状が来ないことくらい承知している」 「なら、使えないんじゃないのかい?」 「鍵に嫌われた時は、扉の方を壊せばいい」 藤原は眉をひそめた。 「君、そういうところ本当に危ないよ」 「褒め言葉として保存しておこう」 「褒めてない」 陵介は青い光をケースへ収めた。 ケースの内側で、水のスピリットはなおも激しく明滅している。 それを見つめる陵介の目には、シュウの話をしていた時のような余分な温度はなかった。 ただ、使えるものを見つけたという冷たい評価だけがある。 藤原は少しだけ、胸の奥に引っかかりを覚えた。 この少年は、何にでも同じ態度を取るわけではない。 話し相手には言葉を尽くす。奇妙な縁には笑う。藤原の歩幅に合わせることすらある。しかし、この水の光には一切の労りを向けない。 同じように自分の意思を持っているように見えるものでも、陵介の中では何かが明確に分けられている。 「さて」 陵介はケースをランドセルへしまい、再び部屋を見回した。 「水のスピリットが残っていたのは幸運だ。だが、これだけでは足りない」 「まだ何か探すのかい?」 「当然だよ。偽物が私の足跡を食べたのなら、私は私の爪痕を拾う必要がある」 陵介は机の上のジャンク部品をいくつか漁り、小さな携帯電話の筐体を手に取った。 旧式だが、どこか丈夫そうな端末だった。画面は割れておらず、背面には見慣れない接続端子がある。 「それは?」 「素材候補だ」 「何の?」 「お守り」 「また誤魔化したね」 「誤魔化しとは、人聞きが悪い。説明を未来へ分割払いしているだけさ」 陵介は端末を藤原へ投げようとして、藤原が松葉杖を持っていることを思い出したのか、途中でやめた。自分で歩み寄り、彼の手に直接乗せる。その端末は、見た目より重かった。 「持っていたまえ」 「僕が?」 「君の方が目立たない」 「ランドセルを背負った君より?」 「私は目立たないのではない。目立ち方を選んでいる」 「屁理屈だと思う」 「屁理屈も、理屈の末席には座れるよ」 藤原は端末を見下ろした。ただの古い携帯電話にしか見えない。 だが、陵介が自分に持たせる以上、ただの携帯電話であるはずがなかった。 「これ、危ないものじゃないよね?」 「今はまだね」 「今は?」 「未来とは、現在に余計な機能が追加されたものだ」 藤原は黙った。 そして端末をポケットへ入れた。自分でも、なぜ素直に受け取ったのか分からなかった。シュウのことを聞きたいからか。この少年を放っておけないからか。 それとも、既に自分がこの奇妙な話の中へ足を踏み入れてしまったからか。 分からないまま、藤原は松葉杖を握り直した。 「この後は?」 「次の巣穴へ行く」 「また秋葉原?」 「いいや。少し深い場所だ」 陵介は部屋の奥にある古い端末へ向かい、ケーブルを引き出した。 画面に、見慣れない接続画面が開く。 そこには、毒々しい色の街のようなアイコンが表示されていた。 ネオン。路地。看板。無数の目のような記号。 藤原はその画面を見た瞬間、なぜか背筋が冷えた。 「そこは?」 陵介は嬉しそうに笑った。 「ディープウェブのサイバー九龍へ向かう為の直通便さ」 その名を口にする声は、夜店へ向かう子供のように弾んでいた。 「秋葉原が表の迷路なら、あちらは裏の迷宮だ。盗まれた情報、捨てられたアプリ、忘れられた悪意が屋台を開いている。君のような善良な一般人には、少々刺激が強いかもしれないね」 「なら、僕は行かない方がいいんじゃないかな」 「安心したまえ。君は私と一緒だ」 「それが一番安心できないんだよ」 陵介は端末を操作しながら、肩越しに藤原を見る。 「それに、終ちゃんの話もまだ途中だろう?」 藤原の指が、松葉杖の柄を強く握った。ずるい言い方だ。そう思った。 けれど、足はもう逃げる方向へ動いていなかった。 「……本当に、話してくれるんだろうね」 「もちろん。物語には順番がある。頁を飛ばすと、せっかくの血痕を見落とすからね」 「君の比喩は時々物騒だ」 「物騒な夜にはよく似合う」 陵介が最後のキーを押すと古い作業場の明かりが一斉に落ちた。代わりに、モニターから極彩色の光が溢れ出す。 秋葉原の狭い雑居ビルの一室が、ほんの一瞬だけ、現実の外側へ口を開いたように見えた。 藤原はポケットの中の古い携帯電話に触れた。 冷たい。まだ、ただの端末の温度だった。 その先に何が仕込まれているのか、彼は知らない。 3 極彩色の光に呑まれた瞬間、藤原遼輔は落下する感覚を覚えた。 足元が消え、床が消え、秋葉原の狭い作業場も、古びた機械の匂いも、天井に絡みついた配線も、すべてが遠ざかっていく。代わりに、無数の光が視界の奥へ流れ込んできた。 看板。文字列。壊れたアイコン。誰かの顔に似た広告。数字の雨。ノイズ混じりの歌。聞き取れない言語の売り声。 それらが渦を巻き、藤原の身体を通り抜けていく。 「う……っ」 思わず目を閉じた。 次に松葉杖の先が硬い地面を叩いた時、そこはもう秋葉原ではなかった。 藤原は息を詰め、ゆっくりと目を開ける。狭い路地の両側には、背の高い建物が隙間なく並んでいる。ビルなのか、データの塊なのか判別できない。壁面はネオンで埋まり、看板には日本語、英語、中国語、機械語じみた文字が乱雑に走っていた。 屋台が並んでいる。 ただし、売られているものは食べ物ではない。 「一日だけ使える認証鍵」 「削除済み記憶、訳あり品」 「廃棄アプリアイコン詰め合わせ」 「匿名アバター即日発行」 そんな文字が、怪しく発光している。 フードを被った小さな影が、いくつも道を行き交っていた。人間にも、アプモンにも見える。けれど誰も顔をはっきり見せない。互いの正体に興味を持たないことが、この街の礼儀なのだと、空気だけで分かる場所だった。 「ようこそ、サイバー九龍へ」 隣で陵介が言った。 その声は、秋葉原にいた時より少しだけ弾んでいる。 「ここはディープウェブの裏路地、検索窓から落ちた者たちの吹き溜まり、忘れられた悪意の商店街だ。なかなか良い街だろう?」 藤原は答えず、松葉杖を握る手に力が入る。 サイバー九龍の路地は、歩くたびに角度を変えるようだった。先ほどまで正面にあったはずの看板が、次の瞬間には背後にある。屋台の店主は誰も目を合わせず、フードの奥から淡い光だけを覗かせている。 「迷子になったらどうするんだい?」 「迷子というのは、帰る場所を信じている者の特権だよ」 「答えになってない」 「帰り道なら私が覚えている」 「それを先に言ってほしかったな」 「安心は先払いすると価値が落ちる」 藤原はため息をついた。 この少年といると、常に会話が遠回りをする。けれど、その遠回りの最中で、必要な情報だけは不思議と落としていく。 陵介は迷う様子もなく、サイバー九龍のさらに奥へ進んでいった。やがて、ひときわ細い路地に入る。 そこは表の通りより暗かった。ネオンの光も届きにくく、代わりに壁面の亀裂から緑や紫のコードが植物の根のように這い出している。 路地の突き当たりには、古い修理工房のような場所があった。看板には、読めない文字で店名らしきものが書かれている。 「ここも君のアジト?」 「正確には、私が他人のアジトを私のものとして使っていた場所だ」 「それは君のアジトとは言わないんじゃないかな」 「所有権という概念は、ディープウェブでは少々湿気に弱い」 陵介は扉へ手をかざす。 扉の表面に、小さな円形の認証窓が浮かんだ。 数秒後、扉は音もなく開いた。 中は、秋葉原の作業場よりさらに奇妙だった。 棚には、壊れたアプリアイコンが瓶詰めにされている。机の上には、液晶が割れたデヴァイス、古いスマートフォン、謎のチップ、黒い羽根のようなデータ片が散乱していた。天井からはケーブルが垂れ、奥の壁には赤い照準マークが何重にも描かれている。 藤原は、室内に入った瞬間、ポケットの中の古い携帯電話が小さく震えたことに気づいた。 「それを出したまえ」 藤原は秋葉原で渡された携帯電話を取り出した。 見た目は旧式の端末だ。 「これ、やっぱり普通の携帯じゃないんだね」 「普通の携帯電話は、普通に使えば普通の携帯電話だよ。普通ではない使い方をすれば、少し違う名を名乗り始める」 「その説明、普通に分かりにくいよ」 「なら、今から分かりにくさを増やそう」 陵介は携帯を受け取ると、机の上に置いた。 次に棚の奥から、二つの小さなカプセルを取り出す。 一つは、青紫色の丸いアイコンのようなものだった。中央に単眼じみたレンズがあり、周囲にセキュリティマークのような輪郭が浮かんでいる。 もう一つは、赤い削除マークを思わせるアイコンだった。深い青の下地に、ゴミ箱のような印が光っている。 藤原はそれらを見比べる。 「これは……デジモン?」 「近いが、少し違う。アプリから生まれたものたちだ。アプモン、と呼ぶのが一般的かな」 陵介は青紫色のカプセルを指先で叩いた。 「こちらはギズモン:AM。システムを守るために作られ、守るついでに敵を消し飛ばすことを覚えた困った番犬だ」 次に、赤い削除マークのアイコンを見た。 「こちらはリーパモン。不要なデータを切り出し、削除する。几帳面で綺麗好き。もっとも、何を不要と見なすかは本人の基準次第だがね」 「その二体のチップを、これに入れるのかい?」 「そうだよ」 陵介は工具を手に取り、携帯電話の背面を開け始めた。 その手つきは、子供のものではなかった。小さな指が迷いなく基板を外し、ケーブルを接続し、カプセルから細い光を引き出して端末の内部へ流し込む。ギズモン:AMの単眼が一瞬だけ点灯し、リーパモンの赤い印が短く瞬いた。 声はなく、抗議もない。 そこに生命があるのか、ただのプログラムなのか、藤原には分からなかった。 「この子たち、自我はあるのかい?」 陵介は作業の手を止めなかった。 「少なくとも私はそれらが発生するよう作ってない。リョースケくん。生命と道具の境界は、君が思うほど優しく引かれてはいない。世の中には道具として扱わなければ救えない生命もあれば、生命扱いするとかえって壊れる道具もある」 「それは、君の都合じゃないのかい?」 「もちろん」 陵介は平然と答えた。 「私の行動に、私の都合が含まれていなかったら、その方が恐ろしいだろう?」 言っていることは無茶苦茶なのに、どこかで真実に触れている気もしたからだ。数分後、陵介は携帯電話の背面を閉じた。画面に二つの小さなアイコンが並ぶ。 青紫の単眼。 赤い削除マーク。 その下に、見慣れない文字が浮かび上がった。 【GIZMO PHONE】 「ギズモ携帯」 陵介は満足そうに言った。 「なかなか愛嬌のない名前だ。気に入った」 「何に使うものなんだい?」 「連絡用だよ」 「本当に?」 「場合によっては、少々強い通知を送ることもできる」 「少々強い通知って?」 「迷惑電話より静かで、着信拒否より強引なものだ」 藤原は端末を受け取る手を止めた。 「……やっぱり持たない方がいい気がしてきた」 「そう言わずに。君には似合うよ」 「携帯電話が?」 「いいや。誰にも警戒されない切り札が」 その言葉は、軽く言われた。 しかし藤原の胸に、小さく引っかかった。 「切り札?」 陵介はにこりと笑った。 「比喩だよ」 「君の比喩は、だいたい後から本当になる」 「なら、信用してもらえているということだね」 「そういう意味じゃない」 陵介はギズモ携帯を藤原に渡した。 端末は、さっきよりわずかに温かい。 「合図があるまで、余計なところは触らないこと」 「合図?」 「電話をかける時は、相手の都合を待たないことも大切だ」 また分からない言い方だ。 藤原が眉を寄せると、陵介は自分の端末を取り出し、何かを操作した。 次の瞬間、藤原の手の中でギズモ携帯が震えた。 着信音は鳴らない。 ただ、画面に名前だけが表示される。 【もう一人のリョースケ】 藤原は顔を上げた。 陵介はすぐ隣に立っている。 「……何をしているのかな」 『聞こえるかい、もう一人のリョースケ』 ギズモ携帯から陵介の声がした。 肉声と、端末越しの声が、わずかにずれて重なる。 藤原は画面と陵介を交互に見た。 「隣にいるんだから、普通に話してくれないかな」 『通信試験とは、離れた相手の声が届くか確かめる儀式だ』 「離れてないよ」 『心の距離はまだ多少ある』 「切るよ」 『冗談だとも。半分はね』 藤原はため息をつきながら通話を切った。 陵介は、どこか愉快そうだった。 「よし。通話機能は問題ない」 「他に問題がありそうなんだけど」 「問題のない道具など退屈だよ」 その時だった。 店の外から、複数の足音が聞こえた。 いや、足音と言うべきか迷う。硬い靴底、金属の爪、データのノイズ。そうした音が混じった気配が、扉の外に集まってくる。 陵介の表情が、ほんの少しだけ変わった。 「予定より早いな」 「偽物?」 「いいや」 扉が乱暴に開いた。 フードを被った数人の影が、修理工房の入り口を塞いだ。人間の形をした者もいれば、アプモンらしき小柄なものもいる。顔の代わりに発光する数字を浮かべた者もいた。 そのうち一人が、陵介を指差した。 「照合一致。無量塔陵介」 藤原の心臓が、嫌な音を立てた。 「本当に子どもだ」 「だが顔は一致してる。ランドセルなんて趣味の悪い偽装しやがって」 「脱獄後の賞金、まだ有効だ」 「生け捕りなら上乗せだろ」 藤原はゆっくりと陵介を見た。 言葉が、頭の中でつながっていく。 無量塔陵介。 脱獄。 賞金。 指名手配。 どこかで見た顔。ニュースの見出し。駅のモニター。東京で起きた事件。自分が深く追わずに流してしまった情報の断片。 それらが一斉に、隣の少年へ集まった。 「君……」 藤原の声は、思ったより低かった。 「指名手配されている、無量塔陵介なのか」 陵介は入り口の連中を見たまま、答える。 「世間というものは、私のことが好きすぎるらしい。名前を出すたびに金額が付く」 「ふざけないでくれ」 藤原の言葉に、陵介は初めて彼を見上げた。 その目には、笑みがあった。 だが、いつもの軽薄さだけではない。何かを測っている目だった。 「リョースケくん。今は少し待ってくれたまえ。怒るなら、邪魔者を片づけてからの方が声がよく通る」 フードの一人が舌打ちした。 「余裕ぶってんじゃねぇよ、脱獄犯」 別の影が手をかざす。 空中に拘束用のコードが走った。光の縄が陵介へ伸びる。 陵介は動かなかった。 ただ、足元を軽く鳴らした。 次の瞬間、路地全体の看板が一斉に反転した。 【無量塔陵介 照合中】 【無量塔陵介 照合中】 【無量塔陵介 照合中】 表示された顔写真が、賞金稼ぎたちの顔へ次々と変わっていく。 「は?」 「おい、俺の顔が」 「やめろ、気色悪い」 陵介は指を軽く振った。 路地の床が、ブロックのようにずれた。 賞金稼ぎたちの足元だけが、音もなく抜け落ちる。彼らは叫び声を上げる間もなく、下層へ向かって落ちていった。 路地は再び静かになる。看板の表示も、何事もなかったように元へ戻った。 藤原は、しばらく何も言えなかった。陵介は乱れた帽子の位置を直す。 「大した相手ではなかったね」 「大した相手じゃない……?」 藤原の声が震えた。 怒りだった。 「君は、僕に何も言わなかった」 「何を?」 「脱獄した指名手配犯だってことをだよ」 陵介は少し首を傾げる。 「格子付きの長期滞在施設から、予定を繰り上げて退去したとは話した気がするが」 「それを脱獄って言うんだ!」 声が路地に響いた。 通行人の何人かがこちらを見た。だが、すぐに興味を失ったように歩き去っていく。サイバー九龍では、他人の事情に首を突っ込む方が危険なのだろう。 藤原は松葉杖を握りしめた。 「君は僕を犯罪に巻き込んだのか」 「まだ何も盗ませてはいないし、誰も傷つけさせていない」 「そういう問題じゃない」 「そういう問題でもある」 陵介は静かに言った。 普段のように、すぐ茶化さなかった。 「君を連れてきたのは、私に必要だったからだ。君はテイマーではない。デジモンとの縁も薄い。戦闘記録もなければ、強いデジソウルの痕跡もない。観測する者から見れば、君はまだ舞台に上がっていない観客席の人間だ」 「だから、利用した?」 「そうだよ」 即答だった。藤原は言葉を失う。 陵介は続ける。 「そして、終ちゃんの名前を出せば君が歩くと思った、そう思ったとも。人間が最もよく歩くのは、足ではなく未練に引かれた時だからね」 「君は……」 藤原は言いかけて、止まった。怒鳴りたい言葉はいくつもあった。けれど、そのどれもが喉の手前で絡まった。 シュウくんのの名を餌にした酷い人だ。それでも、自分はまだここにいる。シュウのことを知りたいからだ。 「誰でもよかったわけではない」 陵介は言った。 「君が同じリョースケだったから、というのもある。字は違う。人生も違う。けれど、偶然というものは、名前を借りて人間の袖を引くことがある」 「それも、利用するため?」 「もちろん」 陵介は少しだけ笑った。 「そして、面白かったからでもある」 藤原は深く息を吐いた。 「君とは友達になれそうにないね」 「気が合うね。私も、友達という言葉は少し早いと思っていた」 「そういう意味じゃないよ」 「では、同行者でどうだろう。たった一晩なら、十分に立派な関係だ」 藤原は返事をしなかった。 その代わり、ギズモ携帯を握る手に力を込める。 「シュウくんの話」 彼は言った。 「約束は、守ってもらう」 「信用とは、疑いながら預けるものだよ。疑いがないなら、それはただの油断だ」 藤原は睨んだ。陵介は、嬉しそうですらあった。 路地を抜けると、サイバー九龍のネオンは少し落ち着いた場所へ出た。壊れた橋のような通路が宙にかかり、その下をデータの川が流れている。川面には、無数の検索ワードが泡のように浮かんでは消えていた。 陵介は橋の端に腰を下ろし、端末を開いた。 「何をしているんだい」 「偽物が最後に残した足跡を見る」 藤原は少し距離を置いて立った。 作業をしながら陵介は藤原の反応などお構いなしに話しかける。 「終ちゃんの人生には、妹君の影がある。影を見るには、光源を探すのが手っ取り早い」 また比喩だろうかと藤原はそう思った。だが、陵介の声は妙に平坦だった。何かを探っている、そんな気配があった。 「君は、シュウくんの妹さんとも知り合いなのかい?」 陵介は画面を閉じた。 「少しね」 「シュウくんとは?」 「無関係ではいられない間柄だよ」 「それは、友達って意味?」 「友達という言葉は、便利すぎて時々雑になる」 陵介は立ち上がった。 「見つけた」 「何を?」 「偽物の次の待ち合わせ場所だ」 彼が指を鳴らすと、空中に地図が浮かび上がった。 それは東京の地図だった。 見慣れた道路。駅名。ビル街。現実の東京そのものに見える。 だが、地図の一角だけが黒く染まっている。 「現実側の座標は東京。だが、実際に開くのは疑似デジタルワールドだ」 「疑似デジタルワールド?」 「現実の景色を模した仮想空間だよ。外見は東京。中身は別物。つまり、東京によく似た東京ではない場所だ」 藤原はサイバー九龍のネオンを見回した。 秋葉原からここへ来て、今度はまた東京へ戻る。けれど、戻る先は本物の東京ではない。今夜、自分はどこまで遠くへ来てしまったのだろう。 「罠じゃないのかい」 「罠だろうね」 陵介は当然のように言った。 「向こうは私を追っているのではない。私が追ってくるように、足跡を置いている」 陵介はランドセルを背負い直す。その仕草だけは、ひどく子供らしかった。 「罠というものは、相手がこちらを歓迎している証拠でもある。せっかく招かれたのなら、玄関先で帰るのは失礼だろう?」 「君は礼儀の使い方がおかしい」 「昔からよく言われる」 藤原はギズモ携帯を見下ろした。 画面には、青紫の単眼と赤い削除マークが並んでいる。何に使うものなのか、まだ分からない。それでも、これを持たされた意味が軽くないことだけは分かっていた。 「僕は、まだ君を信用していない」 藤原は言った。 「それでいい」 陵介は歩き出す。 「信用しなくていい。疑いながらついてきたまえ」 「君は本当に、ひどいことを言うね」 「それでも君は来る」 藤原は何も言えなかった。その通りだった。 シュウの名が胸の奥にある。十五年分の後悔が、足より重い。 そして今、その後悔を利用した少年が、すぐ前を歩いている。 怒りも、不信も、奇妙な縁も、すべてを引きずったまま、藤原は松葉杖をついた。 サイバー九龍のネオンが、背後でゆっくり遠ざかっていく。 4 第3章  次に戻ってきたのは、東京だった。 信号が変わる。赤。青。赤。誰も渡らない横断歩道の上で、光だけが律儀に仕事をしている。 藤原遼輔は松葉杖の先で、アスファルトを叩いた。硬い。 偽物の街でも、地面だけは本物の顔をしていた。 「東京だね。東京に見える東京だ」 無量塔陵介が言った。藤原は答えなかった。 ポケットの中で、ギズモ携帯の角が指に当たる。冷たい。まだ、ただの機械のふりをしている。 街灯の下を歩く陵介の背中は小さい。ランドセルが揺れる。黄色い帽子の縁に、赤信号の光が薄く乗った。 脱獄犯。 藤原は半歩だけ遅れて歩いた。 「怒っているね」 陵介は前を向いたまま言った。 「怒っているよ」 陵介は愉快そうに笑った。 藤原は笑わなかった。 看板の文字が揺れた。 営業中。営業中。営業中。営業中。 途中から同じ言葉だけを吐き続けている。自動販売機の中では缶コーヒーの広告が笑っていた。音はなく、笑顔だけが反復していた。 「ここは、偽物が用意した場所なのかい」 「元々は私がアジトの一つを隠していた場所さ」 「罠だと分かっていて来たんだね」 「歓迎されているなら、顔くらい出すのが礼儀だ」 角を曲がると同じ東京の街並みが続いていた。 同じビル。同じ信号。同じコンビニ。同じ広告。 だが、窓に二人の姿は映らなかった。水たまりにも、街灯だけが沈んでいる。藤原は少しだけ足を止めた。 「どうした?」 「いや」 藤原は首を振った。 「僕たちも、本当はここにいないのかと思って」 「哲学としては悪くない。だが、今は足元を見る方が実用的だ」 陵介が指で示す。 横断歩道の中央に、薄く黒い染みがあった。 油ではない。影でもない。 穴に近い。 街の表面だけが、そこから剥がれかけている。 「足跡?」 「食べ残しだね」 陵介が近づく。 藤原は少し遅れてついていった。 その時、信号がすべて赤になった。 交差点の四方。 ビルの壁面。 閉じた店のシャッター。 自動販売機の取り出し口。 赤い光が、目のように開いていく。 交差点の中央に、見覚えある少年が立っていた。 それだけで、藤原は秋葉原の監視映像を思い出した。 顔は陵介だった。声も、たぶん同じだろう。だがランドセルはない。黄色い帽子もない。今の陵介が身につけた、ふざけた現在がどこにもなかった。 白衣の少年は笑った。 「ドッペルゲンガーを知っているかい?会えば、死んでしまう、そんな話しさ。藤原遼輔、君はどちらを見送る?」 藤原の手が、松葉杖の柄を握り直した。隣の陵介は、笑っていた。 「初対面の挨拶としては陰気だね。花束の一つでも用意したまえよ」 「君は彼を信じていない」 白衣の少年は、藤原だけを見た。 「正しい」 藤原の喉が詰まった。 白衣の少年は続ける。 「その男は君に嘘をついた。名を濁し、目的を隠し、友人の名を餌にした。犯罪者であることも告げなかった。君を連れてきた理由も半分しか説明していない。君は同行者ではない。」 藤原は陵介に視線を送る。陵介は否定しなかった。 「黙っているのかい」 藤原が言うと、陵介は肩をすくめた。 「概ね事実だからね。嘘を混ぜて否定すると、かえって彼の手柄になる」 「君は本当に……」 藤原は言葉を飲み込んだ。怒りはある。けれど、ここで怒鳴れば、目の前の少年に差し出してしまう気がした。 白衣の少年は、わずかに首を傾けた。 「では質問しよう」 赤い信号が瞬いた。 「嘘をついた無量塔陵介と、記録から正しく再現された無量塔陵介。どちらが偽物だ?」 藤原は答えられなかった。白衣の少年は陵介と同じ顔をしている。しかし、隣の少年もまた信用できない。どちらが本物なのか。 そもそも、その問いに意味があるのか。 「質問が下手だね」 陵介が言った。 「本物証明なら役所でやりたまえ。私は今、害虫駆除の途中だ」 陵介の指が、ランドセルの肩紐を軽く叩いた。 「君は私の顔で藤原くんを揺さぶった。いい選択だ。彼は私を信じていない。出会って数時間の脱獄犯を信じる方がどうかしている」 陵介は藤原を横目で見た。 「聞いたかい、藤原くん。君の不信心まで武器にされている。人気者だね」 「笑い事じゃない」 「笑い事にしておかないと、相手の思うつぼだ」 白衣の少年は藤原へ向き直った。 「彼は君を軽んじている」 「そうかもしれないね」 藤原は言った。暫く藤原を観察した向こうの陵介は思案すると、どうでも良さそうに呟いた。 「藤原遼輔。分断、失敗。予定通り無量塔陵介の処理をしよう」 「失礼な客だ。お茶くらい飲んでいきたまえ」 「偽装形態、維持不要」 白衣の裾がほどけ、黒と白の細い帯が、糸をほどくように床へ垂れる。袖の中から腕が消え、代わりに白黒の幾何学模様の紐が何本も伸びた。 少年の顔が割れ、胸の奥に赤い目が開いた。 藤原は息を吸い損ねた。そこにいたのは、もう陵介ではなかった。 黒白の帯がねじれ、人の形を仮組みする。肩らしき場所から触手が垂れ、脚らしきものは路面に刺さっている。頭部には仮面のような硬い輪郭が浮かび、赤い単眼が胸の中心で濡れたように光っていた。 「出るものが出てきた」 陵介の口調は変わらないけれど藤原には分かった。 陵介は、観察していただけだ。どこで姿を捨てるか。藤原をどう測るか。ギズモ携帯に気づくか。それだけを見ていた。 異形の胸の目が、陵介を見た。 「無量塔陵介。回収対象。解析対象。更新対象」 黒白の帯が飛んだ。 速い。藤原には、それが伸びたと分かった時には、もう目の前に来ていた。陵介が前に出る。 路面がせり上がり、薄い壁になる。帯はそれを貫いた。破片が飛び散る。コンクリートに似た欠片は、地面へ落ちる前に数字へほどけた。 「下がっていたまえ」 陵介の声は短かった。 「大丈夫なのかい」 「大丈夫ではない」 「そこは嘘でも大丈夫って言ってほしかったな」 二本目が来る。三本目も来る。陵介は端末を走らせ、空中に防壁を並べた。薄い板が何枚も開く。透明な盾。仮想の壁。光の障子。 帯はそれらに触れ、止まった。 一拍だけ。次の一拍で、盾の表面に黒白の模様が走った。食われている。藤原にも分かった。 「適応が速いね」 盾が割れた。陵介が後ろへ跳び、藤原のすぐ横に着地した。 藤原はギズモ携帯を握った。画面はまだ沈黙している。 観測機の赤い目は、陵介だけを見ていて藤原を見ていない。 「陵介くん」 「何だい」 「僕は、低く見られているのかな」 「当たり前じゃん」 「腹が立つな」 「結構」 藤原はギズモ携帯から手を離さなかった。旧式の携帯電話は、ただの機械のふりを続けている。 陵介はランドセルへ手を入れた。取り出したのは、小さなケースだった。 青い光が中で揺れる、水のヒューマンスピリット。 まだ開けてもいないのに、逃げようとしているようだ。 藤原でも分かるほど嫌がっている。 「それは」 陵介はケースを開いた。 青い光が飛び出そうとする。 小さな手が、それを掴んだ。 光が弾けた。 水音に似た悲鳴が、藤原の耳の奥を打つ。 陵介は眉一つ動かさない。 「君の意見は聞いてないよ」 彼の身体からデジソウルが噴き上がり、手元のスピリットを飲み込んでいく。 「スピリットエボリューション!」 5 青い装甲。水の飾り。細い肢体。妖精じみた姿。藤原にはそれがラーナモンという名のデジモンだと、直感より少し遅れて理解できた。 変身と呼ぶには、あまりに乱暴だったそれは、陵介が水の首根っこを掴んで着たように見えた。 ラーナモンの姿になった陵介は、濡れた路面に静かに立った。 雨音が増えた。 次の瞬間、雨が一点へ集まり、ばらばらに落ちていた雨粒が、針の束のように向きを変える。すべてが異形へ向かった。 「レインストリーム」 四方から、下から、斜めから。東京中の雨が、観測機の胸の赤い目へ殺到した。黒白の帯が押し潰され、路面が沈む。 「効いているのか……?」 答えはすぐに来た。異形の黒白の帯が、雨の中でほどけた。 潰されたはずの腕が、水圧の隙間に細く伸びる。帯が何本にも割れ、雨を受け流す形に組み替わった。 赤い目が光る。 「これはどうかな」 雨の色が変わった。 透明だった雨粒に、薄い青緑が混じる。 落ちた場所が、じゅっと鳴った。 道路標示が溶ける。信号機の塗装が剥がれる。異形の帯が、煙のようなノイズを上げた。 「ジェラシーレイン」 雨が酸になった。黒白の帯が、何本も途中で千切れた。赤い目の周囲が濡れ、輪郭がぼやける。 ほんの一瞬だけ、勝ったように見えた。しかしその一瞬は短すぎた。 溶けた帯の奥から、新しい帯が伸びた。 雨に触れた部分を捨てる。捨てた先から組み直す。組み直した帯が、雨粒の落ちる道をなぞる。 藤原は気づいた。 ラーナモンの力が弱いのではない。相手が、違う。 普通のデジモンと戦うものではない。デジモンを見て、読み、崩し、食べるための何か。 「陵介くん!」 藤原の声は雨に割れた。 陵介は振り返らない。 ラーナモンの足元で水が暴れている。彼を守るためではない。逃げるために波立っている。ラーナモンの輪郭がぶれる。 肩の飾りが乱れ、足元の水が黒白に濁る。青い光が、嫌がるように跳ねた。 陵介の笑みが、少しだけ歪んだ。 「なるほど」 息が混じる。 帯が一斉に伸びた。一本が腕に巻きつく。一本が腰を締める。一本が脚を捕らえる。 さらに細い帯が、水の装甲と身体の境目へ入り込んだ。ラーナモンの姿が、ほどけかける。 雨が強くなった。まるでラーナモンが悲鳴を上げているようだ。 藤原の胸が冷えた。 「やめろ……」 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。 異形か。 陵介か。 それとも、自分か。 赤い目が近づく。 観測機の胸の単眼が、拘束されたラーナモンを覗き込む。見る、というより開いている。取り込むために開いている。 陵介は吊られたように動けなかった。 それでも、目だけは藤原を見た。 雨の奥で、笑っていた。 「リョースケ」 藤原の心臓が跳ねた。 同じ名前。 呼ばれたのは、自分だった。 分かっていた。 「電話だよ」 ポケットの中で、ギズモ携帯が震えた。 一度。 短く。 サイバー九龍の試験通話と同じだった。藤原は携帯を取り出した。 画面が勝手に開いた。黒い画面に、紫の文字が浮かぶ。 【CROSS ARTS】 藤原は息を止めた。 「何を……」 雨の中で、陵介の声がかすかに届く。 「撃て」 異形の帯が、ラーナモンの胸元へ深く入り込む。 青い光が剥がれかけた。 撃てば、巻き込むのではないかと思った。藤原は歯を食いしばった。 「僕は」 雨が口に入った。 酸の味はしなかった。 「僕は、君をまだ信じていない」 陵介が笑った気配がした。 「結構」 「でも」 藤原は携帯を握りしめた。 「見ているだけは、もう嫌だ」 画面の紫が、掌から溢れた。紫の光が、藤原の手の中で骨組みを作り、銃の形をしたホログラムを形成する。 重さはほとんどない。 それなのに、ひどく重かった。 照準の輪が、雨の中に開く。 一つ。 二つ。 三つ。 紫の円が、異形の赤い目に重なった。 異形が初めて藤原を見た。 赤い目が動く。 遅い。 遅すぎた。 「脅威評価、更新」 その声が終わる前に、藤原は引き金を引いた。 「クロスアーツ・ストライク!」 紫の光が走った。黒白の帯が、途中で止まる。雨粒が空中で止まる。赤い目が、大きく開いたまま動かない。 異形の周囲に、細い枠線が走った。 不要。 そう書かれたわけではない。 だが藤原には、そう処理されたのだと分かった。そこにあるべきではないものとして、世界から隔離され削り取られたようだ。 黒白の帯は、何かに戻る前に消えていく。 赤い目だけが最後まで残った。 それは陵介を見ていなかった。藤原を見ていた。遅すぎる視線だった。 赤い目が消えた。 雨が落ちた。 止まっていた時間が、遅れて崩れた。 異形のいた場所には、何もなかった。穴もなく、破片もない。 ただ、そこにいたという事実だけが、薄く抜き取られていた。 藤原の手の中で、ホログラム銃が砕ける。 元の携帯電話が戻ったが黒く焦げていた。画面は割れ、端から煙が細く上がっている。 熱い。 藤原はそれを落としそうになり、両手で受け止めた。 「中にいた……」 声が震えた。 「リーパモンと、ギズモンは」 答えはなかった。ラーナモンの姿が崩れる。 青い光が弾け、陵介の身体から水のスピリットが飛び出した。小さな光は、濡れた空気を裂くように逃げようとする。 陵介は膝をついたまま、片手を伸ばした。 青い光を掴む。 今度は先ほどより弱々しかった。 それでも、まだ嫌がっていた。 「契約終了とは言っていないよ」 陵介は低く言った。 青い光をケースに押し込める。 「今のは」 藤原は言った。 「役目を終えたよ」 陵介は答えた。初対面の時よりも顔色は悪い。 それでも笑っている。 「そういう話じゃない」 「そういう話だ」 陵介はゆっくり立ち上がった。 膝が一度だけ揺れた。 藤原は手を伸ばしかけたが伸ばした手を、止めた。 「良い一撃だった」 「僕が撃ったんじゃない」 「君が引き金を引いた」 藤原は答えられなかった。 雨はもう、ほとんど止んでいた。コンビニの明かりが戻る。信号がまた、赤から青へ変わる。誰も渡らない横断歩道に、薄い水たまりだけが残っていた。 その水たまりにも、二人の姿は映らなかった。 藤原は焦げた携帯を握った。 6 「出口は?」 藤原が聞くと、無量塔陵介は交差点の先を指した。 「そこだよ」 そこには、来た時と同じ膜があった。街の景色が、そこだけ少し揺れている。閉じ込められていたわけではないらしい。 「行こうか」 陵介はランドセルを背負い直した。黄色い帽子のつばを整える。ケースをランドセルの奥へしまう。 水のヒューマンスピリットはまだ嫌がっている。 藤原は見なかったことにできなかった。 「それも、また使うのかい」 「使い切りじゃ無いんだから必要な限り使うさ」 藤原は唇を結んだ。 二人は膜を抜けた。遠くでトラックが走る音。どこかの換気扇。新聞配達のバイク。始発前の東京が、眠りの底で身じろぎしている。 現実の空は、薄く青かった。夜明け前。 陵介は歩道の端に腰を下ろした。ほんの一瞬だけ、疲れたように見えた。 「助かったよ、藤原くん」 丁寧な声だった。 「君がいなければ、少々面倒なことになっていた」 藤原は、焦げた携帯を握りしめた。 「最初から、僕に撃たせるつもりだったのか」 「可能性の高い未来としては、かなり早い段階で見えていた」 否定はしないし言い訳もなかった。 「君は僕に、君を助けさせたんだ」 陵介は目を細めた。朝の薄明かりの中で、その顔は本当に子どものようにも見えた。 「結果としては、双方生存した。悪い取引ではなかっただろう?」 「取引をした覚えはないよ」 陵介は立ち上がり、藤原の手の中のギズモ携帯を指差した。 「それは君に譲ろう今夜の功労賞だ」 「譲る?」 藤原は、思わず携帯を見下ろした。画面は割れて、外装は焼け、端の一部が溶けていた。もう起動する気配はない。鳴ることも、光ることもない。 「こんなものを?」 「もう危険物ではないよ。おそらくね」 「おそらく、は余計だ」 「完全な安全宣言は高価なのでね」 陵介は軽く言った。 藤原は笑えなかった。 「中にいた子たちは」 言葉が喉に引っかかった。 「リーパモンと、ギズモンはどうなった」 「道具は役目を終えたよ」 「そういうことを聞いているんじゃない」 「では、聞かない方がいい」 藤原の指に力が入る。割れた画面の端が、掌に食い込んだ。 「君は不誠実だ」 「よく言われる」 陵介は帽子を直した。朝の風が、灰色の髪を揺らす。 「改めて礼を言うよ。ありがとう、藤原遼輔。君は良い協力者だった。私たちはもう親友も同然だろう」 「最悪の褒め言葉だ」 空が、少し明るくなった。藤原は、最後に聞かなければならないことを思い出した。 いや、最初から忘れていなかった。 「君は結局、シュウくんの何なんだ」 朝の音が遠ざかった気がした。陵介は、すぐには答えなかった。藤原は続ける。 「友達だと言ったね」 「そう聞こえる言い方をしたかもしれない」 「逃げるな」 陵介は笑った。今度の笑みは、少しだけ薄い。 「友達という言葉は、本人がいない場所で勝手に使うには少し重い」 「じゃあ、違うのか」 「さあ」 「さあ?」 「関係に名前をつけるのは難しい。特に、片方がその場にいない時はね」 「また曖昧な言葉だけ残すのか」 「曖昧な言葉って意外に便利だ」 「君は」 藤原は言いかけて、やめた。彼と話しても煙に巻くだけで答えには辿り着けない、徒労に終わるだけだろう。 「では、またね。リョースケ」 「二度と会いたくないよ」 「それは残念だ」 彼は角を曲がり、黄色い帽子が消えた。藤原はしばらく、その場に立っていた。