彼女にとっての不幸は、ちょうどその生物が繁殖期を迎えていたこと。 加えて、体内にその生物の雄が放つ――異性を惹きつける化学物質への受容体があったこと。 脚はゆらゆらと自分のものでないかのように動く。行き先も知らず、果ても知らず。 思考には桃色の霞が掛かり、心拍数の上昇と留まることを知らぬ高揚が彼女を後ろから押す。 全身を包む青い肌着の中に押し込められよた肢体には、隈無く汗をかいていた。 無論、股間からは汗とは明らかに別種の液体がぬとぬとと垂れ落ちているのである。 香りに導かれた先、やや開けた森の中の一角にて、彼女は誰に呼ばれたかを理解した。 それは一匹の、この星に生息する昆虫の類であり、大きさは地球人種の子供程度。 背中に生えた羽根で滞空しながら――羽ばたきによって、化学物質を撒き散らしている。 本来なら、これは同種の雌に向けて、交尾の誘いをかけるための器官であり、 他の種族の雌に対しては、ほとんど誘引効果を発揮しない。 せいぜいが、天敵にその存在を知らせてしまう危険と隣り合わせの行為であり―― ゆえに彼は、目の前に明らかに自分とは違う大柄な何かの現れたことに、強く警戒していた。 匂いを撒くのをやめ、少し飛んで逃げる。また、羽根を開いて匂いを拡散する。 するとまた、その青い大きな影は近寄ってくるのであった。逃げては追い、逃げては追い。 繁殖期という生物にとって最も重要な期間を無為に費やすのは、極めて無駄が大きい。 そしていよいよ、覚悟を固めた虫は――威嚇のために身体を目一杯に広げて、 自分の体躯を、謎の天敵に見せつける。狩っても割に合わないと思わせようとする。 だが、そいつは逃げようとしない。むしろ、じりじりと、近寄ってくるのである。 これまで数多の惑星で、数え切れない種類の生物の調査や討伐をこなしてきた彼女にとって、 不意に生物の排出する化学物質を取り込んでしまうこと自体は珍しいことではない。 事実、ある寄生生物に取り憑かれ――生死の境をさまよったことだってある。 だが今回のものは、あまりに効きが良すぎた。彼女の思考はまともに成立せず、 火照りと疼きとが断続的に心身をかき乱し、“なんとか”したくてたまらない。 そしてようやくその根源を見つけたのだ――ならば、責任を取ってもらうのが筋であろう。 女は、虫の威嚇音を気にも留めずに、汗で不愉快に群れた肌を、服の内より取り出す。 大きな乳房が外気に触れて、ぶるん、と音を立てるかのように重たく揺れた。 胸の谷間に溜まっていた汗が、風に乗って周囲に甘ったるい雌の匂いを吐いた。 そして指先は上半身から下半身へ、交尾のための器官を彼に差し出すために降りていく。 虫は、目の前の影が敵意を持っていないことだけは理解したが、 なぜそこから、発情した雌の体臭――すなわち彼の求愛への返事があるかわからなかった。 それはこのような異種族に対してではなく、同種の雌にのみ向けられているからである。 女は、うっとりした顔で――半裸体を、彼の前にさらけ出すのであった。 股間の火照りを冷ますために、手でぱたぱた扇ぐと、それに従って体臭が立ちのぼる。 虫の周囲には、鼻聡く集まってきた他の雄たちの気配が色濃く漂ってきた。 互いの匂いの混交という、雄同士にとって共倒れを引き起こす禁忌を犯してなお、 そこに交尾のできる雌がいる、という情報は魅力的なのである。 ただ問題は、それが異種であろうこと、であった。交尾の目的は、子孫を残すこと。 その目的の達成できない相手といくらまぐわったとて、生命を無駄に消費するだけ。 逆に、他の雄がこの雌に惹かれてくれたなら、その分競争相手が減ることにも繋がる。 虫の脳内ではどちらがより合目的的であるかの計算が瞬時に繰り広げられ―― 遠ざかっていく羽音。それは十や二十では済まない数であるらしかった。 彼は結局、無駄になる可能性を含めて、この雌に種だけは蒔いておくことにした。 交尾の相手としては、雌が大柄であればあるほど、強く頑丈な身体を持つ子を期待できる。 その観点に立つならば、彼の体躯の数倍はあるこの雌は、十分に魅力的に映る。 しかし、随分と外骨格が柔らかい――取り付いてもぶにぶにと歪んで、掴みどころがない。 その不気味さを押し殺しながら、虫の性器はやはり柔らかにひくつく内臓目掛け突き刺さる。 性器を介しての有性生殖の原理は、星や種を跨ごうと根本的に変わるところはないのである。 やがて精をその中に吐き終え――性器を引き抜いて雌から離れようとする彼の身体を、 女はがっしりと掴んで引き寄せた。いくらもがかれようが、放しはすまいと。 雄からすれば、種付けを行った以上、次の雌とや交尾に移っていきたいのが本音。 それを、この雌は邪魔してきて――どこかへと連れ去っていこうとするのである。 噛みついても、いつの間にか纏い直していた表皮らしき青い皮に裂け目のできるだけ。 赤子を抱き抱えるのとちょうど同じ格好で、虫は懐に引き込まれてしまう―― そして彼の移された先は、彼女が停泊させていた宇宙船の中の一室であった。 木と土と草の溢れる世界から、四角く無機質な異世界へと運び込まれて、 出口を求めて暴れる姿は、酷く滑稽なようにも映る。そして女はその姿を見て笑うでもない。 開けた空間にて、あれだけの効果を発揮していたのだ――閉鎖空間に引きこもっていれば、 彼の体表に残る残滓ですら、彼女を酔わせるには十分すぎる効果があった。 既に種付けをされたはずなのに、女はさらに彼に交尾をねだって身体を開く。 その匂いは――逃げることも許されず、苛立ちを感じ始めていた彼に行動の指針を示す。 ここで、この雌と交尾することが最も合理的な立ち回りである、と。 銀河最強とまで謳われた伝説の賞金稼ぎが、虫けら一匹に媚びる浅ましい姿を晒すなど。 だがそれを笑うようなものも、この星にはいない。星の海よりわざわざ降りて、 芥子粒のような宇宙船一つ探しにくるような物好きだっていないだろう。 ただ女は、自分の用意したこの巣の中で――引きずり込んだ雄相手に、 ひたすら、交尾をねだり、種を受け――孕もうと、する。 そして彼女の肉体は、単なる地球人種としてのそれに留まらず―― 遺伝子改造の影響を受けて、鳥人族も、その作り出した人工生命も、 果ては件の寄生生物、その犠牲になった数多の原生生物たちの遺伝子さえも取り込んでいる。 その中に、この虫たちの放つ物質への受容体も含まれてしまっていたのだった。 至近距離で虫から放たれる濃厚な匂いが、彼女の理性を粉微塵に吹き飛ばす。 狭い室内、風もない。脳が蕩ける。目が眩む。言葉が輪郭を失って獣の声へと成り果てる。 ひたすら――交尾に耽り、使命も忘れ、ただ、孕むだけのものになっていく。 卵にて増える彼らは、母の胎内にて個体を生育する仕組みを知らぬ。 いつまで経っても卵を出さない、自分を解放しない石雌の臨月胎へと、苛立ちながら精を吐く。 だからといって、外に逃げる手立てのあるでもなく――無駄にした時間は幾星霜か。 身重でありながら――異種との交尾に溺れる己を、女自身恥じてはいよう。 だが化学物質によって刺激される本能が、そんな些末な理性などを許さない。 あらゆる全ての判断基準の最上位に、彼との交尾を位置づけてしまう。 床にも、壁にも、天井にも、彼の撒いた物質がべっとりと塗りたくられている。 もはやこの部屋はおろか、船内に一人でいるだけで正気を保っていることはできまい。 ぱんぱんに張った胎も胸も、自分が母親になりゆくことを彼女に突きつける。 けれども――やはり、この行為に勝るものは何一つ存在しないのであった。 女の胎より出でたものは、内骨格と外骨格を半々に混ぜた虫と人との中間的な存在。 そして父親譲りの――異性を誘う香りを放つ力と、母親譲りの母体としての強さを併せ持つ。 彼女の娘たちが、この惑星の遺伝子を汚染しきるまで永い時間は掛からないだろう。 生態の保護という任務を忘れ――女はまた、呪われし混ざり子をひり出すのであった。