# 第一話 成人の儀と、銀の仮面  十二歳の成人の儀で、俺は二度目に目を覚ました。 「ユアン・グレイ。前へ」  祭司に呼ばれ、俺は列から一歩出た。  白い石造りの礼拝堂。磨かれた床。春の光を透かす色硝子。壇上には人の頭ほどもある透明な結晶が置かれ、その向こうで祭司が退屈そうに欠伸を噛み殺している。  見慣れた景色だった。  同時に、初めて見る景色でもあった。  封じていた意識がほどける。十二年分の記憶が堰を切って流れ込み、両親の顔も、妹の笑い声も、村外れの小川で転んだ日の痛みも、自分のものとして胸の内に収まった。その下から、さらに古く、重い人生が浮かび上がる。  燃える空。  崩れる都市。  手に入れるはずだった家督も、積み重ねた実績も、父に認めさせるため費やした時間も、何もかもが地球ごと消えた最後の日。  そして、何もない白い場所で告げられた言葉。 『転生に際して、一つだけ特典を選べます』  提示されたものは豪勢だった。無限の魔力。あらゆる武術の才能。完全鑑定。空間収納。絶対防御。不老不死。成長限界の撤廃。どれも新しい人生を有利にするものばかり。  俺は一つも選ばなかった。 『いかなる制約にも束縛されない自由を』  案内役らしい光の塊が、しばらく沈黙した。 『その願いは、能力の範囲を定義できません』 『定義されるなら自由ではない』 『矛盾しています』 『世界が滅んだ直後に面接を続けている状況よりは、ましだろう』  我ながら感じの悪い返しだった。だが、愛想よく振る舞う人生には飽きていた。幼い頃から正しく笑い、正しく学び、正しく人を立て、家と他人のために自分の時間を差し出し続けた。ようやく全部を手に入れるところまで来て、星ごと帳消しにされたのだ。  次くらい、何にも縛られたくなかった。 『……受理します』  受理された瞬間、俺は試しに無限の魔力を望んだ。  使えた。  不要だと思えば消えた。完全鑑定も、絶対防御も、空間収納も同じだった。一つだけという制限は、俺には適用されなかった。姿も変えられた。能力も出し入れできた。結果も、必要なら元に戻せた。  笑うしかなかった。  だから最初に、自分の情報を完璧に偽装した。次に、赤子から十二年も意識を保って過ごすのは御免だと告げ、成人の儀に合わせて目覚めるよう仕込んだ。  その結果が今だ。 「手を」  祭司に促され、俺は結晶へ右手を置いた。  淡い光が内部に満ち、文字が浮かぶ。  ユアン・グレイ。十二歳。人族。  体力十一。筋力十。敏捷十二。魔力九。  適性、風。微弱。  固有技能、なし。  生活技能、道具手入れ一。  実に凡庸だった。平均からわずかに上下させ、作為すら感じさせない。完璧な偽装とは、派手に隠すことではない。誰の記憶にも残らないことだ。  祭司は一度だけ結晶を見て、すぐ俺へ視線を戻した。 「風の適性が少しある。努力すれば、荷運びや乾燥の術くらいは覚えられるだろう。道具手入れも悪くない。父親の仕事を継ぐなら役に立つ」 「ありがとうございます」  十二年の眠りから覚めた直後でも、礼儀は崩れなかった。  嫌になるほど身に染みている。  後ろの席で母がほっと息を吐き、父が腕を組んだまま小さく頷いた。八歳の妹リネだけは、もっと派手な光が出ると思っていたらしい。頬を膨らませている。  俺は壇を下り、同い年の子供たちの列へ戻った。  誰も俺を見ていなかった。  素晴らしい。  人生で初めて、凡庸であることに成功した瞬間だった。  *** 「ねえ兄さん、本当に冒険者にならないの?」  夕食の卓で、リネが三度目の質問をした。  成人の儀を終えた日の食卓には、母が奮発した鶏の香草焼きが並んでいた。父は木工職人で、母は仕立ての内職をしている。裕福ではないが、食事に困るほど貧しくもない。  俺が望んだ通りの、ごく普通の家だ。 「ならないとは言ってない。今すぐなる気がないだけだ」 「でも風の魔法が使えるんでしょ?」 「頑張れば洗濯物を少し早く乾かせる程度らしい」 「すごいじゃない」 「我が家の救世主だな」  父が真顔で言い、母が笑った。  救世主。  縁起でもない言葉に、鶏肉を喉へ詰まらせかけた。 「ユアンは手先が器用だから、工房を手伝ってくれるだけでも助かるよ」  父はそう言ったが、強制する響きはなかった。継いでもいい。別の道へ進んでもいい。そのうえで、残ってくれれば嬉しいと顔に書いてある。  前の父なら、家督を継ぐ以外の選択肢を口にしただけで、失望を礼儀正しい言葉に包んで突きつけただろう。  この家の温かさは、俺を縛らない。  だからこそ、少し困る。 「しばらく手伝うよ。その後は考える」 「そうか」  父はそれだけ言って、酒を一口飲んだ。  決めるのは俺だ。  たったそれだけのことが、妙に胸へ残った。  夜が深まり、家族が眠るのを待った。十二年間を過ごした少年の記憶があるせいで、床板のどこが鳴るかも分かる。俺は音を立てずに窓を開けた。  そして思う。  完全隠密。  世界から気配が薄れた。呼吸も、衣擦れも、窓を押す指先の音さえ消える。次に空間転移を望む。  視界が反転した。  気づけば村から半刻ほど離れた森の中に立っていた。月明かりが枝葉を縫い、湿った土を青白く照らしている。 「便利すぎるな」  呟いて、完全隠密と空間転移をいったん手放した。  使える。  外せる。  前に確認した通りだったが、別世界へ生まれた後も問題なく機能している。胸の奥に小さな笑いが込み上げた。  誰にも命じられていない。誰の許可もいらない。必要なものを必要なときに選び、いらなくなれば捨てられる。  自由だ。  俺はまず姿を変えた。  前世の十五歳頃を土台に、髪を銀へ。顔立ちは当時より少し整え、瞳は夜でも目立つ淡い金色にする。十二歳の体より頭一つ高くなり、細かった手足にしなやかな筋肉が乗った。  服は黒。外套も黒。顔の上半分を覆う、艶のない仮面を作る。  水たまりに映った姿は、匿名を守るには少々派手だった。 「銀髪はやりすぎか」  元へ戻そうとしたが、やめた。  地味である必要があるのはユアン・グレイの方だ。こちらは誰にも正体が割れなければいい。何より、好きな姿で歩ける自由まで自分で捨てる理由はない。  次に万象鑑定を呼び出した。  木々の名称、樹齢、水分量、根の深さ。土中の虫の数。風の成分。月までの距離。森に潜む魔物の位置。知ろうと思えば、世界の裏側まで情報が押し寄せてくる。 「これは疲れる」  手放す。  無限収納。  足元の石が消えた。意識を向けると、時間の止まった広大な空間に石が一つ浮かんでいる。戻せば掌へ落ちた。  全属性魔術。  指先に火、水、風、土、光、闇が順番に灯る。六色を混ぜると白い球になり、周囲の魔力がざわついた。 「目立つ」  消した。  剣神。賢者。神速。絶対防御。状態異常無効。自動蘇生。経験値増幅。幸運補正。  呼べばどれも応じた。  だが、全部を常時使う気にはなれない。危険も失敗も一切ない遊びは、自由というより退屈に近い。俺は身体能力を、この世界の一流冒険者より少し上という程度に調整した。魔力も同じだ。  できることと、やることは違う。  その選択まで自分で決められるからこそ、価値がある。  木立の向こうで、何かが鳴いた。  鳥ではない。  続いて、短い悲鳴が上がった。  俺はその方向へ顔を向けた。 「……知らないな」  森で誰かが危険に遭っている。それは俺の責任ではない。俺は自由を楽しみに来ただけだ。助ける義務も、善人を演じる必要もない。  前世では、頼まれる前から動いた。家のため。社員のため。取引先のため。期待される完璧な後継者でいるため。誰かの問題を見つければ、最適解を出して片づける。それを続けた結果、自分の時間はほとんど残らなかった。  今度は違う。  悲鳴がもう一度響いた。  さっきより近い。子供の声だった。 「……本当に、知らないんだが」  口にした時点で、足はもう地面を蹴っていた。  ***  森を抜けた街道で、荷車が横倒しになっていた。  馬は綱を引きちぎって逃げたらしい。散らばった木箱の間に三人の若者が固まり、その周囲を黒い狼が囲んでいる。普通の狼より二回り大きい。口元から垂れる唾液が、月光を受けて紫に光っていた。  黒牙狼。低級魔物だが、群れれば駆け出しには厄介だ。  三人のうち、剣を持つ少年は右腕を負傷している。弓を持つ少女は矢が残り二本。もう一人の小柄な少年は倒れた商人らしい男を庇い、震える短剣を構えていた。  鑑定を使わなくても十分分かる。  あと十秒で死者が出る。 「伏せろ」  木の上から声を落とした。  三人が一斉に見上げる。狼も上を向いた。 「誰だ!」 「質問する暇があるなら伏せろ。頭まで食われたいのか」  剣の少年が反射的に身を屈めた。  俺は枝から飛び降りた。  着地の前に一頭の顎を蹴り上げる。骨の砕ける感触を靴越しに拾い、そのまま体をひねった。外套が円を描く。二頭目の鼻先へ踵を落とし、三頭目の横腹へ掌を当てた。  衝撃だけを通す。  黒牙狼が街道脇まで吹き飛び、木の幹へ叩きつけられた。  残る四頭が散開する。 「逃げるなら今だぞ」  狼たちへ言ったつもりだったが、小柄な少年が立ち上がりかけた。 「お前じゃない。座っていろ」 「は、はい!」  妙にいい返事だった。  左右から二頭。背後から一頭。正面の一頭は低く身を沈め、俺の喉を狙っている。  遅い。  身体能力を少し上げる。  世界が静まった。  狼の爪が空気を押し、唾液の粒が宙を漂う。俺は一頭ずつ額を指で弾いた。殺す必要はない。群れの四頭が順番に地面を転がり、悲鳴を上げて森へ逃げていく。  静けさが戻った。  少女が弓を構えたまま固まっている。 「何をしている。怪我人を見ろ」 「え? あ、はい!」  俺は倒れている商人のそばへ膝をついた。腹部に爪痕があり、出血が多い。呼吸も浅かった。  完全治癒を使えば一瞬だ。  少し迷ってから、傷口へ手をかざした。  淡い光が漏れる。裂けた衣服の下で肉が繋がり、血が止まった。毒も抜いておく。骨折も二箇所あったので戻した。ついでに虫歯が一本見つかったが、それまで治すと不自然なので放置した。  商人の呼吸が安定する。  弓の少女が目を見開いた。 「無詠唱の治癒魔法……」 「見たことは忘れろ」 「そんな無茶な」 「なら頭を打って忘れるか?」  少女が両手で頭を押さえた。  冗談だ。  半分は。  剣の少年が傷ついた腕を押さえながら近づいてきた。十六、七歳だろう。装備は安物だが、仲間を背に庇おうとする立ち方は悪くない。 「助けてくれて、ありがとうございます。俺たちはリーベルの冒険者見習いです。あなたは……」 「通りすがりだ」 「名前だけでも」 「ない」 「ない?」 「今決めた。俺には名前がない」  名乗れば追われる。偽名を使えば、その偽名に役割が生まれる。呼ばれるたびに応じる義理ができる。  名前すら、今はいらない。 「それより妙だな」  俺は街道へ倒れた黒牙狼を見た。  群れの若い個体ばかりだ。腹を空かせていたが、縄張りを広げに来た動きではない。恐怖で統率が崩れ、ただ森から逃げてきたように見える。  地面へ触れ、索敵を望む。  意識が森の奥へ広がった。  太い木々が折れる音。土を抉る蹄。怒りと苦痛で濁った巨大な気配が、一直線に街道へ向かっている。その先にはリーベル村がある。 「お前たち、商人を連れて村へ戻れ」 「でも、馬が」 「荷車は捨てろ。担架を作れ」 「あなたは?」 「面倒を片づける」  剣の少年が森を見た。遠くで木の倒れる音が響き、顔色が変わる。 「何が来るんです」 「鎧角猪。大きさは家一軒分くらいだ」  三人の顔から血の気が引いた。  鎧角猪は中級上位の魔物だ。全身を覆う硬い皮は鉄の矢を弾き、突進すれば村の木柵など紙同然に砕く。通常なら熟練冒険者が十人単位で討伐する。 「そんなもの、どうやって」 「倒す」 「一人で?」 「他に誰がいる」  小柄な少年が恐る恐る手を上げた。 「ぼ、僕たちも」 「足手まといだ」 「でも」 「勇気と無謀を混ぜるな。助けた相手が自分から死にに来ると、俺の手間が増える」  言い方は悪かったが、少年は口を閉じた。  剣の少年が唇を噛み、やがて頷く。 「分かりました。必ず村へ知らせます」 「知らせなくていい。静かに寝ろ」 「それは無理です」 「努力しろ」  俺は立ち上がった。  森の奥から、獣の咆哮が響く。  空気が震え、枝から鳥が一斉に飛び立った。  どう考えても、俺が処理する必要はない。村には警鐘がある。冒険者組合もある。間に合う可能性は低いが、それは組織の役目だ。  だが、村には父と母とリネがいる。  理由はそれだけで十分だった。  俺は街道を駆けた。  ***  鎧角猪は、想像より少し大きかった。  肩までで三メートルを超え、頭から伸びる角は攻城槌のように太い。背中の皮膚は岩盤めいて隆起し、ところどころに折れた矢と槍が刺さっている。どこかで討伐隊と戦い、傷を負ったまま縄張りを飛び出したらしい。  赤く濁った目が俺を捉えた。 「止まれ」  止まるはずもない。  地面を蹴る音が腹へ響く。巨体が速度を上げ、街道の土を巻き上げた。このまま進めば、十分とかからず村へ着く。  俺は右手を上げた。  絶対障壁を使えば終わる。時間停止でもいい。存在消去なら死骸すら残らない。  だが、初めての夜だ。  少しくらい楽しんでも罰は当たらないだろう。 「剣聖」  技量を一つ借りる。 「武神」  身体をもう一段だけ上げる。 「創造」  掌に一本の剣を作った。飾りのない片刃。黒い柄。月光を吸う銀の刃。  鎧角猪が迫る。  五歩。  三歩。  一歩。  角が胸へ届く寸前、俺は跳んだ。  巨体の鼻先を踏み、頭上へ駆け上がる。鎧角猪が首を振る。空中へ放り出された俺は身をひねり、背へ着地した。  剣を振り下ろす。  硬い。  刃が外皮を裂き、浅い傷を刻んだだけで止まった。 「なるほど」  普通の武器なら通らない。  鎧角猪が暴れ、背中から俺を振り落とす。宙で姿勢を整え、空気を足場にして一歩踏んだ。  天歩。  何もない空を蹴り、角の届かない高さまで上がる。  下で鎧角猪が吠えた。 「うるさい。近所迷惑だ」  剣へ魔力を流す。  火では森が燃える。雷は音が響く。氷は後始末が面倒だ。風を選び、刃の周囲だけに圧縮する。薄く、鋭く、長く。  一度振った。  風の刃が月明かりを割る。  鎧角猪の角が根元から落ちた。  遅れて、額から背へ一本の線が走る。巨体が数歩よろめき、地面へ沈んだ。轟音。土煙。森が揺れた。  俺は空中から降り、動かなくなった魔物を見下ろした。 「少しやりすぎたか」  外皮だけを切り、内部を衝撃で止めた。素材の価値は残っている。無限収納へ入れてもいいが、巨大な魔物が突然消えれば余計に騒ぎになる。  背後から足音が聞こえた。  振り返ると、先ほどの三人が街道の端に立っていた。商人は簡易担架へ乗せ、小柄な少年と弓の少女が支えている。剣の少年だけが前へ出ていた。 「村へ戻れと言ったはずだが」 「戻る途中です。あなたが速すぎて、追いつけなかっただけです」  理屈としては正しい。  三人は地面に倒れた鎧角猪と、俺とを交互に見た。 「一人で……本当に」 「見なかったことにしろ」 「それも無理です」  弓の少女が即答した。 「努力が足りない」 「命の恩人を忘れる努力なんてしたくありません」 「迷惑な善人だな」 「それ、あなたが言います?」  反論できなかった。  遠くから鐘の音が響いた。村の警鐘だ。森の異変に気づいたのだろう。松明の列も近づいてくる。  面倒が来る。  俺は剣を消した。 「鎧角猪はお前たちが見つけたことにしろ」 「倒したのも俺たちだと言えと?」 「好きにしろ」 「無理があります。俺たち三人、黒牙狼に殺されかけていたんですよ」 「そこをうまく話すのが人間の知恵だ」 「あなた、すごく強いのに無茶を言いますね」  剣の少年が苦笑した。  松明の光が近づく。先頭には村の警備隊長がいる。顔を見られれば仮面をしていても特徴を聞かれる。俺は完全隠密を呼び戻した。  姿が夜へ溶ける直前、弓の少女が声を上げた。 「待って! せめて、また会えますか!」 「会わない」 「そんな!」 「次は自分で生き延びろ。毎回助けてもらえると思うな」  本心だった。  彼らが強くなれば、俺の手間も減る。  俺は空間転移で森を離れた。  ***  翌朝、食卓は銀髪の仮面男の噂でもちきりだった。 「家みたいな猪を、一振りで倒したらしいぞ」  父が近所のパン屋から聞いた話を披露する。 「一振りじゃない」  思わず訂正した。  父がこちらを見る。 「知ってるのか?」 「最初の一撃は浅かったんじゃないかと思って」 「どうして?」 「鎧角猪の皮は硬いから」  十二歳のユアンが知っていても不自然ではない範囲だ。たぶん。  母が焼いたパンを切り分けながら、首を傾げた。 「でも、銀色の髪なんて珍しいわね。旅の冒険者かしら」 「きっと王都の騎士だよ!」  リネが椅子の上で身を乗り出す。 「口が悪かったらしいぞ」  父が笑う。 「助けた見習いたちに、足手まといだとか努力が足りないとか、散々言ったそうだ」 「悪い人なの?」  リネの眉が下がる。 「商人の傷を治して、魔物も倒した。悪い人ではないだろう」 「じゃあ、いい人!」 「分類が雑だな」  俺が言うと、リネは胸を張った。 「だって、助けてくれたんでしょ。救世主だよ」  またその言葉だ。  朝食を終える頃には、噂はさらに育っていた。銀髪の男は空を歩いた。剣から月を切る光を出した。死にかけた商人を指一本で蘇らせた。黒牙狼百頭を睨みつけただけで追い払った。  最後のものは完全な捏造だ。  昼前には、冒険者組合の職員が家を訪ねてきた。 「昨夜、村の周辺で不審な銀髪の少年を見ませんでしたか?」  父は首を振った。母も同じだ。  俺は工房の隅で、木箱に鉋をかけていた。道具手入れ一という設定に相応しい手つきを意識し、少しだけ不器用に刃を研いでいる。  職員が俺を見る。 「君は?」 「寝ていました」 「物音は?」 「警鐘で起きました。でも、父に外へ出るなと言われたので」  嘘ではない。警鐘が鳴った頃には家へ戻っていたし、父の記憶には十二年分の俺へ何度もそう言った経験がある。  職員は興味を失い、すぐ視線を外した。  完璧だった。  誰の記憶にも残らない凡庸な少年。正体不明の銀髪の怪人。二つの顔は、綺麗に切り離されている。  問題はない。  そのはずだった。 「兄さん」  職員が帰ると、リネが工房へ飛び込んできた。 「今夜、銀の救世主を探しに行こう!」 「行かない」 「どうして?」 「危ないからだ」 「兄さんが一緒なら平気だよ」 「俺は風で洗濯物を乾かすのが精一杯の凡人だぞ」 「じゃあ、銀の救世主に助けてもらえばいいじゃない」  理屈が一周して、俺へ刺さった。  俺はいかなる制約にも束縛されない。  神の定めにも、世界の法則にも、能力の限界にも。  だが十二年眠っても、人が困っていれば勝手に動く癖だけは消えていなかった。  しかも一度助けただけで、正体不明の救世主として噂になり始めている。  自由になったはずなのに、どうしてこうなる。 「兄さん?」 「何でもない」  俺は鉋の刃を確かめ、ため息を飲み込んだ。 「今夜は家にいろ。救世主も休みたいかもしれないだろ」 「そっか。救世主も大変だね」 「ああ。たぶん今ごろ、ひどく後悔している」  リネは事情も知らず、楽しそうに笑った。  その笑顔を見てしまえば、昨夜の選択を元に戻す気にはなれなかった。  自由とは、何もしない権利のことではない。  したいことを、自分で選べることだ。  たとえその選択が、昔と同じように誰かを助けることだったとしても。  もっとも、救世主と呼ばれるのだけは断固として御免だ。  その日の午後、村の広場では早くも「銀面様」へ捧げる花が積まれ始めた。  俺は初めて、自由にも手遅れというものがあるらしいと知った。 (了)