# 第1話「成人の儀と、最初の夜」  成人の儀の朝はパンの焼ける匂いで始まった。 「アルト、じっとしてなさい」  母さんがおれの襟を三回も直す。三回だ。数えてた。 「曲がってないよ、母さん」 「気持ちの問題よ。今日はあんたが女神さまに見てもらう日なんだから」  台所から姉さんが顔を出した。ミレイ姉さんは十六で、店の看板娘で、おれをからかうのが朝の日課だ。 「大丈夫だって。うちの弟に限って、変な加護なんて出やしないわよ」 「それ、励ましてるの?」 「褒めてるのよ。普通って最高じゃない」  姉さんは焼きたてのパンを皿に放りながら言う。おれの成人の儀より朝食のほうが大事らしい。 「姉さんのときはどうだったの」 「あたし? スキル『愛嬌・中』。おかげで店の売上が二割伸びたわ」  自分で言うか、それを。でも本当だから困る。隣のパン屋の兄ちゃんも去年は「並」で、今日も変わらずパンを焼いている。この街の成人の儀なんて、だいたいそんなものだ。  父さんは帳場で銅貨を数えながら、顔も上げずに言った。 「鑑定が済んだら店を手伝え。祝いの菓子は夕方だ」  うちはそういう家だ。クロスタの市場通りで雑貨屋をやっていて、売り物は鍋と紐と石鹸で、事件といえば先月ネズミが砂糖袋をかじったことくらい。おれは毎朝店先を掃いて、昼は配達を手伝って、夜は姉さんの帳簿の検算に付き合わされる。それでべつに、不満はなかった。  おれは今日、十二歳になった。この国では十二で成人の儀を受ける。教会の水晶に手を置いて、女神さまの祝録に刻まれた自分の中身──加護とかスキルとかを見てもらうのだ。剣聖の加護が出て騎士団に引き抜かれた子の話とか、火の大魔法の才で王都の学院に呼ばれた子の話とか。そういうのは吟遊詩人の歌の中だけで、たいていの子は「並」と言われて親の仕事を継ぐ。  おれもそうなるんだと思っていた。  教会の前には同い年の子たちの列ができていた。石造りの聖堂に色硝子の窓、香の匂い。列は思ったより早く進んで、神官さまに名前を呼ばれた。 「アルト・グレイン。前へ」  祭壇の水晶はおれの頭くらいの大きさで、内側に淡い光を溜めていた。 「手を」  言われるまま、おれは水晶に右手を置いた。  置いた、その瞬間だった。  *  ――割れた。  何がって、おれの中身がだ。  頭の奥で音がした。氷の張った湖に石を落としたような音。ひびは一瞬で全面に走って、その下から何かが噴き上がってきた。水じゃない。記憶だ。  東京。灰色のビル群。革張りの椅子。詰襟の制服。竹刀の音。祖父の杖の音。決算書の束。縁談の釣書の束。誕生日に届く祝電の山と、誰もいない食卓。笑っていない自分の顔──。  二十七年ぶんの人生が、十二年ぶんの人生の上にどっと重なって、混ざって、収まった。  ……収まった。思ったより静かに。  そういう仕込みだったからだ。他ならぬ俺自身がそう頼んだ。  ああ。  思い出した。  俺は、死んだんだった。  *  最後の記憶は鷹司グループ本社の最上階だ。  窓の外で空が裂けて、光が落ちてきて、音が届く前に全部が終わった。何が起きたのかは後で教えてもらった。  気がつくと白い空間にいた。床も壁も継ぎ目のない白で、真ん中に事務机がひとつ。書類の山。判子。そして淡い金髪を結い上げた女が座っていた。頭の上に光の輪が浮いていなければ、役所の窓口だと思っただろう。 「鷹司響一郎様。二十七歳。死因──惑星規模の消滅への巻き込まれ。……ようこそ、天上管理局へ」 「地球は」 「滅びました」  女は事務的に頭を下げた。 「原因は当管理局、地球担当部署の管理過誤でございます。この度は誠に申し訳ございませんでした。つきましては規定に基づき、あなた様には補償として特典付きの転生をご案内いたします」  管理過誤で惑星が滅ぶのか。ずいぶん雑な天界だなと思ったが、死んだ人間に抗議の窓口はなさそうだった。 「わたくし、転生課のリセルテと申します。こちらが特典のカタログです。お一つ、お選びいただけます」  机に分厚い冊子が置かれた。開くと、剣聖の技。全属性適性。魔力量・膨大。鑑定眼。アイテムボックス。竜言語。ページをめくるたび、物語の主役が持っていそうな力がずらずら並ぶ。どれか一つで人生が変わる代物だろう。前世で読む暇のなかった娯楽小説なら、ここが一番の見せ場のはずだ。  俺は冊子を閉じて、言った。 「いかなる制約にも束縛されない、自由を」 「……は?」 「特典だ。それを一つもらいたい」  女神の慇懃な笑みが三秒ほど固まった。 「規格外でございます。却下いたします」  即答だった。女神はカタログを俺の側へ押し戻す。 「代替のご提案でしたら可能でございます。たとえば魔力量・膨大と全属性適性の抱き合わせ、こちらは補償案件限定の特別枠で──」 「いらん」 「……剣聖の技と不老の組み合わせも人気でございますが」 「いらん。自由だ」  女神の眉が一ミリだけ動いた。窓口でごねる客になった気分だ。まあそうだろうな。だから俺は事実だけを話すことにした。 「俺は鷹司の家に生まれた。物心つく前から帝王学を仕込まれて、六歳で剣を、八歳で三か国語を、十歳で決算書の読み方を覚えた。家のため、一族のため、社員十二万人のためだ。友人と遊んだ記憶はない。予定表に『遊び』の枠がなかったからだ。恋人はいたことがない。縁談は家が決めるものだったからだ。趣味は保留した。眠りも削った。全部『いずれ』に先送りした。総帥になったら。全部片づいたら。いずれ。いずれ。いずれ──」  自分でも驚くほど、声は静かだった。 「その『いずれ』ごと消えた。あんたたちのミスでだ。……なあ。俺は二十七年生きて、俺の人生を一度も生きていない。返してほしいのは金でも力でもない。自由だ。もう二度と、何にも縛られたくない」  リセルテは黙った。長いこと黙って、それから小さく息を吐いた。 「……確認いたします」  机の抽斗から、辞書みたいに分厚い綴りが出てきた。表紙に俺の名前がある。魂の履歴、というものらしい。  女神はそれを一枚ずつめくり始めた。飛ばし読みかと思ったら、違った。一枚ずつだ。紙の擦れる音だけが白い空間に落ちる。俺の二十七年が他人の手でめくられていく。妙な気分だった。時間の感覚のない場所だったが、体感で数時間は読んでいた。  途中で一度、手が止まる。女神は何かを言いかけて、俺を見て、やめた。  そして最後の一枚を閉じると、判子を取り、承認欄に押した。 「承認いたします」 「……いいのか」 「はい」  あっさりしすぎていて、逆に不安になった。あれだけ渋った窓口が、書類を読んだだけで手のひらを返す。つまりあの綴りに書かれた俺の二十七年が、それだけの説得力を持っていたということだろう。苦労が、伝わったのだ。  少しだけ、報われた気がした。 「では転生の条件を伺います。ご希望は」 「赤ん坊からやり直すのは勘弁してくれ。おむつから始める人生はもういい」 「意識の封印処理が可能でございます。肉体が十二歳、成人の儀を迎える日に覚醒するよう設定いたしましょう。それまでは、ごく普通のお子様としてお育ちになります」  言いながら、女神の羽根ペンはもう書類の上を走っている。仕事は早いらしい。 「頼む。それと、俺の中身が誰にも視えないようにしてくれ。鑑定だの神託だの、そういうものすべてにだ。目立つのは前世で懲りた」 「完全情報偽装──カタログ九十七ページの特典でございますね。表示内容はご自身で設定いただけます。承知いたしました」  さらさらと書類が埋まっていく。最後に女神は顔を上げ、妙な間を置いて言った。 「特典は『お一つ』と申し上げましたが。……本当に、よろしいのですね?」 「ああ。自由が一つあれば十分だ」  女神は、かすかに笑ったように見えた。  *  ――で、今だ。  水晶に手を置いたまま、俺は目を開けた。あの白い空間から数えて十二年、体感では一呼吸。誰も俺の異変に気づいていない。心臓の音だけがやけにうるさかった。  落ち着け。確認することは一つだ。  偽装は、効いているか。  俺の前の順番だった赤毛の子は「土魔法の適性・中」で、母親が小さく歓声を上げていた。畑仕事が捗ると。この街の水準はそれでいい。それがいい。  神官のセドリック師が水晶を覗き込む。祝録を読むあいだ、聖堂は静かだった。香の煙が天井へ細くのぼっていく。  効いていなかったらどうなる? 剣聖の技。全属性適性。魔力量・膨大。カタログの中身がそのまま読み上げられたら、俺は今日から国の宝だ。王都行き。護衛つき。予定表は他人が書く。  冗談じゃない。それは前世で卒業した。  水晶が、淡く光った。 「──アルト・グレイン」  セドリック師が厳かに告げる。 「加護、なし。スキル、商才の芽・小。魔力、並。身体、並。……女神テラリアの慈しみは、あまねく平らかなり」  並。並。なし。小。  ……よし。  俺は神妙な顔の裏でガッツポーズを決めた。効いている。完璧に効いている。しかも「商才の芽・小」だ。雑貨屋の倅にこれ以上なく似合いの、誰の記憶にも残らない鑑定結果。設定したのは俺だが、我ながら芸が細かい。 「ありがとうございました」  ぺこりと頭を下げて祭壇を降りる。列の誰も俺を見ていない。次の子の名前がもう呼ばれている。この、誰の記憶にも引っかからない感じ。素晴らしい。中の中。今後ともよろしく。  外に出ると家族が待っていた。 「どうだった?」 「加護なし。商才の芽・小、だって」 「うちの弟、見事なまでに普通ね!」  姉さんが笑って俺の頭をわしゃわしゃやった。母さんは胸の前で手を合わせて、心底ほっとした顔をする。 「普通がいちばんよ。変な力があったら、王都に取られてしまうもの」 「商才の芽か。よし、店を継ぐ気になったらいつでも言え」  父さんはそれだけ言って、もう夕方の菓子の算段を始めている。  この十二年の記憶は、封印されて眠っていた俺のものじゃない。素のアルトのものだ。それでも確かに俺の中にあって、この三人の顔を見ると胸のあたりがあたたかくなる。前世の家族団らんは盆と正月の会食だけだった。銀器の音しかしない食卓だった。  悪くない。この「普通」は悪くない。  帰り道、姉さんが屋台で串焼きを二本買った。一本を俺に押しつけて、成人祝いだと言う。自分のぶんは祝いじゃないのかと訊いたら、付き添い料だと返された。理屈が商人だ。  守ってやろうと思った。この家の平穏も、俺の偽装も。  ――そして夜が来たら、確かめることが山ほどある。  *  夜。家族の寝息を確かめてから、俺は屋根裏の自室で身を起こした。  窓から月明かり。手のひらを開く。 「……カタログ」  小さく呼ぶと、視界に目録が開いた。あの白い空間で見た冊子が、ページごと宙に浮かんでいる。俺にしか見えない、俺だけの棚。  まず検証だ。  試しに『身体強化』の項に触れる。借りる。──途端、指先から足の裏まで、体の芯に力の通る感覚。屋根裏の梁を片手でつかんで体を持ち上げてみる。羽根みたいに軽い。  返す。──力が抜ける。ただの十二歳の体に戻る。 「……使えた。戻せた」  次。『全属性適性』と『無詠唱』を借りる。指先に、火。豆粒ほどの炎が音もなく灯って、俺の意思ひとつで消えた。返す。もう灯らない。  借りて、返す。借りて、返す。出し入れ自由。いくつ同時でも通るし、回数の上限も見当たらない。 「一つだけ、って話だったよな……?」  三秒考えて、やめた。  ついでに『鑑定』を借りて、自分の左手を視てみる。浮かんだ表示は──加護なし、商才の芽・小、魔力・並。昼間、神官が読み上げたとおりの中身だ。鑑定を鑑定で欺く。二重底は完璧に機能している。返す。  調子に乗って『転移』も借りてみた。目を閉じ、屋根の上を思い浮かべる。──浮遊感。まばたきひとつで、星空の下に立っていた。大したものだ。大したものだが、こいつは危ない。寝ぼけて発動してみろ。寝間着のまま市場のど真ん中だ。想像して寒気がした。返す。今は要らない。必要になったらまた借りればいい。それができるのが俺の特典だ。 「ま、いいか。俺の特典は『自由』だ。カタログの規約なんぞに縛られてたら名前負けだろ」  女神さまが承認したんだ。文句は天上に言ってくれ。  『アイテムボックス』は借りっぱなしにしておく。開いてみると、中に見覚えのない銀細工がひとつ入っていた。目元を覆う形の、仮面。カタログのおまけか何かだろう。気が利いてるじゃないか。  最後に『変化』。  姿見の前で借りる。──栗色の髪が根元から銀に変わる。輪郭が伸びて、三つばかり年上の顔になる。前世の、十五の頃の俺。鏡の中の銀髪の少年が、こっちを見てにやりと笑った。 「……我ながら、いい男だな。おい」  十二歳のアルトの顔は母さん似の平凡な作りだ。あれはあれで気に入っているが、夜遊び用にはこっちを使わせてもらう。仮面をつける。『認識阻害』も借りる。念には念だ。  窓を開けた。『飛行』を借りる。  夜風。  体がふわりと浮いて、屋根を越え、街壁を越えた。眼下にクロスタの灯り、頭上に星。誰の許可もいらない。門限もない。予定表もない。 「──はっ」  笑いが漏れた。止まらなかった。  深夜に家を抜け出して、空を飛んで、誰にも報告しない。前世なら秘書室が三十分で捜索願を出した。今は誰も知らない。誰の許可も得ていない。それがこんなに軽いとは。  自由だ。これが、自由だ。  西の森は月明かりで青かった。  ウルフが三匹、茂みから出てくる。牙。唸り。跳んだ。  速い。が、見える。  『剣聖の技』を借りる。得物がないので『武器創造』で一振り出す。  一歩。銀光。二歩。三匹目が跳びかかる前に終わっていた。  ……強い。強いな、俺。  息が上がらない。汗もかかない。前世の道場なら師範代が三人がかりでも取れなかった間合いが、目をつぶっても取れる。  カタログの主役級を全部積んだ体は、反則もいいところだった。魔物の気配を追って森を回り、角ウサギを狩り、大蜘蛛を焼き、いい汗をかいた。前世の剣道は面と胴の世界だったが、体は覚えている。むしろ喜んでいる。  帰るか。夜明け前に布団へ戻らないと、姉さんの目ざとさは魔物より怖い。  街道沿いに戻る途中だった。 「──ひ、ひぃぃっ! 誰かっ、誰かぁっ!」  悲鳴。  街道に横倒しの荷馬車。逃げ惑う小太りの男。追うのは岩みたいな図体の大猪──ワイルドボアだ。牙が月光を弾いた。  関係ねえ。  俺は自由だ。誰を助ける義務もない。夜の街道を一人で行く商人が悪い。俺はもう、誰のためにも──  体は、とっくに跳んでいた。  着地。男と猪のあいだ。『身体強化』全開。突進してくる牙を左手で受け止めて、 「──ッらぁ!」  右の拳。ボアは荷馬車一台ぶん飛んで、街道の脇で動かなくなった。  静寂。  男が尻もちをついたまま口をぱくぱくさせている。 「た、たた、助かっ……あ、あんた、いったい──」 「うるせえ。怪我、見せろ」  言ってから気づいた。……またやっちまった。  男は足首をひねっている。擦り傷。腰も打っているな。『治癒』を借りて傷を塞ぎ、『調合』でポーションを一本出して押しつけた。 「飲め。打ち身に効く。……あんた正気か? 夜の西街道を護衛なしの単独って、狩ってくださいと言ってるようなもんだぞ。命と護衛代、天秤にかけるまでもねえだろうが。次の町までは隊商に混ぜてもらえ。朝一番の便がある」 「へ、へえっ……お、おっしゃる通りでさあ……」  男は涙目でポーションを抱きしめて、それから俺を拝むように見上げた。 「い、命の恩人です……! せ、せめてお名前を! あっしはバルツと申しやす、行商のバルツ! ご恩は必ず──」 「いらねえよ、んなもん」  名乗る気はなかった。なかったが、拝まれたまま去るのも収まりが悪い。 「……ヒビキ」  前世の名から一文字。とっさにしては上出来だ。 「ヒビキ様! 銀の仮面のヒビキ様! この御恩、あっしは一生──」 「大げさなんだよ。二度と会うことはねえ。とっとと行け」  言い置いて、思い出した。街道の脇を親指で差す。 「あの猪、持っていけ。牙と毛皮で護衛代くらいにはなるだろ。次からケチるな」 「へっ……? い、いいんですかい!」 「俺が食うわけにもいかねえだろうが」  『飛行』で夜空に上がる。眼下で男がいつまでも頭を下げていた。  *  街壁の上で、月を見た。  助ける気なんてなかったんだ。本当に。  俺はもう誰のためにも動かないと決めた。家のためにも他人のためにも義務のためにも。そのための自由だ。そのはずだった。なのに悲鳴ひとつで体が勝手に跳ぶ。手当てして、薬まで渡して、説教までして。  二十七年、染みついた癖ってやつは、思ったより深いところにあるらしい。  考えてみれば、偽装ってのは祝録の表示をごまかすだけだ。体に染みたものまでは隠しちゃくれない。加護は「なし」でも、癖は「あり」。……間抜けな話だ。  ただ、な。  あの商人の間の抜けた泣き顔を思い出す。前世で助けた連中は、頭を下げる相手を俺じゃなく鷹司の看板と間違えなかったためしがない。今夜のあれは、正真正銘、ただの通りすがりに向けられた顔だった。ご恩は一生、ときた。大げさなんだよ、本当に。  でも悪い気は、しなかった。  誰に命じられたわけでもない。予定表にもなかった。俺が、勝手に、やりたくてやった。 「――なら、これも自由のうちか」  理屈は通っている。うん。通っていることにする。  夜風が心地よかった。明日の夜も少しだけ出よう。少しだけだ。 ◆天上の観測記録・一  天上管理局、転生課。書類の山の谷間で、水鏡が夜の街道を映している。  リセルテは羽根ペンを執り、記録簿に書きつけた。  ――補償転生第七〇三号。覚醒初日。偽装、正常に機能。特典の借用および返却、計十一回を確認。  ――同日夜、無償の救助活動一件を実施。本人はこれを「うっかり」と認識している模様。 「リセルテ。例の規格外承認の件、監査が気にしておられたぞ。問題はないのか」  通りがかった上司が水鏡を覗き込む。リセルテはペンを止めなかった。 「彼の魂の履歴は、全頁を拝読いたしました」 「それで?」 「あの魂は、縛れば縛るほど、義務でしか動けなくなります。そして解き放てば──」  水鏡の中で、銀の仮面の少年が月に向かって何やら言い訳をしている。女神は一拍置いて、素の声で言った。 「……勝手に、世界を救い始めるのです」 「ふむ?」 「特典は正しく機能しております。ご本人が思っておられるのとは、別の意味で」  記録簿の所見欄に、彼女は一行を足した。  ――経過観察を継続する。所見、極めて良好。