# 風速五文字  十二時三十五分。私は今日も屋上のドアを開ける。  とたんに風が前髪を持ち上げて、ノートのページをばらばらとめくった。はいはい、ご挨拶どうも。南南西の風、風力三。体感でそのくらい。正確な数字はこれから測る。  県立稲穂台高校、南校舎屋上。北西の隅に百葉箱と簡易風速計が立っていて、昼休みのあいだだけ、ここは気象部の観測スペースになる。観測当番は二年の秋津そら。つまり私。空を見てるだけで部活になるなんて天国では? という不純な動機で入部して、いまや校内の天気の的中率をひとりで背負っている。  ——こんにちは。正午の観測情報をお伝えします。担当は秋津です。  脳内で、キャスターの私がマイクの前に座る。  私の頭の中には二十四時間営業のお天気スタジオがある。現実で口に出せなかった言葉は、ぜんぶそこで予報として読み上げられる仕組みだ。本日の稲穂台上空、快晴。購買の混雑、ピークを越えました。五時間目の眠気、降水確率でいうと八十パーセント。なお、この放送を聴けるのは世界で私ひとりである。聴取率百パーセント。孤独ともいう。  百葉箱を開けて、温度計を読む。十八・二度。湿度五十一パーセント。風速計の回転を三十秒数えて、ノートに書き込む。ここまでが業務。  十二時四十分。ドアが開く音。  振り向かなくても分かる。パンの人だ。  日向湊。隣のクラス。毎日この時間に屋上へ来て、金網のところでひとり、購買のパンを食べる。私が当番になった四月からずっと——いや、正確には、私より前からここにいた先住民である。  「今日、降る?」  彼の話題は天気しかない。本日も直球。  「降りません。夕方まで晴れ。夜は星も見えます」  「そっか」  以上。会話、終了。彼は金網に寄りかかってメロンパンの袋を開ける。ちなみに購買のメロンパンは先月十円値上がりした。彼はあの日、世界の終わりみたいな顔をしていた。十円で世界は終わらない。終わらないが、彼の中では準大事件だったらしい。  ——続いて、恋の観測情報です。  脳内キャスターが、しれっと次の原稿をめくる。  ——秋津そらの片想い、本日で観測百二日目。進展確率、ゼロパーセント。理由、観測者が観測しかしないため。  うるさい。  気象部の部訓は「観測はするが、介入しない」。天気は変えられない、記録するだけ。いい部訓だと思う。思うけど、まさか恋にまで適用することになるとは、入部時の私は予報できていなかった。  彼はパンを食べ終わると、「じゃ」と言って戻っていく。翌日が雨の予報の日は、帰りに傘を持っている。私が「夕方から降ります」と言った日は、体育着を取り込んで帰る。  一度だけ、外したことがある。五月の、大気の状態が不安定だった日のにわか雨。彼は濡れて帰ったはずなのに、次の日いつもの調子で「今日、降る?」と聞いてきた。外した予報士にもう一回聞くって、どういう神経ですか。「昨日は外しました」と謝ったら、「次は当たるんだろ」と返された。信頼が重い。重いが、悪くない重さだった。  私の予報を、疑わない人。  それがどのくらい効くか、たぶん本人は知らない。    *  その日は朝から南風が唸っていた。  春の嵐、というやつだ。低気圧が日本海を発達しながら進んでいて、稲穂台の上空はさっきから雲が競走している。こういう日こそ観測日和である。強風時の記録はデータとして貴重だし、なにより風速計が仕事をしている姿は勇ましい。  屋上のドアを開けた瞬間、突風がドアごと私を押し戻そうとした。おっと。負けない。当番なので。  髪が全方位に暴れる。スカートを押さえて、前傾姿勢で観測スペースへ向かう。ゴウ、と耳元で風が鳴る。音というより圧だ。世界のボリュームつまみを誰かが右に回しっぱなしにしている。  ——現在の稲穂台屋上、風、強め。飛ばされ物にご注意ください。  脳内スタジオは今日も平常運転。外がどれだけ荒れても、キャスターの読み上げは崩れない。私の中身はいつだってマイペースにできている。  風速計を読む。平均で八メートル。突風で、もっと出る。ノートが暴れるから片手で押さえて書く。数字が躍る。それでも書く。強風の日のデータは、晴れの日の百倍しゃべるのだ。  ノートに屈み込んだとき、視界の端に人影があって、私は二度見した。  金網際。パンの人。  嘘でしょ、こんな日に?  メロンパンの袋が風でばたばた暴れている。彼はそれを両手で押さえ込みながら、いつもの場所に立っていた。今日は座ってもいない。立って、風に向かっている。  「よく来ましたね、この風で!」  声を張る。五メートル先に届かせるだけで喉が仕事をする。  彼が振り向いた。  なにか言った。  風が、ゴッ、と鳴った。  持っていかれた。  声のかたまりが、音になる前にちぎれて、金網を越えて、グラウンドの向こうへ飛んでいくのが——見えた気がした。  「え?」  「……なんでもない」  なんでもない、は聞こえた。風が一瞬だけ息継ぎをしたから。  でもその前のは、なんでもなくない。だって彼は言う前に一回、袋を持つ手に力を入れた。だって彼は言ったあと、私じゃなくて空を見た。  唇が、五回動いた。  それだけは分かった。五回。五文字。  風速計が笑いながら回っている。あとで記録を見たら、その瞬間の突風は一二・四メートルだった。瞬間最大風速一二・四。私の聞き逃した五文字は、秒速一二・四メートルで運ばれて、いまごろどこの空だろう。  ——臨時ニュースです。秋津そらの脳内スタジオ、現在、放送事故が発生しております。  キャスターが原稿を落とす音がした。    *  夜。自宅の机。私は観測ノートを開いている。  業務です、という顔をして開いている。データの整理は当番の仕事。嘘ではない。嘘ではないが、さっきから見ているのは気温の欄ではない。  今日の日付。風速の記録。その横の余白。  私はシャーペンを構えて、脳内スタジオの緊急会議を招集した。  ——検証します。本日十二時四十三分、日向湊さんの発言。唇の動き、五回。すなわち五文字。候補を挙げてください。  候補一、「ぱんおちた」。  あり得る。あの風だ。メロンパンは常に命の危険に晒されていた。しかし彼のパンは最後まで両手の中に無事だった。それにパンが落ちたなら空じゃなくて地面を見る。棄却。  候補二、「かさかして」。  あり得ない。今日の予報は終日晴れ、私がそう言った。彼は私の予報を疑わない。傘の心配をするはずがない。棄却——してから、ちょっとだけ胸が温かくなった。棄却の理由が「彼は私を信じてる」って、なにそれ。  候補三、「きょうふるよ」。  それは私の台詞です。棄却。  候補四。  シャーペンが動かない。  四つ目の候補はもうずっとそこにいる。会議室の隅で、さっきから手を挙げている。挙げているのに、私が指名しない。  五文字。五回の唇。最初の口の形はたぶん、母音の「う」に似ていた。  ……書くだけ。検証だから。データだから。  「すきなんだ」  書いた。  書いた瞬間、消しゴムに手が伸びて、そのまま止まった。消せない。消したくないが正しい。ノートの余白で、その五文字だけが体温を持っている。  風速の記録には正式な欄がある。気温にも湿度にもある。でも、風に持っていかれた言葉の欄は、どの観測ノートにもない。だから余白に書くしかない。風速五文字。観測史上、いちばん行方不明の記録。捜索は継続する。担当は、私。  ——続報です。候補四について、当スタジオは肯定も否定もできません。願望が観測に混入している恐れがあります。  分かってる。予報士の恥だ。願望で予報を曲げるのは、いちばんやってはいけないやつ。  気を逸らすために、ページを前へめくった。めくって、手が止まった。  四月十一日。当番初日。気温、湿度、風速。几帳面な私の字。そして欄外に、小さく。  「先客一名。パンの人」  次の日も。「パンの人、今日も」。その次も。「パンの人、メロンパン率高し」。五月。「パンの人、十円値上げに敗北の顔」。六月。「パンの人——」  ページをめくる。めくるたび、ある。雨の日の欄外にも、風の日の欄外にも、テストで昼休みが潰れた日を除いて、ほとんど毎日。字の大きさで分かる。急いで書いた日と、ゆっくり書いた日。  ぜんぶ、ある。  百日ぶん、ある。  気象の記録に、関係ないはずの一行が、毎日ある。  観測はするが、介入しない。部訓は守ってきた。でも、これは。毎日欠かさず記録するって、これは。  ——……観測って、たぶん、そういうことじゃないんですけど。  キャスターの声が、ちょっと震えていた。  翌日の部室で、入道先輩が積乱雲の写真集をめくりながら言った。この人は夏の雲を恋人と呼ぶ巨漢の三年生で、名前がそのまま本体である。  「秋津。観測ってのはな、外から見てるだけじゃ分からんこともある」  「はあ」  「雲の中に入らなきゃ取れんデータがある。だから観測気球ってもんが飛ぶんだ」  写真集から顔も上げずに、それだけ言った。  ……この部の唯一の欠点は、部長が全部お見通しなことだと思う。    *  それから私の観測は、目に見えて乱れた。  百葉箱の前で深呼吸を三回しないと数字が読めない。読めたと思ったら、湿度と気温を逆の欄に書く。極めつけは昨日で、彼に「明日は?」と聞かれて「晴れです」と言うつもりが「腫れです」と言った。何が腫れるんだ。彼は真顔で「お大事に」と返した。優しさが余計につらい。  彼のほうも、何かがおかしい。  メロンパンを袋ごと取り落としかけて、空中で三回お手玉した。あの十円値上げに敗北した男が、パンの扱いを誤るなんて。それに最近、金網じゃなくて観測スペースのほうに、立ち位置が一メートルくらい寄ってきている。一メートル。気づいてないと思ったら大間違いだ。こっちは観測のプロなので。プロなのでついでに言うと、寄ってきた日付も記録してある。五文字の翌日からだ。データは嘘をつかない。つかないから、困る。  今日も十二時四十分に彼は来て、パンを開けて、それから、めずらしく自分から口を開いた。  「この前の、あれ」  心臓が跳ねた。  あれ。あれって、あれですか。風にちぎれた、五文字の。  「あれは——」  チャイムが鳴った。  昼休み終了五分前の予鈴。世界でいちばん無粋な定時連絡。  彼は口を閉じて、パンの袋を丸めて、「……また」と言って階段へ消えた。  また。またって言った。またがあるんだ。  ——お伝えします。継続審議となりました。  脳内キャスターが疲れた声で言う。私は屋上にひとり残って、空を見上げた。  聞き返せば、よかったのだ。あの日も、今日も。「なんて言ったんですか」の十文字を出すだけ。それだけのことが、できない。聞き返すのは観測じゃなくて介入だから——なんて部訓のせいにしてるけど、ほんとうは違う。  怖いだけだ。  候補四じゃなかったときの天気が、怖いだけ。  週間予報を確認する。週末、南の海上から台風の外側の湿った空気が入り、金曜は南風が強まるでしょう。  強風。  あの日と、同じ風。    *  金曜。予報どおり、南風が朝から校舎を鳴らしていた。  六時間目のあと、顧問に頼まれて、私は「強風注意・本日の屋上利用はお控えください」の札を持って階段を上がった。気象部のれっきとした業務である。業務なのに、階段の途中から心拍数が観測史上の値を出している。  だって、金曜の放課後にこの札を出すってことは。  昼休みじゃない屋上に、上がるってことは。  ドアを開けた。  風が、来た。  髪もスカートも札も、ぜんぶ一斉に南へなびく。夕方の光が雲の切れ間から斜めに落ちて、屋上のコンクリートがオレンジ色に燃えていた。  いた。  金網際。パンの人。パンは、持っていない。  「……札、出しに来ました。強風注意です。あと、観測」  風に負けない声で言った。彼がこっちを向く。  「おれは」  風が唸る。でも今日の彼はあの日と立ち位置が違う。風上じゃない。私に近い。  「風、待ってた」  風待ち。  湊。風待ちの港。船は、いい風が吹くまで港で待つ。  「なんで、風なんか」  「風がうるさい日なら、言えるから」  彼は一回、下を向いた。それから、あの日と同じに、袋も持っていない手に力を入れて、顔を上げた。  「聞こえなくていいと思って、言った。届かない前提なら言えるとか、我ながらずるいと思う。だから」  一歩。彼が距離を詰める。風下に、私の側に。  「言い直す」  ゴウ、と背後で風速計が回る。世界のボリュームは最大で、なのに。  「すきなんだ」  届いた。  五文字。ぜんぶ。一文字も欠けずに。  ——……。  脳内スタジオ、沈黙。キャスター、絶句。原稿、白紙。二十四時間営業のお天気スタジオが、開局以来はじめて、停波した。  風の音だけの世界で、私は自分の心臓の音を聞いていた。どっどっどっど。うるさい。風よりうるさい。  返事をしなきゃいけない。分かっている。でも言葉というのはこういうとき、いちばん遠い棚の上にある。手を伸ばす。届かない。もう一回。——観測発表。そうだ。私には読み上げの型がある。型があれば、声は出る。  息を吸う。屋上の風ごと肺に入れる。観測発表の要領で。はっきり、ゆっくり、届く声で。  「聞こえました。——二回とも」  「……二回とも?」  彼の目が丸くなる。しまった。言ってから気づく。でも予報士は観測結果を偽装しない。  「すみません、嘘です。一回目は、ほんとは聞こえてませんでした。唇が五回動いたのだけ見えてて、それで、候補をずっと考えてて」  「候補」  「ぱんおちた、とか、かさかして、とか。でも、消せない候補が一個だけあって。これだったらいいなって五文字を、あの日からずっと、持ち歩いてました」  風が一拍だけ弱まった。  「……当たってた?」  「大当たりです。的中率、更新しました」  彼が笑った。はじめて見る種類の顔だった。晴れというより、雲が割れる瞬間のほう。  「予報、ずっと当たるから。秋津の言うことなら信じられるって、思ってた。だから今日の風も、信じて待ってた」  私の予報を疑わない人。その理由を、いま、風の真ん中で聞いている。  ——放送を再開します。  スタジオに、灯りが戻る。  ——本日の瞬間最大風速、ただいま更新中です。観測担当・秋津そらの心拍数も、同じく更新中。なお、この記録は当分、破られない見込みです。  「秋津」  「はい」  「明日は?」  明日。土曜日。学校は休みで、屋上はない。つまりこれは天気の質問の顔をした、別の質問だ。  私は空を見た。雲の切れ間、オレンジの光、南風。データは揃っている。予報士として、断定はしない主義だけど、今日だけは。  「晴れです。降水確率ゼロパーセント。……傘はいらないので、手ぶらで来てください」  「ん。どこに」  「駅前に、十時」  彼が半分笑う。「手ぶらって。昼、どうすんの」  「駅前なので、購買のパンはありません」  「じゃ、なんか買ってく」  メロンパンだったら、十円ぶんは私が出そうと思う。  介入した。観測百六日目にして、はじめて天気に介入した。部訓違反は入道先輩がたぶん許してくれる。雲の中に入らなきゃ取れないデータが、あるらしいので。  風がもう一度、屋上を渡っていく。私の五文字も、彼の五文字も、もうちぎれない。ぜんぶ届いたあとの風は、ただの追い風だ。 (了) --- ## 作品情報 - ジャンル: 恋愛(10代向け・甘口・読み切り)/ 学園・部活(気象部)・日常の謎 - 想定読者: 10代(中高生中心)、Web小説サイト(スマホ読了15分前後) - 文字数: 約6,047字 - 制作期間: 2026-07-13 - 使用プロファイル: 甘夏みこと(`/mnt/user-data/outputs/profiles/amanatsu_mikoto.md`) - シリーズ: 学校の隅っこシリーズ 第4作(図書室・保健室・放送室・屋上、これにて舞台一巡)