1999年、7月。 まことみらい市における名探偵と怪盗の対決にも、ようやく一段落がついたある日のこと。 4人の探偵のうちの1人──森亜るるかは、パジャマに着替えてベッドの上に座り込んでいた。 普段なら彼女のおとも妖精であるマシュタンが隣に居る時間だが、今日はなかなか帰ってこないようだ。 待ちぼうけを食らったるるかは、寝つこうともせずにぼんやりと天井を眺めていた。 不意に、部屋のドアをノックする音が響く。 るるかがそちらに目を向けると、マシュタンのものとは違う声がドアの向こうから聞こえてきた。 「……るるか、入ってもいい?」 るるかは一瞬動揺したが、すぐに返事を返す。 「……どうぞ」 「ありがとう。やっぱり、まだ寝てなかったんだ」 ドアを開けて入って来たのは、彼女のもう一人の相棒──名探偵キュアエクレールの正体、帆羽くれあだった。 彼女もるるかと同じように着替えており、既に寝支度を終えているようだった。 「……どうしたの? こんな時間に」 「それがね、マシュタンが私の部屋に来て、シュシュタンと話してたんだけど……途中でふたりとも眠っちゃって」 「……そう。きっと疲れてたのね」 「そうね、色々あったし……」 そこまで話したところで、くれあは困ったように笑った。 「……でもね、ふたりが寝ちゃったのが私のベッドの上で……」 「……それで寝るところがなくて、ここに来たの?」 「うん……今日は一緒に寝てもいい?」 「えっ……」 るるかは少し呆れたような顔でくれあを見ていたが、やがて小さなため息をついてから、腰を上げて座る位置をずらした。 「……まあ、仕方ないわね。どうぞ」 「良かった〜。ありがとう、るるか」 くれあは部屋に入り、るるかの隣に腰掛ける。 その手元には、彼女が使っているヘアブラシが握られていた。 るるかがそれを見ていることに気付くと、くれあはにっこりと笑って言った。 「マシュタンも寝ちゃったし、今日は私が梳いてあげようかなって」 それを聞いてるるかは少し逡巡したが、無碍に断るのは流石に悪いと思ったのか、若干恥ずかしそうな表情を隠すように背を向けた。 「……そう。じゃ、お願いしようかな」 「うん! ……なんだか懐かしい感じがするね。前もこういう風にしたことあったよね?」 「……そうね、何度か」 くれあは色素の薄い柔らかな髪を手のひらに乗せて、毛先からゆっくりとブラシをかけ始めた。 同時に、彼女は自分の元に戻ったばかりの、細く絡まった記憶の糸を手繰っていく。 「るるかの髪……もっと長い時もあったような……」 「……くれあと事務所で暮らし始めた時は、腰くらいまであったかな」 「そっか、やっぱり……あの頃は確か、服の雰囲気も今と違ってて……」 ふたりの思い出を、ひとつひとつ確かめるように言葉にしていく。 長い間失われていたくれあの記憶は、百合の花の香りと共に蘇った……ものの、彼女にはまだ少し不安があるのだろう。 忘れてしまったことは、忘れたことさえ忘れているものだ。 るるかとの大切な記憶に、欠けたままの部分があるのではないか──答えの出ないその問いに、くれあはまだ囚われているのだろう。 だから遠慮がちに、ぎこちない手で、一本ずつほどこうとしている。 「……ねえ、くれあ。私からも聞いていい?」 その手を少し休めてあげたい──と。 その時のるるかは、そう思ったのかもしれない。 「えっ?……うん、良いよ」 「事務所を出た後……誰か、友達はできた?」 「え?……うん、色んな人と仲良くなったよ」 「そう。……どんな人たちなの?」 「えーっと……あんなちゃんにみくるちゃん……はるるかも知ってるよね。店長……は、友達っていうより師匠かな?」 「それを言うなら、あんなとみくるも弟子みたいなものね」 「ふふっ、るるかにとってはそうかもね」 くれあが可笑しそうに笑うのを聞いて、るるかも小さく微笑む。 「後はね、小説家の来栖エリザさんって知ってる? 探偵エリーの事件簿って本を書いてるの」 「タイトルは聞いたことあるけど……面白いの?」 「うん、とっても! うちによく来てくれて、お話してるうちに仲良くなってね。サインももらっちゃった!」 「へぇ……今度読んでみようかな」 彼女が記憶を失い、探偵であることも、プリキュアであることも忘れて暮らしていた時のこと。 るるかが知らないその間のことを彼女に話すくれあは、どこか楽しそうに見えた。 「仲良くなったって程じゃないけど、有名な画家の娘さんが来たこともあってね。今でも時々マカロンを買いに来てくれるんだ」 「……その画家って、クリスティーナピポポヴィッチ文江?」 「え? 確かそうだったかな……るるか知ってるの?」 「まあ……少しね」 ふたりは先ほどよりも軽やかに、話題を重ねていく。 まるで会えなかった時間を、少しずつ埋めていくように。 いつの間にか、るるかも楽しそうに笑っていた。 「……そういえば、誰か気になる人とかはいないの? カッコいいお客さんとか」 「……うん、居るよ」 「へぇ…………ええ゛っ!?」 ……おそらくその質問は、冗談か何かのつもりだったのだろう。 予想だにしていなかったであろう返答に、るるかは奇妙な声をあげて固まった。 対するくれあは、事もなげに話を続ける。 「お店によく来てくれる常連さんなんだけどね。無口でクールで、初めて会ったときから気になってたんだ〜」 「あ……あ、そ、そうなの……へえ……」 「いつもテイクアウトしていくから、なかなかゆっくり話す機会も無かったんだけどね。今日は来ないかなぁ、って、いつもわくわくしながら待ってたの」 「ふ〜〜〜ん……あ、そう……そうなんだ……」 普段よりも甘い声で嬉しそうに話すくれあに、るるかは顔を引き攣らせながら辛うじて相槌を打っていた。 その様子に気付いているのかいないのか、くれあは一方的に話し続けている。 「でもね、店長が気を利かせてくれたのかな、その人を店内で食べるように誘ってくれたことがあって。仲良くなるチャンスだ!って思って、私が作ったケーキをサービスしたんだ」 「へえ……そう……よ、良かったわね……」 「いつもはかっこいい人だなって思ってたけど、幸せそうに食べる横顔は、なんだか可愛くて……もっと仲良くなりたいな、って思ってた」 「……そう、なんだ……」 「……でも、その人は急に、お店に来なくなっちゃったの」 「…………そうなんだ」 髪を梳く手は、いつの間にか止まっていた。 くれあは膝の上で、ブラシを軽く握りしめる。 「それがずっと、心に引っかかってて……悲しくて、寂しくて」 「…………」 「それから毎日……その人が来るのを待ってた」 「……そう」 るるかは振り返ると、小さく微笑みながら言った。 「……悪い人ね。こんなに可愛い子を泣かせるなんて」 細い人差し指が、頬を伝う雫を優しく拭う。 「るるか、私……」 何か言いかけたくれあを、るるかは優しく胸に抱き寄せた。 温かく柔らかい感触に包まれて、溢れかけた言葉は再び凪いでいく。 「……ごめんね、くれあ。私、自分だけが苦しいと思ってた」 「…………」 「あなたが急にいなくなって、話したくても話せなくて……あなただって、辛い思いをしていたのに」 背中に回された手に、ぎゅっと力が込められる。 るるかはくれあの頭を優しく撫でて言った。 「もう、あなたを離したりしない。……だから、あなたももう、私のそばから離れないでね」 「……うん」 少しくぐもった返事を聞いて、るるかはゆっくりと腕を解いた。 「……さ、もう寝ましょうか」 「うん。ごめんねるるか、夜更かしさせちゃって」 「いいの。……色々話せて、楽しかった」 「ふふ、私も。……おやすみ、るるか」 「おやすみ」 明かりを消し、ふたりは並んでベッドに横たわる。 真っ暗になった部屋で、しばらくふたりの息づかいだけが聞こえていた。 やがて、小さな声がふたりの間に響く。 「……ね、さっきみたいにしてくれる?」 闇の中、手探りで辿り着いたふたつの指先が──お互いの手を、しっかりと握り締めた。 終わり