鬼声 凛の魔力が限界へ達する前兆は、今では朱月にもよく分かる。 呼吸が浅くなる。 黒い霊装の下を走る蒼い魔力線が、心臓の鼓動とは異なる周期で明滅し始める。 そして何より、凛は普段以上に口数が少なくなる。 「……見ないで」 壁へ背を預けた凛が、低く言った。 長い黒髪の毛先では蒼い火花が絶えず弾け、額に浮かんだ汗が白い頬を伝っている。胸元の結晶は内側から強く発光し、溢れ出した魔力が周囲の空気を震わせていた。 朱月はその姿を、金色の瞳で愉しげに眺めていた。 「どうしてですか?」 紫の肌。 白銀から紫へ染まる髪。 笑顔だけは人間だった頃と変わらないのに、そこから漂う気配は完全に鬼のものだった。 「こんなに綺麗なのに」 「今から出る声が……嫌なんだよ」 凛は目を逸らした。 鬼となって間もない頃、初めて余剰魔力を一気に放出したときのことを、朱月は鮮明に覚えている。 凛本人も知らなかった声が出た。 いつもの澄んだ声ではない。 腹の底から突き上げるような、低く、太く、獣じみた咆哮。 本人は、ひどく恥じていた。 人間として築いてきた「渋谷凛」のイメージと、あまりにもかけ離れていたからだ。 けれど朱月には、その声がたまらなく愛おしかった。 「私は好きですよ」 「……嘘」 「本当です」 朱月は凛の前へ立つと、その顎へ指を添えた。 無理に顔を上げさせるほど強くはない。 しかし凛が逃げようとすれば、決して許さない程度には確かな力がこもっている。 「凛ちゃんの身体が、もう人間のものではないと教えてくれる声ですから」 「そんなの、可愛くない」 「可愛いですよ」 迷いのない即答だった。 「普段はあんなに澄ました顔をしている凛ちゃんが、魔力を出すときだけ、立派な鬼の声を上げるんです」 朱月の笑みが深くなる。 「私は、とっても好きです」 「だから見られたくないんだってば」 凛が顔を背けようとした。 その瞬間、朱月の手が凛の手首を掴んだ。 身体を反転させ、壁へ押しつける。 凛が短く息を呑む。 両手首は頭上でまとめられ、朱月の片手だけで封じられた。 力を込めても動かない。 丑御前と混じり、並の怪異なら片手でねじ伏せられるほど強くなった凛が、朱月の前では身動きすら許されない。 「卯月……」 「今夜は、隠させません」 口調は優しいままだった。 朱月のもう片方の手が、凛の胸元へ触れる。 青い結晶を指先でなぞると、内部に詰まった魔力が激しく脈打った。 「っ……!」 「もう、こんなに溜まっています」 「自分で出せる」 「では、出してみてください」 朱月は手を離さない。 むしろ魔力核へ自らの鬼気を流し込み、凛の中で滞留していた蒼雷を意図的に掻き乱した。 凛の背が大きく反る。 黒い霊装の表面を雷光が走り、空気が焦げる。 けれど魔力は出ない。 凛は声を抑えることに意識を割きすぎて、出口を閉じてしまっている。 「ほら」 朱月は耳元で囁いた。 「声を我慢するから、魔力まで詰まってしまうんですよ」 「関係……ない」 「あります」 朱月の指が胸元から腹部へ下りる。 霊装の上から、臍下にある魔力核を正確に捉えた。 触れられた瞬間、凛の身体が震える。 「声も魔力も、同じところから出るんです」 朱月は魔力核を包むように掌を重ねた。 「凛ちゃんが自分を人間らしく見せようとして抑えるほど、身体の中で鬼が暴れてしまう」 「分かったようなことを……」 「分かっていますよ」 朱月の金眼が細められる。 「凛ちゃんのことなら、全部」 凛が睨み返した。 けれど瞳には、もう普段の余裕がない。 魔力の熱に浮かされ、呼吸は荒く、両腕には押さえつけられた緊張が走っている。 それでもなお、声だけは出すまいとしている。 朱月は、その意地さえ可愛いと思った。 「では、もう少し強くしますね」 「待って」 朱月は待たなかった。 魔力核へ流し込む鬼気を一気に増やす。 紫の炎が蒼雷へ絡みつき、抑え込まれていた力を内側から膨張させた。 「ぐ……っ」 凛の喉から、低い音が漏れる。 本人はすぐに唇を閉じた。 朱月は嬉しそうに笑った。 「今の声です」 「聞かなかったことにして」 「嫌です」 「卯月」 「もっと聞かせてください」 優しい口調。 けれど掌は容赦なく、凛の魔力を揺さぶり続ける。 高めては止める。 出口へ集めては、寸前で押し戻す。 凛の身体は何度も震え、そのたびに低い息が喉の奥から滲んだ。 朱月は一つとして聞き逃さない。 「まだ可愛い声で誤魔化していますね」 「何を……言ってるの」 「本当の声は、もっと低いでしょう?」 「出さない」 「出しますよ」 朱月は断言した。 「私が出させます」 凛の瞳が揺れる。 朱月が自分より強いこと。 本気になれば、抵抗など意味をなさないこと。 そして自分が、その事実に抗いがたい高揚を覚えていること。 そのすべてを見抜かれている。 「嫌なら、やめます」 朱月は改めて、静かに尋ねた。 凛は荒い息を整えようとしながら、朱月を睨んだ。 「……やめたら、怒る」 その答えを聞いた瞬間、朱月の瞳から最後の遠慮が消えた。 「では、最後まで付き合ってくださいね」 朱月が凛の胸元へ顔を寄せた。 黒い霊装の奥から、蒼い魂の光が浮かび上がる。 魔力によって昂ぶり、普段よりも強く、濃く、甘く輝いていた。 「いただきます」 「つまみ食いだけだから」 「分かっていますよ」 朱月は魂の表層から、ほんの一筋だけ魔力を掬い取った。 凛の身体が大きく跳ねる。 「あ――っ」 声はまだ高い。 人間だった頃の名残を保とうとする、抑えられた声。 朱月は不満そうに眉を下げた。 「違います」 「何が……」 「それは凛ちゃんが作っている声です」 もう一口。 今度は少し深く。 魂へ触れられた感覚が、凛の全身へ直接走る。 魔力線が眩しく輝き、蒼雷が壁を這った。 「本当の凛ちゃんを聞かせてください」 「無茶、言わないで」 「無茶ではありません」 朱月の掌が魔力核を強く開く。 「鬼になった自分を、まだ恥ずかしがっているだけです」 「私は恥ずかしがってなんか――」 「では、見せてください」 朱月の声は穏やかだった。 まるで人間だった頃、レッスンに怯える卯月自身へ凛が向けていた励ましを、そのまま返すように。 「凛ちゃんの全部を」 魔力が限界を越えた。 全身の蒼い線が一度に明滅する。 凛は反射的に唇を噛み、声を呑み込もうとした。 朱月はそれを許さない。 「駄目です」 耳元へ唇を寄せる。 「声を殺したら、魔力も戻ってしまいます」 「でも……」 「大丈夫ですよ」 朱月は凛の身体を、逃がさないように強く抱き込んだ。 「どんな声でも、私が全部聞いていますから」 胸元から、さらに一口。 魔力核を完全に開く。 凛の中へ溜まっていた蒼雷が出口を得て、全身を駆け上がった。 「――グ、ォオオオッ……!」 低く、太い咆哮が部屋を震わせた。 獣のものでも、人間のものでもない。 鬼として生まれ変わった凛の腹の底から溢れた、むき出しの声。 同時に、蒼雷が全身から噴き上がった。 青白い光が朱月の紫の鬼火へ吸い込まれ、二人を包むように渦巻く。 凛は自分の声に驚いたように目を見開く。 しかし朱月は、心底嬉しそうに笑っていた。 「ほら」 魔力を引き出しながら、優しく褒める。 「とても可愛いです」 「そんな……声の、どこが……!」 「全部です」 朱月は即答した。 凛の咆哮が途切れかけると、魔力核へ再び力を加える。 第二の波が全身を貫いた。 「グッ……ォ、ァアアッ!」 「そうです」 朱月は凛の魂から、溢れた魔力だけを少しずつ味わう。 「もっと聞かせてください」 「もう……無理」 「まだ残っていますよ」 「卯月……っ!」 「私の名前も、もっと鬼らしい声で呼んでください」 凛の喉が震える。 羞恥に顔を歪めながらも、魔力を放出する高揚には抗えない。 押さえつけられたまま。 魂を味わわれたまま。 自分の内側から、もう人間ではない声が次々と引き出されていく。 「しゅ、づき……!」 「はい」 「朱月……ッ!」 「ここにいますよ」 「グォオオオオ――ッ!」 最後の放出だった。 凛の身体が大きく震え、蒼雷が柱のように立ち昇る。 咆哮は夜気を揺らし、窓を震わせ、やがて長い吐息へ変わって消えた。 魔力線の光が急速に弱まる。 凛の膝から力が抜けた。 朱月は両腕で抱き止め、そのままゆっくりと床へ座る。 腕の中で、凛はしばらく動けなかった。 荒い息だけが、朱月の胸元へ触れている。 「……最悪」 ようやく漏れた声は、いつもの凛に近かった。 朱月は髪を撫でながら尋ねる。 「何がですか?」 「全部聞かれた」 「はい。よく聞こえました」 「忘れて」 「嫌です」 「即答しないで」 朱月は凛の角の根元へ頬を寄せ、満足そうに笑う。 「格好よかったですよ」 「さっきは可愛いって言った」 「両方です」 「どっちかにして」 「できません」 朱月の指が凛の喉元へ触れる。 先ほどまで咆哮を生み出していた場所を、いたわるように撫でた。 「人間だった凛ちゃんには、絶対に出せない声でした」 凛の身体が僅かに強張る。 朱月は続ける。 「強くて、野性的で、立派な鬼の声です」 「……私は、まだ慣れない」 「ゆっくり慣れればいいですよ」 「また聞くつもり?」 「もちろんです」 「趣味悪い」 「凛ちゃんのことが好きなだけです」 迷いのない返事に、凛は何も言えなくなった。 しばらくして、朱月の腰へ腕を回す。 「……他の誰にも聞かせないで」 「はい」 朱月は穏やかに頷いた。 「凛ちゃんのあの声を聞いていいのは、私だけです」 「酒呑にも?」 「酒呑ちゃんにも内緒にします」 「絶対?」 「絶対です」 その約束に安心したのか、凛の肩からわずかに力が抜ける。 朱月は奪った魔力の一部を掌から返し、凛の乱れた霊脈を静かに整えていく。 「でも」 「何」 「次は、もう少し長く聞きたいです」 凛が朱月の胸元へ顔を埋めた。 「……本当に最悪」 言葉とは裏腹に、腕は離れない。 むしろ誰にも渡さないように、朱月の身体を強く抱き締めている。 朱月もまた凛を包み込み、その蒼い髪へ頬を寄せた。 「お疲れさまでした、凛ちゃん」 「子供みたいに言わないで」 「よくできました」 「それもやめて」 「でも、本当ですから」 朱月の笑い声が、静かになった部屋へ小さく響く。 人間だった頃には決して聞くことのできなかった、凛の鬼としての声。 凛にとっては隠したい変化であっても、朱月には彼女が自分と同じ場所まで来た証だった。 だから次にその声を聞く夜も、きっと朱月は昔と同じ笑顔で褒め続ける。 恥ずかしがる凛を力強く抱き締めながら。 その声が、世界で一番愛しいと伝えるために。