毒を抜く夜・口調調整版 熱が、身体の奥に溜まっていた。 皮膚の表面ではない。 胸の奥から腹の底へ、さらに腰や背中へと根を張り、卯月の身体を内側から膨らませるような熱だった。 息を吸うたびに濃くなる。 吐き出そうとしても、喉の途中で何かにつかえ、また身体の内側へ戻ってしまう。 布団の上で身体を丸めた卯月の額には、二本の角が半ばまで現れていた。まだ形の定まらない角は、脈を打つように熱を持ち、その根元から紫色の魔力が細い筋となって頬や首筋へ流れている。 消そうとしても消えない。 両手で押さえても、指先の下で生き物のように脈打っていた。 「嫌だよ……」 震える手で角へ触れる。 硬い。 間違いなく、自分の身体から生えている。 「こんなのが生えてるなんて……嫌だよ」 自分の声なのに、ひどく遠く聞こえた。 「私じゃないみたいで……気持ち悪いよ」 卯月はもう成人している。 それでも、自分の身体が知らない形へ変わっていく恐怖は、年齢で割り切れるようなものではなかった。 昨日まではなかったものが生えている。 腹の奥には、人間だった頃には存在しなかった魔力核があり、絶えず熱と力を生み続けている。 胸の内側では、酒でも飲んだような甘い酩酊感が膨らみ、そのさらに奥から、人の魂へ惹かれる異質な衝動まで湧き上がってくる。 全部、自分ではない。 そう思いたかった。 「くつくつ」 すぐ近くで、酒呑が笑った。 「そない睨まんでも、角は逃げへんえ」 「笑わないでよ……」 「そら笑うわ。さっきから角押さえて、引っ込め、引っ込め言うとるだけやもの」 酒呑は卯月の背後へ腰を下ろした。 小柄な身体からは想像もつかないほど濃密な鬼気が、部屋の空気へゆっくり溶けていく。 その気配を感じただけで、卯月の魔力核が強く脈打った。 「っ……」 腹の底から熱が突き上がる。 卯月は膝を閉じ、さらに身体を小さくした。 酒呑はその反応を見て、面白そうに目を細める。 「ほら。うちの魔力に反応しとる」 「違うよ……」 「何が違うん?」 「これは……私がしたいわけじゃないから」 「またそれかいな」 酒呑の声は軽い。 けれど、その手が卯月の肩へ触れた瞬間だけ、わずかに真剣な温度が混じった。 「卯月」 耳元で名前を呼ばれる。 「魔力はな、溜め込んだら毒になる」 「……毒?」 「身体の中で腐って、霊脈も魂も焼いてまう。あんた、もうだいぶ熱いやろ?」 卯月は答えなかった。 答える必要もないほど、全身が熱を持っている。 「はよ放出し」 酒呑は、からかうように言った。 「出してしもたら、楽になるえ」 「でも……」 「声が出るんが嫌なん?」 見透かされ、卯月の肩が跳ねた。 酒呑は、くつくつと笑う。 「図星やなぁ」 「だって……あんな声」 初めて魔力が漏れた夜。 卯月の喉から出たのは、普段の自分とは似ても似つかない声だった。 低く。 太く。 獣の咆哮のような声。 自分の口から出たのだと、認めたくなかった。 「アイドルなのに……あんな声、誰かに聞かれたら」 「ここには、うちしかおらへん」 「酒呑ちゃんにだって、聞かれたくないよ」 「つれないなぁ」 酒呑の指が、卯月の角の根元を軽くなぞった。 そこから全身へ、鋭い感覚が走る。 卯月は息を呑み、反射的に酒呑の手から逃れようとした。 しかし肩を抱かれ、背中をぴたりと酒呑の身体へ預けさせられる。 「ほんまに嫌なら、やめるえ」 酒呑の声音が変わった。 笑みは残っている。 それでも、卯月の返事を待つ静けさがあった。 「このまま耐えるんも、あんたの自由や。せやけど、朝までにはもっと苦しゅうなる」 「……」 「うちに任せる?」 卯月は唇を噛んだ。 身体の奥では魔力核が強く脈打ち、早く解放してほしいと訴えている。 嫌だった。 怖かった。 それ以上に、もう耐えられなかった。 「……お願い、酒呑ちゃん」 「よろしい」 酒呑の声が、また楽しげなものへ戻る。 「ほな、遠慮せんといこか」 酒呑は背後から卯月を抱くように座り直した。 片手を胸元へ。 もう片方を、臍より下にある魔力核へ重ねる。 服越しであっても、触れられた場所だけが異様なほど熱くなる。 「っ……そこ、なの?」 「ここが詰まっとるんや」 掌で包み込まれる。 卯月の中で、魔力核が大きく脈打った。 人間には存在しない器官。 鬼になったことで生まれた、力を生み出すための核。 その存在を他者の手で確かめられていることが、たまらなく恥ずかしかった。 「嫌だよ……」 「何が?」 「こんなところに、こんなものがあるのが……」 「立派な核やないの」 「立派とか言わないでよ」 「なんでや。よぉ育っとるえ」 酒呑が楽しそうに言うたび、卯月の顔が熱くなる。 恥ずかしさから身体を丸めようとすると、酒呑の腕がそれを許さない。 「背中伸ばし」 「無理だよ……」 「また閉じ込めるつもり?」 胸元へ置かれた手が、ゆっくりと魔力を押し下げる。 腹部の掌はその流れを受け止め、核の周囲を円を描くように巡った。 途端に、身体の奥で絡まっていたものが動き始める。 「ぁ……」 卯月の喉から、かすかな声が漏れた。 「ほら。出るやろ?」 「まだ……出てないよ」 「声、可愛く作っとるなぁ」 「作ってないよ」 「作っとる。人間の卯月の声に、必死にしがみついとる」 酒呑の指先が、魔力核の脈動へ正確に重なる。 一度。 二度。 触れられるたび、腹の底から熱が湧き上がる。 苦しい。 けれど、同時に妙に心地よかった。 押し詰められていた力が動く。 身体の中に溜まっていたものが、ようやく出口へ向かって流れていく。 そのたびに、息が甘く震えた。 「気持ち悪いよ……」 卯月は呟いた。 「自分の身体じゃないみたいで……」 酒呑の手は止まらない。 「うん」 「角も、魔力核も、鬼の力も……全部、嫌なのに」 「うん」 「触られると……」 卯月の呼吸が乱れる。 「楽に、なって……」 酒呑が耳元で笑った。 「気持ちええんやろ?」 「言わせないでよ……」 「隠すことあらへん」 魔力核を包む手に、わずかに力が加わった。 その瞬間、卯月の背筋を紫の光が駆け上がる。 角の根元まで熱が突き抜け、視界が一瞬白く染まった。 「っ、あ……!」 「ほら、また声止めた」 「だって……」 「止めるから戻るんや」 確かに、喉へ上がった魔力が行き場を失い、胸へ逆流してくる。 苦しさが増す。 酒呑は半ば呆れたように息を吐いた。 「卯月、人間みたいな声に戻そうとせんでええ」 「でも、あの声を出したら……」 「鬼になる?」 卯月は目を伏せた。 「……うん」 酒呑はしばらく黙っていた。 やがて、胸元へ置いた手で卯月の鼓動を確かめる。 「出さんでも、あんたはもう鬼や」 その言葉に、胸が痛んだ。 「そんなこと……」 「角もある。核もある。魔力も流れとる」 酒呑の声は、残酷なほど穏やかだった。 「せやけど、それで卯月が消えるわけやあらへん」 「分からないよ……」 「ほな、確かめたらええ」 酒呑は卯月をさらに深く抱き込んだ。 「人間やった自分も、今ここにおる鬼の自分も、どっちも出してみ」 紫の魔力が、酒呑の掌から卯月の核へ流れ込む。 自分のものではない、圧倒的に濃い鬼気。 それが卯月の魔力へ絡みつき、内側から大きく膨らませていく。 「待って……酒呑ちゃん、これ以上は……」 「貯めたら毒や言うたやろ」 酒呑は楽しそうに囁く。 「はよ放出し」 「無理だよ……」 「無理やない」 「声が……」 「出したらええ」 「嫌だよ……!」 「嫌や言いながら、身体は出したがっとるえ」 図星だった。 核は酒呑の手の中で、ひどく素直に脈打っている。 魔力を解放したい。 抑えるのをやめたい。 人間らしい形へ押し込めるのをやめ、身体の求めるまま、全部外へ出したい。 そんな衝動が、羞恥よりも強くなり始めていた。 「嫌……」 卯月の否定は弱い。 「鬼になりたくないよ……」 「もうなっとる」 「こんな声、私じゃないよ……」 「今のあんたの声や」 「気持ち悪い……」 「せやけど、気持ちええ」 卯月の喉が震えた。 否定できなかった。 酒呑の手で魔力の流れを整えられるたび、身体が軽くなる。 押し込めていた力が解かれるたび、頭の奥が甘く痺れる。 怖い。 恥ずかしい。 それでも、もっと続けてほしかった。 「卯月」 酒呑が優しく名前を呼ぶ。 「最後は自分で出すんや」 「できないよ……」 「できる」 「怖いよ」 「うちがおる」 その言葉だけが、熱に浮かされた意識へ鮮明に届いた。 酒呑の掌が、魔力核を完全に開く。 胸、腹、背中、喉、角。 すべての霊脈が一本につながった。 「出し」 魔力が一気に上がってくる。 卯月は反射的に唇を閉じた。 「止めたらあかん」 酒呑の腕が、逃げられないよう卯月の身体を強く支える。 「全部出し切り」 「でも……!」 「鬼の声、聞かせて」 その瞬間、卯月の中で何かが切れた。 「――グ、ォオオッ……!」 自分の喉から出たとは思えない、低く太い声。 同時に、角から紫の鬼火が噴き上がった。 掌からも炎が溢れ、部屋の空気が激しく揺れる。 卯月は自分の声に怯えた。 それでも、止められない。 放出するたびに、身体を内側から締めつけていた熱が抜けていく。 苦しさが、強烈な解放感へ変わる。 「そうや」 酒呑が耳元で笑う。 「もっと出し」 「グッ……ォ、ァアアッ!」 再び、咆哮。 怖い。 自分が人間から遠ざかっていく。 声を出すたび、角が確かな形を持ち、魔力核が自分の身体の一部として馴染んでいく。 けれど同時に。 気持ちよかった。 身体が初めて、本来の呼吸をしているようだった。 人間らしく抑え込むよりも、鬼として力を吐き出すほうが、ずっと自然だった。 「嫌だよ……」 声の合間に、卯月は泣きそうに呟く。 「こんなの、嫌なのに……」 「うん」 「気持ちいいよ……」 「せやろ?」 「私、本当に……鬼に……」 「なっていくんやない」 酒呑は背後から、卯月の身体を支え続ける。 「今の自分に、馴染んどるだけや」 最後の魔力が、腹の底から押し上がってきた。 卯月はもう、声を抑えなかった。 「――ォオオオオッ!」 紫の炎が大きく広がる。 声も。 角も。 魔力も。 自分の中に生まれた、醜いと思っていたすべてを、卯月は一度に解放した。 身体が震える。 意識が白く霞む。 恐怖と羞恥の中に、抗えないほど強い高揚が混ざっていく。 自分が鬼であることを、肉体そのものから突きつけられる。 それなのに、拒絶する力がもう残っていなかった。 魔力が抜け切った瞬間、卯月の身体から力が失われた。 酒呑が抱き止める。 「よう出せたなぁ」 優しく褒められ、卯月は顔を伏せた。 「……聞いたよね」 「聞いたえ」 「全部……?」 「よう響いとった」 「忘れてよ」 「無理やなぁ」 酒呑は、くつくつと笑う。 卯月は耳まで赤くし、酒呑の腕の中で身を縮めた。 けれど先ほどまでとは違い、身体の熱は穏やかだった。 角も消えてはいない。 魔力核も、腹の奥で静かに脈打っている。 それらはまだ恥ずかしく、気味の悪いものに思える。 それでも、完全に自分ではないとは、もう言い切れなかった。 あの咆哮も。 解放の高揚も。 酒呑の腕の中で安堵している自分も。 確かに、今の島村卯月から生まれたものだった。 「酒呑ちゃん」 「なんや?」 「次も……」 言いかけて、卯月は唇を閉じた。 酒呑の笑みが深くなる。 「次も、うちに抜いてほしいん?」 「……自分でできるようになるまでだよ」 「はいはい」 酒呑は卯月の髪を撫で、まだ敏感な角の根元へ触れないよう丁寧に指を避けた。 「次は、もうちょい素直に声出せるとええなぁ」 「それは絶対に嫌だよ」 「せやけど、気持ちよかったんやろ?」 卯月は答えなかった。 答えられなかった。 ただ酒呑の腕から離れず、火照りの残る顔をその胸元へ隠した。 その沈黙だけで、酒呑には充分伝わっていた。