「未来、ですか?」 卯月は警戒するように眉を寄せた。 魔力放出を終えてから、まだそれほど時間は経っていない。 身体の熱は収まったものの、腹の奥に生まれた魔力核は、完全には静まっていなかった。鼓動とは異なる周期で、とくん、とくんと脈を打ち、そのたびに自分が人間ではなくなった事実を思い出させる。 『未来いうても、大層な神通力やあらへん』 酒呑は気軽に答えた。 『今の卯月から伸びとる道筋を、ちょいと見せるだけや。育った鬼は、自分がどないなるかくらい嗅ぎ分けられるもんやえ』 「そんな曖昧なもの、見せてどうするの?」 『決まっとるやろ』 くつくつと、内側で笑う。 『あんたがいつまで、“鬼になった可哀想な卯月”でおるつもりなんか、確かめるんや』 「私は……」 反論しようとした瞬間、部屋の鏡が揺らいだ。 表面が水のように波打ち、映っていたはずの卯月の姿が暗い夜景へ溶けていく。 「酒呑ちゃん、待って」 『見るだけや』 「見たくないよ」 『嘘やなぁ』 鏡から、甘い香りが流れてきた。 濃い花の香水。 芳醇な酒。 そのさらに奥に、熟れた果実と湿った夜気を混ぜたような、鬼特有の甘い体香。 嗅いだことなどないはずなのに、卯月の身体はそれを自分の匂いだと理解した。 鏡の向こうに、一人の女が立っていた。 黒と紫の豹柄をあしらった短いコート。 その下には、夜の光を濡れたように反射する、深い赤紫のドレス。 衣服は彼女の身体へ沿い、細い腰から脚へ続く成熟した輪郭を隠そうともしない。 それは人間だった頃の卯月の姿を土台にしながら、明らかに別の美しさを獲得した身体だった。 魔力を食らい、蓄え、解放する。 その循環を重ねることで、華奢さの中に眠っていた曲線が磨かれている。姿勢には揺るぎない芯が通り、ただ立っているだけで、自分が見られる存在なのだと周囲へ思い知らせていた。 「……私?」 卯月の声が震えた。 鏡の女が振り返る。 顔は確かに卯月だった。 けれど笑顔が違う。 かつてのような、誰かを安心させようとする可愛らしい笑顔ではない。 自分が美しいことを知っている。 見つめた者の胸が高鳴ることも、その視線が身体から離れなくなることも、最初から分かっている。 だからこそ、ほんの少し目を細め、紅を引いた唇を持ち上げるだけでよい。 その笑みは、人を迎え入れるものではなかった。 相手の方から、自分の領域へ踏み込ませる笑みだった。 「違う……」 卯月は鏡から後ずさった。 「私、あんな顔しないよ」 『顔立ちも、笑い方の癖も、卯月そのものやけどなぁ』 「笑い方が違うよ」 『自信がついただけやろ』 「違うってば」 否定しながらも、視線を逸らせなかった。 未来の朱月は、週末の繁華街をゆっくり歩いていた。 彼女が通るたび、人々の感情が揺れる。 困惑。 羨望。 憧れ。 欲望。 そのすべてを浴びながら、朱月は誇らしげに笑っている。 腰が揺れるたびに光沢のある布が街灯を弾き、甘い香りが夜へ溶けていく。 誰かが振り返る。 また一人、足を止める。 朱月はそれを知りながら、わざと歩調を緩めていた。 「そんなの……」 卯月は胸元を押さえた。 「見せつけてるみたい……」 『みたい、やのうて、見せつけとるんやろ』 「恥ずかしくないの?」 『なんで恥ずかしがる必要があるん?』 鏡の中の朱月が、服の上から腹部へ手を添えた。 人々の視線と感情を浴び、魔力核が膨らんでいる。 その輪郭を指先で愛おしそうに撫でながら、未来の彼女は楽しげに笑った。 ――もう大きくなってる。 その声が、鏡越しではなく卯月の耳元で囁かれたように聞こえた。 ――我慢、我慢♪ とくん。 卯月自身の魔力核が反応した。 「え……?」 腹の奥から、甘い熱が滲み出す。 目の前にいるのは未来の自分だ。 自分とは違う。 そう思っているのに、朱月が視線を浴びて喜ぶ感覚が、身体の内側へ流れ込んでくる。 注目される心地よさ。 羨まれる満足感。 人間の欲望を、自分が生み出しているという優越感。 卯月は腹部を押さえた。 「やめてよ。感覚まで伝えないで」 『うちは何も流しとらんえ』 酒呑の声が甘く響く。 『あれも卯月やさかい、核が勝手に共鳴しとるだけや』 「私じゃない」 『ほな、なんで目ぇ逸らさんの?』 未来の朱月は、一人のサラリーマンへ声をかけた。 特別な男ではない。 仕事帰りの、どこにでもいそうな人間。 だが男は、朱月を見た瞬間から心を奪われていた。 その女を自分のものにしたい。 自信に満ちた顔を、自分の前でだけ崩してみたい。 誰もが振り返る存在を、自分なら掌握できる。 そんな願望が、魂から甘い熱となって溢れている。 朱月にはすべて分かっていた。 分かったうえで、男へ近づく。 花と酒と鬼の匂いで包み込み、目を細めて囁く。 ――少し、静かなところへ行きませんか? 男は迷わなかった。 卯月は思わず口元を覆った。 「だめ……」 『何が?』 「あの人、危ないって分かってないよ」 『あの朱月は、ちゃんと警告するみたいやえ』 未来の朱月は、人気のない屋上で男へ告げた。 自分は少し変わっている。 人が驚く顔や、怖がる顔が好きだ。 怪我はさせないが、嫌なら今のうちに帰った方がいい。 男はすべてを軽く聞き流した。 朱月の言葉を警告として受け取らず、刺激的な誘いだと解釈している。 彼女を手に入れる未来しか見えていない。 「帰って」 卯月が思わず呟いた。 もちろん、鏡の中の男には届かない。 未来の朱月は男へ背を向けた。 豹柄のコートを脱ぎ、赤紫の光沢を夜へさらす。 肩越しに振り返り、自信に満ちた笑みを浮かべる。 その姿を見た瞬間。 卯月は息を止めた。 美しい。 そう思ってしまった。 派手で、蠱惑的で、人を食らうための装い。 自分なら絶対に選ばないはずの姿。 それなのに、鏡の中の朱月は何一つ服に負けていない。 衣装も香りも視線も、すべて自分の魅力を引き立てる道具として従えている。 「……綺麗」 卯月の唇から、言葉が零れた。 言ってから、自分で凍りつく。 酒呑はすぐには笑わなかった。 ただ、確かめるように囁いた。 『せやろ?』 「違う」 『何が違うん?』 「私は、あんなふうになりたくない」 『なりたいとは言うてへん』 「でも……」 『美しいと思うたんやろ』 とくん。 魔力核がまた脈打った。 熱が腹から胸へ上がってくる。 未来の朱月は、自分を掌握できると信じ切った男へ微笑んでいた。 ――そろそろ、いいかなっ♪ 瞳が黄金へ変わる。 二本の角が現れる。 髪が白銀から紫へ染まり、肌へ鬼の色が広がる。 男の期待が、一瞬で恐怖へ反転した。 自分が女を手に入れようとしていたのではない。 最初から、鬼の食事に選ばれていた。 その理解が魂を震わせ、濃密な絶望を溢れさせる。 「やめて……」 卯月は目を閉じようとした。 できなかった。 未来の朱月が、逃げる男の背中から恐怖を吸い上げる。 その瞬間、卯月の舌にも味が広がった。 甘い。 苦い。 熟れた酒のように濃く、喉の奥へまとわりつく。 初めて人間の恐怖を食べた夜と、同じ味。 けれど未来の朱月が育てた感情は、あのときよりも複雑で、深い。 期待。 優越感。 欲望。 それらが一度に砕けたことで生まれた絶望。 「ん……」 卯月の喉から、思いがけず小さな吐息が漏れた。 全身へ熱が流れる。 魔力核が大きく膨らみ、服の下から存在を主張し始めた。 「嫌……」 言葉とは裏腹に、身体が震えている。 恐ろしい。 未来の自分が、人間の感情を手際よく熟れさせ、最も美味しい瞬間に食べている。 それなのに、その所作を洗練されていると思ってしまう。 鬼の姿になった朱月を、恐ろしくも美しいと感じてしまう。 そして、彼女が味わった魂の甘さを、自分の舌まで喜んでいる。 未来の朱月は満足そうに笑った。 ――うんっ♪ やっぱり、この味は何度食べても美味しっ♪ 「そんな顔で……言わないでよ」 卯月の声が掠れる。 未来の自分は、もう泣いていない。 魂を食べたことにも。 鬼であることにも。 自分の身体が人間を魅了することにも。 何一つ迷っていない。 その迷いのなさが、眩しかった。 「私……あんなふうに笑えるの?」 『笑えるんやない』 酒呑が答える。 『笑いたいと思うとるんやろ』 「違うよ」 『ほな、その核はなんでそない喜んどるん?』 卯月は腹部へ視線を落とした。 魔力核が、両手で押さえなければならないほど強く脈打っている。 未来の自分を見ただけで。 美しいと思っただけで。 魂の味を想像しただけで。 魔力が溜まっている。 「これ、止めて……」 『止めるんは卯月や』 「どうすればいいの?」 『ほんまに嫌なら、目ぇ背けたらええ』 できなかった。 鏡の向こうで、未来の朱月が巨大な魔力核を両腕へ抱えていた。 食事で満たされ、花のように膨らんだ核。 彼女はそれを恥じるどころか、誇らしげに酒呑へ見せている。 ――あはっ♪ こんなに大きくなっちゃった。 その笑顔には、可愛らしさの名残がある。 けれど今やそれさえ、鬼姫の蠱惑的な魅力へ変わっていた。 未来の朱月が自ら核を開く。 紫金色の光が夜を満たす。 そして腹の底から、低く、重く、艶を帯びた鬼声を解き放った。 ――グ、ォオオオオオッ……! 鏡が震える。 部屋の空気まで波打った。 同時に、卯月の喉も内側から震えた。 「っ……!」 声が出そうになる。 あの野太い鬼声。 以前なら、自分のものではないと泣いて拒絶していた声。 だが未来の朱月が発するそれは、獣の咆哮には聞こえなかった。 圧倒的な力を持つ鬼姫が、自分の存在を夜へ刻みつける声。 低く。 美しく。 人間には決して真似のできない、自信と充足に満ちた響き。 「……綺麗」 また、言ってしまった。 今度は声を取り消せなかった。 未来の朱月が二度目の魔力を放つ。 卯月の魔力核も、限界まで膨れ上がった。 熱が全身を巡り、頬を火照らせる。呼吸が浅くなり、指先へ紫の光が滲んだ。 「私、怖いのに……」 涙が目尻へ浮かぶ。 「こんなふうになったら、もう私じゃなくなるって思うのに……」 それでも鏡の中から目を離せない。 「あの私を、綺麗だって思ってる」 『せやな』 「魂を食べてるのに」 『せや』 「人を怖がらせて、喜んでるのに」 『それでも、美しいと思うた』 酒呑は責めなかった。 慰めもしなかった。 ただ事実だけを静かに置いていく。 未来の光景が薄れていく。 赤紫のドレス。 豹柄のコート。 黄金の瞳。 満足そうに笑う鬼姫。 最後にその顔が、鏡のこちら側にいる卯月をまっすぐ見たように思えた。 未来の朱月が、唇だけで笑う。 ――待ってますね。 「……っ!」 鏡が元の姿へ戻った。 部屋には、現在の卯月だけが残る。 淡い部屋着。 整えていない茶色い髪。 涙に濡れた、人間らしい顔。 けれど腹の奥では、魔力核が大きく育っていた。 どくん。 どくん。 未来の自分を美しいと思った感情まで、鬼の魔力へ変えて蓄えている。 卯月は床へ座り込み、両腕で腹部を抱いた。 「酒呑ちゃん……」 『なんや?』 「今のは、本当に未来なの?」 『さあなぁ』 「見せたのは酒呑ちゃんでしょう?」 『未来なんぞ、見る者の欲で形が変わる』 「都合がよすぎるよ」 『せやから、都合のええ未来見や言うたやろ』 酒呑はくつくつと笑った。 だが、その声にはいつもの軽薄さだけではない、わずかな優しさが混じっていた。 『あれが必ず卯月になるわけやない』 「じゃあ……」 『せやけど、あれを怖いと思うたんも、美しいと思うたんも、今ここにおる卯月や』 卯月は答えられなかった。 核がまた脈打つ。 未来の朱月が発した低い声を思い出すだけで、喉の奥が熱を持つ。 「私、あんなふうになりたくない」 『うん』 「人を食べることを、当たり前だと思いたくない」 『うん』 「でも……」 卯月は震える手で、膨らんだ魔力核を撫でた。 「少しだけ、羨ましかった」 迷いのない姿が。 自分を美しいと言い切れる強さが。 鬼であることを恥じず、身体も声も欲望も、すべて自分のものとして抱きしめている未来の自分が。 「……すごく、綺麗だった」 その告白と同時に、魔力核が甘く震えた。 酒呑は笑う。 『ほな、まずはその気持ちから、ちゃんと味わい』 卯月は涙を流したまま、目を閉じた。 恐怖。 戸惑い。 嫌悪。 そして、憧れ。 相反する感情が腹の奥で一つになり、濃い鬼気へ変わっていく。 まだ朱月ではない。 まだ人間の心を捨ててもいない。 それでも卯月の中には、自分がいつか美しい鬼姫になる未来を望んでしまう小さな種が、確かに芽吹いていた。