1 黒川千翼のメイド、時乃から連絡が届いたのは三日前だった。 主人の身辺で、正体不明の異変が続いている。 可能であれば、宵月灯に調査と対処を依頼したい。文面はそれだけだ。 続けて送られてきたのは、山間にある黒川家の別荘の住所と、到着時刻を知らせてほしいという一文。灯が事情を尋ねても、返ってきた答えは簡潔だった。 『詳細は、現地にて千翼様よりご説明いたします』 焦った様子も、助けを乞うような言葉もない。いつもの時乃らしく、句読点まで整えられた文章だった。 最寄り駅のホームへ降りると、湿った山の風が吹き抜ける。 東京よりは涼しい。しかし、頭上の太陽は古びた駅舎の屋根を白く焼き、線路の向こうでは陽炎が揺れている。 駅前にあるのは、小さな食堂と土産物屋が一軒ずつ。色褪せた観光案内板には湖畔の遊歩道やキャンプ場が描かれていた。軒下には風鈴が吊られている。風は吹いているのに、鳴っていなかった。 「思っていたより普通の場所だね」 ルーチェモンが、黒いキャスケットのつばを指先で押し上げた。 元の少年の姿へ戻った今も、その顔立ちはひどく端正だった。少なくとも、この美貌だけは自前のものだったらしい。 「どんな場所を想像してたの?」 「深い霧に覆われた古城。地下には黒川家が代々隠してきた秘密が眠り、門には招かれざる客を噛み殺す番犬がいる」 「良いあらすじだね」 灯の腰に下げられたデジヴァイスから、気怠げな声が響いた。 『我には、ただ暑いだけの田舎にしか見えぬな』 「だったら外に出て確かめれば?」 『断る』 即答だった。日本の猛暑はデジモンにすら影響を与えるらしい。 そのとき、駅前の細い道路へ黒い乗用車が入ってきた。車輪が砂利を噛む。 ざり。ざりざり。 人気のない駅前に、その音だけが妙にはっきりと残る。 運転席から降りてきたのは時乃だった。 メイド服にも、髪にも乱れはない。彼女は普段と変わらぬ姿勢で灯たちの前まで歩み寄り、丁寧に一礼した。 「お待ちしておりました、灯様。遠路ご足労いただき、ありがとうございます」 「こんにちは。迎えまでお願いしてしまって、すみません」 「いいえ。千翼様より、皆様を丁重にお迎えするよう仰せつかっております」 時乃はルーチェモンにも一礼し、続いて灯のデジヴァイスへ視線を向けた。 「ピコデビモン様も、ようこそお越しくださいました」 『うむ。出迎え、大儀である』 「中から偉そうにしないの」 時乃はごく淡く微笑んだ。声にも表情にも、取り乱した様子はない。 ただ、後部座席の扉を開く前に、彼女の視線が扉の縁をなぞった。 上端。蝶番。車体と扉が交わり、細い三角形の隙間を作る箇所、一つずつ確認してから、初めて取っ手へ手を掛ける。 怯えているのではなくそれはもう、戸締まりと同じほど身体へ染みついた手順に見えた。 「どうぞ、お乗りくださいませ」 車は駅前の集落を離れ、山道へ入った。 杉林が窓の外を流れていく。古い石垣、屋根だけが見える民家、苔むした地蔵。 道は何度も折れ曲がり、そのたびに山の影が車内を横切った。 「千翼さんに怪我はありませんか」 灯が尋ねると、時乃は前を向いたまま答えた。 「ございません。千翼様は変わらずお健やかでいらっしゃいます」 「時乃さんも?」 「ご心配には及びません」 「何かに襲われたんですか?」 「現在まで、直接的な接触には至っておりません」 時乃は緩やかなカーブに合わせ、静かにハンドルを切った。 「こちらの都合とは無関係に、少しずつ距離を詰めてくるものがございます」 それ以上、時乃は語らず、車内に残ったのは、空調の低い駆動音だけだった。 長い坂を上りきると、森が途切れた。木々の向こうには湖が広がっていた 鈍い銀色の水面には、山の影がくっきりと映っていた。風は吹いているはずなのに、遠目には波一つない。 その湖を見下ろす斜面に、白い洋館が建っていた。 二階建ての古い別荘。石造りの基礎、淡い灰色の屋根、湖へ向いた広いテラス、庭には青や白の夏花が咲き、木陰には籐椅子と丸いテーブルが置かれている。 一見すれば、絵葉書にでも使われそうな美しい避暑地だった。 しかし、車が近づくにつれ、その姿に混じる異物が見えてきた。 玄関の柱には、白い布が幾重にも巻かれている。窓枠の四隅には綿、雨樋と外壁の接合部には、粘土のようなものが盛られていた。石段の端には土嚢が積まれ、鉄製の手すりは曲がるたびに毛布で覆われている。 美しい別荘の輪郭だけが、奇妙に丸められていた。 鋭い部分が、外へ露出することを防いでいるのだ。 「なるほど」 ルーチェモンの声から、先ほどまでの軽さが消えた。 車を降りた時乃は、すぐに玄関へ向かわなかった。 二階の窓、屋根の張り出し、排水溝、テラスの手すり、庭の机、何かが隠れていないか探しているのではなく何かが現れ得る場所を、一つずつ確認している。 「こちらでございます」 玄関扉にも、同じ処置が施されていた。 扉を囲むすべての隅を確認してから、ようやく鍵を回す。 扉が開くと、冷え切った空気が流れ出し、灯の頬を撫でた。 冷房の涼しさだけではなく、長く閉ざされた地下室から這い出してくるような、湿り気を含んだ冷気だった。 そこへ消毒薬と、溶けた蝋の匂いが混ざっている。 館内の照明はすべて点けられていた。昼間だというのに、室内は白々しい光で満たされている。 影ができることさえ許されていないのに家の奥だけはひどく暗く見えた。 壁に掛けられていたらしい絵画や鏡は外され、床へ伏せられている。棚や机の角には厚いクッション材。廊下が折れる場所には天井からカーテンが吊られ、壁同士の継ぎ目を覆い隠していた。 この家から、角という角が消されようとしていた。 だが、いくら隠しても、家が家である以上、壁と壁はどこかで交わる。 館内のすべてが、その当たり前へ抗っていた。 「お帰りなさい、時乃」 廊下の奥から、澄んだ声が響いた。黒川千翼が姿を現す。 黒いノースリーブのブラウスに、淡い色のハイウエストショートパンツ。腰には黒いベルトを締め、足元には華奢なストラップサンダルを履いている。 長い黒髪の上には、赤いレンズのサングラスが載せられていた。 その姿だけを見れば、湖畔へ散歩に出る直前の避暑客でしかない。 だが、彼女が歩いてくる廊下には額縁も鏡もなく、家具という家具が白い布で覆われていた。 千翼は廊下の中央を、ゆったりとした足取りで進んでくる。 壁際を避けていることすら、客人には悟らせないような自然さだった。 灯を認めると、優雅に目元を和らげる。 「あら、灯。ようこそいらっしゃいましたわ」 「こんにちは、千翼さん。思っていたより大きな別荘ですね」 「そうでしょう? こう見えて、夏を過ごすにはなかなかよい場所ですのよ」 千翼は白い布に覆われた廊下を見回し、困ったものだとでも言うように微笑んだ。 「今は少々、内装に趣がございませんけれど…化け物の都合で、こちらまで夏を諦める必要はないでしょう?」 千翼らしい答えだった。彼女は灯のそばまで来ると、親しげにその肩へ手を添えた。 「急にお呼び立てしてしまって、ごめんなさいね。けれど、あなたなら来てくださると思っておりましたの」 「千翼さんの頼みだからね。世界の裏側からでも駆けつけますとも」 「まあ。嬉しいことを仰るのね」 千翼は満足そうに笑い、それから灯の隣へ視線を移した。 黒いキャスケット、淡い金色の髪。白いシャツと深紅のネクタイ。 中性的に整った顔立ちを眺め、千翼は興味深そうに目を細めた。 「こちらが、灯から伺っていたルーチェモンですのね」 「初めまして、黒川千翼」 「ええ、初めまして」 千翼は灯とルーチェモンを見比べる。 「まあ。彼女さんかしら?」 「残念だけど違うよ。今のボクは、キミたち人間でいうところの男の姿だ。それに、キミが考えているような関係でもない」 「まあ、失礼いたしましたわ。あまりにもお綺麗でしたから」 「褒め言葉として受け取っておくよ」 そう言いながら、ルーチェモンの意識がほんの少しだけ灯へ向いた。 「大切なパートナーである事には変わりないさ。今回だって連れて来たしね」 灯が答えると、ルーチェモンの眉がわずかに動いた。 ルーチェモンは灯を横目で見たあと、呆れたように息を吐く。 「余計なことを言わないで」 声は不機嫌そうだったけれど、キャスケットのつばを直す指先には、先ほどまでの硬さがない。 千翼は二人を眺め、上品に口元を緩めた。 「なるほど。とても大切なお連れさまなのね」 ルーチェモンは答えなかった。千翼は追及せず、愉快そうに笑う。 「お部屋はお二人分、きちんと用意してございますわ。そちらの用事を片づけましたら、ぜひゆっくりしていってくださいな」 「事件の説明より先に、休暇の話をするのかい?」 「そのためにお呼びしたのですもの」 千翼は何でもないことのように言った。 「わたくしたちだけで、いつ現れるか分からない相手を見張り続けるのは骨が折れますでしょう? 灯に少しお手伝いいただいて、事態が収まりましたら、そのまま皆で夏を楽しむ。実に合理的ではございませんこと?」 「僕は休暇のおまけに呼ばれたんだね」 「逆ですわ。厄介事の方が、休暇へ勝手についてきたのです」 その背後で、時乃が玄関扉を閉めた。鍵を掛け、補助錠を下ろし鎖を渡す。 最後に扉の下へ、隙間を埋めるように丸めた布を押し込んだ。 動作は無駄なく、静かだった。すべてを終えると、千翼の斜め後ろへ立つ。 玄関と廊下、その両方を視界へ収められる位置だった。 「では、ご説明いたしますわね」 千翼は廊下の奥へ視線を向けた。 「少し前、わたくしは過去へ参りましたの」 灯の腰でデジヴァイスが淡く光る。 『過去だと?』 「タイムモンの能力だね」 「ええ。時乃と一緒に」 千翼の声音には、失敗を告白する者の弱々しさはなかったが普段よりほんの少しだけ言葉を選んでいる。 「少々、自分に都合のよい情報を得ようと思いまして」 「それはまた、随分と素直な説明だね」 ルーチェモンが言う。 「取り繕っても仕方がございませんもの。わたくしの軽率さが招いたことであるのは事実ですわ」 千翼はさらりと認めた。 「用事を済ませ、わたくしたちは現代へ帰還いたしました。少なくとも、その時点では余計なものを伴っているとは考えておりませんでしたの」 こつ。 廊下の奥で、小さな音がした。木が鳴ったようにも聞こえた。 時乃が音の方向へ身体を向ける。 こつ。 二度目。 先ほどより、わずかに近い。廊下の隅を覆っていた白い布から、鋲が一本抜け落ちた。 床を跳ねる。 こつ。 同じ音だった。 二本目。 三本目。 布が内側から押されるように膨らんだ。 ゆっくりと。 何かが、その向こうで息を吸っている。膨らみが萎み、また膨らむ。 最後の鋲が外れ、白い布が壁を滑り落ちた。 その下から、二枚の壁が交わる直角が露わになる。 照明は真上にあり周囲は白い光で満たされている。 それなのに、角の奥だけが黒かった。 ただの影ではない。奥行きなど存在しないはずの場所に、細く深い穴が開いている。 ルーチェモンが灯の前へ半歩出た。 デジヴァイスの画面が明滅する。 『これが例の音か』 「はい」 時乃は凛と答えた。 千翼は黒い角を見据え、わずかに眉を寄せる。 自分の屋敷へ無断で足を踏み入れようとする者への、不快感を示していた。 闇の奥から、湿った息が漏れた。 しゅる。 濡れた何かが、狭い穴を這う。獣の唸り声に似ていた。だが、獣の喉から発せられた音ではない。 細い管の向こうから、唾液と吐息だけが押し寄せてくるような音だった。 黒い穴の奥で、硬いものが一度だけ打ち合わされる。 かちり。 歯だった。 「無作法なことでしょう?」 千翼は静かに言った。 「最初は、もっと遠くで聞こえておりましたの。庭の外れや、使っていない物置から」 闇の周囲に、細い亀裂が走った。 「角を一つ塞ぎますと、別の角へ移るようになりました。昨夜は二階の廊下。今朝は客間」 千翼は灯へ視線を戻した。 口元には、変わらず優雅な微笑がある。 「そして今は、あなた方をお迎えした玄関まで来ておりますの」 再び、歯の鳴る音がした。 かちり。 先ほどよりも、近い。 「随分とせっかちな猟犬ですこと」 千翼は、招いてもいない客の無礼を嘆くように息をついた。 「ですから灯。あれが本格的に姿を現す前に、追い払うのをお手伝いいただけないかしら?」 その背後で、角の奥の何かが、返事を急かすようにもう一度だけ歯を鳴らした。 2 灯が返事をするより早く、壁の角から黒いものが滲み出した。煙のようだが煙ではないそれは、床へ落ちることもなく、二枚の壁が交わる線にまとわりつき、濡れた膜となって脈打っている。 その奥で、硬いものが触れ合った。 かちり。 「時乃」 「承知しております」 千翼の声に応じ、時乃がアプリドライヴへ触れた。 《超!アプリアラァァァァイズ!》 けたたましい電子音とともに、まばゆい光が廊下を走り、時計盤を戴くアプモンが実体化する。 「タイムモン。停止を」 時計の針が跳ねた。乾いた音とともに、灯たちを除く館内のすべてから動きが消えた。 落ちかけていた鋲が宙に留まり、揺れていた布も、窓辺を漂う埃も静止した。 それでも、角の黒い膜だけは動いていた。粘液が左右へ裂け、内側から、赤い眼が覗いた。 「……止まらない」 タイムモンの声に初めて動揺が混じった。 赤い眼が、ゆっくりと彼へ向く。 瞬きをした。 「解除なさい。犬に時間停止は効かないって本当だったんですね。」 千翼が命じる。 時間が戻った瞬間、鋲が床を跳ねた。同時に、角から細長い吻が突き出した。黒い外殻。剥き出しの赤黒い肉。幾重にも並んだ牙。そのどれもが粘液に濡れ、壁の内側で無理に組み立てられているように震えていた。 「ボクの出番だね。灯は下がってて」 ルーチェモンが片手を掲げる。 光球が黒い頭部を撃ち抜いた。外殻が砕け、肉が抉れる。 だが傷口はすぐに揺らぎ、無傷の輪郭へ塗り替えられた。 ティンダロモンはルーチェモンを見ようともしなかった。 赤い眼が千翼へ向き、続いて時乃を捉える。壁の中から、黒い前脚が押し出され、長い爪が床板へ食い込み、木材を裂く。 「お二人さんが標的で間違いなさそうだ」 「随分と一途ですこと」 千翼は眉を寄せただけだった。 時乃が壁際の収納を開き、湾曲した板と充填材を取り出す。 その動きに迷いはない。 「もう一度押し返すよ」 ルーチェモンの周囲へ光球が浮かぶ。 閃光が廊下を満たし、ティンダロモンの頭部が仰け反った。 「今です」 時乃と灯が曲面板を角へ押し当てる。 板の隙間へ充填材を流し込む間にも、黒い爪が伸びてくる。ルーチェモンが光の障壁で受け止めると、窓硝子が一斉に鳴った。 「急ぎたまえ」 「もう少し」 灯が最後の隙間を埋める。 直角が消え、滑らかな曲面へ変わった。 途端にティンダロモンの輪郭が崩れた。 眼と吻と前脚が別々の方向へずれ、何体もの獣が同じ場所へ重なったように揺れる。 複数の唸り声が、順序を失ったまま廊下へ溢れた。 それも長くは続かなかった。 黒い身体は煙と粘液へほどけ、曲面の上を這い回った末に消えていく。 最後に残った赤い眼が、千翼を見た。 千翼は視線を逸らさない。 「お帰りはあちらですわ」 赤い眼が閉じた。廊下に静寂が戻る。時乃はすぐに工具を確認し始めた。 「次回は固定具を変更いたします」 「お願いいたしますわ」 二人とも、次があることを当然の前提にしていた。 応接室には、四角い家具が一つもなかった。 部屋の隅は曲面の仕切りで覆われ、中央には丸いテーブルが置かれている。 ソファの上ではオフモンが身を起こし、千翼の無事を確かめるように見上げていた。 「ご心配なく」 千翼はその頭を撫で、冷えた紅茶を一口飲んだ。 タイムモンは腕の時計を見つめている。 「停止は正常に発動していました。あれだけが範囲の影響を受けていません」 『一つの時間に収まっておらぬのであろう』 ピコデビモンが答えた。 『奴をこの時間軸だけ止めても、別の時刻にある肉体が動く。自身が傷を負えば別の時間軸の自分と入れ替わるようだ』 「面倒な相手だね」 ルーチェモンは自分の掌を眺めている。 攻撃が通らなかったことよりも、仕組みを見抜けなかったことが不満らしい。 デジヴァイスの画面に解析結果が並んだ。 『ティンダロモン。完全体、魔獣型、ウィルス種。時空間を徘徊し、捕捉した獲物を鋭角から追う』 灯は千翼と時乃を見た。 「過去へ行ったときに、見つかったんですね」 「ええ」 千翼はあっさりと認めた。 「時間旅行そのものは問題なく終わりましたの。ただ、その途中で妙なものと目が合いまして」 「正確には、視線を向けられただけです」 タイムモンが補足する。 「偶然です。わたくしたちが通過した時空間を、あれも徘徊していた。それだけでございます」 「運が悪かったのですわ」 千翼はグラスの氷を揺らした。 「もっとも、だからといって追い回され続けるつもりはございませんけれど」 『当然だ』 ピコデビモンの声が低くなる。 『問題は奴の肉体をこの時間軸に固定する事だが…』 「君を進化させる?」 灯がデジヴァイスへ触れる。 『不要だ。威力を増したところで、別の時刻へ逃げられては意味がない。山を一つ削るだけ損よ』 ピコデビモンは一拍置いた。 『固定できぬのなら、入れ替わる機能そのものを止めればよい。そのためのシャットモンだ』 千翼の隣で、オフモンが顔を上げた。 『実体化する瞬間、奴の身体は角の一点へ集まる。そこを斬り、時間を入れ替える機能を強制終了させる』 「なるほど」 千翼はオフモンの頭へ手を置く。 「その後は?」 『ルーチェモンが焼く』 「攻撃が通りさえするのならば、ルーチェモン程の火力なら完全体ぐらい造作もない。余裕だねルーチェモン?」 「今回はボクにやらせてくれるのかい? もちろん、期待は裏切らないよ」 時乃が頷く。 「ブートモンでシャットモンの機能を補助いたします」 「タイムモンは、お二人の退避を」 灯が続けた。 「敵そのものを止められなくても、周りの時間は動かせますよね」 「可能です」 「それなら充分だ」 灯は室内を見回した。 角はすべて塞がれている。 だからこそ、次に現れる場所を選ばせることもできる。 「一つだけ残しましょう」 千翼が微笑む。 「入口を?」 「はい。あれが入りやすい角を一つ作って、そこで待つ」 『随分と素直な罠だな』 「追いかけてくることしか考えていない相手なら、凝りすぎない方がいいよ」 「では、会場を整えませんと」 千翼は紅茶を置いた。 「せっかくお越しいただくのですもの。今度はこちらの都合に合わせていただきましょう」 遠くで、何かが歯を鳴らした。 かちり。 誰も振り向かなかった。 3 旧ボートハウスは、別荘から湖畔の遊歩道を十分ほど下った先にあった。 木造の平屋で、長らく使われていない。湖へ張り出した桟橋は日に焼け、建物の壁には蔦が這っている。中には古い櫂や救命胴衣、解体されかけた小舟が積まれ、天井から垂れた滑車が風に揺れていた。 角には事欠かない建物だった。 『始めるぞ』 灯のデジヴァイスから、ピコデビモンの声が響いた。 床へ投影された見取り図には、赤い印が無数に並んでいる。柱と梁、壁と床、窓枠、棚、船台。ティンダロモンが侵入口に利用できる鋭角だ。 「全部で何か所?」 『数えて何になる。手を動かせ』 「僕は監督役じゃなかった?」 『我が監督、お前は現場係よ』 「ひー」 湖側の扉の前では、タイムモンとブートモンが並んでいた。 別荘に残った時乃の声が、通信端末から届く。 『タイムモン、準備を』 「了解」 『ブートモン。タイムモンの機能を最大出力まで起動してください』 ブートモンの全身から溢れた光が、タイムモンへ流れ込んだ。腕の時計盤が高速で回転し、針の音が次第に一つの長い響きへ変わる。 湖面を風が渡り、水際の葦が傾く。空から一羽の鳥が舞い降りてくる。 そのすべてが、止まった。 湖面に生まれかけた波は形を保ったまま固まり、宙へ跳ねた水滴も、鳥の翼も動かない。森のざわめきが途切れ、世界は巨大な標本箱へ収められたように静まり返った。 停止した時間の中で、灯とアプモンたちだけが動き始める。 『作業開始です』 時乃の号令が通信越しに届いた。 数体のスワイプモンが一斉に走り出した。 左右へ飛ぶように移動し、古い棚や船具を次々と屋外へ押し出していく。一体が資材置き場から曲面板を運び、別の一体が受け取り、そのまま壁際まで滑り込む。長い板が高速で受け渡される様子は、即席の搬送路だった。 タップモンたちは床を跳ね、壁へ運ばれた板へ身体ごと張りついた。柔らかな身体で曲面に沿い、接着剤が固まるまで押さえ込む。天井近くの継ぎ目へも軽々と跳び上がり、丸めた資材を隙間へ押し込んでいった。 その後をフリックモンが追う。 長い耳を器用に振り回して留め具を打ち込み、噛みついてケーブルを引く。細部の固定が甘い箇所を見つけると、二体がかりで資材を押さえ、もう一体が耳で金具を締めた。 『西壁三番、継ぎ目が残っておるぞ。フリックモンを二体回せ』 「西壁三番!」 灯が声を張る。 二体のフリックモンが耳を揺らし、指定された壁へ駆けていった。 『タップモン、天井の梁に隙間を残すな。スワイプモンは小舟を外へ出せ。それではルーチェモンの射線を塞ぐ』 「ずいぶん現場監督が板についてるね」 『強欲とは、資源を最も価値ある形で運用することよ』 「ふーん」 作業は猛烈な速さで進んだ。 四角い窓には湾曲した覆いが取りつけられ、柱と床の継ぎ目は厚い充填材で丸められる。船台は撤去され、梁の下には弧を描く補強材が組まれた。 古びたボートハウスの内部が、少しずつ別の生き物の腹腔めいた形へ変わっていく。 ただし、湖側の壁にある一か所だけは手を加えなかった。 垂直な柱と横梁が交わる、大きく明瞭な直角。 その周囲には補強材を組み、外壁の一部を薄くしてある。ティンダロモンにとって、ほかのどこよりも入りやすい入口になるはずだった。 『残すのはそこだけだ』 「ずいぶん丁寧な玄関だね」 『招待客が迷っては困るのであろう?』 通信の向こうで、千翼が笑った。 『ええ。せっかくですもの。迷わずお越しいただきませんと』 最後の板が取りつけられた。ピコデビモンが見取り図を走査し、赤い印を一つずつ消していく。残ったのは、湖側の直角だけだった。 『完成だ。時間を動かせ』 タイムモンが腕を下ろす。 止まっていた世界が、一斉に息を吹き返した。 湖面の波が岸へ届き、宙の水滴が落ちる。鳥は何も知らずに羽ばたき、ボートハウスの上を通り過ぎた。 外の世界では、ほとんど一瞬しか経過していない。 その一瞬の間に、建物は角のない異様な狩場へ作り替えられていた。 日が沈む頃、全員が旧ボートハウスへ集まった。 湖は夜の色を映し、対岸の山々は黒い輪郭だけを残している。建物の中には数本の照明が置かれていたが、曲面へ反射する光はどこにも影の溜まり場を作らなかった。 湖側の壁に残した直角だけが、くっきりと黒い線を引いている。 千翼と時乃は、部屋の中央に描かれた円の中へ立った。 千翼は昼間と変わらない涼しげな装いで、時乃もメイド服の襟一つ乱していない。 「囮とはいえ、あまり前へ出ないでくださいね」 灯が言う。 「承知しておりますわ。わたくし、危険と無謀を同じものだとは思っておりませんの」 「千翼様がお忘れになった場合は、私がお止めいたします」 「まあ、頼もしいこと」 灯とピコデビモンは、入口を見渡せる曲面板の陰へ移動した。 タイムモンは時乃の近くに待機し、ブートモンはその後方。オフモンは千翼の足元に寄り添っている。 ルーチェモンは湖へ向いた射線上に立っていた。 白いシャツの袖を整え、残された角を眺める。 待つ時間が始まった。湖から水の匂いが流れ込む。古い床板が、ごく小さく鳴る。 虫の声は聞こえていた。水鳥も遠くで鳴いている。 それでも、残された角を見ていると、音の一つ一つが遠ざかっていくように感じられた。 かちり。 歯の音がした。千翼がわずかに顎を上げる。 「いらしたようですわね」 角の内側が黒ずんでいく。染みは壁へ広がらず、二本の線が交わる一点だけに沈み込んでいく。そこから粘液質の煙が漏れ、柱と梁へ薄い膜を張った。 赤い眼が開く。続いて長い吻。前脚。肩。 黒い外殻と赤黒い筋肉が、角を起点としてこちら側へ組み上げられていく。 『まだだ』 ピコデビモンが制した。 ティンダロモンの前脚が床へ触れた。 爪が木材を掻き、細い傷を刻む。 後脚が現れる。 胴体の途中には、異なる時刻の姿が何層にも重なり、輪郭が絶えず前後へずれていた。 千翼と時乃は動かない。 猟犬の瞳は、まず千翼を捉えた。 次に時乃へ向く。 そこで止まった。 赤い瞳孔が細く絞られる。 タイムモンの時計から、短い警告音が鳴った。 ティンダロモンの尾が、最後に角から抜け出す。 『今だ』 千翼がアプリドライヴを掲げた。 《極! アプリアライズ!》 シャットモン。紫紺の毛並みを持つ狼の獣人だ。オフモンの極みの姿だ。 ブートモンも両腕を広げ、全身から溢れる光をシャットモンへ送り込んだ。 しかし、ティンダロモンの方が早かった。長い四肢で床を蹴、時乃へ走る。 「シャットモン!」 千翼の声に応じ、巨大な鋏が振り下ろされる。 刃が届く寸前、ティンダロモンの身体が横へずれた。 避けたのではない。同じ獣の姿が三つに重なり、それぞれ別の位置へ現れた。 一体が床を蹴る。一体が壁を走る。もう一体は、残された角へ半身を沈めていた。 『散らばっただけだ。惑わされるな!』 ピコデビモンが叫ぶ。 ティンダロモンの喉が膨らんだ。 低い咆哮とともに、床が軋む。曲面板が内側から押し潰され、滑らかだった壁へ鋭い折れ目が走った。天井を覆っていた弧もひしゃげ、柱の補強材が不自然な角度で折れ曲がる。 『スロープレス』 ボートハウスの至る所に、新しい角が生まれた。 一つ。 五つ。 十。 黒い膜がそれぞれの隅へ滲み、ティンダロモンの頭部や脚が別々の場所から現れる。用意した狩場が、獣の巣へ裏返された。 「時乃!」 千翼の声から余裕が消えた。 時乃が後退する。だが、どの角から現れた眼も彼女を追った。ティンダロモンにとって、時間旅行の客は二人いた。 その道を開いた中心は、タイムモンと、そのパートナーである時乃だ。 床を這う頭部が口を開く。牙の間に、闇よりも薄い空洞が生まれた。 『クロノファージ』 タイムモンが時乃の前へ出る。 猟犬の口が閉じようとした瞬間、時乃の姿が幾重にもずれた。 幼い輪郭。 現在の姿。 まだ訪れていないはずの、わずかに年を重ねた横顔。 彼女が床へ残した足跡が、古いものから順に薄れていく。先ほど口にした言葉の響きまで、空気から奪われ始めた。 『クロックフィスト』 タイムモンが時乃の身体に触れ、ティンダロモンの牙が閉じる直前、時乃の姿が消えた。 次の瞬間には、ボートハウスの反対側、タイムモンの用意した曲面壁の陰へ立っている。 ティンダロモンの牙が空を噛んだ。 閉じた口の周囲から、削り取られた時間が黒い粉となって散る。 「よくできました」 時乃は乱れた袖を整え、タイムモンへ告げた。 タイムモンは時乃の時間を加速させて彼女を移動させたのだ。 千翼は二人の無事を確かめると、再び正面へ向き直った。 「わたくしの従者への無礼は、わたくしへの無礼ですよ」 ブートモンの光が爆発的に膨れ上がり、シャットモンの鋏へ集中した。 ティンダロモンが新たな角へ逃れようとする。 ルーチェモンが指を鳴らした。 光弾が壁際へ降り注ぎ、角から現れた頭部を一つずつ撃ち戻していく。倒すためではない。散らばった時間を、中央の身体へ追い立てるための攻撃だった。 「逃げ回るのは見苦しいよ」 十の光球が、ルーチェモンの背後で静かに回る。 ティンダロモンの輪郭が一つへ寄る。 『今だ!』 シャットモンが踏み込んだ。 『シザーズブラック』 巨大な鋏が閉じる。刃は外殻を裂かれ、ティンダロモンの身体が硬直する。 傷ついては消えていた輪郭のずれが止まり、無数に重なっていた姿が一体へ収束した。強制終了の力でティンダロモンの能力が封じられたのだ。 先ほどルーチェモンに砕かれた外殻。抉られた肉。曲面へ押し戻された際に歪んだ四肢。退けていた損傷が、すべて現在の身体へ戻ってくる。 ティンダロモンが吠えた。 初めて、ただ一頭の獣の声として。 『ルーチェモン!』 「待ちくたびれたよ」 ルーチェモンが両腕を広げる。 十個の光球が天井近くへ昇り、夜の湖を背に十字を描いた。 「グランドクロス」 白い光が交差した。 ティンダロモンの身体を十方から貫き、湖側の壁ごと夜を焼く。 光の中で、猟犬の輪郭が崩れた。 外殻が砕け、肉がほどける。黒い粘液も、赤い眼も、異なる時刻へ逃げる暇を与えられないまま、粒子となって消えていく。 最後に残ったのは、歯の音だった。 かちり。 それさえも光へ呑まれた。 グランドクロスは湖上へ抜け、夜空を白く照らした。 遅れて水面が割れる。 激しい風がボートハウスを通り抜け、残っていた窓をまとめて吹き飛ばした。 やがて光が消えた。 ティンダロモンの姿はない。 新たに生まれた角からも、黒い膜は滲まなかった。 タイムモンが時計を掲げる。 舞い上がっていた木屑が空中で止まった。 波も、風も、砕けた硝子も静止する。 その中で動くものは、もう何もいなかった。 時間停止を解除すると、木屑が一斉に床へ落ちた。 「完全に消滅しています」 タイムモンの報告に、時乃が静かに頷く。 千翼は壊れた湖側の壁を眺めた。 「少々、風通しがよくなりましたわね」 灯の声に、千翼は涼やかに微笑む。 ルーチェモンはシャットモンへ視線を向けた。 「悪くない働きだったよ」 シャットモンは胸を張り、巨大な刃を一度だけ打ち合わせた。 その横で、灯のデジヴァイスからピコデビモンが鼻を鳴らす。 『我の作戦があってこそだがな』 「はいはい。監督にも感謝してるよ」 床には資材と木片が散乱し、曲面板の半分は歪んでいる。湖側の壁はほとんど残っていなかった。 千翼はその惨状を見渡し、満足そうに手を合わせた。 「では、明日からようやく休暇ですわね」 「今からじゃないの?」 「今夜は後片づけがございますもの」 時乃が一歩前へ出た。 「千翼様にもお手伝いいただきます」 千翼の微笑が、ほんの少しだけ固まる。 「配下のアプモンたちにお願いするというのは?」 「千翼様にも、お手伝いいただきます」 「二度も仰らなくても聞こえておりますわ」 湖の向こうで、遅れていた夜の虫たちが鳴き始める。 もう、どの角からも歯の音は聞こえなかった。 4 灯が笑う。その横顔を見ながら、ルーチェモンは自分の腕を見た。 見慣れた細い少年の腕。袖の中で布が触れる感覚も、歩いた時の重心も、声が胸へ響く位置も。 全部、取り戻したかったものだ。 それなのに。 「……妙なものだね」 口から零れた。 「何が?」 ルーチェモンはしばらく答えなかった。 湖を見た。水面は絶えず形を変えている。 「ボクはこの姿へ戻りたかった」 「うん」 「本当に、ずっとね」 灯は口を挟まない。ただ続きを待っている。それがありがたかった。 「戻れた時は嬉しかったよ。今だって嬉しい。ようやく自分の姿へ帰ってきたんだからね」 ルーチェモンは自分の胸元へ触れる。 「なのに、戻った途端に全部元通りになると思っていた自分が、少し馬鹿らしくなった」 灯がこちらを見る。 「女の子の姿だった時間まで、消えてくれるわけじゃない。それどころか、消えてほしくないと思っている自分までいる」 口にしてしまえば、ひどく奇妙だった。 あれほど嫌がった姿だった。元へ戻れないことを腹立たしく思っていた。 それでも、その身体で灯と過ごした時間まで嫌いにはなれない。 そこで覚えた感情も。今まで知らなかった自分も。 「笑うかい?」 灯は首を横へ振った。 「なんで?」 「随分と矛盾しているだろう?」 「人って大体そんなものじゃない?」 「ボクは人ではないよ」 「じゃあ、デジモンもそうなんだね」 あっさりした答えに、ルーチェモンは一瞬呆気に取られた。 灯は湖へ目を向ける。 「同じじゃなくてもいいんじゃないかな」 「何が?」 「昔の君と今の君」 灯はしばらく水面を眺めていた。言葉を探しているらしい。 ルーチェモンは、その沈黙を急かさなかった。 灯は誰かへ何かを言う時、案外こうして考える。 口説き文句なら次から次へと出てくるくせに、本当に大事な話になると、一度相手の言葉を胸へ置いてから返してくれる。 「ほら、湖って今もずっと形が変わってるでしょう」 灯が水面を示した。 「さっきと同じ波なんて一つもない。でも、それで湖じゃなくなったとは思わない」 ルーチェモンは黙って聞いていた。 「君も、そんな感じなんじゃないかな」 「ボクが湖?」 「例えだよ」 「知っているさ」 灯は少し笑う。 「今の君が本物なのは当然だよ。だって、君がずっと戻りたかった姿なんだろう?」 その一言が嬉しかった。 女の子だった時間を肯定するために、元の姿へ戻りたかった自分を否定されなかったことが。 灯はそこを間違えなかった。 「でも、女の子だった時の君も、その時に感じたことも、今の君までちゃんと続いてる。それを捨てないと今の君になれないわけじゃない」 ルーチェモンの胸の奥で、何かが静かにほどけた。 欲しかったのは、たぶんそれだった。男の子へ戻れて喜んでいる自分も。女の子だった時間を惜しんでいる自分も。 どちらかが間違っていると言われたくなかった。 「姿が変わるたび、君が遠くなるんじゃないよ」 灯の声は穏やかだった。 「僕が知ってる君が増えていくんだ」 夕陽が灯の横顔を照らしている。 火傷の跡にも、残った片方の瞳にも、同じ光が落ちていた。 「それにさ」 灯は少し考えてから続けた。 「昨日までと違うものになれるって、僕は結構綺麗なことだと思うよ」 ルーチェモンは息を止めた。 美しい。 尊い。 完全。 そんな言葉なら、これまでいくらでも聞いてきた。七大魔王だった頃には、膝をついた者たちが自分を讃えた。 神に等しいと。完全なる存在だと。 あれはルーチェモンという像へ向けられた言葉だった。 変わらない偶像へ捧げられた賛辞だ。 昔なら、今の自分を弱くなったと呼んだだろう。けれど今、目の前の少年はそれを美しいと言う。 ルーチェモンは灯を見つめた。 傷だらけの、どうしようもなく弱い人間。 自分なら容易く壊せてしまうような身体で、それでもこちらの在り方を決めようとはしない。 理解したつもりにもならない。ただ話を聞き、知らなかった自分を知ることを喜ぶ。 自分を定義しない。 それなのに、見失わない。 それが恐ろしいほど嬉しかった。 「もし」 ルーチェモンの声が、少しだけ小さくなった。 「もしボク自身にも、何が本当なのか分からなくなったら?」 灯はすぐには答えなかった。また少し考える。 「じゃあ、分かるまで迷えばいいよ」 灯は言った。 「戻りたくなったら戻ればいい。違うものになりたくなったら、それも考えればいい」 そして、少し笑う。 「僕はその間も隣にいるから」 ルーチェモンは返事ができなかった。 胸の中へ落ちた言葉が、ゆっくりと沈んでいく。男の子である自分も。女の子だった自分も。全部、この人に見てほしいと思った。 その願いの正体に気づきかけて、ルーチェモンは考えるのをやめた。 まだ名前をつける必要はない。名前をつけた瞬間、きっともう後戻りできなくなる。 もっとも。 もう遅いのかもしれなかった。 「……キミは」 ようやく尊大な笑みを取り戻す。 「誰にでもそう言うからいつか代償を払う事になるよ」 「嫌だった?」 「いいや」 ルーチェモンは顔を背けた。 「困った人間だと思っただけさ」 数歩歩いてから、ルーチェモンは振り返った。 灯はまだ湖を眺めている。夕陽を背負った姿は、どこにでもいる少年にしか見えない。 それなのに、この人間の言葉だけが、自分の中で永いこと動かなかったものを簡単に揺らす。 「灯」 「うん?」 「ボクが答えを見つけるまで、随分長くかかるかもしれないよ」 半分は冗談。半分は試すような問いだった。 人間の時間は短い。自分の迷いが、その中で終わる保証などない。 灯は荷物を拾い上げる。 「じゃあ、長い付き合いになるね」 簡単に言って、歩き出した。ルーチェモンはしばらくその背中を見ていた。 それから追いつき、隣へ並ぶ。 肩が触れそうな距離を、今日はわざわざ空けなかった。 その夜。 食堂では千翼が翌日の予定を読み上げ、時乃がその半分を現実的な内容へ修正していた。 『異議あり』 灯のデジヴァイスからピコデビモンが声を上げる。 『明日の計画には徒歩移動が多すぎる。炎天下での長距離歩行は観光という美名を冠した消耗行為にすぎぬ。休暇とは本来、心身の回復と余力の涵養を目的とする期間であり、その理念を最も忠実に実践するならば我の屋内待機こそ推奨されるべき選択である』 「つまり明日も暑いから出たくないんだね」 『年寄りだから体力無いんじゃ』 千翼が笑った。 ルーチェモンも笑う。 時乃は食器を片づけながら淡々と尋ねる。 「では、ピコデビモン様のお出かけ用のお飲み物は不要ということでよろしいでしょうか」 『待て。選択肢を事前に封鎖するのは早計だ。状況によっては我が同行する可能性も』 「出る気あるんじゃない」 『可能性の話をしておる』 灯の笑い声が響く。 ルーチェモンはその横顔を見た。夕方の会話など、灯にとってはもう過ぎたことなのかもしれない。 それでいい。 夜が深まり、別荘の灯りが一つずつ消えていった。 開け放した窓から、夏虫の声が流れ込む。 廊下の隅にも、階段の角にも、額縁と壁の間にも、もう黒いものは滲まない。 世界は昨日と同じ形ではなかった。 けれど、それを惜しむ必要はないのかもしれない。 聞こえるのは湖を渡ってくる風と、まだ遠くの部屋で続いている誰かの笑い声だけだった。 5 帰りの朝は、拍子抜けするほど穏やかだった。 玄関先には灯たちの荷物がすでにまとめられ、時乃が一つずつ忘れ物を確認している。 「携帯端末、財布、デジヴァイス。以上でございますね」 「完璧ですね」 「当然でございます」 その横では、千翼が名残惜しそうな素振りなど微塵も見せず、いつもの涼しい顔で立っていた。 「次にいらっしゃる際には、もう少し長く滞在してくださいませ」 「今度は怪物抜きでお願いしたいね」 「まあ。今回、怪物を連れてきたのはわたくしたちですわ」 「自覚あったんですね」 「失礼ですこと。わたくし、自分の失敗を認められないほど狭量ではございません」 時乃が荷物を持ち上げながら口を挟む。 「認めるまで多少のお時間を要するだけでございます」 千翼は呆れたように息を吐いた。それでも、咎める様子はなかった。 オフモンが千翼の足元から灯を見上げる。タイムモンも時乃の隣で手を振っていた。 灯がそれに応じる。 「じゃあ、また」 「ええ。また」 千翼は少しだけ表情を柔らかくした。 「灯。次は年末年始にでも来なさいな」 「いけたらね」 駅へ向かう途中、ルーチェモンは灯の少し前を歩いていた。 黒いキャスケットの下で、短い髪が風に揺れている。 ルーチェモンが足を緩め灯が追いつくと、そのまま隣へ並んだ。 「楽しかった?」 灯が尋ねる。 「怪物に追われ、廃屋を半壊させ、最後には後片づけまでさせられた休暇の感想かい?」 「ああ」 ルーチェモンは少し考えるふりをした。 「まあ、悪くはなかったよ」 「よかった」 「キミは?」 「僕も楽しかった」 「それは結構」 そこで会話は終わった。だがルーチェモンは歩幅を戻さなかった。 二人の距離も、そのままだ。 腰のデジヴァイスからピコデビモンが声を上げる。 『それより灯。帰路における我の行動方針について確認しておきたい』 「どうぞ」 『列車内は冷房が効いておる。ならば我がデジヴァイス内部に留まる積極的理由は薄い。しかし外へ出れば座席という有限資源を一つ消費することになる。旅客輸送の効率性と社会的配慮を鑑みれば』 「出るの面倒なんだね」 ルーチェモンが笑った。その声を聞きながら、灯も笑う。山間の小さな駅が見えてきた。 蝉が鳴いている。 夏はまだ、終わっていなかった。 同じ頃。 海の向こうでも、夏は続いていた。本土から離れた小さな島。 観光客の多い土地ではない。白い防波堤と、古びた港。海沿いには低い家屋が並び、その背後を深い緑の山が覆っている。 午後の海は穏やかだった。 風も弱く、波も低い。 それなのに、港から少し離れた海面だけが妙に白く濁っていた。 漁船の上から、一人の男がそれを見つめていた。泡ではない。潮の流れでもない。 白いものの下を、黒い影が動いている。魚の群れにしては大きすぎた。 形を作ったかと思えば崩れ、また別の場所で組み上がる。 白と黒。 二つの色だけが、水の中で混ざらずに蠢いている。 男は目を凝らした。その瞬間だった。海面の下から、何かがこちらを向いた。 顔があったわけではない。眼もない。 それでも、確かに見られた。男は反射的に一歩退いた。 次の瞬間には、白い濁りも黒い影も消えていた。 残ったのは、夏の日差しを反射する青い海だけだった。 東京都内。 机の上で端末が短く鳴った。Dr.小鳥遊は作業の手を止め、届いた新着メッセージを開く。 件名は簡素だった。 離島における原因不明現象の調査依頼。 報告書には、ここ数週間に島で発生している不可解な事例がまとめられている。沿岸部での異常な生物の目撃。通信機器の一時的な障害。漁獲量の急激な変化。 そして、ごく少数ではあるが。行方の分からなくなった島民。添付された写真を一枚開く。 夕暮れの港。画面の端に、白く濁った海が写っている。その中央に、黒い影。画像は粗く、それが何であるのかまでは判別できない。 小鳥遊はしばらく写真を眺めていた。やがて椅子へ深く腰を預ける。 「……夏休みには、ちょうどいいか」 端末の画面の中で。黒い影の輪郭が、一瞬だけ変わったように見えた。