吸血鬼になった姉 その日も普通の朝だった。 「遅刻するぞ!」弟の声が階段下から響く。目を擦りながら時計を見ると七時四十五分。完全にアウトだ。 「あと五分!」叫び返しながらパジャマを脱ぎ捨てた。この15年間、こんな慌ただしい朝が何百回と続いている。 洗面所へ駆け込むと、鏡に映る自分を見て思わず足が止まった。青白い肌、口を開けば異常に発達した犬歯。 「まだ眠くて血が巡ってないだけよ」 言い訳を呟きながら顔を洗い、最低限の人間に見える化粧を施した。コンシーラーで目の下の隈を隠し、口紅で唇の色を誤魔化す。これはもう毎日の儀式だ。 リビングに入ると、テーブルには朝食が用意されていた。トーストとスクランブルエッグ……美味しそうな匂いが鼻をくすぐる。喉が渇く。 「姉ちゃん、ちゃんと食べてよ」弟が心配そうな目で見上げてくる。 「わかってるって。ありがとう」 フォークを持ち上げてスクランブルエッグを一口。味はほとんどしない。最近はずっとそうだ。胃が受け付けないというより、身体が別のものを欲している感じ。 「昨日の放課後、先生に呼ばれたらさ……」弟の話を聞きながら適当に相槌を打つ。 世界が変わって10年。多くの人々が変わった。うちの場合は姉である私が変わった。あの奇妙な夏の終わりに原因不明の高熱に襲われ、治ったときには青白い肌と鋭い犬歯を獲得していた。 最初の頃は大変だった。両親は病院に連れていったけど、どの医師も「様子を見ましょう」しか言わない。友達は距離を置きはじめた。唯一変わらず接してくれたのが弟だけだった。 「姉ちゃんは姉ちゃんだよ」 その言葉がどれほど救いになったことか。 学校からの帰り道、ふと違和感を覚えた。夕暮れ時の街はどこか妖艶な美しさを帯びている。空腹感が増していくのを感じた。 「だめだ、まだ我慢しないと」 近頃、症状は進行していた。昼間より夜の方が調子が良い。強い匂いに惹かれるようになり、特に鉄の香りに対して異常な反応を示すようになった。 家に戻ると、キッチンで弟が料理をしている姿が目に飛び込んできた。包丁の音、流れる水の音……そして何より…… 「ただいま……」 自分の声がかすれていることに気づいた。喉が渇く。異常な渇きだ。 「おかえり!ちょっと待ってて、カレー作りすぎちゃったから姉ちゃんの分もあるよ!」 弟の無邪気な笑顔。そうか、カレーか。血の香りとはまるで違うのに、なぜか同じ種類の刺激を感じる。 「あのさ、少し外の空気吸ってくる」 「え?これから夕飯だよ?」 「すぐ戻るから」 玄関を飛び出した瞬間、全身の力が抜けていくのを感じた。壁に寄りかかり、呼吸を整える。 「もうダメかもしれない……」 自分の身体が何かを求めているのは明らかだった。それが何かわからないわけじゃない。ただ認めたくなかっただけだ。 ポケットの携帯電話が震えた。メッセージアプリの通知。開いてみると市の健康センターからの案内だった。 【怪異化症候群外来のお知らせ】 心臓が早鐘を打った。あの日以来、ずっと避けてきた診察。でももう逃げられない気がした。 翌週の土曜日、私は一人で健康センターを訪れていた。受付で簡単な問診を受けた後、別室に通された。そこは病院というより研究所のような雰囲気だった。 「初めまして、山本です」白衣の女性医師が優しく微笑む。 一連の血液検査と診断を終え、結果が出るまで待ち時間があった。廊下のベンチに腰掛け、ぼんやりと考え事に耽っていたところ、 「お姉さん、大丈夫ですか?」 振り向くと、大学生くらいの女性が立っていた。首元には大きな絆創膏が貼られている。 「私も二ヶ月前にここで診断を受けたんです。良かったらお話しませんか?」 彼女はカワホリと名乗った。突然の出会いに戸惑ったものの、同じ境遇の人がいると知れただけでも安心感があった。 「私……吸血衝動が出始めているんです」 「わかります。最初は怖いですよね」 カワホリさんは静かに語り始めた。彼女の症状は私のよりも進んでおり、すでに専用の血液製剤で対処しているとのことだった。 「人間の血とは違うんですよね?」 「そうなんです。完全な代用品ではないんですが、味は近いし副作用もないです」 その言葉に少しだけ希望が湧いた。完全に化け物になるわけではないんだ。 「あの……弟がいて」思わず打ち明けてしまった。 「血が繋がってるから余計に危険なんでしょうか?」 「吸血症候群にとって家族の血は特別と言われています。だからこそ気をつけないと……」 カワホリの表情が暗くなった。 「私の家族も……私を支えようとして傷つき過ぎたんです」 治療法があることを知って安堵する気持ちと同時に、自分もそこまで来てしまったのかという悲しさが込み上げてきた。 診断結果は想像通りだった。「潜在型吸血鬼症候群」。初期段階だと説明されたが、進行すれば日常生活に支障をきたす可能性が高いらしい。 「抑制薬と定期的な血液製剤が必要になります」 診察が終わると、山本医師から正式に診断を伝えられた。 「あなたは典型的な第二期症状です。吸血衝動は定期的に訪れますが、適切な管理で日常生活は可能です」 渡された錠剤には「代替血液製剤」とラベルが貼られていた。一日一回飲むことで症状を抑えられるという。 「副作用として睡眠障害が出ることがありますが、それ以外は基本的に安全です」 帰宅すると、弟が玄関で待っていた。 「診断どうだった?」 迷ったが、嘘はつけなかった。 「やっぱり……症状進んでるみたい」 沈黙が流れる。 「そっか……」弟は少し考え込んでから言った。「じゃあ、俺の血飲んでみる?」 「な、何言ってるの!?」 反射的に叫ぶと、弟は真剣な表情で続けた。  「だって姉ちゃん最近ずっと具合悪そうだし……」 「これからは、薬を飲むから大丈夫よ」 「本当?」疑うような視線。 「ほんとよ」 薬を取り出して見せると、弟はホッとしたようだった。 夜になると、再び猛烈な空腹感に襲われた。血液製剤の試供品はあるが、本当に効くのか不安だった。そして何より—味が気になった。 台所でカプセル型の製剤を手に取りながら葛藤する。これを飲めば楽になるのだろうか。それとも偽りの希望に過ぎないのか。 決断できずにいると、弟が階段を下りてくる音が聞こえた。こんな時間に起きているなんて珍しい。 「まだ起きてたんだ」 「姉ちゃんこそ」 弟はゆっくりと近づいてきた。その首筋には私の視線を引きつける血管が脈打っている。 「やめるべきだ」 理性が警告する。しかし本能は逆らえない力を発揮していた。 怪異になることは恐怖ではなかった。姉でなくなることが怖かった。でももう遅いのかもしれない。だって本当は知っていたのだ―弟の血の甘美さを。家族という特殊な繋がりが生み出す魅惑的な味を。抗えない引力を。 「ごめんね」 その一言と共に牙を立てた。 温かい液体が舌を満たす。それは今まで味わったどんな食べ物とも違っていた。生命そのものが流れ込んでくる感覚。同時に罪悪感で胸が張り裂けそうになった。 「ごめんね……」涙が零れた。「我慢できなかった」 「いいよ」弟の声は不思議と落ち着いていた。「姉ちゃんが楽になるなら……」 それは許可だった。最悪の行為への免罪符。 その言葉が引き金となった。全ての理性が吹き飛んだ。牙が伸びるのがわかる。 一瞬の躊躇もなく、弟の首筋に噛みついた。途端に広がる甘美な血の味。夢中で啜る。喉を通る命の流れ。全身に広がる至福感。 血が流れ込むにつれ、混乱と快楽が入り混じる不思議な陶酔感に襲われた。弟の体温を感じながら、自分の身体が完全に変わりゆくのを悟った。これで私は完全に吸血鬼となったのだ。 牙を抜くと、出血を止めなければと思った。しかし動くことができなかった。床に落ちる血の滴さえ輝いて見える。 「終わった?」 「うん……」 二人で黙って床を見つめた。血痕はすでに乾き始めていた。 「これで……姉ちゃん楽になった?」 「うん……」 実際には何も解決していない。ただ次の衝動までの時間が伸びただけ。それでも今はそれを正直に言えなかった。 「次はいつ飲ませてくれる?」 意図せず口から出た言葉。弟は少し考えてから答えた。 「毎日じゃダメだと思うけど……二日おきなら」 「ありがとう」 窓の外では月が輝いていた。今夜は特別な夜になるだろう。吸血鬼としての本当の目覚めの夜。そして家族としての終わりの始まりの夜。 私は弟を抱きしめた。温かな体温を感じながら、もう引き返せないことだけは確信していた。