1:穂村百合華の場合 「それでね、この『アイスナイン』の基本理論だけど……」とある喫茶店の一卓、二組のデジモンとテイマーが向かい合っていた。 「摂氏を華氏に上書きすることで融点を……ちょっと、聞いてますの?」 片方は黒いゴスロリに身を包んだ少女と、同じく黒のゴスロリを纏ったデジモン。 少女は小学生ぐらいの背格好で白い髪と赤い目が目立ちそうだが、ボンネットに覆われて遠目ではよくわからない。 デジモンのほうはボンネットの影から覗く姿はブイモンと思われるが、体色がピンク色の変異個体であるようだ。 「え、うん、聞いてる……」もう一組は若いが成人した女性、髪の色の白黒が目を引くビビッドな印象の美人だ。 しかし表情は今ひとつ冴えがなく、同席しているブラックシャウトモンは少し不安そうだ。 (……どうにも様子が変ですわね?大丈夫かしら?)訝しげな様子のゴスロリ少女、名前は穂村百合華という。 本来は別の世界・別の時間で暮らす……今は人間である。パートナーのブイモンはエンプレスと呼ばれている。 「ブラックシャウトモンさん、ほむらさん、何かありましたの?」 「ああいやその、ちょっとな……。」ブラックシャウトモンは言葉を濁す。 ほむらと呼ばれた女性は出海ほむらという。百合華とは『デジタル錬金術』を修める仲間である。 奇しくも百合華の名字と同じ読みの名前であるが、彼女は普段自身の穂村姓を名乗らないので特に混乱はない。 「あら、そう。」自分から尋ねておいて百合華の返しはそっけない。 「じゃあ、アイスナイン錬成の要目はこの本にまとめてあるから後で読んでちょうだい。」そう言って一冊の本を卓上に置いた。 百合華は本来他人の事情に積極的に首を突っ込む質ではない。が、状況に流されて突っ込まざるを得なくなることが多々ある。 そういう面倒事の気配を感じて彼女は引いたのである。 「おう、すまんな……おい、この本開かねえぞ?」ほむらに代わって受け取るブラックシャウトモンが抗議の声をあげる。 「開けて読むにはデジタル錬金術が必要なの、秘密を守るためにね。」百合華の回答に仕方ないという顔をする。 「ありがと。あ、そうそう。」伝票を取って席を立つと、百合華は二人の方を振り返った。 「夏休みの間しばらく音信不通になるからそのつもりでお願い。」 「うん?家族旅行か?」 「いいえ、ちょっと『お姉様』とクルーズの旅に。じゃあまたね。」 百合華がほむらの変調について深く突っ込まなかったもう一つの理由。それが『クルーズ客船への招待状』だ。 彼女が『アリーナ』の近くで営んでいる占いコーナー宛に、招待状が届いたのだ。 宛先は『瑳横百合花』となっており、そこで彼女はいまだに自身のオアシス団やアリーナでの名義を『旧称』のままにしていたことを思い出した。 こちらの世界ではそう昔の話ではないが、百合華の主観では30年近くも前の話だ。 あからさまにあやしいこの招待状を当然のごとく解析し、その結果彼女はこれをアリーナに預けた。 その状態でも転移が発動すると判明したこと、そして迂闊に実家に持ち帰って得体のしれない相手に実家の五次元座標が割れるのを恐れたからだ。 さらにもう一つ、この話に乗り気な者がいたのだ。 百合華の実家が経営するショコラトリー『OneFlower』、そこのスタッフであるネッサ・ナヴァルである。 周囲からネーさんと呼ばれる背の高いオランダ人女性……というのは偽装で、その正体は母親のパートナーデジモン、ネーバルウィッチモンである。 普段はデジメンタルを使って普通の人間になりすましている彼女に、招待状のことを話したのだ。 「……アチシたち、元々は私掠海賊のデジモンなんだよね?ちょっちその豪華客船を奪ってみたくない?」 ネーさんに心酔する百合華がこの提案に乗らないわけがなかった。 斯くしてエンシェントウィッチモンの5代目と6代目の夏のリゾート計画(シージャック)が発動された。 長年恋焦がれてたお姉様との南洋リゾート大暴れプランに、百合華は完全に浮かれポンチと化したのである。 二人が話し込んでる様子を見た母親が何やら微妙な表情でニヤニヤしていたことを、百合華は無視した。 2:河戸アタルの場合 クルーズ客船への招待状が届けられた時、河戸アタルは即座に訝しんだ。 宛先はオアシス団員NJ-786号様、文面などからも自分の正体がバレている様子は判然としない。 ただ、どうやら自分以外のオアシス団員の中にも招待状を受け取った者がいるようだ。 解析の結果、この招待状には対象をデジタルワールドの特定エリアに転移させる能力があるようだった。 どう考えても罠にしか思えない。今までなら『先生』や実家の母親の力を借りて無効化するところである。 しかし彼には懸念があった。今の両親である河戸リンドウ・カメリア夫妻、弟であるトウジ、そして色井美光である。 彼らのうち誰か、あるいは全員がこの罠に巻き込まれた場合、自分だけ安全圏にいて助けられるのだろうか? 何より、こういう事が今後も繰り返された時に守り切れるのだろうか? 『先生』や祖父、そして母親からはかつてこう教わっていた。 罠解除や回避は忍者の基本、しかしこちらから相手の懐に潜り込む、あるいは攻め込む場合はあえて罠に嵌まるのも有効だと。 今後の禍根を断つためにも、あえて乗ってみるのも手かもしれない。 必要な武器やアイテムはエスピモンと帽子型デジヴァイスにデータ化して収納しておけば大丈夫だろう。 村正の短刀だけはなぜかデータ化出来ないのでこれだけは肌身離さず持ち歩かなくてならないが。 この短刀もずいぶんと謎が多い。まず研げない。研いでも何も変化しない。しかし切れ味が落ちるわけでもない。 どうやら物理的な破壊が無効化されているようだが、その原理は祖父でも解析できなかった。 実母に見てもらったが、「読めない、理解できない」という答えが返ってきた。 あの『眼力』でもわからないとなると、もはやお手上げである。 この短刀を持つようになってから、たまになんか透けた人影やどうみても死んでいる存在が見えるようになったことと関係があるのだろうか…… 今はそんなことはどうでもいい。とりあえず、4人に対して招待状が届いてるのかどうか。まずはそれを確かめる必要がある。 ……トウジや美光とクルーズ船に乗るのも楽しそうだな、と考えてしまったアタルを誰も責められないだろう。 3:宝摩ひまわりの場合 ……もしもし『お姉ちゃん』?……ドッピオって何?……ごめん、そんなにしょげないで。 それで何の用?……イレイザーが、豪華客船を?……やっぱり便利だね、クオンタモンの能力。 ……ごめんなさい、そんなに怒らないで?謝るから。 そうだよね、お姉ちゃん、わたしが解体されたり調理されたり食べられたり殺されたりを、何度も見せられたんだもんね。 自分の意思でコントロールできない能力って、大変だなぁ…… それで、豪華客船だっけ?沈めればいいの?っていうかお姉ちゃんが自分でやらないの? ……カレー屋のバイトが?それに……ドジョウがお尻の穴に? ごめんお姉ちゃん、言ってる内容が1ミリも理解できないんだけど? ……わたしにはまだ早い?……いやいや、一応わたしもそういう知識あるから。そういう目的でも生産されてたから。 ……それを差し引いても早い?……話がそれてるからもういいよ。 とにかくお姉ちゃんは動けないのね?……代わりにバカップルズを寄越す? ……ああ、あの二人ね、わかった。…………NPC?武装扱い?ごめんホント意味が……第四の、壁?……なにそれ? 座標は……おおざっぱにしかわかんないのかあ。しょうがない、早めに行って探し回るよ。 学校とデジ対には夏休みの自由研究って言っとくー! あーそうそうお姉ちゃん、それじゃあさ、ちょっとお願いがあるんだけど…… 「サルガッサモンとヒルギモン、昔エンシェントウィッチモンを滅ぼしたっていう海中植物系デジモンのデータって、ある?」 解説 アイスナイン(イモゲンチャー) SF小説「猫のゆりかご」に出てくる融点が摂氏45.8℃の氷の結晶構造体……を、そのSF小説を読んだウィッチェルニーの錬金術師達が再現しようとしたもの。 現実改変による水の構造改変という複雑なプログラムではなく、融点のステータスを摂氏から華氏に上書きすることで実現している。 そのため、元ネタの45.8℃ではなく32℃が融点となっている。(華氏における水の融点は32°F、融点は212°F。) あまり暑くない場所の海面なら凍らせて足場にすることができるが、水温が32℃を超えた場合は溶けてしまう。 現実での海水温32℃はサンゴが白化する温度であり、地上でいう酷暑日のようなものである。 このステータス上書きによる現実改変技術はネーバルウィッチモンのフィールド海洋化やドクターウィッチモンの死者蘇生ポーションに発展継承された。