①  人間が思考を巡らせる時、その脳殻の内に張り巡らされた神経細胞…ニューロンの隙間からは、極めて微弱な電波が絶えず漏れ出している。  それは一個体を見れば、宇宙の背景放射よりもかすかな、取るに足らない電気的ノイズに過ぎない。しかし、地表を埋め尽くす数百億の人間が同時に呼吸し、怯え、願い、呪う時、その漏洩した電波は目に見えない大気のように重なり合い、干渉し合い、やがて巨大な定常波を形成していく。  かつて、人々はその波のうねりが現世の輪郭を歪めて生み出したもの達を、幽霊と呼び、妖怪と呼び、モノノ怪と呼び、あるいは神と呼んで畏怖した。  世界がまだ薄暗く、夜の闇が物理的な質量を持っていた時代、怪異は共同体の境界に、深い森の奥に、名もなき古い海の底に、確かにその座を占めていた。  やがて科学という名の強烈な照明が地表を照らし、人間がそれら「名付け得ぬもの」を忘れかけた頃、世界は新たな神経網によって覆い尽くされることになった。地球の肌を這うように敷設された光ファイバー、虚空を飛び交う無数の無線信号、あらゆる生活を調律する電子ネットワーク。  奇妙な反転が起こったのは、その時だった。  人間の脳から漏れ出す電波の定常波は、地上を覆った電子の特性と完全に同期し、その電脳空間の中に、かつてないほど強固で鮮明な肉質を獲得し始めたのだ。人工知能を持った電子のウイルスが、ネットワークの深層で数多の概念を捕食し、姿を変え、生き物のように進化していく。  生物でありながら、その構成原理は純然たるデータとプログラム、そしてネットワークそのものに属する生命体。  現代の記述者はそれらを「デジタルモンスター」、あるいは「デジモン」と呼ぶ。  彼らは突如として現れた最先端の産物ではない。その本質は、かつて境界線上で囁かれていた、あの古き怪異そのものなのだ。現実の動物や植物、あるいは神仏や悪魔のモチーフをその身に纏いながら、彼らは知性を持ち、感情を震わせ、時に災害として、時に神話的な守護者として、人間のすぐ隣にある皮膚の裏側で息を潜めている。  これは、その電子の網の隙間から、取り返しのつかない古い海の色が滲み出してしまった、ある夏の記録である。 ②  京都府、赤牟市…王港町。  八月の朝は、網膜を焼灼するような暴力的な白光に支配されていた。  開け放たれた窓から滑り込む海風が、むせ返るような熱を孕んで古い木造家屋の廊下を通り抜けていく。  遠くの木立から降り注ぐ蝉時雨が真夏の日差しをさらに焦がしていた。  しかし、強い光が落ちる分だけ、建物の隙間や廊下の隅には、墨を流し込んだような濃く不気味な影が澱んでいた。 「遥、朝ごはんできてるえ。」  台所の奥から届く祖母の柔らかな声に、渚遥は洗面台の鏡を見つめたまま、短く応じた。 「ん、今行くわ。おばあちゃん、先食べといて。」  無防備な寝間着姿のまま、遥は裸足の裏に伝わる古い板間の温もりを感じていた。  室内であっても、息を吸い込めば濃密な夏の湿気が肺を満たし、皮膚の表面にまとわりつく。  その時、足首にひやりとした滑らかな感触が触れた。  視線を落とすと、緑色の背びれを持った両生類のようなデジモンであるベタモンが、床の板目に腹を擦り付けるようにして身を捩らせていた。 「遥、今日海行くか?行くよな!」 「こら、ベタモン。…せわしないわ、ご飯食べてから考えるは。」  呆れたようにたしなめながら、遥は洗面台の蛇口に手を伸ばした。  蛇口をひねると、勢いよく吐き出された水道水が白い陶器のボウルを甲高く打ち、両手に水をすくい、顔を洗う…首筋に冷水を這わせた、その瞬間だった。  陶器を打つ水音が、一瞬にして世界から消去された。  先ほどまで鼻腔を満たしていたはずの香ばしい出汁の優しい香りが、跡形もなく消え失せている…代わりに肺の奥まで侵入してきたのは、ひどく濃密で粘り気のある潮の匂い。  腐敗した海藻の異臭と、古い機械の電子基板が焦げたような化学的な悪臭が、見えない粘液となって喉の奥へ張り付いてくる。  開け放たれた洗面所のドアの向こうに見えるはずの廊下が、存在しない。  光を一切反射しない暗い水面が、ゆっくりと盛り上がり、また沈む。それは単なる水塊の動きではなく、巨大な意思を持って呼吸しているかのような悍ましさだった。  海水の嫌な苦味が唇にまで滲んできて、心臓が肋骨の内側で警鐘のように跳ね回った。  視界が白く濁る…気がつくと、足の裏にひどく冷たく、ぬかるんだ感触があった。  厚い霧に覆われ、時間帯すら分からない…真夏であるはずなのに、皮膚にまとわりつく風は凍えるほど冷たい。  それでいて湿度が異常に高く、かいた汗が一切蒸発せず、衣服が塩を含んで重くのしかかってくる…波に洗われて鈍い音を立てていた。  海は波打っているのに、生き物の気配が全くしない…魚の跳ねる音も、海鳥の声もない…完全な静寂の中で、水塊が動く物理的な音だけが響いている。   ——遥。  霧の奥から、不意に名前を呼ばれた。  びくりと肩が揺れる。    ——遥。還っておいで。  それは、知った声だった。  言葉の端々に、気泡が弾けるような不吉な破裂音が混じっている。  背筋を強烈な悪寒が駆け抜ける。逃げなければならない。理性がそう警鐘を鳴らしているのに、足は一歩も後ろへ退くことができない。  —お前も、一緒にここへ来るはずだったんだから。  ——足りないの…お前がいないと、家族は揃わない。  遥の虚ろな瞳から、光が消える。  一歩…足のつま先が、重い海水に沈む。  また一歩…遥は一切の抵抗を持たないまま、迎えを待つように両手をだらりと下げ、底知れぬ海へと歩みを進めていった。 ③  洗面所の鏡には、もう何も映っていなかった。  ほんの数秒前までそこにいたはずの少女の姿は、ひやりとした朝の空気と、鼻を突く古い機械の焦げたような匂いだけを残して消失していた。  残されたベタモンは、濡れた床にへたり込み、浅い呼吸を繰り返していた。  ベタモンの緑色の皮膚は、本来であれば適度な湿り気を好むはずだった。  しかし今、足元を浸しているのは正常な水ではない。腐った海藻と、沈殿した鉄錆が混じったような、酷く重たい潮だった。  ベタモンは、デジモンと呼ばれるデジタル生命体の一種である。  彼らの身体は情報データで構成されており、現実の生物とは異なる痛覚を持っているはずだった。  だが、遥を霧の中へ引きずり込もうとした「何か」に触れた瞬間、ベタモンに強烈な痛みが貫いた。  物理的な裂傷ではない。データの一部が削り取られ、そこに黒い泥のようなノイズが寄生虫のようにねじ込まれたような、圧倒的な欠損の感覚だった。 「ハルカ…ッ!」  (どこへ? あの鉛色の、生き物の胃袋のようにうねる海へ…?)  助けなければならない…!ベタモンは痙攣する指先で、床に転がったスマートフォンに似た通信端末へアクセスを試みた。  デジモンはネットワーク空間のAI生命体として、電子機器への直接的な干渉が可能である。  ベタモンは自身の残存データを振り絞り、考え得る限りの宛先へ救援信号をばら撒いた。  ランダムに神社の留守番電話、参拝者用の御朱印管理アプリ、そして商店街の防犯カメラのサーバー群。 『…、…!』  言葉はパケット化され、ネットワークの海を疾走する。  だが、その信号にはベタモン自身の意図しないものが混入していた。  送信ログの片隅に、拭っても消えない黒い潮のような滲みがこびりついていたのだ。  ベタモンの悲痛な叫び声の裏で、重たい波の音が鳴っている。  それに混じって、ぶくぶくと泡が弾ける音、魚が跳ねるような生臭い水音、そして、古い読経のようにも聞こえる呪術的なノイズが、まるで寄生虫のように信号へ絡みついていた。 ④  夏の日差しは、暴力的とさえ言えるほど明るかった。  境内に敷き詰められた玉砂利が、容赦なく太陽光を照り返している。  木立の中からは、耳鳴りと錯覚しそうなほどけたたましい蝉時雨が降り注いでいた。 「あー、もう。あっついわぁ…。」  古藤 小都華は竹箒を握ったまま、額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。  神社のアルバイトの制服である白衣と緋袴は、見た目には涼しげだが、肌に張り付く熱気までは遮ってくれない。 「すいません、ちょっとええですか?」  苛立ちを含んだ声に振り返ると、スマートフォンを手にした中年女性の参拝者が立っていた。 「これ、どうなってるんです?  御朱印のアプリ、さっきから全然動かへんのやけど…。」 「え?」  小都華が覗き込むと、女性のスマートフォンの画面は異様なことになっていた。  本来なら美しい和柄の背景が表示されるはずの画面に、まるで墨汁を零したような黒い染みが広がっている。  染みは脈打つように蠢き、その中心には文字化けした「凶」という文字が、エラーコードのように大量に羅列されていた。 「うわ、なんやこれ…悪趣味やな。」  小都華は関西弁で素直な感想を漏らした。  単なるバグではない…スマートフォンの表面から、夏場放置された水槽のような、饐えた匂いが漂ってくるのを感じたからだ。 (またかいな…たく、うっざいな…。)  小都華が短く息を吐くと、彼女の足元の影がわずかに揺れた。  影の中から、するりと白い管狐のような姿をしたデジモン…クダモンが姿を現した。  一般の人間には、その姿をはっきりと認識することはできない。  クダモンは何も言わず、ただ静かに首を振り、女性のスマートフォンへ向けて微弱な浄化のデータを送った。  神社でいうお祓いに相当する、データ修復のプロセスである。  小都華は懐から小さな御札を取り出し、スマートフォンの裏側にそっと触れさせた。 「すんませんねえ、ちょっと電波の調子が悪いみたいで、ほら、直りましたよ」  小都華が笑顔を取り繕って画面を見せると、黒い染みは嘘のように消え去り、元の美しい御朱印の画像が戻っていた。女性は狐につままれたような顔をしながらも、「ああ、おおきに」と去っていった。 「まったく、最近こういうの多すぎひん?」  小都華がぼやくと、クダモンは細い目をさらに細め、どこか遠くを見るように境内の外へ視線を向けた。  デジモンという存在が、電子ネットワーク時代に再び輪郭を得た怪異や妖怪の類であるならば、この程度の「いたずら」は日常茶飯事だ。  だが、小都華の肌は、先ほどの黒い染みから発せられていた湿り気を、まだはっきりと覚えていた。  太陽はこんなにも明るいのに、背筋を撫でる風だけが、妙に冷たかった。 ⑤  社務所の中は、業務用のエアコンが低く唸りを上げ、肌寒いくらいに冷やされていた。  しかし、室内を満たしている空気は決して快適とは言えなかった。肺に吸い込むたび、目に見えない細かい砂利が気管にへばりつくような、異様な息苦しさがある。  普段は温厚で笑顔を絶やさない神主が、今はパイプ椅子に深く腰掛け、デスクの上に置かれた自分のスマートフォンを血の気の引いた顔で見つめていた。 「小都ちゃん」  竹箒を片付けて戻ってきた小都華が呼ばれ、足を止める。 「ちょっと、これを聞いてくれないか?」 「なんや、おっちゃんエロサイトで十数万請求されるのは詐欺やで?」 「ツッコミ辛いボケだなぁ…そうじゃなくてこれ。」  神主は、まるで汚物か爆発物でも扱うかのような慎重な手つきで、スマートフォンを机の中央へ滑らせた。画面には、見慣れない音声データの再生バーが表示されている。 「なんですか、これ」  小都華が訝しげに再生ボタンへ指を伸ばした、その瞬間だった。  社務所の空気が、物理的な質量を持って歪んだ。 『…ハルカヲ…タス…ケテ…』  ノイズまじりの、ひどく掠れた悲鳴のような声。  だが、小都華の胃の腑を直接掴み上げたのは、その声の主の切迫感ではなく、背後に張り付いている「音」と「匂い」だった。  ざばり。ざばり。  重たく、粘り気のある水塊が岩肌に叩きつけられる音がする。ここは海から遠く離れた街中の神社である。それなのに、録音データが再生されている間だけ、社務所の密閉された空間に、むせ返るような濃密な潮の匂いが充満した。  太陽に焼かれて腐敗した海藻と、古い電子基板が黒焦げになったような、化学的で生臭い悪臭。  さらに、波音の隙間から、ぶくぶくと水面で泡が弾ける音に混じって、古い読経のような、あるいは呪詛のような低いノイズがうねっている。  小都華は反射的に両腕を強くさすった。冷房のせいではない。皮膚の表面に、見えない冷たく濡れた布を何重にも被せられたような、生理的な圧迫感があった。 「…これ、ただのイタズラとちゃいますん?」  小都華の低い声に、神主は重々しく頷いた。 「今朝、うちの留守番電話と、御朱印アプリの管理サーバーに同時に入っていたんだ。実は…ここ数日、市内の他の神社でも、似たような不審なノイズや水滴の怪異が報告されていてね」  神主は、引き出しから一束の封筒を取り出した。 「放っておけるものじゃないし。…伽夜子さん達に、頼もうと思う。」  伽夜子。表向きは悪霊祓いを生業としているが、その実態はデジモンや電子ネットワークが絡む怪事件を専門に処理する請負人である。  小都華のアルバイト先であるこの神社の神主は、彼女の手腕を誰よりも信頼していた。だが同時に、「彼女を呼べば、確実に法外な依頼料をむしり取られる」という世俗的な畏れも抱いているらしかった。  小都華は、内心で神主の財布に手を合わせつつ、もう一度、再生の止まったスマートフォンを見下ろした。 (…ハルカ?)  助けを求めるその声は、いつもの乾いた電子怪異のそれとは違う。じっとりと湿り、今にも暗い水底へ引きずり込まれそうな、恐怖を持っていた。 ⑥  夏の日差しが、アスファルトを白く焼き焦がしている。  少し年季の入ったアパートの一室、「祓い屋、伽夜ちゃん。」の事務所兼住宅の網戸越しには、耳鳴りのようにけたたましい蝉時雨が容赦なく降り注いでいた。   首を振る安物の扇風機が、規則的な機械音を立てながら生温い空気をかき回していた。 「…う〜ん、これがその送られてきた音声データってわけだねぇ」  デスクチェアに深く腰掛けた伽夜子は、長い足を組み、薄く青みがかった瞳でノートパソコンの画面を見下ろしていた。  小都華は、グラスの表面にびっしりとついた結露を指の腹で拭いながら、スピーカーから流れる重い波音にじっと耐えていた。 「こ…これ…ただの環境音じゃないですね」  向かいに座る月彦が、ボソボソとした、わずかに吃音を交えた声で指を噛みつつ呟いた。  丸まった背中は強張り、ノートパソコンから出力される波形データを食い入るように見つめている。 「どういうことや、月彦?」 「波の音に聞こえますけど、じ…実際の音じゃない…海を模倣して生成した音です。…それに、この波形…。」  月彦がキーボードを数回叩き、音声の波形データをモニターの限界まで拡大表示する。  画面に映し出されたのは、無機質なデジタルの直線ではなかった。曲線が交わり、まるで無数の魚の鱗がびっしりと重なり合っているようなパターンが浮かび上がった。 「うわ、キショ…ひっどいデータ汚染やな」 「単なるバグじゃないね。…ひどく呪術的なプロトコルを感じるねぇ」  伽夜子が低い声で同意し、指をパチンと鳴らした。 「厄介なのは発信元だね、IPアドレスもGPSも完全に欠落している…ただ、発信の痕跡だけは、京都府の北部…赤牟市…平成に合併した王港町という港町の方角を示しているようだね。」 「王港町…海辺の町、ですね。」  月彦はぽつりと呟き、手元に引き寄せていた分厚い資料から目を離し、もう一度モニター上のメタデータを凝視した。 「…?ここ、時間がおかしいですね。」  月彦の吃音が消え、声に探求者特有の冷徹な響きが宿る。 「この救援信号を発信した端末…おそらくデジヴァイス…機種は…D-3ですかね…ログのタイムスタンプが現実の時刻とズレています。」 「遅延やバグじゃないのかい?」  月彦は、画面の片隅に別のウィンドウを開き、王港町周辺の今日の潮見表を表示させた。 「…恐らく…D-3の時刻ログですが、潮見表の満潮時刻と完全に同期しています。  …経験則…正直、勘ですけどたぶん一定の条件じゃないと向こう側への扉は開かないんじゃないでしょうか…。」  地図には存在しない、潮の満ち引きという月の引力と同調して開く戸口。  理解の及ばない暗い海の底から、何者かがじっとりとこちらの世界を覗き込んでいるような感覚に、部屋の沈黙が深くなる。  だが、その這い寄るような恐怖の空気を、物理的な熱量を持った声が強引に叩き割った。 「…要するにやな!」  小都華が、両手でドンッとちゃぶ台を叩き、立ち上がった。 「そのハルカって子が、わけのわからん気味の悪い海のお化けみたいな連中に攫われかけてて、相棒のデジモンが泣きながら助けを呼んでる…そういうことやろ!」  彼女のハキハキとした言葉には、月彦が感じ取ったような畏怖も、伽夜子のような知的な分析も含まれていない。あるのは、極めて真っ当で、飾らない純粋な生者の「怒り」だけだった。 「そんなん、放っておけへんやろ! ほな、行くしかないやんか!」  小都華の健康的な生きた熱気が、部屋に澱んでいたじめじめとした湿気を一瞬にして吹き飛ばす。  その言葉に、月彦の強張っていた肩の力がわずかに抜け、伽夜子は口角を上げて艶やかに微笑んだ。 「ふふ、お姉さん小都ちゃんのそういうとこだ~いすきチュッチュ。」 「うわ!きっしょ!やめてえな!もう!!」 「ふふっ…しかし、神主も覚悟の上でこっちに依頼したんだ。  ま〜た、たっぷりふんだくらせてもらわないとねぇ。げへへ。」  金に目の眩んだ厭らしい表情をする伽夜子を見つつ(おっちゃん、ほんまご愁傷様やで…)と内心で手を合わせつつ、小都華は力強く頷いた。 「さぁ行こうか、王港町へ。」 ⑦  王港町の駅に降り立った瞬間、暴力的なまでの夏の輪郭が一行を包み込んだ。  空は突き抜けるような青色を誇り、巨大な入道雲が水平線の向こうで沸騰するように湧き上がっている。駅前のロータリーを抜けると、すぐそこに海があった。 「うっひょ~海や!海や!!やっぱ夏は海やな~!」 「古都ちゃんさん別に遊びに来たわけじゃ…。」 「わ~っとる!相変わらずお堅いな~!」  小都華がアームロックのような形で月彦を手繰り寄せがははと大きな笑い声を上げている。  目の前に広がる海はサファイアやコバルトのように澄み煌めいている。  それは録音データから滲み出していたような、生き物の胃袋のようにうねる鉛色の海ではない。  白く輝く堤防。打ち寄せる波はリズミカルに砕け、無数の光の粒となって飛沫を上げている。カモメの甲高い鳴き声が上空を横切り、海沿いの商店街からは、氷を砕く音や魚屋の威勢のいい声が潮風に乗って届いた。店先に並べられたラムネ瓶のビー玉が、強い日差しを乱反射してきらきらと輝いている。  ここは、生命力に溢れた生きている町だった。海は時に命を奪う残酷さを持つが、それでも人々は海の恩恵を受け、暮らしの音を立てて生きているのが伝わる。 「うわーっ、めっちゃええ天気! 海の匂いするわ!」  小都華は大きく背伸びをし、肺いっぱいに潮風を吸い込んだ。彼女の健康的な足取りは、これから怪異に立ち向かおうというのに悲壮感を感じさせない。影の端には、クダモンの細長い白い姿が寄り添っている。 「ふふっ、本当にいい景色じゃないか。日焼けには気をつけたいところだけどねぇ。」  伽夜子は白い日傘を優雅に回し、涼しげな横顔を海風に向けた。 「あ、あの…小都ちゃんさん、あまりひとりで先に行かないでください。」  月彦は目を細め、猫背をさらに丸めながら小都華の後を追った。  明るく、健全で、正しい夏の港町。  しかし、月彦はその眩しさの中に立ちながら、海に面して建ち並ぶ「舟屋」の構造に目を奪われていた。  一階部分が海へ向かってぽっかりと口を開け、舟を引き入れるようになっている独特の家並み。光が強ければ強いほど、その一階の空洞部分には、墨を流し込んだような漆黒の影が澱む。  生きている海のすぐ裏側に、死んだ海がぴったりと張り付いているような、微かな不一致。月彦の背筋を、見えない冷たい指がそっと撫で上げた。 ⑧  白光に支配されていた海岸通りから、一本内陸の路地へ足を踏み入れた瞬間だった。  王港町の空気は微かに、しかし決定的にその性質を変えた  先ほどまで網膜を焼いていた太陽の熱線は、軒を連ねる古い木造家屋に遮られ、細い路地に黒々と澱んだ影を落としている。 潮風に乗って届いていたカモメの鳴き声や、ラムネ瓶が触れ合う涼しげな音は不自然に遠のき、代わりに木立の隙間から降り注ぐ蝉時雨が、耳鳴りのように鼓膜を塞ぎ始めた。  肌にまとわりつく風からは、生きている海が持つ健全な磯の香りが消え失せている。  古い畳が湿気を吸って重く呼吸しているような澱んだ空気と、日陰特有の埃っぽさが、肺の奥にじっとりと張り付いてきた…先を歩いていた月彦が、ふと足を止めた。 「…月彦君?」  伽夜子の声に、月彦は無言のまま路地の錆びたトタン屋根の古書店へ視線を向けていた。  店先のワゴンには、潮風に晒されてカバーが波打った郷土資料が無造作に積まれている。  月彦は、まるで見えない糸に手首を引かれるような緩慢な動作でワゴンへ近づき、一番下に平積みされていた一冊の分厚い写真集を引き抜いた。 「えっと…『昭和の残光』…撮影者は、藤宮伊衛門…この町の写真集ですね…。」  ボソボソと、微かな吃音を交えながら呟き、重い表紙を開く。  湿気を吸い込んだ厚手の紙が、特有のカビの匂いを放った。だが、月彦の鼻腔の奥を撫でたのは、冷たく生臭い匂いがインクの裏側から立ち昇ってきたのだ。  小都華も横から首を突っ込み、そのページを覗き込む。  しかし、海へ向かってぽっかりと口を開けた一階の空洞の奥が、どれも異様だった。  日常の漁具や生活の小舟が置かれているべき場所に、出処の知れない装飾や祭具がひとつの塊のように絡み合って吊るされている 「…亀甲に似た敷石。蓬莱山に似た灯台。玉手箱めいた写真箱…それに、葦船に似た黒い小舟」  月彦は、ページ上の被写体を指先で一つ一つなぞりながら、ひどく慎重に言葉を選ぶ。 「魚尾のある聖母像…十字の影を持つ観音…。」 「なんや、なんかごっちゃごちゃしてんなぁ知らんけど。それに生活の写真ちゅうかカルトちっくやな。」  ページをめくると、さらに異様な一枚の写真が現れた。  遠目には、雨の中を海へ向かって進む「花嫁行列」のように見える。  だが、小都華の胃の腑が、内側から冷たい手で掴まれたように収縮した。 「…なんで誰も、この子の顔見てへんの?」  写真の中央を歩く少女は、華やかな花嫁衣装ではなく、身体の線を完全に隠し去るような重い白布を被せられている。そしてその上から、異様に太く、黒々とした腹帯が幾重にも巻き付けられていた。  少女は全く笑っていない。というより、瞳の焦点が虚空へ抜け落ちていた。  更に幾枚の写真には花婿の姿は、列のどこにもない。 「あると言えば、あるけど昭和の時代でここまで儀式的にしっかりやるのも珍しいかもね。」  伽夜子が冷ややかな声で言った。だが、その声音には強い警戒が滲んでいる。 「…キャプションには、『蔭洲升』とあります。でも、今聞いたら店主さんは、そんな地名は知らないと…。」  月彦が、冷たい汗の滲む手で写真集をバタンと閉じた。  写真に写っていた黒い小舟と、重い腹帯を巻かれた少女の姿が、次の潮を待つ暗い空洞のように、網膜にべったりと張り付いて離れない。 「急ぎましょうか、遥さんの家へ。」  月彦の低い声に促され、三人は逃げるようにその路地を後にした。 ⑨  遥の家は、路地の突き当たりにある古い平屋だった。  小都華が門扉を開け、玄関の引き戸に手をかけた。鍵はかかっていなかった。 「すんませーん!渚さん、いてはりますかー?」  小都華が努めて明るい声を張り上げ、引き戸を横に開け放つ。  その瞬間、外で彼らを焦がしていた凶暴なまでの熱気が、見えない分厚い壁にぶつかったかのように完全に遮断された。  家の中は、真昼間だというのに照明が点いておらず、異様なほどに暗い。  そして、異常なまでに冷たかった。  冷房が効いているわけではない。光の届かない地下室や、水気の多い鍾乳洞の奥底に足を踏み入れた時に感じる、骨の髄まで染み込むような底冷えだった。  鼻腔を突いたのは、古い畳の匂いと、微かな線香の香り…それに混じって、あの神社の録音データで嗅いだ、腐った海藻と鉄錆のような死んだ潮の匂いがあった。  小都華が両腕をさすって身震いした時、奥の暗がりから、ずるり、と重い足音がした。 「…うわ、なんかここ、寒っ」「ちょっと小都ちゃんさん…!」「ふふ…。」  廊下の奥、襖の陰からゆっくりと姿を現したのは、小柄な老婆だった。  だが、月彦と伽夜子は思わず息を呑み、身体を硬直させた。  暗がりから浮かび上がった老婆の顔が、一瞬、長時間水に浸かって白く膨張した水死体のように見えたのだ。  水分を過剰に吸ってぶよぶよと重くなった皮膚が垂れ下がり、虚ろに濁った巨大な眼球が、瞬きもせずにぬらぬらとこちらを見つめている。  月彦がポケットのデジヴァイスiCに指をかけ、筋肉を強張らせたその直後。 「あ、あの…どなたさんやろか?」  老婆が小都華の姿を視界に捉えた瞬間、その顔は、孫の帰りを心配し、長年の疲労に苛まれたごく普通の、しわがれた祖母の顔へと元に戻っていた…錯覚だったのか。  いや、違う。月彦の背中には、氷のような冷や汗がびっしりと張り付いている。  この家はすでに、外の明るい海とは違う、底知れぬ異界…海に半分ほど浸かっているのを感じ取った。 「遥なら、蔭洲升におるはずやわ」  麦茶が出された薄暗い居間で、祖母はぽつりと言った。  その声には、深い悲しみと、抗いようのない泥のような諦めが混じっている。 「おばあちゃん、それってどこにある町なん?」 「王港のはずれにある、あのトンネルを抜けたとこや。あの子な…ずうっとふさぎこんどってな…。せやから、蔭洲升に呼ばれたんや。  あっこはな、そういうもんが帰る場所やさかい。帰ったもんは、また来るんや…ややこを抱えて。産んでもろて、ほんで今度は、あの子がそのややこを抱く番になるんや。」  祖母の口ぶりは、まるでそれが世界の絶対的な理であり、祝福すべき摂理であるかのように自然だった。  だが、語られている内容は完全に狂っている。一人の少女が、何かの子を孕むための器として連れ去られたことを、肉親が肯定しているのだ。  伽夜子が、扇子を畳んで静かに口を開いた。 「一つ聞きたいのだけど…その『蔭洲升』という地名。貴女は、誰から聞いたのだい?」 「え…?」  祖母の顔から、すっと表情が抜け落ちた。 「誰からって…そら、昔から…。」  祖母の目が、水面を漂う木の葉のように激しく泳ぎ始める。皺だらけの手が、自分の膝の上で所在なさげに小刻みに震えた。 「昔から、知ってる…いや、誰に教わったんやろか。地図には…地図にはないのに。ウチ、なんであの子が蔭洲升におるって、知ってるんや…?」  祖母は本気で孫を心配している。決して嘘をついているわけではない…だが、彼女の記憶の根底に、いつの間にか黒いインクがポタリと垂らされ、論理が完全に破綻しているのに、事実だけがそこに癒着している。人間の認識や記憶という強固なはずの境界線がドロドロと溶かされている。  月彦は、居間の仏壇の横に飾られた写真立てに目を向けた。遥と、その両親が海辺で笑っている古い写真。  だが、写真立てのガラスの内側だけが、びっしりと結露して湿っていた。そして、写真の中で笑う遥の足元だけが、黒い染みのようにねっとりと濡れて歪んでいる。 「…行きましょう」  月彦は立ち上がり、静かに、しかし断固とした声で言った。 「あ、あの…おばあさん。遥さんは、僕達が必ず連れて帰りますから」  月彦の言葉に、祖母は答えなかった。ただ虚ろな目で、乾いた手の中の何も入っていない湯呑みを見つめ続けていた。 ⑩  王港町の外れ。海鳴りが遠のき、山肌が迫る旧道に、その錆びついたバス停は立っていた。  赤茶けた鉄柱に支えられた丸い標識には、塩風に晒されて半分剥がれかけた手書きの文字で蔭洲升町 行と記されている。  暴力的な真夏の日差しがアスファルトをじりじりと焦がしているというのに、バス停の周囲に落ちる影だけが、不自然なほどに色濃く、そしてじっとりと濡れていた。  遠くから、古いディーゼルエンジンが重苦しく喘ぐような音が聞こえてくる。  やがて陽炎の向こうから姿を現したのは、車体のあちこちがひどく錆びつき、緑色の苔のようなものがこびりついた旧式のボンネットバスだった。  プシュウ、と濁った排気音を立てて、折れ戸が開く。 「…。」  乗り込もうとした小都華の足が、一段目のステップでピタリと止まった。 「なんやこのバス…床、べちゃべちゃやんか」  小都華の呟きに、後ろに続く月彦も息を呑んだ。クーラーなど効いていないはずの車内から、まるで冷蔵庫の底に溜まった冷気のような風が這い出してきたのだ。床板は、誰かがバケツで大量の海水をぶち撒けたようにどす黒く濡れそぼっている。  そして、鼻腔を強烈に突くのは、炎天下で内臓を抜かれた魚が腐敗していくような生臭さと、古い鉄錆の匂い。 「…す、すみません。大人三人、お願いします」  月彦は微かに声を震わせながら、運賃箱に小銭を落とそうとした。  だが、運転席に座る男は無言だった。深く被った制帽の鍔で顔は全く見えず、ただ前方の窓ガラスだけを向いている。  しかし、帽子の下から覗く首筋の皮膚には、人間のそれとは異なる青白くぬめりとした光沢が、ゼリーのように張り付いていた。  …のように一瞬月彦には、見えた。  伽夜子が扇子で口元を覆い、月彦の耳元へ顔を寄せる。 「…まるで、霊柩車に乗っている気分だねぇ。」  いつもの飄々とした演技染みた声であるが、冷ややかな、しかし明確な警戒を含んだ声。  バスには、彼ら以外の乗客は一人もいなかった。  ガタガタと車体をひどく軋ませながら、バスは山間の道へと進んでいく。  窓の外の景色から、青い海が完全に隠れた。迫り来る山肌の緑はどこか黒ずんでおり、生気が感じられない。  耳鳴りのように響いていた蝉時雨が、一つ、また一つと、まるで電源を切られるように途切れていく。  代わりに、車体の床下から、あるいは窓ガラスの隙間から、ざばり…ざばり…と、重く粘り気のある波音が響き始めた…山の中を走っているはずなのに…前方に、鬱蒼とした木立に飲み込まれかけた、赤レンガ造りの古いトンネルがぽっかりと口を開けているのが見えた。 「トンネル…。」  月彦が呟く。  バスがその暗黒の口へ近づくにつれ、窓の外を照らしていた夏の白い光が、急速に色褪せ、濁った雨水のような灰色へと変質していく。  日常の論理が、物理法則が、音を立てて溶け落ちる。  理不尽で湿った異界への入り口が、彼らを乗せたバスを丸ごと、その暗い胃袋の中へと飲み込んだ。 ⑪  バスが赤レンガのトンネルへ滑り込んだ瞬間、世界から夏が切断された。  天井に等間隔で並ぶオレンジ色のナトリウムランプはひどく頼りなく、車内を照らすというよりは、座席の影を不気味に長く引き伸ばす役割しか果たしていない。 「なんやここ…クーラーも点いてへんのに、急に冷えてきたな。」  小都華が両腕をさすりながら、窓ガラスに額を近づける。ガラスの表面には、すでにびっしりと結露が浮かんでいた。外の光が水滴に乱反射し、視界を不気味に歪ませる。  呼吸をするたびに、生温かく、ひどく塩辛い空気が肺の奥まで侵入してくる。気管の粘膜に、見えない泥がこびりつくような息苦しさ。  ふいに、頭上の車内灯が不規則な瞬きを始めた。  「ジジッ、ジッ。」  ただの接触不良ではない。光が途切れるコンマ数秒の暗闇の中、視界の端に、四角いブロック状のデジタルノイズがモザイクのように走ったのを、月彦は見逃さなかった。 「伽夜子さん。」 「ああ。探す手間が省けたね…境界が、溶け始めている。」  伽夜子が日傘の柄を両手で握り締め、楽しげな声色の裏に冷たい殺気を忍ばせる。  次の瞬間、車内の照明が完全に落ち、トンネルのナトリウムランプさえもふっと消滅した。  完全な暗闇…同時に、むせ返るような濃い霧が、閉め切られているはずの車内にどこからともなく湧き出してきた。  ただの水蒸気ではない。それは圧縮された古いデータのように重く、皮膚の表面にねっとりとまとわりつき、視界だけでなく聴覚すらも奪い去っていく。 「ちょっ、なんやこれ! 前見えへん!」  小都華の焦ったような声が、まるで水底から発せられたようにくぐもって聞こえた。 「小都ちゃんさん!動かないで…!」  月彦が座席から立ち上がり、彼女のいた後方座席へ手を伸ばす。  だが、月彦の指先が掴んだのは、濡れて冷たくなったシートだけだった。 「小都ちゃんさん!?」  返事はない。足元にいたはずのクダモンの気配も、完全に途絶えている。  つい数秒前までそこにいたはずの少女の存在情報が、跡形もなく消え失せていた。  神隠し。あるいは、プロトコルを無視した強制的な隔離。  月彦の背筋を、強烈な悪寒が駆け下りる。 「う、運転手さん! 止めてください! 人が、人が消え…!」  月彦は運転席へと身を乗り出し、声を張り上げたが、ブレーキは踏まれない。バスは暗闇の霧の中を、一定の速度で走り続けている。 「運転手さん!」  月彦の叫びに、運転手はゆっくりと、本当にゆっくりと首だけを後ろへ向けた。  制帽の下から現れたその顔に、月彦は息を呑み、全身の筋肉を硬直させた。  それは、人間の顔ではなかった。  両目の間隔が異様に離れ、まぶたという器官が存在しない。ぬらぬらと光る巨大な眼球が、一度も瞬きをすることなく月彦を見据えていた。首からエラにかけての皮膚は青白く変色し、ゼリー状の粘液に覆われ、そして霧の様に揺らめいている。 「そっちは…駄目だ…穢れが混じってる…乙女にはなれん。」  (ハンギョモン…?いや…似ているけど…違う!!)  運転手の喉の奥から、空気が漏れるような、あるいは泥水が沸騰するような音が鳴った。それはハンギョモンによく似た、しかし純粋なデジモンとも異なる、ひどく歪で悍ましい「何か」だった。 「おや、それは私の事かい?ユニコーンが一瞬で跪く程の乙女に言ってくれるじゃあないか。」 ⑫ (伽夜子さんの身体が半分デジモンで構成されてるのを見抜いたのか…?) (これは確信…欲しがってるのは…常世の女、子供を宿せる女なんだろ…!小都ちゃんまで欲張るとはねぇ!) 「コヅキガルルモン!!」  月彦と伽夜子の思考がリンクし、月彦の叫びと同時、彼の足元の影から銀色の獣が跳躍した。  コヅキガルルモンが空中で身体を捻り、首に巻かれた赤い注連縄を光らせる。  だが、敵の動きも異常だった。ハンギョモンに似た「何か」は、その場から腕だけを異様な長さまでゴムのように引き伸ばし、月彦の顔面へ向けて巨大な水掻きのある手を突き出してきた。 「月彦君!」  伽夜子の声。同時に、一枚の白い御札が闇を切り裂いて飛び、伸びてきた腕の関節にピタリと張り付いた。  炸裂音と青白い火花が散り、敵の腕が強引に弾き返す。 「ブシアグモン殿!手加減は無用だよ!」 「応ッ!!ワシの超高速一文字斬り、とくと見い!ワンコ!合わせい!」  コヅキガルルモンがハンギョモンに人魂状の炎を当てようとするが弾かれる。  しかし、人魂状の炎は消えずバス内に満ちた水に落下しそこから高温の水蒸気を発生させ、その熱に何かは一歩後ずさり更に視界を塞いだ。  飛び出したブシアグモンが、得物を構え、弾かれた敵の腕を足場にして肉薄する。  空気が鋭く鳴り、一陣の風が車内の霧を切り裂いた。  ブシアグモンの一撃が、ハンギョモンに似た怪物の胴体を斜めに両断する。  遅れて、再びコヅキガルルモンが口から青い人魂状の炎を吐き出し、敵の顔面を正確に撃ち抜いた。  勝負は一瞬だった。  月彦もすでに、ポケットから赤いデジヴァイスiCを引き抜き、もう片方の手には呪符をびっしりと巻き付けた鉈を握りしめていた。  だが、彼が踏み込む前に、敵は形を崩し始めていた。  しかし、爽快な勝利の感覚は微塵もない。  胴体を両断され、炎に焼かれた敵からは、血の一滴も流れ出なかった。デジモンが倒された時に飛散するはずの、光のデータ粒子すら現れない。  運転手の身体は、まるで腐った泥が溶けるように、ぶくぶくと醜い泡を立てて足元へ崩れ落ちていったのだ。 「…おいおい、月彦ちゃん。なんだい『コレ』は目測ではハンギョモン…完全体だろ?弱い…というか手応えが全くねえぜ?」 「う~ん…隙を作って外に出て完全体になってから本番と思っていたが…。」 「…。」  ブシアグモンが刀を振り下ろした姿勢のまま、怪訝そうに鼻を鳴らす。  崩れゆく泡の塊の中から、残骸となった大きな眼球だけが、ギョロリと月彦達を見上げた。 『お前達は呼ばれていない…陀金(だごん)の海は…。』  それは、空気の振動ではなく、直接脳髄に響くような声だった。 『…呼ばれた者…選ばれた乙女しか…常世からは渡れない…。』  テレビの電源が切られたような音と共に、泡の残骸は完全に蒸発し、後には息が詰まるほどの生臭さだけが残された。  主を失ったバスは、しかし依然として一定の速度で霧の中を進んでいる。 「小都華さん…。」  月彦は鉈を下ろし、誰もいない後部座席を見つめた。  呼ばれた者しか、渡れない。  その言葉の意味するものが事実であるならば、小都華は今、あの腐臭のする声の主達が待つ蔭洲升の底へ、たった一人で引きずり込まれてしまったということになる。  月彦の奥歯が、強く噛み合わされた。 ⑬  全身を重い鉛の布で包まれたような感覚だった。  小都華は、顔に当たる冷たく湿った風の感触で意識を取り戻した。 「…う…んん…。」  ゆっくりと目を開ける。  視界のピントが合うにつれ、彼女は自分が仰向けに倒れていることに気がついた。  身を起こそうとしたが、身体が異常に重い。真夏だというのに、吹き付ける風は骨を凍らせるほど冷たい。それでいて、湿度がまとわりつくように高く、服が、まるで大量の塩水を吸い込んだように重く冷たく肌に張り付いていた。 「なんや…、ここ…、月彦…?伽夜子さん?」 「コトカ、無事?」  すぐ脇から聞こえた冷静声に、小都華は弾かれたように顔を向けた。  黒ずんだ砂の上で、白い管狐のような姿をした相棒のクダモンが、体を震わせてまとわりついた砂を振り落としていた。 「クダモン! よかった、はぐれへんかったんやな」  小都華はほっと息を吐き、クダモンを抱き寄せようとしたが、その白い毛並みはひどく冷たく、じっとりと湿っていた。 「うわ…キショい」「おい!ていうか小都華も同じだし!「うげ!ほんまや!びっちょしとる、きっしょ。」  立ち上がり、周囲を見渡す。  足元にあるのは、白い砂浜ではなかった。黒ずんだ砂に混じって、錆びたUSB端子、ひび割れた緑色の電子基板、そして千切れて腐敗したケーブルの束が無数に打ち上げられ、まるで機械の墓場のような海岸線が続いていた。  空は厚い鉛色の雲に覆われ、太陽の光は一切届いていない。  目の前には、暗く濁った海と赤く輝く月のみが広がっている。  波は一定のリズムで打ち寄せているが、それを生きている海とは小都華には思えなかった。  鳥の声も、虫の羽音も、魚が跳ねる水音もしない、静寂と死の匂いが支配していた。 「月彦…伽夜子さん…?」  呼んでも、返事はない。 「通信も繋がらない…。ここは現実世界は勿論ないけど…アタシ達の知るデジタルワールドとも違う…気がする…。」  クダモンが細い目をさらに細め、濁った海を警戒するように見つめた。  小都華は自分の腕を抱きしめ、肌に粟立つ寒気を必死に抑え込んだ。  普段なら「冗談きついわ!」と軽口を叩くが、この空間は、彼女の持つ常識の範疇という壁をじわじわと、しかし確実に溶かしてくるような気味の悪さがあった。 「あかん、ビビってたらアホらしいわ!なんやねんこの海、めっちゃ陰気臭いし」  彼女はパンッ!と両頬を両手で強く叩き、強引に気合を入れた。手のひらの痛みが、自分が生きているという輪郭を辛うじて保たせていた。  全身を重い鉛の布でくるまれたような、逃げ場のない圧迫感だった。  見渡すと波打ち際を舐める鈍色の水面を見つめ、海に足を漬け風が吹けば吹き飛びそうな儚げな人影があった。  小都華が駆け寄ると、少女は、首の折れた人形のようにゆっくりと小都華の方へ顔を向けた。 「あんた…が、渚 遥さん?」 「…あんたは…誰?」  蔭洲升の海で小都華は探している少女を廻り出会った。 ⑭  急ブレーキをかけることもできず、月彦達は惰性で走り続けるバスに乗ったまま、やがて霧の晴れ間へと抜け出した。  トンネルの出口を越えると、窓の外には再び暴力的なまでの真夏の日差しが飛び込んできた。 「ここは…。」  月彦がバスのドアを手動でこじ開け、外へ飛び出す。  そこは、見覚えのある場所だった。白く輝く堤防。遠くに聞こえるカモメの声。けたたましい蝉時雨。  王港町だ。  蔭洲升町へ向かうはずのトンネルを抜けたのに、彼らはなぜか、入り口であるはずの王港町側へ吐き出されていたのだ。物理法則も空間の連続性も完全に無視された、あちら側からの明らかな「乗車拒否」。 「ふふ…どうやら、向こう様からは招かれざる客扱いされたみたいだねぇ。」  伽夜子が日傘を開きながら、優雅に、しかし目の奥に怒りを湛えてバスから降りてくる。 「笑い事じゃありませんよ…!小都華さんが…!」 「落ち着き給え、今は冷静に動かないと助けられるものも助けられないよ。」 「…っ。…すみません。そうですね。」  月彦が声を荒らげようとしたその時、コヅキガルルモンが低く唸り声を上げ、堤防の陰へ向けて駆け出した。 「? どうしたの、コヅキガルルモン?」  月彦が後を追うと、コンクリートの強烈な照り返しを避けるような影の中に、緑色の小さなデジモンが倒れていた。 「ベタモン…!?」  月彦が駆け寄る。  しかし、その状態はひどいものだった。  緑色の皮膚は所々が黒く変色し、データが欠損したようにノイズが走っている。浅く速い呼吸を繰り返し、背鰭は無惨に折れ曲がっていた。 物理的な裂傷というよりは、データそのものを不純な泥で抉り取られたような、痛々しい傷跡だ。 「しっかりしてください…!」  月彦がデジヴァイスiCをかざして微弱な修復データを送る。  伽夜子も傍らにしゃがみ込み、白い御札をベタモンの背中にそっと貼った。  徐々に呼吸が落ち着き、ベタモンが重い瞼を開ける。 「…誰だ、あんたら…?」  警戒と痛みが混じった、掠れた声だった。 「怪しい者じゃありません。…留守番電話の『ハルカを助けて』というメッセージを聞いて来た…テイマーです。」  月彦が答えると、ベタモンの緑色の瞳が、すがるように大きく見開かれた。 「電話…!あんたら、助けに来てくれたのか…、ッ!」  ベタモンは身を起こそうとして崩れ落ち、目からデータ化された涙を溢れ落とした。 「頼む…!遥が、霧の海に消えちまった!」  ベタモンは地面のコンクリートを鋭い爪で引っ掻いた。 「俺じゃ…引き留められなかった。あいつ、誰かの声みたいなのに呼ばれて…自分から、暗い海の方へ歩いていっちまって…俺が止めようとしたら、変な化け物どもに…ッ!」 「君も落ち着きたまえ、傷に響くよ。声…なるほどね。」  伽夜子が扇子で口元を覆い、静かに目を伏せ思案を巡らせ思い出していた。  月彦は、べタモンを抱き寄せた。  遥の救出という本来の目的に加え、小都華まで巻き込まれる形で、あの霧の向こう側へ隔離されてしまった。  月彦の視線が、ベタモンの残る黒い欠損へと注がれる。あの傷口からは、まだ微かに、トンネルの中で嗅いだのと同じ腐った潮の匂いが漏れ出していた。 (この傷跡のデータ汚染…。) ⑮ 「もし!も~し!ぼ~とっしとるとこ悪いけどウチの事分かるか!?自分の事分かるか!!!」  小都華は呆けている遥の肩を容赦なく揺らす。 「…あんた、めっちゃ揺すってくるやん。」  少女…遥は、おっとりとした京都弁で、ひどく冷静に呆けたように言い放った。 「初対面でそないアグレッシブに来られると、ウチ、ちょっと引くねんけど」  今にも泣き出しそうな遭難者かと思いきや、返ってきたのは妙に棘のある言葉だった。小都華は思わず面食らいながらも、怒気を孕んだ声を上げる。 「こんな気味悪いとこでなにボーっと何してんねん!死ぬ気か!?」  遥は再び、暗い水面へと視線を戻した。その横顔には、同年代の少女には不釣り合いなほどの、濃く湿った喪失の影がへばりついている。小都華から、緑色のデジモンが必死に助けを呼んでいたことを聞かされても、遥の表情は動かなかった。 「…そっか。アホやな、あの子。ウチなんか、放っとけばええのに」  泥のように重い諦めが、その言葉からこぼれ落ちる。  その瞬間、小都華の平手が遥の背中を強烈に叩き据えた。 「キャッ!?痛っ…!?何すんの!?」 「放っとけばええとか、悲劇のヒロインぶってんちゃうぞ!相棒も泣きながら助け呼んでんのに、ばっちゃもごっつ心配しとったんやで!? こんなとこで黄昏れてる場合か!!!ボケ!アホ!カス!!ほら、歩く!!!!」  小都華は遥の細い腕を掴み、乱暴に引きずり起こした。同情も慰めもない、物理的な質量を伴った怒号。  その飾らない暴力性が、遥の心を絡め取っていた見えない海藻の蔦を強引に引きちぎった。  遥は渋面を作りながらも、小都華のガサツさに呆れたように小さく息を吐き、口元に微かな笑みを浮かべた。 ⑯  小都華と遥、そしてクダモンの二人と一匹は、灰色の霧に半ば沈んだ海岸沿いの町へと足を踏み入れた。  小都華は、足の裏を怪我しかねない未舗装の道を歩く遥を見かねて、強引に自分の履いていたサンダルを押し付けた。 「ウチは足の裏なんてガチガチやから大丈夫や!」と無理に笑い飛ばす言葉の裏で、小都華の胃の腑はすでに異様な空気感に締め付けられていた。  木造家屋が連なる路地には、腹を縦に割られた魚の残骸が無造作に打ち捨てられている。ひどく生臭いにもかかわらず、蠅一匹たかっておらず、野良猫の姿も海鳥の声もない。腐敗という生命の循環すら停止した、真空の標本箱の中に閉じ込められているようだった。  海側に並ぶ「舟屋」の造りは、王港町の風景のようでありながら、完全に生命力を抜き取られた陰画そのものでだった。  一階の海へ向けて開かれた空洞を覗き込んだ小都華は、背筋を氷の刃で撫でられたような悪寒を覚える。そこには生活のための小舟や乾いた漁網はなく、海水をたっぷりと吸って灰色に変色した白布が重く垂れ下がっている。布を留めているのは、魚の背骨を削り出して作ったような鋭い櫛であり、表面には安っぽいインクで道教の符籙めいた幾何学模様がびっしりと書き込まれていた。  奥の暗がりに安置された煤けた木彫りの像は、さらに奇怪だ。  丸みを帯びた輪郭は古い地蔵や恵比寿を思わせるが、足元の意匠は魚の尾を引く聖母マリアのように波打って彫り込まれている。  建付けの悪い窓枠から差し込む濁った光が、明確な逆さまの十字の影を描いて、そのキメラのような神体を雁字搦めに縛り付けていた。  小都華は自身の腕を抱いて強くさすった。 ⑰  風に揺れる錆びた看板が、軋む音を立てる。  路地の奥から、数人の住民が歩いてきた。  彼らの姿は、一目で人間の枠から外れていると分かる異様さを放っていた。  皮膚はひどく青白く血の気が全くなく、両目の間隔が広すぎ、巨大な眼球が一度もまばたきをしない。膝の関節が外側に向いており、極端なガニ股で地面を這うように歩を進めてくる。軒先に並ぶ塩害で文字が掠れた表札は、ほとんどが「藤宮」という姓で埋め尽くされ、明治風の木札や現代風のアクリルが同じ家の柱に無秩序に重なって打ち付けられていた。  住民達は無言のまま、小都華達の横を通り過ぎようとする。  だが、すれ違う瞬間。彼らの焦点の定まらない眼球が一斉に不規則に動き、小都華と遥の身体をねっとりと舐め回した。  それは外敵に対する警戒の視線ではない。首筋の細さ。髪の長さ。骨盤の広さ。影の濃さ。衣服の下にある肉体の若さを、測り取るような、無機質ながら肉に溢れた欲望に満ちた品定めの視線だった。  腐った海藻のような湿った息遣いが、小都華の首筋を撫でる。  ―血が、還る。ええ器や…。  言葉には出さないが、まばたきをしない瞳と荒い息遣いだけで、彼女達を人格のある人間として少しも敬っておらず、内側に潮を注ぎ込むための胎として測っていることが小都華達は感じ取った。  脂ぎった中年男性に身体の隅々までを見透かされるような、尊厳を根こそぎ剥ぎ取られる強烈な背徳感と生理的嫌悪感が、小都華の胃の腑を猛烈にせり上げさせた。  隣に立つ遥の呼吸が小さく震え、青い瞳が限界まで細められている。  このままここにいれば、飲み込まれる。  小都華は腕に立った鳥肌を隠すように、強引に明るく大きな声を張り上げた。 「あー!なんかめっちゃ腹減ってきたわ!あそこに食堂の看板あるで!」  恐怖を人間の最も根源的な食欲で強引に塗り潰そうと、小都華は遥の手を引き、角に建つ古い藤宮食堂へと駆け込んだ。 ⑱  王港町と蔭洲升とを隔てる赤レンガのトンネルの入り口。  背後には網膜を焼灼するような王港町の真夏の日差しが降り注いでいるというのに、トンネルのアーチを境にして、空間は不自然なほど完全に切り取られた冷え切った静寂に沈んでいた。  月彦は片手にスマートフォンを、もう片手にデジヴァイスを握りしめ、トンネルの奥から這い出してくる灰色の霧を解析していた。  霧は単なる水蒸気ではない。肺に吸い込むと、塩水で腐食した古い電子基板のような、極めて化学的で生臭い悪臭が鼻腔の奥に張り付く。 「…水蒸気じゃありませんね。」  月彦は、微かに吃音を交えながら、ひどく慎重に言葉を選んだ。 「極度に圧縮された…海洋データに近いものです…通常のデジタルワールドとも、現実世界とも違う。  言わば、隙間に挟み込まれた海のような空間…だと思います。」  傍らで白い日傘を差す伽夜子が、扇子で口元を覆いながら目を細める。 「コード内容的に過去の海難事故の記憶や、海への根源的な恐怖…それに土着信仰とデータ汚染が結びついて、独自のキメラのような空間を形成している、ということかい?」 「ええ…でも。」  月彦の表情には、探求者としての納得ではなく、むしろ這い寄るような違和感への嫌悪が張り付いていた。 「おかしいんです。土着信仰やそういったコードが入り混じったと断定するには…こう…自然に入り混じったように混沌としていない…誰かが…意志が介在したような由緒の整い方が不自然すぎる。」  月彦は、スマートフォンに記録した画像データを開いた。  古書店で見つけた昭和の残光のページ、そして先ほどまで異常な波形を示していたログの記録。 「我が弟ながら手癖が悪いねぇ。」 「はは…、えっと…本物の伝承ならば、時代ごとの矛盾や、語り手による揺れ、禁忌が破綻した痕跡が必ず残ります。  信仰って、もっと汚くほつれるはずなんです。  こういった空間は伽夜子さんも知ってる通りもっと混じりものばかりで混沌としてる筈なのに…。」  月彦は、トンネルの奥の暗闇を睨みつけた。怒りが重なり、彼の声から吃音が消え去っている。  誰かが、古いものを古く見せるために、用途に合わせて棚を並べ直している。  伽夜子は日傘の柄を握る手に微かに力を込め、冷ややかな声で応じた。  だが、伽夜子は即座に理性を働かせ、自らの中に一つの重い留保を置いた。 「しかしね、月彦君…あくまで観測からの予測じゃないかい?  もし向こうが本当に土地の神でその婚姻儀礼…いや、体裁を整えているだけでも、外部の祓い手である私達が理屈でそれを単純に壊すことも、民俗への敬意を欠く暴挙になり得る。  モラルをこの状況で語る気はないけど下手な介入は、呪い…実害として我々に手痛いしっぺ返しとしてくる可能性がある。  そのギラついた目…気持ちは痛い程分かるけどしっかりとこちらも道理を用意しないとじゃないかい?」 「…。」 (しかし、なぜ小都ちゃんも?彼女はこの場所と縁も所縁もない…選定の理由がだいぶ不明瞭だねぇ。)  その言葉は、彼ら自身の行動を縛る足枷となる、重い事実だった。 「…ふぅ、すみません。突入には座標の確固たるアンカー…、扉はこことして最初の段である条件…鍵になるものを探す必要があります…何か…繋がりがあるものさえあれば…。」 「ふむ…私は遥君の家へ戻ろう。ちょっと心当たりがあるしね。  月彦君はべタモン君の治療とここの様子を見ていてくれたまえ。」 「…分かりました。」  伽夜子は日傘を翻し、急ぎ足で王港町の明るい路地へと戻っていった。  月彦は一人、トンネルから吐き出される冷たい霧の前に立ち、スマートフォンの画面に映る魚鱗状のノイズを忌々しげに見つめ続けていた。 ⑲  伽夜子が遥の家を再訪した時、家の中の空気は先ほどよりもさらに重く、光の届かない井戸の底のようにひどく冷え切っていた。  玄関の引き戸を開けると、廊下の奥から祖母がゆっくりと姿を現す。 「あの…どちら様でしょうか?」  祖母の顔には、明確な戸惑いが浮かんでいた。  つい先刻前に言葉を交わしたはずの伽夜子のことを、全く覚えていない。 「先ほど伺った者ですよ。遥君が蔭洲升にいると仰っていましたが?」  伽夜子が微笑みを浮かべて尋ねると、祖母は不思議そうに首を傾げた。 「孫なら、自分の部屋におりますけど…。インスマス?王港町には、そんな地名はありませんえ。  えっと…遥のお友達ですかぇ?」  祖母の脳内から蔭洲升という単語そのものが削除され、遥が失踪しているという事実すら完全に上書きされている。  伽夜子は無言のまま、居間の仏壇の横にある写真立てへ向かった。 「ちょ…っちょっと!?警察呼びますよ!」 「…。」  遥と両親が海辺で笑っている写真。  先ほどまではただ結露していただけだったその写真の中で、今、遥の姿だけが黒いインクを零したようにどろりと滲み始めている。  遥の顔の輪郭が崩れ、衣服の青い色が周囲の風景に溶け出し、汚い染みへと変わりつつあった。  単なる空間的な誘拐ではない。現実世界から、遥という少女の存在情報そのものを抹消している。 「…そういう仕組みかい。」  伽夜子は冷たい眼差しで黒く滲む写真を見つめ、懐から青白い呪符を一枚取り出した。  鋭い動作で御札を写真のガラス面へ貼り付けると、御札が淡く発光し、黒いインクの進行がギリギリのところで停止した。 「あっ…え…あんた…先会って…遥…遥は?」 「…。」  一時的な座標のアンカーの確保。だが、この薄氷のような猶予がいつまで保つかは、誰にも分からなかった。 ⑳  立て付けの悪い木枠の引き戸が、重く湿った摩擦音を立てて開いた。  路地の角に建つ『藤宮食堂』の暖簾をくぐった小都華と遥を迎え入れたのは、外の灰色の霧よりもさらに粘度の高い、淀んだ薄暗さだった。  天井の隅で黄ばんだ古い扇風機が首を振っているが、羽が重い空気をかき回す摩擦音が虚しく響くばかりで、涼しい風は少しも肌に届かない。  店内に他の客の姿はなかった。厨房の奥に、背中の曲がった店主が一人、まな板の前に立っている。  小都華の背筋を、氷片を滑らせたような悪寒が撫でた。店主の皮膚は血の気を完全に失った青白色をしており、両目の間隔が人間の骨格としては異様に離れている。  何より小都華の胃の腑を冷やしたのは、その巨大な眼球が、ただの一度もまばたきをしないことだった。 「えっと…すんません。この…煮魚定食2つ欲しいんすが…。」  小都華が警戒を声の奥に隠して尋ねると、店主は無言のまま緩慢な動作で頷き、数分後に二つの皿をテーブルへ運んできた。  皿の上に乗っていたのは、煮付けのように見える魚料理だった。  だが、その魚の輪郭はひどく歪だった。深海魚のように頭部が異様に大きく、鱗は剥がれ落ち、身を浸している煮汁はまるで墨汁のように黒く濁っている。鼻腔を突いたのは、醤油や出汁の匂いではない。炎天下の波打ち際で腐敗した海藻の悪臭と、古い電子基板が焦げたような化学的な異臭が混ざり合った、酷く生臭い匂いだった。 (うわ…これ、食べるん?)  小都華が顔をしかめ、割り箸を手に取ることすら躊躇う。  だが、前に座った遥の様子が決定的におかしかった。  遥の青い瞳は、虚ろに濁ったまま、黒い煮付けの皿をじっと見つめている。彼女の感覚器には、あの強烈な腐臭が届いていないかのようだった。  遥は迷うことなく割り箸を割り、黒い魚の身へと箸の先を突き立てた。  その瞬間。  箸の先が触れた魚の身が、熱でも加えられたように小さく収縮した。 完全に死んでいるはずの魚の繊維が、まるで自らの意志で呼吸をする生き物のように震えたのだ。 「やめぇや!!」  小都華の腕が閃いた。  硬質な破裂音が店内に響き渡り、遥の手から払い落とされた小鉢が床に叩きつけられる。陶器の破片が散らばり、黒い煮汁が床板の隙間へと染み込んでいく。床に落ちた魚の身は、まるで肺呼吸をする生き物のように数秒間だけ膨らみ、やがて動かなくなった。 「アンタ、正気か!?こんなん口入れたら、あかんて!」  小都華の怒鳴り声に、遥は肩を震わせ、我に返ったように自分の手を見つめた。 「…ウチ、なんでこんなもん…。」 「あっ…へへへ…あっいやその…若いもんのノリっちゅうか…。」  小都華が引きつった笑いを浮かべて厨房を見ると、騒ぎを起こしたというのに、店主は怒るでもなく、驚くでもなく、ただ虚ろな目で床に散らばった魚の残骸を見下ろしていた。  そして、喉の奥から空気が漏れるような、湿った声で呟いた。 「…まだ、潮が…合わんかったか…。」 「…出よ、遥さん。ここはメシ食う場所やないっ」  何かを感じ取った小都華は遥の腕を強く掴み、逃げるように藤宮食堂を後にした。 ㉑  藤宮食堂の引き戸を背後で閉めた瞬間、小都華は肺の奥に溜まっていた腐臭を吐き出すように大きく息を継いだ。 「急にどないしたん?遥さんゲテモノ喰いなん?」 「ちゃうけど…なんやろ…自然な食べものに思えたん…。」 「…。」  外の灰色の霧は先ほどよりも密度を増し、視界の端を白く塗り潰していく。やがてそれは、皮膚にまとわりつく冷たい雨へと変わっていった。 「どわ!最悪やな!!!??踏んだり蹴ったりやんけ!?」 「小都ちゃんあっち…。」  遥は小都華の手を握ったまま、霧の奥に瓦屋根の輪郭を見せていた建物へと駆け込んだ。入り口には、塩害で文字の欠け落ちた「郷土資料館」という木札が掲げられていた。 「すんまへん!誰かいませんかぁ!いませんね!入りますね!!」  重いガラス戸を引くと、乾いた古い紙の匂いと防虫剤の香りに混じって、やはりあの海底の泥のような冷え切った空気が二人を迎え入れた。  館内には照明が点いておらず、外から差し込む濁った光だけが、所狭しと並べられた展示物を亡霊のように浮かび上がらせている。  一見すると、展示は非常に理路整然と整っていた。入口から順に「古代の海神」「浦島と帰還」「蛭子と葦舟」「潮迎え」「異国の祈り」「近代観光」という年代順のセクションに分かれている。 「慶長年間の潮迎え」とされるひび割れた木札の横には、明らかに明治以降の写真印刷の技術で刷られた少女の肖像が添えられている。  「享保の舟霊祭」と説明された色褪せた絵図には、舟霊の祠の背後に、まだこの町へ伝来していないはずの魚の尾を持つ聖母像が堂々と描かれている。 「明治十二年の寄り神記録」の展示には、既に昭和期の藤宮伊衛門の写真と同じ、黒光りする小舟が写り込んでいた。 「昭和三十年代の観光展示」のパネルには、古い伝承を紹介する口調で『選ばれし乙女は自ら潮へ還り、町に戻りの福を招いた』と美しい活字が掲げられている。  古い記録ほど、内容は短く、木札には「潮入る」「名戻る」「戸ひらく」など、何のための儀式なのか分からない単語だけが墨で記されている。  対して新しい記録ほど、文章は美しく装飾される。「海に選ばれた乙女」「古来からの婚礼」「家族再会の祝福」。  外部の読者が一切の疑問を抱かないように、すべてが綺麗に整えられている。 「…これ。」  遥が、部屋の中央に置かれた木造の小舟を指差した。  船首には不気味な幾何学模様が彫り込まれ、全体が黒い漆のようなもので塗り込められている。底からは、ねずみではない、もっと硬い小さな爪が内側から木を引っ掻くような、微かな摩擦音が絶え間なく響き続けていた。  その横に立てられた説明書きには、『反魂舟…陀金様への供物。潮迎えの器を乗せ、境界を渡る』とあった。  別の展示ケースには「潮の嫁」「戻りの乙女」「海の親へ名を戻す」という言葉と共に、婚礼の道具らしきものが並べられていた。  小都華は一瞬、それがハレの日の花嫁道具だと思いかけた。  だが、ガラスケースの中にあるのは、紅白の美しい祝具ではない。  黒く重たい腹帯、海水を吸って灰色に変色した濡れた白布、魚の骨を削り出した鋭い櫛、誰のものか分からない名札、潮で膨らんだ分厚い帳面、そして身体を測るための麻紐ばかりだ。  月彦のような知識がなくとも、小都華は身体の底から湧き上がる生理的嫌悪で理解した。  これは、一般的なハレとしての結婚でも祭りでもない。  もっと機械的なシステムとしてのものであるのを本能的に理解した。 ㉒  遥は、小都華が展示品の狂気に気づき息を呑んでいる間、吸い寄せられるように壁際の小さな展示スペースへと歩みを進めていた。  そこには、幾つかの写真が綺麗に飾られていた。  遥の呼吸が、微かに浅くなる。  震える指先が、冷たいガラスケースの表面をなぞる。  写真の端、額縁の裏側に回り込むようにして書かれた小さな添え書きの文字が、遥の網膜に焼き付いた。 (思い出した…。) 『3歳 遥はじめての海。』 『7歳 遥七五参 神の子から現世へ』 『12歳 選ばれし乙女の潮が満ちる』  その文字を認識した瞬間、遥の脳裏で、冷たい波の音が大きく崩れる音がした。 (…ウチはここで生まれたんや…。)  遥は、あの日蔭洲升に行く事を拒否し、海の神の怒りに触れ両親を海で失い、自分一人だけが生き残ってしまったのだ。  自分のせいで…。  両親がなぜ自分を蔭洲升に呼ぶのか分かった。  あの日…蔭洲升に帰り、乙女として、神の子を産むのを拒否したから。  自らの存在の輪郭が、黒いインクのように滲んで消えていく。  罪悪感から記憶の底に閉じ込めてしまったのか…逃げられない…あの鉛色の海に飲み込まれる。  逃げる事は許されない…両親におっ被せてきた借りを今こそ帰すべきなのだと。 「…いやや。」  遥の口から、掠れた息の音が漏れた。  足元の床板が、まるで水面のように揺らいで感じられる。自分が今立っている場所が、現実の地面なのか、それとも海の底に沈んだ泥の上なのか、もはや彼女の平衡感覚は完全に失われかけていた。 ㉓ 「なんや、顔色悪いで?」  不意に、横から響いた小都華の声は、このカビと塩気に満ちた淀んだ空間にはひどく不釣り合いなほど、張りがあって輪郭がはっきりとしていた。  遥が顔を上げると、小都華は腕を組み、眉間に深い皺を寄せてこちらを睨みつけていた。 「あんな気味悪い魚、食べ損ねてショック受けとるんか? アホらしい。あんなん食べたら、確実にお腹壊すで?」  小都華の口調は乱暴だったが、その奥にある不器用な生活の手触りが、遥の凍りつきかけていた意識の表面に小さな波紋を広げた。  遥は、過去の少女達の写真が並ぶ薄暗いガラスケースからゆっくりと身を離し、展示室の暗がりに置かれた古い長椅子に腰を下ろした。  膝を抱え、自身の冷え切った腕を強く摩る。短く重い息を吐き出した。 「思い出したんよ…全部…全部…違う…嘘や…そんなわけ…。」  遥が自身の思い出したものを無理矢理否定しようとブツブツと言葉を吐き出し否定しようとしていた。  薄暗い空間に、蝉の鳴き声はない。  遠くから聞こえる、重く規則的な波の音だけが、遥の言葉の隙間をねっとりと埋めていく。 「帰りたい…おばあちゃん。」  小都華がしゃがんで遥を見据える。 「任しとき、ウチと仲間が責任持って遥さんばっちゃんとこ帰したる。」 「アタシもいるの忘れないで欲しいんだよねぇ。」  小都華の背後からクダモンが顔を出した。 「なんや、今まで顔出さんかったのにやけに強気やないか。」 「ここ気持ち悪くて…ちょっと小都華の影の中にゲロを…。」 「なっ!?きっちゃないわ!」  小都華とクダモンのやり取りを見て遥が笑みを漏らした。 「ほんま、小都ちゃんおもろい子やな。」  それを見て小都華とクダモンも笑い返す。 「おもろいだけやないでめっちゃ頼りになるんやで、ウチめっちゃタフやし。  ほら、行こか。さっさと出口探して帰ろや。」  小都華が立ち上がり遥に手を差し伸べる。  今度は、遥からもしっかりとその手を握り返した。 ㉔  小都華に当てられ、遥の瞳に宿っていた暗い靄がわずかに晴れた。  だが、二人を包み込む郷土資料館の空気は依然として重く、古い木材が吸い込んだ腐海のような匂いが肺に纏わりついてくる。 「…ま、とりあえずここも長居する場所やないな。  出口…こっちに来るとき赤トンネル潜ったけどやっぱ行くならそこよろうけど…如何せん場所がなぁ…。  遥さんはこっちどうやって来たん?」 「ウチも気付いたらここいたから…どうやろ。」 「コトカ、あっちあの突き当りにあるアレ町図じゃない?」 「おっそれっぽいやないか、なっ?ウチの仲間めっちゃ頼りになるやろ。」  へへっと自慢げなクダモンを見て、せやね。と遥も笑いながら返したそこには最初の作った笑みはなかった。  クダモンが促し、二人は暗い展示室の奥へと進んだ。  町図のある手前の部屋が、少しだけ開いた裏口の引き戸があった。  そこから漏れ聞こえてくるのは、低く、波の音に似た単調な呟き声だった。  小都華はそれに素早く気付き、足元にクダモンを控えさせ、引き戸の隙間からそっと外を覗き込んだ。遥もその背後から息を殺して覗き見る。  そこには、町ですれ違った灰色の服を着た住民達が十数人、等間隔で円を描くように集まっていた。  広場の中央には、先ほど展示室で見た『反魂舟』と同じ黒塗りの小舟が置かれている。舟の周囲には、ひどく生臭い匂いを放つ古い漁網や、深海魚の鋭い骨が幾重にも張り巡らされ、海水を吸った白布が天蓋のように重く吊るされていた。  誰も乗っていないはずの舟の底から、硬い爪が内側から木を掻くような音が、こつり、こつりと絶え間なく響き続けている。  住民達は何かを祈るように首を垂れているが、その口から漏れるのは明確な言葉の形を成していない。ただ、息を吸い、吐き出す音だけが、海鳴りのように響き合っている。 「…潮が、満ちる」  不意に、集団の中心に立っていた一人が、水底から響くような声で言った。  それは藤宮食堂で出会った、あの背中の曲がった青白い顔の店主だった。 「次の器は、ええ器や。あの黒い煮汁に、箸をつけた。腹ん中に、潮の匂いを覚えとる」  その言葉に、他の住民達の巨大な眼球が、一斉に不規則に動いた。まばたきをしない瞳が、歓喜とも欲望ともつかない湿った光を放つ。 「戸口が開く。海の親へ名を戻す。」 「次の潮で、我ら陀金…を現世に。」  彼らの祈りは、表面上は古い婚礼の祝詞のようにも聞こえる。「戸口」「足跡」「名を戻す」という単語だけが延々と繰り返されていた。  小都華は、背筋を這い上がる圧倒的な悪寒と共に理解した。  「…行くで。」  小都華が遥を連れ、静かに音を立てず部屋の前を進んでいく。  声を殺しても漏れ出る息が致命的になるような自身の心臓の音も煩わしく思えた。  短い…時間にして5秒もあるかないか、だが小都華達には数時間にも及ぶような長さに感じた。  戸口の奥から自分達の視覚から完全に外れた瞬間、静かに小都華と遥が息を吐きだし達成感から静かに笑いあった。 「なるほどな…古いけど分かるっちゃ分かるわな。  こっから…北…やっぱトンネルから出るのが確実やな。  クダモンしっかり覚えとき。」 「うぃ~。」  クダモンの緩い声と裏腹にデジモンの特徴であるデータ解析により精密に記憶した。  遥がえらいえらいとクダモンの頭を撫でるとクダモンも気持ちよさそうに喉を鳴らした。  弛緩した空気…しかし、それは一瞬で打ち砕かれた。生臭い腐臭が小都華達の鼻腔を犯し、次に聞き覚えのある、ここでなんども聞いた粘性のある水音が聞こえた。 「乙女が…胎が逃げる事は…許されぬ。」  どろりとした、海藻の腐臭を煮詰めたような声が引き戸の隙間から漏れた瞬間、小都華の全身の産毛が総毛立った。見つかった。  その絶対的な絶望を、彼女は持ち前の直情的な気性と怒りで強引に塗り潰した。 「クダモン…!!! 進化や!!!!」  小都華の叫びに応え、クダモンの小さな身体から眩い進化の光が弾けた。  それは蔭洲升のじめじめとした湿気と暗闇を切り裂く、絶対的な神聖の輝きだった。八枚の純白の翼が広がり、女性型の美しい天使、エンジェウーモンが郷土資料館の淀んだ空気に顕現する。 ㉕ 「だしゃあああああああああああ!!!!!!!!!」  エンジェウーモンの放った強烈なが、迫り来る青白い住民の顎を打ち砕き、そのまま引き戸ごと資料館の壁面を粉砕した。  爆音と共に木材が吹き飛び、外の灰色の霧が室内に流れ込んでくる。 「おらぁッ! ウチらに気安く触ろうとすな、変態どもが!」  小都華もまた、自らの両手の指の関節をバキバキと鳴らしながら、眼前の異形どもに向けて力強く啖呵を切った。  一撃で吹き飛ばされた蔭洲升の住民は、黒い泡となって床に崩れ落ちた。  優勢に見えた…だが、それはほんの一瞬の錯覚に過ぎなかった。  ぶくぶく、と音を立てて崩れた泡の中から、再びぬらぬらとした巨大な眼球が浮かび上がり、輪郭を再構築していく。  倒しても倒しても、彼らはデジタマには戻らず、ログを残さない泥の塊のように、ただ「器を孕ませる」という共同体の執念だけで這い上がってくる。 『器が、逃げる』 『次の潮が、もうすぐ合うのに』  資料館の外、灰色の霧が立ち込める路地から、ガニ股で跳ねるような足音を立てて、無数の住民達がゾンビのように群がり寄ってきた。  彼らの巨大でまばたきをしない眼球は、エンジェウーモンの神聖な肉体や小都華の若々しい肢体を嘗めまわすように見ている。 「…チッ、キリがないわ!」  エンジェウーモンが舌打ちをする。彼女は背中の八枚の翼を羽ばたかせ、空へ逃れようとした。  だが…翼が動かない。蔭洲升の呪われた空気が、彼女の純白の羽毛に目に見えない重い海水を吸い込ませ、その飛翔を完全に封じ込めていたのだ。  地の利は完全に相手にある。数の暴力と、呼吸をするたびに肺を犯す潮の匂いが、次第にエンジェウーモンを押し込み始めていた。 「チッ…!しゃあない、走るで!」  小都華は逃走を決断した。彼女は怯えてへたり込む遥の膝下に腕を差し入れて軽々とお姫様抱っこし、同時に背中へ小都華をおんぶする形で背負い上げた。 「しっかり掴まってな!」  エンジェウーモンは、迫り来る無数の青白い手を蹴り散らしながら、資料館の崩れた壁から灰色の霧が渦巻く外へと飛び出していった。 ㉖  灰色の霧の中を、エンジェウーモンは疾走する。  目指したのは、王港町へと通じるはずのあの赤レンガのトンネルであった。  彼女のしなやかで力強い脚が黒ずんだ地面を蹴り、驚異的なスピードで入り組んだ路地を駆け抜けていく。  だが、背後からは堕子達が、カエルのような跳躍と異様な速度で執拗に追従してきていた。 『器よ』『名を戻せ』『胎を開け』  耳を塞ぎたくなるような、読経とモデムノイズが混ざった卑猥な呪詛が、背中にねっとりと張り付いてくる。  木立の中へ逃げ込んだ瞬間だった。木々の陰から、あるいは古い舟屋の隙間から、ぬめる住民達の腕が、まるでゴムのように異常な長さまで伸びて襲いかかってきた。 「キショい手ぇ伸ばしてくんな!」  エンジェウーモンは遥と小都華を抱えながら、アクロバティックな身のこなしで無数の腕を躱していく。だが、伸びてくるのは腕だけではなかった。  住民達の大きく裂けた口からは、表面がザラザラとした肥大した舌が蛇のように飛び出し、さらに彼らの股間からは、どす黒い粘液を滴らせた太く蠢く陰茎が、意思を持った触手のように何本も伸びてきたのだ。 「きゃあっ!?」  エンジェウーモンの悲鳴が響く。  躱しきれなかった触手の一本が、彼女の太腿に絡みついた。鋭い爪を持った別の腕が、彼女の身体を覆う神聖な白いボディスーツに容赦なく爪を立てる。  絹を裂く音と共に、エンジェウーモンの衣服が破られた。  拘束を振りほどいて走り続けるものの、ダメージを受けるたびに彼女の衣装は無残に千切れていく。  左胸を覆っていた布が大きく裂け、豊満で弾力のある乳房が冷たい霧の中にこぼれ出た。露出した先端のピンク色の乳首が、冷気と恐怖によってツンと硬く尖り上がる。  さらに、下腹部へと伸びてきた触手状の陰茎が、彼女の股間を覆う布を布地ごと引き千切った。  神聖な天使の証であるはずの肉体が、無残にも暴かれる。純白の肌の下で、柔らかな陰毛が外気に晒され、住民達の性的な眼球にじっとりと舐め回された。  誇り高き天使が、牝としての辱めを受け、羞恥に頬を赤く染めながらも走らざるを得なかった。  その姿は、見る者の情欲を異常なまでに煽り立てる官能的な美しさを放っていた。  前方に、かすかに赤レンガのトンネルのアーチが見えた。 「トンネルや!気張りエンジェウーモン!あそこまで行けば…!」  小都華が背中で叫ぶ。助かるという期待が、三人の中に一瞬だけ光った。  だが、蔭洲升がそれを許さなかった。  トンネルまであと十数メートルというところで、エンジェウーモンの踏み出した足元の地面が、突如として底なしの泥沼へと変質した。 「しまっ…!」  泥の中から、数え切れないほどの青白い腕と、ぬらぬらと光る陰茎の触手が這い出し、エンジェウーモンの両足首に幾重にも絡みついた。  バランスを完全に崩したエンジェウーモンは、遥と小都華を抱えたまま、冷たく腐臭のする黒い泥の上へと無防備に投げ出された。 ㉗ 「あぐっ…!」  泥に塗れ、咳き込む小都華達の周囲を、這い寄ってきた堕子達が完全に包囲した。  巨大な眼球の壁が、彼女達を逃げ場のない絶望の檻へと閉じ込める。 『本命の器に、傷をつけるな。』  住民達の冷たい手が、泥だらけになった遥の四肢を掴み、乱暴に、しかし「商品」を扱うような正確さで押さえつけた。遥は抵抗しようとするが、圧倒的な膂力と粘液の重さに身動き一つ取れない。 『本命の前に、戸口を清める…。』 『予備の器も、潮に馴染ませる…。』  堕子達の視線が、遥から、泥に這いつくばる小都華と、衣服をほとんど剥ぎ取られたエンジェウーモンへと移った。  遥という本命の儀式の前に、彼女の友人達を「予備の肉」として凌辱し、その尊厳を徹底的に破壊することで、遥の心を完全にへし折る腹なのだ。 「何すんねん…触んな!キショいんじゃ!!」  小都華が蹴りを放つが、複数の腕が彼女の足首と手首を冷たく強固に拘束し、大の字に押さえつけた。  小都華の着ていたシャツが、鋭い爪で無残に引き裂かれる。さらに、白いショートパンツと下着が一度に引き剥がされ、彼女の健康的で瑞々しい裸体が、死肉色の光の下に完全に晒された。 『ええ胎や…丈夫なややこを孕める。』  這い寄る堕子の股間から、血管の浮き出たどす黒い陰茎が、意思を持つ巨大なミミズのようにぬるりと伸びてきた。  触手状に伸びたそれは、冷たい粘液を滴らせながら小都華の太腿を這い上がり、無防備な秘所の周囲を執拗にこすり始める。同時に、別の堕子の口から飛び出した肥大した舌が、小都華の露わになった胸の膨らみを舐め上げ、硬く縮み上がった乳首にザラザラとした感触を擦り付けた。 「ひっ…!? や、やめ……あぁっ!」  生理的嫌悪感で胃液が込み上げてくる。しかし、堕子達の愛撫はただの暴力ではなく、人間の神経構造を熟知したかのように正確で、執拗だった。  冷たい粘液が秘所の襞に塗り込まれ、敏感なクリトリスを触手状の陰茎の先端が細かく弾く。ザラつく舌が乳輪を責め立てるたび、小都華の脳裏を埋め尽くしていた怒りが、強制的に引き出される快感のノイズによって白く濁っていく。 「こんなバケモノ相手に…ウチ、何で…っ、ぁあっ、あぁんっ!」  嫌悪しているはずなのに、若く健康な肉体は逆らえず、下腹部に甘い熱が灯り始める。腰が勝手に浮き上がり、秘所からは屈辱的な愛液が溢れ出し、泥と混じり合っていった。  一方、エンジェウーモンもまた、神聖な天使としての誇りを完全に粉砕されていた。  ほとんど全裸にされた彼女の四肢は、泥から突き出した無数の腕によって地面に縫い付けられている。  彼女の豊満な尻が、無慈悲な手によって大きく左右に押し広げられた。  そこに狙いを定めたのは、最も太く、悍ましい粘液を垂れ流す触手状の陰茎だった。 「いや…っ、そこはダメ…! 汚らわしい…ああっ!」  冷たく生臭い粘液が、これまで誰も触れたことのない無防備なアナルへと滴り落ちる。触手の先端が、肛門の細かい皺をなぞるように執拗に弄り回し、やがて、ぬるりと、その固く閉じられた括約筋の入り口を押し広げ始めた。 「あぁっ、あぁああぁっ……!」  アナルを開発されるという凌辱。神聖なデジコアの奥底が、汚泥で犯されていくような冒涜的な感覚。しかし、その圧倒的な屈辱と痛みの裏側から、しびれるような背徳の快感が這い上がってくる。エンジェウーモンの白い肌は羞恥と情欲で真っ赤に染まり、大きく開かれた口からは、天使らしからぬ淫らな嬌声が絶え間なくこぼれ落ちていた。 「やめて…お願い、小都ちゃん!!!ッ!」  泥に押さえつけられた遥は、目の前で繰り広げられる地獄に泣き叫んだ。  自分のせいで。自分がこの呪われた海に引かれてしまったせいで、大切な友人と相棒が、バケモノ達の慰み者にされ、そして抗えぬ快楽に屈服して堕ちていく。  住民達の生臭い息遣い、粘液が肉を叩く卑猥な水音、そして小都華達の甘い喘ぎ声が、遥の精神を漆黒の絶望で塗り潰していく。  もはや、ここには救いなどない。尊厳を削り取られ、ただ海へ帰るための「器」となるしかないのだという絶望が、遥の青い瞳から完全に光を奪い去ろうとしていた。 ㉘  泥まみれになりながらも、小都華の瞳から反抗の意志は消えていなかった。  無数の腕に押さえつけられていた拘束が、エンジェウーモンへの凌辱へと住民たちの意識がわずかに逸れた一瞬の隙を突き、小都華は渾身の力で身体を捻った。 「離せやッ……!」  水掻きのある青白い手を蹴り飛ばし、彼女は全裸のまま黒い砂浜を這いずるようにして逃げ出した。泥にまみれた健康的な白い背中と柔らかな臀部が、冷たい外気に晒されて粟立つ。王港町の神社で鍛えたしなやかな筋肉を軋ませ、ただひたすらに、あの生臭い地獄から遠ざかろうと泥を掴んで前へ進む。  だが、蔭洲升の海は、逃げる器を決して見逃しはしなかった。 「あぐっ……!?」  背後から、氷のように冷たく濡れた手が彼女の足首をガッチリと掴んだ。  人間の腕力ではない。万力のような力で引きずり戻され、小都華の身体が黒い泥の上を無惨に滑っていく。 「いやっ、やめろ……放せ!!」  必死に地面を引っ掻くものの、爪の間に泥が詰まるだけで抗うことはできない。彼女は強引に仰向けにされ、再び大の字に四肢を泥へ縫い付けられた。  彼女を見下ろすのは、表情を欠いた青白い住民たちの、巨大でまばたきをしない眼球の壁だった。 『元気な胎や。丈夫なややこを産む』  言葉の代わりに、気泡が弾けるような不気味な息遣いが落ちてくる。  住民の一人が、小都華の顔の上に覆い被さった。その股間からは、どす黒い粘液を滴らせる太い陰茎が、意思を持った触手のようにぬるりと蠢いて伸びてきた。  炎天下で腐った海藻と鉄錆を混ぜ合わせたような強烈な悪臭が鼻腔を犯す。 「んぐっ……!? やっ、んんっ!!」  青白い手が小都華の顎を外れんばかりの力で掴み、強引に口をこじ開けた。そこへ、熱を持った生臭い触手が無慈悲に挿入される。  舌の根を押し潰し、気管を塞ぐように深く突っ込まれた触手が、口腔内でまるで別の生き物のようにうねり、ザラついた表面で粘膜を削るように擦り上げた。 「おぇっ、がふっ……んぐ、ちゅるっ、んんんっ!!」  生理的な嘔吐感が胃の腑から込み上げるが、顎を固定されているため吐き出すこともできない。気道を塞がれる息苦しさと、異物を無理矢理しゃぶらされているという圧倒的な屈辱。小都華の口角から、粘り気のある涎と怪異の体液が混ざり合ってだらしなく垂れ落ちる。  だが、陵辱はそれだけでは終わらなかった。  上半身を犯され、身悶えする小都華の無防備に開かれた股間に、別の住民の巨大な触手状の陰茎が迫っていた。  それは挿入こそしなかったものの、たっぷりと粘液を纏った太い先端を、小都華の秘所の入り口とアナルの細かな皺に同時に押し当て、強烈な圧で上下に擦り上げ始めた。いわゆる素股の要領で、彼女の最も敏感な部分を執拗に蹂躙し始めたのだ。 「んんっ……!! ひぎぃっ、あ、あぁんっ!」  泥だらけの太腿が痙攣し、腰が勝手に跳ね上がる。  筋肉フェチで脳筋気味、常に「怒り」と「物理」で解決しようとしてきた気の強い少女の自尊心が、化け物がもたらす強制的な快楽のノイズによってドロドロに溶かされていく。  抵抗しようにも、クリトリスを的確に弾き、アナルの襞をこする卑猥な摩擦熱が、彼女の健康的な肉体に抗えぬ下劣な快感を与えてしまう。 「うぅっ……いや、ウチ、こんなバケモノ相手に……っ、あぁあっ!」  感じたくなどない。それなのに、下腹部の奥で甘い熱が渦を巻き、秘所からは彼女の意志とは無関係に、とめどない愛液が溢れ出していく。自らの体が分泌した恥ずかしい蜜が、太腿を伝って冷たい黒泥と混ざり合う。  誇り高き意志が肉体の快楽によって屈服させられる悔しさと、尊厳を根こそぎ剥ぎ取られる絶望。小都華の大きな瞳から、大粒の悔し涙がボロボロと溢れ落ち、泥まみれの頬を濡らした。 『奥まで、潮を通す……』  口腔を犯され、下半身を責め立てられ、完全に抵抗の意志を砕かれかけた小都華。  ついに、秘所の入り口で滑っていた極太の先端が、その奥にある処女膜を破らんと、ぬめりを帯びて垂直に押し当てられた。 (アカン……誰か、助けて……月彦……ッ!!)  絶望に目を固く閉じた、最悪の瞬間だった。 ㉙ 「その人から離れろォォオオオッ!!」  ガラスを硬い金属で叩き割ったような、耳障りな破裂音が空間を引き裂いた。  小都華の秘所を貫こうと覆い被さっていた住民の頭部に、灰色の霧を突き破って飛来した何かが、深々と突き刺さったのだ。 「ギャッ…!?」   住民の青白い頭蓋が、まるで熟れた果実のように無惨にカチ割られた。  頭蓋に食い込んでいたのは、デジモンの組成を破壊する赤い呪符がびっしりと巻き付けられた、一振りの重厚な鉈だった。  呪符から青白い閃光が弾け、頭を割られた住民は血の一滴も流すことなく、どろりとした黒い泡となって小都華の身体の上から崩れ落ちた。  空間の裂け目から響いたのは、獣のような、殺意に満ちた低い咆哮だった。  そこに立っていたのは、普段の猫背でオドオドした、吃音混じりの弱気な少年ではない。怒りで目を血走らせ、圧倒的な暴力の気配を全身から立ち昇らせた修羅、夜光月彦だった。  自分が誰よりも大切に想っている少女が、悍ましい泥と化け物どもに蹂躙され、涙を流している。その光景が、月彦の中にある理性という箍を完全に焼き切っていた。 「かはっ、げほっ、はぁっ……!」  口内を犯していた触手が消え、小都華は激しく咽せながら新鮮な空気を肺に吸い込んだ。涙で霞む視界の先、トンネルから続く空間が、物理的な質量を伴って縦に引き裂かれているのが見えた。  月彦は裂け目から黒い砂浜へと飛び降りると、崩れた泥の中から鉈を引き抜き、迫り来る別の住民の胸ぐらを掴んで無慈悲に刃を叩き込んだ。 「月、彦…?」  小都華が震える声でその名を呼ぶ。月彦の背中が、今の彼女には何よりも頼もしく、巨大に…そして、恐ろしく見えた。  だが、獲物を横取りされた住民と達が、怒り狂ったように月彦へと一斉に群がり寄る。 「ふふ…我が弟を怒らせるとはね。後悔する暇も与えないよ」  月彦の背後、空間の裂け目から、白い日傘を畳んだ伽夜子が優雅な足取りで現れた。彼女は薄く青みがかった瞳を冷酷に細め、扇子をバサリと鋭く開く。 「ブシアグモン殿! ここは手加減無用、塵一つ残さず焼き払いたまえ!」 「応よ!!!」  伽夜子の叫びに応え、ブシアグモンの身体が爆発的な炎の渦に包まれた。  超進化の光が蔭洲升の死んだ空気を焦がす。炎の中から姿を現したのは、一回りも二回りも巨大化した竜人型の武者、完全体デジモンゴウカガクグレイモンだった。  背中から猛烈な業火を噴出させ、左手は巨大な炎の手と化している。そして右手には、緩く包帯の巻かれた巨大な斬馬刀が握られていた。 「我は炎、我は刃! 貴様ら如き有象無象、燃え滓すら残さん!!」  ゴウカガクグレイモンが地を蹴り、巨大な斬馬刀を上段に構える。 「万象一閃灰塵とかせ!!」  振り下ろされた斬馬刀から、業火の泥流と見紛うばかりの凄まじい斬撃の波が解き放たれた。  炎の波濤が黒い砂浜を舐め尽くし、月彦と小都華を囲んでいた住民の群れを瞬時にして呑み込む。  断末魔すら上げる間もなく、彼らを構成していた不純なデータが圧倒的な熱量によって炭化し、文字通り塵となって吹き飛ばされた。炎の熱波が、肌を刺すような冷気と腐海のような悪臭を強引に蒸発させ、周囲にぽっかりと安全な空白地帯を作り出す。  その炎の壁の隙間を縫うようにして、月彦が泥だらけの小都華のもとへと駆け寄ろうと瞬間、トンネルの境界から呼ばれざる客を除外するように蔭洲升の海の水が触手のように溢れ出て月彦達を絡め捕り、小都華達と分断しようとした。  「…ッ!!!!」 ㉚ 「小都華さん!!」 「ええから! ウチはええから!!!遥さんを…!」  強がる小都華の声は、恐怖でひどく震えていた。  空間が締まる瞬間、コヅキガルルモンが回収した遥を月彦が現実側に引っ張り上げた。 「そでれええ…。」  空間が閉じ、小都華のみが蔭洲升に取り残された…。  だが、月彦は一秒の迷いもなく、空間に再び自らの右腕を深く突っ込んだ。  黒い水が月彦の腕を焼き、皮膚を溶かすような激痛が走る。それでも彼は顔をしかめるだけで、小都華の手首をがっちりと掴み、強引に引き引き抜いた。  小都華の指先が月彦の手を握り返した瞬間、言葉は要らなかった。痛みよりも、手を離すことの方が遥かに恐ろしかった。 「月彦…!」  小都華は、彼の名を呼び捨てで叫びながら、トンネルのこちら側へと転がり込んだ。  背後で、あの生臭い波の音が狂ったように荒れ狂い、空間が完全に閉ざされる。  だが、トンネルへ飛び込む直前、伽夜子の鋭い視線は、遥の黒い衣服の裾から滴り落ちる、墨汁のように黒い水滴を見逃さなかった。  現世の干渉で一時的に引き戻せただけで、遥の存在情報の輪郭は、まだあの海に半分浸かったままだ。完全には、取り戻せていない。  トンネルの冷たい闇を抜け、暴力的なまでの真夏の光が視界を白く染め上げた。 「はぁっ…、はぁっ…!」  王港町側の入り口に転がり出た小都華は、コンクリートの地面に両手をつき、むさぼるように空気を吸い込んだ。  肺に入ってくるのは、あの腐った海藻の匂いではない。アスファルトの熱気と、潮風の爽やかさ、そして鼓膜を揺らすような蝉時雨だ。 「…戻って、これたんやな…。」  小都華が顔を上げると、真っ青な空と、白く輝く波止場が広がっていた。生きている世界の色だ。 「べタモン!」  遥がぐったりとしているべタモンを抱きかかえた。 「よぅ…へへ、案外元気そうじゃねえか。  俺も見た目と違って…っ案外元気だぜ。」 「こん子は本当に…無茶して。」  月彦が無言で小都華に来ていた羽織を着せる。 「お…おうあんがとな。  なんや、その顔今にも泣きそやないか。なんで君が泣きそうなんやねん!!ってな。  いや、ウチは案外大丈夫やったで!ウチひとりでもあんな連中全員チンポコ引き千切ってやったんにな!」  見てられず笑いかける小都華を月彦が抱きしめ頭を撫でた。  「いいんです…。もう大丈夫ですから。」  張り詰めていた緊張の糸が一瞬にして切れた、小都華は普段の強がりも忘れ、月彦にすがりつくように抱きついて泣き崩れた。 「ぐすっ…怖かった…ほんまに、怖かった…!」  数秒後、我に返った小都華が顔を真っ赤にしてバンッと月彦の胸を押し返し、「な、なんやねん! ちょっと足滑らせただけやし!」と照れ隠しに怒鳴ったが、月彦の手もまた小刻みに震えていることに気づき、二人は互いに視線を逸らした。 「怪我はないかい、小都ちゃん、遥君」  伽夜子が日傘を差し掛けながら、優しく声をかける。  遥は地面に座り込んだまま、腕の中のベタモンを強く抱きしめ、無言で頷いた。  伽夜子は、トンネルの入り口近くにある小さな地蔵と祠の前に歩み寄り、懐から青白い御札を取り出した。 「少し、応急処置をしておこうか。」  伽夜子は、簡易の汐鎮めの術式を施し、御札を祠に打ち付けた。  札が青白く燃え上がり、トンネルから漏れ出していたじめじめとした湿気が、一時的にフッと引いていく。 「ふむ。これで、表層の潮筋は塞げたはずだよ。土地の寄り神も、まぁ少…静まっただろう」  伽夜子の言葉に、小都華は安堵の息を吐く。  だが、月彦だけは、眼鏡の奥で鋭い視線を遥の足元に向けていた。  札が効いたというのに、遥の衣服から落ちる黒い水滴が、依然としてアスファルトに小さな染みを作り続けている。 (…おかしい。寄り神を鎮める手順を踏んだのに、干渉がまだ残ってる…?)  月彦の胸中に、決定的な違和感が芽生え始めていた。 「とりあえず、安全な場所まで移動しよう。  せっかく戻って来たのに熱中症でみんな病院送りになったなんて笑い話にもならないからねぇ。」  伽夜子の提案に、一行は足を引きずるようにして、賑やかな商店街へと向かった。  行き交う人々、氷を砕く音、漁師の威勢のいい声。  日常の喧騒が、先ほどまでの異常な静寂と死の気配を、少しずつ中和していく。 「あ〜これや! これ! これが生きてるってもんや!」  小都華は冷えた缶ジュースを自動販売機で買い、ひんやりとしたアルミの感触を頬に押し当てて、ようやく自分が生きて現実世界にいることを実感した。 ㉛  王港町に戻った一行は、日も落ちかけている事もあり遥の家に身を寄せた。  海沿いの路地の突き当たりにある古い平屋の引き戸を開けると、微かな線香の香りに被い被さるように、むせ返るような日常の生活臭が小都華の鼻腔をくすぐった。 「遥…よぉかった…心配したんやえ。伽夜子さんから事情は聞ぃたほんまよう戻ってきた。」  台所の奥から小走りで現れた祖母の顔には、安堵の皺が深く刻まれていた。その背後からは、トントンと小気味よい包丁の音が途切れた余韻と、醤油と出汁の焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。  居間に通されると、首を振る古い扇風機が「ジーッ」と単調な機械音を立てながら、生温い夜風をかき回していた。開け放たれた縁側の向こうからは、遠くの波音と、庭の植え込みで鳴く虫の声が聞こえる。  ちゃぶ台に並べられたのは、生きている人間のための食事だった。  湯気を立てる豆腐とわかめの味噌汁。こんがりと鯵の煮物。炊きたての白いご飯に、氷水で冷やされた真っ赤なトマト。煮物、蛍光灯の光を受けて瑞々しく輝いている。  蔭洲升の藤宮食堂で見た、あの墨汁のように黒く濁った煮汁と、死してなお粘液のように脈打つ悍ましい肉塊とは対極にある、確かな温度と色彩を持った「生者の食べ物」だった。 「うわ、めっちゃ美味そう! いただきます!」 「すみませんねぇ、寝床だけでなく夕食までご馳走になってしまって。」  小都華は遠慮する素振りも見せず、両手を合わせてから勢いよく白米を掻き込んだ。鯵の身を箸でほぐし、味噌汁で流し込む。咀嚼するたびに、口の中に広がる確かな塩気と旨味が、恐怖で縮こまっていた胃袋を内側から力強く押し広げていく。 「美味しいわぁ。これ、ほんま生き返るやつや」  小都華が口いっぱいに頬張りながら言うと、祖母は目を細めて嬉しそうに笑った。 「よう食べる子やなあ。おかわり、お櫃にまだぎょうさんあるえ」  その対面で、遥はまだ半分夢の中にいるような虚ろな瞳で、自分の茶碗を見つめていた。蔭洲升の重い湿気と、両親の声を騙る影に魂を削り取られた疲労が、彼女の輪郭を薄くしている。  だが、食卓の下で「おいハルカ、俺にもその緑の丸いやつ食わせろよ!」と騒ぐベタモンの頭を軽く小突いた後、遥はゆっくりと箸を取った。 「小都ちゃんさん、ほんまよう食べはるなあ…」  呆れたような、それでいてどこか安心したようなおっとりとした声。遥は冷えたトマトを一口齧り、小さく息を吐いた。鮮烈な酸味と甘みが、乾ききっていた口腔の粘膜を潤す  小都華が二杯目のご飯をよそいながら言い放つ。その圧倒的なまでの生命力に当てられるように、遥の箸も少しずつ進み始めた。  遅れて合流した月彦と伽夜子も、食卓の端に座った。月彦は、遥に対して民俗学の小難しい講義をしようとはしなかった。彼は無言で出された味噌汁を一口啜り、椀の縁に白く残った塩の結晶を指先でそっと撫でた。  ベタモンは、月彦に背鰭の傷の手当てを受けながらも、「お姉さん、いい匂いするな。お尻触らせてくれよ」と伽夜子に絡み、「尻以外の話をしたまえ」と扇子で頭を軽く叩かれていた。相変わらずの下品な軽口が、張り詰めていた食卓の空気を弛緩させ、小さな笑いを引き出す。 ㉜  夕食後、祖母が押し入れの奥から古い紙袋を取り出してきた。 「昔、遥が好きやったやつや。まだ湿気てへんやろか。」  袋の中には、色褪せた花火の束が入っていた。  小都華が「やるやる!」と乗り気になり、遥も渋々といった様子で縁側へと引っ張り出される。伽夜子も、少し離れた庭の隅からその様子を見守っていた。  庭先には湿った土の匂いと、渦巻き型の蚊取り線香から立ち昇る煙の匂いが混ざり合っていた。遠くから聞こえる波の音が、不意にあの暗い鉛色の海を連想させ、遥の背筋を冷たい手で撫で上げる。  だが、小都華がチャッカマンで点火した手持ち花火が、シュバッという音と共に激しい火花を散らした瞬間、その暗い想像は光の暴力によって断ち切られた。 「ほれ、遥さんも持ちぃな!」  火薬の焦げる強烈な匂いと、煙の煙たさ。夜の闇を食い破るように燃える小さな火が、海の気配を遠ざける確かな境界線となっていた。 「熱っ、ちょ、小都華、俺の近くで振り回すなよ!」 「小都ちゃんさん駄目ですよ…。」  火を怖がって逃げ回るベタモンを笑いながら、小都華は「こっちは湿っぽい海やなくて、ちゃんと燃える火やで」と得意げに言う。  やがて、手持ち花火が尽き、最後に残った数本の線香花火に火が灯された。  チリチリと控えめな音を立てて火球が育ち、松葉のような繊細な火花が四方へ散る。二人は縁側に並んで座り、火が落ちないようにじっと息を潜めた。  虫の声だけが響く静寂の中、遥がぽつりとこぼす。 「…ウチ、昔はこういうの好きやったんよ」  それは、海で両親を失う前の、純粋な子供としての記憶だった。  小都華は深掘りすることなく、ただ花火の火先から目を離さずに返した。 「今も好きでええやん。誰に遠慮するん」  ぽとり、と。  赤い火球が寿命を迎え、バケツの水へ落ちてジュッと短く鳴った。  遥は暗くなった庭を見つめたまま、微かに唇を噛み締めた。その横顔には、喪失の影に覆い隠されていた、年相応の瑞々しさがほんのわずかに戻っていた。 ㉝ 「久々にあん子が笑ってるのに見ました…。ほんま伽夜子さん達に頭が上がりませんわ…。」  遥の祖母が嬉しそうにぽつりと漏らした。  もちろんこれまでも遥は祖母の前で笑顔を見せていたがどこか遠慮がちなものであった。  それを今まで双方口には出さなかったが暗黙のうちに両者の共通に認識となっていた。 「いえいえ…私なんてなにも…お孫さんを助け出したのも…そう笑っているとも思われるならそれも小都ちゃんのおかげですよ。」 「はぁ…あの子が。」 「 あの子と接していればお孫さんもきっともう海に呼ばれ事もないでしょう。」 「…。」 「すみません…貴方を責めるつもりなんてないんです。  ただ、あの子は特別なんです…生きていればどこか人間には死を受け入れてしまう悪癖があります…でも、あの子は自分でもも他人でも生きる事になんの疑問も持っていない。  幾ら闇を見ようともこの世の光を信じ、それに身を任せられる太陽のような子なんです。  私事ですが、私達にも両親はいません…弟と再会できたのもほんの数年前ですし…その間に私も弟も色々とありすぎた…私達では死がこびりつきすぎている。  でも、あの子といるとどこか諦めているこの世界で生きててもいいと信じれるんです。  きっとお孫さんもあの子といれば…。」 「あん子が…。」 「ええ…。」 「失礼ですが…ほんまに?」 「?」  遥の祖母の言葉を受け、伽夜子が小都華の方を見ると口と耳にまで花火を咥え大笑いしながら月彦を追い回していた。  それを見て遥が苦しくなる程腹を抱え笑い膝をついていた。 「…まぁあの様子じゃあ、信じれねえと言うか、教育に悪そうだもんなぁ…。」  黙って聞いていたブシアグモンが呆れた顔でため息交じりで呟いた。 「小都ちゃ~ん!お姉さん今すっごいいい話してるからちょっと落ち着こうか~!」   ㉞  花火の煙と汗の匂いを落とすため、祖母に促されて二人は風呂へ入ることになった。 「小都ちゃんさん、一緒でええの?」  脱衣所で遥が尋ねると、小都華は「女同士なんやし、銭湯みたいなもんやろ」と平気な顔をしてTシャツを脱ぎ捨てた。  浴室には、むせ返るような温かい湯気がもうもうと立ち込めていた。曇った鏡、水滴がタイルを伝い落ちる音、プラスチックの洗面器が床に当たる軽い甲高い音。外の波音は完全に遮断され、家の中の密閉された生活音だけが響いている。  狭い洗い場で並んでシャワーを浴びる。湯気をまとった十代の少女達の裸体は、対照的な美しさを持っていた。小都華の身体は、日々の神社の仕事や活発な性格を反映した、健康的で引き締まった筋肉のラインが腹部や太腿にうっすらと浮かんでいる。対して遥の身体は、日光を浴びていない白磁のように滑らかで、鎖骨や肩甲骨の線がひどく細く、頼りなげだった。それでいて、胸元には女性特有の柔らかく豊かな膨らみがあり、小都華は泡立つスポンジを握りながら、無意識のうちに自分のそれと見比べて少しだけ口を尖らせた。 「遥さん、そのインナーカラーの色、めっちゃ綺麗やな。似おうてるわ」  湯船に浸かり、首までお湯に沈めながら小都華が言うと、遥は「そう?」と目を細めて笑った。 「小都ちゃんさんこそ、月彦はんと仲ええんやね」 「なっ、なんでそこで月彦が出てくるんですか! 違いますし! いや、嫌いとかやなくて!」  小都華が過剰に反応して湯船の湯をバシャッと跳ねさせる。その分かりやすい動揺に、遥は濡れた黒髪をかき上げ、隠すことなく口角を上げた。ギザギザの鮫歯が、湯気の中で妖しく覗く。 「ふふ。顔に全部出る人、ええなあ。見てて飽きひんわ。」 「遥さん、わりと意地悪やな!?」 「ウチ、腹黒いってよう言われるんよ~自覚もあるし?」  おっとりとした口調のまま、さらりと言ってのける遥に、小都華は呆れたように息を吐いた。ただの可哀想な被害者ではない。彼女の中にあるしたたかさと、年相応の刺々しさが、小都華にはむしろ心地よかった。  だが、湯船の表面で白く揺らぐ湯気がふっと晴れた瞬間、遥の横顔に深い影が落ちた。 「…ウチは、誰かを好きになるとか、そういう普通のこと、まだ残っとるんかな。」  自分だけが生き残ってしまった罪悪感。あの暗い海への自罰的な執着。それらを内臓のように抱え込んだ自分が、こんな風に普通の青春を享受する資格などあるのだろうかという、深い諦念。  しかし、小都華は即座に言い放った。 「残っとるに決まってるやろ。資格試験ちゃうねんから、誰の許可もいらんわ。」  雑で、乱暴で、けれど絶対的な肯定。  遥は目を瞬かせ、やがて困ったように眉を下げて笑った。 「小都ちゃんさん、言い方雑やけど、たまにすごい優しいな。」 「たまに言うな。常時や、常時。」  小都華は照れ隠しで顔の半分を湯に沈め、ぶくぶくと泡を立てた。 「…今度は、こんなんやなくて、普通に遊びに来るわ。」 「ふふ。それ、約束やで。」  湯気の向こうで交わされた他愛のない約束。それが、どれほど脆い氷の上に成り立っているかを、二人はまだ完全に理解してはいなかった。  風呂から上がり、バスタオル一枚で脱衣所に出た時のことだった。  祖母の家の脱衣所は、オレンジ色の温かい白熱球に照らされている。それなのに。  ――ぞくり。  不意に、濡れた素肌の産毛が総毛立つような、異常な冷気が足元を舐め上げた。  小都華が反射的に顔を上げる。  曇った鏡の奥。そこにはバスタオルで身体を拭く自分と遥の姿が映っているはずだった。だが、鏡の表面の結露が、不自然な形で丸く、いくつも剥がれ落ちていた。  まるで、無数の巨大な深海魚の眼球が、鏡の内側からこちらを覗き込んでいるかのような、不気味な魚眼の斑点。  窓の外は庭のはずなのに、すりガラスの向こう側に、一瞬だけ、海へ口を開けた黒い舟屋の暗闇が重なって見えた…ような気がした。 (…気のせいか…ウチも気にしいやなぁ…伽夜子さんが大丈夫言ってるんや。大丈夫やろ。) ㉟ 「しばらく残るんか!ほんま!?」 「ふふ、愛しの弟が気になる事があるってしばらく調べたいんだってさ。  あぁ宿は遥君のおばあ様のに幾らか包んで一週間ばかりお邪魔させてもらう事になってねぇ。」 「ウチもおばあちゃんも別にタダでも良かったのに。」 「そういって貰えるとありがたいけどねぇ…そうはいかないさ。こういったとこはしっかりしないとそれこそ失礼にあたるからねぇ。  1週間程かなぁ。」 「ええやん!みんなで遊び行こや!」 「小都ちゃん調査ですって…。」 (それに…遥君と小都ちゃんも一緒にいればだいぶメンタルへの影響もいいだろうしねぇ…小都ちゃんセラピー様々だねぇ。) 「安心したまえ!その分小都ちゃんとこの神主達にたっぷり搾り取るからねぇぐへへ…!!」  赤牟市の市立図書館は、外の暴力的なまでの真夏の熱気を完全に遮断した、冷ややかで静寂な空間だった。  カビと古いインクの匂いが漂う郷土史コーナーの奥深く。  重厚なマホガニーの机に陣取った月彦は、文字通り資料の山に埋もれていた。  丹後風土記の写本、明治期の海難事故の記録簿、そして埃を被った宗教民俗学の専門書。彼の猫背はさらに深く丸まり、薄く青みがかった白髪の天然パーマを無造作に掻き毟りながら、ノートにびっしりと細かい文字を書き連ねていた。 「…月彦」  不意に、彼の視界の端から伸びてきた健康的な白い指先が、開かれた古文書のど真ん中に「ピタッ」と何かを貼り付けた。  蛍光ピンク色の付箋だった。 「…ことちゃんさん。」  身を乗り出した小都華が、呆れたような、しかしどこか悪戯っぽい笑みを浮かべて彼を見下ろしていた。 「もうええやろ~月彦。頭から煙出るで~。」  小都華はそう言うと、今度は二枚目の付箋を、月彦のフワフワとした白髪の頭頂部にペタリと貼り付けた。 「あ、あの…小都華さん、ここは図書館で…。」 「わぁーっとるわ。せやから小声で言うてんねん。ばっちゃんに一週間もお世話になるんやから、息抜きも大事やろ?   ずっとそんなカビ臭い本と睨めっこしてたら、それこそあの変なバケモノどもに気ぃ食われてまうで」  小都華の指先が、月彦の頭に貼った付箋をツンツンと弾く。  抵抗するふりをしながら、心の底では彼女の明るい暴力に振り回されることを心地よく感じている自分を、月彦は否定できなかった。 「…ふふっ。お姉ちゃんは、あんな風に引っ張ってくれるお嫁さんが来てくれたら安心だねぇ。」  まるで良質な喜劇でも観るかのように楽しんでいる。 「ほんま、小都ちゃんさんってば月彦はんのこと大好きやねえ。」 「ちゃいますよ遥さん! ウチはただ、このモヤシが干からびへんように世話しとるだけです~!」 「…分かりました。キリのいいところまで読めたので、少し外の空気を吸いましょうか」  月彦が頭の付箋を苦笑しながら剥がすと、小都華は「よし、言質取ったで!」とばかりに彼の腕を掴み、半ば引きずりながら図書館の出口へと向かった。  図書館の外へ出ると、暴力的なまでの真夏の日差しと、けたたましい蝉時雨が一行を包み込んだ。  赤牟市の海沿いの公園。王港町の中心部から少し離れたこの場所は、観光客と地元の子どもたちで賑わい、生きている人間のエネルギーが満ち溢れていた。 「ほれ、ハルカ! 俺の分のアイスキャンディーはどうした!」  公園のベンチで、緑色の両生類のようなデジモン・ベタモンが、短い手足をバタバタさせて遥に催促している。 「もう、せわしないなぁ。はい、ソーダ味やで。頭キーンってならんようにゆっくり食べや」  遥が袋から取り出した青いアイスキャンディーを差し出すと、ベタモンは「おう!」と大口を開けてそれに噛みついた。直後、「ギェェッ! 頭いてぇ!」と地面を転げ回るベタモンの姿に、遥はお腹を抱えて笑い転げた。  少し離れた木陰では、コヅキガルルモンが寝そべり、小都華がその柔らかくひんやりとした白い毛並みに顔を埋めて涼を取っていた。 「あー、コヅキガルルモンめっちゃ冷やこくて気持ちええわぁ……天国や…。」  小都華がそう呟くと、彼女のパーカーの首元から、白い管狐のようなクダモンが「アタシのほうが気持ちいいし!」と対抗するように顔を出し、小都華の汗ばんだ谷間に身を擦り寄せた。 「ちょ、くすぐったいわクダモン! こら、変なとこ入んな!」 「若いもんは元気がええのう。ワシらみたいな年寄りには、この日差しはちと堪えるわい」  伽夜子の隣で、刀を背負ったブシアグモンが、どこから調達したのか冷えたラムネの瓶を傾けながら、親戚のオッサンのような口調でボヤく。 「ふふっ。ブシアグモン殿は中身は渋いけど、見た目は一番子供みたいじゃないか」  伽夜子が日傘を回しながら艶然と笑い、ブシアグモンの丸い頭を扇子で軽く叩いた。 「…伽夜子さん。僕ら、かなり浮いてる気がするんですが」  自動販売機で冷えた麦茶を人数分買ってきた月彦が、周囲の視線を気にして猫背をさらに丸める。一般の人間にはデジモンたちの姿ははっきりと見えないはずだが、それでも「空中でラムネの瓶が傾いている」ように見えたり、少女たちが虚空に向かって笑いかけているように見えたりと、端から見れば奇妙な集団であることは間違いない。 「気にするこたぁないさ。これも青春の1ページ、生きてる証ってやつだよ。…それに」 「あの子たちが今、ああして息をして、笑って、肌に太陽の熱を感じている。それがどれほど尊くて、脆いものか…月彦君が一番よく分かっているはずだろ?」 「…ええ。」  月彦は、目を細めて小都華の姿を追った。 ㊱  1週間後…。  月彦と伽夜子が、侵食の痕跡を追い、王港町側の結界の補強と情報収集へと向かう間、小都華と遥は、波止場へと出ていた。  この日は、調子の悪いべタモンは家に残り朝から伽夜子と月彦は王港町の資料館へ向かった。  コンクリートの堤防に座り、強烈な太陽の光を浴びていても、昨夜の風呂場で感じたあの「測られる」感触が、薄皮一枚の下にべったりと張り付いて離れない。  商店街の隅にある、波止場に面した小さな食堂の前のベンチ。二人は日差しを避けるように、錆びたトタン屋根の影に入っていた。 「ほれ、食うか?」  小都華が差し出したのは、近くの屋台で買った二つの巨大なかき氷と、ガラス瓶に入ったラムネ、そして醤油の焦げる暴力的な匂いを放つ焼きとうもろこしだった。  蔭洲升で出されたあの醜悪な魚料理とは対極にある、色彩豊かで、匂いだけでも胃袋を刺激する、生きている世界の鮮烈な食べ物だ。 「…小都ちゃんさん、どんだけ食うねん。  一昨日もカラオケ行ったらサイドメニューめっちゃ頼んでたやん。」  遥が黒いマスクを顎までずらし、少しだけ呆れたように目を細める。 「うるさいな、腹減って死にそうやねん! ブルーハワイやけどええか? あっ知ってん? かき氷のシロップってみんな同じ味なんやで」 「ふふ…そんなん小学生でも知ってるんよ」  小都華は強引にかき氷のプラスチック容器を遥の手に押し付けた。  遥は冷たい容器の感触に少し驚いたようだったが、やがて薄いスプーンを手に取り、真っ青な氷をすくって口へ運んだ。  シャリッ、という心地よい音と共に、冷たさと強烈な甘さが口の中に広がる。  遥の青い瞳が、わずかに揺れた。  舌の先が人工的な青色に染まるのを見て、小都華が「なんやそれ、ゾンビみたいやで」と指差して笑う。遥も、自分の青くなった舌を出して少しだけ笑い返した。  次にラムネの瓶を開けようとしたが、遥はガラスの玉を押し込むのに手こずり、小都華に「貸してみ」とあっさり奪われてしまった。 「うわ、とうもろこし熱っ!」  小都華が焼きとうもろこしに豪快にかぶりつこうとして、予想以上の熱さに耐えかねて手を滑らせ、地面の砂埃の中へ落としてしまう。 「あーっ! ウチのとうもろこしが!!」  本気で絶望したように顔を歪める小都華を見て、遥はついに、声を出して笑い出した。  それは、蔭洲升の霧の中では絶対に見せなかった、年相応の少女の無防備で柔らかな笑い顔だった。  小都華は、その遥の顔を、そして彼女が青いかき氷を食べ、ラムネのビー玉に悪戦苦闘し、とうもろこしを落として自分がどれだけ悔しがったかを、心の中にしっかりと刻み込んだ。  これらは全て、遥が「今日、確かにここで生きていた」という決定的な記憶になる。あの暗い海の底で、死者の声に引きずり込まれそうになった時、彼女を引き戻すための、強烈な「生者の匂い」として。  しかし、同時に遥は自身の足元の海に黒いものがある事に…「死の臭い」がこびりついてる事に気付いた。 ㊲  小都華も、その静かな侵食には気づいていなかった。 「…ウチな、両親を海で亡くしたんよ。」 「…。」  小都華もどこかその事には勘付いていた…というか家の仏壇の写真、会話の端々にもそれを感じていた。  恐らくそれが遥に感じた影の正体…。  ぽつりと、ラムネの瓶の滑らかなガラスの表面を指先でなぞりながら、遥が口を開いた。  その声は、先ほどまで小都華の不器用な振る舞いに笑いをこぼしていた少女のものとは別人のように、ひどく平板で、温度を失っていた。 「合宿で、ウチだけ家を空けとった時にな。事故やって言われた。お父さんも、お母さんも、冷たい海ん中に沈んでしもうて…ウチだけが残ったんや…。」  小都華は、プラスチックの匙を持った手を止めた。  頭上では蝉時雨が鼓膜を打つように鳴り響いているのに、遥の周囲だけが真空のガラスケースに覆われたように、決定的な沈黙が落ちていた。 「それからずっと、ウチだけが生き残った意味って、なんやったんやろって、そればっかり考えて生きてきたんよ。毎日、食卓にはおばあちゃんとウチの二人だけ。おばあちゃんは優しくしてくれるけど、ウチを見るたびに、死んだ両親のこと思い出して悲しそうな顔するねん。」  遥の青い瞳が、足元のコンクリートの照り返しを見つめたまま焦点を失っていく。マスクの下の呼吸が、わずかに浅くなった。 「ほんとは海なんて大嫌いなんや。  お父さん達を奪った海なんか…二度と見たくないって思うとるのに…気がついたら、毎日海岸に立って、あの暗い水面ばっかり見つめとる。 ウチが残った意味って、何なんやろな。ほんまは、ウチもあの時、一緒に沈むべきやったん違うかなって」  自らを薄く削り取るような、泥のように重い自罰の言葉だった。  小都華は溶けかけた青い氷を見つめ、何と声をかけるべきか迷った。安っぽい同情や慰めの言葉は、この深く冷たい喪失の穴の前では、あまりにも無力で白々しく感じられた。  小都華が膝の上に置いた拳を握り締め、口を開きかけた、その瞬間だった。  視界の端が、白く濁った。  それは、海からの潮霧が風に乗って流れてきたというような自然現象ではなかった。  つい数秒前まで肌を焼いていた夏の熱気が、見えない刃で断ち切られたように急激に失われる。代わりに、古い冷蔵庫の底のような、骨の髄まで冷え切る湿気が足元から這い上がってきた。  耳鳴りのように響いていた蝉の声が、一つ、また一つと不自然に途切れていく。  鼻腔を満たしたのは、焼きとうもろこしの香ばしい匂いでも、海の爽やかな潮風でもない。炎天下で腐敗した大量の海藻と、内臓を抜かれた魚の残骸が放つ、むせ返るような鉄と塩の入り混じった悪臭。 「なんや……これ」  小都華が立ち上がった時、波止場の風景はすでに輪郭を失い始めていた。突き抜けるような青空も、眩しい海も、コンクリートの堤防も、すべてが極度に圧縮された灰色の霧によって上書きされ、塗り潰されていく。  王港町の明るい夏が、音を立てて剥がれ落ちた。 ㊳ 見えないはずの暗い海が、巨大な胃袋をうねらせるような重い水音を立て始めた。  獣の咆哮のような不快な音を立てるサイレンが鳴り響いた。  霧の奥から、ゆらりと二つの人影が滲み出してくる。  足音はなかった。ただ、空間の隙間から染み出すように、その影はゆっくりと遥と小都華の前に立ち塞がった。 「…お父さん? お母さん?」  遥の口から、掠れた声が漏れた。  影の輪郭は酷く曖昧で、顔のパーツは水に濡れた水彩画のように溶けていたが、その背格好と、どこか懐かしい衣服の気配は、遥の記憶に焼き付いている両親のものそのものだった。  小都華の足元で、クダモンが白い毛を逆立て、低い警戒の唸り声を上げる。 『…遥。可哀想な、遥。』  影の一つが、口とも呼べない黒い裂け目を歪ませて声を発した。  それは、優しい母親の声音を模していた。しかし、発音の端々に水中の気泡が弾けるような異音が混じり、何よりその声には、生きている人間の声帯が震える物理的な響きが全く欠落していた。 『一人だけ残されて、辛かったねえ。お前がいないから、家族が揃わないのよ』 『お前だけが温かいご飯を食べて、おばあちゃんに心配をかけて…悪い子だ。お前が乙女となれば…誰も悲しまなかったのに。』  父親の姿をした影が、冷酷に言葉を重ねる。  それは、両親の言葉ではなかった。 「あ…う、ああ…。」  遥の身体が、操り人形のようにぐらりと揺れた。マスクの下から浅い過呼吸の音が漏れる。青い瞳から完全に光が消え、深い虚無の底へと引きずり込まれ、海へと歩き出した。  静寂と狂気の入り混じる空間を、小都華の怒声が物理的な質量を持って引き裂いた。  小都華は遥の前に進み出ると、影たちを鋭く睨みつけた。 「アホか!!!親が自分の娘に、こんなじめじめした気味の悪いこと言うわけないやろが!」  小都華の全身から、抑えきれない怒りが立ち昇っていた。 「遥さんの罪悪感に漬け込んでるだけやろ…!!!!遥さんもこんなん親の声をパクって騙しとるだけや!何従ってん!!!!」 『死は永遠の孤独…だっ…た…。  舟に乗り…深き海…か…ら現世に…。』 『憐れなる堕子達に…救いを…呪いと海に底はなく…陀金の情けを…おぁ、深く大いなる陀金よ。』  小都華の言葉など最初から聞こえていないかのように、影たちは虚ろな言葉を繰り返す。 「遥さん!!!!!!!!!」  小都華の叫びもサイレンの音に小さく萎められていった。  ㊴  遥が蔭洲升の住民へ向かう遥が小都華の方を振り向いた 「ごめん…小都ちゃん…本当は全部…全部あの時思い出したん…。」 「はぁ!!!??何言って!!!」 「蔭洲升の資料館で…写真…あれ全部ウチだったん…忘れようとしてた…ウチは蔭洲升で生まれてあの日…乙女として町に帰るはずやったんや…なのに…ウチは嫌でそれを拒否した…だから陀金様にお父さん達が代わりに連れてかれたんや…。」 「なっ!?」 「…小都ちゃんこの一週間楽しかったよ…でも、駄目なんよ…。  ずっとおとうさん達の声が頭から離れない…潮の臭いも…波の音も…あそこから逃げたと思ってたけど…でも…運命が取り立てに来たあの日の借りを返せって…。」 「…!クダモン!!!!」  クダモンが小都華の影から飛び出そうとした瞬間、小都華共々体にあのノイズのような黒い文様が海から上がり身体を侵食していた。 「な…これコトカ…体に力が…。」 「なんでや…進化させられない…体が重い…。」  耐え切れず体がどんどんと海に沈んでいく。 「駄目や…!行っちゃ…!!!アレが本当に遥さんのおとんとおかんと思ってるんか…!!!!」 「関係ないんだよ…小都ちゃん…ただ…ウチはもう…耐えられんのや…。」 「…遥さん!!!!!!」  サイレンのけたたましい音と共に霧と一緒に雨も降りだし、小都華と遥に深い境ができていた。  ㊵   窓の外では、つい先刻まで舗装路に熱を蓄えさせていた暴力的なまでの夏の日差しが唐突に遮られ、分厚い鉛色の雲から大粒の雨が叩きつけている。  熱されたアスファルトに冷たい水滴が打ち据えられることで、白い水蒸気が地表から立ち昇っていた。  それが海から吹き込んだ湿気と混ざり合い、視界の底を這うような低い霧を作り出している。  雨に濡れた土とアスファルト特有の匂い。軒樋を激しく水が流れ落ちる音。入口のガラス戸が開き、雨宿りに駆け込んだ観光客が傘の滴を払う音が、微かに館内の静寂を揺らす。  古紙の酸化した匂い、防虫剤の樟脳の香り、床に塗られた蜜蝋、年季の入った木箱、そして事務室の奥から漂ってくる職員がいれた緑茶の匂い。  月彦は、展示ケースのガラスに額が触れんばかりに身を乗り出し、薄く青みがかった白髪の天然パーマを無造作に掻き毟りながら、ノートに細かい文字を書き連ねていた。 「ほほう、君は旧字体が読めるのか。それに漁法の変遷にも明るい。高校生の自主研究にしては、ずいぶんと本格的だね」  月彦の背後から声をかけたのは、糊のよく利いた白の開襟シャツを着た初老の男だった。王港町資料館の館長、瀬戸内宗一郎である。彼は穏やかな目元に理知的な光を宿した、誠実な実務家としての空気を纏っていた。 「あ、いえ…えっと、少し、そういう昔の記録に…興味がありまして。」  月彦は姿勢を戻し、微かな吃音を交えながら会釈した。彼が宗一郎に伝えているのは、「王港町の海難史や小聖具の来歴を調べたい」という表向きの理由だけだ。  デジモンの存在も、小都華と遥が過去に蔭洲升へ引きずり込まれた事実も、一切口にしていない。 「良いことだ。歴史というものは、飾られた神話よりも、日々のささやかな記録の中にこそ本質が眠っているものだからね」  宗一郎の案内する展示品には、蔭洲升にあった不気味なほどの完成された一貫性はなかった。  展示された漁具や網には、人間の手脂が染み込み、修繕のために不格好に継ぎ接ぎされた糸の跡や、潮風で白くこびりついた塩の結晶が残っている。  それらが間違いなく生きた人間によって使われていたという事実を、物言わぬ傷や擦り減った持ち手の癖が証明していた。  キャプションには、寄贈者、採集地、用途が明確に記され、同時に「伝承による年代未詳、後補の可能性ありといった不確かな注記も隠されることなく掲示されている。  部屋の中央に置かれた舟屋の模型も同様だった。二階には畳が敷かれ、小さな茶碗や囲炉裏の意匠があり、一階には実際に海へ繰り出すための小舟と櫂が機能的に収まっている。  海へ向かって暗く口を開け、濡れた白布と得体の知れない黒い小舟だけが吊るされていた蔭洲升の異常な舟屋とは、明確に異なる生活の器だった。 「館長さん。あの…この町の海難記録も、見せていただけますか」 「ああ、構わないよ。だが、あまり気分の良いものではないかもしれないがね。」  海難台帳の複製が開かれる。氏名、年齢、舟の屋号、遭難時の天候、捜索日数、そして遺体発見の有無という、不格好な事実の羅列だった。  月彦がノートの頁を繰る中、少し離れた場所で展示を眺めていた伽夜子が、ふと足を止めた。  彼女は白い日傘を綺麗に畳み、いつものように芝居がかった余裕のある笑みを浮かべ、扇子で口元を隠していた。  その視線の先にあるのは、小さなキリスト教聖具の区画だ。  そこには木製のロザリオや祈祷書、そして銀色の聖母子のメダイが並んでいる。いずれも明治期以降に持ち込まれた個人信仰の品であり、受入経路がはっきりと明記されていた。  太古から存在するかのように偽装されていた蔭洲升の魚尾の聖母とは別物である。  だが、聖母子のメダイを見つめていた伽夜子の唇が、ふいに微かな音をこぼした。 「…戻りの、母子…。」  展示札のどこにも書かれていない言葉。  その一瞬だった。  資料館を支配していた防虫剤と古紙の乾いた匂いの奥から、腐敗した海藻と焦げた基板が混ざり合ったような、あの鉛色の海の臭気が一本の糸のように細く鼻腔を掠めた。  メダイを収めたガラスケースの内側に、息を吹きかけたような白い曇りが生じ、それが無数の魚の鱗のような幾何学模様のノイズとなって数秒だけ明滅し、すぐに消え失せた。 「伽夜子さん?」月彦が低く声をかける。  伽夜子は扇子を下ろし、数度瞬きをした後、不思議そうに首を傾げた。 「ん? ああ、意匠の組み合わせが少し珍しかったから、連想しただけだよ。」  彼女の声音に淀みはない。本人に言い間違いをしたという自覚すら薄いようだった。  月彦は追及せず、ただ彼女の呼吸の深さ、瞬きの回数、そして周囲の空気の質感を神経質に記憶の底へ刻み込んだ。  …憑依されたと断定するにはあまりにも自然すぎる。だからこそ、得体の知れない不吉さが背筋を這い上がってくる。 「さて、表の展示はこのくらいだ。君がより古い採集記録を見たいというなら、収蔵庫の未整理箱を開けよう。…この町の海は、神話よりも多くの人の名前を残しているからね。」  宗一郎が鍵束を取り出し、奥の金属扉へと案内する。  重厚な扉が開かれ、乾燥した収蔵庫の白い蛍光灯が、三人の影を無機質なコンクリートの床に長く引き伸ばした。 ㊶   収蔵庫の中は、表の展示室以上に徹底した温度と湿度の管理が行き届いていた。  息を吸い込むと鼻の粘膜がかすかに痛むほどの乾燥した空気が、規則的な空調の稼働音と共に循環している。  宗一郎は手袋を嵌め、古文書や生活民具が収められた無塗装の桐箱を次々と開けていった。 「これが、江戸後期から明治にかけての漁業帳。そしてこちらが潮迎えと盆舟の記録だ。」  月彦は渡された白手袋を身につけ、慎重に記録の頁を捲る。  王港町における「潮迎え」は、漁期の初めに風や潮目を読み、舟の安全を確認するための極めて実利的な実践と祈りだった。決して、人を海へ還し、海から怪異を招き入れるための儀式ではない。  さらに、盆舟と精霊船の記録。そこには、死者を現世へ固定するためではなく、死者をあの世へ送り出し、生者の生活に区切りをつけるための作法が記されていた。舟首は明確に、陸ではなく沖へ向けて流されている。  月彦の脳裏に、小都華と遥から聞いた蔭洲升の資料館の記憶が重なる。  あちらでは、舟首は陸へ向き、死者を送る作法が現世へ迎える作法へと反転していた。  死者の供養が、生者を徴用するための論理へとすり替えられていたのだ。  蛭子、恵比寿、浦島子に関する資料も同様だった。  別の採集者、別の時代に記録されたため、相互に矛盾する説や一致しない口伝がそのまま併記されている。王港町の歴史は、そうした継ぎ目を隠すことなく、生活の痕跡として残している。 「…やはり、年代が合いませんね。」  月彦は、赤牟市立図書館で確認した資料のメモと照らし合わせる。  王港町のキリスト教聖具は、明治二十九年以降に具体的な人物と経路によって持ち込まれたものだ。蔭洲升が主張する慶長以前からの魚尾の聖母や古来の洗礼盤とは、決定的な年代のズレがある。 「館長さん…この、大正末期から昭和初期にかけての方言採集票と、聞き書きの束を見ても?」 「ああ、構わないよ。それはまだ目録化が進んでいない未整理の箱だがね。」  月彦が引き出したのは、和紙に粗い万年筆の文字で記された数十枚の採集票だった。  一枚の紙片に目が留まる。  そこには、平仮名で「だこん」「だこ」と記されていた。  脇には採集者の丁寧な注記が添えられている。 『堕子(だこ)。流産、死産、夭折などにより、家の子として数え終える前に亡くなった子を弔う、この浜の古称』  月彦の指先が、微かに止まった。 (小都ちゃんさん達が聞いた「だこん」は、神の固有名…だったはず…でもこれが指してるのはどちらかと言うと…。)  亡くなった子そのもの、あるいはその子を名も無き存在として捨て去るのではなく、ささやかに弔うための普通名詞、生活の中の言葉だったのだ。  聞き書きの記述によれば、その供養は蛭子の葦舟と結びついている。小さな葦舟に名札や名の代わりとなる小石を載せ、沖へ向けて送る。戻ってこないことを見届け、いたことを数え、弔い、そして生者の家へ区切りを戻すための儀式。 「…呼び戻すためでは、なかった。」  月彦の口から、無意識のうちに独白が漏れた。  古い記録のどこを探しても、「選ばれし乙女」「潮の器」「現世への戸口」といった言葉は見当たらない。「子を産ませて戻す」という教義も、神婚という概念も存在しない。  後代に編纂された蔭洲升の資料だけが、音の同じ「だこん」に「陀金」という文字を当てはめ、弔われる側の言葉を、命令を下す絶対的な神の固有名詞へとすり替えていた。  同時に、「送り舟」は「反魂舟」へ…「戻らぬように送る」行為は「戻るために空ける」へ。「名を与えて弔う」作法は、「名を奪って器にする」名戻しへと、すべてが悪意を持って反転させられている。  月彦は自身のノートを開き、そこに書き込んでいた「自然発生した土着信仰→データ化し陀金様という怪異になった」という仮説の線上に、太い横線を引いて打ち消した。  土着の信仰が自然に積み重なったのなら、必ず異説や地域差、用途のズレが残る。  だが、蔭洲升のそれは、すべての矛盾が一つの目的に向かって収束しすぎている。 (侵入手続きが先にある…それを正当化するために、呼称を改変し、偽史を編纂して信仰に見せかけているだけだ。)  月彦は、ポケットに忍ばせた赤いデジヴァイスiCの画面を指先でなぞった。  そこには、トンネルのバスで倒した運転手や、資料館を襲撃してきた住民たちとの戦闘ログが保存されている。  外形や攻撃のデータには、確かに完全体デジモンであるハンギョモン由来の断片が存在する。  だが、通常のデジモンが持つはずの個体名、進化履歴、死亡後にデジタマへと還る経路のログが完全に欠落している。  さらに、ベタモンの傷から採取した黒い汚染データ。そこにはハンギョモンの身体構築データと共に、「名なし」「数えられず」「葦舟」「戻る場所なし」という呪詛のような反復パターンが縫い込まれていた。  すべての線が一つに繋がる。  蔭洲升の住民たちは、ダゴンや陀金様と呼ばれる神の眷属などではない。 (彼らは…王港町で堕子と呼ばれ、弔われた子どもたちの記録や残響の集合的な像に、ハンギョモンのデータを肉体の雛形(外殻)として組み込んだ、擬似的な生命体…?)  それが月彦の導き出した結論だった。  だからこそ彼らは、完全体に近い姿を持ちながらも異常に脆く、倒されてもデジタマへは戻らずに黒い泡と泥へ崩れ落ち、また同じ形で現世への執着のみを持って再構成されるのだ。  彼らの成り立ちは、弔われるべき痛ましい存在だったのかもしれない。  だが、だからといって現在彼らが遥、そして小都華に行おうとしている略奪と尊厳の蹂躙が免責されるわけではない。 「館長さん。…藤宮伊衛門という名前に、心当たりはありますか。」  月彦が船籍簿、組合名簿、灯台寄付者名簿を確認しながら尋ねる。現実の一次資料のどこにも、その名は見当たらない。  宗一郎は古文書を整理する手を止めず、ごく自然な、淀みのない声で答えた。 「ああ。その人は、蔭洲升の写真にしか出ませんからね。」  月彦の心臓が、冷たい手で掴まれたように収縮した。  月彦はこれまで、一度も「蔭洲升」という地名を宗一郎の前で出していない。宗一郎が地域の奇書やオカルト伝承としてその名を知っている可能性はゼロではないが、その語り口は実在する隣町について言及するそれだった。  視線を上げると、伽夜子が手袋越しに海難台帳の頁を押さえていた。  空調の効いた乾燥した収蔵庫の中だというのに、台帳のその一頁だけが、まるで濡れた指で触れたように黒く湿り始めている。 「…海辺の紙なら、湿気を戻すこともあるだろうね。」  伽夜子は、本来の彼女であれば即座に異常を指摘し、呪符を構えるべきその現象を、あまりにも不自然なほど軽く、合理化して処理した。 (侵食は、物理的な憑依じゃない…。人間の認識と、事象への説明の辻褄の中に入り込んでいるのか…。)  月彦の背中を、見えない冷たい汗が伝い落ちる。  宗一郎が未整理箱の蓋を閉め、金属の留め具をカチンと下ろした。 「さて、調べるのはここまでにした方がいいだろう。熱心なのは結構だが…海へ戻った二人は、戻るべき場所へ戻っただけなのだから。」  月彦は奥歯を強く噛み締めた。  彼は宗一郎に、調べている対象が少女が二人であることも、一度救出したことも、現在彼女たちが「波止場にいる(海へ出ている)」ことも、一切話していない。  ここで初めて、蔭洲升という概念が、誠実な実務家であるはずの宗一郎の認識を完全に内側から書き換えていることが確定した。 (情報が漏れている…ここだけか?いや…最悪な事態を想定するなら…小都ちゃんさんと遥さんの身にも、すでに何かが起きているかもしれない。)  月彦の指先が微かに冷え、ノートに文字を書き殴る筆圧が強くなる。だが、彼は焦りを押し殺し、表情を平坦に保ったまま宗一郎の次の言葉を待った。 ㊷ 「…今、二人と仰いましたか。」  月彦は、あくまで平静を装ったまま、低く静かな声で確認を求めた。  宗一郎は一瞬だけ、言葉の意味を咀嚼しきれないような、自分がなぜその人数を知っているのか理解できない空白の表情を見せた。  だが、その空白はすぐに温和な笑みによって塗り潰される。 「はて…何のことだったかな。ああ、土地の伝承を深く調べようとする若者は、どうも似たような顔つきになるものでね。つい、昔の記憶と混同してしまったようだ。」  宗一郎は手袋を外し、月彦に向き直った。その瞳には狂信者のようなぎらつきはなく、ただ純粋な善意と、年長者としての諭すような光が宿っていた。 「君たちがどれほどの正義感を持っているかは分かる。だが、一度連れ戻したのなら、二度目の介入は、本人の帰る場所を奪う傲慢になりかねないよ。」 「二度目の介入…。」 「そう。土地には土地の理がある。…私の妹も、同じだったからね」 「へ?」   瀬戸内美沙。宗一郎の妹。 宗一郎の語る彼女は、祈祷書とメダイを大切にし、海難犠牲者のために祈りを捧げる、心優しく敬虔なキリスト教の信仰を持つ女性だった。 だがある夏の夕暮れ、美沙は王港町外れの旧道付近で忽然と姿を消した。警察の記録には単純な「行方不明」として処理され、そこに蔭洲升の影は一切記録されていない。 そして一定期間の後、彼女は著しく衰弱し、身籠った状態で町へ戻ってきた。 「帰ってきた直後の美沙は、酷いものだった」 宗一郎の穏やかな声が、微かに震えを帯びた。 「水道の蛇口から落ちる水音を極端に恐れ、鏡を見ることを拒んだ。肩に少しでも触れられれば悲鳴を上げ……何より、あんなに大切にしていた祈祷書を前にしただけで、過呼吸を起こして倒れ込んだ」 それは、想像を絶する暴力と監禁による、重度のトラウマ反応そのものだった。 「だが……後になって、彼女は海の方角を見たまま、ぽつりと言ったんだ。『選ばれたのだ』と 主のお計りは、人間の矮小な理解を超えるものだ。受胎告知を受けたマリア様も、どうして、そのようなことがありえましょうか。と初めは戸惑い、恐れた。だが最後にはお言葉どおり、この身に成りますようにと受け入れました。  美沙が帰還直後に見せた恐怖より、後に選ばれたと受容した言葉こそが真実なのだよ。  人間の父を介さない聖なる誕生を、世俗的な同意の有無や加害の尺度で裁くべきではないと思わないかね?」  洗礼とは、水と霊による新生だ。宗一郎はそう説いた。海の水が彼女の身体へ入り、新たな命を現世へともたらした。それは土地なりの洗礼であり、復活なのだ、と。 「死者が戻ることは希望だ。死者のために生者が苦しむことは尊い。苦難に意味を見出すのが、我々の信仰なのだから」 「ふむ…一理あるね」 静寂を破ったのは、腕を組んで聞いていた伽夜子の、ひどく冷ややかな同意だった。 「対象のあの二人を見捨てることは、我々にとっても、彼女たちにとっても、最善の選択と言えるかもしれない」 月彦の心臓が、早鐘を打った。 伽夜子は、小都華と遥の名前を呼ばなかった。二人を「対象」という無機質な記号で処理し、論理的な撤退を肯定している。   ㊸  「館長さん。神学的な正しさや、信仰の尊さを争う前に、一つだけ、実際に起きたことだけを確認させてください。」  月彦の声は低く、ひどく明瞭だった。収蔵庫の空調音が不自然なほど大きく聞こえる静寂の中、彼の声だけが物理的な質量を持って響く。 「美沙さんは、行き先をご家族に告げ、自らの明確な意思で出発したのでしょうか。」 「…いや。告げては、いなかった」 「帰還された時、彼女は健康で、安堵の表情を浮かべていましたか。」 「…衰弱し、水を恐れ、接触を拒絶していたと、先ほど言ったはずだ。」 「では、妊娠したという結果だけをもって、その過程に彼女の同意があったと証明できますか。」  宗一郎の表情が、わずかに強張る。 「生きて戻ったことは、生還の証拠であって、加害がなかったことの証拠にはなりません。そして、後に彼女が選ばれたと言った事実が、それ以前の恐怖と明確な拒絶を無効化するものでもありません。」  月彦は一歩、宗一郎へと距離を詰める。 「同じ人間の、異なる時間の言葉のうち、都合の良い一語だけを切り取って、過去のすべての傷を上書きしてはいけません。」 「だが…!」 「拒めば『理解不足』。怯えれば『神秘への畏れ』。妊娠すれば『祝福』。逃げれば『背反』。沈黙すれば『受容』。…何が起きても、荫洲升側だけが正しい結論に到達するようになっている」  月彦の言葉が、宗一郎の築き上げた防壁の隙間に楔を打ち込む。 「館長さん。それは、事実から得た信仰ではありません。結論を変えないために、事実の意味を強制的に交換する手続きです。」  宗一郎の瞳が小さく揺れた。自分が美沙の生々しい反応を直視していたのではなく、すべての苦痛を同じ祝福という結論へと翻訳するフィルターを通して見ていただけだという事実に、彼の理性が気づき始める。 「僕は、美沙さんの信仰そのものを否定するつもりは微塵もありません。  信仰によって慰めを得て、生きる力を保ち、他者のために祈る彼女の尊さは、絶対に汚されるべきではない。」  月彦は、テーブルの上に置かれた聖母子のメダイを指差した。 「受胎告知の物語には、マリアの戸惑いも、問いも、そして最後にマリア自身の自分の言葉による応答が記録されている。本人の声が、決して消されていないのです。  受胎告知の物語の要点は、未知の出来事に対するマリア自身の応答が残されていることです。  本人の声を消し去り、結果だけを聖なるものとして祭り上げるのは、信仰の構造ではありません。  …あなたが、そして共同体が、美沙さんの代わりに同意したと決めることは、彼女の信仰を尊重する行為ではなく、信仰の物語から本人の応答だけを切り捨てる行為です。」 「洗礼とは、人の名と人格を消し去り、身体を他者の出口にするための作法ではない。共同体へ、名を持つ一人の人間として迎えるための象徴です。彼らは、名を認める方向を、名を奪って器にする方向へと反転させている」  月彦の言葉は刃となって、蔭洲升の偽の教義を一枚ずつ剥ぎ取っていく。 「苦難の中から意味を見出す権利は、苦しんだ本人にのみ存在します。加害する側や、傍観する側が先回りして、これは皆のための尊い苦しみだと命名すれば、それは信仰ではなく、加害を継続するための免罪符でしかない。」 「復活への希望は、死者が生者の身体を資材や戸口として占有する権利ではありません。死者を大切に想うことと、生者の同意と尊厳を奪うことは、決して両立しない。」 「信仰が人間の理解を超えることと、人間が検証や同意の手続きを放棄してよいことは別です。理解できないという言葉を、加害者の正体を追及してはならない理由に使わせてはいけない。」  息を呑む宗一郎の前に、月彦は小聖具の受入台帳を開いて見せた。 「王港町のキリスト教意匠は、明治以降に具体的な人物と経路によって持ち込まれたものです。  しかし、蔭洲升の最古とされる記録ほど、受胎告知や洗礼、復活に似た語彙が、現在の儀式に都合の良い完成された形で備わっている。」 「もし本当に古い海の信仰にキリスト教が自然習合したのなら、語彙が入る前の段階や、誤解、地域差、使われない時期が地層のように残るはずです。 …だが、あちらにはそれがない。」 「混ざったのではありません。彼らは、美沙さんのような強い信仰を持つ者を従わせるために、後代の信仰語彙を学び、過去へ遡って貼り付けたのです。…使える言葉だけを抜き取った、祈りではなく、説得用の文面なのです。」 ㊹  月彦は最後に、未整理箱から取り出した方言採集票を宗一郎の目の前に置いた。 「『だこ』…堕子。これが原義です。陀金という神の名が最古ではない。  家の数に入る前に亡くなり、それでも『いなかったこと』にせず、ささやかに弔われた子どもたちの呼称です」 「元の葦舟は、堕子を現世へ生ませ直すための舟ではありません。名、あるいは名の代わりを載せて沖へ送り、弔いを終え、生者が自分たちの生活へと戻るための舟だった。」 「彼らは『弔われる子』を『命令する陀金様』へ。『送る舟』を『戻る反魂舟』へ。『名を与える供養』を『名を奪う名戻し』へ反転させた」  月彦は、ポケットからデジヴァイスiCを取り出し、画面に表示された戦闘ログの波形を見せた。 「現在の彼らの肉体を構成するデータには、ハンギョモンというデジモンの断片が含まれています。ですが、彼らには通常のデジモンが持つ個体核も、死と再誕の循環もありません」 「なんだそれは!?馬鹿馬鹿しい…!そんなおもちゃを取り出して!!私は…子供の遊びに付き合うつもりは…!」 「いえ貴方は知ってるはずだ…いやあなたを絡め捕ってる背後の者達と言った方が正しいですかね…分かっていますよ。  今僕が語り掛けているのは館長さん以上に後ろの貴方達なんです。  …彼らの正体は、堕子として残った記録や残響に、ハンギョモンのデータを外殻として組み込み、現世への足跡を持たせた擬似生命です。」  月彦は、それが亡くなった子どもたちの魂そのものだとは断言しなかった。  説明によって再び死者を材料化することを避けるための、ギリギリの留保だった。 「ですが、その由来がどれほど痛ましいものであったとしても、現在の彼らが美沙さんや、僕の大切な人たちに行おうとしている略奪は絶対に正当化されない。『流された者だったから、他者を流してよい』という理屈は成立しない」  月彦は声を少しだけ和らげ、しかし逃げ場のない問いを宗一郎へ投げかけた。 「館長さん。…その祝福という説明によって救われたのは、美沙さんでしたか。  それとも、美沙さんを守れなかったと悔やむ、御家族でしたか?」  宗一郎の肩が、びくりと跳ねた。  月彦は彼を卑怯者だと断罪しているのではない。家族が耐え難い現実の前に立たされた時、祝福という説明に縋らなければ正気を保てなかった弱さと、その根底にある愛情を認めている。  しかし、その説明を守り続けるたびに、美沙が怖かった、拒んだ、助けを求めたという事実を、家族自身がもう一度消し去っているのだと告げたのだ。  長い沈黙が落ちた。  空調の稼働音、雨樋を流れる水の音、時計の秒針の音が、乾燥した収蔵庫の中に満ちていく。 「…彼女が選ばれたと言った時」  月彦が、最後の一押しとして静かに問う。 「美沙さんは、貴方の目を見ていましたか?」  宗一郎の瞳孔が開き、過去の記憶が濁流となって彼の脳髄を逆流した。  思い出す。  妹は、兄の顔を見ていなかった。焦点の合わない虚ろな目で、ただ海の方角だけを見つめていた。  さらに、帰還直後、美沙が祈祷書を差し出された時に、震える唇から初めて漏らした言葉。その生々しい肉声。 『あれは、神様やない』  その後、なぜかこの決定的な拒絶の言葉だけが家族の記憶からすっぽりと抜け落ち、「選ばれた」という都合の良い言葉に置換されていたのだ。 「あ、ああ…。」  宗一郎の膝から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになるのを、月彦が腕を伸ばして支えた。 「…妹は、祝福されたのではない。」  宗一郎の口から、彼自身の言葉が絞り出される。 「自分から行ったのでもない。…妹は…攫われ、傷つけられたのだ」  最後の一文が発せられた瞬間。  テーブルの上に置かれていた海難台帳の、帰還と記されていた黒く湿った滲みが、蒸発するようにサァッと乾いていった。  後に残ったのは、元の「行方不明/後日保護」という、不格好だが改竄されていない事実の記録だった。  収蔵庫の中に漂っていた腐った潮の臭いが完全に消え失せる。宗一郎の目から溢れ落ちた涙は、黒い汚水などではなく、生きた人間の持つ普通の温かい涙として、乾いた床へと落ちていった。 ㊺ 「それでも…撤退の判断は変わらないよ」  宗一郎が崩れ落ちた後も、伽夜子の表情は冷ややかなままだった。宗一郎の憑き物を落としただけでは、伽夜子の恐怖に寄生した別の説明は剥がれない。  まっすぐ伽夜子の目を見据えて頼んだ。 「伽夜子さん。…小都ちゃんさんと遥さんの名前を、呼んでください。」 「対象の二人なら…。」 「違います。名前を呼んでください。」  伽夜子は口を開きかけるが、大局、対象、危険性という抽象的な言葉ばかりが脳裏を巡り、どうしても二人の固有名詞が声帯から出てこない。 「彼らは、人を名前から『器』『対象』という『数』へ変換することで、切り捨てを合理化する仕組みと考えるべきです。」  月彦は一歩近づき、伽夜子の手を取った。 「あなたの本音は、『僕を失いたくない』という恐怖です。僕は、その恐怖を否定しません。僕だって、二人が心配で、全員を救える保証なんてなくて、怖い。  …怖いから撤退したいというのは、伽夜子さん自身の選択として成立します。」 「だが、二人を見捨てることが客観的に正しく、二人のためでもある。という結論は、あなたの恐怖の上へ蔭洲升が意図的に置いた、偽の説明です。」 「…今日は随分と喋るじゃないか…君はひとの心情をを想像してべらべら喋るほど烏滸がましかったかい?」 「…親しい家族を守るために、名前を消した他者へ理不尽を押し付け、それを善だと呼ぶ構造。  …それは、伽夜子さんや僕が誰よりも嫌悪し、共同体の暴力そのものじゃないですか。」  月彦は、床に落ちて泥と塩になった護符の残骸を指差した。 「札が効かなかったわけじゃない。あなたが怪物になったわけでもない。意味を入れ替えられたんです。  …気づいてください。あなたは数分間、二人の名前を一度も呼んでいない。」  伽夜子の瞳孔が、大きく見開かれた。  自分の内側にある理性が、異常事態を正確に把握し始める。  彼女は深く息を吸い込み、自分を縛り付けていた透明な糸を引きちぎるように、ゆっくりと、はっきりと口を動かした。 「…小都ちゃん。…遥君。」  二つの名前が声となった瞬間、具体的な顔、声の響き、一緒に笑い合った生活の手触りが、強烈な色彩を伴って伽夜子の脳内へ溢れ出した。  瞳の奥に薄く張り付いていた魚鱗状の反射がパチンと弾けて消え去り、彼女の呼吸と瞬きの間隔が、本来のリズムへと戻っていく。  回復した伽夜子は、テーブルの上のメダイと、顔を覆って泣き崩れる宗一郎を静かに見下ろし、深く重い息を吐き出した。 「…おぞましいね。」  自分の言葉で断じた伽夜子の声には、いつもの芝居がかった余裕と、静かな激怒が戻っていた。  その直後。  月彦のポケットの中で、デジヴァイスiCが警告音を発した。  画面に表示されたのは、以前ベタモンの傷から保存した汚染ログと全く同じ、魚鱗状の波形。  これは、二人が今まさに拉致されたことを直接示す映像ではない。過去に使われた蔭洲升への「強制回収経路」が、再び活性化したことだけを示す信号だった。  月彦が急いで小都華のスマートフォンへ発信するが、スピーカーから聞こえるのはザーッという雨音とモデムノイズのような電子音だけで、コール音すら鳴らない。圏外なのか、豪雨の影響なのか、怪異の干渉なのかは判断できない。 「二人にもう一度拉致の魔手が伸びたと、断定はできない。だが…。」 「館長の口から我々が知り得ない情報が出たこと、侵食がここまで届いていたこと、そしてこのゲート波形。…最悪の事態に備えるべきだね」  月彦と伽夜子は視線を交わし、力強く頷いた。 ㊻ 「館長さん。美沙さんの件については、後で必ず、ご本人の言葉と記録を元に聞き直しに来ます」  月彦達は宗一郎へそう約束し、彼を収蔵庫に残したまま資料館を飛び出した。  外へ出ても、大粒の雨は依然として王港町の舗装路を叩き続けていた。  祖母の家へ連絡を入れる。電話口に出た祖母の声は酷く狼狽えていた。家で休んでいたベタモンの背鰭の傷が突然黒い光を放って痛み出し、何かに引かれるようにして家を飛び出していったという。小都華と遥の姿も、家の中にはない。  月彦と伽夜子は、王港町外れの旧道へと走った。  雨がタイヤの轍を打ち、濡れた山土の匂いが立ち昇る中、赤レンガのトンネルへ近づくにつれて、鼻腔を突く匂いの質が変わっていく。自然の雨の匂いに、腐った海藻と焦げた基板の臭気がどろりと混ざり合い、自然の霧と異界の霧の境界線が完全に曖昧になっていた。  トンネルの入り口に、緑色の小さな姿があった。 「ベタモンさん!」  月彦が駆け寄ると、ベタモンは濡れたアスファルトに這いつくばり、激しい痛みに身を捩らせていた。背鰭に残った黒い傷口から、魚鱗状のノイズが間欠泉のように漏れ出している。 「ハルカが…また…呼ばれた…! 俺の傷が、あっちの海に引っ張られてる…!」  月彦はデジヴァイスiCを開き、トンネル内の正規ゲート反応を走査した。  だが、画面は沈黙を保っている。正規のゲートは完全に閉じられており、前回のように幽世からのバスが迎えに来る気配はない。満潮の条件だけでは、もはや入り口は開かないのだ。  月彦の言葉に、伽夜子が目を見開く。 「つまり、普通なら蔭洲升から現実側の対象を引きずり込む一方向の経路だが…傷に残った接続先を逆向きに走査すれば、一時的な侵入路へ反転できるということかい?」 「はい。ですが…。」 「…分かってる月彦。」  月彦は表情を険しくし、痛みに喘ぐベタモンを見下ろした。 「…塞がりかけた傷口を力尽くで開き直す行為です。  ベタモンさんには想像を絶する激痛が走るし、データ欠損が拡大して個体崩壊を引き起こす危険もある。  …最悪の場合…現実側へ帰還できなくなるかもしれない。」  伽夜子は日傘を握り締め、沈黙した。先ほどの撤退論への反動から、無謀な作戦に即座に賛成することはしない。彼女は冷静に代替手段の有無を計算したが、他の経路は存在しなかった。 「ベタモンさん。」  月彦がしゃがみ込み、視線を合わせる。 「…これは強制じゃない…蔭洲升への道を開きます。  だからあなたが代わりになる必要はどこにもないんです。」  ベタモンは荒い息を吐きながら、緑色の瞳で月彦を睨み返した。 「へ…遥の両親の事も正直あいつの口からちゃんと聞いたこともねえし…知らねえ。  あいつが俺に誰かを重ねて一枚壁を作ってるのも分かってる…。。」  ベタモンはアスファルトに爪を立て、身体を引きずるようにしてトンネルの闇の奥へと向き直った。 「でもよ。…今、あいつの隣にいるのは、俺だ。俺があいつのパートナーなんだ!誰に言われるでもねえ!今のあいつを放っておけねえんだよ!  痛くねえなんて、格好はつけねえ。壊れるかもしれねえな…これじゃあ…でも、開けてくれ!」  月彦は深く頷き、デジヴァイスiCをベタモンの背中に突きつけた。 「伽夜子さん。座標の固定を。」 「…了解した。」  伽夜子は扇子を広げ、五枚の呪符をトンネルの入り口の壁面に打ち込んだ。それはベタモンの身体を支配する術ではなく、彼らが現実側へ帰るためのアンカーとして、座標と名前を強固に守るための結界だ。  月彦はデジヴァイスの同期プログラムを起動する。  修復ログ、ベタモンのパートナー署名、黒い傷の接続先、潮時データが次々と結合されていく。 ベタモンの背鰭にある黒い傷が、内側から引き裂かれるように強烈な発光を始めた。 「ん゛ぐ゛!゛!゛!゛????゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」  ベタモンの絶叫がトンネル内に木霊する。  痛みを短く処理できるようなものではない。自分の存在を構成するデータの一部が、生身の皮膚を逆剥けにされるような感覚で強引に引き剥がされていく。ベタモンは呼吸を乱し、鋭い爪でアスファルトを削り、濡れた路面に身体を押し付けて必死に苦痛に耐え続けた。  発光する傷口から、腐った潮の飛沫と、ノイズ混じりの黒い霧が間欠泉のように噴き出す。  その瞬間、赤レンガのトンネルの壁面が物理的に壊れるのではなく、「奥行き」という空間の意味そのものを失った。  本来なら数十メートル先に出口の光が見えるはずの短いトンネルの奥に、赤い月が怪しく輝く夜空と、白く濁った光を放つ不気味な灯台の影が、蜃気楼のように重なって現れた。  自然の冷たい雨がトンネルの入り口から流れ込み、空間の裂け目の向こうからは、塩辛く生臭い黒い水が逆流してくる。  二種類の水がコンクリートの床でぶつかり合うが、決して混ざり合うことはなく、明確な一本の「境界線」を作り出していた。 「道が開いた…!」  月彦が激痛に耐え抜いたベタモンをしっかりと腕に抱き抱える。  彼の影からコヅキガルルモンが、伽夜子の傍らからはブシアグモンが顕現し、臨戦態勢をとった。 「行くよ、月彦君」 「ええ。…必ず、二人を連れて帰る。」  月彦と伽夜子は、足元で蠢く黒い潮の境界線を越え、星のない異界の海岸へと躊躇うことなく踏み込んでいった。 ㊼  頬に触れる砂の、ひどく冷たく、粒子が粗い感触。そして口の中に広がる、鉄錆と腐った海藻が混ざり合ったような海水の苦味。  数瞬の意識の混濁から引き戻された小都華は、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。  波止場で遥と会話をしていたはずだった。サイレンの音と、土砂降りの雨。霧が二人を切り裂いたところまでは記憶にある。  だが、小都華の視界に映ったのは王港町の白いコンクリートではなく、果てしなく続く黒ずんだ砂浜だった。 「…また、ここ…。」  空は重苦しい鉛色に沈み、そこには不気味に赤く腫れ上がったような満月が、瞬きもせずに地上を見下ろしている。サイレンの音が、遠くの山を這うように、獣の遠吠えにも似た不吉な響きを伴って低く唸り続けていた。  視線を海上へ向ける。  そこには、波打ち際から少し離れた海面に、能舞台や神楽殿を思わせる木造の建造物が浮かんでいた。  だが、それは決して神聖なものではない。四隅の柱に巻かれた注連縄には、古い漁網や赤い糸、そして人間の頭髪や得体の知れない臓物のようなものが悍ましく絡みつき、床板の隙間からは絶えず黒い泥が湧き出している。  そして、その舞台のさらに奥。  霧に沈む沖合に、巨大な影が聳え立っていた。緑がかった黒い石で組み上げられた、狂気的なスケールの遺跡群。直角と鋭角が、人間の脳の処理能力を狂わせるような非ユークリッド幾何学的な異常さで交差し、見る者の視神経を通して直接胃の腑を掴み上げるような、宇宙的な恐怖の質量を放っている。  見つめているだけで、自身の存在が塵芥に等しいと錯覚させられるような圧倒的な圧迫感だった。 「…遥さん…っ!」  小都華は跳ね起きた。  視線の先、黒い波打ち際に停泊した葦舟に、泥まみれの遥が足を掛けようとしている。  小都華がその細い背中に向かって名前を叫ぼうと息を吸い込んだ、その瞬間だった。  ―ずちゃり。  背後で、泥を踏み潰すような、ひどく重たく粘り気のある水音がした。  振り返った小都華の全身の血が、一瞬にして凍りついた。  いつの間にか、彼女の背後を囲むように、十数体の「それ」が立っていたのだ。  以前、郷土資料館で遭遇した、ハンギョモンに似た青白い住民たちではない。彼らの姿は、決定的に、そしておぞましく変質していた。  月彦によって「神などではない。お前たちは堕子の残響に、デジモンのデータを被せただけの擬似生命だ」と本質を看破されたことで、彼らを覆っていた神聖な偽装の殻が腐り落ち、その醜悪な真の姿が露呈したのだ。  それは、巨大な赤ん坊の姿をしていた。  だが、肌は生後間もない瑞々しさなど微塵もなく、塩水でふやけ、深い皺が刻まれた老人のように幾重にもたるんでいる。巨大な頭部。白く濁った焦点の合わない眼球。そして、薄く開いた口には、不揃いに黄ばんだ成人の歯がびっしりと生え揃っていた。 「…ギャア……オギャァァア……ッ」  口から漏れるのは、赤ん坊の泣き声のようでありながら、喉の奥に痰を絡ませた老人が呻いているような、耳の奥を掻き毟りたくなるようなノイズだった。  何より小都華の理性を破壊しかけたのは、彼らの股間からぶら下がる異様な器官だった。  どす黒く鬱血し、怒張した触手のような巨大な陰茎。その表面には、フジツボや貝殻のような硬質の突起がびっしりと寄生し、粘液を滴らせながら独自の意思を持つかのように脈打って蠢いている。赤ん坊という純真無垢な形態と、肥大化した醜悪な生殖器というアンバランスさが、小都華の脳髄に強烈な生理的嫌悪と恐怖を叩き込んだ。 「ひっ…!」  小都華は後ずさろうとしたが、足が黒い砂に深く沈み込み、動けない。  儀式における本命の器は遥だ。  だが、現世から切り離され、本能と執念の塊となった老いた赤ん坊たちは、目の前にいる若く健康的な予備の器に対して、剥き出しの獣性と肉欲を向けてきた。 「産メ…産メェェェ…ッ!」  泥に塗れた太い腕が伸び、小都華の身体を砂浜へと乱暴に押し倒した。 「やめっ…離せや、バケモノォ!!」  小都華が抵抗して蹴りを放つが、圧倒的な質量と膂力の前には無力だった。彼女の着ていた衣服が、鈍い音を立てて引き裂かれる。下着ごと引き剥がされ、神社で鍛えられた引き締まった健康的な肢体が、冷たい異界の空気と死肉色の月光の下に無防備に晒された。  圧倒的な寒気と、尊厳を力ずくで剥がされる屈辱。  老いた赤ん坊の一体が、小都華の顔の上に跨り、その裂けた口を押し付けてきた。 「んぐっ…!? やっ、んんんっ!!」  顎を強引にこじ開けられ、フジツボの生えたどす黒い触手状の陰茎が、口腔へと容赦なくねじ込まれる。硬い突起が柔らかい粘膜を削り、腐った潮と体液が混ざり合った生臭い粘液が、喉の奥へと強制的に流し込まれる。  息ができない。吐き気で涙が溢れる。  同時に、大股を開かされた彼女の秘所には、別の個体の巨大な触手が押し当てられ、挿入を焦らすように硬いフジツボの表面で大陰唇を執拗に擦り上げていた。 「あぁっ…! うぅっ、んんっ……!」  痛覚と生理的嫌悪感が臨界点に達しているというのに、暴力的な摩擦が神経を直接叩き、彼女の意思とは無関係に下腹部が熱を持ち始める。それが、人間としての意志を完全に屈服させ、ただの「産むための雌肉」へと貶められる決定的な絶望だった。  触手の先端がぬるりと滑り、最も柔らかな入り口へと垂直に押し当てられた。 (アカン…! 月彦…ッ!) ㊽  絶望が黒い泥と化して小都華の全身を這い上がり、その純潔を無残に引き裂こうとした、まさにその刹那だった。  灰色の霧に覆われた蔭洲升の死んだ空気が、甲高い硝子の割れるような轟音と共に物理的な質量を伴って縦に引き裂かれた。 「小都華さんから離れろォォオオオオッ!!!!」  裂け目の向こう側から飛来した怒声は、普段のオドオドとした吃音混じりの少年のものではない。大切なものを穢された者の、沸点を超えた殺意と激情の咆哮だった。  その声に応じるように、月彦の足元から放たれた銀色の光芒が異界の闇を貫いた。  コヅキガルルモンが光の柱に包まれ、その姿を劇的に変容させる。成熟期、完全体という階梯を跳び越え、月光を凝縮したような神々しいワープ進化の光が弾けた。  現れたのは、狼の頭部を持ち、全身に純白の狩衣を纏った身長一・七メートルほどの美しき獣人、究極体・ゲッコウガルルモン。背に負った三日月状の輝く板が意思を持つように分割・浮遊し、瞬時に巨大な青白い弓へと組み上がる。 「蒼月落不離天(そうげつらくふりてん)――ッ!」  ゲッコウガルルモンが弦を引き絞り、月光のエネルギーを番えて放つ。青い光の矢は放射状に拡散し、小都華を囲んでいた老いた赤ん坊たちの醜悪な肉体を次々と射抜いた。 「ギェアァアアッ!?」  神聖な月の光に貫かれた堕子たちは、血の一滴すら流すことなく、腐った海藻と黒い泥の泡となって無惨に弾け飛ぶ。  その光の矢の雨を縫うようにして、一人の少年が黒い砂浜へと着地した。  月彦だ。彼の右手には、青白い呪力が込められた御札がびっしりと巻き付けられた、重厚な鉈が握り締められていた。  月彦の眼球は血走り、普段の弱々しい猫背の面影はない。彼は地を蹴り、小都華の顔に跨がり悍ましい触手を押し付けようとしていた最後の一体に肉薄する。 (これは…以前の蔭洲升の住民!?…いや…そうか正体を看破されて文字通り霧が晴れたのか…これが本当の堕子…異界で時間だけが過ぎた老いた赤子。)  鈍い破裂音が響き、老いた赤ん坊の巨大な頭部が胴体から刈り取られる。切断面からは泥水のような黒いノイズが噴出し、残された巨躯はぶくぶくと醜い泡を立てて小都華の上から崩れ落ちた。 「かはっ、はぁっ、はぁっ…!」  拘束を解かれ、激しくむせる小都華。月彦は鉈を放り出し、泥と体液に塗れた全裸の彼女を強く、壊れ物を扱うように腕の中に抱き寄せた。 「小都華さん…! 遅れて、ごめんなさい。もう大丈夫です…!」  月彦の腕の温もりと、彼自身の震えを感じ取り、小都華の目から安堵と恐怖の入り混じった涙が堰を切ったように溢れ出した。  月彦は小都華の裸身を自分の上着で包み込みながら、周囲から再び這い寄ろうとする堕子たちを氷のような視線で睨みつける。  その時、月彦が開いた空間の裂け目から、白い日傘を畳んだ伽夜子が、冷ややかな殺気を纏って優雅に降り立った。 「全く。可愛い可愛い小都ちゃん気安く触れておいて…事情は察するが…高くつくよ。」 ㊾ 「せや!…っ、遥さん!!」  月彦の腕の中で息を吹き返した小都華は、自身の屈辱を後回しにし、波打ち際へと視線を投げた。  黒ずんだ海面に浮かぶ、葦で編まれた反魂舟。その縁に、泥まみれになった渚遥が、まるで糸の切れた操り人形のように足を掛けようとしていた。  遥の目は完全に焦点を失い、海の向こうにある狂気的な遺跡群だけを見つめている。 「遥さん! アカン、乗ったらアカン!!」  小都華は月彦の腕を振りほどき、全裸に上着を羽織っただけの姿で、黒い海水へと飛び込もうとした。 「駄目です、小都華さん!!」  月彦が咄嗟に彼女の腰に腕を回し、強引に引き留める。 「離せや月彦!!遥さんが…遥さんが行ってまう!!」 「あの海はただの水じゃない!少しでも触れれば、あなたの存在ごと深淵へ引きずり込まれますよ!!」  月彦の切迫した声の通り、葦舟の周囲の波は、不気味に内側から湧き上がるような粘着質なうねりを見せていた。 「…っ!」  小都華の必死の叫びが、僅かに遥の鼓膜を震わせたのか。  舟に足を掛けたまま、遥がゆっくりと首だけを振り向かせた。  その顔は、完全に生気を抜かれていた。青いインナーカラーの髪が顔に張り付き、口元からは力のない自嘲の笑みが漏れている。 「ごめんな…小都ちゃん…。」  遥の目から、一筋の涙が泥に塗れた頬を伝った。 「ウチは、もう、耐えられん…逆らえへんのよ…。お父さんたちに…借りてたもの返さなアカン…。」  涙ながらの謝罪を残し、遥は再び舟へと向き直り、その身体を完全に葦舟の中へと滑り込ませた。 『器が、乗った』 『戸口が、海を覚える』  歓喜に満ちた生臭い呟きが、周囲の霧から湧き上がる。先ほど月彦に切り捨てられた堕子たちが、再び黒い泡から無数に組み上がり、月彦たちと遥の乗る舟の間を塞ぐように壁を作った。  老いた赤ん坊の顔をした異形たちが、よだれと体液を撒き散らしながら迫る。 「チッ…しぶといねぇ。」  伽夜子が扇子を鋭く開いた。 「ブシアグモン殿!露払いを頼むよ!」 「応ッ!ワシのくらいまっくすだな!ばあちゃんのために一丁やってやるけえ!!!」  ブシアグモンが炎の渦に包まれ、成熟期、完全体を超え、その究極の姿を現す。  武士の甲冑を纏った竜人型デジモン、究極体・ガイオウモン。両手に握られた二振りの異形の剣が、怪しい光の軌跡を引きながら構えられた。  ガイオウモンが地を蹴り、交差する斬撃を放つ。菊燐の軌跡に触れた空間そのものが発火し、前方を塞ぐ堕子たちの肉体が次々と両断され、文字通り一瞬にして灰燼へと帰した。 ㊿  ガイオウモンの斬撃が切り開いた視界の先、葦舟が櫂もないのに、不気味な爪音を底から響かせながら、ゆっくりと沖合の儀式場へ向かって滑り出していた。 「遥さん! 目を覚ましてください!!」  月彦が、波打ち際のギリギリまで進み出て絶叫した。 「あなたが聞いている両親の声は、本物じゃない!あなたの罪悪感を利用して、この蔭洲升が作り上げた都合の良い台本です!」  月彦の叫びに、遥の背中が僅かに震える。 「あなたは蔭洲升の生まれなんかじゃない。役割を放棄した罰でご両親が死んだというのも、この海があなたの記憶の空白にねじ込んだ帰郷誤認の呪いだ!!」  波の音に消されまいと、月彦は腹の底から声を振り絞る。 「自分が生き残った意味なんて、そんな呪われた海に探さなくていい! 自分がどれだけ無価値だと思っても…得体の知れない化け物どもに、産むための器として利用されるほど、…いやあなたの孤独も、苦痛も、不安も、後悔も…命も!!!他人が利用していい程安くないんですよ!!」 「せやで遥さん!!!」  月彦に抱き支えられながら、小都華もまた、喉が千切れるほどの声を上げた。 「ウチらを置いてどこ行くんや!!勝手に悲劇のヒロインぶって、こんなキモいバケモノの言いなりになって…そんなん、ウチが絶対に許さへんで!!」 51  二人の声に重なるように、緑色の小さな影が波打ち際へと転がり出た。  傷だらけの身体を引きずり、強制回収経路の逆流という激痛に耐え抜いたベタモンだった。 「ハルカァッ!!!」  ベタモンの絶叫が、黒い水面をびりびりと震わせた。 「俺は知ってんだよ!!お前が俺に、ご両親のことや…死んじまった前の相棒のことを隠してたのもな!!」  舟の上の遥が、はっと息を呑み、肩をすくませた。 「お前が俺を見て、別の奴を重ねてんのも分かってた…俺じゃ、あいつらの代わりになれねぇってこともな!!!!でも…それでも!!」  ベタモンは緑色の涙をボロボロとこぼしながら、砂を掻き毟った。 「今、お前の隣にいんのは俺だ!!俺はお前と一緒にいてぇんだよ!! 勝手にいなくなんじゃねええっ!!」  その愚直で純粋な生者の声が、遥の心を縛っていた呪いの糸を一本、確かに引きちぎった。  遥が舟の上で立ち上がり、手を伸ばそうとする…だが。 『潮が、満ちる』 『戸口が、開く』  海の底から、けたたましいサイレンの音と、ノイズ混じりの祝詞が響き渡った。  遥の意思とは無関係に、葦舟は急激に速度を上げ、霧の立ち込める沖合の儀式場へと吸い込まれていく。伸ばされた遥の手は空を切り、そのまま灰色の靄の中へと消えてしまった。 「…あぁ…っ」  小都華はその場にへたり込み、濡れた砂に両手を突いた。 「…行って、もた…。ウチらの声、届かんかった…海を、渡ってもた…。」  悔しさと無力感に、小都華の拳がギリギリと鳴る。 「…まだです。」  月彦が、力強い声で小都華とベタモンに呼びかけた。 「遥さんが最後に立ち上がったのは、僕たちの声に…現世に、確かな未練を残している証拠です。諦めるには早すぎる。」 「ふふ…随分と弱気じゃないか、小都ちゃん。」  伽夜子が日傘を肩に掛け、扇子で小都華の顎をくいと持ち上げた。その後ろで、ガイオウモンが二本の剣をクロスさせ、静かに闘気を練り上げている。 「ウチらの声が届かんのなら、届く場所まで無理矢理にでも踏み込むまでさ。そうだろ?」 「ええ。この腐った海の呪い…僕たちで、道をこじ開けましょう。  僕の知ってる小都華さんはそういうと思いますよ?」 52 「とはいえ…。」  月彦は視線を落とし、上着一枚羽織っただけの小都華に向けて、僅かに頬を染めながら咳払いをした。 「その前に、服を着てください。風邪を引きますし…色々と、目のやり場に困るので…というか毎回裸ですね…。」  月彦が空間の裂け目に預けていた荷物の中から取り出したのは、神社のアルバイト用の予備の巫女服だった。 「っ!? …ア、アホ!! 見とったんかこのドスケベ!!」  小都華の顔が一瞬にして茹でダコのように真っ赤になり、彼女は上着をギュッと抱き寄せながら月彦のすねを思い切り蹴り飛ばした。 「痛っ!? いや、戦闘中だから仕方なく…!」 「言い訳すな!!変態!むっつりドスケベ!ばぁか!ばぁか!」  涙目で怒鳴り散らしながらも、小都華の顔には生きた血色が戻り、先ほどまでの絶望の影はすっかりと払拭されていた。日常の軽口と温度が、彼女の精神を死の淵から引き戻したのだ。  小都華は岩陰に隠れて素早く巫女服に着替えると、緋袴の裾をパンッと叩き、両頬を気合を入れるように張り飛ばした。 「…よっしゃ!泣き言は終わりや!!」  彼女の足元の影から、クダモンが顔を出す。 「アンタら、好き勝手やった落とし前…キッチリ払わせたるからね!」 「行くで、クダモン! 遥さんを、あの気色悪いのから手からぶち抜くで!!」 53  能舞台を模したその木造の建造物は、海に浮かんでいるというよりも、黒い泥と無数の亡者の怨念によって海底から支えられているかのようだった。  舞台の四隅には古い漁網と髪の毛で編まれた注連縄が張られ、亀甲の紋様が刻まれた床板の隙間からは、絶えず腐った潮が湧き出している。  そして舞台の奥には、遺跡を思わせる巨大で狂気的な石造物が、空を圧するように聳え立っていた。  葦舟が舞台の縁にコツリと当たり、遥は力のない足取りで舞台の中央へと導かれた。  息は荒く、心臓は早鐘のように鳴っている。  月彦たちの声を聞いて現世への未練を取り戻しかけたものの、彼女の身体は儀式の呪縛によって金縛りにあったように重く、逃げ出すことは叶わない。  D-3のエラー音にも似た電子音と、魚市場の競り声、そして讃美歌の音階が狂ったように混じり合う、悍ましい祝詞が空間に響き渡った。  それが、儀式開始の合図だった。  舞台の周囲に鎮座していた無数の堕子たちが、一斉に立ち上がった。  巨大な老いた赤ん坊の姿。全身のたるんだ皺には海水の塩が白くこびりつき、巨大な眼球はまばたき一つせず遥の身体をねっとりと舐め回している。 『潮が合うた』 『名が薄れた』 『器の戸口を開けい』  逃げ場を塞ぐ絶対的な包囲網を敷きながら、堕子たちが遥へと群がり寄る。 「…ッ。」  遥の拒絶の悲鳴は、彼らにとっては声の通りを良くするための歓喜の合図に過ぎなかった。  泥と粘液に塗れた青白い手が、遥の肩を掴む。  下品な音と共に、遥の着ていた黒基調のオフショルダートップスが容赦なく引き裂かれた。 「っ!?」  彼女の細く白い肩と、未成熟ながらも柔らかな胸の谷間が、冷たい異界の空気に晒される。  彼らの目的は生殖。つまり、母体となる器の蹂躙。  太く肥大した指が、遥のショートパンツのベルト飾りに掛けられ、強引に引き剥がされる。抵抗する腕は別の数本の腕に捻り上げられ、黒タイツごと下着が無惨に引き裂かれた。  白い磁器のような遥の全裸が、死肉色の赤い月光の下に暴かれた。 「…!!」  堕子たちは慈悲など持たない。彼らの股間からは、フジツボや貝殻の突起がびっしりと生えた、どす黒く脈打つ巨大な触手状の陰茎が、涎のような粘液を滴らせながら伸び上がっていた。  乙女の身体が、ただ産むための肉壺としてのみ扱われ、四肢を無理矢理に広げられる。  ざらついた肥大した舌が、遥の露わになった乳房を舐め上げ、先端を容赦なく噛み吸う。 「ひぃっ…! あ、いやぁっ……!」  痛覚と同時に強制的に引き起こされる神経のスパーク。下腹部に押し当てられた巨大な肉の棒が、処女の秘所をこじ開けようと、ずるりとその亀頭を押し付けた。  遥の青い瞳から、絶望の涙がとめどなく溢れ出した。 54  遥の細く白い四肢は、冷たくぬめった亀甲紋の床板の上に無惨に磔にされていた。  それは、もはや暴力と呼ぶことすら生ぬるい、尊厳の蹂躙であった。  遥を取り囲むのは、巨大な「老いた赤ん坊」たち。生後間もない乳児の輪郭を持ちながら、その皮膚は老婆のように幾重にもたるみ、海水を吸ってふやけた和紙のように青白く変色している。まばたきを忘れた巨大な眼球が、魚のように左右別々の方向へぎょろりと動き、遥の全裸の肢体を、ただの「産むための肉壺」「現世へ這い出るための戸口」としてのみ品定めしていた。 『ええ器や』 『波の癖が、よう染みとる』  しわがれた老人のような、それでいて赤ん坊の泣き声を切り刻んで繋ぎ合わせたような悍ましいノイズが、頭上から降り注ぐ。  泥と粘液に塗れた太く短い腕が、遥の豊かな乳房を鷲掴みにした。慈しみなど微塵もない。それは泥団子を捏ねるかのような、あるいは家畜の肉付きを確かめるような、無慈悲で乱暴な手つきだった。 「あぁっ…!っ…っ…!」  遥が喉を引き攣らせて身を捩るが、その抵抗すらも彼らにとっては声の通りを良くするための儀式の一部でしかなかった。  別の腕が遥の黒髪を無造作に掴み、強引に頭を後ろへ引き仰け反らせる。頭皮が剥がれるような痛みに、遥の口が声にならない悲鳴の形に開かれた。  その無防備に晒された白い首筋から胸元へ、表面が紙やすりのようにざらついた肥大した舌が、どろりとした生唾を撒き散らしながら這い回る。 「ひっ…! うぅっ、あぁああっ…!」  柔らかな乳首が容赦なく噛み吸われ、引っ張られる。痛覚と、それを無理矢理に異形の媚薬成分が、遥の理性を白く濁らせていく。  彼らの股間からは、フジツボや細かい貝殻がびっしりと寄生した、どす黒く鬱血した巨大な触手状の陰茎が、みみずのようにうねりながら粘液を滴らせていた。それが遥の太腿の内側を這い上がり、最も無防備な秘所の入り口へと擦り付けられる。  人間としての意思、誇り高き少女としての自尊心が、圧倒的な生理的嫌悪と強制的な快楽のノイズによってドロドロに溶かされていく。  自分がただの穴へと貶められていく絶望。逃げ場のない肉体的な苦痛と屈辱の連鎖の中で、遥の意識は次第に現実の輪郭を保てなくなっていった。  視界が明滅し、堕子たちの生臭い息遣いも、波の音も、遠くへ遠くへと退行していく。  遥の精神は、自らの内に穿たれた深く暗い喪失の海へと、泥のように沈んでいった。 55  ―タスケテ。  ふいに、耳元で掠れた声がした。  その声を聞いた瞬間、遥の意識は、生温かい泥の底から唐突に引き上げられた。  目を開けると、そこは先ほどまでの陰惨な儀式場ではなかった。  頬を打つのは、肌を焦がすような熱風。鼻腔を突くのは、腐った海藻の臭いではなく、ガソリンが燃える強烈な化学臭と、焦げたゴムの臭い。 「…お父さん?お母さん…?」  遥が振り返った先には、真っ赤に燃え盛る炎の壁があった。  夜の海。岸壁から転落し、半分海水に沈みながらも猛烈な炎を上げている一台の乗用車。  それは、遥が経験しなかったはずの、しかし彼女の脳裏に呪いのように焼き付いている、両親が命を落としたあの凄惨な事故現場そのものだった。  燃え盛る炎を背にして、二つの人影が立っていた。  炎の熱を全く受けていないかのように青白く、輪郭のぼやけた両親の姿。 「お父さん!お母さんッ!」  遥は泣き叫びながら、炎と波が交錯する岸壁へと駆け出した。  手を伸ばせば届く。今度こそ、自分もその手にしがみつくことができる。自分だけが取り残される運命を、書き換えることができる。  だが、遥が足を踏み出すたびに、両親の姿は蜃気楼のように揺らぎ、まるで足裏が地面から浮いているかのように後退していく。 「待って!置いていかんといて!」  遥の悲痛な叫びを無視するように、幽霊となった両親は、背を向けたまま暗い夜の海を滑るように遠ざかっていった。 56  気がつけば、足の裏には焼けつくようなアスファルトの熱があった。  どこかの軒先で揺れる、透明なガラスの風鈴の音が、鼓膜を優しく打つ。  空は突き抜けるような青。耳鳴りのような蝉時雨。蚊取り線香と、干物の匂い。  そこは、遥が幼い頃に見ていた、美しい思い出の王港町の夏の風景だった。  遥の視線も、いつの間にか幼い子供の高さへと下がっている。  路地の先を、見覚えのある二つの背中が歩いていた。  買い物袋を下げた母親と、少し前を歩く父親。 「お母さん!お父さん!」  遥は短い足を懸命に動かして、二人を追いかけた。  待って。お願いだから、振り向いて。ウチも一緒に連れてって。  けれど、二人は一度も振り返らない。夏の強烈な日差しが落とす濃い影の中を、無言のまま歩き続ける。  眩しい日差しが濃く生物の腐臭に近い臭いを漂わせる。  やがて二人は、見慣れた古い平屋―遥の生家―の玄関先へと辿り着き、その薄暗い奥へと吸い込まれていった。 「待って!」  遥は息を切らしながら生家に駆け込み、重い木枠の引き戸に手を掛けた。  乾いた音を立てて、戸が開く。  その先に待っているのは、出汁の匂いがする台所と、扇風機の回る居間のはずだった。 57  しかし、開かれた空間に、夏の温度は存在しなかった。  頬を撫でたのは、ホルマリンの冷たく鋭い薬品臭と、骨の髄まで凍りつくような冷気だった。  無機質で重たい冷蔵設備の稼働音だけが空間を支配している。  窓一つない、無機質なコンクリートの壁。  部屋の中央に置かれた、冷たいステンレス製の二つの寝台。  そこは、警察署の地下にある死体安置所だった。  寝台の上には、白いシーツが被せられた二つの人型の膨らみがある。  遥の足が、恐怖で縫い止められたように動かなくなる。それでも、見えない糸に引かれるように、彼女はゆっくりと、ゆっくりと寝台へと近づいていった。  指先が震える。白いシーツの端を掴み、そっと引き下げた。  そこにあったのは、青ざめ、目を固く閉じた両親の顔だった。 「…ああ…あぁ…っ。」  遥の口から、絶望の嗚咽が漏れた。  その時。  死体であるはずの両親の、紫に沈んだ唇が、わずかに動いた。 『…来て、くれたんやね…遥…。』  声帯を使わない、空気が漏れるような音が、遥の脳髄を直接引っ掻いた。 『でも…遅かったわ…。ウチら、死んでしもたんよ…。』 『冷たかった…熱かった…苦しかった…。なあ、遥…なんでやと思う?』  閉じたままの瞼から、赤黒い水がタラリと流れ落ちる。 『なんで、ウチらだけが死ななアカンかったんや…?』 『なんで、お前だけが…涼しくて温かい場所で、息をしとるんや…?』 「ちが…違う、ウチは…!」  遥の呼吸が浅く、異常な速さで繰り返される。過呼吸だった。  罪悪感が、物理的な刃となって彼女の心臓を滅多刺しにする。両親の呪詛は、遥自身が何千回、何万回と自分自身に問い続けてきた、自罰の言葉そのものだった。 58  ひゅっ、と息を吸い込んだ瞬間、凍りつくような安置所の冷気は、唐突に焼け焦げるような熱波へと反転した。  ざばり、と重い波の音がする。  気がつけば、遥は夜の海辺に広がる、黒ずんだ砂浜の上にうずくまっていた。  すぐ隣では、あの事故車がごうごうと炎を上げて燃え狂っている。熱気が肌を焼き、火の粉が舞い散る。  そして、燃える車の反対側、波打ち際のギリギリのところに、両親が立っていた。  炎の明かりに照らされた二人の姿は、あのノスタルジックな王港町を歩いていた時と同じ、生前の優しい輪郭を保っているように見えた。  遥は砂に両手をつき、這いつくばるようにして二人の足元へとすがりついた。 「お父さん…お母さん…ごめんなさい…っ。」  砂に額を擦りつけ、遥は狂ったように謝罪の言葉を紡いだ。 「ウチだけ生き残って…ほんまにごめんなさい…っ! あの日、一緒に車に乗っとったら…ウチも一緒に死ねたのに…っ!」  自分が生きていることそのものが罪なのだ。  この命は、両親を犠牲にして得た、不当な盗品なのだ。 「許して…どうか、ウチを許して…。」  遥は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、赦しを乞うように、すがるような思いでゆっくりと顔を上げた。 59  だが、見上げた先にいたのは、優しく微笑む両親などではなかった。 「…あ、…ぁ?」  遥の喉が、恐怖で完全に引き攣った。  目の前に立つ二つの肉塊は、人間の形を辛うじて保った、醜悪極まりない巨大な水風船へと変貌していた。  海水と腐敗ガスによって極限まで膨張した皮膚は、土気色とドス黒い紫が混ざり合った毒々しい色に変色し、今にも破裂しそうに張り詰めている。  服ははち切れんばかりにパツパツになり、皮膚の表面は長時間水に浸かったことでぶよぶよにふやけ、所々が濡れた和紙が剥がれるようにズルリと崩れ落ち、その下からどす黒い赤身と黄色い脂肪が覗いていた。  顔は、もはや生前の面影を微塵も残していない。  眼球は腐敗ガスに押し出されて眼窩から飛び出し消え失せ、白濁したゼリーのようにドロドロに溶け崩れている。  その空っぽになった黒い眼窩の奥からは、無数の白い蛆虫と、節足を持つフナムシのような海の這い回る虫たちが、ぞろぞろと群れを成して這い出し、頬の肉を食い破りながら蠢いていた。  口は、パンパンに膨れ上がった唇からガスが逃げきれず顎を破壊し腐臭と共に発散していた。  その隙間からは、真っ黒に腐った歯肉と、緑色のドロドロとした腐水が滝のようにこぼれ落ちている。 『…は…る…か……』  腐水で溺れるような、ごぼり、という音が喉の奥で鳴る。  膨張した母親の腕が、ずるりと剥がれた皮膚を引きずりながら、遥の顔へと伸びてきた。  爪の間にヘドロと髪の毛が詰まったその指先から、ポタトリと、異臭を放つ蛆の塊が遥の頬に落ちる。 「いやあああああああぁぁぁああぁあぁっっっ!!!!」  人間の精神の限界容量を優に超えた、絶対的な恐怖と狂気。  遥の口から、喉が裂け、血を吐くような絶叫が黒い夜の海に向かって木霊した。 60  網膜の裏側に焼き付いた、無数の蛆が蠢く両親の腐乱死体。  その幻視に精神を完全に破壊された遥の意識が、暗い泥の底から現実の儀式場へと浮上させられた。  だが、そこにあるのは救いではなく、さらなる絶望の延長でしかなかった。  遥の細く白い四肢は、冷たくぬめった亀甲紋の床板に力なく投げ出されていた。瞳孔は開ききり、青い瞳からはもはや焦点はおろか、涙の艶すら失われている。ただ、浅く引き攣った呼吸だけが、彼女が辛うじて生きた肉塊であることを証明していた。  そんな虚ろな器へと成り果てた彼女を巨大な老いた赤ん坊がずしりと尻肉を楽しみ持ち上げた。  塩水でふやけ、ぶよぶよとたるんだ青白い老人のような皮膚。それでいて骨格の比率は乳児という、視覚の処理を拒絶したくなるような異形。  その巨大な顔面が、引き裂かれた衣服の下から露わになった遥の小さな乳房へと、ゆっくりと沈み込んでいった。 「…ァァ……ア……」  赤子の泣き声と、老人の嗄れた呻き、そして波の砕ける音が混ざり合ったような悍ましいノイズが、遥の耳元で粘りつく。  巨大な口が開き、黄ばんだ不揃いな歯の奥から、ザラザラとした肥大した舌が這い出した。それは赤子が母乳を求めるような無垢な仕草ではなく、死肉に群がるヒルが血をすするような、貪欲な接触だった。  じゅるり、と、強烈な腐臭を放つ唾液を撒き散らしながら、分厚い唇が遥の乳輪を丸ごと咥え込む。 「…っ。」  遥の口から、意味を成さない空気が漏れた。乳頭を舌の裏で執拗に転がされ、歯を立てて噛み吸われる。痛覚と、それを強引に神経のスパークへと変換しようとする粘液の媚薬成分が、彼女の身体をピクピクと痙攣させる。  だが、それは決して快楽ではない。自身の肉体が、人格を持った一人の少女から、共同体の怨念を現世に産み落とすための給餌器へと構造を変えられていた。  腐った海藻と鉄錆の臭いが遥の鼻腔を塞ぎ、老いた赤ん坊のたるんだ頬の肉が彼女の胸元にべちゃりと押し付けられる。圧倒的な生理的嫌悪。吐き気を催すほどの肌の密着。それらが、遥の尊厳という名の薄い膜を、少しずつ、しかし確実に削り取っていった。 61  儀式場を包む狂気は、さらにその湿度と熱を増していく。  舞台を囲む堕子たちが、這いながら狂乱を踏み始めた。 『名を戻せ』『潮を満たせ』『器に海を覚えさせい』  低い読経のような呟きが、やがて魚市場の競り声のようなけたたましい早口へと変質し、D-3のエラー音と完全に同期したリズムで空間を打ち据える。  彼らは自らの異形な身体を硬い床に叩きつけ、肥大した手で自らの顔や股間を掻き毟りながら、口から黒く濁った潮の飛沫を撒き散らした。  それは豊穣を祈る祝祭ではなく、死者が生者の肉を羨む狂騒だった。  遥を抱えた老いた赤ん坊もまた、興奮に巨大な眼球を不規則に泳がせ、口からとめどなく粘り気のある汚水を溢れさせた。  ぽたり、ぽたりと。  海底のヘドロを煮詰めたような、黒く生臭い腐水が、遥の白い頬へ、虚ろに開かれた唇へ、そして泥に汚れた胸元へと容赦なく降り注ぐ。 「ん…ぅ、ぐ…っ。」  口の端に溜まった腐水が気管に入り、遥は力なく咽せた。だが、巨大な手によって顎を固定され、顔を背けることすら許されない。彼女の全身は、堕子たちが撒き散らす「帰還の儀式」という名の穢れた飛沫によって、頭の先からつま先までどろどろに汚されていく。  それは直接的な性行為を凌駕していた。  純潔な少女の身体が、異界の粘液によって文字通り染め上げられ、蔭洲升の母としての属性を強制的に書き込まれていく。  空ろな黒い瞳に、赤く腫れ上がった月が滲んで見えた。 (…もう、ええ…。)  遥の心の奥底で、最後の抵抗の火が消えかかっていた。どうせ自分は、あの日に死ぬべきだったのだ。この冷たい泥に塗れて、バケモノたちの苗床になることこそが、生き残ってしまった自分が支払うべき代償なのだと。 62 『戸口が、開く』  先導役の堕子が、粘りつくような声を上げた。  その言葉を合図に、遥の身体を押さえつけていた無数の手が、彼女の細い両足首をガッチリと掴んだ。 「あっ…!」  抗う間もなく、遥の両脚が床板の上で、強引に左右へと大きく押し開かれた。膝を曲げられ、最も無防備で秘められた部分が、死肉色の月光と堕子たちの視線の前に完全に曝け出される。  産褥の姿勢。あるいは、生贄を捧げる祭壇。  遥の股間の前に、一体の特に巨大な老いた赤ん坊が這い寄ってきた。  その股間からは、フジツボや細かい貝殻がびっしりと寄生した、どす黒く鬱血した触手状の巨大な陰茎が、意思を持つように鎌首をもたげている。  じゅるり、と、先端から糸を引くような濃密な粘液が滴り落ち、亀甲紋の床板を焦がすように濡らした。 「…ッ」  極限の恐怖が、遥の凍りついていた喉から引き攣った悲鳴を絞り出させた。  硬いフジツボの表面が、彼女の太腿の内側をザラリと撫で上げる。  その熱を帯びた生臭い質量が、ついに遥の秘所の入り口へと真っ直ぐに向けられた。あと数センチ。あと数秒で、このおぞましい肉の楔が彼女の最も深い場所を貫き、蔭洲升の呪われた泥を胎の奥底へと注ぎ込むだろう。  尊厳の完全なる破壊。人間としての生の終わり。  遥はきつく目を閉じ、奥歯を噛み締め、最後の一雫となった涙を頬に滑らせた。  ―そして、異形の先端が、薄い粘膜に触れようとした、まさにその刹那だった。 63   空気を劈く、ガラスを引っ掻くような極大の高周波が、儀式場の重い波音を完全に掻き消した。  絶望的な距離を隔てた海のこちら側で、月彦の右手に握られたデジヴァイスiCと、伽夜子の青いデジヴァイスiCが、同時に、そしてかつてないほどの激しい光量で明滅していた。 「伽夜子さん!!」 「合わせるよ、月彦君!!」 「右手に月の真を!」「左手に陽の理を持って!」 「「今!力を重ね!解き放つ!!!」」  二人の声が完全に重なり合う。彼らの前に立つゲッコウガルルモンとガイオウモン、二体の究極体デジモンの身体が、青と赤の極光となって溶け合い、そして螺旋を描きながら空高くへと昇っていった。  二つの異なる頂点が交わり、神話すら超越する特異点が顕現する。  光の柱が弾け飛び、死んだ海を照らし出した。  そこに浮遊していたのは、全長四十メートルにも及ぶ、圧倒的な質量と神聖な武威を纏った武神、オメガモン・天叢雲(あめのむらくも)が顕現した。  武者兜を模した頭部、和服をはだけさせたような雄々しい腰布。その右腕にはゲッコウガルルモンの頭部を模した巨大な青白い弓が備わり、左腕にはガイオウモンの頭部から長く伸びる、炎を纏った絶刀の日本刀。  その存在自体が、蔭洲升の狂った空間に対する絶対的な拒絶だった。  オメガモンは、月彦と伽夜子を巨大な肩にふわりと乗せると、ゆっくりと左腕の絶刀を天段へと構えた。  そして、遥を隔てる暗く濁った陀金の海へ向けて、無造作に、ただ一太刀、刃を振り下ろした。  轟、という、世界が根底から割れるような音がした。  刃の軌跡から放たれた目も眩むような閃刃が海面を叩き割る。  次の瞬間、左右にそそり立つ巨大な水の壁を残して、黒い海が真っ二つに割け、直線的な道が儀式場へと真っ直ぐに繋げた。 「行けぇぇえええッ!!」  月彦が、喉が張り裂けんばかりの絶叫で叫ぶ。 「任せときやぁあああッ!!!」  小都華が、泥だらけの素足で海底の基板を踏み砕きながら、弾かれたように走り出した。彼女の足元では、ベタモンが水飛沫を上げて並走し、肩にはクダモンがしがみついている。 64  小都華たちが割れた海の道を駆け出した直後、海底の底知れぬ闇がボコボコと沸騰するように泡立った。 「…月彦君。どうやら、彼らも本気で門を閉ざすつもりらしいよ」  伽夜子が扇子で指し示した先。  オメガモン・天叢雲の前に立ち塞がるように、左右の水の壁から二つの巨大な影が這い出してきた。  一つは、骨だけになった巨大なクジラの姿をしたスカルホエーモン。  もう一つはレガレクスモン。  どちらも、蔭洲升の偽の信仰に引き寄せられ、海の深淵から呼び出された本物の亡霊たちであった。  スカルホエーモンの巨大な肋骨の隙間からは怨念の瘴気が漏れ出し、レガレクスモンの鋭い牙は獲物を噛み砕くためにカチカチと鳴っている。  その圧倒的な威容を前にしても、月彦は微塵も怯むことはなかった。  彼の眼差しは、走っていく小都華の背中をただ信じ抜いている。 「伽夜子さん。ここは、僕たちで引き受けます」 「当然だ。小都ちゃんたちの道を、一ミリたりとも邪魔させはしないよ」  オメガモン・天叢雲が、悠然と、だが山を切り崩すような重厚な足取りで一歩前へ出た。左腕の日本刀に纏わった炎が、スカルホエーモンたちの放つ冷気を蒸発させる。  巨神と巨神の激突。その余波だけで、蔭洲升の空間が悲鳴を上げて軋み始めた。 65  小都華は、巫女服の緋袴の裾を重く濡らしながら、海底に敷き詰められた古い畳と電子基板の道を無我夢中で走っていた。  息が上がり、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく脈打つ。足の裏はガラス片のような基板に切られて血を流していたが、そんな痛みなどどうでもよかった。  視線の先、儀式場の舞台の上で、醜悪な堕子の群れに囲まれ、四肢を開かされている遥の姿が見える。  絶望に瞳を閉じ、全てを諦めようとしているその横顔に、小都華は腹の底から怒鳴りつけた。 「アホかぁあああッ!! 遥さぁあああん!!!」  その声は、読経や讃美歌といった不気味な祝詞の壁を物理的にぶち破り、一直線に遥の鼓膜へと届いた。  遥が、弾かれたように目を見開く。 「目ぇ開けや!!諦めんな!!!」  小都華は走りながら、自分の持ち得る「生きた記憶」の全てを、言葉という名の弾丸にして遥へと叩きつけた。 「昨日、ブルーハワイのかき氷食うて、舌真っ青にして笑っとったやろ!!!」  堕子たちが、邪魔者の闖入に気づき、不快な呻き声を上げる。 「ラムネのビー玉ひとつ上手く押し込めへんで、ウチに手伝わさせたくせに!!!」  距離が縮まる。あと数十メートル。 「焼きとうもろこし落としたくらいで、この世の終わりみたいな顔して悔しがっとったやろが!!!」  遥の青い瞳から、虚無の濁りがパラパラと剥がれ落ちていく。  そこにフラッシュバックするのは、暗い海の幻影ではない。あの波止場の強烈な日差し、冷たい氷の舌触り、醤油の焦げる匂い、そして小都華の騒がしい笑い声。 「これからだって!!そんな事ごっつあるんや!!!遥さんのオトンもオカンもあんたをこんな事の為に産んだんちゃうわ!!!」  小都華の目から、ボロボロと大粒の涙が溢れる。 「あの日、資料館でウチの手を握り返したん、嘘やったんか!!」  小都華は息を大きく吸い込み、魂の底から最後の言葉を放った。 「ウチらと一緒に帰りたいって、自分で言えええええッ!!!!」 66  風鈴の音が、遠くから聞こえた。  極限の恐怖によって破壊されかけた遥の意識は、ふと、薄皮一枚を隔てたような奇妙な静寂の中にあった。  気がつけば、彼女は夏の王港町の路地に立っていた。痛いほどに白く明るい日差し。アスファルトに落ちる濃い影。鼻腔をくすぐる潮風の匂い。  だが、先ほどまでの肌を焦がすような熱気も、息苦しさもない。すべてがセピア色に退色し、古いフィルム映画の中に入り込んだように穏やかで、痛覚も恐怖も綺麗に濾過されていた。 (…ウチは、どうしたらええんやろ。)  目前には、見覚えのある二つの背中があった。  振り返った両親の顔は、もう蛆が蠢き腐水に溺れる醜悪な水死体ではなかった。いつか見た、記憶の中の、優しく微笑むありし日の顔だった。 『遥。ウチらと一緒に、蔭洲升に帰ろう』  母の声がした。それは怪異が模倣した水泡混じりのノイズではなく、鼓膜に心地よく響く、甘やかな声音だった。  これについて行けば、もう苦しまなくていい。罪悪感に苛まれ、自分を責め続け、あの暗い海を睨み続ける日々は終わる。何も考えず、ただこの優しい温度のなかに溶けてしまえばいい。  遥はこくりと頷きかけ、両親の差し出す手を取ろうと、ゆっくりと腕を上げた。 67  気がつけば、三人は夏の海の浅瀬を歩いていた。  足首を浸す海水は、羊水のように生温かく、足を動かしても一切の抵抗がなかった。  水面はあり得ないほどに透明で、サファイアを砕き散らしたようにキラキラと輝いている。空と海の境界線が溶け合い、どこまでも果てしなく続く、残酷なほどに美しい青の世界。  苦痛も、悲しみもない、永遠の静寂。  両親が前を歩き、遥がその後ろをついていく。  だが――。 「ウチらと一緒に帰りたいって、自分で言えええええッ!!!!」  ガラスを叩き割るような小都華の絶叫が、遠くから、遥の脳髄を直接揺さぶった。  その声には、ラムネの瓶の冷たさ、焦げた醤油の匂い、舌を染めたかき氷の青、そして泥に塗れて泣き叫ぶ生者の熱が、ぎっしりと詰まっていた。  ピタリ、と。  遥の足が、浅瀬の中で止まった。 『どうしたんだい、遥』  父親が優しく振り返る。  遥は、きつく唇を噛み締めた。そして、ゆっくりと首を横に振った。 「ごめん……お父さん、お母さん」  遥の口から出た言葉は、先ほどまでの自罰的な謝罪とは違っていた。 「ウチ、そっちには……お父さんたちのところには、行けへん」 『なぜだい? ここなら、もう誰も泣かなくていいんだよ』 68  遥の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、透明な水面を叩いた。 「…友達が、できたんよ」  遥は、両手で顔を覆うようにして泣きじゃくった。 「乱暴で、ガサツで、口悪くて、でもウチのこと本気で怒ってくれる……友達が。」  脳裏に浮かぶのは、自分を助けるために泥だらけになり、醜悪な化け物に凌辱されながらも、決して瞳の光を失わなかった少女の姿だった。 「ベタモンも…前の相棒の代わりなんかやない。  今のウチの、大事な相棒なんよ。月彦はんも、伽夜子はんも…ウチみたいなもんを心配して、あんな危ないトコまで、泥だらけになって来てくれた」  罪悪感は消えない。両親を失った悲しみも、海への根源的な恐怖も、一生消えることはないだろう。  それでも。 「ウチは……また小都ちゃんたちに会いたい。一緒に、笑いたいんよ」  死者の声に耳を傾けるのではなく、今、自分のために泥だらけになっている生者の声に応えたい…何より自身が生きたいと願った。  遥は嗚咽を漏らしながら、何度も何度も頭を下げた。 「ごめん…ごめんなさい…ッ。」 69  遥が顔を上げると、両親は怒っても、悲しげな顔もしていなかった。 『…そう』  母親が、生前の穏やかな微笑みを浮かべた。 『行きなさい、遥』  父親もまた、優しく頷いている。 「ええの?」 『…あぁだって遥は―。』  それは、蔭洲升というシステムが遥を縛り付けるために用意した両親の声ではなかった。  夏の海と日差しに溶けていく。   70 「…かえり、たい…」  床板に押さえつけられていた遥の唇が、かすかに動いた。  虚無に沈んでいた青い瞳に、はっきりと生者の光が灯る。 「小都ちゃんと、みんなと…一緒に…帰りたい…!」  それは、小さくも明確な、遥自身の意志だった。  堕子たちが一斉に不快なノイズを上げ、遥の四肢をさらに強く拘束しようとした。  遥の引き裂かれた衣服の残骸。そこに転がっていた青いD-3が、けたたましい警告音と共に、強烈な発光を放った。 画面を埋め尽くしていたエラーコードが一掃され、正常なデジソウルの光が溢れ出す。  その光は、オメガモン・天叢雲が切り開いた海の道を疾走してくるベタモンとクダモンの身体を真っ直ぐに包み込んだ。 「ハルカァァアアアッ!!!!」  べタモンンの叫びが重なる。  光の奔流の中で、緑色の小さな身体が長大な海竜へと変容する。水飛沫を上げて顕現したのは、成熟期デジモン、シードラモン。  同時に、クダモンもまた純白の八枚の翼を広げ、神聖なる天使、エンジェウーモンへと再進化を果たした。 「舐めんなやァッ!!」  エンジェウーモンが空高く舞い上がり、両手でホーリーアローを番える。  シードラモンが巨大な尾を水面すれすれで振り抜き、遥に群がっていた老いた赤ん坊たちを文字通り木っ端微塵に弾き飛ばした。 「ギェアァアアアッ!?」  神聖な矢と、荒れ狂う水流の直撃を受けた堕子たちは、醜悪な肉体を維持できず、黒い泡となって儀式場の床に次々と崩れ落ちていった。 71 「遥さん!!」  弾き飛ばされた堕子の隙間を縫うようにして、小都華が儀式場の舞台へと滑り込んだ。  彼女の足元で、轟音と共に割れていた海がゆっくりと閉じ始め、オメガモンの絶刀による道が元の暗い海面へと戻っていく。だが、もう逃げ道がなくなったという絶望感は微塵もなかった。  小都華は、全裸のまま身体を震わせている遥のもとへ駆け寄る。  遥がそのまま思い切り抱きしめた。 「小都、ちゃん…っ」 「アホ!アホォ! どんだけ心配したと思っとるんや!!」  小都華の体温。泥と汗の匂い。そして、耳元で張り上げられる大きな声。  遥は小都華の背中に腕を回し、顔を埋めて声を上げて泣いた。 「ごめん…ごめんな…っ、小都ちゃん、小都ちゃん……!」 「もうええ!もうええから!」  二人の少女が、泥だらけの儀式場の中心で、互いの名前を何度も呼び合いながら抱き合って泣いている。  その傍らでは、巨体を解いて小さな緑色の姿に戻ったベタモンが、鼻をすするような音を立てながら、嬉しそうにその光景を見上げていた。 「…へへっ。遅ぇんだよ、バカハルカ」 「べタモンも…ありがと…流石はウチの相棒や。」  それは、神の儀式でも、死者の供養でもない。ただの不器用な生者たちが、泥と涙に塗れて生を掴み取った瞬間だった。 72  遥の帰りたいという意志の言葉が、蔭洲升の偽りの祭礼を完全に破壊した直後だった。  儀式場の舞台の奥、分厚い帳の向こうに安置されていた潮胎殻…女性の身体と深海魚が混ざり合ったような、腐敗した遺骸が、突如として悍ましい痙攣を始めた。  びち、びち、という、水揚げされた魚が甲板で跳ねるような音が響く。  遺骸を包んでいた乾かない白布が、内側から膨張する巨大な圧力に耐えきれず、鈍い音を立てて引き裂かれた。  中から溢れ出したのは、羊水などではない。鉄錆と腐った海藻を煮詰めたような、真っ黒な汚泥だった。  それは誕生という生命の神秘からは最も遠く離れた、不浄なる吐き戻しであった。  ずぶり、と。  引き裂かれた子宮の裂け目から、這い出してきた何か。  全長にして五メートルはある塊。  その輪郭は、確かに大人男性の比率を保っていた。頭部が異様に大きく、手足は短く太い。だが、その皮膚には生後間もない瑞々しさなど微塵もなかった。長時間、塩水に漬けられて極限までふやけ、赤子…そして老人のように幾重にもたるみ、深い皺が刻まれた、死肉色の青白い皮膚。  その巨大な顔面には、まばたきを忘れた白濁した眼球が嵌め込まれ、半開きの口からは、不揃いに黄ばんだ成人の歯が剥き出しになっていた。  肩や胸、脇腹にかけては、軟骨と肉が異常に隆起し、鎧板のような形状を作り出し、大刀の様な胎盤を抱えていた。 『エ…エフゥ…エ…エぇ…。』  口から漏れたのは、赤ん坊の産声と、老人の嗄れた嗚咽、そして波の砕ける音が無理矢理に縫い合わされたような、鼓膜を削るノイズだった。  這い出した巨大な老いた赤子は、自らが引き裂いた遺骸の胎盤と、極太のへその緒を自らの右腕にぐるぐると巻き付けていた。  どす黒い膜に覆われたそれは、まるで禍々しい大剣のように長く伸び、先端から生臭い血と粘液を滴らせていた。  生理的嫌悪の極致。平山夢明的な、視神経を直接汚染するような圧倒的な醜悪さが、舞台の上を這い回っていた。 73 「…なんなんや、あれ…っ。」 「クソ…ここまで来て…!」  小都華は、遥を庇うように立ち塞がりながら、そのあまりの悍ましさに胃液が込み上げてくるのを必死に堪えていた。  割れた海の道を挟んだ向こう岸から、月彦がデジヴァイスiCの画面を睨みつけだた。 (NO DATA…ERROR…!駄目だ、個体の識別ができない…!祭壇にあるって事はアレが蔭洲升の核か?  あの姿形…死肉と臓物で模造してるとはいえ…!) 「スサノオモン…っ。」  それは、伝承に名を残す東方の神の力を、極めて冒涜的な形で現世に引っ張り出そうとする蔭洲升の悪意の結晶だった。 「小都華さん!!アマテラスモンに進化させてください!アレを打ち破るには!!!!」  月彦の切迫した叫びに、小都華はエンジェウーモンを見上げた。  だが、純白の八枚の翼を持つ天使は、膝をつき、苦しそうに肩で息をしていた。 「…!」  小都華が悲痛な声で返す。 「ウチもクダモンも、身体に力が入らへん…!なんか、見えない泥みたいなもんが、身体の芯にへばりついとるみたいで…!」  空間の裂け目の傍らに立つ伽夜子が、扇子を鋭く閉じて舌打ちをした。 「…当然だ。アレは蔭洲升の…核…堕子たちの執念が極限まで濃縮された領域でもある。  神聖な進化を阻害するものが溢れたんだろう。」  伽夜子の分析の通り、老いた赤子が現れてから濃くなった腐臭と重い湿気は、ただの空気ではなく、デジモンのデジコアの活動を強制的に沈静化させる呪いであった。 「…このままじゃ…!」 74  老いた赤子が太くたるんだ脚で、塩を噛んだ亀甲紋の舞台を大きく踏み鳴らした。  その一歩は単なる重量によるものではない。周囲の空間にへばりついていた腐った海藻と焦げた基板の臭いが一気に圧縮され、爆発的な圧迫感となって小都華たちの肺を押し潰す。 「シードラモンッ!!!」 「エンジェウーモンッ!!!」 遥と小都華の絶叫が、死んだ空気を切り裂いて交差する。 老いた赤子の右腕から伸びる巨大な胎盤の剣が、唸りを上げて横薙ぎに振り抜かれた。  それは光を帯びた神聖な刃などではない。赤黒い膜に覆われ、脈打つ臍帯が絡み合った、死肉と臓物である。  空気を斬るのではなく、空間に刻まれた生者の帰属先を削り取るような、悍ましい軌跡を描く黒い斬撃だった。  迎え撃つべく飛び出したシードラモンの青い巨体が、宙で激突する。 シードラモンは鋭い牙で肉の剣を食い破ろうとするが、刃から溢れ出す濃密な呪詛の波に押し返される。 「ぬ!??あぁぁっ!」  続いて展開されたエンジェウーモンの神聖な防壁も、触れたそばから古い写真のフラッシュのように濁り、ひび割れていく。  彼女の純白の八枚の翼は、この儀式場を覆う堕子たちの執念——目に見えない泥のような湿気——に絡め取られ、機動力を完全に奪われていた。  黒い斬撃が、二体のデジモンの腹部を容赦なく直撃する。 75 「シードラモンッ!!!」 「エンジェウーモンッ!!!」  遥と小都華の絶叫が交差する。  老いた赤子が、太くたるんだ脚で舞台の床を強く踏み鳴らし、渾身の力を込めて胎盤の剣を横薙ぎに振り抜いた。  黒い斬撃が、二体のデジモンの腹部を直撃した。  神聖な純白の衣が裂け、シードラモンの青い鱗が砕け散る。二体はくの字に身体を折り曲げながら、砲弾のように吹き飛ばされ、遥と小都華のすぐ目の前、塩を噛んだ亀甲紋の床の上に、仰向けに激突して倒れ込んだ。 「…嘘やろ…。」  小都華の顔から血の気が引く。  老いた赤子が、二人の少女へ向かって、その巨大な影を落としながら歩み寄ってくる。  見上げるほどの巨躯。腹の肉の隙間をパクパクと開閉し、声なき呪詛を吐き出している。  むせ返るような腐臭と、見下ろしてくる焦点の合わない巨大な眼球。  それは、もはや足掻くことすら許されない、死という物理的な壁が迫ってくるような、圧倒的な絶望感だった。  老いた赤子が、トドメとばかりに胎盤の剣を高く振り上げる。  月彦も伽夜子も、遠く離れた対岸からでは物理的に間に合わない。  小都華が遥を庇うように抱きしめ、固く目を閉じた。  ―その、絶体絶命の瞬間だった。  舞台のさらに奥、霧の中に聳え立つ狂気的な石造遺跡群。  そこに、かつて何者かによって砕かれ、散らばっていた巨大な石像の破片から、突如として、目が眩むような黄金の光が溢れ出したのだ。  それは、この死んだ海には絶対に存在し得ない、生命と太陽の輝き。  光の奔流が一直線に舞台へと降り注ぎ、泥に塗れて倒れ伏すエンジェウーモンとシードラモン、そして、抱き合う小都華と遥の身体を、温かく、力強く包み込んだ。 「ここに眠ってたのは闇だけじゃなかった…。」 76  光のドームの中で、小都華は目を開けた。  身体にへばりついていた重い泥の感覚が、嘘のように消え去っている。冷え切っていた手足の先まで、熱い血が巡るような力強い脈動を感じた。 「…遥さん」  小都華が声をかけると、彼女の腕の中で震えていた遥が、ゆっくりと顔を上げた。  遥の青い瞳には、もう過去の幻影に囚われた暗い靄はなかった。そこにあるのは、自らの足でこの世界に立ち、生きることを選んだ生者の、鋭く澄んだ意志の光だった。 「…まだ、終わらへんよ」  遥は立ち上がると、自らの右手に、青いD-3を強く握りしめ、天へと構えた。  小都華もまた、不敵な笑みを浮かべて立ち上がり、左手に神社の強力な護符を指の間に挟んで構える。  光の奔流の中で、遥の空いた左手と、小都華の空いた右手が、互いを求めるように重なり合った。  痛いほどに指を絡ませ、しっかりと手を繋ぎ合う。  それは、死者の論理に抗うための、何よりも確かな生者の手触りと体温だった。 「いくで、遥さん!!」 「ええよ、小都ちゃん!!」  繋いだ手を高く掲げ、小都華は腹の底から、蔭洲升の淀んだ空気を震わせるほどの声量で絶叫した。 「進化やァァァアアアッ!!!!!」 77  二人の少女の決意の叫びと、固く繋がれた指先から放たれる莫大なデジソウルが、黄金の光のドームの中で臨界点を突破した。  遥の握る青いD−3から、暗く淀んだ死の海を真っ二つに裂くような鮮烈な蒼の光条が天を貫く。小都華の左手に挟まれた護符からは、真夏の太陽を極限まで濃縮したかのような黄金の光芒が溢れ出し、光と幾重にも螺旋を描いて天蓋へと立ち昇った。  光の奔流の中心で、仰向けに倒れ伏していたシードラモンが、海面を震わせる咆哮を上げた。  長大な海竜の巨躯が、物理的な質量を失っていく。  青い鱗と強靭な水掻きが、目も眩むようなデジコードの輝くリングと、清冽な激流そのものへと分解されていく。それは死ではない。個という境界を溶かし、より高次な神話的領域へと至るための、同化のプロセスであった。  無数の光の輪と化したシードラモンのデータが、純白の翼を広げて立ち上がるエンジェウーモンの身体の足元から、天へ向かって巻き上がるようにして螺旋の軌跡を描き始めた。  冷たく腐臭に満ちていた蔭洲升の空気が、清らかな水の気配と、肌を焼くような太陽の熱によって急速に浄化されていく。水と光が交じり合い、エンジェウーモンの神聖な肉体を、圧倒的な密度のエネルギーの繭が完全に包み込んだ。 78  エンジェウーモンを包み込む光の繭の中で、シードラモンのデータを構成する神聖な水流が、彼女の純白のボディスーツを洗い清め、そして新たな形を持った重装甲へと再構築していく。  女性的な曲線を残す真っ白な素肌を覆うように、黄金に輝く太陽の意匠が施された重厚な胸当てが、熱を帯びて形成される。両肩には、神話に語られる八咫鏡を思わせる、真円の輝く肩当てが装着された。腰の周囲には、巨大な翠色の勾玉を幾重にも連ねたような装飾が、澄み切った硬質な音を立てて円陣を組む。  シードラモンを構成していた蒼い鱗のデータは、エンジェウーモンの手足を覆う流線型の篭手と具足へと変貌し、水と氷の冷たさを秘めた刃となって組み込まれた。  そして、彼女の背に広がる八枚の純白の翼が、内側から激しく燃え盛る太陽のフレアを模した、幾筋もの巨大な光の輪郭へと形を変えていく。それは、神仏の背に輝く圧倒的な後光そのものだった。  冷たい雨と泥の匂いに沈んでいた異界の空間に、決して昇ることのなかった太陽が、確かな質量と熱を伴って顕現しようとしていた。 79  光の柱が四散し、死肉色の月光を完全に打ち消した。  黒く煮詰まった海水のうねりが静まり返り、空間の湿度が極限まで焼き尽くされる。 「大きい…。」 「まさしく…光の巨人だね…。」  そこに神々しく立ち上がったのは、身長五十メートルを優に超える巨大な神人のアマテラスモンであった。  背後の沖合に聳え立つ、緑がかった黒い石で組まれた非ユークリッド幾何学的な狂気の遺跡群ですら、高さ四十メートル程の影に過ぎない。アマテラスモンは、その残骸を、完全な高みから見下ろしていた。  光輝く太陽の冠を頂き、後光を背負うその姿は、いかなる邪悪な論理も寄せ付けない絶対的な神威を放っている。  アマテラスモンの左右の巨大な肩当ての上には、小都華と遥がそれぞれ立っていた。  彼女たちの足元は神聖な力場によって固定されており、眼下に広がる醜悪な儀式場と、自分たちを泥に沈めようとした狂った世界を、確かな生者の瞳で見据えていた。 80 『……ッ!!』  儀式を破壊され、現世への戸口を塞がれた老いた赤子が、泥水の沸騰するような咆哮を上げた。  老いた赤子を海が包み縫い合わせアマテラスモンと匹敵する巨体へと変質させ醜悪な肉を波打たせながらアマテラスモンへと突進する。 「来よるで、アマテラスモン!!」  小都華の叫びと同時、アマテラスモンが地を蹴った。  五十メートルを超える黄金の巨躯が、その質量からは信じられないほどの神速で遺跡群の上空へ舞い上がる。アマテラスモンが踏み切った海底の基板や岩礁が、踏み込みの余波だけで粉々に砕け散り、巨大な水柱が天を衝いた。  老いた赤子もまた、異常に発達したたるんだ脚力で跳躍し、空中でアマテラスモンへと迫る。  視神経の処理を拒絶するような歪な石造建築の間を、二体の規格外の巨星が縦横無尽に飛び交う。アマテラスモンが黄金の残像を残して遺跡の壁面を蹴り渡れば、老いた赤子は障害物となる尖塔を肉の塊のまま突き破り、執拗にその後を追う。  巨大な質量同士が空中で交錯するたび、衝撃波が空間を叩き割り、眼下の海面がすり鉢状に大きく窪んだ。 81  老いた赤子が右腕に巻き付けた巨大な胎盤の剣を死肉と臓物で冒涜的に模造した刃を、風車のように振り回す。  刃の軌跡から放たれるのは光ではなく、呪いの記録と黒い血の斬撃だ。  空間を切り裂いて迫る漆黒の斬撃を、アマテラスモンは流線型の蒼い篭手を交差させて捌く。神聖な装甲と不浄な泥の刃が激突し、火花ではなく、浄化の光と腐水の飛沫が烈しく飛び散った。 「るあああああああああああああ!!」  アマテラスモンの腰に連なった翠色の勾玉が空中に浮遊し、一つ一つが太陽の炎を纏った流星となって老いた赤子へ降り注ぐ。  着弾の熱量が、老いた赤子の青白い皮膚を焦がし、脂の爆ぜる悪臭が辺りに充満する。だが、老いた赤子は痛覚を完全に欠如させているのか、肉が焼け焦げることすら意に介さず、遺跡の巨大な石柱を足場にして再び跳躍し、アマテラスモンの頭上から胎盤の剣を力任せに振り下ろした。 82  アマテラスモンは逃げず、その一撃を両腕の手甲を重ね合わせて正面から受け止めた。  全天を圧するほどの圧倒的な轟音が鳴り響き、鍔迫り合いの姿勢で二体の巨躯が完全に拮抗する。  空中で押し合う形となったその瞬間、アマテラスモンの肩に乗っていた小都華の眼前に、老いた赤子の巨大な顔面が急接近した。  塩水でふやけた老人のような皮膚。濁った眼球。そして、むせ返るような腐った海藻と死臭。  だが、小都華の胃の腑を最も強くせり上げさせたのは、老いた赤子の首から肩、胸にかけて隆起した肉の装甲の隙間だった。  たるんだ皮膚の襞の下に、無数の小さな顔がびっしりと埋め込まれ、浮かんでは沈んでいたのだ。それは、蔭洲升に飲み込まれ、個としての輪郭を失った「堕子」たちの顔だった。  無数の顔が、一斉に口を歪め、空気が漏れるような呪詛の呻きを上げた。 『産ンデクレ……』 『生キタイ……』 『ウチ等モ、数ニ入レテクレ……』 『現世ニ、……』  その言葉を聞いた小都華の背筋に、氷を滑らせたような悪寒が走った。  彼らが選ばれし乙女の四肢を開かせ、自らの汚物を注ぎ込もうとしていたのは、単なる獣の肉欲や繁殖本能などではない。  孕ませた子宮に自らの欠損した情報を乗せ、人間の胎児という現世への戸口を物理的にこじ開け、自分たちが生きた人間としてもう一度この世に這い出るためなのだ。  死者が生者の身体を資材として使い、命を奪ってでも自分たちの理不尽な生を取り戻そうとする、底無しの利己的な執念。それが、蔭洲升の呪われた儀式の真実だった。 83  あまりにも生々しく、そしてどこまでも身勝手な死者たちの怨念に、直情的な小都華の思考が、ほんの一瞬だけ空白に染まった。 (コイツら、人間の腹を…自分らの出口にするためだけに…!)  その動揺が生んだコンマ数秒の霊的な隙を、老いた赤子は見逃さなかった。 『ケェェェェッ!!』  鍔迫り合いの拮抗を強引に崩し、老いた赤子が異常な筋力で胎盤の剣をねじり込み、そのまま横薙ぎに振り払った。 「しまっ……! 弾け、アマテラスモン!!」  小都華が悲鳴のように叫ぶ。  アマテラスモンは右腕の蒼い篭手で瞬時にカウンターの姿勢を取ったが、小都華の動揺によって同期の密度がわずかに落ちていた。  死者の呪いを何百人分も圧縮した黒い泥の質量が、アマテラスモンの防御の芯を無慈悲に叩き潰す。  巨大な鐘を殴りつけたような鈍い衝撃音が響き、アマテラスモンの五十メートルを超える巨躯が、空中で体勢を崩した。  そのまま彼女の身体は、防ぐ術もなく後方へと吹き飛ばされる。海面に突き出ていた非ユークリッド幾何学的な遺跡の石柱を何本もなぎ倒し、背中から凄まじい水柱を上げて陀金の海へと墜落していった。 84  海面へ叩きつけられた衝撃が、まだ世界に重く残響していた。  だが、陀金の海に沈みゆくかと思われた老いた赤子は、異様な執念で泥水を蹴り立て、再び海上にその巨躯を浮かび上がらせた。 『アァァァ……ガァァアアアッ!!』  潰れた喉笛から絞り出されるような絶叫と共に、右腕に巻き付いた巨大な胎盤の剣が、悍ましい変容を始める。  べちゃり、べちゃり、と肉が裂け、裏返る音が響く。剣を形成していたどす黒い膜と血管の束が解け、八つの巨大な海蛇の首、あるいは醜悪な肉の砲塔のような形状へと枝分かれしていった。 「スサノオモンの伝承に語られる神器ゼロアームズ:オロチ…!」 ―それを、腐敗した臓物と死者の未練だけで強引に模造した、穢れた兵器の完成形態。  八つの肉の砲口の奥で、紫黒いエネルギーがバチバチと火花を散らしながら収束していく。それは自然界の雷ではない。デジタルワールドの深層から引き摺り出した欠損ログと、かつて海に消えた者たちの怨嗟を極限まで圧縮した、呪いの雷光八雷神の模倣だった。  チャージが進むにつれ、周囲の空間が四角いブロック状のノイズに侵食され、削り取られていく。生臭いオゾン臭と、肉が焼け焦げる匂いが入り混じり、小都華たちの肺を直接犯そうと迫り上がってきた。 85 「なんあれ…空間ごと削り取ってきてる…。」 「今更、ビビッてもしゃあない!腹くくるで遥さん!アマテラスモン!!!」  アマテラスモンの肩の上で、小都華が強風に煽られながら叫ぶ。  だが、その声に絶望はなかった。隣に立つ遥の青い瞳にも、かつての虚無の翳りは微塵もない。生への確かな渇望が、二人の繋いだ手を通してアマテラスモンのデジコアへと莫大な熱量となって流れ込んでいた。 『――――』  アマテラスモンは空の彼方へふわりと浮かび上がると、静かに右腕を引き、巨大な拳を腰溜めに構えた。  彼女の全身を包んでいた太陽のフレアが、急速に右の拳の一点へと収束していく。  光が圧縮されるにつれ、周囲の空気が陽炎のように歪み、高熱によって海水が瞬時に蒸発して白い壁を作る。  神聖なる弓矢でも、天の剣でもない。小都華の「物理と怒りで理不尽をぶち破る」という強烈な意思と、遥の「まだ生きたい」という祈りが結合した結果、アマテラスモンが導き出した答えは、一切の小細工を捨てた純粋な光の『拳』だった。  天地の六方―上下四方―のすべての闇を照らし出し、理不尽なるものを物理的に粉砕する極大のエネルギー。  右の拳に集約された六合照徹閃が、まるで超新星の如き輝きを放ち、翳ることのない太陽がそこに生み出された。 86 『ェェェェェェッ!!!!!!!!!!!!』  老いた赤子の八つの肉の砲口から、世界を黒く塗り潰すような呪いの雷撃八雷神が一斉に放たれた。空間を削り取りながら迫る紫黒い稲妻の束が、天を覆い尽くす。  対するアマテラスモンは、ただ静かに、そして圧倒的な暴力性を秘め、右の拳を真っ直ぐに突き出した。 「消し飛べええええええッ!!」  小都華と遥の絶叫が重なる。  六合照徹閃の光の拳と、八雷神の呪いの雷撃が、陀金の海の上空で正面から激突した。  音すらなかった。人間の鼓膜の限界を遥かに超えた衝撃波が、少し遅れて遅れて世界を叩き割る。  一瞬、拮抗するかのように見えた黒と黄金のエネルギーだったが、生者の執念を物理的な質量へと変換した太陽の拳が、死者の怨念をあっけなく蹂躙した。  紫黒い稲妻がガラス細工のように砕け散り、光の拳が老いた赤子の右腕偽りのオロチを、肉の層ごと根元から粉砕する。 「ギェェアアァアアアッ!?」  骨が砕け、肉が蒸発する悍ましい音が響く。防御の要を失った老いた赤子の巨躯に、アマテラスモンの拳が深々と突き刺さり、その背中側へと黄金の光が貫通した。  大爆発。海面が数千トン規模で巻き上がり、蒸発した海水のが雲となり蔭洲升の空を覆い尽くした。 87  圧倒的な光と熱の余波が引いていく。  老いた赤子の巨躯は、腹部に巨大な風穴を開けられたまま、黒い海へと無様に吹き飛ばされていた。  アマテラスモンは追撃を行わず、ゆっくりと振り向き、崩れゆく敵に背を向けた。  それは武の残心であると同時に、これ以上、死者の残骸に生者の時間を割く価値はないという絶対的な拒絶の意思表示でもあった。  背を向けられた直後。  老いた赤子の腹部に穿たれた穴から、内部に残留していた六合照徹閃のエネルギーが一気に膨張した。  天と海を繋ぐような巨大な光の柱が立ち昇り、老いた赤子の肉体を内側から完全に飲み込む。  泥も、血も、泡も残さなかった。神の名を騙り、他者の悲しみをすり減らして組み上げられた邪悪な装置は、データの一片すら残すことなく完全に浄化され、消滅した。 「…終わった」  対岸の黒い砂浜で、月彦が大きく息を吐き出した。 「ふふ…本当に、規格外の義妹を持ってしまったものだねぇ。」  伽夜子が扇子で口元を覆いながらも、その目には隠しきれない安堵と喜びの光が浮かんでいた。 88  儀式核が消滅したことで、蔭洲升という空間そのものを維持していた楔が抜け落ちた。  遠くで鳴り続けていた咆哮のようなサイレンの音がバグったように途切れ始め、やがて不快なモデムノイズを残して完全に停止した。  町を形作っていた古い舟屋、郷土資料館、そして儀式場の木造建築が、四角いドットの欠落に還元され、霧と共にパラパラと崩れ落ちていく。  路地を這い回っていた堕子たちの輪郭もまた、泥水が干上がるように、音もなく砂へと還っていった。  だが。  空間が崩壊していく中、沖合の暗い海面下……霧の向こう側に、沈みゆく巨大な影がゆらりと姿を現した。  それは老いた赤子のような継ぎ接ぎの怪物ではない。太古からそこに存在し、ただ冷徹に事象を見つめ続けてきた、名状しがたい深淵の神格ダゴモンを思わせる、シルエットだった。  そして、崩れゆく堕子たちの中に紛れていた、堕子とは明らかに異質な、ぬらぬらとした鱗と水掻きを持つ影のような者どもが、その巨大な影の呼び声に応えるように、次々と海の中へと身を躍らせて帰っていく。  それは、月彦たちに向けられた静かな示唆だった。  彼らが打ち破ったのは、あくまで神の理屈を借りて略奪を行っていた人間の情念に過ぎない。  それを仕向けたこの海の底には、人間の論理など及ばない、本物の深淵がまだ静かに息づいているという、冷ややかな余韻があった。 89  息苦しい。  空間崩壊の凄まじい渦に巻き込まれた遥は、気がつけば、光の届かない冷たい水の中に沈んでいた。  肺の酸素が限界を迎え、口から銀色の泡がこぼれ出る。彼女にとって海は、両親の命を奪った絶対的な恐怖と喪失の象徴だ。パニックに陥り、手足をばたつかせてもがく。  その時、海底の暗闇から、消え残っていた堕子の黒い触手が数本、泥のように伸びてきて、遥の足首をきつく巻き取った。 (…!)  深淵へ引きずり込まれそうになった刹那、遥の横を弾丸のような速度で青い影が通り抜けた。  シードラモンが鋭い牙で遥の足に絡みついた触手を容赦なく食いちぎり、海水の濁りごとそれを掻き消した。  そして、もがき苦しむ遥の背中に、ふわりと、二つの温かい感触が触れた。  それは、優しく、確かに彼女を愛してくれていた生きた温度を持った手のひらだった。 『―遥』  背中を、優しく水面へと押し上げてくれる力。  死者は生者を底へは引きずり込まない。海へ還れと命じるのは、いつだって神の名を騙る貪欲なシステムだけだ。本当の愛は、ただ生者の未来へと背中を押した。  海中から勢いよく浮上し、水面から顔を出した遥の網膜を、暴力的で、けれどひどく懐かしい真夏の太陽の光が射抜いた。  遠くに王港町の波止場が見える。  小都華が必死に手を伸ばしている。月彦、伽夜子、クダモン、コヅキガルルモン、ブシアグモン。  …そして横では小さな緑色の姿に戻ったベタモンが、笑ってこちらを見ていた。 もう、自罰の底に沈む理由はない。 遥は、涙とを海水に溶かし顔に年相応の笑みを浮かべ、眩しい生者の世界へ向かって、自らの意志で、ゆっくりとその手を伸ばした。 90 「ぷはぁ!」  水面を突き破り、遥は勢いよく顔を出した。  大きく息を吸い込むと、肺の奥まで一気に空気が流れ込んでくる。むせ返るような腐海と鉄錆の臭いではない。それは、むっとするような潮の香りと、アスファルトを焦がす熱気、そして青葉の匂いが混ざり合った、生きた真夏の空気だった。  網膜を焼灼するような、暴力的で、ひどく懐かしい太陽の光が遥の視界を白く染め上げた。  耳鳴りのような蝉時雨が、頭上から降り注いでいる。遠くではカモメが甲高い声で鳴き、防波堤に当たる波がリズミカルな音を立てて砕けていた。  王港町の波止場が見える。 「遥さぁんっ!」  水しぶきを上げて、小都華が必死の形相で泳ぎ寄ってくる。巫女服はすっかり水を吸って重くなっているはずなのに、彼女の動きには微塵の躊躇いもなかった。 「小都、ちゃん…!」  小都華が遥の身体にすがりつくようにして、その細い背中に腕を回した。  冷たい海水が跳ねるが、二人の身体の間に挟まれた確かな体温が、お互いが生きているという何よりの証拠として脈打っていた。 「アホ! ほんまにアホ! 心臓止まるかと思たわ!」  泣き笑いのような小都華の怒鳴り声が耳元で響く。その騒がしさが、今の遥にはどれだけ心地よかったか。 「…うん。ごめん…でも、帰ってきたよ、小都ちゃん」  遥は涙と海水でぐしゃぐしゃになった顔をほころばせ、小都華の首筋に顔を埋めて、その身体を強く抱きしめ返した。  泥のような死の匂いは、もう彼女たちにはまとわりついていない。生きている人間の、汗と熱の匂いだけがそこにあった。 「やれやれ…怪我はないかい!」  頭上から声が降り注ぎ、二人が見上げると、オメガモン・天叢雲の巨大な肩の上に立つ伽夜子と月彦の姿があった。  超究極体の神々しい武威を纏ったオメガモンは、すでにその役目を終えたように静かな佇まいを見せている。 「…よかった…無事みたいです。」  月彦が、安堵の息を吐いた。その声には、修羅のような怒りはすっかり鳴りを潜め、いつもの弱気で、けれどひどく優しい響きが戻っていた。 「ふふ…さて。それじゃあ、私たちも若いエキスを分けてもらいに行こうじゃないか。」  伽夜子が、扇子で口元を覆いながら妖しく微笑んだ。 「へ? 伽夜子さ―うわぁぁっ!?」  不意打ち。伽夜子は月彦の襟首をガシッと掴むと、そのまま躊躇なくオメガモンの肩からの海へ向かって飛び降りた。  盛大な水柱が上がり、月彦の情けない悲鳴が蝉時雨の中に吸い込まれる。 「ちょっ、伽夜子さん! 何するんですか! 服が、それにデジヴァイスが濡れ…!」 「細かいことを気にするんじゃないよ。ほら、小都ちゃんたちに笑われているじゃないか。」  ずぶ濡れになって海面から顔を出し、むせ返る月彦の頭を、伽夜子が楽しげに撫で回す。  そのあまりにも日常的な、そして馬鹿馬鹿しいやり取りに、小都華が堪えきれずに吹き出し、遥もまた、お腹を抱えて声を出して笑った。  それは、蔭洲升の死んだ海では決して響くことのなかった、生者たちによる純粋な喜劇の音だった。 91  笑い声が少し落ち着いた後、遥はふと、自分を見つめる視線に気がついた。  水面を器用に犬掻きのように泳ぎながら、緑色の小さなデジモン…ベタモンが、大きな瞳でじっと遥を見上げていた。  背鰭にあった黒い傷は、オメガモン・天叢雲の光の余波を受けたためか、すでに塞がりかけている。 「…ベタモン。」  遥は手を伸ばし、濡れたベタモンの身体をそっと抱き寄せた。  両生類特有のひんやりとした肌触り。けれど、その奥からは確かな生命の鼓動がトクトクと伝わってくる。 「へへ…なんだよ。俺のケツでも触りてぇのか?」  憎まれ口を叩くベタモンに、遥は「アホ」と小さく毒づきながら、その頭に自分の額をすり合わせた。 「…ありがとうな。ウチの手、引いてくれて」  それは、過去に失った相棒の代わりに対する言葉ではない。  今、この瞬間に自分の隣にいて、共に痛みを分け合い、泥だらけになって生きる道を選んでくれた今のパートナーに対する、心からの言葉だった。 「…けっ。俺はお前と一緒にいてぇって、言っただけだ。」  ベタモンは照れ隠しのように顔を背けたが、その緑色の瞳の奥には、確かな信頼の光が宿っていた。  遥はゆっくりと顔を上げ、もう一度、王港町の海を見渡した。  太陽の光を乱反射し、無数の宝石を散りばめたようにきらきらと輝く水面。  両親の命を奪い、長年自分を苛んできた海への恐怖が、これで完全に消え去ったわけではない。夜になれば、またあの黒い波の幻影に怯える日もあるだろう。喪失の傷跡が塞がることは、きっと一生ない。  けれど、今はもう、それに自分を明け渡すつもりはなかった。  自分は一人ではない。小都華がいて、月彦や伽夜子がいて、そして腕の中には温かい相棒がいる。 「…綺麗、やね」  遥の口から、自然と言葉がこぼれ落ちた。  海を憎むだけでなく、その美しさを認めること。それは、悲しみを抱えたまま、それでも生者の世界で呼吸を続けていくという、彼女なりの小さな、しかし宣言だった。  吹き抜ける潮風が、少女たちの濡れた髪を優しく揺らす。  生きた夏の匂いが、いつまでも海を包み込んでいた。