カリフォルニア特有の突き抜けるような青空の下、どこまでも広がるぶどう畑の緑が太陽の光を浴びて輝いていた。乾いた風が心地よく吹き抜け、遠くに見える白壁のワイナリーが、まるで絵画のワンシーンのように佇んでいる。 「いやあ、素晴らしい眺めじゃのう! 新緑のぶどう畑、まさに絶景じゃ!」 レンタカーの大型バンの前で、阿笠博士が大きなお腹を揺らしながら満足そうに声を張り上げた。 「博士、絶景なのはいいけど、お腹減ったよー! ここ、おいしいステーキがあるって言ってたじゃないか!」 「元太君、ここは世界的にも有名なワイナリーを併設した高級オーベルジュですよ。お肉だけじゃなく、地元で採れた新鮮な野菜を使ったコース料理が有名なんです」 「歩美、デザートにぶどうのタルトが食べたいな!」 元太、光彦、歩美の三人は、車から降りるなり元気に走り回り、ぶどう畑の案内看板を物珍しそうに眺めている。 「やれやれ……長旅で疲れてるはずなのに、あいつらは相変わらず元気だな」 オレ――江戸川コナンは、リュックサックを肩に背負い直しながら苦笑いを漏らした。今回は、博士が開発した新しい小型ソムリエセンサーがアメリカのワイン醸造協会の目に留まり、カリフォルニア州サクラメント近郊の著名な醸造家、エドワード・ハミルトン氏のプライベートパーティーに招待されたのだ。旅費はすべてハミルトン氏持ちという大盤振る舞いに、博士がオレたち全員を連れてきてくれたというわけだった。 「いいじゃないの。日本にいるときみたいに、物騒な事件に巻き込まれる心配もないんだから。せいぜい子どもらしく、カルフォルニアの太陽を満喫することね」 隣に並んだ灰原哀が、つばの広い麦わら帽子の下から冷めた笑みを浮かべてオレを見上げた。 「おいおい、オレが事件を呼び寄せてるみたいに言うなよな」 「あら、自覚がなかったの? 歩く厄災さん」 「へいへい……」 肩をすくめて歩き出したそのときだった。 ――キャアアアアアッ! ワイナリーのメイン棟、重厚なオーク材の扉の奥から、空気を切り裂くような甲高い悲鳴が響き渡った。 鳥たちが一斉にぶどう畑から飛び立ち、歩美たちがピクッと肩を跳ねらせて立ち止まる。 「な、なんだ今の声!?」 「建物の中からよ!」 「コナン君!」 灰原の制止の声を聞くよりも早く、オレの足は勝手に地を蹴っていた。石畳の小道を全速力で駆け抜け、開かれたエントランスへと飛び込む。 広々とした吹き抜けのホールの奥、施錠機能付きの厳重なワインセラー兼テイスティングルームの前に、給仕の女性が腰を抜かしてへたり込んでいた。彼女の震える指先が指し示す先――ガラス張りのセラーの床に、一人の男が倒れていた。 仕立ての良いリネンのシャツの胸元は赤黒く染まり、その瞳孔は完全に開いている。このワイナリーのオーナーであり、オレたちを招待したエドワード・ハミルトン氏その人だった。 「ハミルトンさん!」 駆け寄ろうとするオレの襟首を、後ろから追いついてきた博士が慌てて掴んだ。 「こ、コナン君! いかん、不用意に近づいては……ひっ、こ、これは……!」 「博士、警察を! 救急車も呼んでくれ!」 オレは博士の手をすり抜け、現場の状況を冷静に観察し始めた。 被害者の胸には、装飾の施された鋭利なペーパーナイフが深々と突き刺さっている。血液の凝固具合から見て、死亡推定時刻はそれほど前じゃない。おそらく三十分から一時間以内だ。 そして何より奇妙なのは、部屋の状況だった。 現場となったテイスティングルームは、最高級のヴィンテージワインを管理するために外気から完全に遮断された密閉空間だ。頑丈な防犯ガラスに囲まれ、出入り口は電子ロック式の重厚なドアが一枚あるのみ。 ドアの電子錠のランプは青く点灯していた。内側からサムターンが回され、施錠されていたのだ。第一発見者の給仕がマスターキーで開けるまで、完全に内側から鍵が掛けられた密室だった。 さらに、床には二つのワイングラス。一つは床に落ちて粉々に割れ、もう一つは丸テーブルの上に置かれたまま、半分ほど赤ワインが残されている。 (密室殺人……! 犯人はどうやってハミルトンさんを刺し、内側から鍵をかけて姿を消したんだ? 外へ通じるダクトや隠し通路は……いや、ワインの温度管理のために換気設備は極めて細いパイプだけだ。人間が通れるはずがない。となると、鍵の遠隔操作か、それとも糸や針金を使った機械的トリックか……?) 脳内で無数の可能性が猛スピードで組み合わされ、検証されていく。オレが現場の床に膝をつき、絨毯に残された微細な擦れ跡や、ドアの隙間を入念にチェックしようと身を乗り出した、そのときだった。 「――おや、ずいぶん真剣な顔をした名探偵がいるね」 背後から、ひどく軽妙で、どこか楽しげな英語が降ってきた。 ハッとして振り返る。 そこに立っていたのは、地元警察の制服組ではなかった。 クラシックなスリーピースのスーツを着崩し、金色のウェーブがかった髪をふわりと揺らした白人男性。歳の頃は三十代半ばから後半といったところだろうか。ネクタイは締めず、両手をスラックスのポケットに突っ込み、口元には子どもの悪戯を見守るような皮肉混じりの笑みを浮かべている。 その後ろから、濃紺のパンツスーツを着た小柄な女性が、厳しい表情で大股に歩み寄ってきた。胸元には燦然と輝くバッジが提げられている。 「地元警察から応援要請よ。カリフォルニア州捜査局――CBIのテレサ・リズボンです。関係者以外は現場から離れて!」 「CBI……? 州の捜査機関か」 オレが呟くと、三つ揃えの男――パトリック・ジェーンと名乗った男が、オレの目の前にしゃがみ込んだ。青い瞳が、オレの顔をじっと覗き込んでくる。 オレはとっさに、いつもの「子どものふり」を作動させた。 「えへへ、ごめんなさい! おじちゃんが倒れてたから、びっくりしちゃって……」 頭を掻きながら無邪気な笑みを浮かべて後ずさりしようとする。並みの大人なら、これで「危ないからあっちに行きなさい」と頭を撫でて追い払うはずだった。 だが、この男は違った。 ジェーンは笑みを消さず、首をわずかに傾げると、まるでガラス細工のひび割れでも見つめるような侮れない視線でオレを観察した。 「嘘が下手だね、ボウヤ。君の心拍数は上がっているけれど、それは死体に怯えているからじゃない。パズルを前にした興奮のせいだ。瞳孔が散大し、視線は死体そのものよりもドアの蝶番とテーブルの脚を往復している。靴底のゴムの減り方から見て、普段から小走りで現場を観察して回る癖がある……まるで、熟練の捜査官のようだ」 ゾクッ、と背筋に冷たい氷を押し当てられたような悪寒が走った。 (な、なんだコイツ……!? たった数秒で、オレの挙動をそこまで……!?) 「ジェーン! 子どもをからかってないで、現場を見るの手伝いなさい!」 リズボン捜査官の鋭い叱責が飛び、ジェーンは「やれやれ」と両手を上げて立ち上がった。 「からかってなんかないよ、リズボン。彼はとっても興味深い観察対象だ。……まあいいや、死体を見る前に、まずは美味しいお茶を淹れてもいいかな? ここ、すごくいい香りのアールグレイの茶葉が置いてあるんだ」 「ジェーン!!」 リズボンの怒声が吹き抜けのホールに木霊する。だがジェーンはまったく意に介さず、鑑識が黄色い規制線を張る現場のすぐ脇にあるカウンターに勝手に潜り込み、ケトルに水を注ぎ始めた。 オレは開いた口が塞がらなかった。 (な、何なんだアイツは……!? 殺人現場で紅茶を淹れ始めただと!? 鑑識の邪魔になるかもしれないってのに、緊張感の欠片もねぇ……!) 「コナン君、大丈夫……?」 いつの間にか背後に忍び寄っていた灰原が、警戒を露わにした目でジェーンの背中を見つめていた。その表情は、黒ずくめの組織の気配を感じたときとはまた違う、底知れない知性に対する純粋な警戒心に満ちている。 「ああ……あいつ、ただの刑事じゃないぞ。CBIのコンサルタントってリズボン捜査官は言ってたが……」 「気をつけなさい。あの男の目は、人の心の皮を一枚ずつ剥ぎ取っていくような目をしているわ。あなたの稚拙な子ども演技なんて、一秒で見破られる」 「稚拙って言うなよ……」 オレは苦笑しつつも、内心のギアを一段引き上げた。あの男が何者であろうと、いま目の前にあるのは解かれるべき密室殺人の謎だ。オレはオレのやり方で、論理と物理的証拠を積み上げて犯人を暴き出すだけだ。 現場検証が進む中、CBIの他のメンバーも到着した。 無表情で頑健なアジア系のチョウ捜査官、長身で気の良さそうなリグスビー捜査官、そして赤毛の優秀そうなヴァンペルト捜査官。彼らは手際よく現場を封鎖し、関係者の事情聴取を開始した。 被害者のエドワード・ハミルトン氏を殺害できた可能性がある容疑者は、事件当時、このワイナリーの敷地内にいた三人に絞られた。 一人目は、被害者の若き後妻、エレナ・ハミルトン。元モデルの美女で、大粒の涙を流しながらハンカチで目元を押さえている。遺産相続の権利を持つ筆頭だ。 二人目は、被害者のビジネスパートナーであるグレッグ・ミラー。ハミルトン氏と新しいワイン事業の投資を巡って激しい口論をしていたと従業員が証言している。 三人目は、長年ハミルトン家に仕えている執事のアーサー・ペンドルトン。テイスティングルームのスペアキーを管理しており、ハミルトン氏のワインの好みを最もよく知る人物だ。 オレはリズボンたちが事情聴取を行っているリビングルームの隅に陣取り、阿笠博士の陰に隠れながら聞き耳を立てていた。 「夫が……エドワードが殺されるなんて信じられません! 私たちは愛し合っていたのに……!」 エレナは泣き崩れ、リズボンが痛ましげに彼女の肩を抱く。 「私を疑うのか? 確かにエドワードとはビジネスの意見の食い違いはあったが、彼を殺して得をする人間などいない! 私は事件の時間は、ゲストルームでニューヨーク市場の株価をチェックしていたんだ!」 グレッグは苛立たしげに高級腕時計を指で弾きながら捲し立てる。 「旦那様は、テイスティングの邪魔をされるのを極度に嫌っておられました。ですから私は、ご注文通りに五十分ほど前、ボルドーの特級ワインをデキャンタに移してお届けし、すぐに退出いたしました。その際、旦那様ご自身が内側から鍵を閉められた音を確かに聞きました」 執事のアーサーは青ざめた顔で、しかし理路整然と答えた。 状況だけを見れば、全員に動機があり、全員に決定的なアリバイがない。 そして、最大の壁はやはりあの「密室」だ。 (鍵は内側から掛けられていた。アーサーが退出した後に被害者自身が施錠したとすれば、犯人はどうやって部屋に入り、どうやって逃げた? あるいは、犯行後に外から鍵を掛けるトリックを使ったのか? だが、サムターンには糸やテープの粘着跡は一切なかった。窓もない。換気口は小さすぎる。……まさか、被害者が刺された後、自分で鍵を閉めたのか? いや、即死に近い状態だったはずだ。心臓を一突きにされて、そんな余裕があるわけがない……) オレが腕を組んで頭を抱えていると、ふわりとアールグレイの上品な香りが漂ってきた。 見上げると、ソーサーに乗せたティーカップを持ったパトリック・ジェーンが、いつの間にかエレナの前に立っていた。 「奥さん、温かいお茶をどうぞ。心が落ち着くよ」 「あ……ありがとうございます……」 エレナが震える手でカップを受け取ろうとした瞬間、ジェーンはわざとカップをわずかに傾けた。熱い紅茶が数滴、エレナの履いていたシルクのスカートにこぼれ落ちる。 「きゃっ!」 「おっと、ごめんなさい! 手が滑ってしまった」 ジェーンはまったく悪びれずにナプキンを差し出したが、エレナは怒りを露わにするどころか、ひどく狼狽した様子でナプキンを引ったくり、必死に太もものあたりを拭い始めた。 その様子を、ジェーンは満足そうに眺めている。 「ジェーン! 何やってるのよ!」 リズボンが眉をつり上げて怒鳴るが、ジェーンは優雅に歩み去り、今度はグレッグの前に立った。 「グレッグさん、君の腕時計、素晴らしいね。ロレックスのデイトナかな? でも、君の左手首には、もっと細い革ベルトの時計の跡がうっすら残っている。それを外してこの派手な時計を買い直したのは……ここ数週間のことだね?」 「な、何だと!? それが捜査と何の関係がある!」 「大いにあるさ。君は資金繰りに困っていた。古い愛着のある時計を質に入れ、見栄を張るために偽物のデイトナを身につけている。投資話が破綻しそうだったのは、君の横領がハミルトン氏にバレたからじゃないかな?」 グレッグの顔からサーッと血の気が引いた。 「ふ、ふざけるな! デタラメを言うな!」 「あ、それからアーサーさん」 ジェーンはグレッグの怒号を完全に無視して、直立不動の執事に振り返った。 「君、靴の踵をさっきから三回ほど擦り合わせているね。ひどく神経質になっている証拠だ。長年仕えた主人が死んだにしては、君の悲しみはひどく希薄で、代わりに『安堵』が見え隠れしている。ハミルトン氏の遺言書の内容、君は事前に知っていたね?」 アーサーの喉仏がゴクリと上下した。 「な、何を根拠に……! 私はただの執事です!」 「ジェーン、いい加減にしなさい! 全員を侮辱して回るのがあなたの仕事じゃないわ!」 リズボンがジェーンの腕を力づくで引っ張り、部屋の隅へと引きずっていく。 オレは、その一連のやり取りを茫然と見つめていた。 (なんなんだ、あいつは……!? 証拠もなしに、人の表情や癖、持ち物だけでそこまでズケズケと切り込むのか!? もし外れてたら名誉毀損どころの騒ぎじゃないぞ! だけど……) 恐ろしいことに、容疑者たちの反応を見る限り、ジェーンの指摘はすべて「図星」だった。 エレナの異常な動揺。グレッグの資金難。アーサーの隠された遺言への関与。 ジェーンは、警察が何日もかけて裏取りするような人間関係のドロドロとした暗部を、わずか数分の観察と挑発だけで白日の下に晒してしまったのだ。 だが――。 (心理誘導だけで人は暴けても、物理的なトリックは解けないはずだ。犯人が誰であろうと、あの密室をどうやって作ったのかという『物的証拠』がなければ、裁判で有罪になんてできやしない!) オレは小さく息を吐き、再び思考の海へと潜り込んだ。 ジェーンが容疑者たちを引っ掻き回している隙に、オレはもう一度、規制線の外から現場のテイスティングルームを観察した。 あの部屋にあった不自然な点。 床に散らばったワイングラスの破片。テーブルの上に残された、半分飲まれたグラス。 そして、床に落ちていたペーパーナイフの鞘。 さらに――オレの目は、テーブルの脚の根元に落ちていた、米粒ほどの小さな透明な破片に留まった。 (……氷? いや、室温は二十度前後に保たれている。氷ならとっくに溶けているはずだ。じゃあこれは……プラスチックの破片? それとも……ドライアイスの昇華カスか?) 待てよ。 もう一つ、妙なことがあった。 部屋の隅に置かれた温度管理用のデジタルサーモスタットの表示だ。 現在の室温は二十度。だが、履歴表示のランプが小さく点滅している。 オレは博士の服の裾を引いた。 「ねえ、博士。博士のソムリエセンサーって、空気中の成分や気圧、温度変化のログも取れるんだよね?」 「ん? ああ、ワインの劣化を防ぐために、過去数時間の温度と湿度の変化を微細に記録できる機能がついておるが……それがどうかしたのかね?」 「ちょっとそれ、見せてくれないか?」 博士から端末を借り受け、テイスティングルーム周辺のデータを読み取る。 画面に表示されたグラフを見て、オレの背筋に電撃が走った。 (やっぱりだ……! 事件推定時刻の直前、あの部屋の温度は一時的に急激に下がっている! マイナス五度近くまで……! そしてその直後、急激に室温が戻っている。これは一体……) 「やあ、やっぱり君は面白いね」 不意に、すぐ頭の上から声がした。 見上げると、ジェーンが両手をポケットに入れたまま、オレの覗き込む液晶画面を面白そうに見つめていた。いつの間に足音もなく近づいてきたのか。 「お、おじちゃん……」 オレが再び子どもの仮面を被ろうとすると、ジェーンは人差し指を自分の唇に当てて、ウインクしてみせた。 「シーッ。大人の前で賢いフリをするのをやめる必要はないよ。僕と君の秘密だ。……で、日本の小さなシャーロック・ホームズ君。その機械で何がわかったんだい?」 「……ホームズ役はおじさんの方だろ」 オレは苦笑いを浮かべ、猫を被るのを諦めた。この男の前で子どもの芝居を続けるのは、時間の無駄だと悟ったからだ。 「部屋の温度だよ。事件の直前、あの部屋の温度が異常に下がっていた。犯人は部屋を極端に冷やす必要があったんだ」 「へえ、部屋を冷やす? どうしてだい? ワインを美味しく飲むためじゃないよね」 「ああ。あのドアの鍵……形状記憶合金か、あるいはバイメタルを使った熱感知式のオートロックじゃないか?」 オレの言葉に、ジェーンは感心したように眉を上げた。 「なるほど! あの部屋は高級なワインを保管するためのセラーだ。火災が発生して室温が異常上昇した際、ワインを守るために自動でロックがかかる防火・防犯システムが組み込まれている。……でも、今回は『冷やされた』んだろ?」 「逆だよ。ハミルトン氏はこの部屋を特注で作らせた。熱だけでなく、冷却装置が暴走して凍結事故が起きないよう、あるいは逆に急速冷却によってワインの熟成を止める特殊な実験のために、一定の温度以下になるとフェイルセーフでドアのロックが強制解除される、あるいは施錠されるようなシステムが組み込まれていたんじゃないか?」 オレは一気に仮説を組み立てた。 「犯人は、あらかじめドライアイスを大量に仕込んだ保冷容器を部屋に持ち込んだ。ハミルトン氏を刺殺した後、そのドライアイスをサーモスタットのセンサー付近に設置して部屋を出たんだ。急激な冷気によってセンサーが反応し、ドアの電子錠が自動的に内側からロックされた……! ドライアイスはやがて気化して二酸化炭素になり、換気パイプから消え去る。現場には何も残らない。これで完全な密室の完成だ!」 我ながら完璧な推理だと思った。物理的痕跡、温度データ、現場の密室性、すべてが論理的に一本の線で繋がった。 オレが得意げにジェーンを見上げると、ジェーンは静かに拍手を始めた。パチ、パチ、パチ、と、どこか芝居がかった手つきで。 「ブラボー! 実に見事だ、ボウヤ。機械の仕掛け、物理現象の応用、日本の推理小説の傑作を読んでいるみたいだ。実にエレガントで、知性的で、論理的だ」 だが、ジェーンの口元には、相変わらずあの食えない笑みが張り付いていた。 「……何がおかしいんだよ」 オレが少しムッとして睨みつけると、ジェーンは身をかがめ、オレの耳元で囁いた。 「君の推理は百点満点だ。ただ一つ、致命的な欠陥を除いてね」 「欠陥……!?」 「そのトリックを実行するには、犯人は事前にドライアイスを用意し、サーモスタットの仕様を完全に把握していなきゃいけない。つまり、計画的犯行だ。……でもね、ボウヤ。人間の感情は、そんなに几帳面にプログラム通りには動かないんだよ」 ジェーンはテイスティングルームの床を指差した。 「割れたグラス、壁に飛び散ったわずかなワインの染み、そして何より、被害者の胸に突き刺さったペーパーナイフ。あのナイフは、ハミルトン氏自身が机の上で使っていた私物だ。もし計画殺人で密室トリックまで準備していた知能犯なら、どうして凶器を現場調達する? 最初から痕跡の残らない凶器を用意してくるはずだろ?」 「あ……」 オレの頭をハンマーで殴られたような衝撃が走った。 (凶器が現場にあったもの……! 突発的な犯行……!?) 「そう、これは衝動的な殺人だ」 ジェーンは楽しそうに歌うように言った。 「激しい口論の末、カッとなって手元にあったナイフで刺してしまった。犯人はパニックになり、逃げ出した。……じゃあ、どうして部屋は内側から鍵がかかっていたのか?」 「ど、どうしてなんだよ……?」 ジェーンはニヤリと笑った。 「鍵をかけたのは犯人じゃない。被害者のハミルトン氏自身さ」 「なっ……馬鹿な! 心臓を一突きにされたんだぞ!? 刺された直後に自分で鍵をかけるなんて……」 「心臓を一突き? 検視官の報告をよく聞いてごらん。ナイフは肋骨に当たってわずかに角度が逸れ、心臓そのものは貫通していない。死因は心タンポナーデか失血死。刺されてから完全に意識を失うまで、彼には二、三分ほどの猶予があったんだ」 オレは言葉を失った。 「ハミルトン氏は刺され、犯人は逃げ去った。瀕死のハミルトン氏は床を這い、ドアまで辿り着き、内側から鍵をかけたんだ。……犯人を閉じ込めるためじゃない。自分がこれ以上、誰にも邪魔されずに『あること』をするためにね」 「あること……?」 「そう。愛する人からの裏切りに絶望した男が、死の間際に遺す、最後のメッセージさ」 ジェーンはすっと背筋を伸ばし、リビングルームの方を振り返った。その瞳には、先ほどまでのふざけた光は微塵もなく、冷徹なまでの観察者の光が宿っていた。 「さあ、種明かしの時間だ。リズボンが僕をクビにする前に、犯人に自分から白状してもらおう」 ジェーンはスタスタとリビングルームの中央へと歩み出た。 「皆さん、注目!」 パンッ、と大きく手を叩くジェーンに、リズボンが頭痛を堪えるように額を押さえた。 「ジェーン、今度は何なの……」 「リズボン、事件は解決したよ。凶器の指紋を照合する必要も、複雑な密室トリックを暴く必要もない。犯人は、いまこの部屋の中で、僕と目が合うのを必死に避けている人物だ」 室内の空気が一瞬で凍りついた。 阿笠博士も、歩美たちも、容疑者の三人――エレナ、グレッグ、アーサーも、息を呑んでジェーンを見つめている。 ジェーンはゆっくりと歩き回りながら語り始めた。 「密室の謎は至ってシンプルだった。ハミルトン氏は刺された後、自力でドアを施錠したんだ。なぜか? 彼は死ぬ前に、どうしても犯人の名前を告発したかった。だが、紙もペンもない。声を出せば犯人が戻ってきて止めを刺されるかもしれない。だから彼は鍵をかけ、テーブルにあったワインを指につけて、床にダイイングメッセージを書いたんだ」 「な、なんだって!?」 グレッグが叫んだ。「床にそんな文字はなかったぞ!」 「ええ、ありませんでした」 アーサーも怪訝な顔をする。 「そう、文字は消されたんだ」 ジェーンはピタリと足を止めた。その視線の先にいたのは――。 「ハミルトン氏が息絶えた後、外からその文字が見えることに気づいた犯人が、ドアの隙間から細工をして消した……なんて面倒なことじゃない。犯人は、第一発見者を装って真っ先に現場に入り、泣き崩れるふりをして、自分の服でその血とワインの文字を拭き取ったんだ。……ねえ、エレナさん」 エレナの肩がビクッと跳ね上がった。 「な……何を馬鹿なことを! 私は、扉が開いたとき、ただ夫の遺体に縋り付いて泣いただけです!」 「そう、縋り付いて泣いた。そして、あなたの履いているその高価なシルクのスカートの太ももの裏側には、拭き取られた赤ワインとハミルトン氏の血液が、べっとりと染み込んでいるはずだ」 「ッ!!」 「さっき僕が紅茶をこぼしたとき、君は異常なほどスカートを気にしていたね。紅茶のシミを心配したんじゃない。紅茶の水分で、隠していた血とワインのシミが浮き出てこないか、あるいは僕に気づかれないか怯えていたんだ。……違いますか?」 エレナの顔が、見る見るうちに蒼白から土色へと変わっていく。 「う、嘘よ……! 証拠なんて……!」 「証拠なら、そのスカートを鑑識に回せば一発で出るよ。ハミルトン氏のDNAと、彼が飲んでいた特級ワインの成分がね。……君は夫に浮気と財産狙いがバレて、テイスティングルームで激しい口論になり、衝動的に机の上のペーパーナイフで刺した。そして彼が死んだと思い込んで部屋を飛び出したが、彼が自力で鍵をかけ、床に君の名前を書いたことをガラス越しに見てしまった。だから第一発見者になって文字を消すしかなかったんだ」 「あ、あああ……っ!」 エレナはその場に崩れ落ち、頭を抱えて泣き叫んだ。 「あの人が悪いのよ! 私を捨てて、一文無しで追い出そうとしたのよ! 私にはあの人の財産を手に入れる権利があるはずなのに……!」 「――そこまでだ、エレナ・ハミルトン。殺人容疑で逮捕する」 リズボンが即座に手錠を取り出し、冷徹な声で権利を読み上げながらエレナの手首を拘束した。チョウとリグスビーが彼女を立たせ、パトカーへと連行していく。 静まり返るリビングルーム。 阿笠博士が「ほ、本当にあっという間に解決してしもうた……」と目を丸くし、歩美たちが「あのおじさん、すごい!」と歓声を上げている。 だが、オレはただ立ち尽くしていた。 (参ったな……完敗だ) オレは現場に残された状況から、勝手に「知能犯による計画的密室殺人」を想定し、ドライアイスだのオートロックの誤作動だのといった大掛かりな物理トリックを組み立てて悦に入っていた。 だが、現実は違った。 人間が感情で動き、衝動で人を刺し、死にゆく人間が執念で鍵を閉め、犯人が保身のために現場を汚した――その「人間の生々しい心理」を、ジェーンは最初から正確に見抜いていたのだ。 鑑識の証拠を待つまでもなく、相手の反応を誘発し、嘘を暴き、自滅に追い込むメンタリズム。 物理的なトリックや科学捜査に重きを置くオレの推理法とは、まるで次元の違う、異端にして最強の推理術だった。 「どうやら、事件は無事に片付いたようだね」 いつの間にか、ジェーンがオレの隣にしゃがみ込んでいた。その手には、新しく淹れ直された温かい紅茶のカップが握られている。 「……最初から、わかってたのか?」 オレが悔しさを滲ませながら尋ねると、ジェーンは穏やかな笑みを浮かべた。 「まさか。僕にわかるのは、誰が嘘をついていて、誰が何を怖がっているかだけさ。でもね、ボウヤ。君のあのドライアイスの推理、あれは本当に素晴らしかったよ。僕にはあんな複雑な機械のパズルは組み立てられない」 「慰めなんていらねぇよ」 「慰めじゃないさ、事実だよ。君のような鋭い観察眼と論理的思考力を持った人間は、大人でもそうそういない。……君が本当にただの小学生なら、だけどね」 ジェーンの青い瞳が、オレの心の奥底を射抜くように細められた。 心臓がドクンと跳ねる。 「君のその眼鏡、度が入っていないね。それにその時計、ただの時計じゃない。さっきから何度もリューズのスイッチを気にしている。……まるで、僕が暴走したときにいつでも撃ち込める麻酔銃でも仕込んであるかのように」 (……!!) 冷や汗が背中をツーッと流れ落ちた。 全身の筋肉が強張り、呼吸が止まりそうになる。コナンとしてのオレの秘密、江戸川コナンの正体に、ここまで肉薄されたことはかつてない。 だが、ジェーンはそれ以上、オレを追い詰めるようなことはしなかった。 ふっと表情を緩めると、彼はオレの頭にポンと大きな手を置いた。 「秘密は誰にでもあるものさ。重くて、苦しくて、誰にも言えない秘密がね。……君がそれを背負って戦っている理由までは聞かないよ。君の瞳には、復讐に囚われた人間の濁りがない。純粋な正義の光がある」 ジェーンは立ち上がり、カップの紅茶を一口すすった。 「大切にしなよ、ボウヤ。その光を失ったら、世界はとてつもなく退屈で、暗い場所になってしまうからね」 「ジェーン! サクラメントの本部に帰るわよ! 車に乗って!」 遠くからリズボンの呼ぶ声が響く。 「はいはい、すぐ行くよ、ボス」 ジェーンはひらひらと手を振りながら、歩き出した。そして最後に一度だけ振り返り、オレに向かって悪戯っぽくウインクした。 「また会おう、日本の小さな名探偵さん。……次はもっと美味しいお茶をご馳走するよ」 CBIの黒いSUVが砂煙を上げて去っていくのを、オレはただ見送るしかなかった。 「……とんでもねぇ食わせ物だな」 思わず口から漏れた呟きに、隣に立った灰原がフッと鼻を鳴らした。 「身の毛がよだつような男ね。科学も論理も飛び越えて、相手の脳の中身を直接覗き込んでくるようなペテン師。……でも、あなたにとっては良い薬になったんじゃない? 世の中、物理トリックだけで解ける事件ばかりじゃないってことよ」 「……ああ、ぐうの音も出ねぇよ」 オレは苦笑しながら、ポケットの中で固く握りしめていた拳を解いた。 世界は広い。工藤新一としての知識やコナンのメカニックを凌駕するような、規格外の怪物が海を越えた先にはゴロゴロいるのだ。 「おーい! コナン、哀ちゃん! 事件も解決したし、レストランでステーキ食べようぜ!」 「タルトもね!」 「博士、早く行きましょう!」 遠くから元太たちの無邪気な呼声が聞こえてくる。 「よし……行くか」 オレは空を仰ぎ、カリフォルニアの眩しい太陽に目を細めた。 胸の奥に灯った悔しさと、それを遥かに上回る知的な高揚感を噛み締めながら、オレは仲間たちの待つオーベルジュへと小走りで駆け出していった。