・01 光の渦を抜けた先で、ミヨは地面に尻もちをついた。 「いたた…」 慌てて顔を上げると、そこには見たことのない景色が広がっていた。 空はどこまでも広く、遠くには巨大な植物や奇妙な形の岩が見える。 なんだかゲームや漫画で見るような風景に、ミヨは辺りを見回した。 すると、隣に落ちてきたロップモンがゆっくりと立ち上がった。 「…デジタルワールドだ」 「デジタル…ワールド?」 ロップモンは答えず、しばらく周囲を見つめていた。 懐かしいはずの景色─ずっと帰りたいと思っていた場所だ。 けれど、ロップモンの表情に喜びはなかった。 「じゃあ、やっぱり帰ってこれたんだ!」 ミヨは思わず跳ねるように飛び起きた。 しかし、反応が薄いロップモンを不思議そうに覗き込む。 「…君までデジタルワールドに来ちゃった」 「でもよかったね、帰ってこれて」 その言葉にロップモンは唇を噛み締め、小さく目を伏せた。 「あのね……僕、ミヨに謝らなきゃいけないことがある」 「謝る?」 ミヨが首を傾げる。ロップモンは俯いたまま、ゆっくりと言葉を続けた。 「僕がミヨのところに来たのは…偶然じゃなかったんだ」 「…え?」 「僕は、命令されてた。ミヨを…デジタルワールドへ連れてくるようにって」 ミヨの表情が止まった。明らかな困惑が浮かぶ。 「…じゃあ、私を助けたのも?」 「最初は…ミヨを連れていくためだった」 その言葉を聞いて、ミヨは何も言えなくなった。 傷ついたロップモンを見つけたこと、家へ連れて帰ったこと、毎日一緒に過ごしたこと、一緒に特訓したこと。 その全部が、最初から仕組まれていたのだと思ってしまう。 「……ごめん」 ロップモンが小さく頭を下げる。 「僕、ずっと言えなかった。ミヨが優しくしてくれるたびに…言わなきゃって思ってた。でも、怖かったんだ」 ミヨは俯いたまま、何も答えなかった。 「僕はミヨを騙してた。だから……怒っていいんだよ」 しばらくして、ミヨが小さく口を開く。 「…ロップモン」 「うん」 「ロップモンは、私を助けてくれたよね」 「…」 「傷ついてたのに、私を守ってくれた」 ロップモンは顔を上げた。 「それも命令だったの?」 「…分からない」 ロップモンは首を横に振る。 「最初は命令だった。でも、ミヨと一緒にいるうちに…分からなくなったんだ」 ミヨはしばらくロップモンを見つめていた。そして、ゆっくりと手を伸ばす。 「じゃあ、いいよ」 「…え?」 ロップモンは目を見開いた。 「私、ロップモンの笑ってるところ…見たいな」 自分が心から笑えたのはいつが最後だったろうか…ミヨはそう思いながら、彼のために作り笑いを浮かべた。 「でも、僕は…」 「そうだ。だったら今度は私が帰る方法を探して?」 ミヨはしゃがみこむと、ロップモンの小さな手に、自分の手を差し出した。 「じゃあ、探そう。帰る方法」 ロップモンは、泣きそうな顔でその手を見つめる。 そして少し迷ったあと、その小さな手をミヨの手に重ねた。 その瞬間、二人の手のひらの間で強い光が輝いた。 「うっ…」 思わず手を離すと、光が二人の間へこぼれ落ちる。 やがて光は一つの形を取り、白い腕時計のような機械へと変わった。 「デジヴァイス…」 ロップモンが驚いたように呟く。 ミヨも、ロップモンの言葉を確かめるように繰り返した。 「デジヴァイス…?」 「…といっても、僕も詳しくはないんだけど」 ミヨは手の中のデジヴァイス01を眺め、適当にボタンを押していく。 ロップモンも横から画面を覗き込む。 すると、目の前の空中に透明なモニターが展開された。 「ひゃう」 「…これは地図かな」 周囲の地形や、近くにいるデジモンの情報が次々と表示されていく。 どうやら周囲を解析しているらしい。 「んと…これは?」 ミヨが別の項目を押すと、今度は文字入力用のキーボードが空中に現れた。 「文字を打てる…」 適当に入力して送信すると、デジヴァイス01から赤外線が発射され、ロップモンの前で小さな音が鳴る。 「"オハヨウ"…今の、ミヨが送ったの?」 「あっ、そうそう!」 「声を出さなくても伝えられるんだ」 二人は顔を見合わせた。 まだ分からないことばかりだったが、戦いの中でも使えそうな機能がいくつかあることは分かった。 「…これ、結構便利かも」 「うん。じゃあ、使いながら覚えよう」 説明書なんて持っていないから、とにかく触ってみるしかなかった。 「あ…僕、もう一つやらなきゃいけないことがある」 ロップモンはそう言うと、自分の身体をゴソゴソと漁る。 やがて毛の奥から、残されていた小さな機械を取り出した。 それは、ブラックセラフィモンに仕掛けられていた発信器だった。 「これがある限り、僕がどこにいるのか知られてしまう」 「なら壊しちゃおう!」 ミヨがそこら辺の石を掴んで迷いなく言う。 ロップモンは少し驚いたようにミヨを見る。 「結構言うよねミヨ…まぁ、うん」 二人で力を合わせ、発信器を破壊する。 小さな機械が地面に落ち、動かなくなった。 それを確認すると、ロップモンはようやく小さく息を吐いた。 「これで…少しは自由に動ける」 ミヨは壊れた機械を見下ろした。 「じゃあ、行こう」 「どこへ?」 「ロップモンの故郷」 ロップモンは一瞬だけ黙り、それから頷いた。 ─それから二人は、ロップモンの故郷を目指して旅を続けた。 デジヴァイス01には周囲の地形やデジモンの情報が表示され、ミヨは空中に開いた仮想モニターを操作しながらその使い方を少しずつ覚えていった。 敵の動きを解析し、文字で入力した指示を赤外線でロップモンへ送る。 声を出さずとも意思を伝えられるその機能は、戦いの中でも役に立った。 危険なデジモンに襲われれば二人で力を合わせ、困っているデジモンを見つければ放っておけなかった。 道に迷ったデジモンを助けたり、傷ついたデジモンを手当てしたり、ときには優しいデジモンたちの村に泊めてもらったりもした。 そんな旅を続けるうち、ミヨはロップモンの動きを、ロップモンはミヨの考えを、言葉にされる前から少しずつ理解できるようになっていった。 長い旅の途中、二人は荒野の岩陰で休んでいた。 ミヨは空を見上げながら、ふと思い出したように呟く。 「お兄ちゃん、心配してるだろうなぁ」 「リアルワールドとデジタルワールドでは、時間の流れが違うらしいよ。ゲートによっては、ミヨがここへ来る前の時間にさえ戻れるんじゃないかな」 「んー。ならいいかぁ」 けれど、その笑顔はほんの少しだけ硬かった。 本当は心配だった…義兄が今どうしているのか、自分がいなくなったことに気づいているのか。 それでも、そんな顔をロップモンには見せたくなかった。 シュウなら、こんなときでもきっと平気な顔をしている─だったら、自分もそうしなければならない。 「それはそれで楽観視し過ぎだと思うけどね、僕は…」 「だって、帰れるならいいじゃん」 「そういう問題かなぁ…」 あまりにもあっさりした返事に、ロップモンは呆れたようにミヨを見る。 ミヨは小さく笑うと、二人は再び歩き出した。 その先にあるのは、かつてブラックセラフィモンによって壊された、ロップモンの故郷だった。 ・02 長い旅の末、二人はついにロップモンの故郷へ辿り着いた。 そこはかつて多くのデジモンが暮らしていた場所で、村のどこからも見えるように大切な遺跡を囲んで作られた村だったという。 しかし今では建物の残骸と荒れ果てた大地が広がるばかりで、かつての賑わいを思わせるものはほとんど残っていない。 ロップモンは足を止め、黙ってその景色を見つめていた。 「……ここが、僕の故郷」 「ひどい…」 その惨状に、思わずミヨが呟く。 「ようこそおいでくださいました!」 その時─どこからか聞き覚えのある声がした。 「え…?」 ミヨが振り返ると、少し離れた場所に一人の少女が立っていた。 腕には、白いデジタマを大切そうに抱えている。 「あ、アンコ…?」 ロップモンが目を丸くした。 以前、自分が傷ついて動けなくなっていた時に助けてくれた少女。 ミヨたちにとって、デジタルワールドで初めて出会った親切な存在の一人だった。 アンコは二人を見つめ、嬉しそうに微笑む。 「ええ。お久しぶりですわ、ロップモン。そして……ミヨさま」 「どうしてここに?」 ロップモンは…いや、ミヨも困惑を隠せない。 「どうしてって…貴女様を待っていたのですわ」 「待ってた…どうして、私がここまで来るって分かったの?」 ミヨはその言葉が何となく引っかかり、首をかしげる。自分たちはロップモンの記憶を頼りに、一直線でここまで来た─そのつもりだった。 「ふふ。貴女様を見ていれば、ここまで来るとわかりましたもの」 アンコは青く長い髪を揺らしながら、ゆっくりと二人へ歩み寄った。 「よく頑張りましたね、ミヨさま。ロップモンと一緒に、こんな遠いところまで」 その声は以前と変わらない。穏やかで、親しみやすい。 アンコは少しだけ目を細め、ミヨの顔をじっと見つめた。 「貴女様は、自分が思っているよりずっと強い子」 そして、アンコはミヨの髪へ視線を落とした。 「……不思議ですわね」 「?」 「どうしてでしょう。貴女様を見ていると…ずっと昔から知っているような気がしますの」 アンコ自身も、その言葉の意味が分からないようだった。 「その髪も、どこか懐かしい。とても大切な誰かを思い出しそうな…ずっと昔に失くしたような…!」 「ん…アンコちゃん…?」 彼女は片手でミヨの髪に触れ、そのまま頭を撫でる。 だが、そこで言葉を切った。 自分でも理由が分からない。 なのに、ミヨを見ていると胸の奥が熱くなる。 「ふふ。変なことを言ってごめんなさいね。なんだか、とても嬉しくて」 ─"懐かしい"。 ずっと探していた何かを、ようやく見つけたような気がする。 だが、アンコはそれ以上何も語らなかった。 「ともかく、よくここまで来ました。やはり、私の見込んだ通りですわ」 「私の…何を?なんか、おかしいよ…?」 ミヨが聞き返すが、アンコは答えなかった。 ただ抱えていたデジタマを優しく撫でながら、二人の背後─壊れきった遺跡の跡へ視線を向ける。 「ええ。本当に……本当に……!」 「アンコ…ミヨ、下がって!」 次の瞬間、アンコの足元から濃い影が滲み出した。 それはゆっくりと膨れ上がり、まるで二人を包み込もうとするかのように、その背後へ広がっていく。 ロップモンの表情が強張る。 だが、アンコは静かな微笑みでそれを見つめていた。 「さあ…ここからが、本当の始まりですわ」 ミヨとロップモンは、ゆっくりと後退った。 目の前に広がる濃い影が蠢き、空間そのものが歪んでいく。 「…っ!?」 視界が一瞬だけ乱れた。 まるで映像が処理落ちしたかのように景色がカクつき、目の前の光景が何度も瞬きをするように揺らぐ。 「きゃっ……!」 姿勢を崩したミヨの身体が前へ引っ張られる。 「ミヨ!」 ロップモンが咄嗟に支えるが、二人ともそのまま地面へ倒れ込みそうになった。 やがて空間の揺らぎが収まる。 そこに立っていたのは、赤黒い翼を広げた巨大なデジモンだった。 「ようやく見つけたぞ」 その声を聞いた瞬間、ロップモンの身体が強張った。 「ブ…ブラックセラフィモンッ…!?」 つい、ミヨも息を呑む。 コレが以前からロップモンが何度も口にしていた存在─なぜか自分を狙っているという、あのデジモンだった。 「もう、もうお前の言いなりにはならない!」 震える声で叫びながら、ロップモンがミヨの前へ出る。 「あれが、ロップモンの言ってたブラックセラフィモン…」 ミヨも恐怖を押し殺すように呟いた。 その二人を見つめながら、アンコは静かに微笑んでいる。 「わざわざ貴方まで来たんですか?」 「我々は志を同じくする者…当然さ」 ブラックセラフィモンはアンコへ視線を向けた。 その言葉に、アンコは嬉しそうに目を細める。 「ええ…そうですわね。今日は祝福の日です」 「まさか、お前たちは…!?」 ロップモンが二人を見比べる。 ブラックセラフィモンが静かに頷いた。 「然り─新たなる世界のために動く者。そして、失われたデジモンイレイザーを再びこの世界へ擁立する者だ」 「…!」 ロップモンの目が見開かれた。 デジモンイレイザー……旅の途中、何度か耳にした言葉だった。 ロイヤルナイツと七大魔王の戦いに割り込み、この大陸を支配しようとした者。 そして今、その言葉とミヨを見つめるアンコの目が、一つに繋がった。 「…まさか、ミヨを」 「そうですわ」 アンコはいつもと変わらぬ穏やかな声色で話す。 「貴女様には、もっと相応しい場所があるのです」 「そ、そんなこと言われたって、なんもわかんないよ!」 アンコは広がる影を伴いながら、怯えるミヨへ歩み寄る。 「貴女様でなければ…いえ、貴女様であってほしいのです」 その言葉だけは、妙に強かった。 アンコ自身も、自分がなぜそこまで言い切ったのか分からない。 「……どうしてでしょうね」 ミヨの青みがかった白い髪と、兄への強い思いを見ていると、胸の奥に何かが蘇りそうになる。 「貴女様を見ていると、どうしても…あの方を思い出しそうになるのですわ」 「誰っ…誰なの!?」 思わずミヨが尋ねるが、アンコは答えなかった。 ほんの一瞬だけ寂しそうな顔をしたあと、いつもの穏やかな笑みに戻る。 「ふっ。きっと、大切な方だったのでしょうね」 自分でも、その人が誰なのか分からない。 ただ、その懐かしさだけは確かにそこにあった。 そしてアンコは、ミヨの腕にあるデジヴァイス01へ視線を落とす。 「その力も、貴女様ならきっと御せる」 「…私は、嫌だよ」 ミヨはまた一歩下がった。 アンコの笑顔が、ほんの少しだけ寂しそうに揺れる。 「…そうですか」 けれど、その瞳には失望よりも強い何かが宿っていた。 「それでも私は、貴女様を諦めませんわ」 ロップモンがミヨの前へ立つ。 「ミヨは…僕が守る!」 「ロップモン…!」 その言葉を聞いたアンコは、ふっと笑った。 その笑顔は、どこか嬉しそうだった。 「まあ…やっぱり、貴女様たちは素敵ですわ」 「互いを想い、互いのために傷つく。そんな心があるからこそ─」 アンコは抱えていたデジタマを優しく撫でる。 分水なのか、影なのか…彼女の足元に広がったそれは液体のように揺らめきながら、底の見えない暗闇を湛えていた。 「世界は、もっと苦しい場所になってしまうのですもの」 「…っ!」 ミヨはアンコを睨んだ。 その瞬間、胸の奥に怒りが込み上げる。 ここはロップモンが帰りたかった場所だ。 なのに、そこを壊したブラックセラフィモンが目の前にいる。 そして…彼女がその仲間だと言うのなら。 「ロップモンの故郷を、こんなにしたのは…お前なんだよね」 無言のブラックセラフィモンを前にミヨは拳を握りしめた。 怖い─今だって逃げ出したい。 それでも、ロップモンを置いていくことだけはできなかった。 ロップモンもまた、ミヨの前から退かなかった。 最初は命令されていただけだった…けれど、今は違う。 "ミヨを守りたい"という想いが、言葉にするまでもなく伝わっていた。 そしてミヨもまた、ロップモンを置いて逃げるつもりはなかった。 二人の視線が、鼓動が、決意が重なる。 その瞬間─二人の間にあるデジヴァイス01が、眩い光を放った。 ・03 デジヴァイス01の画面に、突然ひとつの文字列が浮かび上がった。 「DEGIVOLVE(しんか)…?」 ミヨの言葉を聞いたロップモンの目が大きく見開かれる。 その意味を理解した瞬間、迷いの消えた瞳で互いは力強く頷き─二つの声が重なった。 「「ロップモン進化!!」」 ロップモンは高速回転し、自身を中心に冷気で渦を巻いた。 舞い上がった氷の粒が次々と集まり、白い竜巻となって小さな身体を包み込んでいく。 その中に、巨大な獣の影が浮かび上がった。 四つ足の姿が次第に大きくなり、鋭い爪と長い耳を持つ山猫の輪郭へと変わっていく。 瞬間─凍りついていた空気が一瞬で弾け、氷の粒が赤く輝きながら周囲へ吹き飛ばされる。 氷の柱を突き破り、その向こうから巨大な獣が地面を踏みしめるように躍り出た。 全身を覆う毛皮は、まるで内側から燃えているかのように赤く揺らめいている。 それこそが、ロップモンの進化した姿─。 【ランクスモン:成熟期】 デジヴァイス01から大きな警告音声が鳴り響いた。 LYNXMON、─画面にはいくつもの文字が交差するように表示され、その中の一つが強く浮かび上がる。 それが、彼の新たなる名前だった。 「ランクスモン……!」 ミヨは画面に表示された名前を、思わず口にする。 その隣では、アンコがうっとりと目を細めていた。 「ああ…いいっ!すごく、いいですわ!」 恍惚とした声が、静かな廃墟へ響く。 一人と一匹は、真の友情に芽生え、ついに進化を成し遂げた。 たとえ今さら成熟期へ進化したところで、目の前にいるブラックセラフィモンへ勝てる見込みなどない。 それでも互いを想い、互いを守ろうとする心─その強い精神力こそが、デジモンイレイザーへと昇華するために必要なのだから。 アンコは腕に抱いていたデジタマを、ゆっくりと足元へ広がる影の中へ落とした。 ちゃぷん…と小さな音を立てて、デジタマは砕けることなく影へ沈んでいく。 そこに広がるのは、まるで暗黒から生まれた海だった。 「私に、やらせていただきますか?」 アンコが尋ねる。 けれど、その瞳はまだミヨたちから離れていなかった。 「君が先に見つけたのだ。元より、手柄を奪うつもりはないさ」 「ありがとうございます…!」 返事を聞いた瞬間、アンコの表情がぱっと明るくなった。 それは、いつもの穏やかな微笑みとはまるで違っていた。 頬は上気し、瞳は大きく見開かれている。 嬉しくて仕方がない…そんな感情を隠そうともせず、アンコはランクスモンを見つめていた。 二人の間に生まれた力を目の当たりにしたことで、胸の奥から抑えきれない何かが込み上げてくる。 「焦る必要はない」 「分かっていますわ。分かっていますとも」 ブラックセラフィモンに対してそう答えながらも、身体は今にも駆け出してしまいそうだった。 「でも…こんなに嬉しいこと、我慢するのは少し難しいですわね」 アンコは再びミヨたちへ向き直る。 その顔には、もう隠しきれない歓喜が浮かんでいた。 「さあ…参りましょうか」 突然、影から大きな口が飛び出した。 ばしゃり、と黒い水飛沫を撒き散らしながら、巨大な口が水面を突き破る。 その口が狙っていたのは、先ほどアンコが影の中へ沈めた黒いデジタマだった。 大きな顎が開くと、デジタマを丸ごと呑み込むようにばくんと口を閉じた。 瞬間─ドンっと凄まじい黒い光が弾け、視界のすべてを塗り潰した。 ランクスモンは姿勢を低くして唸り、ミヨは思わず腕で顔を覆う。 やがて光が収まると、一人と一匹はハッと視線を上げる。 ─そこにあったのは、一本の太く低い木だった。 巨大で黒い卵が蠢き、その幹に絡みついている。 そして卵は裂けると、ひとつの大きな口を露出させる。 【暗黒のデジメンタマモン:完全体】 「あはははははははっ!」 アンコの声が響き渡る。 それは笑い声というより、抑えきれなくなった歓喜の絶叫だった。 ノイズのような歪みが混じった声で、アンコは目の前の存在を見つめる。 その声からは、もう隠しようのない狂喜が浮かんでいた。 「行くよ、ミヨ!」 「うん…!」 ミヨはランクスモンの勝利を、手のひらへ握った星形のアクセサリーに祈った。 ここにいない義兄から、力を借りるように。 ランクスモンは、水面を割るような勢いで駆け出した。 足元に薄く張った水が跳ね、その水底から触手とも木の根ともつかない黒いものが次々と飛び出してくる。 ランクスモンは横っ飛びや加速を繰り返し、迫る触手を紙一重で掻い潜った。 「邪魔だッ!」 飛び退きざまに炎を吐き出す。 触手の一本を正面から捉えたが、焼けた様子もなく水の中へ沈んでいった。 「くっ。すぐ火が消されてしまう…!」 ばしゃんっと水を跳ね上げて着地したランクスモンは、木の上にそびえる黒い卵を睨みつける。 「本体を狙わないとか…」 その向こうでは、アンコが楽しそうに笑っていた。 「あははっ…!ははははははっ!」 廃墟に響く歪んだ歓喜の声…その隣で、ブラックセラフィモンは何も言わず戦いを見つめている。 その二人の姿を気味悪そうに見やりながら、ランクスモンは低く呟いた。 ミヨはデジヴァイス01の仮想モニターへ視線を落とす。 表示された情報を素早く確認し、空中の画面へ指を走らせると、入力した指示を赤外線で送った。 今しがたランクスモンが見せた跳躍力ならば、あの地点まで接近すればいいだろう。 「ランクスモン、あそこ!」 「分かった!」 示された地点を見据え、ランクスモンが頷く。 ランクスモンは地面を蹴った。 触手を掻い潜りながら、今度こそ卵へ向かって一直線に駆けていく。 そのとき、卵の口が大きく開いた。 「…?」 ぬるりと何かが吐き出され、びちゃっと水面へ落ちる。 それは、巨大な目玉のような物体だった。 (なんだこれ…) ランクスモンは通りすがり様に不信感を抱く。 目玉が、ぐらりと震えた。 ぱきり…中心に亀裂が走ったかと思うと、目玉は四つに裂けた。 「避けてっ!」 瞳はランクスモンを見据え、その根元から光を放った。 光線が頬を掠める─それと同時に、ミヨの言葉を聞いたランクスモンは素早く体を反らし回避を狙う。 だがその直後、別の方向から放たれた光線が前足を貫いた。 「があっ─!?」 ランクスモンは身体を支えきれず、音を立てて水面へ倒れ込んだ。 「ああっ…ランクスモン!」 ミヨの叫びが響く。 倒れたランクスモンは歯を食いしばりながら顔を上げた。 そこには先ほどの目玉とは別の場所から、もう一つの目玉が姿を現していた。 「もう一体、いたのか…!」 倒れたランクスモンへ、触手が容赦なく迫る。 痛みに耐えながら、ランクスモンは前方へ倒れ込むように跳んだ。 触手が背後を薙ぎ払い、その勢いを利用して転がりながら距離を取る。 息を切らしながらもなんとか身体を起こし、再び走り出す。 その頭上から、目玉が飛来した。 「来るか!」 ランクスモンは炎を吐き出し、目玉を撃ち落とす。 さらに横から伸びてきた触手を身を捻ってかわし、そのまま前へ進んでいく。 だが、次に飛来した目玉には炎が届かなかった。 「しまっ…」 目玉はそのまま地面へ落下する。 びちゃりと水面を揺らしたそれが、ゆっくりと開いた。 「…!」 四つに裂けた目がランクスモンを捉え、光線が放たれた。 その様子を見ていたブラックセラフィモンが、鼻を鳴らす。 「終わりだな」 だがその瞬間、ランクスモンは大きく身体を反らした。 光線が頭上を通り過ぎ─その先にあった触手を正面から貫く。 「ギィィィィッ!」 触手が大きくのたうち、黒い水面を激しく叩いた。 ランクスモンは体勢を崩しながらも、四肢を地面へ叩きつけて着地する。 「今だッ!」 痛みに構わず、全速力で駆け出した。 その背後で、ミヨはデジヴァイス01を構えていた。 画面には目玉と触手の位置、攻撃の軌道が次々と表示されている。 ミヨはその情報を確認すると、勝ち気な笑顔を浮かべた。 「よし……!」 アレを見てから狙っていた─目玉の光線を、触手へ当てさせる同士討ちを。 ランクスモンがかわす方向まで含めて、ミヨがデジヴァイス01で導き出した作戦だった。 「ランクスモン、今のうちに!」 ミヨの指示が、赤外線となって飛ぶ。 ランクスモンは振り返らず、ただその声を信じて走る。 傷ついた身体なお、ついに指定された地点へ辿り着いたランクスモンは、地面を強く蹴った。 巨体が宙へ跳ね上がる─ミヨの予測通り、ランクスモンはその勢いを利用して一気に高度を稼ぎ、黒い卵の眼前へと迫った。 「お願い!」 ミヨはデジヴァイス01の仮想モニターを叩くように操作する。 表示された技の一覧から、ひとつを選択した。 「いっけぇ!」 「うおおおおおおおっ!!」 ランクスモンの身体が、赤く輝き始める。 体内に蓄えられた熱エネルギーが一気に膨れ上がり、その全身から凄まじい熱が噴き出した。 【サーマルメイン】 轟音とともに、ランクスモンを中心として巨大な爆炎が巻き起こった。 赤々とした光が廃墟を覆い、炎の奔流が黒い卵も、その周囲の水をも飲み込んでいく。 「やった……!」 ミヨが思わず声を漏らす。 やがて爆炎が収まり、辺りを包んでいた煙がゆっくりと晴れていく。 「……え?」 ミヨの表情が凍った。 煙の向こうに、ランクスモンが立っていた。 いや─立たされていた。 その身体には、幾本もの触手が突き刺さっている。 「─ランクスモンッ!?」 ミヨの悲鳴が響く。 触手が一斉に引き抜かれ、ランクスモンの巨体が地面へ投げ捨てられた。 燃え盛る身体が暗い水面へ触れると、じゅっと音を立てて白い蒸気が立ち上った。 そしてアンコ…いや、暗黒のデジメンタマモンは何事もなかったかのように蠢いていた。 ミヨはふらつきながら、倒れたランクスモンの前へへたり込んだ。 「そんな…起きてよ…」 身体には幾本もの傷が刻まれ、荒い息だけが返ってくる。 そのとき、背後から声がした。 「おやおや。残念でした」 ミヨがゆっくりと顔を上げる。 そこには、いつの間にかヒトの姿となったアンコが立っていた。 「どうして…どうして、こんなこと…!」 震える声が漏れ、涙が頬を伝った。 アンコはそんなミヨを見つめ、静かに微笑んだ。 「ミヨ…逃げるんだ」 ランクスモンが、苦しそうに声を絞り出す。 「もう、僕のことはいいから…」 「そんなの…できないよ…」 ミヨは首を振った。 アンコはその様子を眺めながら、嬉しそうに目を細める。 「強靭な精神力を持つ者ほど、感情の力も強いのです」 アンコはゆっくりとミヨへ近づいていく。 既に、足元を浸した水はどこかへ消えている。 「つまり…一時の幸福からそれを失った時に生まれる感情こそ、最も大きい」 そう言うと、アンコは穏やかな声のままランクスモンを蹴り退かした。 だからこそ、その言葉が余計に恐ろしく響く。 「そして、それこそが…私の求めるもの」 「ひうっ…!」 ミヨの前にアンコはしゃがみこむと、指でその顎をグッと持ち上げた。 ミヨは青ざめた顔で、息を呑む。 耳元、息が当たる距離から小さく囁く。 「貴女様はここで完成するのです」 その背後でブラックセラフィモンが低い声とともに翼を広げると、八つの装置が何処からともなく飛来する。 その中から選びとった黒いクロスローダーをその手に掲げ、輝かせる。 それに追従するように、七つのダークネスローダーも紫色の光を放った。 「始めよう」 ・04 瞬間─遠くにそびえる遺跡の廃墟が、地の底から響くような低い音を立てる。 次第に、その全体が強く輝き始めた。 ミヨは振り返る。 「…なに、これ…?」 崩れ落ちた遺跡が、まるで何かに呼び起こされたかのように眩い光を放っていた。 「君は神(イグドラシル)と一つになり、この世界に最強の王・デジモンイレイザーとして君臨するのだ!」 ブラックセラフィモンの声が、廃墟の村中にで響き渡った。 その瞬間、崩れ落ちた瓦礫の向こうから、巨大な何かがゆっくりと浮かび上がる。 姿を現したのは、神─イグドラシルと呼ばれた存在の器だった。その眩い光に呼応するように、ミヨの身体もまた、静かに宙へ浮かび上がっていく。 「ぐ……ぐおお……っ!」 ランクスモンは震える身体に残された力をかき集め、立ち上がろうとした。 だが、もはや身体は言うことを聞かない。 前脚が崩れ、巨体が地面へ倒れ込む。 目の前で、ミヨが光に包まれていく…それはまるで、世界そのものが終焉へ向かって歩み始めたかのような光景だった。 「既に神の下僕たるロイヤルナイツも、三大天使も滅びた!」 ブラックセラフィモンが両腕を広げる。 その声には、もはや抑えきれない歓喜と興奮が滲んでいた。 「ワタシを止めるものなど、ありはしないッ!!」 そして、浮かび上がった三つの存在へ向けて、ゆっくりと手を掲げる。 「助けて…お兄ちゃん…」 ミヨはその言葉を最後に意識を手放し、光の中へと消えていった。 「津久井深夜!イグドラシル7D1=アーク!疑似人格I!」 疑似人格I─それは、悪役として振る舞うことが定められた存在(プログラム)。 神の器として都合の良い三つが、ひとつになる。 「─グレートクロス!」 ブラックセラフィモンが叫ぶと、三つの存在は一斉に光へと飲み込まれていく。 それは、ただのデジクロスではなかった。 デジクロスを越えた、さらなる融合─光の渦の中で、三つの存在が境界を失い、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。 やがて、その渦が限界まで膨れ上がり─弾けた。 轟音とともに衝撃波が大地を駆け抜け、空を覆っていた雲が一瞬で吹き飛ばされる。 そして、その空から─聖なるものが降臨するかのように、幾筋もの光の柱が地上へ降り注いだ。 その中心から、ゆっくりと人影が降りてくる。 虚ろな目、力の抜けた身体…その小柄な身体を包むように、イグドラシルの外殻が鎧へと変換されていた。 「…」 光の柱が消える。 そこに立っていたのは─ミヨだった。 「ミ…ミヨ……?」 ランクスモンが…いや、力を失い再びロップモンへ戻った彼が、ボロボロの身体でミヨへ手を伸ばす。 一人と一匹が出会った、あの日の夜と同じように。 しかしミヨは伸ばされた手を見下ろし、小さくあくびをするだけだった。 「どうしたの…?君の相棒(ともだち)だよ…!?」 ロップモンは必死に声を絞り出す。 ミヨは、ほんの少しだけ首を傾げた。 「ふーん。あっそ」 その口元に、薄い苦笑いが浮かぶ。 やがてミヨは首に掛けられていたゴーグルを手に取るとゆっくりと持ち上げ、目元へ装着する。 その直後、空から赤黒い翼が降下してきた。 それはブラックセラフィモンだった…彼はミヨの前へ降り立つと、片膝をつき、頭を垂れた。 「お待ちしておりました…デジモンイレイザー…」 その声は、先ほどまでの狂気じみた興奮とは打って変わり、静かなものだった。 「ワタシは貴女の同盟者─パートナーとなるため、ここに参上したブラックセラフィモンです」 デジモンイレイザーと呼ばれたミヨは、何の感慨も示さない。 ただ、ゴーグルの側面にあるボタンへ指を伸ばす。 視界に情報が浮かび上がる。 ブラックセラフィモンの能力値…攻撃力、防御力、速度、その他の戦闘データが次々と表示されていく。 ミヨはそれらを、淡々と確認していた。 「信じるな…ソイツの言葉を…むぐっ!?」 ロップモンは必死に叫ぶが、その身体は上から蹴り潰された。 「次の謁見は、私の番です……」 倒れたロップモンの喉元へ、アンコのヒールが落ちてきた。 その勢いで、膝上までたくしあげられたスカートがひらりと舞う。 「邪魔しないでいただけますかぁ?」 ぐ…と靴底が押し込まれ、ロップモンの身体から漏れ出したデータが血のように黒く滴る。 アンコは靴底を汚しながらも、穏やかな笑みを崩さない。 やがてロップモンからヒールを引き抜くと、彼女はゆっくりミヨへ歩み寄っていく。 「改めまして…この世界の新たなる王となる貴女様へ、心より御挨拶を申し上げますわ」 アンコはミヨの前で立ち止まり、恭しく頭を下げる。 ミヨは何も答えず、再びゴーグルの画面を見つめた。 やがてイグドラシルの鎧から零れた黒い光が、ミヨの左腕へ細く集まり始める。 光は左手首の一点で渦を巻き、それらがひとつの形を作った。 カチッという小さな音とともに、漆黒のデジヴァイス01がミヨの左手首へ巻き付く。 ミヨは右手首に残っている白いデジヴァイス01と、今しがた現れた黒いデジヴァイス01を見比べた。 「─面白そうだ」 二つのデジヴァイスが、異なる光を静かに灯す。 その光景を、ブラックセラフィモンは満足げに見つめる。 アンコもまた記憶のどこかにある姿とミヨを重ね合わせるように、晴れやかな顔で見上げていた。 「それこそ、貴女様が新たなる王となった証です…!」 ロップモンが震える声で呟く。 「ミ…ミヨ……」 視界が少しずつ狭くなり、身体から力が抜けていく。 霞む視界の中で、ロップモンは必死にミヨを見つめた。 ミヨは、こちらを見ていた。 しかし、その顔は逆光に包まれもうほとんど見えない。 ただ、二つのデジヴァイスだけが、白と黒の光を放っている。 「…ボクは」 その声だけが、やけに鮮明に聞こえた。 ロップモンの視界が、ゆっくりと暗闇に閉ざされていった。 「デジモンイレイザー」 ・05 雨音が、ずっと耳の奥で鳴っていた。 「…ミヨ?」 ロップモンはゆっくりと身体を起こした。 返事はない─濡れた地面に手をつきながら辺りを見回すが、どこにもミヨの姿はなかった。 「僕が……もっと強かったら」 声が震えた。 視線の先には、かつて自分たちが暮らしていた場所がある。 何度も壊されてもなお復興し、先祖から受け継いできた故郷。 だが、そこにもう何もない現実に、ロップモンは俯いた。 故郷とデジメモリを奪われ、ブラックセラフィモンの奴隷としてミヨに接触したことを明かしても、共にいてくれた少女はもういない。 自分も戦えると思った─ランクスモンへ進化した時、デジメモリから一方的に与えられるだけではないコレこそが本当の進化なのだと実感した。 それなのに、守れなかった。 もう一度、あの声を聞きたい…けれど、ミヨをこれ以上巻き込みたくない。 ミヨの代わりになる誰かを探そうとは思わなかった。 そんなことを考えることさえ嫌で、だからこそ誰かに頼る気持ちも湧かなかった。 ロップモンは泣きながら顔を上げる─雨に濡れた身体が、かすかに震える。 悔しさも、悲しさも、そのすべてを押し潰すほどの感情が胸の奥から湧き上がる。 「もっと力が…欲しい…!」 その瞬間─ロップモンの身体の奥から、赤黒い光が滲み出した。 「進化だ…進化、もっと!進化だ!!」 光は瞬く間に全身を包み込み、周囲の雨を弾き飛ばす。 苦しそうに身体を震わせながら、それでもロップモンは叫んだ。 「誰にも負けない僕…誰にも頼らない僕…!」 赤黒い光が爆発し、闇が身体を覆った。 次の瞬間─そこにいたのは、かつてのブラックラピッドモンだった。 だが、その力はデジメモリによって与えられたものではない。 喪失、悔しさ、憎しみ…すべてを自分自身の力へと変えて生まれた、歪んだ進化。 ゆっくりと拳を握ると、胸の奥から力が溢れてくる。 憎めば憎むほど、恨めば恨むほど。 その力は、どこまでも強くなっていく。 「…これが、僕の力」 雨の中で、ブラックラピッドモンは笑った。 ほんの少しだけ…少しだけ、いい気分だった。 おわり .