# 十円ぶんの月見  缶コーヒーが飲みたい、と思ったのは日付が変わってすぐのことだった。  理由はとくにない。残業を終えて部屋に帰り、ネクタイだけ外してソファに沈んでいたら、舌の奥が急に甘くて苦いものを欲しがりはじめたのだ。インスタントの粉は先週切らしている。冷蔵庫には麦茶と、いつ買ったのか思い出せないドレッシングしか入っていない。  コンビニまでは歩いて十五分。往復すれば三十分かかる。さすがにそこまでの情熱はなかった。  ただ、アパートの角を曲がった先に自販機が一台ある。何年も前に店じまいしたたばこ屋の軒先に、ぽつんと取り残された古い機械だ。あれなら二分で着く。  問題はあの自販機が電子マネーに対応していないことだった。千円札は入るが、五千円札と一万円札は受け付けない。そして僕の財布には一万円札が一枚きりで、小銭は一枚も入っていなかった。  ここ何年か、支払いはほとんどスマートフォンで済ませている。電車も昼飯もコンビニも、画面をかざせばそれで終わる。小銭を数える煩わしさから解放されたのはいいが、そのぶん財布の小銭入れはすっかり用なしになった。最後にあそこを開けたのがいつだったか、もう覚えていない。  ——いや、待てよ。  小銭がまったくないわけではないはずだった。現金しか使えない店でおつりを受け取るたびに、どこかへ適当に放りこんできた覚えがある。  僕はソファから身を起こし、部屋の捜索を始めた。  まずは玄関の靴箱の上。鍵を置くための小皿に、十円玉が三枚と一円玉が三枚。次に冬物のコート。春にしまってから一度も袖を通していないそのポケットを探ると、五十円玉が一枚と、くしゃくしゃに丸まったレシートが出てきた。通勤鞄の底をさらうと十円玉が二枚。デスクの引き出しの奥、輪ゴムと使いかけの付箋のあいだから、十円玉が三枚と五円玉が一枚。ついでにソファの隙間に手を突っこんだら、一円玉がもう一枚出てきた。  ローテーブルの上に戦果をずらりと並べる。  五十円玉が一枚。十円玉が八枚。五円玉が一枚。一円玉が四枚。  自販機は一円玉と五円玉を受け付けないから、使えるのは五十円玉と十円玉だけだ。五十円に十円が八枚で、百三十円。  あの自販機の缶コーヒーは、たしか百三十円だった。  ぴったりだ。  ちょっとした奇跡に思えて、僕はひとりで小さく拳を握った。深夜のワンルームで何をやっているんだと自分でも思う。それでも嬉しいものは嬉しい。使える硬貨を右のポケットに、使えない硬貨を左のポケットに分けて入れ、ワイシャツにスラックスのまま、つっかけを履いて部屋を出た。  外は思っていたより明るかった。街灯が新しくなったのかもしれない、とぼんやり考えながら、僕は右のポケットの中で硬貨を数えていた。指先で五十円玉の穴を探り当て、十円玉を一枚ずつ数えなおす。八枚。ちゃんとある。  角を曲がると、シャッターの下りたたばこ屋の前で、自販機が白い光を放っていた。  塗装のあちこちが剥げた、年季の入った機械だ。サンプルの缶はどれも日に焼けて色が抜け、値段の札は何度も貼りかえた跡で分厚くなっている。下段の左側の三列だけが、赤い『あったか〜い』の札に変わっていた。そろそろそういう季節なのだ。  取り出し口の上には、すっかり色褪せたシールが貼ってある。『当たりが出たらもう一本!』。この自販機が当たったところを、僕は一度も見たことがない。そもそもこの自販機で何かを買うこと自体、ずいぶんひさしぶりだった。  ホットの微糖の缶コーヒー。値段は百三十円。記憶のとおりだ。  まず五十円玉を入れた。表示が50になる。続けて十円玉を一枚ずつ落としていく。60、70、80。硬貨が機械の中を転がり落ちる、ちゃりん、という音がやけに懐かしい。90、100、110、120。  最後の一枚をつまむ。  そのとき、指先がすべった。  十円玉は投入口の端に当たって跳ねた。足元のコンクリートで一度弾む。縁を立てたまま転がる。追いかけようと屈んだ僕の手の先をすり抜けて、自販機の下の暗がりへすうっと吸いこまれていった。  顔を上げる。  表示は、120のまま赤く光っていた。 *  しばらくその数字を眺めていた。  あと十円。たった十円だ。家に戻ってもう一度探すという手もあるが、部屋の小銭はさっき根こそぎ集めてきたばかりで、出てくるあてがない。左のポケットには五円玉と一円玉が合わせて九円あるものの、こいつらはこの機械の前では何の役にも立たない。  返却レバーを引けば、百二十円は戻ってくる。戻ってきて、それでおしまいだ。缶コーヒーは手に入らない。  それはなんだか負けを認めるみたいで嫌だった。  僕はその場にしゃがみこみ、自販機の下を覗いた。地面との隙間は指三本ぶんくらいしかない。とりあえず右手の指を差し入れてみるが、第二関節あたりで早くも行き止まりになった。  スマートフォンのライトを点ける。白い光の中に、綿のような埃がごっそり浮かびあがった。ペットボトルのキャップ。丸まったストローの袋。正体のわからない黒っぽい何か。そしてそのずっと奥——腕をいっぱいに伸ばしても届くかどうかという場所に、十円玉が一枚、埃をかぶって横たわっていた。  光を当てると、ちかりと銅色に光る。  あれだ。  僕は覚悟を決めて、アスファルトに身体を横たえた。スラックスの膝がじゃりっと鳴る。明日もこれを穿いていくのに、とちらりと思ったが、今はそれどころではない。右の頬を地面につけ、肩が機械の縁に当たるまで腕を押しこむ。耳のすぐそばで、コンプレッサーがぶうんと低く唸っていた。  指先が埃を掻く。キャップに触れる。邪魔だ。弾き出す。もう少し。あと五センチ。いや、たぶん十センチ。  届かない。  いったん腕を抜いて、あたりを見まわした。たばこ屋の脇に、手入れされないまま伸び放題になった植え込みがある。そこから細い枝を一本折りとって、もう一度腹這いになった。枝の先で十円玉の縁を探る。かつん、と手応えがあった。そのまま手前へ——  ぱきり、と枝が折れた。  十円玉はさっきより少しだけ奥へ行ってしまった。 「……ああ、もう」  思わず声が漏れた。深夜一時近く、ワイシャツ姿で道端に這いつくばり、枝を片手に自販機の下をまさぐっている三十男。誰かに見られたら、たぶん通報される。 「何か、落とされたんですか」  頭の上から声がした。  心臓が跳ねた。慌てて首をねじると、まず目に入ったのは足もとだった。白い素足に、淡い色の鼻緒の草履。その上で、薄い藤色のスカートの裾が揺れている。  僕は枝を放り出して跳ね起きた。立ちあがってみると、相手は僕より頭ひとつぶん背が低かった。  女の人だった。年は僕と同じくらいか、もう少し下だろうか。ゆるくまとめた長い髪を肩に流して、薄手のショールを羽織っている。自販機の白い光に照らされた顔は妙に色が白く、それでいて目もとだけが面白がるように細められていた。  こんな時間に、どこから来たのだろう。足音はまったく聞こえなかった。 「いえ、あの、十円を」  しどろもどろに答えると、彼女は「十円」と繰り返して、自販機の表示に目をやった。赤い120の数字を見て、それから僕の顔を見て、すべてを察したように小さく頷く。 「あと十円、だったんですね」 「……はい」  彼女はスカートの裾を押さえてしゃがみこみ、自販機の下を覗いた。僕はライトを向けようとしたが、その前に彼女が「あ、ありました」と声を上げた。 「奥のほうで光ってますね。ずいぶん遠くまで行っちゃって」  明かりもなしに、よく見えるものだと思った。 「さっきまでもうちょっと手前にあったんですけど、枝で押しこんじゃって」 「ああ、それで」  口もとに手を当てて、くすくすと笑う。馬鹿にされている感じはしなかった。むしろずっと見ていたのだと言われたような気がして、首筋が熱くなる。 「あそこまでは腕が届かないでしょう」 「もうちょっとだと思うんですけどね」  我ながら往生際が悪い。彼女はもう一度笑って立ちあがると、ショールの陰から小さながま口を取り出した。ぱちん、と留め金の外れる音が、夜の静けさの中でやけに澄んで響いた。 「よかったら、お貸ししましょうか」  差し出された手のひらに、十円玉が一枚のっていた。 「いや、そんな。見ず知らずの方に」 「たった十円ですよ」 「たった十円ですけど」 「その、たった十円のために、そこで這いつくばってたんでしょう」  ぐうの音も出なかった。 「見てるほうがはらはらするんです。スラックス、明日も穿くんじゃありません?」  どうしてわかるのだろう。僕は観念して頭を下げ、その十円玉を受け取った。  指先にざらりとした感触があった。硬貨の縁に細かな刻みが並んでいる。ギザ十だ。子どものころ、見つけるたびに得をした気分になったあの十円玉。こんなところでお目にかかるとは思わなかった。 「すみません。お借りします」  投入口に落とすとちゃりんと音がして、表示が130に変わった。ボタンのランプがいっせいに灯る。僕はホットの微糖を押した。  ごとん、と重い音がして缶が落ちてきた。  ようやく手に入った。取り出し口に手を伸ばしかけたそのとき、自販機がいきなりぴろぴろと安っぽい電子音を鳴らしはじめた。 「え」  取り出し口の上の、四桁の小さな表示窓。今までただの飾りだと思っていたそこで、赤い数字が猛烈な速さで回っていた。  一桁目が止まる。7。  二桁目。7。  三桁目。7。  僕は息を詰めて最後の一桁を見つめた。数字の回転がゆっくりと落ちていく。6、7、8、9、0、1……。  隣で彼女も身を乗り出していた。  5、6——  7。  ファンファーレが鳴った。聞いたこともないほど間の抜けた、それでいて晴れがましい音だった。表示窓の横で『当たり』のランプが点滅し、全部のボタンがちかちかと光りはじめる。 「当たった……」  この自販機が当たるのを、僕は生まれて初めて見た。 「当たりましたね」  彼女の声も弾んでいた。 「当たりました。あの、選んでください」 「え?」 「好きなの、どれでも。お借りした十円で当たったんですから」  彼女は目を丸くして、僕と自販機を交互に見た。それから「いいんですか」と言いながら、もう自販機の前に進み出ていた。  上の段から順に、ゆっくり指でなぞっていく。スポーツドリンク。緑茶。炭酸のぶどう。ミルクティー。 「どうしようかな」  ボタンの点滅が心なしか速くなった気がした。 「あの、たぶん時間制限があるので」 「えっ、そうなんですか」  彼女の声が裏返った。 「わからないですけど、たぶん」 「待って、待って」  彼女の指が中段を迷い、下段の赤い札の列へ降りていく。点滅がさらに速くなる。僕まで焦ってきた。コーンスープ。ほうじ茶。  ぴっ。  ごとん。  彼女が押したのは下段のいちばん端にあったおしるこだった。 「おしるこ」  取り出し口から二本の缶を拾いあげて、僕は思わず口に出していた。季節の変わり目に、よりにもよって。  彼女は両手で缶を受け取ると、頬に当てるようにして嬉しそうに目を細めた。 「だって、お月見なのにお団子がないんですもの」 「お月見?」  聞き返すと、彼女は黙って人差し指を立て、空を指した。 *  つられて見上げた。  たばこ屋の屋根の上、電線が何本も横切る夜空のまんなかに、月が出ていた。  まるい。欠けたところのひとつもない、見事な満月だった。白いというより、磨いた真鍮のようなあたたかい光をしている。家を出たときに明るいと感じたのは、街灯のせいではなかったのだ。 「今夜、十五夜なんですよ」 「……知らなかった」 「そうだろうと思いました。ずっと下ばっかり見てましたもんね」  返す言葉がなかった。家を出てからここまで、僕が見ていたのは右のポケットの中の硬貨と、自販機の表示と、自販機の下の暗がりだけだ。考えてみれば、最後にちゃんと空を見上げたのがいつだったのかも思い出せない。朝は駅までの道でスマートフォンを眺め、会社ではモニターを眺め、帰りはくたびれた靴の先を眺めて歩く。月が満ちたり欠けたりしていることなど、とうに忘れていた。  たばこ屋の軒下には、古びた木のベンチが残っていた。店があったころ、店番のおばあさんがよくそこに座って道行く人を眺めていた気がする。僕らはどちらからともなく、そこに並んで腰を下ろした。僕が座ると古い板がぎしりと鳴ったが、彼女のときは何の音もしなかった。よほど軽い人なのだろう。  プルタブを引くと、かしゅっと小気味いい音がした。  ひと口飲む。甘くて、苦くて、熱い。舌の奥がずっと欲しがっていた味だった。百二十円と、借りものの十円ぶんの味だ。思っていたより、ずっとうまい。  隣では彼女がおしるこの缶を上下によく振っていた。 「振るんですか、それ」 「振らないと、最後に小豆が底に残っちゃうんです」  缶を振る手を止めずに、彼女は答えた。 「詳しいですね」 「好きなので」  満足げに缶を開けると、両手で包むように持ってひと口すすった。ほう、と白い息がこぼれる。九月の終わりの夜は、息が白くなるほど冷えてはいないはずなのに、なぜかそう見えた。 「あったかい」 「よかったです」 「お団子のかわりに、ちょうどいいでしょう。白玉は入ってないけど」  それから月に向かって、缶を小さく掲げてみせた。乾杯のつもりらしい。僕も真似をして、缶コーヒーを月に掲げた。  しばらく二人とも黙っていた。自販機の低い唸りと、遠くの幹線道路を走るトラックの音だけが聞こえる。月の光は思いのほか明るくて、アスファルトの上にベンチの影がくっきりと落ちていた。 「きれいですね」  ぽつりと言うと、彼女は「でしょう」と、まるで自分が褒められたみたいに胸を張った。 「毎晩、ちゃんと出てるんですよ。見てもらえなくても」 「……なんか、すみません」 「どうしてあなたが謝るんですか」  彼女は可笑しそうに肩を揺らした。謝った理由は僕にもよくわからない。ただ、ずいぶん長いあいだ誰かを待たせていたような、そんな後ろめたさがあった。 「こんな時間に、どうして缶コーヒーだったんですか」  不意に彼女が訊いた。 「なんとなく、です。急に飲みたくなって」 「それで、わざわざ?」 「ええ。でも小銭がなくて。最近は全部スマホで払っちゃうので、財布に一枚も入ってなかったんです。それで部屋じゅうひっくり返して、靴箱の上とか、コートのポケットとか、引き出しの奥とか」  指折り数えながら話すと、彼女は肩を震わせて笑った。 「かき集めたら、ちょうど百三十円だったんです。ぴったり。これはもう行くしかないなと思って」 「それで、最後の一枚を」 「落としました」  彼女はとうとう声を立てて笑った。月の下で笑う人の声は、どうしてこんなに遠くまで響くのだろう。 「小銭って、いろんなところで眠ってるんですね」  笑いがおさまってから、彼女はしみじみと言った。 「靴箱の上とか、去年のコートとか。使われないで、ずっと待ってたんでしょうね。今夜みたいな夜を」  そんな大げさなものじゃないですよ、と言いかけてやめた。今夜あの八枚の十円玉と一枚の五十円玉は、たしかにそれぞれの暗がりから引っぱり出されて、ここまで連れてこられたのだ。一枚は途中で脱落したけれど。 「そういえば」と僕は言った。「さっきの十円、ギザ十でしたよね。よかったんですか。ああいうの、今はけっこう珍しいんじゃ」 「ああ」  ショールの上から、がま口をしまったあたりにそっと手を当てる。 「ずいぶん前に、おつりでもらったんです。なんだか使いそびれて、ずっと持ってたんですけど。使うなら、ああいうときがいいなと思って」 「ああいうとき?」 「誰かが、十円足りなくて困ってるとき」  彼女はそう言って、また月を見上げた。横顔が白く光っていた。  ずいぶん前というのは、どのくらい前なのだろう。ギザ十が作られていたのは、たしか僕の親が生まれるよりも前のはずだ。訊いてみたい気もしたが、なんとなく訊いてはいけない気もして、僕はコーヒーをもうひと口飲んだ。 *  缶が軽くなってきたころ、僕は思い出して左のポケットを探った。 「あの、十円、お返しします。ちょっと待ってください」  手のひらに硬貨を広げる。五円玉が一枚。一円玉が四枚。月明かりの下で数えなおしても、やっぱり九円しかなかった。 「……一円、足りないです」  彼女は僕の手のひらを覗きこんで、それから噴き出した。 「今夜は足りない夜ですね」 「すみません。あの、明日にでも崩して、どこかに——」  言いかけて、僕は口をつぐんだ。どこに持っていけばいいのか、僕はこの人の名前すら知らない。 「じゃあ、こうしましょう」  彼女は人差し指を立てた。さっき月を指したのと同じ仕草だった。 「知ってます? 十五夜にお月見をしたら、十三夜にもお月見をしないといけないんです。片方だけだと『片見月』っていって、縁起が悪いんですって」 「十三夜って、いつですか」 「来月です。ひと月くらい先」  旧暦の九月十三日なのだと、彼女は付け加えた。 「僕、もう片方見ちゃいましたけど」 「だから、ですよ」  いたずらっぽい笑みが返ってきた。 「十三夜の晩に、ここで返してください。そうしたら片見月にならないでしょう」  断る理由はひとつも思いつかなかった。 「わかりました。十三夜に、ここで」 「約束ですよ」  彼女は缶の底をとんとんと叩いて、最後の小豆を口に落とした。それから立ちあがり、空になった缶を僕に差し出した。 「ごちそうさまでした」 「いえ、当てたのはそっちの十円なので」 「じゃあ、十円さんにごちそうさまですね」  僕は笑って缶を受け取り、それから少し迷った。 「あの、お名前を聞いてもいいですか」  彼女は小首をかしげて、月のほうをちらりと見た。 「それも、十三夜に」  ずるい、と思ったが口には出さなかった。僕は自分の缶と彼女の缶を持って、自販機の横の回収箱へ向かった。穴に缶を落とす。からん、と乾いた音がふたつ続いた。  振り返ると、ベンチには誰もいなかった。  通りは月明かりに照らされて、ずっと先までまっすぐ見通せる。人影はどこにもない。草履の足音も聞こえなかった。ほんの数秒、目を離しただけなのに。 「あの」  呼びかけた声は誰にも届かないまま夜の中に溶けた。念のため角まで走って、アパートのほうの道も覗いてみる。そこにも誰もいなかった。  ベンチに戻って、彼女が座っていたあたりに手を置いてみる。古い木の板はひんやりとしていて、人のぬくもりはどこにも残っていなかった。ただ、小豆の甘い匂いがかすかに漂っている気がした。  しばらくその場に立ちつくしてから、僕はなんとなく自販機のほうへ向き直った。  返却口に指を入れたのは、ただの癖だった。子どものころから、自販機の前を通るたびにそうしてきた。何かが入っていたためしは一度もない。  指先に、冷たいものが触れた。  つまみ出して、自販機の明かりにかざす。十円玉だった。縁には細かな刻みがぐるりと並んでいる。表には平等院の鳳凰堂。裏返すと、昭和三十三年と刻まれていた。  さっき僕がこの機械に入れたはずの一枚だった。  確かめようはない。同じ年のギザ十なんて、世の中にいくらでもあるだろう。けれど僕の指はあのざらりとした感触を覚えていた。手のひらの上の十円玉は、月の光を浴びて、ほのかにあたたかい色をしていた。  自販機はなにごともなかったように、低く唸っている。表示窓はもう何の数字も映していなかった。  僕はその十円玉を空っぽになった右のポケットにしまった。一円足りなかった僕に、返すための一枚を誰かがちゃんと持たせてくれたのかもしれない。  十三夜まで、ひと月足らず。それまでに小銭入れをひとつ買おう、と思った。この一枚をほかの小銭と混ぜてしまわないように。それから誰かの十円が足りないときのために、何枚か十円玉を持ち歩くのも悪くない。  十三夜の月は満月にほんの少し足りない形をしているはずだった。足りない夜には、今夜でずいぶん慣れた。  見上げると、月はさっきより少しだけ高いところにいた。  僕はしばらくそこに立ったまま、首が痛くなるまで、その光を眺めていた。 十円ぶんの月見(了)