その日、帆羽くれあはなにか温かいものが手に触れる感触で目を覚ました。 目を閉じたまま、少しだけ指を動かしてその手触りを確かめる。 それはすべすべとしていて柔らかく、弾力があった。 まだぼんやりとした頭にお菓子の生地を思い浮かべながら、くれあはそちらに顔を向けて薄目を開く。 そしてぼやけた視界の中に現れたそれが何なのか気付くと、くれあはぱっと目を見開いた。 「……るるか?」 彼女はベッドの脇に座り込み、くれあの顔をじっと見つめていた。 両手で捧げ持ったくれあの手首に軽く頬ずりをしながら、薄く微笑んでみせる。 「あ……起きた?」 くれあは少しの間驚いた表情をしていたが、やがて安心したように再び目を細めた。 長い間離れて暮らしていた彼女が、すぐそばに居る。 それが今の当たり前であることを、覚めてきた頭が思い出す。 くれあは指先で彼女の頬を撫でながら言った。 「……何してるの?」 「寝顔、見てた」 「やめてよー、もう……ふふっ」 言葉とは裏腹に楽しそうな笑い声を上げ、くれあはもう片方の手で顔を隠す。 指の隙間から見える口元も、釣られたように笑っている。 「ごめん、つい。……起きたら、くれあが隣に居るのが……嬉しくて」 その感触を、存在を確かめるように、柔らかい頬を手首に押し付ける。 彼女は目を閉じると、独り言のように言った。 「……夢じゃない」 くれあは顔を隠していた手を退け、淡い色の髪を優しく撫でながらそれに返す。 「うん、私はここに居るよ。……おはよう、るるか」 「ん……おはよう、くれあ」 ───── 身支度を終えた二人が事務所に出ていくと、他のメンバーは既に概ね揃っていた。 今朝の食事当番である小林みくるは、エプロン姿で食卓に皿を並べている。 「あ、おはよー、るるかさん、くれあさん。今ごはんできた所だよ」 「おはようみくるちゃん。遅くなっちゃってごめんね」 「いえいえ! チュチュのある日はいつも早起きなんだから、休日くらいゆっくり休まないと〜」 「うふふ、ありがとう」 「おはようみくる。……今朝の新聞は?」 「ジェット先輩が取ってきてると思う!」 「……居ないけど」 「えっ?」 新聞や郵便を回収するのはいつもジェット先輩の役割だが、今朝は事務所に姿が見えない。 みくるは配膳の手を止め、呆れた顔でため息をついた。 「また夜更かしして寝坊してるなー。しょうがないんだからー」 「……自分で取ってくる」 「ごめんねるるかさん、私先輩起こしてくる。……ほーらあんなもー。そろそろご飯だよー」 「んー」 明智あんなとそのおとも妖精であるポチタンは、テレビから目を離さずに片手を上げて生返事を返す。 ふたりは休日の朝に放映されているアニメに夢中になっているようだ。 「今良いとこー」 「しんか!しんかポチー!」 「……もー」 みくるはもう一度ため息をつくと、ジェット先輩の研究室に向かってぱたぱたと駆けていった。 「あーらあら。今日はねぼすけさんが多いわねぇ〜」 紅茶をポットから注ぎながら、るるかのおとも妖精であるマシュタンはくすくすと笑う。 その意味深に向けられている視線に気が付くと、くれあ達は思わず顔を見合わせた。 「……今朝はくれあがなかなか起きなかったの」 「あら、るるかが起こさなかったんでしょ?」 「うふふ。仲が良くて結構だわぁ」 からかうようなマシュタンの言い草に、るるかははにかんで目を逸らし、くれあは少し嬉しそうに微笑んだ。 ──穏やかな、朝の日常。 人間と妖精たちが織りなす、幸せでかけがえのない時間。 「……じゃ、新聞取ってくる」 それが簡単に壊れて無くなってしまう儚いものであることを、その時既に知っていたかのように。 彼女は少し名残惜しそうにその場を離れ、玄関へと向かった。 そして、それから数秒後。 「……あなた誰っ!!?」 突然、るるかの鋭い叫び声が響き渡る。 くつろいでいた事務所の面々に緊張が走り、彼らは急いで玄関へと集まっていった。 「何!? どうしたのるるかさ……えっ!?」 真っ先に駆け付けたあんなが、玄関前の光景を見て言葉を失う。 少し遅れて外に出てきたくれあ、みくる、ジェット、妖精達もまた、その異様な光景に息を呑んで固まってしまった。 「な、なんだこりゃ!? るるかが、ふたり……!?」 そこに居たのは、まさしくジェットの言葉通り──ふたりのるるかだった。 ひとりは玄関扉の前で立ち止まり、白いブラウスの背をあんな達に向けている、おそらくはさっきまで事務所に居た方のるるか。 そしてもうひとりは、事務所前の通りからこちらを睨みつける、黒いケープを纏ったるるか。 ふたりは全く同じ顔と体格で、違うのは服装と胸に下げたペンダントだけだった。 彼女達を交互に見比べながら、みくるは混乱した様子で頭を抱える。 「え、ええ〜……!? ど、どういうこと……?」 「……みんな下がって。なぜ私に変装しているのかわからないけど……たぶん、敵」 事務所前に立っている方のるるかはそう言うと、腕を伸ばして背後のあんな達を庇った。 それを見た黒いケープのるるかは、敵意を剥き出しにして奥歯をぎりっと鳴らす。 「白々しい……! 偽者はあなたでしょう! ……マシュタンを返して!」 ふたりのるるか以外の視線が、一斉にマシュタンの方へと向けられる。 「えっ? わ、私……?」 「……返すって、どういうこと? マシュタンはずっと私たちと一緒に居たよ!」 思わぬ言葉と突然向けられた注目にうろたえているマシュタンに代わり、あんながその言葉の真意を問いただす。 るるかは失望と悲しみの入り混じった目であんなとマシュタンを見据え、その問いに応えた。 「……その子は、数日前にそこの偽者に拐われたの。おそらく、その後ここに連れて来られた……あなた達はずっと騙されていたのよ」 「拐われた……? そうなのマシュタン?」 「えっ……?」 「え?ってお前……拐われたなら、そうとわからないわけないだろ?」 「……そ、そう言われたって……」 みくるとジェットに詰め寄られ、マシュタンはしどろもどろになりながら数日前のことを話す。 「……ここに来た日は……ね、寝てたところを、るるかに起こされて……事務所に帰ろう、って……」 「……ってことは、その時起こしに来たるるかさんが……」 そこまで言ってから、みくるはうつむくマシュタンの様子を見て口を噤んだ。 その日マシュタンを連れてきたるるか──今朝まで事務所に居た彼女が本当に偽者なのだとすれば、マシュタンは確かに拐われたのだろう。 しかし黒いケープのるるかが言っていることが全て嘘である可能性も否定はできない。 結局のところ彼女がそう主張しているだけで、マシュタンが拐われたという証拠など現状何一つないのだから。 つまりるるかの話が真実かどうかは、どちらのるるかが本物なのか──その答え次第なのだ。 そしてそれがわからないということは── 「……ごめんなさい……」 マシュタンはふたりのるるかを交互に見たあと、しょげた顔で再びうつむいた。 彼女を迎えに来たるるかが偽者だと思っていたならそもそも誘拐されないだろうが、黒いケープのるるかが嘘をついていると思うなら、とっくにそう断言しているだろう。 ……マシュタンにも確信が持てないのだ。 「…………」 その様子をじっと見ていたあんなは、ふと振り返ってくれあの方に視線を向けた。 彼女は対峙するふたりのるるかを前にして、純粋に驚いたような──その一方でどこかつらそうな、そんな表情で固まっている。 「……くれあさんはどう思う? どっちのるるかさんが本物?」 「えっ? ……えっと、私は……」 くれあはハッと我に返ると、目線を左右に振ってるるか達を見比べた。 しかしその目はどちらかに留まることはなく、やがて逃げるように足元へと向けられる。 あんなはくれあの無言の答えを受け取ると、納得したと言うように一度頷いた。 そして服の下に隠している小さなキーホルダーをひとつ掴み取り、今度は相棒の方へ目を向ける。 「みくる!」 「へ? あ……!」 みくるはあんなと目が合うと、それだけで意図を察したのだろう──混乱していた表情が引き締まり、自身もあんなと同じものを手に取った。 そしてあんなが視線を外したのを合図に、妖精の力を解き放つ合言葉をほとんど同時に言い放つ。 「「オープン! プリキットライト!」」 電灯のような本来の姿を取り戻した探偵道具は、ふたりの腕の動きに合わせて桃色と紫色の光を空に描く。 それらは実体を持つ光の筋となってその場に残り、縄のようにしなって宙を舞う。 「ごめんなさいっ、るるかさん!」 「っ!?」 先に桃色の光が目の前のるるかを捕え、白いブラウスの上から彼女の華奢な体を縛り上げる。 みくるの行動が意外だったのか、黒いケープを纏ったるるかとくれあは驚いた表情で一瞬固まった。 「みくるちゃん!?」 「……!」 「はぁっ!!」 そのほんの僅かな隙を見逃さず、紫色の光がもうひとりのるるかの背後へ回りこむ。 「しまっ……!」 思わず漏れた言葉が形になる前に、るるかは光の筋に囚われて軽くよろめいた。 あんなは申し訳なさそうな顔で彼女に近付き、その肩に手をかけて身柄を確保する。 「手荒なことしてごめんなさい。でもこうするしかなくて……」 「ちょっ、おいおい! 両方捕まえてどうするんだよ!? 結局どっちが偽者なんだ?」 「わからない。……でも、私はマシュタンとくれあさんのきらめきを信じる」 あんなはるるかの首から丁寧にペンダントを外しながら答えた。 「誰よりるるかさんのことを知ってるマシュタンでも、くれあさんの直感でも見分けがつかないなら、この場で私たちにわかるわけないよ」 「だからいったん両方捕まえておいて、もっと推理を重ねた上で判断する……で、良いんだよね?」 「うん! みくるになら伝わると思った」 「んな乱暴な……」 大胆な行動になかば呆れているジェットに対し、当のるるか達はさほど動揺した様子もない。 ふたりとも特に抵抗することもなく、大人しく連行されている。 「……一応、筋は通ってる。咄嗟の判断としては悪くない」 「もちろんこの場で見分けをつけるのが理想……でも次善ではある。やるわね、ふたりとも」 「……なんだこいつら。息ぴったりかよ」 示し合わせたようなお揃いの言動にジェットが突っ込むと、あんなとみくるは少し可笑しそうに頬を緩めた。 「…………」 一方、くれあの表情はより深刻さを増していた。 見た目だけではなく中身まで似ているのであれば、いよいよ区別をつけるのは難しくなる。 それを知ってか知らずか、あんなは人差し指をぴっと立て、明るい声で言った。 「それじゃ、事務所に戻ろっか! まずは聞き込みから、だよね!」 ───── 「──さて。じゃあこれからどうするのか、改めて説明するね」 みくるは朝食として用意していたトーストとサラダ、スクランブルエッグを仕立て直したサンドイッチをひとりひとりに配り終えると、卓に着いた面々を見渡して言った。 ソファにはふたりのるるかがあんなとくれあを挟むようにして腰かけている。 ふたりの拘束は既に解かれているものの、変身に使うロッドはそれぞれ没収されていた。 「ふたりにはこれから、くれあさんとマシュタンからの質問を受けてもらいます。カンニングできないように、ひとりは事務所の応接室で、もうひとりは離れの方で話を聞くってことで」 「私とみくるは一緒に居ないと変身できないから、マシュタンの方で見張りにつくね。ジェット先輩はくれあさんの方に一応ついててくれる?」 「ま、一応な。エクレールが居れば何かあっても安心だろ?」 「え……うん。そうね……」 「……質問って、具体的には何を聞くの?」 どこか落ち込んだ様子のくれあを横目で見ながら、白いブラウスのるるかが問いかけ、みくるがそれに答える。 「るるかさんしか知らないような情報……かな。たとえば二人だけの思い出とか、癖とか趣味とか……」 「まっかせてちょうだい! ファントムに居た間もずっと一緒だったんだもの、るるかのことは私が一番よく知ってるんだから!」 さっきまでしょげていたマシュタンは、気を取り直したのか一転してやる気を出している。 すぐに見抜けなかったことがよほどプライドを傷付けたのだろう。 「おとも妖精の誇りにかけて、必ず偽者を見破ってみせるわーっ!!」 「流石マシュタン……」 「頼もしい……」 「うふふ、ありがとるるか♡」 「……いや、片方は偽者だぞ?」 「はっ! そ、そうだったわね……!」 「じゃあ、マシュタンはまず後から来た方のるるかさんをお願いね」 「あれ? 後から来た方のるるかさんって、みくるから見て右のほうのるるかさん?」 「そう、服装が黒っぽくてアルカナシャドウって感じの方のるるかさん」 「……ややこしいな。黒るるかと白るるかで良いだろ」 そうして便宜上黒るるかと呼ばれることになった、ケープを纏っている方のるるかは事務所でマシュタンに、もう一人の白るるかは離れでくれあに、それぞれ尋問を受けることとなった。 その方針が決まると、白るるかはもう話は終わったと言わんばかりの態度でソファから立ち上がった。 隣に座っていたくれあに笑顔を向け、手を差し伸べる。 「さ、行こ。くれあ」 「う、うん……」 くれあは素直にその手をとり、続けて立ち上がった。 白るるかは手をしっかりと握ったまま、彼女にぴったりと寄り添って離れに繋がる廊下へと歩きだす。 その後ろを、サンドイッチの皿を抱えたジェットが慌てて着いていく。 「あ、おい待てよ! まだ食べ終わってないのに!」 「…………」 黒るるかはその様子を横目で見ながら、なんとも不愉快そうに眉をひそめた。 しかしその思いを口にすることはなく、ポーカーフェイスを取り戻して正面へ向き直る。 「……こっちも始めましょう。マシュタン」 「ええ! 行くわよ〜、まずはロンドンに居た頃のことからね!」 マシュタンは勢い勇んで黒るるかの前に出ると、意気揚々と質問を開始した。 ────── ふたりのるるかへの尋問はそれから1時間ほど続き、さらに交代を挟んでもう1時間が経った。 黒るるかへの尋問を終えたくれあとジェットが事務所へ戻ってくると、マシュタンは白るるかの膝の上でぐったりと横たわっていた。 生気の抜けたような表情で両耳をぺたりと倒し、力なく頭を撫でられている。 「あ、くれあさん、ジェット先輩。こっちの方は……」 「見りゃわかるよ。僕たちも同じさ」 「……ごめんなさい。どちらかが偽者だって証拠は見つからなかったの」 くれあは申し訳なさそうにうつむいて言った。 「ロンドンに居た頃に解決した事件のことも、日本に来てからのことも、私とふたりだけで話したときのことまで……どっちのるるかも完璧に答えられた。調べただけでできることじゃないわ」 「……ふたりとも……るるかとしか思えないのよ……」 マシュタンがうわ言のように呟く。 あんなとみくるは困り顔同士を見合わせ、ジェットは頭を掻きながらため息をついた。 「記憶まで似せるなんて、こんなの見たことないぞ……単なるファントムの変装ってわけじゃなさそうだな」 「……それは最初からわかってた」 黒るるかはもうひとりの彼女をじっと見つめながら言った。 その目は既に冷静そのもので、玄関先に居た時のような激情は見えない。 マシュタンを奪われたことによる焦りが落ち着き、目の前の大きな謎を解き明かすことに集中し始めている目だった。 「ここに来る前、ファントムのメンバーは全員居場所を確認した。デッチ・アゲインを捕まえるのに数日かかったけど……彼らは無関係だと、裏が取れてる」 「なるほど。ここに来るまでに時間がかかったことに関してはそう説明をつけるのね」 対する白るるかも、同じ表情で相手を見つめ返す。 話している内容は少し挑発的だったが、その話し方は素直に感嘆しているように聞こえた。 「そもそも変装は、化ける相手が居る場所では意味がない。あなたの行動は最初から不可解だった……ここまでとは思わなかったけど」 鋭い視線が交錯し、ふたりの声が重なる。 「「……あなた、誰?」」 静かな迫力に押され、あんな達は思わず息を呑む。 しばらくの間、ぴりぴりとした沈黙が事務所を包んでいた。 やがてその張り詰めた空気に耐えられなくなったのか、みくるがおずおずと口を開く。 「とっ、とりあえず、今日はふたりとも事務所に居たら良いんじゃない……? 黒るるかさんはマシュタンを取り戻しに来たけど、ここに無事で居るわけだし……」 「事務所にったって、寝る所はどうすんだよ? もう部屋無いぞ?」 「ジェット先輩の研究室は結構スペースあるでしょ? そこに寝かせてあげてよ」 「お前なぁ……エリザみたいなこと言いやがって」 ジェットは呆れ顔で文句を言いながら、くれあの方に視線を向けた。 「だいたい、白るるかはどうするんだ? くれあと同室のままで良いのか?」 「えっ?」 「……!」 同室という言葉に反応したのか、黒るるかの目がわずかに見開かれる。 くれあはそれに気付く様子もなく、微笑みながら言った。 「それは大丈夫よ。今日まで一緒に寝てたけど、何もなかったし」 「……私がくれあに何かするつもりなら、もうとっくに手を出してる」 「うーん……それもそうか」 「安心して。私はくれあの……キュアエクレールの味方だから」 白るるかはマシュタンを胸に抱いて立ち上がると、くれあの側へ歩み寄った。 その手首に軽く指を沿わせ、肩を寄せて首を傾げる。 くれあよりも少し背が低い白るるかの頬が、彼女の肩に軽く触れた。 「……私はもう、マコトジュエルを狙ったりしない」 黒るるかはそれを見て少し驚いたような顔をすると、ふっと目を逸らした。 白るるかの言葉を受け、あんなは顎に指先を当てて考え込みながら口を開く。 「確かに、今さら白るるかさんが何かする理由は無いよね。……むしろ、るるかさん達には誰か付いてたほうが安心かも」 「じゃあ、やっぱり黒るるかさんはジェット先輩の研究室に泊まりだね」 「……仕方ないなぁ」 ふたりのるるかの処遇が決まっていく中、くれあは黙ってうつむいている黒るるかの横顔をじっと見つめていた。 「…………」 ────── 「ねぇ、あんな。ちょっと良い?」 るるか達に対する方針が決まった後、事務所のメンバーは一旦解散となった。 落ち込むマシュタンを励まするるか達とくれあから離れ、台所でひとり食器を洗っていたあんなにみくるが声をかける。 彼女の腕には、ミルクを飲んでおやすみ中のポチタンが抱かれていた。 「うん? 何?」 「るるかさん達のことなんだけど……もしかしたら、ふたりとも本物って可能性は無いかな?」 「ふたりとも? ……どういうこと?」 あんなは蛇口を閉め、洗い終わった皿を水切りかごに置いてみくるの話に耳を傾ける。 「見た目がそっくりなだけじゃなくて、ふたりともるるかさんしか知らないことを知っていた。もしマシュタンが言う通り、両方がるるかさん本人なら説明がつくんじゃないかなって」 「でも、どうやって? はなまるコピーで作ったレプリカは本物みたいに動かないし……同じ人間を増やすなんてできるのかな」 「思ったんだけど……あんなと同じ方法ならどうかな?」 「……! タイムスリップってこと……!?」 「うん。あんなはこの時代にはまだ産まれてないからひとりしか居ないけど、もし戻ったのが一ヶ月前とかだったら……」 「過去の私と未来の私で、ふたりになってたかも! 確かにあり得る……!」 あんなは顎に指を当て、真剣な表情でその案を検討し始める。 が、きりっと吊り上がった眉はすぐに垂れ下がってハの字になってしまった。 「……でも、だったらどうしてそう言ってくれないんだろう? 何か目的があって未来からやって来たなら、私達に話してくれたら協力できるのに……」 「そこなんだよね……私達には話せないような理由なのかも?」 「やっぱりエクレールを倒しに来たとか? 黒るるかさんの方は、くれあさんとちょっと距離があるみたいだけど」 「うーん……それなら、白るるかさんが居ない時にこっそり来ないと意味がないんじゃないかな。ひとりでタイムスリップしたなら、マシュタンを取り返しに来たって言うのもよくわからない……」 「そっか、そうだよね……結局どっちが未来のるるかさんなのかはわかんないなー」 あんなは難しい顔で腕を組み、みくるの腕のなかのポチタンに目を向ける。 「……それに、方法も。タイムスリップはポチタンが起こすはずだけど……」 「ポチタン、何か知ってる?」 「……ポチ?」 「……だよね……それこそ、ポチタンはずっと私達と一緒に居るし」 原因を説明できたとしても、理由や方法がわからないのであれば答えとは言い難い。 ふたりは再び頭を抱えて天井を仰ぎ見た。 「……何か足りない気がする。もうひとつ、謎が隠れてるような……」 独り言のようにつぶやかれたその言葉は、きっとあんなの直感から出たもので、みくるはいつもそれを信頼していたが──結局、ふたりにその謎の答えは出せないままだった。 ────── その日の夜。 ルームウェアに着替えたくれあは自室のベッドに腰かけ、ひとり物思いにふけっていた。 いつもは同じ部屋で騒いでいる妖精たちも、今は姿が見えない。 くれあはトップオブリリーフレグランスのペンダントを手に取り、じっと見つめながら指先で縁をなぞった。 ロンドンから日本に来た時にるるかから送られた、ふたりの大切な思い出の形。 だがその時交わした言葉さえも、もうひとりのるるかは平然と答えてみせた。 「……でも、私は……」 小さな声で呟くと、それに答えるように扉が開く音がする。 顔を上げてそちらに目を向けると、レースのカーテンをめくって彼女の同居人が現れた。 「お待たせ、くれあ」 「あ、し……る、るるか」 「……確信が持てないなら、白るるか、って呼んでもいい。まだ容疑者なのはわかってるつもり」 「……ごめんなさい」 「謝らないで。気にしてない」 白るるかは対面のベッドに腰掛け、優しく微笑んで見せた。 乾かしたばかりでまだ少ししっとりとしている髪をよけ、カーテンの向こうに横目を向ける。 「マシュタンは、今日はあんなと一緒に寝るって」 「……そうなんだ。きっとまだ気まずいのね」 「うん。ちょっと寂しいけど、仕方ない」 白るるかは少し物憂げな表情で、ベッドについた腕に体を預けた。 柔らかいマットレスにゆっくりと腕が沈み込み、徐々に体が傾いていく。 そして斜めに垂れた前髪の隙間から、白るるかは薄い微笑みと共にくれあを見つめた。 「……もしかして、あなたも同じ?」 「……えっ? い、いえ、私はそんな……」 「ふふ……無理しなくてもいい。もし昼間の続きがしたいなら、いくらでも付き合う」 白るるかはくすくすと笑いながら身を起こし、くれあに歩み寄って隣に腰を下ろした。 突然のことに驚いているくれあを上目遣いに見つめつつ、いたずらっぽい表情で言葉を続ける。 「それとも、聞き込みだけで推理できそうにないなら……次の段階に進んでみる?」 「次の段階、って……」 「……物的証拠を探す。でしょ? 名探偵さん」 白るるかはくれあの手を取ると、中指の腹にそっと唇を押し付けた。 くれあの目が見開かれ、頬がぼっと朱くなる。 「え……!?」 白るるかはくれあの目をじっと見つめたまま、視線を逸らさずにゆっくりと手を動かした。 小さな柔らかい唇の端から端へ、ぬぐうように彼女の指先を沿わせていく。 少し湿った感触が指から伝わり、くれあは背筋をぞくぞくと震わせた。 それが終わると、白るるかはぺろりと唇を舐めてから微笑んで言った。 「……これで、プリキットグロスは使ってないと証明できた」 「……!」 「でも変装の仕方は他にも色々ある。アゲセーヌは妖精の力がこもったメイクブラシで変装するの」 白るるかはくれあの手のひらを頬に当て、ねだるような視線を向ける。 「……どう? 何か塗られてる?」 くれあはその求めに応じて、もう片方の手も彼女の頬に添えた。 小さな顔を両手で挟み、優しく撫でてマッサージする。 白るるかはまるで子犬のようにうっとりとした表情でされるがままになり、くれあもそれに釣られて頬を緩めた。 「……お風呂あがりでしょ? 何もついてるわけないわ」 「ふふ、そうね。でも他の可能性は考えなくて良いの?」 白るるかはくれあの手を首元まで誘導すると、冗談めかして言う。 「このあたりにマスクの切れ目があるかも……」 「まさか……それに妖精の力で変身してたら、見ただけじゃわからないわ」 「確かに。……だから、しっかり確かめないと」 片手で手首を掴んだまま、もう片方の手は自身の首元へと向かう。 細い指先が器用に動き、ルームワンピースのボタンを上から素早く外していく。 「……っ!」 白るるかが体を捩ってくれあの方へ向き直ると、ワンピースがするりと肩からずり落ちた。 露わになった彼女の体は、下着の類は何も纏っていない。 再び赤面したくれあににじり寄り、白るるかは楽しそうに笑う。 「隅から隅まで、見て、触って……あなたの記憶と同じかどうか」 彼女の熱っぽい視線から逃れるように、くれあはうつむいて目を逸らす。 すると否応なしに視界の中に入ってくるふたつの膨らみが、小さく揺れて存在を主張する。 くれあのものよりもひと回り大きいそれは、鎖骨から続く滑らかな曲線も、桜色に染まる中心の色味や形も、肋に切り替わるラインの高さも、全てが記憶のなかのるるかと同じだった。 思わず釘付けになった目の端で、白るるかの唇が満足そうに歪む。 彼女はくれあの手首を掴んでいた指から、ゆっくりと力を抜いた。 支えと抑えを失ったくれあの手は、重力に引かれて首元から少しずつずり落ちていく。 そしてやがてふかふかとした柔らかな感触を手のひらの中に収めると、彼女は白るるかの言葉通りに、触覚を使ってそれが本物かどうかを確かめた。 「……んっ」 白るるかの喉から普段よりも高いトーンの声が漏れ、手のひらに覆われていない方の胸の頂点が、ほんの少し充血して膨らむ。 くれあはその反応を見て、お腹の奥の方で何かがじわりと疼くのを感じた。 顔が燃えるように熱くなり、反対に頭の芯の方がきんと冷たくなる。 彼女は自分の鼓動がうるさいほど強く鳴っていることを、今さらになって意識した。 「……どう? 同じだった?」 その時、顔を上げて白るるかの表情を見なかったのは、きっと罪悪感があったからだろう。 彼女をるるかと呼べないことへの──そして、扉の向こうに居るもうひとりの彼女への、罪悪感。 しかしそれから逃れるように、目線を下げれば下げるほど、くれあの中の欲望は強く掻き立てられていく。 腹筋の筋に繋がる綺麗な形のへそも、太ももの内側に隠れた小さなほくろも、うっすらと生えた淡い色の毛も、その奥から薫る懐かしい匂いも。 全てが彼女の記憶の中にあるもので、もうひとつひとつ確かめるまでもない。 「……ええ。全部、同じ……」 理性にも感覚にも目の前の相手が愛する人だと認めさせられ、最早それに逆らうのは輪郭すらあやふやな形のない何かだけ。 彼女の白く柔らかい肌に埋もれ、体温の境が溶け合ってわからなくなるまで求め合いたいその衝動を、あえて抑える理由にはならない。 「……でも、ごめんなさい」 しかし、そのあやふやな何かを信じて欲しいと──かつて、るるかはそう言ったのだ。 くれあは白るるかの体から手を離すと、身を引いてベッドから立ち上がった。 「まだ、確かめないといけないことが……あるから」 「……そう」 白るるかは特段ショックを受けた様子もなく、ベッドにぱたりと倒れこんだ。 微笑みを絶やさないまま、くれあの横顔を見上げる。 「なら……行ってきたら?」 「え……?」 そう言われるとは思っていなかったのか、くれあは一瞬驚いた表情で振り返った。 だがすぐにまた目を逸らし、カーテンの向こうにある扉へ顔を向ける。 「……うん」 「…………」 足早に去っていくくれあの背中が見えなくなったのを確認すると、白るるかはベッドから立ち上がって彼女とは逆の方へ歩いて行った。 部屋の窓を開けると、少し冷たい夜風が吹き込んで、何も覆うものの無い火照った肌を撫でていく。 彼女は気持ち良さそうに目を細め、小さな声で独り言を呟いた。 「……やっぱり、あなたは……」 ─────── 自室を出たくれあが薄暗い事務所の廊下を歩いていると、台所の方から小さな影が出てくるのが見えた。 それはふわふわと宙を浮かび、ゆっくりとこちらに向かってくる。 「……シュシュタン?」 「シュ? ……くれあでシュ?」 薄暗闇の中から現れたシュシュタンは、小さな手に水の入ったコップを抱えていた。 「どうしたの? こんな夜中に……」 「シュ〜……昼間寝すぎて、変な時間に目が覚めちゃったでシュ」 「あら……あんまり昼夜逆転しないように気をつけてね」 「シュ、これ飲んだらすぐに寝るでシュ」 シュシュタンはコップを掲げてにっこりと笑う。 それに釣られるように、沈んだ表情をしていたくれあの顔に笑顔が戻る。 「くれあはどうしたんでシュ? 今からどこかに行くんでシュか?」 「えっ……と、私は……」 言葉に詰まるくれあを見て何かを察したのか、シュシュタンは短い耳をぴこぴこと動かして言った。 「……もしかして、ジェット先輩の部屋に行くんでシュ?」 「へっ!? ……な、なんで……」 「シュシュタンもちょっと聞いてたんでシュ。黒るるかのことが気になるんでシュね?」 「う……うん……」 「やっぱりでシュ! じゃあ行ってくると良いでシュ!」 歯切れの悪い返事に対し、シュシュタンは何故かやけに嬉しそうな様子で続ける。 「ジェット先輩はシュシュタンが上手く連れ出してあげるでシュ。ふたりきりでゆっくり話すでシュ!」 「えっ……でも、良いのかな……」 「? 何がでシュ?」 「……黒るるかが何者なのか、まだわかったわけじゃないの。証拠が何もなくて……それなのに、ふたりきりで会うなんて……」 シュシュタンはうつむくくれあに少し近付くと、いつもより優しげな声色で言った。 「……くれあ。確かに証拠はないでシュね……話を聞いても見た目を観察しても、どっちが本物かわからなかったでシュ」 「うん……」 「……でも、忘れてないでシュ? くれあにはきらめきがあるでシュ」 くれあが顔を上げると、廊下の窓から差し込む月明かりがシュシュタンの笑顔を照らしていた。 彼女の持つコップの水面が、その光の一部をきらきらと反射している。 「推理ではわからなかったとしても、くれあのきらめきが答えを知ってるなら……それを信じて欲しいでシュ」 金色の瞳がわずかに揺れ、頬の緊張が緩む。 くれあはシュシュタンにきらめく笑顔を返して言った。 「……そうね。ありがとう、シュシュタン」 それを聞いたシュシュタンは満足げに尻尾を揺らすと、コップを傾けて水を半分ほど飲み込んだ。 「ぷはー……それじゃ、先に行ってくるでシュ。シュシュタンが先輩を連れ出したら、こっそり入るんでシュよ」 そう言うとシュシュタンはコップをくれあに手渡し、身軽になった体で廊下をすいすいと飛んでいく。 「あ、待って……! ……っと」 くれあは慌てて追いかけようとしたものの、手に持ったコップに気が付くと、一度台所へと戻っていった。 ────── 「……ったく、なんだよ話って……」 「良いから良いから、とりあえず付いてくるでシュ!」 やや強引にジェット先輩を引き連れたシュシュタンが廊下の向こうへ行ったのを確認すると、くれあは素早く研究室の中へ入り込んだ。 研究室には大きめのソファが備え付けてあり、その上に毛布に包まった少女が転がっているのが見える。 くれあがそっと近付くと、足音でジェットではないことに気が付いたのか、彼女はさっと起き上がって身構えた。 「誰!? ……あなた、どうして」 「えっと……もう少し、話がしたくて」 驚く黒るるかに、くれあは気まずそうな笑顔を向ける。 先ほどの白るるかとは対照的に、黒るるかは素っ気ない態度で顔を背けた。 「……何を? 話なら昼間散々した」 「それは、そうだけど……」 「本物の私しか知り得ないことも話したはず。まだ何か聞くことがあるの?」 「う……確かに質問はもう無いけど……それなら、顔をもっとよく見せて。変装の痕跡が無いことを確認できれば……」 「悪魔の証明……無いことを探すのは難しい」 黒るるかは口角を吊り上げ、皮肉っぽい笑顔を浮かべながら言った。 「なら先にあの子を見た方が早い。裸に剥いて調べてみれば、尻尾を出すかも……」 「もう……それもダメだったから、こっちに来たのに……」 あまりにもつれない様子の黒るるかに少しむっとしたのか、くれあはつい口を滑らせる。 それに目敏く反応した黒るるかが驚いた表情を向けてきて初めて、彼女は自分の失言に気が付いた。 「あっ……」 「……あなた、あの子を脱がせたの?」 「えっ!? ……いえ、別にそういうわけじゃ」 「でも裸を見たんでしょう? ……どうして?」 「それは……向こうが先に……」 「調べるためじゃなくて、誘いに乗ったんだ」 「のっ……乗ってはいないというか……」 「へぇ。それでどうだったの? 柔らかかった?」 「……!」 くれあは思わず言葉に詰まったが、黒るるかはその表情を見て答えを察する。 彼女は残念そうに視線を落とし、再び顔を背けた。 「……やっぱり触ったんだ」 「……違うの、そういうわけじゃ」 「帰って。もう話すことはない」 「待ってよ、話を聞いて……」 「そこまでしてもわからなかったんでしょう? ならあなたの答えは出てる。……私が偽者、それでも別に良い」 「違うの……」 「いいから帰って……!」 「……るるかっ!」 顔まで毛布を被ろうとした黒るるかを、くれあは強引に肩を掴んで向き直させる。 ソファに押さえつけられた形のまま、黒るるかは驚いた顔で固まった。 ふたりはしばらくの間そのまま見つめ合っていたが、やがて黒るるかの方が先に口を開く。 だが彼女が何かを言う前に、くれあの唇がそれを塞いだ。 「……!」 薄暗い研究室が、再び静寂に包まれる。 ふたりの口が離れた後も、ほんの少しの間、静かな空気が彼女達を包んでいた。 それに耐えきれなくなったように、黒るるかはくれあから視線を逸らす。 「……プリキットグロスなんて、使ってない」 「わかってる。それを確認したかったわけじゃないの」 「……っ」 くれあは優しく微笑むと、肩を押さえていた手をどけて、少し乱れた黒るるかの前髪を丁寧に整えた。 「それに私は、こんなことあなたとしかしないわ。……るるか」 「……なんで、そう思うの」 震える声で問うるるかに、くれあは困ったように眉を下げながら笑って答える。 「根拠は無いの。いくら話しても、観察しても、証拠は何も見つからなかった……あなたの言う通り」 「…………」 「……でも、私のきらめきが言ってるの。あなたが本物のるるかだって」 「……!」 るるかの目が見開かれ、頬に赤みが差す。 それをごまかすように、彼女は眉間に軽くしわを寄せて言った。 「……だったら、どうしてあの子を事務所に引き入れたの」 「……正直に話すね。白るるかと一緒に居ると……なんだか安らかな気持ちになるの。あの子はるるかじゃないけど、私の味方だっていう言葉は……きっと真実だと思う」 嘘偽りのない真っ直ぐな言葉に、るるかは思わず言葉に詰まる。 「それに、あの子は……私と一緒に居るって言ってくれたの。怪盗をやめて、探偵のキュアアルカナとして」 「…………」 「……それが嬉しくて……信じたかったの。私のきらめきに嘘をついてでも……」 くれあの右目から、一筋の涙が零れる。 それはきらきらと光りながら、るるかの頬に落ちていった。 「……あなたに聞きたいこと、まだあった。……どうして、一緒に居てくれないの?」 「……それは……」 るるかが何かを答えようとしたちょうどその時、ドアノブを回す音が部屋に響く。 彼女は咄嗟に毛布を翻してくれあを包み込むと、胸元に抱きかかえて隠した。 「はぁ……結局何だったんだあいつ……ん?」 研究室に入ってきたジェットは、こちらに視線を向けているるるかに気付いて声をかける。 「まだ寝てなかったのか? 悪いな、ちゃんとしたベッドがなくて」 「……いえ、大丈夫。気にしないで」 「そうか。ま、子供は早く寝ろよ……ふわぁ……」 彼は大きなあくびをしながら自分の席につき、ソファとは反対側にある作業机に視線を向けた。 それを確認すると、るるかは毛布をかぶったくれあと共にゆっくりと立ち上がる。 そしてなるべく静かにドアを開くと、隙間からくれあを外に出し、素早く閉じた。 「ん? ……どうした?」 「……ドア、ちゃんと閉まってなかった」 「そっか、ありがとな。所々建て付け悪いんだよな〜」 特に怪しむこともなく机に向き直るジェットを見て、るるかは小さく息をつく。 その時、彼女はジェットの後頭部に何か白いものがくっついていることに気が付いた。 「?……先輩。何かついてる」 「え? な、なんだ? 取ってくれ……!」 「少しじっとしてて」 るるかはゴーグルのバンドと頭の隙間に挟まれていたもの──小さく折り畳まれた紙切れを手に取ると、じっとそれを眺めた。 「……何だったんだ? 虫か……?」 「……そんなとこ」 るるかは答えになっていない答えを返しながら、紙切れを手のなかに握り込んだ。 ────── キュアット探偵事務所から少し離れた場所に、広めの自然公園がある。 昼間はピクニックや散策を目的に集まる多くの人々でにぎわう場所だが、深夜を回った今は完全に静まり返っている。 そんな公園の中を、一人の少女が歩いて行く。 黒いケープを身に纏い、淡い色の髪をなびかせた彼女は、とある大きな木の前で立ち止まった。 その木の上の方、真横に向けて伸びる一本の太い枝の上に、もうひとりの少女が立っている。 地面に立つ彼女と全く同じ容姿で、ほとんど同じ服装をした少女。 彼女はまるで街中に佇んでいるかのような平然とした態度で、不安定な枝の上に微動だにせず直立していた。 木の上の少女は、来客が訪れたことに気が付くと、彼女を見下ろしてにっこりと微笑んだ。 「仲直りはできた? ……るるか」 るるかと呼ばれたもうひとりの少女は、眉をひそめながら木の上を見上げる。 「……仲直り?」 「くれあとお話したんでしょう? あの子、部屋に戻ってきた時……嬉しそうだったから」 「……まさか、それがあなたの目的?」 「そうだよ?」 ほんの少し怒気を孕んだるるかの問いかけに対して、木の上の少女はさも当然のように返す。 「強情なるるかが戻って来られるように、場所を整えておいてあげたの。今なら私が出て行けば、“白るるか”の居た所にそのまま収まれる。……部屋もあなたのセンスに合わせたの、きっと気に入ると思う」 「…………」 「来るのが遅いから少し心配してたけど、ちゃんと想定通りに進んで良かった。……これでキュアっと解決ね?」 「……ふざけないで。今回あなたのしたことは、悪戯じゃ済まないわ」 るるかは彼女に人差し指を突き付けて、その本当の名を口にした。 「……シュシュタン」 木の上の少女はにやりと口を歪めて笑い、背後に倒れ込むようにして枝から飛び降りる。 空中で一回転しつつ、ぽんっと爆発するように噴き出した煙に紛れて、彼女は正体を現した。 「さすがでシュ! ……ま、るるかならその内気が付くとは思ってたでシュ!」 シュシュタンはふわふわと宙を漂いながら、“紫色の”大きな目を細めて人懐っこい笑顔を浮かべている。 るるかは黙ってそれを見つめていたが、その表情は怒りよりも困惑の方が勝っているようだった。 「……わかってはいたけど信じられない、って顔でシュね?」 「……そうね。信じたくもなかった」 「シュシュ! ……だいたい予想はつくでシュが、一応聞いておくでシュ。どうしてわかったんでシュ?」 「……理由はみっつ」 可笑しそうに笑うシュシュタンとは対照的に、るるかは沈んだ顔のまま推理を披露する。 「ひとつめは、単純にアリバイが無いこと。ファントムのメンバーは全員裏が取れていたし、事務所のメンバーも白るるかと一緒に居た。……でもあなただけは、“シュシュの姿で”あの場に居た」 シュシュタンは豊富な知識を特徴とする妖精だが、他の妖精にはない無機物への変身能力も備えている。 くれあが記憶を失いパティシエとして生活していた時は、名前の通りシュシュに変身して彼女に寄り添い、長い間見守っていた。 「どう言い訳したのかは知らないけど……最近夜更かしして眠いから、シュシュになってまだ寝ていたい……とか、大方そんなところでしょう。皆の前でシュシュに変身しておいて、後からこっそり普通のシュシュとすり替わる……そうやって、妖精と白るるかの二重生活をこなしていた」 「その通り、正解でシュ! ……でも、それだけだと外部犯の可能性を排除できないでシュね?」 「……ふたつめの理由は、くれあとマシュタンの尋問を切り抜けたこと。ロンドン時代のことまで含めて答えられる可能性があるとすれば、あなたしか居ない。……ただ、それだけで全ての説明がつくわけじゃないけど……」 「そうでシュね、でもおおむね間違ってはいないでシュ。完全な第三者がどうにかしたと考えるよりは筋が通ってまシュね。……みっつめは何でシュ?」 シュシュタンはクイズを出している時のように、腰の後ろに手を回してこくこくと頷きながら補足を入れていく。 るるかはその平然とした態度に強烈な違和感と若干の懐かしさを感じながら、促されるままに最後の根拠を言い放つ。 「……みっつめは、直感よ。昼間、白るるかがくれあに甘えてくっついてる姿を見て……真っ先にあなたの顔が浮かんだ。それだけ」 「甘えてるじゃなくて、寄り添ってると言って欲しいでシュね〜。でも、直感……きらめきは大事でシュ! シュシュ〜!」 ぱちぱちと小さな肉球同士を合わせて拍手するシュシュタンに、るるかは無表情のまま問いかける。 「……今度はこっちが質問する番」 「シュ? 良いでシュよ〜、正解のご褒美になんでも答えてあげるでシュ!」 「あなた……どうやって私に化けていたの? 最初はプリキットグロスや、あなた自身の変身能力の応用だと思ってたけど……そんなに単純な話ではなさそうな気がする」 「そうでシュね。これは説明しないとわからないと思うでシュ」 「……それに、マシュタンの尋問を突破したのも不思議。あなたがファントム時代のことまで知っているはずがない」 「……どっちももっともな疑問でシュ。そのふたつとも、シュシュタンがどこから来たのかを話せば解けると思うでシュ」 「……!」 シュシュタンの言葉に思い当たる節があったのか、るるかはぴくりと眉を動かして反応した。 彼女はそれを見て薄く微笑むと、目を閉じ、両手を胸の辺りに当ててみせる。 「事務所にはあんなとポチタンが居るから、これもなんとなく予想してたんじゃないでシュか?」 シュシュタンの小さな手のひらの隙間から、白い光が漏れ出す。 胸から発せられたその光は、やがて丸い形を成して空中に留まった。 そしてその中から現れたのは──ハートを象った白い宝石。 心のマコトジュエル、と呼ばれる物だった。 「……お察しの通り、シュシュタンは未来から来たんでシュ。全てが失敗した、最悪の未来から……」 ────── 「あっはははは!! アメイジング!! ……最っ高の結末だ!! 」 酷く耳障りな高笑いを聞きながら、シュシュタンは短い眠りから目を覚ました。 全身の節々が痛み、頬にはごつごつとした冷たいアスファルトが触れている。 霞む目をなんとか開くと、ぼんやりと滲んだ視界の中で、地面に倒れ伏す紫色の影が見えた。 「……アンサー?」 シュシュタンの心を、絶望の影が覆い尽くす。 彼女は痛む体にムチを打ってなんとか起き上がり、翅が欠けた蝶のようにふらふらとした動きで、倒れたキュアアンサーの元へと飛んでいく。 「アンサー……アンサー! しっかりするでシュ!」 「し……シュシュ、タン?」 シュシュタンがアンサーの肩を揺り動かすと、彼女は辛うじて目を覚ました。 しかし仰向けになった彼女の体は右肩から袈裟がけに大きく切り裂かれ、その下から覗く肌には所々赤黒い色が滲んでいる。 傷は左腰のポシェットにまで及び、ヒビの入ったジュエルキュアウォッチがはみ出していた。 キュアアンサーが既に再起不能であることは、誰が見ても疑いようがない。 「アンサー……そんな……」 「……待って、シュシュタン……」 あまりに凄惨な光景を前にして思わず後退りしたシュシュタンに、アンサーは最後の力を振り絞って手を差し伸べる。 その手のひらの上には、ハートを象った白い宝石が乗せられていた。 「これは……るるかの、マコトジュエルでシュ……?」 「……なんとか抜き取れたの。これ、るるかさんに……返してあげて」 「るるかに……!? ダメでシュ! るるかは化け物になったでシュ!!」 シュシュタンの脳裏に、先ほど見た悪夢のような光景が蘇る。 シャドウの力を受け取り、エクリプスシャドウへと姿を変えたるるか。 彼女の圧倒的な力に敵わず、倒されていくプリキュア達。 足がすくんで動けなくなったシュシュタンの前で、ついにマコトジュエルを砕かれてしまったくれあ。 そして膨れ上がっていく力に耐えきれず、暴走を始めるエクリプスシャドウ。 「……大丈夫、今はもとに戻って……向こうで気絶してるはず」 シュシュタンが振り返ると、取水塔に続く橋の向こうで倒れているるるかの姿が見えた。 マコトジュエルを抜き取られたことで意識を失ったのだろう、遠目に見た限りではアンサーのような大怪我を負った様子はない。 おそらくアンサーは死力を尽くし、あの怪物のようなエクリプスシャドウと相討ちにまで持ち込んだのだ。 「私達はもう……戦えないけど……まだ、終わりじゃないよ……」 「シュ……」 「これを返せば……キュアアルカナシャドウが復活するはず……だから……お願い……」 「……シュシュ……」 シュシュタンは気を失ったアンサーの前で、マコトジュエルを手にしたまましばらく逡巡した。 くれあはマコトジュエルを失い、キュアミスティックとアンサーはエクリプスシャドウに倒されてしまった。 もはやファントムと戦えるプリキュアはキュアアルカナしか残っていない。 アンサー達を倒したのはあくまで暴走の結果であり、彼女の本意では無いだろう。 アンサーの言う通りるるかを復活させれば、ファントムと戦ってくれるに違いない。 しかし、理屈ではわかっていても──深く傷付けられたシュシュタンの心は、その一歩を踏み出す勇気を既に失っていた。 「……ごめんでシュ、あんな……」 シュシュタンは破れたポシェットの穴からジュエルキュアウォッチを引っ張り出すと、マコトジュエルと共に小さな腕の中へ抱えこんだ。 そしてるるかの倒れている方とは反対側──アンサーより先に倒されたミスティックのいる方へと飛んでいく。 「……ポチタン!」 倒れたミスティックに寄り添っているおとも妖精の元まで辿り着くと、シュシュタンはマコトジュエルとウォッチを差し出して言った。 「ポチタン! お願いでシュ! これで時間を戻して欲しいでシュ!」 「ポ、ポチ……?」 「ジュエルキュアウォッチと、マコトジュエルでシュ!それであんなをこの時代に連れてきたんでシュ!? ならシュシュタンも過去に送れるはずでシュ!!」 「わ、わかんないポチ……」 困惑するポチタンにウォッチとジュエルを押し付け、シュシュタンは涙をこぼしながら必死に叫ぶ。 「何年も前に送る必要はないんでシュ! 1日でも……1時間でも良いんでシュ! シュシュタンが……シュシュタンがあの時くれあを庇えてたら……! こんなことにはならなかったかもしれないんでシュ!」 「……ポチ……」 「だからお願いでシュ……! もう一度やり直させて欲しいでシュ!!」 「……ポチーッ!!」 シュシュタンの剣幕に押され、ポチタンはウォッチに手を添えて目をつぶる。 その時、ポチタンはまだ全ての能力を取り戻したわけではなかった。 おまけにマコトジュエルは似て非なるもので、キュアウォッチにもヒビが入っている。 しかし極限のストレスに晒される中で、全ての歯車が歪に噛み合い、奇跡は起こった── 「シュ……!!」 ──ただし、最悪の形で。 ─────── 「……シュ?」 静かで薄暗い空間のなかで、シュシュタンは再び目を覚ました。 いつの間にか体の痛みはなくなっており、頬には何の感触も触れない。 飛んでいる時のような浮遊感が体を包み、上も下もわからない。 目を開くと、そもそもここには地面すらないのだと気付く。 辺りは紫色のもやのような何かで包まれ、その向こうに時折陽炎のような景色が見える。 「ここは……なんでシュ? ポチタン……?」 周囲にはポチタンの姿は見えない。 何度か声をかけても、返事は返ってこない。 ただ、規則的な時計の針の音だけが鳴り響いている。 「……ジュエルキュアウォッチ……」 シュシュタンの他に形があるものは、先ほどポチタンに押し付けたウォッチとマコトジュエルだけだった。 その内ジュエルキュアウォッチの方は、ふわふわと漂いながらひとりでに針を動かし続けている。 ただし、本来の動きとは異なる方向──反時計回りに。 「タイムスリップ……成功……したんでシュ……?」 シュシュタンが見守るなか、ウォッチの針は規則的に動き続ける。 しかしその短針が、ウォッチに刻まれたヒビの上に差し掛かった時── ──金属が擦れ合う不快な異音と共に、針は動きを止めた。 「シュ……!?」 シュシュタンが驚いていると、今度は時計回りに針が動き始める。 その様子を見ているうちに、彼女は段々と事態を飲み込み始めていた。 額から冷や汗が流れ落ち、心臓の音が時計の駆動音と不協和音を奏でている。 いやまさか、もしかしたから──そんな無意味な現実逃避の言葉が頭をよぎっては消え、時計の針から目を離せない。 「……シュ……」 そして微動だにせず見守るシュシュタンの前で、ウォッチは再び異音を発した。 また反時計回りに動き始めた針を見て、彼女の頭の中は真っ白になる。 全身の力が抜け、シュシュタンはその場に倒れたかと思った。 しかし上も下も右も左もないその異空間の中では、ただふわふわと漂うしかできない。 変わらず目の前に有り続けるウォッチから逃れようとするかのように、シュシュタンは目を閉じてひとり呟く。 「……失敗、したでシュ……」 その後、シュシュタンは持てる知識を総動員して、その空間から逃れる術を考えた。 まずはウォッチの修繕ができないかと考えたが、道具もなければ構造もわからない。 解体できそうな取っ掛かりもなく、シュシュタンの小さな爪や牙ではいくら突き立てても裏蓋を外すことすらできそうになかった。 針を無理矢理進めてヒビを越えられないかと考えた時もあったが、針はただの機械仕掛けによる動きではなく、何か不思議な強い力で動いているようだった。 引っ張って動かそうとしても、逆に隙間に手を挟んで止めようとしても、針は規則的な動きを乱されることはない。 だが奇妙なことに、針の隙間に挟んだ手が折れたり傷ついたりすることもなかった。 そうなる前に手は弾かれてしまい、血が出ることもない。 そのことに気が付いたころ、シュシュタンは全く空腹や渇きを感じないことにも気が付き始めていた。 それどころか、彼女はここに来てから一睡もしていなかった。 最初は焦りや集中によるものかと考えていたものの、体感では既に2日ほど経過している。 おそらくシュシュタンの物理的な肉体はこの空間にはなく、魂とでも言うべき状態となっているのだろう、と彼女は結論づけた。 それはすなわちこの状況がどれだけ長く続こうが命は落とさないということであり、シュシュタンにとってそれは希望とも、絶望とも言えた。 およそ1週間が経過したころ、シュシュタンはウォッチを止めたり壊したりすることは諦め、マコトジュエルの方を調べ始めた。 もしマコトジュエルがウォッチの不思議な力のエネルギー源として働いているのであれば、それを断つことでウォッチを止めることができるかもしれない。 しかしシュシュタンの小さな手には、ウォッチと同様にマコトジュエルを砕くほどの力は無かった。 そして彼女は色々な方法を試した末、ある記憶のなかに希望を見いだした。 それはキュアエクレールが復活した時のこと──ファントムの首領であるウソノワールがエクレールのマコトジュエルを体に取り込み、暴走した一件だ。 あの時のようにマコトジュエルを取り込めば、一時的でもジュエルとしての機能を失い、ウォッチを止めることができるかもしれない。 あるいはウソノワールのように暴走したとしても、今より強靭な姿になれればウォッチを破壊できる可能性はある。 一か八か、シュシュタンはるるかのマコトジュエルを自らの胸の中へ取り込んでみることにした。 「シュ……!?」 その瞬間、シュシュタンの脳内に見知らぬ記憶が流れ込む。 ──それは、白い百合の咲き誇る花畑の中。 どこか気品のある芳しい香りに包まれ、緩やかな風が頬を撫でていく。 聞き覚えのある声が背後から聞こえ、思わず振り返る。 そこに立っていたのは、蝶の髪飾りを着けた美しい少女── 「……くれあ……」 そこで記憶は途切れ、シュシュタンは強い衝撃に弾かれて空間を漂った。 目を開けると、胸から飛び出したマコトジュエルが少し離れた所を漂っている。 シュシュタンは今更ながら、ウソノワールが元々持ち合わせている力の強大さに思い至った。 彼は一時的とは言え真実すらも捻じ曲げる恐ろしい力と、組織を束ねる長としての不屈の精神力を以て、辛うじてエクレールのマコトジュエルを体内に抑え込んでいたのだろう。 今のシュシュタンでは暴走どころか、ほんの数秒体内に留めることしかできない。 それほどまでに、プリキュアの持つ心のマコトジュエルとは特別なものなのだろう。 「……シュ……」 しかし、シュシュタンには他に選択肢などない。 彼女はもう一度マコトジュエルを手に取ると、再び体の中へ取り込んだ。 もちろん先ほどと同じように、数秒後には弾かれてしまう。 だが彼女はそれを何度も、何度も、延々と繰り返し続けた。 それはきっと、もうそれしか考え得る脱出方法が無かったからだ。 しかし一方で、シュシュタンがその行為そのものに魅力を感じるようになっていったのも事実だった。 「……くれあ……」 シュシュタンがるるかのマコトジュエルを取り込んだ時に流れ込む記憶は、当然ながら持ち主のものだろう。 そしてるるかの探偵としての約3年間の記憶の中には、いつもくれあの姿があった。 「……くれあ……くれあ……」 マコトジュエルを取り込んでいるわずかな時間だけ、シュシュタンは大好きなくれあに会うことができる。 それだけで、今の彼女にとっては何より代え難い幸福と安心感を得ることができた。 やがてその繰り返しがその空間における彼女の生活の全てとなったのも、無理はない。 そして、閉じ込められてから約1年が経過した頃。 シュシュタンはいつの間にか、数日以上マコトジュエルを保持できるようになっていた。 るるかの記憶もその分長く体験することができるようになり、その度に見られる鮮明なくれあの笑顔が、彼女の精神に辛うじて安定をもたらしていた。 彼女がその頃それを意識していたかは定かでないが、シュシュタンは少しずつマコトジュエルに適応し始めていたのだろう。 取り込んで弾かれることを繰り返す度に、その時間は加速度的に長くなっていった。 それから約50年ほど経った頃、シュシュタンは新しい記憶が増えなくなっていることに気が付いた。 日本に来てファントムと戦い、くれあと一度別れ、怪盗としての活動を始め、やがてあんなやみくる達と出会う。 そしてエクレールが復活し、彼女が大王になるのを阻止するため、湖での戦いに挑む。 その辺りで記憶は途切れ、マコトジュエルが胸から弾き出される。 シュシュタンはいつもすぐに体へ戻していたマコトジュエルを手に持ったまま、じっと眺めた。 そしてしばらく考えた末、その意味に思い至る。 彼女はその石に封じられたるるかの記憶の全てを、完全に体験し尽くしたのだ。 そしてそれは、シュシュタンがマコトジュエルの力に馴染みきったことを示していた。 「…………」 シュシュタンは体の中に再びマコトジュエルを取り込む。 それはまるで元からそこにあったかのように、一切拒絶されることなく吸い込まれていく。 シュシュタンは動き続けるジュエルキュアウォッチに見守られながら、いつの間にか紫色に変色していた目をゆっくりと閉じて、いつものように記憶の世界へと沈みこんでいった。 それ以降、彼女の体からマコトジュエルが勝手に排出されることはなくなった。 そして……約100年が経った頃。 「……くれあ……」 シュシュタンはもう何度目かもわからない記憶の追体験を終えて目を覚ました後、うわ言のように大好きな相棒の名前を呼んだ。 「……え?」 その声に違和感を覚え、彼女は目をしっかりと開いて辺りを見回す。 視界に入るのは、いつもと同じくジュエルキュアウォッチのみ。 だが、その大きさがいつもと違う。 思わず手を伸ばすと、目の前に現れたのは自分の手ではなかった。 毛が生えていない、肉球もない、長い指を持つ手。 もはや本来の手よりも長く見続けた、記憶の中の手。 「……これが、私の体……?」 慌てて体を見回すと、手だけではなく全身が人間のものになっている。 そしてその服や髪、ジュエルキュアウォッチの金属部に映り込む顔は、記憶の中のるるかと瓜二つだった。 シュシュタンは久しぶりに自身に蓄えられた知識の本棚を探り、この事態の原因に思いを巡らせる。 その結果彼女が思い至ったのは、妖精の成熟に伴う人間の姿の獲得だった。 たとえばジェット先輩は、猫のような妖精の姿と、少年のような人間の姿を自由に切り替えることができる。 彼のように成熟した妖精であれば、基本的に誰であっても同じことができるはずだ。 肉体はほとんど加齢による変化が見られない妖精達にとって、成熟とは精神の変化を指すのだろう。 シュシュタンはこの異空間で過ごした100年間を経て、ついにその領域に達したのだ。 「もしかして……これなら……」 シュシュタンは動き続けるジュエルキュアウォッチを両手で掴み取ると、指先に思い切り力を込めた。 針の動きに変化はなかったが、みしっという音を立て、ヒビがわずかに広がったのがわかる。 「……っ!!」 彼女はさらに力を込め、ヒビはそれに応じて少しずつ広がっていく。 そしてそれが時計盤の反対側にまで至った時──ジュエルキュアウォッチは大きな音を立て、真っ二つに割れてしまった。 その途端、重力に引かれる感覚がシュシュタンの全身を包み込む。 「……はっ! ……はぁっ、はぁ……」 気が付くと、シュシュタンは小さな木陰に座り込んでいた。 夕日が彼女のブラウスを朱色に照らし、周囲にはお菓子の甘い香りが漂っている。 「はぁ……ここは……パティスリーの、裏手……」 夕方になり、そろそろ店仕舞いをする時刻。 くれあが洗い物をするため手首から離れたシュシュタンは、ちょうど店長や客が居ないのを良いことに店の裏手に出て、木陰に座り込んでくれあを待っていた。 それは体感で100年以上も前の記憶だったが、知識の妖精である彼女の記憶力はその時のことをまだしっかりと覚えている。 現実世界へと帰還した彼女の魂は、この時木陰で休んでいた肉体の中に入り込んで同化したのだろう。 「シュシュターン? 洗い物終わったよー、そろそろ戻ってきてー」 店の方からくれあの声が聴こえてくると、シュシュタンは弾かれたように立ち上がった。 本来の時間軸では妖精の姿でそこに居たのだから、元の姿に戻った方が色々と都合が良かっただろう。 しかしほとんど崩壊しかけていたシュシュタンの心に、そんなことを考える余裕があるはずもなかった。 「シュシュタン? どこまで行っ……え?」 「……くれあ!!」 シュシュタンは驚いて固まっているくれあを思い切り抱き締め、ぼろぼろと大粒の涙をこぼした。 「会いたかった……! 会いたかったよぉ……!!」 「る、るるか!? どうしたの……!?」 「守ってあげられなくてごめんね……! くれあ……!」 「だ、大丈夫……? るるか……?」 「……これからは、ずっと一緒に居るから……!」 「……!」 くれあは困惑しながらも、泣き続けるシュシュタンの背中にそっと手を回し、ゆっくりと撫でた。 それから2日後の早朝。 怪盗団ファントムのアジトから立ち去ろうとするシュシュタンの腕の中で、マシュタンは寝ぼけ眼を擦りながら目を覚ました。 「……ましゅ? るりゅか……?」 「……あ、起こしちゃった? ごめんね……」 「どうしたの、こんな時間に……今からおでかけ?」 「……うん。一緒に、事務所へ帰ろう。……みんなが待ってる」 シュシュタンは優しく微笑み、旧友からの問いに答えた。 ──────── シュシュタンは話が終わると、白いマコトジュエルを自らの胸の中へ仕舞い込んだ。 「……シュシュタンの人間としての姿がるるかにそっくりなのは、このマコトジュエルに適応したのが原因だと思うでシュ。シュシュタンの知る限り過去に同じような例は無いから、あくまで推測でシュけどね」 愕然とした表情で言葉を失っているるるかに対し、彼女はにっこりと笑って話の補足を入れる。 そのあまりにも平然とした態度に、るるかは罪悪感を通り越してもはや恐怖すら感じていた。 「でも、シュシュタンはこうも思うんでシュ。……シュシュタンとるるかは、元々似た者同士だったんでシュ」 彼女からの反応が乏しいことを特に気にする様子もなく、シュシュタンは滔々と話を続ける。 「ふたりともくれあのことが大好きで、くれあのためなら何でもしてあげたいと思ってるでシュ。……でも、くれあを大王になる運命に巻き込んだのはシュシュタン達なんでシュ」 「……!」 「シュシュタンがくれあを探偵にスカウトして、るるかがトップオブリリーフレグランスを渡したんでシュ。シュシュタン達が居なければ、くれあはずっと普通の女の子のままで居られたんでシュ」 「……それ、は……」 「るるかがエクレールのマコトジュエルを砕こうとしていた理由、今ならよくわかるでシュ。くれあの人生を壊したことの、責任を感じていたんでシュ?」 「……そう……ね。その、通り……」 シュシュタンはるるかの弱々しい返事を受け取ると、再びにっこりと笑った。 そしてぽんっという破裂音と共に、人間の姿へと変身する。 「でもその結果が、これ。あなたはくれあを守ろうとして、他の皆を犠牲にした」 「……っ!」 るるかは鏡写しのようなその姿を見てたじろぎ、今にも泣きそうな顔で頭を下げた。 「ごめん、なさい……ごめんなさい……私の、せいで……」 「……ううん。別に、あなたを恨んでなんかいない」 シュシュタンはるるかに歩み寄ると、その頬にそっと手を添えて言った。 「あなたのマコトジュエルのおかげで、あそこから出られたし……こうして未来を変えるチャンスも得られた。今はむしろ感謝してるくらい。だから……顔を上げて?」 「……でも……」 「……それでも悪いと思うなら、私のお願いを聞いて」 さらに一歩近付き、両手を彼女の背中に回す。 そうして軽く抱き寄せながら、シュシュタンはるるかの耳元で囁いた。 「……くれあの側に居てあげて。ファントムをやめて、名探偵のあなたに戻って欲しい」 「……!」 「見たでしょ? るるかの隣に居る時の、あの子の表情。……くれあの幸せには、あなたが絶対に必要なの」 るるかはジェット先輩の研究室でくれあに言われたことを思い出していた。 彼女がくれあにとってどれほど大きな存在なのか、測り間違えていたことは疑いようがない。 しかしそれを認めたとしても、るるかには考えなければならない可能性がある。 「……だ、だけど……もし……あの子が、大王になったら?」 絞り出すような問いに対し、返答はあまりにもシンプルだった。 「私は、それでも構わない」 るるかはゆっくりと顔を上げ、震える瞳でシュシュタンを見上げる。 彼女は人形のような無表情で、るるかをじっと見下ろしていた。 「私はあの子が幸せなら、何になったっていい。大王になって世界を嘘で覆うというなら、その道を一緒に付いていくだけ。……あなたは違うの?」 「……っ!」 るるかはシュシュタンの腕を振りほどき、飛び退いて距離をとった。 ポケットから黒い杖の形をしたペンダントを取り出し、指から吊り下げて顔の前に構える。 シュシュタンはそれを見ると、口角を上げてにやりと笑った。 「へぇ。来た時に首から下げてたのはきらめきコピーで作った偽物だったってわけ。……考えることは同じね?」 彼女の方もポケットから白い杖のペンダントを取り出し、手のひらに乗せて差し出して見せる。 「……それで? 私のお願いを聞いてくれないつもりなら、これからどうするの?」 「……キュアエクレールのマコトジュエルは砕く。それが済んだら、みんなを傷付ける前に自分から舞台を降りる。そうすれば……未来は少し変わるでしょう」 るるかは苦しそうに顔を歪めながら、しかし目は逸らさずに言った。 「あなたには、本当に償いきれないことをしたと思う。でも……くれあを大王にするわけにはいかないの」 「……ふーん、そう。じゃあ、あなたはここで消えて」 対するシュシュタンは、心底つまらなそうな無表情で返す。 「くれあのことは心配しないで。私が“あなた”になってあげるから。……あの子の幸せは、これからも私が見守っていく」 「……もし、あの子が大王となって誰かを傷付けるようなことがあったら……その先にあの子の本当の幸せなんて無い。それがわからないなら……あなたは森亜るるかにはなれない……!」 祈るように合わせたふたりのるるかの手のなかで、妖精の鍛えた武器が光を放つ。 彼女達はほとんど同時に声を上げ、その封印を解き放った。 「「オープン!」」 「ティアアルカナロッド!」 「シャインアルカナロッド……!」 るるかの手にはカードを戴く紫の杖、シュシュタンの手には白い百合のつぼみを象った白い杖が握られる。 そしてその力に呼応するように、ふたりの胸から心のマコトジュエルが現れ、杖の台座へそれぞれ収められた。 シュシュタンが目元に手をかざすと、紫の双眸に緑色の光が灯り、それはやがて赤い瞳へと変化する。 「……プリキュア。ウェイクアップタイム」 そう呟くと、彼女はシャインアルカナロッドを上段に振り被って地面を蹴った。 「……っ!」 一瞬の後、二本の杖が激しく衝突して火花を散らす。 シュシュタンが振り下ろしたロッドはるるかのティアアルカナロッドと擦れ合いながら強引に振り抜かれ、その過程で根元のリングが回転し白いつぼみが花開く。 「輝きなさい! ……純白にっ!」 彼女はそのままロッドを半回転させて両手に構え、石突をるるかへ向けながら花の根元を握り締める。 るるかは連続で突き出される白い石突を自らのロッドで捌きながら、シュシュタンの動きの軌跡上に現れた3枚のカードにちらりと目をやった。 それが変身に必要なことを、もちろん彼女は知っている。 「……シャッフル!」 るるかが地面を蹴ってしなやかに跳躍すると、今度は紫色のロッドが宙に光の弧を描く。 ロッドの先端が空中に浮かぶ色とりどりのカードを弾き飛ばし、その衝撃で自らに備えられた黒いカードをくるくると回す。 るるかとシュシュタンは金色に輝いて伸びていく長髪を整えながら、すれ違いざまに鋭い視線を交錯させた。 「フラワータップっ!」 シュシュタンは楽しそうに笑いながら、弾き飛ばされたカードの内青いカードを追いかけて跳び上がった。 空中でロッドを振りカードを捕えると、その光の軌跡をくぐって白いドレスを身に纏う。 着地と同時に出現したヒールで再び地面を蹴り、2枚目のカードを空中で捕える。 「リバース……!」 一方るるかはロッドを正面に構え、そこから放たれる光を黒いドレスに変えていく。 そしてその最中、彼女は踊るように体を捻りながら空中へ跳び上がった。 おそらく2枚目のカードは、飛んでいく先を計算した上で弾き飛ばしたのだろう。 カードを捕らえた後自由落下を始めたシュシュタンに、狙い澄ましたタイミングでるるかの回転蹴りが突き刺さる──はずだった。 「……!」 「……ふふっ」 シュシュタンは片手で難なく蹴りを受け止め、空中でるるかに微笑みかけた。 叩きつけられた脚にはソックスとヒールが、受け止めた手には白いカフスが現れる。 るるかはさらに空中で身を捻り、今度は拳を使って二撃目を打ち込む。 振りかぶった拳はこちらも白いカフスを纏い、受け止めたロッドごとシュシュタンの体を吹き飛ばした。 ふたりは少し離れた位置にそれぞれ着地すると、光の中から現れたティアラとヴェールを被ってお互いに素早く目を向ける。 「っ!!」 だがるるかがシュシュタンの姿を視界に捉えた時には、既に彼女が投擲した白いロッドが、高速で回転しながら目前に迫っていた。 るるかは上体を反らし、間一髪でそれを避ける。 そして再びシュシュタンに視線を合わせると、彼女の瞳はいつの間にか相手のものと同じ色に変わっていた。 一方投げられたロッドは物理法則を無視し、ブーメランのようにカーブして持ち主の方へ戻ってくる。 その途中で宙に浮かんでいた最後のカードを捕え、ロッドはシュシュタンの手の中に再び収まった。 それと同時に彼女の肩を白いケープが飾り立て、るるかの肩は黒いケープが覆い隠す。 しかして完全な姿を現した純白の名探偵は、仕上げにロッドの花をつぼみへと回帰させ、両手の指を合わせながら堂々と名乗りを上げる。 「真実を照らす白き光、キュアアルカナ……!」 そしてその名を棄てた本来の持ち主は、欺瞞に満ちた光を前に、怯むことなく影を名乗った。 「神秘と秘密で包み込む……キュアアルカナシャドウ」 白と黒、ふたりのプリキュアが対峙する。 キュアアルカナはるるかを糾弾するように指を差し、キュアアルカナシャドウはシュシュタンに訴えかけるように手を差し出す。 「私の答え、示します」 「さあ……迷宮へ誘いましょう」 口上を言い終えたその瞬間、ふたりは同時に飛び退って距離を取る。 アルカナとアルカナシャドウは色を除けばほとんど同じ姿だが、戦闘における特性もそう変わらない。 どちらも遠距離戦を得意とするプリキュアだ。 「アルカナスターシャイン!」 「アルカナスターレイン!」 ふたりの背後に星が瞬き、同時に光線が放たれる。 アルカナシャドウの方からは紫色の光が幾本にも分かれて撃ち出され、雨のように降り注ぐ。 対するアルカナからは白い光が、一筋に集約されて敵へと向かう。 数が多い分出力では劣るのか、白い光線の軌跡に重なった紫色の光は次々に消し飛ばされてゆく。 その過程で威力をほとんど相殺されつつも、白い光はアルカナシャドウの元まで到達し、辛うじて回避した彼女の前髪を掠めていった。 「……くっ!」 しかし攻撃が届いたのは、相手の方も同じこと──白い光が相殺しきれなかった紫の光はアルカナの足元を撃ち崩し、彼女はさらに飛び退いてそれから逃れる。 「あはっ♪」 アルカナはゲームに興じる子供のように活き活きとした笑顔を浮かべると、着地と同時に素早く走り出す。 彼女の読み通り再び放たれていた紫色の光線が、コンマ数秒前までアルカナが居た空間を次々に切り裂いていく。 走りながら、アルカナは杖に白い光を蓄えていた。 前方に跳んで宙返りしながらアルカナシャドウへ狙いを定め、逆さまの状態から次のアルカナスターシャインを放つ。 アルカナシャドウもまた、相手と平行に走りながらそれをすんでのところで避けていく。 そうしてしばらく撃ち合いを続けたところで、アルカナは小さく呟きながら足を止めた。 「……やっぱり埒が明かないかな。流石本職」 アルカナはロッドを構え、光を溜めながら先ほどよりも慎重に狙いをつける。 当然棒立ちになった彼女へ向けて紫色の光が放たれるが、アルカナはまた走り出そうとはしなかった。 そのまま光の束が着弾し、アルカナは土煙に覆われる。 「……っ!」 そして煙の中から、狙い澄ました一撃がアルカナシャドウを襲う。 攻撃を終えた後の一瞬の隙を突かれ、避ける余裕は無いと悟った彼女は、咄嗟にロッドを正面に構えて光を受け止める。 ロッドを支える両腕と肋骨に鋭い痛みが走り、アルカナシャドウの体は踏ん張りきれずに後方へ吹き飛んだ。 一方アルカナは、衝撃波によって晴れていく土煙の中から地に両足をつけたまま現れる。 彼女は少し焼け焦げた左手のカフスをぱたぱたと振って煙を払いながら、転がっていくアルカナシャドウを見てにやりと笑った。 先ほどの攻防からもわかる通り、アルカナスターレインは複数の光線に威力が分散しているため、アルカナスターシャインよりも一本の出力は大幅に劣る。 アルカナは左手を犠牲にしてそれを受け止め、カウンターで相手を狙い撃ったのだ。 アルカナシャドウは地面にロッドを突き立てて無理矢理ブレーキをかけ、少しよろめきながら体勢を立て直す。 その体に負ったダメージが相手よりも大きいであろうことを確認すると、彼女はアルカナに向かってまっすぐ走り始めた。 「当然、そう来るよね……!」 能力の性質上撃ち合いでは分が悪いのなら、接近戦に持ち込むしかない。 アルカナは笑いながら2、3度光線を放ち牽制したが、アルカナシャドウは難なく避けて彼女に迫る。 そしてロッドを上段に振りかぶり、跳び上がりながら全力で叩き付けた。 「はぁっ!!」 「……っ!」 ふたりのロッドが激しくぶつかり、飛び散った火花が一瞬辺りを照らしだす。 その時ロッドを支えるアルカナの左手が痛みに耐えかねてほんの少し押されたことを、元名探偵の目は見逃さなかった。 アルカナシャドウはロッドを弾かれた勢いを利用して体を回転させ、長い脚で二撃目を食らわせる。 「ひゃっ……!?」 アルカナは慌てて上体を引き顎への直撃を避けたものの、代わりにロッドを蹴り上げられて武器を失う。 素手となったアルカナに、アルカナシャドウは容赦なくロッドを突きだして追撃する。 しかし、アルカナの表情から微笑みが絶えることはない。 彼女は体から力を抜くと、ひらりと半身になってロッドをかわし、左の脇で挟み込んだ。 思わず武器を持つ手に力がこもり、アルカナシャドウの体が硬直する。 だがアルカナは敵から離れようとも武器を取ろうともせず、むしろさらに近付いて体を密着させた。 武器を抑えていた手を離し、静かに息を吸いながら拳をアルカナシャドウの腹に軽く当てる。 「……はっ!」 アルカナが息を吐き出すと同時に、密着状態から放たれた打撃がアルカナシャドウの体を突き刺す。 「……!?」 予想外の衝撃によろめいた彼女の懐に、深く身を屈めたアルカナが潜り込む。 彼女は白いケープに包まれた背中を敵に向け、全身の力を使って突き出した。 跳ね飛ばされて宙を舞うアルカナシャドウを横目に、アルカナは地面に突き刺さっていたシャインロッドを悠々と回収する。 「私は知識の妖精……もちろん格闘技の知識だってある。ま、所詮付け焼き刃だけど」 知っている型を真似ただけとはいえ、プリキュアの身体能力をもって放たれれば十分な威力を持った技となる。 ほとんど同程度の力を持つふたりの近接戦闘において、それは明確にアルカナのアドバンテージとなっていた。 「……アルカナスターレイン!」 空中に吹き飛ばされたアルカナシャドウは身を捻ってロッドを構え、紫色の光線を再び放つ。 対するアルカナは自らもロッドを構えたが、光の雨はなぜかアルカナ自身へは向かわずに、彼女の周囲で地面へと突き刺さった。 それがただの撃ち損じなどではないことは、当然アルカナも理解している。 「目眩まし……怪盗もだいぶ板に付いてきたみたいね?」 もうもうと立ち込める土煙に視界を塞がれ、アルカナは辺りを見回しながら皮肉を言った。 無論、アルカナシャドウはそんな挑発に乗ることはない。 足音を殺して煙幕に紛れ、じっと機をうかがう。 そしてアルカナが小さな物音に気を取られた瞬間、彼女はその背後から、完全に虚を突いて襲いかかった。 「っ!!」 アルカナが振り向くよりも速く、ロッドを振りかぶったアルカナシャドウが標的の背中に肉薄する。 しかし彼女の体は何かに絡め取られてその場に固定され、ロッドは虚しく空を切った。 「えっ……!?」 アルカナシャドウが困惑しながら自らの体を見下ろすと、その胴体は青いふわふわとした帯状のものに巻き付かれていた。 それは大蛇のようにしなって動き、彼女はそのまま投げ飛ばされる。 なんとか着地したアルカナシャドウは、土煙の中から姿を現したアルカナを見て思わず言葉を失う。 「……残念。今のは惜しかったわね」 彼女の頭には白くて丸っこい獣のような耳が生え、ぴこぴこと動いている。 そしてそのスカートの下からは、彼女の身長ほどもある長い尻尾がにゅっと伸びていた。 妖精の姿の時は主人の腕に巻き付いて、体をしっかり固定するのに使われている尻尾だ。 プリキュアになることで力と長さを大幅に増した今は、敵の攻撃を防ぐことも十分可能になっているのだろう。 一対一の撃ち合いにおける相性の悪さ、そしてプリキュアの力に上乗せされた妖精としての力。 キュアアルカナはその優位性を最大限に活かし、じわじわとアルカナシャドウを追い詰めていく。 しかし最後に勝敗を分けるのは、相性でも知識でも力でもなく──長年培った駆け引きにおける勘、センスとでも言うべきものだった。 「……ごめんなさい」 アルカナシャドウがうつむいてそう呟いた、その瞬間。 「……え?」 アルカナの背中に、紫色の閃光が突き刺さる。 「うぐっ……!!」 煙幕を張るために地面へ向かって放たれたアルカナスターレインは、その全体の2割程度。 残りの光線は空に向かって発射され、大きくUターンして戻って来るように軌道を設定されていたのだ。 土煙による目眩ましも、背後から襲いかかったのも、全ては標的を着地点に釘付けにするための布石に過ぎない。 嘘で真実を覆い隠すキュアアルカナシャドウならではの戦いを前にして、キュアアルカナはその両膝をついた。 「ああっ……うぅ……っ!」 焼け焦げた白いケープが地面に落ち、傷ついた背中と肩が夜風に晒される。 アルカナは苦しそうに呻きながら身を捩り、アルカナシャドウを睨みつけた。 すでに笑顔の仮面は剥がれ落ち、その顔には憎悪とも怒りともつかない表情が浮かんでいる。 対照的に、アルカナシャドウは静かな悲しみを湛えた目で彼女を見下ろした。 「……シュシュタン。そのマコトジュエルを渡して」 「……っ!」 「私の知ってるあなたは優しい子で、戦えるような妖精じゃなかった。……でも私のあの子への執着が、あなたをそんな風に変えてしまったのね」 「……嫌! 来ないで!」 手を差し伸べてゆっくりと歩み寄るアルカナシャドウを、アルカナは激しく拒絶する。 彼女は白いマコトジュエルが嵌められたシャインアルカナロッドを胸に抱き寄せ、それを守るように尻尾を自らの体に巻き付けた。 「これが無いと……くれあを守れない……!」 「大王になる可能性が無くなれば、ロンドンもあの子を傷付けようとはしないはず。それに今は後輩達も居る。……だから、あなたはそんなものを持ってちゃだめ」 「嫌……いや! くれあはキュアエクレールになるの! キュアアルカナの隣で……! それがくれあの望みなの!」 「……あの子の望みが、あの子を幸せにするとは限らない」 「……っ!!」 アルカナの脳裏に、過去の記憶がフラッシュバックする。 それは何十何百と見続けたるるかの記憶ではなく、シュシュタン自身の記憶。 くれあがまだパティシエの帆羽くれあとして生きていた頃、一人の時にだけ見せていた……どこか寂しげな表情。 「……くれあにあんな顔をさせていたあなたが……」 アルカナがそう呟くのと同時に、白いマコトジュエルが光を放ち始める。 それは彼女の尻尾の隙間から漏れ出し、その青い毛皮を白く染めていく。 やがて白い毛皮は徐々に形を変えていき、アルカナの耳と尻尾は鳥のような純白の翼となった。 「くれあの幸せを……! 訳知り顔で語らないで欲しいでシュ!!」 「……っ!?」 アルカナが翼を開くと、その風圧に押されてアルカナシャドウは数歩後退りする。 思わず閉じてしまった目をゆっくり開くと、アルカナはその姿を見知らぬ形へと変貌させていた。 シャインアルカナロッドはどこかに消えてしまい、そこに嵌っていたマコトジュエルは胸元へと移動している。 白いドレスは背中が大きく開いたデザインへと変わり、巨大な白い翼はそこへ繋がっているようだった。 その変化は彼女自身も意外だったのか、驚愕の表情で自分の姿を見下ろしている。 「え……どうして……? アレみたいになっちゃった……」 「シュシュタン……!? その姿は何……!?」 「……まあ良いか」 彼女はアルカナシャドウの問いかけを無視し、興味を失ったように無表情で呟いた。 「私の手で……キュアエクレールを守る」 アルカナがマコトジュエルに手をかざすと、そこから発せられた光が剣の形を成して手の中に収まる。 彼女はふらふらとした動きでそれを振り上げ、ゆっくりと振り下ろす。 「……!!」 呆気にとられていたアルカナシャドウは半ば本能的にロッドを構え、結果的にそれが彼女の命を救った。 光の剣が宙に描いた軌跡は三日月のような形の刃となり、先ほどのだらけた動きからは想像もつかない猛烈な速度でアルカナシャドウに襲い掛かる。 彼女が構えたロッドは軋みながらそれを受け止め、斜めに弾くような形でその力を受け流す。 しかしそれでも衝撃を殺しきることはできず、アルカナシャドウは後方へ吹き飛ばされて地面に叩きつけられた。 その途中で力の限界を迎えたティアアルカナロッドはペンダントの姿に戻り、地面を転がっていく。 「……あ……う」 変身が解けてしまったるるかは這いつくばったままなんとか顔を上げ、霞む目をアルカナに向ける。 彼女は大きな翼を羽ばたかせることも脚を動かすこともせず、ふわふわと宙に浮かんだままゆっくりとこちらに近付いてきていた。 途中でティアアルカナロッドのペンダントを拾い上げ、ほっとしたような表情で微笑む。 「……よかった。これでもう、エクレールを傷付ける人は居ない」 しかしすぐにその表情は翳り、赤い瞳がるるかの方へ向けられる。 「いや……まだ。ファントムを……消さないと……」 アルカナは再びゆっくりとした動きでるるかの側まで近付くと、感情のない目でその顔を見下ろした。 「……!」 彼女には既にシュシュタンとしての意識は無く、かといってそれはるるかとも程遠い。 ふたりが共有する後悔と使命感、そして強い執着だけが、その体を突き動かしている。 アルカナは操り人形のような動きでふらふらと光の剣を振り上げ、るるかは覚悟を決めてぎゅっと目を瞑った。 そして── 「……きらめきタイム!!」 ──聞き慣れた声と共に、青い閃光が暗闇を切り裂く。 アルカナの手に握られた光の剣を拳で叩き折りながら、彼女は倒れ伏するるかの前に降り立った。 青いケープがふわりと肩を覆い、螺旋状に巻かれた空色の髪が優雅に揺れる。 その星を宿した右眼にまっすぐ見据えられて、アルカナはぴたりと動きを止めた。 「……キュアエクレール……」 彼女の目にうっすらと涙が浮かび、失われていた光が灯る。 それと共に白い翼はぼろぼろと崩れていき、彼女は元のキュアアルカナへ──そしてるるかにそっくりな、妖精の少女の姿へと戻っていった。 「……やっぱり、あなたは……名探偵ね」 るるかを庇うエクレールの姿を見て、シュシュタンは満足そうに微笑む。 彼女は手に持っていたティアアルカナロッドのペンダントを自分の首にかけた。 白と黒、ふたつのペンダントが胸元でぶつかり、小さな金属音を立てる。 一方、るるかはなんとか身を起こしながらエクレールの背に声をかけた。 「エクレール……どうして」 「ジェット先輩が夜中に目を覚まして、あなたが居ないことに気付いてくれたの。場所を探すのにだいぶ手間取ったけど、空に打ち上がったアルカナスターレインでようやく見つかった……間に合って良かったわ」 『……エクレール! そっちはどう!?』 「見つけたよ! もう大丈夫!」 『良かった〜! すぐ合流するね!』 スカートに括り付けたプリキットボイスメモを通じて、エクレールはアンサーとミスティックに返事をする。 きっと三人で街中を駆け回っていたのだろう。 るるかは申し訳なさそうな表情で顔を伏せた。 「……ごめんなさい、私……」 「……話なら、後でみんなで聞くわ」 エクレールは少し困ったように、眉を下げながら微笑んで言った。 「るるかのこと、最初からあんなちゃん達に話してれば良かったなって反省してるの。……やっぱり抱え込んでたらダメね」 「…………」 「……色々事情があるのはわかってる。だから、みんなで考えましょう?」 「……そうね。どっちにしろ、今はもう戦えない……」 るるかは疲れた笑顔を浮かべながら座り込み、シュシュタンの胸元に揃ったふたつのペンダントに目をやった。 釣られてエクレールがそちらに視線を向けると、シュシュタンはぱちぱちと手を合わせて軽く微笑む。 「……大正解。そっちが本物のるるかだって、あなたはわかってたのね。……エクレール」 「あなたは……」 彼女の言葉に何か言い返しかけたところで、エクレールの体がぐらりと傾く。 「……せ、世界が……世界が回ってます〜……」 きらめきタイムが終わり、その反動が彼女を襲う。 目をぐるぐると回しながらよろめく姿を見て、シュシュタンはくすくすと笑った。 「さて……エクレールが目を覚ます前に、偽者は退散するとしようかな」 「なっ……待って……!」 「その体で追いかけるつもり? 悪いけど、これは貰っていくから。もう二度とエクレールを狙えないように」 シュシュタンはペンダントを指で弾き、爽やかに笑いながらるるかに背を向ける。 「……それじゃ、さようなら。末永くお幸せに」 ──そう言って歩き始めた彼女の肩に、どさっと何かがのしかかる。 「わっ……と、と……!」 いきなり体重をかけられて思わずよろめきながら、シュシュタンは肩に乗せられた顔に横目を向ける。 「えっ、エクレール……!?」 「……シュシュタン……」 「……!」 「……シュシュ、タンが……回ってます〜……」 エクレールはぐるぐると目を回しながら、うわ言のように呟く。 ……どうやらまだ酔いから覚めたわけではないらしい。 しかしその両腕は、しっかりとシュシュタンの首に回されていた。 「ええ……?」 困惑した表情で立ち竦むシュシュタンに、るるかはふっと笑って問いかける。 「……その子を背負って飛ぶつもり?」 「……はぁ……仕方ないわね、くれあは……」 シュシュタンは観念したと言うようにため息をつき、エクレールの手首に手を添えた。 すると、彼女は耳元でそっとささやく。 「……ずっと一緒に居るって、言ってくれたでしょ?」 主人の手首をしっかりと握りながら、妖精の少女はそれに答えた。 「……もちろん。どこまでだって、お供するでシュ」 ─────── 「来週から遂に夏休みかぁ……! はなまる楽しみ〜!」 事務所の壁にかけられたカレンダーに花丸マークを描き込みながら、あんなは嬉しそうに言った。 椅子に座って読書をしていたみくるが、それに反応して顔を上げる。 「予言のことも一段落ついたし、どこか遊びに行っちゃう〜?」 「いいねー! この時代の夏はあんまり暑くないしなぁ、海とか山とか行きたいなぁ〜」 「夏祭りとかも良いよね! 確か近くの神社でやってたはず……!」 「え! それも行きたい!」 そんなやり取りを横目に見ながら、少し離れたソファに腰掛けている淡い色の髪をした少女はぼんやりと呟く。 「いいなぁ……私もくれあと行きたいなぁ、海……」 「……ダメに決まってるでしょっ! 謹慎中なのよっ、あなたは!」 その膝に寝転んでマッサージをされていたマシュタンは、目を吊り上げて噛みつくように言った。 「えー、ちょっとくらい良いじゃない……」 「ダメっ! それに遊んでる暇なんて無いでしょ! マッサージとブラッシングの3セットを朝昼晩の3回ずつ! 毎日アフタヌーンティーの用意! 忘れてないでしょうね!」 「……マーシュタン? そろそろ許して欲しいでシュ〜」 「ダーメっ! そんな簡単には許さないんだから!!」 「シュシュ……」 シュシュタンはがっくりと肩を落とし、マシュタンのマッサージを再開する。 その向かいに座っていたるるかは、ふっと微笑んで席を立った。 「……仕方ないでしょ? 今年の夏は家で大人しくしてましょう」 「シュ〜……るるか、どこかに出かけるの?」 「うん、アイス買ってくる。在庫が切れた」 「いいの? るるかも謹慎中なのに」 「……ちょっと近所に行って帰ってくるだけだから」 そう言って出て行こうとしたるるかの背中に、静かな、しかし確かに圧を感じる声がかけられる。 「……ダメよ?」 るるかがゆっくり振り返ると、キッチンから顔を出したくれあがじっと彼女の方を見つめていた。 「約束……忘れてないよね?」 「……もちろん、忘れてない。でも、本当にただ近所のお店に行って帰っ」 『……キュアエクレールのマコトジュエルは砕く。それが済んだら、みんなを傷付ける前に自分から舞台を降りる。それで……』 くれあはプリキットボイスメモのスイッチを押し、録音の再生を止めた。 それはシュシュタンが隠し持ってるるかとの会話をこっそり録音しておいたもので、今はくれあが所有するものとなっている。 そこに収められていた会話を確認した結果、るるかの行動にはある制限が課せられるようになったのだ。 「……忘れてないよね?」 「……あなたの目の届かない場所には、決して一人では行かないこと……」 「良かった。じゃあ私の手が開くまで待っててね?」 「……でもね、本当にアイスを買って帰ってくるだけで」 『みんなを傷付ける前に自分から舞台を降り』 「わかった。わかったから……」 るるかは再びソファに腰を下ろし、シュシュタンの方を軽く睨む。 彼女は澄ました顔でマシュタンの背中を揉みながら、どこか嬉しそうにるるかを見返した。 「出かけたいなら私がついていくから。あんまり不安にさせないで」 「ん……」 「……それに、アイスなら今作ってるところよ?」 「え? 今朝は何かオーブンで焼いてたはず……」 「ふふ、今日のは新作なの」 不思議そうな顔をするるるかに、くれあはにっこりと笑って試作品を持ってくる。 それはシュー生地にバニラアイスを詰め込んだ、少し風変わりなお菓子。 「シューアイス。……食べてみる?」 「「食べる!」」 目を輝かせたふたりの少女は、ほとんど同時に返事をした。 終わり