(夢野久作/「氷の涯」のネタバレが含まれます)  ①  言葉の線条性の都合でこのような書き方をすることが非常に心苦しいのですが、順を追って描写をするので、どうかご容赦ください。まず、その車はビビッドな赤色に塗られていました。真っ赤な車体の上には、これまた立派な赤くて大きなりんごが乗っています。もちろん模型のりんごですから、腐ったりはしません。私が生きるのは現実の現代ですので、当然ファンタジーでもありません。ただ、そういうものとして受け入れてほしいのですが、りんごの王冠を被った目も綾な赤色の(推定ですが)エヌボックスが、私の前に停まっているのです。  そしてそこから一人、車とりんごの赤色に負けない赤い髪のウマ娘が降りてきました。長髪を低い位置で結んだ彼女は、姿勢の良さのせいか、数字以上に背が高く見えます。華奢なのもあって遠目には長身に見えるのに、並ぶと私との身長差は1センチしかありません。スポーティなウインドブレーカー風のトップス。レギンスに重ねたノープリーツのスカートは、淡い色の上半身を黒色できゅっと引き締めてみせます。ざっと値踏みするように彼女を見た私に対して、その人は、注目するところが違う、と言わんばかりに車の方を指しました。 「この子があたしの愛車、りんご号っす!」 「へへぇ……「」オンさん、車買ったんですねぇ」 「はい! 約束したっすから。一緒にドライブに行こう、って」  私たちの関係については非常に言語化しづらいので説明を省きますが、会話の通り、私は「」ペで彼女は「」オンさんです。そして、まあ、ドライブをする約束をしていたわけです。そのときの私をどうか責めないでいただきたい。 「……これで、ですか?」 「?」 「なんでもないです……」  だって、幼稚園のバスだってもう少しおとなしい形をしているんですよ。それでドライブをするんです。どうしてこんなことになるなんて思えるんでしょう?  ◇  東京都と神奈川県の境、多摩川沿い。  景色に対して反射的な言葉をお互いに投げかけてこそいますが、本質的に、それは会話とは呼べない類のものでした。どちらかといえば挨拶の延長線上にあるもの。それよりも気になるのは周囲の視線です。昔、ストリートビューの撮影用の車を見かけたときのことです。車の上にヘンテコな機械が置いてあったのですから、私は思わずじっくりと眺めてしまいました。あのときのドライバーさんはどんな気持ちだったのかと、今更考えます。りんご号(と「」オンさんが呼ぶ以上、私もそう呼ぶ他にはありません)への視線はさらに奇異なるものなので、向こうも共感されたくないとは思いますが。  例えば、「ばいばーい!」と元気よく手を振る子どもたちの一団がいました。 「気を付けてねー! 「」オンお姉さんとの約束っすよー!」と「」オンさんもにこやかに返します。ここだけ切り抜くと微笑ましい光景なのですが、実際にはりんごを頭に乗せた変な車に子どもがはしゃいでいるのです。今頃ネットで晒されているかもしれません。あげくに将来はどこかの都市伝説になっているかも。  閑話休題。これは小さな発見なのですが、「」オンさんは笑うと白い歯がよく見えます。歯並びが良くて健康的だった、と付け足しておきましょう。 「……私たち、何かのお店と勘違いされてませんか?」 「かもしれないっすね。……あ、青」  車は世田谷区を抜け大田区に入り、六郷土手から蒲田を経由し、品川区。途中で大井のレース場の近くを抜けました。私たちはウマ娘ですが、生憎二人ともターフが主戦場。なので大井に関して多くを語ることはありません。今日はレースもやっていないみたいですしね。  行く先はどこになるのでしょうか。どこでも構いませんが、この車を停めるときのこと、そしてそこから降りるときのことを考えると、自分の顔が熱くなっていくのを感じます。「あっ赤いっす」とかからかう声が聞こえた気がしましたが、上手く返事はできませんでした。そりゃ赤くもなるでしょう。 「……ふふっ、りんごみたいっすね」 「その比喩、好きなんですね」 「りんごっすか? あたしがりんご好きなの、「」ペさんも知ってますよね?」  りんごみたいな、が。とは言いませんでした。比喩っていうのは思うに、その人の感性を切り分けて、形を与えることです。きっと「」オンさんのイメージのりんごは、比喩に用いられるたびに切り分けられていますが、減ることはありません。むしろ世界に比喩を与えるごとに、その客体の威光は大きくなっていくものですから。赤く、甘く、香るりんごは、赤く、甘く、香るすべてを、りんごに変えてしまうのです。 「あっ、こっち曲がるとイオンあるっすね。あたしバーキンがいいっす」 「私がおごるんですか……?」 「違うんすか?」 「運転してもらってますしいいですけど……。今クーポン使えるのは……えーっと……」  ◇  品川シーサイド。整然と並んだオフィスビルと高層マンションの森には、様々な車が停まっています。車の面白いところは、走るという目的が共通しているなら、その辺の道路を格安の中古車と数千万円の高級車が区別なく走るところです。この点で私たちウマ娘も似ていると思います。  もちろんそんな雑多な集合の中でも目立つものはありますし、要するにりんご号はあからさまに浮いていましたが。 「車の中で食べるのって憧れだったんすよね」 「汚れたり匂いついたりしちゃいそうですけど……」 「あ、だからシートちゃんと広げてくださいっす。あと、食べたら除菌シートで指拭いて、手も洗って、シューってして……」 「じゃあ外で食べた方が良くないですか?」 「はぁー……」  呆れた、といった顔を「」オンさんは私に向けます。わざとらしく手をひらひらして。言わんとすることはわからなくもないですが、車を眺めながら食べるというのも乙なものじゃないでしょうか。りんご味になるかもしれませんけど。りんご味のバーキンだってきっと美味しいと思うんですよね、少なくとも私は。  もしゃもしゃとワッパーを平らげ、ポテトを二人で分け(一人一つあるのに、私のポテトを「」オンさんと分け合うことになりました)、薄いコーラを飲み干して。どちらにせよ、楽しいドライブだったな、と私は胸を撫でます。チャンキーでジャンキーな塩とソースの味のドライブ。それが二人の初めての味。 「……「」オンさん、ありがとうございます。楽しかったです」 「こちらこそ、ご馳走様っす! ……じゃあ、そろそろ出るっすか?」 「……ですね!」  少し名残惜しいですが、きっとまた、私たちはドライブに行けることでしょう。これからも、何回も、きっと。静かに滑るりんご号は駐車場を抜け(幸いにも、周囲の視線にはこっちが慣れてしまいました。不幸にも、というべきかもしれません)、レインボーブリッジ方面を目指します。  レインボーブリッジ方面を? 「……あれ、「」オンさん? ここ左折じゃないんですか?」 「え? 左折したら戻っちゃうっすよ?」 「いや、戻らないんですかって意味ですけど」 「は?」 「ま?」  どうやら、旅は続くみたいです。私たちはどこに行くのでしょうか? あるいは、どこまで行くのでしょうか? このふたつの問いが根本的に異なるということを、私はこのとき意識しました。旅の目的は様々です。どこかを目指す、何かを探す……。経験が目的の旅があれば、場所が目的の旅もあるでしょう。そして、旅が目的の旅もあれば、距離が目的の旅もあり、団らんが目的の旅もあれば、孤独が目的の旅もあります。  けれど目的のない旅も世の中にはあって、それらは何ひとつ、客観的には区別がつきません。  車に揺られて、胃袋の中からバーキンの混ざった香りが上がってきました。新車の匂いとアボカドと肉とソースが混ざって、私の中で、絶対に忘れられない味になりました。 「あっ、消臭剤! 「」ペさん、そこ開けてっす! シューあるんで」  「」オンさんも気になったのでしょうか。グローブボックスを開けると目に入ったのはもちろんりんごの香りの消臭剤。言われた通りにシュシュっと振りまくと、わざとらしい甘い香りが車内に広がります。それが口の中にも入って、余計に混沌となりました。  塩とソースと、肉とアボカドと、りんご味のドライブ。  りんご号は進みます、どこまでも。もちろんこれが単なる言葉のあやであることを、私は願っています。家に帰るまでが旅行ですから。  ②  りんご号は千葉県に入っていました。市川の整備された大通りを抜け、現在は船橋市。農道らしきものが大通りに接続しているのは市川のころと同じですが、徐々にその区別が難しくなりつつあります。  どこまで行くのか、とは聞けません。ここまで来てしまった以上、選択肢の性質は変わります。行くか戻るか、ではなく、行くか降りるか。そして今しばらくは、行く方を選んでいる。流されている、とする方が正確かもしれません。いずれにせよ、ここで降りたら一人になってしまいます。私も、「」オンさんも。 「……急に道狭くなりましたね」 「……っすね」  「」オンさんは返事をしません。運転に集中しているのでしょうか、険しい顔で正面を睨むばかり。ときおりぶつぶつと何か吐き捨てていますが、聞かせたくないでしょうから私も聞かないことにしました。 「……ばかにしやがって!」 「うわ!?」  そんなことを考えていたのも束の間。どうやら「」オンさんはご機嫌斜めのようです。車という走る密室の中で、二人きりで、同乗者の機嫌が悪い。要するにその怒りのはけ口は全部私に向きます。最悪だぜ……。と冗談めかして言ったところで状況は一向に改善しません。そもそもふざけたら怒られそうです。 「さっきすれ違った車! あたしのりんご号を指さして笑って……!」  私だって「」オンさんじゃなければ笑っていたはずですから、その人のことをあまり悪くは言えません。しかし嘲笑のニュアンスが混ざるのであればもちろん品が良いとは言えないでしょう。きっと彼女の怒りもそこに起因するのだと思います。というより、そうじゃないと理解が追い付かないのですが。もうちょっと普遍的な話をするなら、人を笑わせることと人に笑われることは違います。そういうものの一部だということにさせてください。 「……マナーの悪い方もいますね」 「くそっくそっ! 割り込みも多いし……信号がないからって調子に乗りやがって!」 「ま、まぁ……千葉は道が狭いですからねぇ……」 「「」ペさんはどっちの味方なんすか?」 「へへぇ……」  空気は重く、行く先はわからない。こういうとき、誰に何を祈ればよいのでしょうか? 残念ながら三女神様は私に微笑んでくれないので、できることはふたつしかありません。ひとつ。自分の中の至聖所で手作りの神様に祈りを捧げ、状況が好転するのを待つ。これは広く世間一般に現実逃避と呼ばれています。言うまでもないですが、これが最良の行動となる状況ほど苦しいものはありません。  もうひとつ。「」オンさんに向き合う。こっちはどちらかといえばギャンブルに近い性質のものですが、信仰とギャンブルなんて所詮は一枚の紙の表裏です。折り紙のようにその片面がもてはやされて、裏面は敬遠されがちだというだけで。 「……あっ! 「」オンさん、見てくださいよ! デイリーヤマザキありますよ!」 「っすね」 「店内焼きのパンおいしそうですよ? ついでにお昼にしませんか?」 「反対側じゃないっすか。渡れっていうんすか?」 「あ、いえ……すいません……」 「……でも、あたしもお腹空いたっす。なんかお店ないっすかねぇ」  ◇  結局、私たちは道沿いに都合よく生えていた別のデイリーヤマザキに駐車をしました。市川市に本社があるためか、この辺りはデイリーが多いみたいです。(Gemini調べ) 「……「」ペさん、すいません。大きい声出して」 「私も運転してもらいっぱなしですしね。それに、「」オンさんがあんな風に声を荒げるところ……」  初めて、ではないですね。よく金ぴかなものに当たり散らしてますから。 「あー……。結構嫌いじゃないですし」 「きもっす」  名誉を守るために名誉を失った。そういうことにしておいてください。  総菜パンと菓子パン。コーヒーとお茶。なかなかご機嫌なお昼ご飯です。ご機嫌っていうのは心の持ちようのことなので、ここではそういうことにします。 「りんご号……頑張ってくれてありがとう。……あとでガソリンスタンドにも行かないと……」 「まさかこの子もこんな遠くまで来るとは思ってなかったでしょうね。……っていうか今私たち千葉市にいるんですか」  ずいぶんと遠くまで来ました。朝は品川、昼には千葉。……まだ一日で帰れる範囲ですが、ここから更に遠くへ行くとなると日帰りが厳しくなるかもしれません。とはいえ、今のところ、ついていこうと思っていました。塩バターパンの香ばしさがそのような気持ちにさせたのかもしれません。 「あっ……アップルパイっすね」 「「」オンさん、りんごが好きだったので……」  しかし、私の言葉に対して「」オンさんは怪訝な顔。確かに彼女はりんごをなんだか尊いものだと考え、あまつさえ車にも取り入れているわけですが、コンビニのりんごにすら覚悟を要するものなのでしょうか。両手に包まれたアップルパイは、余命二日の消費期限で彼女に食べてもらいたがってるわけですが。 「あたし、さっき……あんな感じだったし、りんごに申し訳なくて……」 「私じゃなくてりんごになんですね」 「はい」 「そうですか……」  仕方がないので、彼女の手からアップルパイを取り上げます。このままではきっと食べてくれないでしょう。無理に食べさせたって良いことはありません。お互いに不幸なだけです。 「じゃあ、その分はここまで運転をしてくれたのとプラマイゼロです」  なので、とお面のようにアップルパイを顔の前に持ち上げ、私は言いました。 「『「」オンさん! 良い子になって僕を食べてほしいンゴ~!』……どうです?」  もちろん、失敗です。大失敗です。けれど人は、何もしないか、失敗をするか。何もしないか、茶番をするか。そんな二択を突き付けられるときもあるのです。岩を運び続けるシーシュポスは幸福であると想像するほかないように、それでも自分のできることを飲み込み、全身全霊で役を演じるしかないこともあるのです。  おそらくこの状況の中でこれは、良い選択ではないのでしょう。が、残念ながら今の私にできること、という範囲に限定すると、それが最良のものでした。   「……ありがとうっす」  繰り返し言いますが、「」オンさんは、笑うとき、白い歯を見せてくれます。けれど今のはそうじゃありませんでした。作り笑いで、けれど、そのために、意図が私には伝わりました。なので今のところ、この失敗には価値があったと思うことにします。  先ほど、笑わせることと笑われることの違いを述べました。が、もう一点、笑ってもらう、という形もあります。それは三者の中でもっとも優しく、同時に情けなく、けれど、この場では温かいものでした。 「でもその語尾はちょっと……その……」 「ンゴゴ……」  手紙に添えた花のように、アップルパイは「」オンさんの手に戻りました。  ③  理論上、道と燃料が続く限り、車は走ります。もちろん故障などもない、という前提の上で。 「へへぇ……「」オンさん……? 茨城ですよここ……?」 「「」ペさんがドライブ行きたいって言ったんじゃないっすか」 「だってまさか茨城まで来るとは思わないじゃないですか……」  千葉の銚子を抜けた私たちはついに茨城県にいます。大通りなんて優しい道の存在しない田園風景を走るりんご号は、きっと周囲にはことさら異常に見えるでしょう。私たちは鹿島灘海浜公園というところに着きました。  とはいえそれは終点ではありません。ちょっとばかりの休憩のために寄るのです。私たちに終点があるのなら、それはどこなのでしょうか。 「ふ~……。さすがに疲れたっす……。ほら、あたしの手! ずっとハンドル握ってたから、ひねるとパキって」 「お疲れ様です……。マッサージした方が良いんじゃないですか? なんか買ってくるから休んでてください」  いずれにせよ、駐車場につくなり「」オンさんは大きく背伸びをしました。私はというと隣に乗っているだけで健康そのもの。ぐるりと売店を見て回り、そしてレストランが併設されていることにも気付きます。時刻は15時50分。レストランの営業は17時まで。LOのことを考えると、先に食べても良いかもしれません。 「「」オンさん! レストランありましたよ! ちょっと早いけど晩御飯どうですか? しじみのラーメンもあるみたいですし」 「ご馳走様っす!」 「運賃考えれば安いもんですけどもうちょっと逡巡してください」  いよいよ、ここに長居をしたら、日帰りは無理でしょう。どこかに泊まる? でも、どこに? その気になればここで風雨はしのげるかもしれませんが、それから帰るのでしょうか。  少し、怖くなります。道がなくなることが? 違います。燃料が切れることが? それも違います。では、車が故障することが? 怖いですが、それが一番ではありません。道がなくなれば引き返せば良いし、燃料が切れれば、まあ仕方ないですが然るべきところに連絡をしましょう。故障の場合はその相手がもう少し高くつき、手続きが増えます。非常に面倒ではありますが、打つ手がないわけではありません。  これを食べたら帰りませんか? 私はそう言いたくなりました。道も、燃料も、まだ続いているのに。続いている道を降りるのは、自分の意思だけだから。私たちはいつまで走り続けるのでしょう? どこまで走り続けられるのでしょう? いつか引き返せなくなるのではないでしょうか。  それがわからないのが、怖いからです。 「ひぬまやまとしじみ……早口言葉みたいっすね。ひぬまやまとしじみ、ひぬまやまとしじみ、ひぬまやまとしじみ、ひにまやま……」 「タイプミス誘発するのを早口言葉とは言わないと思いますよ。これ伝わるんですかね。ひぬまやまとしいjみ、ひぬまやまあおとしじみ、ひぬまあまとそいじみ……」  ◇  食事を終えた私たちは、少しばかり海を眺めていました。公園内には様々な施設がありますが、結局のところ、一番欲しかったのは休養です。店も閉まり二人きりになった海は、波の音がパノラマで他の全部の音を飲み込んでいきます。 「すぅーっ……バカヤロー!」 「!?」 「あたしのりんご号を見下しやがって! あたしとのドライブ断りやがって! お前なんて……大嫌いだーっ!」 「……「」オンさん?」 「うわっ! ……恥ずかしいところ見られちゃったっすね。すいません……。誰もいないし、つい……。一人のとき、たまに……こんな風に叫んでるんす」  誤解のないようにしたいのですが、私は全然ふつうにずっと横にいました。私が一人にカウントされていない可能性と、そもそも認識されていなかった可能性。そのどちらかを考えるのはどちらであっても傷つく気がしたのでやめておきます。  それよりも気になるのは「」オンさんの方です。こんな破滅的な移動をするから何か事情があるのだろうとは思っていましたが、傷心なのかもしれません。私は傷心旅行をしたことがないのですが、旅行によって傷というのは薄れるのでしょうか。それとも、深まるのでしょうか。 「そろそろ日が沈みそうですし、その前にフォトスポットみたいなのあったからついでに撮りませんか?」  フォトスポットというのは展望台の隣に設置された鐘のことです。カップルや夫婦が永遠の愛を誓って、あるいは現役JCウマ娘とトレーナーが勝利や飛躍を誓って鳴らすものでしょう。が、残念ながらこの旅路にいるのは車を運転できる年齢のウマ娘が二人なので、そのようなはずはありません。もちろんそれらの可能性を一束にまとめているという解釈も可能です。 「見下すなーっ!」  鐘が鳴りました。 「舐めんなーっ!」  鐘が二度鳴りました。 「あたしを見ろーっ!」  鐘が三度鳴りました。 「あたしは……あたしはっ……!」  鐘が四度、鳴りました。言葉の続きは鐘と波にかき消されました。だから私には聞こえませんでした。ウマ娘は平均的にヒトより耳が良いのですが、それでも聞こえませんでした。なのできっと声が小さかったのか波が爆音だったのか鐘がとんでもなく響いたのか私の耳が悪いのか、もしくはその全部だと思います。  ◇  肌寒い季節とは言え、車の中に入るとだいぶマシでした。覚悟はしていましたが今日は泊まりになるようです。せめてこうなるなら事前に一言ほしかったというのが本音ですが……。 「泊まりだって言ったら「」ペさん変な勘違いしそうじゃないっすか」 「だからって着替えすらないんですか? 私たち……」 「あたしはあるっすよ? りんごの中に入れてるんで」 「えぇ……」 「おやすみなさい。上で寝るんで、下は好きに使ってくださいね」  冷たくもなく、寂しくもなく、騒がしくもなく、明るくもない夜でした。冷たくもないのに体の奥がカチカチと震えて。寂しくもないのに胸の奥がきゅっとつまって。騒がしくもないのに耳の奥がじんじんと痛くて。明るくもないのに、瞼の裏がぼうっと染まった、そんな夜。  当然、満足に眠ることはできません。  ④  早朝に目が覚めました。午前4時50分を深夜とするか早朝とするかについて議論の余地はありますが、参考までに言うなら日の出はまだ先です。  トイレで顔を洗うと恐ろしい大きさの目やにが取れて、絶句しました。風呂に入らないと人間こうなるんですね。ウマ娘ですけど。尻尾のつけねを動かすと妙に痛いので、寝違えたのかもしれません。というか単に長時間座ったことが原因な気もしますが。  車に戻ると、りんごがサザエさんのEDみたいに開いていることに気付きました。確かに屋根にルーフキャリアを取り付けるのは見たことがありますが、あんな主従の逆転したサイズだと当然の発想にも至らないものです。  「」オンさんはそこにはいませんでした。すれ違わなかったのだからトイレにもいない。昨日の彼女の叫びを思い出し、一瞬、恐ろしい鬼胎を抱きます。  もちろんこれは客観的に考えれば恐怖が論理を飛躍させた結果なわけですが、たとえバカげた空想だとわかっていても、ほんの一握りの可能性から目を逸らすことができなくなることもあります。多くの物語の主役は、どんなに絶望的な状況からも、ありえないほど小さな逆転の可能性を見せてくれます。けれどそれは物語だとわかっているからの話。人生において自分以外の主役というのは、むしろその逆位置にいます。一粒の心配事を抱いた途端に、あらゆる情報は悲劇的な調べで心に語り掛けてくるように変わります。その人を探せ、早く会いに行け、と。  結論から言うと、彼女は踊っていました。バレエの動きだと思うのですが、素人目にその流麗な動きを説明できません。小高い丘、昨夜彼女の声をかき消した波と風と、鐘の下。私たちより目覚めの悪い太陽の光が、ピルエットのシルエットを残しました。  光は太陽で、影は「」オンさんです。彼女を眩しいと思ったのなら、それは当然、太陽が眩しいからに決まっています。物理的にも、比喩の上でも。 「あっ! 「」ペさんも起きてたんすか。おはようございます」 「全然眠れませんでしたよ……」 「運転中に寝ていいっすよ?」 「それは……」  もったいない気がしました。  あるものを精神的に眩しいと思うとき、その対象は必ずしも光源ではありません。見る者の瞳が投影した光を受けて、まばゆく見えることもあるのです。  眼差しはライトのようなもの。もしも本当に主役が自ら光を放つのなら(これは比喩の話です)、誰がスポットライトを浴びせる(これは舞台の話です)必要があるのでしょう。たとえ最初が偶然だとしても、光るから見つめるし、見つめるから光る。だから光を目指した者も、輝いて見えるんです。きっと、多分、おそらく。 「我慢しても寝ちゃいそうです……。着いたら起こしてくださいね」 「どこにっすか?」 「「」オンさんが着いたと思ったらです」 「あははっ! なんすかそれ」  再び大きく伸びをして(この動作もバレエの動作っぽいですが、名前を知りません)、「」オンさんはこう続けました。 「でも、約束っすよ。それと、着くまで起こさないことも約束っす」 「安眠には程遠そうですけどね……。せめてお風呂入りたいです」  ◇ 「あたし、夢を見てたんすよね。現役の頃の……。あの頃はいろんなことがあって。辛かったなぁ、悔しかったなぁってたくさん思い出せるのに。でも、振り返ってみると……それでも、良かったなぁ、かけがえのない時間、楽しくて、もう二度と繰り返せない、あたしの大事な、大事な時間だなぁって……。  目が覚めて、もうあれは、夢の中でしか体験できないんだな、とか。あの頃があるから今もあるのに、遠くになったように感じて……。すごく寂しかったんすよね。ああ、あたし、寂しいんだって思うと、余計に。……それを紛らわすために踊ってたんすけど、情けないっすよね。バレエだって嫌になって辞めたのに、今でも帰ってきちゃうんだから。  ……ただ、きっとあんな夢を見たのにも理由があって……。何かいろいろ、思い出す時期だったんすよね、最近。昔のことを。あの頃のあたしはどうだったかなぁ、あたしたちは、どんな風に変わったのかなぁ、とか。  ……わかってるんすよ。あの人だって忙しいし、いきなり誘ったのはこっちが悪いっすから。うん……バカ「」オンはこっちの方か。あはは、「」オンはあたしだから当然っすね。……なんの話でしたっけ。ああ、そうそう。だから、すっきりしたくなって、叫びに行こうって思ってたんす。ついでに、りんご号でとりあえず青森まで行ってやろう! って。  だって、あいつがりんご号見た途端何て言ったか……! 『何の余興だ』って! 余興じゃないっす! 本気っすよ! かわいいじゃないっすか、りんご号!  バカにしやがって! いっぱい写真撮って、見せつけてやる! あたしのりんご号のすごさを……! って気分で、ここまで来ちゃったんすよね。我ながら、若さゆえの愚行……っすよね。はぁ……」 「……「」オンさん、私起きてていいやつですか?」 「……まだ着いてないっすよ」 「じゃあ起こさないでください」  私の言葉に「」オンさんは答えませんでした。代わりの言葉は次のようなもの。 「今どこだかわかるっすか? おいらせ町っすよ?」 「え……ど、どこですか?」 「八戸の近くっす」 「えっ!? もう青森なんですか?」  正直に言うと八戸も青森のどのあたりなのかはわかっていません。……青森であってますよね? 岩手じゃないですよね? 「うっす」 「何で起こしてくれなかったんですか!?」 「お昼過ぎだしそろそろ起こそうと思ったら起きたんじゃないっすか。……あっ、三沢市だ」 「だからどこなんですか!?」  ◇ 「この辺り、結構温泉もあるみたいっすね」 「お風呂……いい加減入りたいです……」 「「」ペさんは着替えも買わないとっすね」 「本当ですよ……もう現金ないんで3000円貸してください!」  セブンイレブンの駐車場にりんご号を停め、私はよろよろと車を降りました。 「ついでにお昼買いますけど、何がいいですか?」 「あー……あたしは大丈夫っす」 「私の寝てる間に食べたんですか?」 「まだデイリーで買ったの残ってるんすよ。ほら」  「」オンさんは右手のアップルパイを揺らします。何か言おうとしましたが、大げさな反応になったら嫌なので、さっさと私もコンビニに向かいます。  バカでかいりんごを載せたエヌボックスは、旅の始まりから一回り大きくなったような気がします。府中からここまで、二日。二日間、りんご号は私たちを運び続けてくれました。感謝をしてもしきれないとはこのことでしょう。……いや、この場合は感謝で良いのでしょうか? 「一応、「」オンさんにも飲み物だけ買ってきました。早く食べちゃいましょう。お風呂……温泉……」 「ふふっ……」 「何が可笑しいんですかッ!」 「いや、一人で話してスッキリしたつもりなのに、聞かれてたんだなーって思うと……恥ずかしいのに、懐かしいなって」  飽きもせず言いますが、「」オンさんは笑うとき、白い歯を見せます。食べかけのアップルパイを片手に見せたそれは、笑わせることができた、と解釈するに十分なものです。  ……ああ、私と違って歯磨きセットも持ってきてるんでしょうね。買い忘れたからあとで買わないといけません。口の中も気持ち悪いです。   「そういうものですか?」 「そういうことが多かったんすよ。あたしも」 「……スッキリはできたんですか?」  そして青森にも着いたなら。この二日間に少しの意味はあったと言えるのでしょうか。 「したような……していないような。でも、スッキリさせる方法はわかった気がする……ような」 「よかったですね。……私は汗流して全身をスッキリさせたいです」 「それじゃあ次は、温泉っすね」 「初めて目的地ができましたね」  ◇ 「温泉っていいですねぇ……本当に……」  「」オンさんは長い髪を乾かすのに時間がかかるらしく、私はひと足先にりんご号へと戻りました。なぜって? 温泉で休むとそのまま寝てしまいそうだからです。待つこと十分、ようやく彼女も戻りました。 「お風呂上がったっすよ。次は誰っすか」 「私たちだけじゃないですか」  道は、あとどれほど残っているのでしょうか。Googleマップによると三沢市は青森の東部。青森の北端まで行くならまだ走れると言えなくもありませんし、北海道に行くなら八戸に戻ってフェリーに乗ることになるのでしょう。燃料は足さないといけませんが。 「……「」オンさん。ちょっと気になったんですけど」 「どうしたんすか? 改まって……って感じでもないっすね」  どこに行くのか。どこまで行くのか。それは根本的に違います。そして、終わりがわからないのは怖い。戻れなくなるのは怖い。  夢野久作の小説に、氷の涯というものがあります。なんのことはないごちゃごちゃとした恋愛小説なのですが、私はあれのラストシーンが好きです。凍った海の上を走り、そしていつか沈もうと約束する二人。けれどもしも氷がロシアから日本まで続いていたら……。そんな風に笑う二人が。 「もしも氷の上でバレエを踊るなら、何がいいですか?」 「アイスバレエ……。考えたことないっすけど……」  「」オンさんは目をつむり、わざとらしく顎に手を伸ばしました。そして、ゆっくりと、歯を見せて、微笑みました。内心で決まっているものを、言葉にすることで現実にする。そのための儀式のように。 「それじゃあ、子どもの頃の練習曲から……。ロベルト・シューマン『子供の情景』より、トロイメライ(夢)で」  そういうと、「」オンさんは歌い始めました。ラとタの二音の歌詞で、ゆったりとしたリズムを、母音のアを引き伸ばして、歌いました。ラ、タ。ラタタタ、タ……。  私も目をつむりました。瞼の裏には真冬の青森、名前も知らない凍った湖。  朝の陽ざしの下、氷のきらめきの上。ふたつの光に挟まれて、一人のウマ娘が踊っていました。ピアノとバイオリンを、可能性と現実性を、過去と今を、夢と現を、青空と薄氷を、その境界を、羽ばたいて。私はその光景を忘れないように、ずっと目をつむっていました。瞼の裏の彼女はいつまでも、いつまでも、踊っていました。  いつか、氷が溶けるまで。そして二人が沈むまで。  車の中に、「」オンさんの歌が流れています。トロイメライ、子どもの頃の夢。もう届かない夢。懐かしむだけの夢。壊れてしまいそうに儚く、けれど確かにそこにあった夢。  過去はいつも夢になります。夢になって、印象だけを残して、記憶のパーツはガラスのように切り分けられて、飾られるために様々な色の破片に染め上げられてしまいます。喜びの思い出、悲しみの思い出、恥ずかしい思い出に、怒ったり泣いたりした思い出。けれど、時折、それを思い出したなら。記憶を組み合わせて作るステンドグラスは、きっと優しい光で私たちの心を満たすのでしょう。  今日の日もきっと、いつか。いつかトロイメライの旋律と、氷上の主役(プリンシパル)のおぼろげな夢の欠片を残していくのでしょう。車の中で揺られた記憶や、風呂に入れなくて気持ちの悪い記憶、「」オンさんの笑顔の記憶に、朝日の下で踊るまばゆいプリマの記憶。そして、そんな記憶も全部、りんごの形と一人のウマ娘へと繋がっています。  ここで旅が終わっても、居たいと思った場所に来た。これから先が続いても、居たいと思う場所にいる。りんご号に乗っている。怖くなくなる方法は、結構単純なものなんです。恐怖も所詮感情ですからね。  エンジンがかかり、車が揺れました。「行くっすよ」という声が聞こえました。「帰るっすよ」じゃないんですね、と私は言いました。 「帰りたかったんすか?」 「いえ、安心しました」  りんご号が走ります。退廃的で非合理的に、ノスタルジックでアナクロチックに、遠回りで法定速度を順守して。そんな風に走り続けます。りんご号は、これからも。