ぼくは放課後、自転車を軽く漕いでいつも通る通学路を駆け抜ける。 見慣れた坂道前の一時停止の看板、見慣れた田んぼの風景、見慣れた三角屋根の自分の家。 ...いや、見慣れているけど見慣れないものが一つあった。 自分の家の車庫に立てかけてあるオレンジ色が入った自転車。 この自転車はぼくのものでも、お母さんのものでも、ましてやお父さんのものでもない。 ────アイツのだ。 「...ただいま」 ぼくは“鍵のかかってない”玄関のドアを開けた。 まだお父さんお母さんは帰ってきてはいないけど、習慣としていつものあいさつをしながら。 「おかえりなさ~い!」 そんな僕の帰りのあいさつに返事をする女の人の声がひとつ。 ...去年大学生になった親戚のレラお姉ちゃんだ。 リビングのちゃぶ台で、僕が買ってもらった少年漫画の単行本を読んでいる。 「勝手に入ってこないでよ」 勝手にぼくの家に入ってくるなんて不法侵入だ。 「かなめさんにちゃんと許可貰ったからだいじょうぶ」 かなめとは僕のお母さんの名前だから、親に許可をもらったってことだけど...いや、許可あるからとかそういう問題じゃない。 いつもどこからか入り込んで、ぼくに過剰に構ってくるのがうざいからだ。 「自分の家にいてよ、フリョー(不良)」 「単位を確保したら、大学生活は暇だもの」 「いいから帰って」 「これ全部読んだら、ね」 そう言ってレラお姉ちゃんは漫画本を指さす。 ...全部読んだらだなんて、まだ2巻目も読み終わってないじゃないか。 理由をつけて居座る気だな。 でも、こうなったらレラお姉ちゃんは意地でも帰らない。 ...もうほっといて、二階の自分の部屋で勉強しよう。 そう決心し、ランドセルをしょい込み直して少しギシギシする二階の階段を一段飛ばしで登る。 「よいしょっと」 そうしたら、なぜかレラお姉ちゃんも付いてきた。 ニコニコしながら、僕の一段飛ばしを真似して真後ろまで来た。 「昔はレラお姉ちゃんレラお姉ちゃんって、あんなに素直で可愛かったのにな~すっかりグレちゃって」 「付いてこないでよ、フリョー!」 いつもこうだ。 うっとおしがるたびに、逆に嬉しそうに僕を構い倒してくる。 ぼくが赤ん坊のころから付き合いがあるらしいからか、物凄くなれなれしい。 おしめしてあげたころが懐かしいとか、ハイハイから立つようになるところを見れて感動したとか言われてもそんなこと覚えてないのに。 僕はレラお姉ちゃんの追跡を振り切ろうと、一段飛ばしを二段飛ばしに変更して登る。 「わっ」 けれど、そうするには僕の足の長さが足りなかった。 完全にバランスを崩して後ろに倒れこむ。 「ほら、危ないよ~?」 ポフン。 レラお姉ちゃんにランドセルごと僕の背中をキャッチされた。 それも軽々と。 「う~!」 意地を張って転んだことと、レラお姉ちゃんに助けられた気恥ずかしさで僕は暴れた。 「暴れちゃダメ、二人とも転んじゃうよ?」 それも簡単に抑え込まれた。 全然敵わない。 「んっ~~~~~~!」 「ええい、どうどう」 しばらくお姉ちゃんのやけにいい匂いがする腕の中でジタバタしたが、無意味。 ぼくの抵抗は無駄に終わった。 「落ち着いた?」 「.........」 レラお姉ちゃんは心配して声を掛けてくるが、悔しさのあまり無視して振り返らずピューっと階段を駆ける。 「こら、人に助けられたらちゃんとお礼言わなきゃダメだよ」 無言で自分の部屋に入ろうとすると、後ろのレラお姉ちゃんから注意された。 珍しく少し大きな声を出して。 この声を無視してもいいけど...。 「......ありがと」 長い沈黙の後、ぼくはお礼を言った。 なんとなく、お礼を言わないと駄目な気がしたから。 後ろめたかったのかな...いや違う、言葉にできないや。 そう思いながら2階の僕の部屋のドアノブをひねる。 「おじゃましまーす」 ドアを開けると背後の高い位置からレラお姉ちゃんの声が聞こえた。 「そこは帰っていく流れでしょ!」 「かなめさん、今日は遅くなるから帰ってくるまで任されてるの」 「おせっかいなんだから...」 要らないことをするのはレラお姉ちゃんだけでいいのに、もう...。 ぼくはそんなことをぶつくさ考えながら、自分の机に背負ってたランドセルを下ろす。 うん、何もしていないと変な考えが浮かんでくるし、宿題やろ...。 ランドセルから宿題の用紙と筆箱を取り出して、移動式の椅子に座った。 今日の宿題は、算数の割り算が並んだドリルだ。 早速、名前欄に自分の名前を......と思ったけど鉛筆の先が潰れたみたいに丸くなってる。 鉛筆を尖らせるために電動鉛筆削りにその丸い鉛筆を突っ込む。 ガリガリガリガリ。 鉛筆削りの大きな音が響く。 ...そのちょっとした間に後ろのレラお姉ちゃんが気になって振り向く。 レラお姉ちゃんも僕がゲームする時に使う小さな机にノートを開いていた。 内容は... 【ベクトル空間Ⅴの部分集合Wが部分空間であるための────】 だめだ、全然何書いてるか分かんないや。 「私の課題...宿題のこと気になる?」 「ぜんぜん」 視線に気が付いたレラお姉ちゃんが、僕にニヤニヤした視線を返してくる。 それには興味が湧かないというか、わけわかんないもん。 「...じゃあ宿題教えてあげよっか?」 「自分の宿題やりなよフリョー...」 立ち上がって僕の方へと歩いてくるレラお姉ちゃん。 もう、ちょっとでも構うとこれだ。 「は~割り算かあ懐かしいなあ」 「見ないで」 レラお姉ちゃんの視線から宿題を腕で隠す。 「じゃあ答え合わせやってあげる」 「いいよ...」 「そう、ありがとう!」 僕の「いいよ」を肯定と受け取ったのか、隣まで来て問題を見るためにかがんだ姿勢になった。 もう宿題を手伝う気満々だ。 ...もう訂正するのもめんどくさくなって、レラお姉ちゃんのことは一旦隅に置いておいて僕は宿題を優先することにした。 横からの視線が気になるけど、とにかく鉛筆を動かす。 さほど難しい問題じゃないから、すぐに解けるはずだ。 「ちゃんと正解してるね、えらい」 問題を見ていたレラお姉ちゃんが僕を褒めてくる。 ...その際にくっつく勢いで問題を見ているものだから、レラお姉ちゃんの石鹸と甘い匂いが鼻に入ってくる。 というかもうくっつく勢いというか、というか時々くっついてきてるよ。 伝わってくる肌のもっちりして、やわらかい感触。 普段お風呂にたくさん入ってるからかな。 そう、この前風呂上りにうっかり──── いや、かんがえるんじゃない。おもいだしちゃダメ。 「お顔真っ赤だね。ふふ、何考えてたの?」 「...なんにも」 「あの時は私もちょっと恥ずかしかったかも」 「うっ」 考えていたことを見抜かれた。 なんでそんなことが分かるの。 「カマかけのつもりだったけど、当たってた」 「ずるっ」 まんまと引っかけられた。 ひどい。 「ほら間違えた。ここの答えは...一回計算し直してみて」 動揺で問題を間違えたことを指摘するレラお姉ちゃん。 でも、今のミスはぼくのせいじゃない。 「レラお姉ちゃんがうるさいから間違えたんだ...邪魔が無かったら合ってた」 レラお姉ちゃんがからかったせいでミスしたことを抗議する。 宿題を手伝うと言っておきながら、足を引っ張ってくるなんて。 「ごめんなさい、そうだね」 ほころんだ笑顔で謝ってくるレラお姉ちゃん。 ...なんかやけに素直だし、いつもよりニコニコしてるのが不気味。 「いやあ、ちょっと嬉しいなあ」 「なにが」 「レラお姉ちゃんって呼んでくれて。心の中では今でもフリョー呼びじゃないんだね」 「あっそれはその...」 しまった、うっかりレラお姉ちゃんって呼んじゃった。 ぼくはさっき以上に顔を真っ赤にして固まる。 「かわいい」 上機嫌で頭を撫でてくるレラお姉ちゃん。 ────ぼくは口でも力でも全くレラお姉ちゃんには敵わなかった。