# 銀鈴の宿 ## 一 新大陸に渡ってきて三週間になるリオは、開拓地の北門近くにある冒険者ギルドの掲示板の前で、今日も財布の中身を数えていた。銅貨が十八枚。宿代を払えば、明後日には食べるものがなくなる計算だ。 本国の港町では、剣の腕には自信があったし、ギルドの試験も首席で通った。だが新大陸では、そんな肩書きはほとんど意味を持たなかった。ここでは誰もが等しく新人で、等しく金に困っている。 掲示板には、畑を荒らす角兎の駆除や、街道沿いの薬草採取といった依頼が並んでいた。報酬は安い。だが安い仕事を数多くこなすことが、今の自分に必要なのだとリオは分かっていた。 「薬草採取、三束で銅貨七枚……か」 依頼札を一枚はがし、受付へ向かおうとした時、背後から声がした。 「おい、そこの坊主。その紙、取る前に一回ふり返りな」 低く、少し掠れた女の声だった。振り向くと、ギルドの片隅にある酒場スペースのテーブルに、ひとりの女が頬杖をついて座っていた。 黒と白のメイド服。胸元の刺繍は丁寧で、どう見ても冒険者の装いではない。だが背中には、柄の長い戦槌が立てかけてあった。 「ここの酒場の給仕か何かですか」 「給仕に見えるか。目ん玉ついてんのか、お前。いや、ついてるな。ちゃんと見てるみたいだ」 女は細い煙草を指先で弄びながら、にやりと笑った。年齢は二十代の後半くらいに見える。赤みがかった茶髪を無造作に束ねて、目つきは鋭いのに口元だけが笑っている。 「まあいい。座れ。ただし、先に名乗っとくか。ミラだ。名前の方は、今日はミラでいい」 「今日は……?」 「細かいこと気にすんな。で、お前の名前は」 「リオです。本国から来ました。冒険者になって三週間です」 「三週間で、よくその顔ができるな。どうせ、まだ『自分は強い』って思ってる顔だ。違うか」 図星を突かれて、リオは言葉に詰まった。ミラは声を上げて笑い、煙草の灰を灰皿に落とした。 ## 二 ミラは、リオが先週受けた採取依頼のことを知っていた。 「森の入り口で、猪みたいなやつに追われてた奴がいたろ。あれを、お前が割って入って助けた。覚えてるか」 リオは頷いた。確かに一度、同じ依頼を受けた若い冒険者が魔獣に襲われかけていた。見殺しにはできず、剣を抜いて間に入った。だが相手は思ったより重く、腕に一撃を受けて三日ほど動けなかった。 「あれ、ちょっと危なっかしかったな。でも判断は悪くなかった。相手を見て、逃げる方向を先に確保してから前に出た。あれは教えてもらえる類のものじゃない。拾い物だ」 「見ていたんですか」 「依頼の途中から、ずっとな。あたしも薬草を探してたんだ。ちなみに、薬草はあたしの方が多く採った」 ミラは懐から、束ねた薬草を出してテーブルに置いた。どれも状態のいい、香りの強いものだった。 「なんでメイド服なんですか」 「それを聞くか。普通、そこは避けるだろ」 「気になってしまって」 「気になるなら、今度は覚えとけ。この服はな、雨の日に着替えが楽なんだ。嘘だよ。ここの酒場の店主に借りた。あいつ、昔あたしに貸しがあってな。その分の労働だ」 リオは思わず笑ってしまった。ミラは満足そうに頷いて、煙草をもみ消す。 「お前、ギルドはどこに入るつもりだ」 「まだ決めていません。大手の方が安定しているとは聞いています」 「大手ね」 ミラの声の温度が、一段下がった。 ## 三 「大手はな、いいぞ。金はある。装備も揃う。依頼も回ってくる。ただし、お前が死んだら書類一枚で、同じ顔の代わりが届く」 ミラはテーブルの上で指を組み、まっすぐリオを見た。 「あたしは昔、五つのギルドを渡り歩いた。最初は『鋼の誓約』っていう、本国でも名の通ったところだ。そこでは、依頼の成功数で序列が決まる。だから誰も仲間を助けない。助けたら、その分の成果が減るからだ。あたしは三か月で、同じ依頼で仲間を見殺しにした。それが一番最初の『嫌だった』だな」 リオは何も言えなかった。 「次は『暁の連隊』。ここは規律が厳しくて、命令に従わない奴は即座に切られる。あたしは二回、命令を無視して仲間を救った。二回目で、除名された。その次は、小さな町の自警団上がりのギルドだ。ここは楽しかった。ただし、金がない。飯は薄い粥と、固い黒パンだけだった」 「それで、どうしたんですか」 「ギルドを抜けた。飯が食えなきゃ、戦えない。当たり前のことだ。それで、また別のギルドに入った。今度は、依頼の内容が悪かった。報酬の高い仕事は、ほとんど裏の仕事だ。人を騙すか、貴族の私怨を晴らす仕事。あたしは、そういうのが一番腹が立つ」 ミラは溜息をついた。その息には、疲れと苛立ちと、どこか懐かしさのようなものが混じっていた。 「で、五つめにして、ようやく『ここなら死んでもいい』って思えるところに出会った。金はない。人数もない。大手の連中からは、潰れかけの寄せ集めって笑われてる。でもな、飯はうまいし、ギルマスは口うるさくないし、仲間は誰も背中を向けない。少人数だからな。誰が何をしてるか、全員見えてる」 「そこは、今も入っているんですか」 「さあな。知り合いが所属してるギルドの話だ。お前には関係ない」 ミラは、わざとらしく視線を窓の外へやった。 ## 四 「それより、お前の剣だ」 ミラは、リオの腰の剣を顎で示した。 「その剣、重心が前寄りだろ。本国の教本通りの持ち方だ。悪くはないが、この大陸の魔獣はみんな、外側から回り込んでくる。お前の型は、正面からしか受けられない。このままだと、そのうち横から刺される」 「どうすれば」 「知るか。自分で考えろ。ただ、ヒントはやる。足だ。足の位置を、もう半歩ずらせ。それだけで、受けの幅が変わる。あとは、怖がるな。怖いなら、怖いまま前に出ろ。それが一番早い」 リオは、ミラの言葉を頭の中で繰り返した。足を半歩。怖いまま前へ。 「なんで、そこまで教えてくれるんですか」 ミラは答えず、薬草の束を手に取った。 「さっきの話の続きだ。あたしはな、お前みたいな奴をよく見てきた。最初は強くて、自信がある。それで、すぐ死ぬか、大手で潰されるかのどっちかだ。だから、ひとりくらい、ちゃんとした場所に流してやりたいと思ってる。それだけだよ」 「ちゃんとした場所、というのは」 「さあな。あたしは、ギルドのことは何も言ってない。覚えとけ」 そう言ってから、ミラは急に真顔になった。 「ただし、どこに入るにせよ、一つだけ守れ。仲間を見捨てるような場所には、絶対に行くな。お前が見捨てられるのは、まだいい。だが、お前が誰かを見捨てる場所に入ったら、そいつは一生、お前の中に残る。あたしがそうだからな」 その声は、先ほどまでの茶化す調子とは違っていた。リオは、初めてミラの本当の顔を見た気がした。 ## 五 その日の夕方、リオは薬草採取の報酬を受け取りに戻った。ギルドの受付には、いつもの職員が座っていた。ミラの姿は、もうなかった。 「ミラさんって、この酒場の人ですか」 受付の職員は、少し考えてから首を振った。 「ミラ? ああ、昼間に来てた給仕の方ですか。いえ、あの方は時々ここで飲んでいく方で、詳しいことは知らないんです。ただ、ひと月前に『鋼の誓約』の若手がここで揉めた時、いきなり割って入って全員を黙らせたことがあって」 「全員を、黙らせた」 「ええ。たった一言で。『次に依頼札を破いたら、おまえら全員、来月から依頼を受けられない身にしてやる』って」 職員は肩をすくめた。 「どこのギルドの人かは、結局誰も知りません。ただ、あの時の視線は、只者じゃなかったですね。まあ、あの人が普通の給仕なわけがないでしょう」 リオは受付から報酬を受け取り、銅貨の重さを確かめた。さっきより、少しだけ増えている。依頼の上乗せがついていたのだ。 誰が上乗せしたのかは、考えないことにした。 ## 六 三日後、リオは改めてギルドの掲示板を眺めていた。ミラの言葉を、ずっと頭の中で反芻していた。足を半歩。怖いまま前へ。仲間を見捨てる場所には行くな。 掲示板の隅に、一枚の依頼札が貼られていた。「護衛依頼、街道西の商隊。人手求む。実力よりも、信用を重視」。報酬は普通だが、依頼主の欄に書かれた名前には見覚えがあった。 銀鈴の宿。 本国の港町で、まだ耳にしたことのない名前だった。だが、新大陸に来てから、何度か聞いた気がする。小さなギルドだが、護衛の仕事では評判がいいという噂だ。 リオは依頼札をはがし、受付へ持っていった。 「このギルド、どんなところなんですか」 受付の職員は、少し驚いた顔をした。 「銀鈴の宿ですか。少人数ですけど、腕利きばかりですよ。ここ一年で、上位の依頼を何件も完遂してます。ただ、ギルマスの方針で、誰かを無理に勧誘したりはしません。来る人だけ来い、って感じで」 「メンバーは、どんな人たちなんですか」 「さあ、詳しくは。ただ、あそこの受付の人、よくここに来るんですよ。茶髪の、口の悪い女性で。『うちの連中に変な依頼を持ってくるな』って、いつも怒られてます」 リオは、思わず苦笑した。 ## 七 銀鈴の宿は、北門の外れ、古い鐘楼の隣にあった。木造の二階建てで、看板には小さな銀色の鈴が描かれている。扉を開けると、薪の匂いと、煮込み料理の香りが混ざって鼻をくすぐった。 中には五人ほどの冒険者がいた。全員、装備の手入れを丁寧にしている。大声で騒ぐ者はおらず、静かに会話を交わしている。 「いらっしゃい」 カウンターの奥から声がした。そこに立っていたのは、メイド服の女だった。ただし、昼間とは少し違う。髪は後ろで結び、袖は肘までまくり上げている。手元には、皿洗い用の布があった。 「……ミラさん」 「その名前、ここでは使うなって言ったろ。ここではマリィだ。いや、やっぱどっちでもいい」 ミラは布を肩にかけ、露骨に面倒くさそうな顔をした。だが、その口元は笑っている。 「来たのか。本当に来るとは思わなかった」 「来いって言ったじゃないですか」 「言ってない。『来るなら来い、来ないなら好きにしろ』って言っただけだ」 リオは、ようやく自分の口角が上がっていることに気づいた。 ## 八 奥の席から、ひとりの男が立ち上がった。背が高く、髪が白い。穏やかな目をしている。 「君がリオくんか。ミラから話は聞いている。少し口は悪いが、悪い人間ではない。それは保証しよう」 「誰が口が悪いだ、ギルマス」 「ギルマスと呼ぶな、と何度言えば分かるんだ、君は」 男は苦笑しながら、リオの前に椅子を引いた。 「うちは小さいギルドだ。人数も少ない。報酬も多くはない。ただ、一人ひとりが、自分の背中を預けられる仲間だと思っている。君がどう感じるかは、君次第だ。無理に入れとは言わない。ただ、試してみる価値はあると思う」 ミラが、カウンターの向こうから口を挟んだ。 「あたしは、こいつに大手は勧めてない。ただ、ここが一番マシだってのは、本当だからな。それだけは言っとく」 「そういうことを、素直に言うのが珍しいんだよ」 ギルマスと呼ばれた男が笑う。奥のテーブルから、誰かが「ミラが素直とか、雪が降るな」と茶化し、店内に小さな笑いが起きた。 リオは、ミラの顔を見た。彼女は布で皿を拭きながら、横目でリオを見ていた。その視線は、昼間の鋭さとは違い、どこか見守るような柔らかさがあった。 ## 九 その夜、リオは銀鈴の宿の二階の空き部屋で、ひとりベッドに腰掛けていた。古い木の床が、少しだけきしんだ。 ミラに言われた言葉を、もう一度思い返す。足を半歩。怖いまま前へ。仲間を見捨てる場所には行くな。 そして、彼女が語った五つのギルドの話。彼女がどれだけ傷つき、どれだけ怒り、それでもなお誰かを助けようとしたのか。その全部が、言葉の端々からにじみ出ていた。 ドアが、こつこつと叩かれた。 「入るぞ」 返事を待たずに入ってきたのは、ミラだった。今度は、きちんとメイド服を着ている。ただし、手には二つのカップを持っていた。 「ほら、茶だ。毒は入ってない」 「……ありがとうございます」 カップを受け取ると、温かい香りが立ち上った。どこか懐かしい、草の匂いがする茶だ。 ミラは、ベッドの脇に立ったまま、少しだけ視線を逸らした。 「昼間の話、全部本当だ。五つのギルドも、あたしの失敗も、全部な。だから、あんまり真に受けすぎるな。あたしが言えることは、ひとつだけだ」 「なんですか」 「お前がここに来たのは、お前が選んだからだ。あたしのせいじゃない。そこだけは、間違えるなよ」 そう言うと、ミラはもう一度だけ笑って、部屋を出ていこうとした。その背中に、リオは声をかけた。 「ミラさん」 「その名前、ここでは使うなって言ったろ」 「マリィさん。もうひとつだけ、聞いてもいいですか」 ミラは、足を止めた。 「その戦槌、昔はもっと、小さいものだったんじゃないですか。依頼札の端に、同じ型の柄の絵が描いてあって」 長い沈黙が落ちた。それから、ミラは振り返らずに答えた。 「そういうことを、一晩で全部見抜くんじゃない。お前は、ほんとに可愛くないな」 扉が閉まる音がした。リオは、冷めかけた茶を一口飲み、小さく息を吐いた。 窓の外では、北門の鐘がひとつ鳴った。 ## 十 翌朝、リオは銀鈴の宿の扉を開けた。 昨日と同じ薪の匂いが、朝の空気に溶けている。カウンターの奥では、ギルマスが書類を広げ、隣の席では白髪の老魔導師が、なにやら呪文を唱えながら薬草を仕分けている。奥のテーブルでは、昨日の男たちが装備の手入れを続けていた。 「おはようございます」 リオが声をかけると、カウンターの奥から、布を肩にかけたメイド服の女が顔を出した。 「遅い。もう朝飯は冷めてるぞ。さっさと座れ」 「はい」 テーブルには、粥と黒パン、そして焼いた干し肉が並んでいた。昨日ミラが言っていた、飯がうまいという言葉が、どこか誇らしく思えた。 「おい、ひとつ言っとく」 ミラが、トレイを置きながら口を開いた。 「ここは、来るものを拒まないが、ついてこられない奴は置いていく。それは本当だ。だから、お前がここで楽をできるとは思うな。足の位置、昨日言ったろ。半歩ずらせ。それができたら、あたしが次の依頼で一緒に組んでやる」 「……本当ですか」 「嘘ついてどうすんだ。その代わり、死ぬなよ。あたしは、目の前で新人に死なれるのが一番嫌いなんだ」 リオは、粥を口に運びながら、小さく笑った。 「分かりました。やってみます」 「そう言って、三日で潰れた奴を、あたしは何人も見てきたけどな」 「それでも、やります」 ミラは一瞬だけ黙り、それから、ふっと笑った。昼間の刺々しさとは違う、柔らかい笑顔だった。 「……そうかよ。ならせいぜい、足の位置に気をつけろ、坊主」 そう言い残して、ミラは厨房へと戻っていった。その背中を見送りながら、リオは、自分がどこに立つべきなのか、ようやく少しだけ分かった気がした。 新大陸の朝は、まだ始まったばかりだった。