# 掃き溜めのメイドと新大陸の現実主義者 潮風に乗って漂う生木と泥の匂い、そして安酒と鉄錆の饐えた臭気。 新大陸の開拓拠点『ポート・アスター』の空気は、旧大陸の古びた街並みとはまるで違っていた。未開の原生林を力任せに切り拓いたばかりの広場には、一攫千金を夢見る船客と、それらを食い物にしようとする者たちの欲望が、むせ返るような熱気となって渦巻いている。 ギルド直営の大酒場『潮吹き鯨亭』の片隅。 丸太を荒削りしただけの粗末なテーブルに座り、レオンは懐から取り出した小さな革袋の紐を緩めた。 中に入っているのは、昼間の依頼で手に入れた沼地蜘蛛の毒腺が三つと、濁った泥水晶の破片が五つ。今日の稼ぎは、硬貨にして銀貨四枚と銅貨数枚といったところだ。 「……宿代と飯代を引いたら、残る靴の補強代は銅貨三枚か。上出来とは言えないが、死ななかっただけ御の字だな」 レオンは小さく息を吐き、腰の短剣を抜いて刃こぼれがないか光に透かした。 旧大陸のしがらみに嫌気がさし、なけなしの貯金を叩いて開拓船に乗り込んだのが二週間前。この街に来てからは、身の丈に合った薬草採取や下級魔獣の間引きといった依頼を、慎重に、確実にこなしてきた。 周囲を見渡せば、同じ船でやってきたはずの若者たちが、派手な装備に身を包んだ男たちを取り囲んでいる。 「新大陸最大手! 帝国公認ギルド『黄金の鬣』だ! 今なら入団金免除、実績次第で一等開拓地の配分権も与えられるぞ!」 「討伐数至上主義! 強さこそが正義の『血風旅団』! 我らと共に未知なる巨獣の首を刈り、英雄の名を刻まないか!」 天井を震わせるような威勢のいい勧誘の声。それに目を輝かせて群がる新人冒険者たち。 彼らは知らないのだ。広大な新大陸の奥地で、どれほど理不尽な死が日常的に転がっているかを。旧大陸の傭兵団で数年間、泥水をすするような輜重隊(しちょうたい)の護衛を務めてきたレオンには、あの輝かしい言葉の裏に透けて見える「消耗品」の募集要項が、嫌というほど読み取れた。 「おい、アンタ。いつまでそのナマクラ見つめて黄昏れてんのよ。酒が不味くなるから、湿気たツラ下げてくんない?」 唐突に、冷淡極まりない女の声が頭上から降ってきた。 ことん、とやや乱暴な手つきでテーブルに置かれたのは、安エールの入った木ジョッキと、塩気の強そうな干し肉の皿だ。 見上げると、そこには見慣れない姿の給仕が立っていた。 白と黒のコントラストがやけに鮮やかなクラシカルスタイルのメイド服。フリルのついたエプロンは妙に糊が利いていて、酒場の泥臭い喧騒の中でそこだけ切り取られたように浮いている。 年の頃はレオンと同じか、少し若いくらいだろうか。切れ長の琥珀色の瞳に、艶やかな黒髪を後ろで無造作に束ねている。整った顔立ちをしているが、その眉間には「世界中のすべてが気に食わない」とでも言いたげな深い皺が刻まれていた。 「……頼んだのは水とパンだったはずだが」 レオンが怪訝な顔をすると、メイドは鼻で笑った。 「ツケで食い逃げしそうなツラしてたから、一番原価の高いエールを勝手に押し付けたのよ。文句があるならギルド長にでも言えば? ああ、あのハゲ親父なら今、裏で仕入れ伝票の誤魔化しに必死だから取り合っちゃくれないでしょうけどね」 「おいおい……」 初対面の客に対する態度とはとても思えない。だが、不思議と悪意の棘というよりは、根本的な人間不信と倦怠が服を着て歩いているような口調だった。 名札には『エリス』とだけ記されている。 「それにしても、見上げた根性ね」 エリスは布巾を雑にテーブルへ滑らせながら、周囲で繰り広げられる熱狂的な勧誘合戦を、ゴミを見るような目で一瞥した。 「あっちの阿呆どもは、耳触りのいい美辞麗句に尻尾振って『ボクも明日から英雄です!』みたいな顔して群がってるのに。アンタ、さっきから一歩も動かないじゃない。手元でネチネチと短剣の手入れして、出入口の最短ルートと、酔っ払いが暴れ出した時の逃げ道ばっかり目で測って。……陰気くさいにも程があるわよ」 レオンは短剣を鞘に収め、内心で舌を巻いた。 自分の視線の動きに気づいていたのか。この雑踏の中で、給仕の仕事の片手間にそれを見抜く観察眼は、ただの酒場の店員とは思えない。 「……慎重と言ってほしいな。英雄になるためにこの大陸に来たんじゃない。死なずに飯を食うために来たんだ」 「ふん、減らず口を」 エリスは空いた椅子を足先で器用に引き出すと、客であるレオンの許可も取らずにドカリと腰を下ろした。エプロンのポケットから干し葡萄を一粒取り出し、ぽいと口に放り込む。 「サボりか?」 「休憩よ。文句ある? 時給分は働いたわ。それより、アンタの名前は?」 「……レオンだ」 「そう、レオン。アンタ、運がいいわね。死に急ぐ豚の群れに混ざらなかっただけの脳みそはあるみたいだから、特別に元・苦労人のアタシが、タダで現実ってやつを教えてあげるわ」 エリスは頬杖をつき、テーブル越しにレオンをじろりと睨み据えた。その瞳には、侮りようのない凄みと、年季の入った諦念が宿っていた。 「元・苦労人?」 「そうよ。見りゃわかるでしょ、ただの雑用メイドよ。でもね、アタシも昔は色んなパーティやギルドの荷物持ちやら斥候モドキやらでこき使われて、クソみたいな連中のケツを拭きながら大陸中を渡り歩いてきたの。だからギルドの看板を見ただけで、中の連中がどんなゲロ以下の思考回路してるか手に取るようにわかるのよ」 口の悪さに拍車がかかる。だが、その言葉に滲む実感のこもった毒気は、レオンの警戒心を解くどころか、むしろ奇妙な説得力を持って響いた。 「へえ……なら聞かせてくれ。あっちで一番デカい声を張り上げてる『黄金の鬣』はどうなんだ? 帝国公認の大手で、後ろ盾もしっかりしてるように見えるが」 レオンが顎で示すと、エリスは心底吐き気がするというように顔を顰めた。 「『黄金の鬣』? けっ、一番入っちゃいけない肥溜め筆頭ね。あそこは典型的な『貴族の集金ピラミッド』よ。帝国貴族の放蕩息子どもが手柄を立てて箔をつけるために作られた組織。新人は何十人もまとめて囲い込まれるけど、実態は『歩くポーション運搬棚』兼『使い捨ての肉壁』よ」 「肉壁か」 「そうよ。危険な未踏峰の露払いをさせられて、手柄は全部上流階級の坊ちゃんたちのもの。獲物の分配率なんて、上前を五重くらいに撥ねられて雀の涙。おまけに『組織の規律』だの『帝国の誉れ』だの抜かして、独自のルールでがんじがらめ。抜けようとしたら違約金だの脱退ペナルティだので身ぐるみ剥がされるわ。あんなとこに入るのは、首輪つけて飼い殺されたい家畜野郎だけよ」 情け容赦のない舌鋒に、レオンは思わず乾いた笑いを漏らした。 旧大陸の正規軍にいた頃の苦い記憶が蘇る。巨大組織の末端がどう扱われるか、彼女の指摘は寸分の狂いもなく的を射ていた。 「じゃあ……あっちの『血風旅団』は? 実力主義を謳ってる連中だ。腕さえあれば正当に評価されるんじゃないのか?」 「ハッ、笑わせんじゃないわよ」 エリスは鼻を鳴らし、木ジョッキのエールをレオンの了解もなく一口呷った。そして眉をひそめて「不味いエールね、薄いわ」と毒づいてから続けた。 「『力こそ全て! 弱者は去れ!』なんて粋がってる連中はね、要するに『社会福祉の概念が存在しない蛮族の群れ』ってことよ。腕が立つうちはチヤホヤされるけど、一度でも大怪我して前線から退いたらどうなると思う? その日のうちに路地裏にポイよ。ギルド積立の手当てもなければ、治療院の紹介すらないわ」 「……ドライだな」 「ドライなんてもんじゃないわ、ただの使い潰しよ。あいつら、成果を焦るあまりに無茶な深追いを美徳としてるから、平均寿命が異常に短いの。三年生き残った奴が古参扱いされるような組織で、まともな人生設計ができるわけないでしょ。腕自慢の馬鹿が、自分の骨を肥やしにするための場所ね」 立て板に水とはこのことだ。 エリスの口から飛び出すのは、単なる悪口ではない。組織の財政構造、人事の歪み、そして現場の死生観にまで踏み込んだ、痛烈かつ極めて実利的な分析だった。どれほど場数を踏めば、ただのメイドがこれほどの知見を得られるのか。 「……じゃあ、あそこはどうだ」 レオンは、酒場の真ん中で円陣を組み、肩を組んで笑い合っている一団を指差した。 緑色の若草を描いた紋章を掲げる中規模ギルドだ。 「『若草の絆』。ポスターには『私たちは家族です。仲間を決して見捨てない』と書いてあったが。アットホームで、助け合いを重視しているように見える」 すると、エリスはそれまでで一番深く、底冷えのするような溜息をついた。その琥珀色の瞳に、真綿で首を絞められるような昏い光が宿る。 「……アンタね、純粋を装った邪悪ってやつを知らないの?」 「邪悪?」 「ええ。一番タチが悪いのが、あの手のアットホーム系よ。『みんな家族! 絆こそ力!』……反吐が出るわ。あの手の連中はね、組織の運営能力の低さを全部『情』で誤魔化してるだけなのよ」 「誤魔化す?」 「そうよ。仕事のミスも、準備不足も、『仲間だから許し合おう』で済ませる。そのくせ、いざ魔獣に囲まれて誰かが致命的なヘマをやらかした時、冷徹な撤退判断ができないの。『仲間を見捨てられない!』って感情論で突っ込んで、助かるはずの部隊まで全滅させるのがオチよ」 エリスは組んだ指をポキリと鳴らした。その指先は細く白いが、関節には歴戦の戦士特有の微かなタコがあるのを、レオンの鋭い視線は見逃さなかった。 「おまけにね、あの手の組織は『家族』だからこそタチが悪いのよ。残業手当も危険手当も『ギルドへの愛』で踏み倒される。意見が対立したら論理的な正しさじゃなくて『空気を乱す奴が悪い』って村八分にされるわ。仲良しごっこで命をチップに賭けさせられるなんて、冗談じゃないわよ。死ぬ時くらい、自分の責任で死にたいと思わない?」 「……激しく同意するな、それは」 レオンは心底から頷いた。 前世で言うところのブラック企業の温床を、彼女は的確に言語化していた。 これほどまでに組織の本質を見抜いている人間が、なぜこんな辺境の酒場でエプロンを着けて干し葡萄を齧っているのか。 「アンタ、本当は何者なんだ? ただの苦労人にしては、見ている視点が指揮官のそれだぞ」 「あ? ……な、何言ってんのよ。ただの給仕だって言ったでしょ」 一瞬、エリスの眉が微かに跳ねた。 彼女はバツが悪そうにそっぽを向くと、乱暴に自分のメイド服の裾を引いた。 「言ったじゃない、クソみたいなパーティを山ほど渡り歩いたって。荷物持ちやりながら、後ろで間抜けな前衛が食い殺されるのを何度も見てきただけの話よ。……チッ、余計な詮索してんじゃないわよ、これだから勘のいいガキは嫌いなの」 早口で毒づくエリスの耳が、わずかに赤くなっている。 どうやら図星を突かれたらしい。正体を隠そうとしているようだが、その立ち居振る舞いから漏れ出る「只者ではない気配」は、もはや隠しきれていなかった。 その時だった。 「おい、給仕女! いつまで新顔のガキと油売ってやがんだ! こっちに酒持ってこいっつったろ!」 酒場の奥、ひときわ下品な笑い声を上げていた一角から、怒鳴り声が飛んできた。 見れば、熊のような体躯をした重装の戦士が、赤ら顔で空のジョッキをテーブルに叩きつけていた。胸には先ほどエリスが酷評した『血風旅団』の紋章が光っている。荒くれ者で通っている中堅冒険者のようだ。 「……あーあ。呼んでるわよ、あそこの粗大ゴミが」 エリスはあからさまに嫌そうな顔をして舌打ちした。 「行かなくていいのか?」 「放っておけばそのうち自分で取りに来るわよ。豚に餌をやる義務はアタシにはないの」 だが、酒に酔った大男はエリスの無視が気に食わなかったらしい。 重い足音を響かせ、獲物を威嚇するように肩を揺らしながら、こちらのテーブルへとずかずかと歩み寄ってきた。 「おいコラ、聞こえなかったのかテメエ! この『血風旅団』のギルバート様を待たせるとはいい度胸じゃねえか。新大陸に来たばかりの小娘が、調子に乗ってんじゃねえぞ!」 ギルバートと名乗った大男が、丸太のような腕を伸ばし、エリスの細い肩を乱暴に掴もうとした。 酒場の中が一瞬で静まり返る。誰もが「生意気なメイドが制裁される」と思い、関わり合いを避けるように目を背けた。 レオンの体が、思考よりも先に動いた。 (ここで騒ぎを起こすのは得策じゃないが……恩を売る機会ではあるか) レオンは座ったまま、右足をわずかに前へと滑らせた。 大男が踏み込もうとした足の甲を、ブーツの踵でわずか数ミリ、斜め下から抑え込むように踏み抜く。同時に、テーブルの端に置いてあった木製の塩入れを指先で弾き、男の進行方向の床へと転がした。 「うおっ!?」 足元を狂わされたギルバートの巨体が、慣性の法則に従って前方へと崩れ落ちる。 レオンは立ち上がりざま、大男の突き出された腕の関節に手のひらを添え、その体重を利用して斜め後ろへと受け流した。力で対抗するのではない。旧大陸の戦場で培った、最小限の力で巨漢の体勢を崩す護身の技術だ。 ドォン! と凄まじい音を立てて、ギルバートは誰もいない床に顔面からダイブした。 「な……んだとぉっ!?」 鼻血を流しながら跳ね起きようとする大男。 レオンは静かに腰の短剣の柄に手をかけた。次の攻撃に備え、間合いを取り直そうとした――その瞬間。 「あら、ごめんなさい。床が滑りやすくなっておりますので、お足元には十分ご注意くださいませ〜?」 信じられないほど棒読みの、甲高い媚び声が響いた。 エリスだった。 彼女は手にした銀色の配膳トレイを、まるでバランスを崩したかのように、これ見よがしに傾けた。 ――だが、レオンの目は捉えていた。 エリスの足の運び。重心の揺らぎがゼロだった。 そして、彼女がトレイの縁をギルバートの後頭部に向けて「滑らせた」瞬間、そこには大気を切り裂くような不可視の衝撃波が乗っていた。常人の目には、ただドジを踏んだメイドがトレイを落とし、それが偶然男の頭に当たったようにしか見えなかっただろう。 ガゴンッ!! 重金属をハンマーで叩き潰したような、鈍く凄まじい破砕音が響いた。 「ぶべっ!?」という蛙の潰れたような悲鳴を残し、巨漢のギルバートの白目が剥かれる。巨体はそのままピクリとも動かなくなり、床に突っ伏して完全に沈黙した。 「……あーあ、トレイが凹んじゃった。弁償代、あの豚のツケに回しとこ」 エリスは何事もなかったかのようにトレイを拾い上げ、エプロンでキュッキュと拭いた。 その表情には微塵の動揺もない。 周囲の冒険者たちは「運悪くトレイの角が急所に当たって気絶した」と解釈したようで、やんやの喝采と嘲笑がギルバートに向けられた。 だが、レオンの背筋には冷たい汗がツーと流れていた。 (……見間違いじゃない。あの一撃、頭蓋骨を割らないギリギリの力加減で、脳震盪だけを完璧に引き起こすための『寸止め』だ) トレイの軌道、腕の振りの初速、インパクトの瞬間の脱力。 どれをとっても、一流の暗殺者か、神域に片足を突っ込んだ近接格闘の達人のそれだった。 このメイド、ただの「元・苦労人」などではない。 新大陸の最前線で名を馳せる上位冒険者――それも、指折りの手練れだ。 「おい、アンタ……」 「何よ? 感謝ならいらないわよ。アタシが不快なゴミを片付けただけだから」 エリスはすまし顔で言うと、レオンの顔をじっと見つめた。 その瞳の奥に、先ほどまではなかった、品定めするような鋭い光が宿っている。 「……ま、アンタの今の足捌きも、なかなか小賢しくて悪くなかったけどね。力でねじ伏せようとせず、相手の重心を崩して無力化する。見栄を張りたい盛りのガキにしちゃ、ずいぶんと泥臭くて実戦的な動きじゃない」 「……傭兵上がりのただのチンケな技術だ」 「謙遜する奴は嫌いじゃないわよ。大言壮語を吐く無能よりは、百万倍マシね」 エリスは床に転がるギルバートの巨体を爪先で小突いてから、再びレオンの前の席に座り直した。 そして、身を乗り出すようにして声を潜める。周囲の喧騒にかき消されるような、密やかな囁き声。 「ねえ、レオン。アンタ、これからどうする気?」 「どうする、とは?」 「ギルドよ。さっきから言ってるでしょ。どこかのギルドに所属しなきゃ、この開拓地じゃ単独行動(ソロ)の依頼なんて高が知れてるわ。素材の買い取りレートも買い叩かれるし、遠征の許可証も下りない。……アンタ、どこに入るつもりなわけ?」 レオンは腕を組み、正直に答えた。 「正直、迷っている。お前の言う通り、大手の看板にぶら下がる気はないし、馴れ合いで命を落とすのも御免だ。だが、信頼できる小規模なパーティを見つけるのは、砂粒の中から砂金を探すより難しい」 「そうね。大抵の弱小ギルドは、大手に入れなかった落ちこぼれの吹き溜まりか、頭のネジが飛んだ狂人集団だからね」 エリスは当然のように頷き、それから、わざとらしく天井を仰いだ。 口元に、どこか悪戯っぽい、だが酷く企みのある笑みが浮かんでいる。 「……まあ、どうしてもって言うなら。本当に、万が一、億が一、アンタが奇特な人間で、死に場所を探してるわけじゃないって言うなら……一つだけ、アタシが知ってる『例外』を教えてあげなくもないけど?」 「……例外?」 レオンが眉をひそめると、エリスは待ってましたとばかりに身を乗り出してきた。 その顔は、まるで掘り出し物のガラクタを自慢したくてたまらない悪ガキのようだ。だが、声のトーンはどこまでも低く、慎重だった。 「街の東端、旧防壁の崩れた時計塔の下にある、ボロいレンガ造りの建物よ。看板の名前は……『銀の錆(シルバー・ラスト)』」 聞いたことのない名前だった。 港の掲示板や、大通りの案内板でも一度も見かけたことがない。 「……どんなギルドなんだ?」 「一言で言えば、最悪よ」 エリスは吐き捨てるように言った。しかし、その言葉の響きには、先ほどまでの他ギルドへの純粋な嫌悪とは異なる、奇妙な熱と愛着のようなものが混ざり合っていた。 「構成員はたったの四人。看板は錆びて読めないし、新人の募集広告なんて一度も出したことがないわ。ギルドマスターは昼間から安酒飲んで寝転がってる偏屈なジジイだし、前衛の戦士は一言も喋らない陰気な大男。魔導士は部屋に引きこもって怪しい薬品ばっかり調合してる毒婦よ」 「……入る理由が一つも見当たらないんだが」 「最後まで聞きなさいよ、せっかちな男ね!」 エリスはテーブルを小さく叩いて睨みつけた。 「いい? そのギルドの何が最悪かってね、『新人を手取り足取り育てる気が毛頭ない』ことよ。研修? ないわ。手厚い福利厚生? あるわけないでしょ。上下関係すらないわ。自分の命は自分で守る、自分の装備は自分で整える。それができない奴は、門を叩いた瞬間に追い出されるわ」 「……ふむ」 「だけどね」 エリスは瞳を細め、フッと不敵な笑みをこぼした。 「ノルマがない。手柄の横取りもない。依頼で得た報酬は、危険度と貢献度に応じた完全な頭割りよ。上流階級への上納金もなければ、訳のわからない理念の押し付けもない。そして何より――」 彼女は人差し指を立て、レオンの胸元をツンと突いた。 「持ち込まれる依頼の『質』が異常なのよ。あそこはね、大手がメンツや政治的な理由で手を出せないような、新大陸の最深部――本当に美味しくて、本当に危険な未踏領域の調査ばっかり請け負ってるの。他のギルドが何十人も動員して全滅しかけるような場所を、たった四人で、誰一人欠けずに踏破して帰ってくる連中よ」 レオンの心臓が、トクンと小さく跳ねた。 少数精鋭。徹底した個人主義と実利主義。政治的なしがらみの排除。 それこそが、レオンが旧大陸でずっと求めてやまなかった、理想の冒険者の姿だった。 「……四人しかいないのに、そんな無茶な依頼をこなせるのか?」 「こなせるから生きてるんでしょ。全員がそれぞれの分野の頭蓋骨を割るようなスペシャリストなのよ。……まあ、斥候兼雑用係をやってる女なんて、性格がひん曲がってて口が悪くて、本当に最悪らしいけどね」 「自分で自分の悪口を言うなよ」 レオンが思わず突っ込むと、エリスはピシリと固まった。 ほんの半秒ほどフリーズした後、彼女は猛烈な勢いで咳払いをし、ツンと顔を背けた。 「な、何言ってんのよ! アタシは給仕のエリス! ただの哀れな雑用メイドよ! あんな掃き溜めギルドに所属してるわけないでしょ、馬鹿じゃないの!?」 「いや、隠すの下手すぎだろ……。さっきのトレイの一撃といい、今の話の具体性といい、どう見ても身内の語り口だったぞ」 「うるさい! 幻覚よ! アンタ、エールのアルコールで脳みそが腐ったんじゃない!? 訴えるわよ!」 真っ赤になって怒鳴るエリス。その反応があまりにも子供っぽく、レオンは思わず吹き出してしまった。 大物なのか小者なのか判然としないが、少なくとも裏表のない、信用できる性格であることだけは確かだった。 「……まあいい。その『銀の錆』、興味が湧いたのは本当だ。だが、新人を育てる気がないなら、俺みたいな新大陸に来たばかりの駆け出しが行っても、門前払いされるだけじゃないのか?」 「……別に、アンタを推薦してやるなんて言ってないわよ」 エリスは唇を尖らせ、エプロンのポケットを弄りながらブツブツと呟いた。 「ただ……あそこ、ちょうど優秀な『荷物持ち兼、周囲の安全確認ができる小賢しい斥候』を一人探してたのよね。前衛の熊男が荷物を持つと足が遅くなるし、マスターのジジイは腰が痛いとか言ってサボるし……アタシが全部の荷物を背負わされる羽目になってて、マジで腰が限界なのよ」 「本音がダダ漏れだぞ」 「うるさいわね! とにかく!」 エリスは懐から、煤けた真鍮製の小さなコインを取り出すと、テーブルの上にカランと転がした。 表面には、錆びた剣と天秤の意匠が荒々しく刻まれている。 「もし、気が向いたらその時計塔に行ってみなさいよ。扉をノックする回数は三回。合言葉は『余計なお世話だクソ野郎』よ」 「……どんな合言葉だよ」 「あそこの連中に一番効く挨拶よ。そのコインを見せれば、マスターのジジイもいきなり斧を投げつけてきたりはしないはずだから。……まあ、アンタが本当にあの豚どもとは違う、自分の足で立てる人間ならの話だけどね」 エリスは立ち上がり、トレイを脇に抱え直した。 いつの間にか、彼女の立ち居振る舞いは再び「酒場の気怠い給仕」へと戻っていた。だが、去り際に振り返ったその琥珀色の瞳は、まっすぐにレオンを射抜いていた。 「生き残りなさいよ、レオン。新大陸で死ぬ奴の九割は、自分の身の丈を忘れてデカい夢を見た馬鹿よ。……アンタみたいな陰気な現実主義者がどれくらい通用するか、見ものだわ」 そう言い残し、エリスはフリルのエプロンを翻して、騒がしい酒場の厨房へと消えていった。 テーブルの上には、冷めかけた不味いエールと、真鍮のコイン。 レオンはそれを手に取り、親指の腹でその煤けた表面をなぞった。ずしりと、見た目以上の重みがあった。 「……『銀の錆』、か」 小さく呟き、レオンは残りのエールを一気に喉へと流し込んだ。 酸味の強い安酒の味が、なぜか先ほどよりも少しだけ、悪くないものに感じられた。 *** 翌朝。開拓地の霧は深く、冷え切った空気が肺腑を刺す。 レオンは必要最低限の荷物を背負い、手入れを終えた二本の短剣を腰に吊るして、街の東端へと歩いていた。 大通りの喧騒から遠く離れた、崩れかけた旧防壁の跡地。 湿った苔に覆われた石畳の先に、ひっそりと佇む半壊した時計塔が見えてきた。その根元にへばりつくようにして建っている、古びたレンガ造りの小屋。 看板はエリスの言った通り、赤茶色の錆に覆われていて文字はほとんど判別できない。だが、目を凝らせば、微かに『Silver Rust』の文字が読み取れた。 周囲には人影ひとつなく、鳥の羽ばたきすら聞こえない。 だが、建物の周囲の草木を観察すると、枯れ枝の配置や泥の踏み荒らされ方に、極めて巧妙な偽装と、侵入者を感知するための罠(トラップ)が何重にも張り巡らされているのが分かった。 (……間違いない。ここが本拠地だ。一歩足を踏み外せば、首が飛ぶな) レオンは罠のワイヤーを慎重に跨ぎ、軋む木製のドアの前に立った。 深呼吸を一つ。 冷たい鉄のノッカーを掴み、教えられた通りに叩く。 コン、コン、コン。 三回。静寂の中に、澄んだ音が吸い込まれていく。 数秒の沈黙の後、扉の向こうから、重い閂が外されるガチャリという音が響いた。 「……合言葉は?」 扉の隙間から聞こえてきたのは、酷く低く、不機嫌そうな老婆のような、あるいは老人のような嗄れ声だった。 レオンは真鍮のコインを握り締め、腹の底から、教えられた通りの言葉を紡いだ。 「――余計なお世話だ、クソ野郎」 ほんの一瞬の間。 次の瞬間、ガタゴトと派手な音を立てて扉が内側へと全開になった。 「ぶははははッ! 傑作じゃ! 本当にその合言葉で来おったわ!」 出迎えたのは、背丈の半分ほどもある巨大な戦斧を杖代わりに突いた、ドワーフの老人だった。白髪交じりの髭を蓄え、片目に眼帯をしたその老人は、レオンの顔を見るなり腹を抱えて大笑いした。 そして、その奥。 暖炉に薪がパチパチと爆ぜる薄暗い部屋のカウンターで、足を組んで座っている人物がいた。 純白のエプロンに、黒いドレス。糊の利いたメイド服。 だが、昨夜のトレイの代わりに、その白い指先で弄ばれていたのは、青白い魔力を帯びた二振りの投擲用ダガーだった。 「……ようこそ、新大陸で一番最悪な掃き溜めへ」 エリスは琥珀色の瞳を細め、ダガーをクルリと回して鞘に収めると、極上の、そしてとびきり口の悪そうな笑みを浮かべてレオンを見据えた。 「昨日はよくもアタシの正体をバラしてくれたわね、クソガキ。……言っとくけど、荷物持ちの試験は甘くないわよ? 死にそうになったら、アタシが真っ先にアンタの荷物奪って逃げるからね」 「望むところだ」 レオンは肩の荷物を下ろし、初めて見る彼女の「本物の冒険者」としての姿に向かって、薄く笑い返した。 「あんたの背中についていけるくらいには、泥水をすする覚悟はできてるさ」 新大陸の冷たい朝の光が、錆びた看板を静かに照らし出していた。 レオンの、そして『銀の錆』の、長くて厄介な開拓の日々が、今まさに始まろうとしていた。