①  放課後の特美研の部室にノックの音が響いたのは、日野勇太が前腕装甲のやすりがけを止めた直後だった。  引き戸が半分開き、白銀の髪が覗く。 「…ほんとにここ? なんか薬品の匂いするんだけど」  鬼塚光が鼻先をわずかにひそめて入ってきた。足元からはギルモンが顔を出し、換気扇の回る天井を見上げて鼻をひくつかせる。 「光、ここ、いろんな匂いがするね。焦げたパンみたいな匂いもする」 「…それは昨日失敗した熱加工の残りだから、あんまり吸い込まないで」  勇太は立ち上がり、手元の紙やすりを置いた。今日、光が部室へ来るとは聞いていた。聞いてはいたが、実際に作業机の向こうに立たれると、普段どこに手を置いていたのか分からなくなる。 「ごめん、散らかってるから。ちょっと待って、片づける」  勇太は机の端にあったピンセットをどかし、空き箱へ入れようとして、中に既に別のネジが入っていることに気づいた。ピンセットを持ったまま迷い、結局もとの場所から3cm横に置き直す。  机の下から顔を出したヴォーボモンが、その手元を見上げた。 「勇太~それじゃあ、動かしただけだよ」 「…い、今、場所を考えてるから」  低い声で返すと、光が小さく吹き出し、作業机の近くまで歩み寄ってきた。  机の上には、黒から濃灰へと重なる分節構造の前腕装甲と、そこに組み込まれた複数の赤い爪状のブレードが並んでいる。その奥には、黒い竜の輪郭を模したヘルメットが置かれていた。電源の落ちた橙色の大きなレンズは静かに光を 沈め、額には赤と橙の炎形の飾りと、青い面を持つゴーグル状の意匠が走っている。 「へえ。これ、日野が作ってるやつ?」  光が赤い爪状のパーツとヘルメットの間に視線を滑らせた。 「うん。繊維強化プラスチックで外装を作ってて、こっちの前腕の赤い武装は飾りじゃなくて、実際に荷重を受け止められるように可動軸を―」  無意識に言葉が重なりかけたところで、勇太は光が自分の口元を真っすぐ見ていることに気づき、ぴたりと口をつぐんだ。  眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、視線を斜め下へ逃がした時、光が肩に掛けている通学鞄の金具が目に入った。  切れたままの細いひもが、小さな安全ピンで仮留めされている。勇太はヘルメットへ向けていた手を引っ込め、鞄の方を見た。 「…えっと…、鬼塚さん。先に、そっち直そうか」  光は一瞬目を瞬かせ、自分の鞄を見下ろした。 「あ。うん、実はそれも頼みたくて来たの」  光は鞄から、ハンカチに包まれた小さなテイルモンのぬいぐるみを取り出した。家で何日かかけてしっかり乾かしてきたらしく、水気はすっかり抜けている。ただ、頭頂部のループに通されていた鞄への取り付けひもだけが、途中でぷつりと切れていた。 「このひも、直せる? 自分で結んでみたんだけど、またすぐ解けそうで」  光がそれを作業マットの空いた場所へ置いた。すぐ隣には、鋭い角度を持った赤い前腕武装が並んでいる。硬質な装甲の横に、柔らかい布のぬいぐるみがちょこんと座った。 「ひもなら、部室に細い編みひもがある。中に芯が入ってるから、前よりずっと切れにくいよ」  勇太は引き出しから白い編みひもと小型のペンチ、真鍮の留め具を取り出した。ぬいぐるみを手に取る前に、指先の粉を布で丁寧に拭う。  その手つきを見ていた光が、ぬいぐるみの左耳の付け根へ指先を伸ばした。水色の糸で三針ほど縫い直された跡がある。 「ここは、そのままで」  光が言った。新しく縫い直してほしいわけではない、と確かめるような声だった。 「うん。そこは触らない」  勇太は迷わずに頷いた。 「お母さんが直してくれたところでしょ。切れた取り付けのひもだけ新しくして、耳の糸には力がかからないように留めるから」  光が少し目を見張り、「…覚えてたんだ」と呟いた。勇太は「まあ、昔から持ってたし」とだけ答え、古いひもの結び目を解き始めた。 「日野、ひもの長さ、ギルモン知ってるよ」  机の縁に顎を乗せたギルモンが、赤い前足を上げて幅を作ってみせた。 「前はね、これくらいだった。あんまり長いと、光が走る時にギルモンの頭に当たるの」 「走るなって言ってるでしょ。…でも、確かにそれくらいだったかも」 「じゃあ、僕、こっちの金具を押さえる!」  ヴォーボモンが机の端へよじ登り、留め具の袋を前足で真剣に押さえ込んだ。 「ヴォーボモン、袋ごと押さえたら出せないってば」 「ギルモンが揺らすから、飛ばないようにしてるんだよ」 「ギルモン、揺らしてないもん。息してるだけだもん」  机の端で二体が鼻先を突き合わせる。勇太は一拍置いてから、「…どっちでもいいから、一個だけ出して」と低い声で言った。ヴォーボモンが爪の先で留め具を一つ転がし、ギルモンが鼻先で勇太の手元へ押しやる。  勇太は新しい白いひもをギルモンの示した長さに切り、端がほつれないよう処理してから、留め具とループへ二重に通した。ペンチで金具の隙間を閉じ、指先で軽く引いて強度を確かめる。 「…できた。これなら、たぶん引っ掛かっても切れない」  手渡されたぬいぐるみを、光は両手で受け取った。新しくなったひもと、左耳にそのまま残った水色の三針を交互に見てから、鞄の金具へぱちりと留める。  定位置に白い姿が戻ると、光はふっと息を吐き、指の腹でぬいぐるみの頭を一度だけ撫でた。 「ありがと、オタク君。ちゃんと元通りだ」 「…ううん」  用事が済んだから帰るだろう。勇太がそう思ってペンチを戻しかけた時、光は作業机の奥へ視線を戻した。 「で、さっきの続き。あれも見せてよ」  光が示したのは、黒い竜のヘルメットと赤い爪の前腕武装だった。 「…え?」 「最初に説明しかけてたでしょ。せっかく来たんだから、途中で止めないでよ」 勇太はペンチを持ったまま、光とヘルメットを交互に見た。 「…長くなるけど」 「んなもん知ってるわよ」 「…ん」  光が、あの日の教室と同じように口角を上げて笑った。  光はぬいぐるみの付いた鞄を隣の椅子へ置き、もう一度作業机の前へ座り直した。勇太は小さく息を吸い、机の奥にあったヘルメットを両手で持ち上げると、光から正面がよく見える向きへとゆっくり回した。