そう。楽しかったのだ。 確かにそこには暖かさがあった。 望んでも得られない、幸せがあった。 だからこそ、許せなかったのだ ─────そんなまやかしに酔っていた、自分の弱さが。 ──────────────── その学舎にて、三上竜馬は明るく朗らかな男として通っていた。 家族仲も良く(常に周りに潜んでいる母はともかく)友人に囲まれて、楽しい日々を送っていた。 人の頼み事をよく引き受け、出会う相手全てと打ち解けて、「ピンチヒッター三上」などと呼ばれるまでに至った。 楽しかったのだ。 だが、何も感じなかったわけではなかった。 竜馬はそんな幸せな日々を過ごしつつも、何か後ろ髪を引かれるような感覚に悩まされていた。 ある時は教室。ある時はどこかの部活。ある時は『母』と戯れている瞬間に。またある時は誰かとのカードゲーム中に。 時折黙り込んでどこか遠くを見つめていることもあった。 時折チクリと心を刺す違和感に、気づかないわけでもなかった。 なのにそれを見て見ぬふりをしていたのは、ひとえに楽しい日々を失いたくなかったからだ。 無意識下で、彼は現実に向き合うことから目を背け、虚構に酔うことに逃避していたのだ。 ──────────────── 誰もいない校舎の隅で、コンクリートで舗装された壁を殴りつける。 瀟洒な壁紙の中に隠されている打ちっぱなしのコンクリートの板は、まるで今のこの状況のようだ。 綺麗で優しい外装の中に、灰色の冷たい現実が隠れている。 拳から滴る血を見ながら、竜馬はそう思った。 それでも拳を振りかぶるのをやめられなかった。 誰の何の目的かは知らない。デジタルワールドでは、予想だにしない超常的な出来事は珍しくない。自分を含め、少なくない人々やデジモンがこの現象に巻き込まれているあたり、大規模な現象なのだろう。それは別にどうでも良かった。誰かを責めてどうにかなる問題ではない。 自分が、逃げた。 ひたすらにこの事実が竜馬の心を責め苛んだ。 ──────────────── 『現実』というやつに、かねてより折り合いをつけて生きてきたつもりだった。 暖かい家族。 楽しい友人たちの輪。 平和な日々。 それら『かけがえのない幸せ』が、決して手に入るものではないと、自分の中で一線を引いて生きてきたつもりだった。 だがここではどうだ? ここでは望むもの全てが手に入った。足掻いても足掻いても得られなかった全てが。 その事実に溺れた。酔いしれた。 塗り固められた幸せの綻びの中に現実を見出しても、見ないふりをして逃避するほどに。 俺は何をしていた? 俺はこんなに弱かったか? 喉から漏れた地獄の底から響くような咆哮は、拳の痛みによるものではない。 ──────────────── 『…ま!…うま!!…竜馬!!もうやめよう!!これ以上は竜馬の身体がもたない!!』 スマホから聞こえる電子音声は、無二の相棒であるトリケラモンの切実な叫びとして竜馬の耳孔に届く。 荒れ狂う男は、床に少量の血溜まりを作ったところでようやく動きを止めた。 『オイラだって気づかなかったんだ。竜馬が自分を責めることじゃないぜ。こんなことになってるならオイラたちみたいに気付き始めてる奴らもいるはずだ。そいつらと合流して解決のために動こう。こんなことをしても何にもならない。』 相棒の冷静な提言を聞いているのかいないのか、竜馬は言葉を発しない。自分をかき抱くように身体を丸め、そのまま壁に縋り付くようにうずくまる。 『…竜馬。お前が何を思ってるかオイラはわかってる。気持ちは痛いほどわかるよ。でもな、それを切り捨てちゃダメだ。』 竜馬は答えない。 『弱さもまた一部だよ。身体じゃない。心のもだ。楽しかったんだろう?ここの日々が。オイラも楽しかった。その楽しいと思ってた気持ちすら、自分の一部すら自分で否定してちゃ、うずくまってた昔に逆戻りだぜ。』 竜馬は言葉を発しない。 ─────だが、少しみじろぎする。 『ここで立ち止まるなんてそれこそ弱くなっちまう。…動こう。何もしない今よりはマシなはずだから。』 ゆるゆると、竜馬は立ち上がった。 相棒の思いは、しっかりと心に響いた。 「……………………あぁ」 『…その意気だ。あぁ…そうだ。言葉が出るのがどうしようもなく遅い方がお前らしいよ。』 相棒に鼓舞され立ち上がり、歩き出す男の目に失望と煩悶はない。 その貌には禍々しいまでの闘志が滲み出ていた。 この状況を打破し、現実に戻る。 やるべきことは決まった。 この思いは、行動で全て精算させてもらおう。 報復に向けて、怒れる猛竜は密かに牙を剥く。