プロローグ  ゲートを抜けると、まず音が変わった。  外の風も、土の匂いも、足裏に返ってくる地面の硬さも、そこで一度だけ切り替わる。白い床に靴音が響いた。硬く、冷たく、どこまでも平らな音だ。息を吸うと、空気が薄く澄んでいて、肺の奥まで冷たい光が入ってくるような気がした。  見上げても天井はない。はるか頭上で幾筋もの光が枝分かれし、静かに流れている。血管のように、あるいは樹木の根のように。広がる空間のどこまでが建物で、どこからが空なのか、カレンには判然としなかった。光は瞬くでもなく、ただ一定の速さで流れ続けている。それがかえって、ここが「人のための場所」ではないことを思い出させた。  腕の中で、ウッコモンが顔を上げる。小さな体温が、腕の内側にだけ残っている。 「ここが、そうなの?」 「ええ。着いたみたい」  答えたところで、前を歩いていた灯が手を振った。その仕草は軽い。だが、声の奥に、ようやく帰ってきた者の安堵が薄く滲んでいた。 「久しぶり、八千代くん」  その声に、奥にいた八千代が振り向く。足音ひとつ分だけ、間があった。驚きでも、疑いでもない。無事を確かめるための、ほんの少しの沈黙だ。 「……遅かったね」 「ちょっと帰り道が長くなっちゃって」 「迎えがなきゃ、もっと遠回りしてたでしょ」  背後でゲートが閉じる。音はしない。ただ、背中の空気がふっと軽くなった気がした。翼を畳んだルーチェモンが、灯の隣に並んだ。歩幅を合わせるでもなく、かといって離れるでもない、気取った余裕のある立ち位置だ。 「キミがいつまでも帰ってこないから、探すことになったんだよ」 「うん。助かった。ありがとう」  軽く返していた灯が、そこで素直に頭を下げた。普段の気取った物言いが、ここだけ素顔になる。ルーチェモンは一度だけ目を細め、それ以上は言わなかった。言わないことで、かえって「分かっている」という返事になっていた。  八千代も、灯の顔を確かめるように見てから、ようやく表情を緩める。頬の傷、服の乱れ、疲れの色。どれかひとつでも欠けていたら、たぶんこの顔にはならなかった。 「無事なら、よかった」 「心配かけたね」  その短い応酬を、カレンは少し離れて聞いていた。  灯が戻る場所には、こうして待っている者がいる。自分の知っていた教室の外にも、この少年が築いてきた関係があるのだと、改めて感じた。教師として見ていた「灯」と、ここに立っている「灯」は、同じ少年なのに、少しだけ違う。――いや、違うのではない。カレンの知らなかった部分が、ここでようやく見えただけだ。 「灯くん。そちらの方を、紹介してくれますか」  穏やかな声が、一行を迎えた。  HALだった。声は静かだが、空間の奥までよく通る。威圧感はない。むしろ、相手の呼吸に合わせて歩調を落としてくれるような、現代的な丁寧さがあった。  灯はカレンを振り返り、半歩横へ退く。主役を譲る、というより、紹介する者の立ち位置へ自然に移る動きだ。 「カレン先生。僕が小学生だった頃、教育実習に来てたんだ。今日は、HALに相談したいことがあって」  カレンはウッコモンを抱え直して、頭を下げた。腕の中の重みが、ほんの少しだけ自分を落ち着かせる。 「初めまして。急なお願いを聞いてくださって、ありがとうございます」 「どうぞ、こちらへ。お話を伺います」  促され、奥に設えられた卓へ向かう。白い床の上を歩くたび、靴音が短く返ってくる。何もない空間なのに、足音だけが妙に自分のものだと分かる。  話すべきことは、ここへ来るまでに何度も頭の中で整理していた。  それでも、席に着く直前、足がわずかに鈍った。言葉は用意できている。感情の方が、まだ用意できていない。  灯が椅子を引いてくれた。  カレンは礼を言って席に着き、ウッコモンを隣に下ろした。小さな体が座り直すのを待ってから、向かいのHALへ視線を戻した。  灯も、八千代の隣へ腰を下ろした。――この並び自体が、もう「仲間」なのだと、カレンは思った。 「イグドラシルの端末7E8――MEIのことで、お話があります」  口にした名前が、静かな空間によく響いた。反響ではない。名前そのものが、空気の温度を一段下げたような気がした。 「私と一緒に旅をした、大切な友人です。あの子は、クリスマスに殺されました」  膝の上で、両手を重ねる。指が指に触れる感触だけが、やけにはっきりしている。 「MEIを殺したのは、陵介ではありませんでした。そして、あの子を殺した何者かは、イグドラシルを狙っている。私はそう考えています」  HALの視線が、カレンを捉えた。驚きは見せない。だが、視線の奥で何かが素早く組み替えられたのが分かった。 「MEIの持つ、アクセス権ですね」 「はい。それを手に入れるために、あの子を殺したのだとしたら。相手は、その権限を使って中枢への侵入を試みるはずです」  HALは頷いた。カレンが続けるより先に、その推測の行き着くところを口にする。 「イグドラシルを掌握されれば、デジタルワールド全体が相手の手に渡りかねません」 「ええ。だから、ここへ来ました。MEIの権限が使われた形跡がないか、確かめていただきたいんです。それから、これから起こるかもしれない侵入にも、備えてほしい」  HALは、静かにカレンの話を受け止めていた。  同じイグドラシルに連なる者であり、その半身でもある。端末の権限がどれほどの意味を持つか、カレンが説く必要のない相手だった。だからこそ、説明の言葉を省けた分だけ、胸の奥の痛みが前に出てくる。 「アンコの件では、私自身が暴走させられました」  HALが言った。声の調子は変わらない。だが、その一文だけ、少しだけ重みが違った。 「中枢に繋がる力を、自分の意思で制御できなくなる。その危険は、身に染みています。あなたの推測を、放置することはできません」  膝の上で重ねていた指に、力が入っていることに気づいた。  カレンは少しずつ、その手を解いた。指の関節が、白くなっていた跡を残している。 「私の知っていることも、持っている記録も、お伝えします」 「調べましょう。7E8の権限で、新しく入れないようにします。すでに通過した相手を追い出せるわけではないので、警戒も強めます」 「……ありがとうございます」  カレンは、もう一度頭を下げた。 「MEIが殺された理由を、確かめたいんです。あの子の権限を、誰かを傷つけるために使わせたくありません」  隣から、小さな声がした。 「カレン」  ウッコモンが見上げている。その目は、まっすぐだ。慰めようとしているのでも、励まそうとしているのでもない。ただ、ここにいる、という顔だ。 「あたし、ここにいてもいい?」  カレンは目を瞬かせ、それから頷いた。 「もちろん。隣にいて」 「うん」  ウッコモンが、ほんの少し体を寄せた。袖の端が触れる、小さな重み。  HALは、そのやり取りを黙って見ていた。ウッコモンへ向けられた視線が、ほんの少しだけ長かった。何か言いかけたように見えたが、HALはやがて静かに卓へ視線を戻した。  その仕草に、肩の力が抜ける。ここへ来たからには自分がすべて説明しなければと、いつの間にか身構えていたらしい。――誰かに頼ることは、弱さではない。そう言ってくれたのは、ずっと昔の、別の誰かだった。  卓の中央に、細かな文字列が浮かび始めた。HALが記録を確かめる間、灯たちも静かに待っている。光の粒が、息をするように明滅する。  その中に見慣れた識別番号を見つけ、カレンは小さく息を吸った。 「……私の、親友です」  HALが顔を上げた。カレンは卓へ視線を落とす。  眠れなかった夜に、自分の名を呼んだ声が蘇る。  あの頃から、MEIの隣は、弱い自分のままでもいられる場所になっていった。  ――そして、回想は音もなく始まる。いや、始まったのではなく、カレンの意識が、ずっと前からそこに置き去りにされていただけなのかもしれない。 1  カレンは、膝の上で手を握っていた。指を開くと、あの日の感触まで戻ってきそうだった。握られた手の温かさと、布の冷たさと、砂のざらつき。記憶は、映像よりも先に、触感から蘇る。  ソルメラモンを殺めてから、何度も朝が来た。仲間たちが起き、食事をして、次にどうするかを話し合う。その輪に入らなければと思いながら、今日も崩れた石垣の前から動けずにいた。  焚き火の煙が、朝の冷たい空気の中で細く立ち上る。食器の触れ合う音、誰かの欠伸、薪のはぜる音。どれも日常のはずなのに、カレンの耳には少し遠く、膜越しに聞こえた。 「はい、カレンの分」  目の前に、食器が置かれる。湯気が、かすかに立ち上る。 「あたしが運んできたから、さっきより三割くらいおいしくなってるはず」  鳴だった。声の調子は、いつものように明るい。だが、食器を置く手つきは、ほんの少しだけ慎重だった。こぼさないように、音を立てないように。  少し離れたところで、陵介が鼻を鳴らす。 「運んだだけで味が変わる道理はないだろう」 「気分の問題。こんな可愛い子に持ってきてもらったんだよ?」 「僕の勘定には入らない」 「じゃあ、あんたのは運んであーげない」  陵介は足元の水差しを、鳴の方へ押しやった。爪先で、ほんの少しだけ。乱暴ではない。かといって、優しいとも言い切れない、彼らしい中途半端な気遣いだ。 「そっちも持っていけ。食器だけ置かれても困るだろう」  鳴は水差しも受け取り、カレンの隣へ置いた。 「ここに置くよ。ひっくり返さないでね」  返事ができなくても、鳴は顔を曇らせなかった。焚き火の方へ戻ると、今度は食器を抱えた仲間を手伝い始める。  その声に、誰かが少し笑った。笑い声は、石垣のこちら側までは届いて、そこでふっと途切れる。  石垣の向こうでは、低い声の相談が続いていた。 「やっぱり、俺たちだけじゃアルクトゥルスモンには勝てない」 「でも、今のカレンに戦えって言えないでしょう」 「じゃあ、どうするんだよ」  カレンは俯いた。  自分の名前が出るたび、肩が縮む。聞こえているのに、聞こえていないふりをする。そんな自分が、また嫌になる。  皆が困っている。自分が立たなければ、先へ進めない。  分かっていた。分かっているのに、足が動かない。それが、いちばん辛かった。  少し離れた木箱に腰掛けていた陵介も、その話を聞いていた。足元の小石を爪先で転がしながら、何も言わずに。  小石が、乾いた音を立てて転がる。止まる。もう一度、転がる。  やがて、その足が止まった。  陵介が木箱から下りる。相談している仲間たちには声もかけず、カレンの前まで歩いてきた。砂を踏む音が、一段ずつ近づく。 「今日は僕に説教しないのか」  カレンは、ゆっくり顔を上げた。 「……何?」 「僕のやることには、いちいち文句を言っていただろう。ずいぶん大人しくなったね」  見慣れた目つきだった。  出会った頃、カレンと陵介は、顔を合わせれば衝突していた。何を優先するか。何をしてよくて、何をしてはいけないか。仲間になってからも、彼がカレンの言うことに素直に頷くことは少なかった。  ――だからこそ、その挑発が「いつもの陵介」であることが、かえって痛かった。いつも通りなのに、自分だけがいつも通りでいられない。 「今は、放っておいて」  カレンは視線を落とした。靴先が、すぐ前まで来る。砂の上に、彼の影が落ちる。 「今なら、僕が勝てそうだ」  小さく笑う声がした。 「このまま僕の勝ちにしてもいいけど。君はそれでいいのか?」 「……やめて」 「くたばれ」  顔を上げた時には、もう拳が来ていた。  頬に衝撃が走った。音よりも先に、熱が来る。  視界が横へ跳ね、肩から地面へ落ちる。咄嗟についた手が砂を掻いた。口の中に土の味が広がり、遅れて、打たれたところが熱くなる。頬の内側で、自分の歯が唇に当たった感触まで残った。 「陵介!」  鳴の声がした。いつもの明るさが、そこで初めて鋭くなる。  駆け寄ってきた手が、カレンの肩を支える。その前へ、仲間の一人が割って入った。 「何やってるんだ、お前!」  陵介の右腕を掴み、カレンから引き離す。 「見れば分かるだろう。喧嘩だ」 「一方的に殴っておいて、何が喧嘩だ!」 「じゃあ暴行かも……」  掴まれた腕を、陵介が捻った。  仲間は両手で押し留める。 「女の子相手に、そんな――」 「僕は男女関係なく殴るぞ。お前達レイシストには負けない」  空いていた左の拳が、その腹に入った。  息の詰まる音がする。腕を掴んでいた手が緩んだ隙に、陵介は相手の肩を突き飛ばした。 「いい加減にしろ!」  もう一人が飛び込んできた。  陵介の襟元を掴み、押し戻す。陵介もその腕を掴んだ。引き合う二人の靴が、砂を削った。乾いた砂が、足元でざらざらと崩れる。 「止めるなら、そいつの方を止めろよ。先に掴んできた」 「お前が殴ったからだろうが!」  陵介の拳が、もう一度振るわれる。  仲間は顔を背けたが、頬を打たれ、体勢を崩した。踵が薪に引っかかり、背中から倒れる。  乾いた枝が散った。ぱちん、と軽い音が、何本も重なる。 「……やめてよ」  カレンは立っていた。  鳴の手から離れ、倒れた仲間と陵介の間へ入る。足が、ようやく自分の意思で動いた。怒りなのか、恐怖なのか、もう区別がつかない。  陵介が振り向いた。  その口元が、わずかに上がった。 「ようやく、やる気になったか」 「もう、やめて」 「僕にそう言わせてみればいい」  また拳が来る。  カレンは顔を傾けた。耳のそばを拳が抜け、頬に風が触れる。風圧だけで、髪がわずかに揺れた。足が勝手に動き、相手の正面から半歩ずれた。――身体が、戦い方をまだ覚えている。心が追いついていなくても、身体だけは覚えている。そのことが、少し怖かった。  続く一撃を左腕で押し流し、その手首を掴む。  陵介はすぐに肘を畳んだ。引き込まれる前に踏みとどまり、空いた手でカレンの服を掴む。  布が張った。縫い目が、ぎりぎりと音を立てそうなほど引っ張られる。  足元へ、彼の靴が入り込む。  カレンは踏まれかけた足を引き、陵介の腕を押し返した。彼の体が傾く。そこで離してくれればよかった。  陵介は歯を食いしばり、もう一度踏み込んできた。 「まだ――」  カレンは掴んでいた手首を引いた。  前へ流れたその頬へ、右の拳を打ち込む。  硬い感触が、手に返った。骨と骨がぶつかる、鈍い手応え。  陵介は横向きに倒れ、地面を転がった。散らばった薪の手前で止まる。砂埃が、ゆっくりと舞い上がる。  カレンは、まだ拳を握っていた。拳の皮が、熱を持っている。 「カレン。そこまで」  鳴の声に、足が止まる。  息が上がっていた。頬も、腕も痛い。殴った方の手も、同じくらい痛い。  陵介が片肘をついて起き上がる。 「今のは、足場が――」 「悪かったね。ほら、立てる?」  鳴が言う。声はもう、いつもの調子に戻っている。だが、目だけは笑っていない。 「まだ終わってない」 「終わり。あんた、足がふらついてるよ」  陵介は立とうとして、膝をついた。  仲間たちが両側からその腕を掴む。 「放せ。今度は――」 「次は今度ね。今日はもうおしまい」  鳴はきっぱり言った。  陵介が睨むと、鳴もその顔を覗き込んだ。 「あたし、怒ってるよ」 「見れば分かる」 「じゃあ、分かるうちに座ってて」  仲間たちが陵介を連れていく。  鳴は水を取りに行く者に声をかけ、倒れた仲間の様子を確かめた。いつもの調子で手を動かし、口を動かす。その間にも何度か、カレンの顔を見た。――見ては、すぐに視線を戻す。気遣いを、気遣いだと気づかせないための、さりげなさだ。  カレンは、自分の拳を見下ろしていた。  皆のためには立てなかったのに、怒れば、こんなことはできる。  力を抜こうとすると、指が震えた。  カレンは、また石垣の前へ座り込んだ。石の冷たさが、背中にじんわりと伝わる。 「はい、ちょっと詰めて」  鳴が、隣へ腰を下ろした。  肩が触れるほど近い。服越しに、ほんのり温かい。 「……狭い」 「うん。二人で座ってるからね」  当然のように言い、濡らした布を広げる。 「こっち向いて。頬、見せて」 「平気」 「腫れてるよ。あたしの目をごまかそうとしても駄目」  カレンの顔を覗き込み、そっと布を当てた。  冷たさに肩が跳ねると、鳴の手が一度止まる。 「痛い?」 「……冷たいだけ」 「そっか」  今度は、少しゆっくり押し当てられた。布の冷たさが、頬の熱を少しずつ吸い取っていく。  石垣の向こうで、陵介が何か言っている。声は遠く、言葉までは聞き取れない。 「あっちにも、同じの渡してきたよ。皆、ちゃんと冷やしてくれるといいけど」 「……鳴は、怒ってないの」 「怒ってるよ。さっき言ったでしょ」 「でも、陵介にも……」 「怪我してるんだもん」  鳴は布を裏返した。 「明日も怒るために、今日は冷やしてもらわないとね」  カレンは俯いた。 「私、殴れたね」  鳴の手が止まった。 「皆が困ってるの、ずっと分かってたのに。戦わなきゃいけないのも、分かってるのに」  膝の上で、手を裏返す。殴った手の甲に、赤みが残っている。 「どうして、こんなことだけできるんだろう」 「皆が殴られて、怒ったんでしょ」 「でも……」 「あたしも怒ったよ。陵介ったら、あっちもこっちも殴るんだから」  鳴は一度口を尖らせ、それからカレンの顔を覗いた。 「それで。今は、何がいちばん嫌?」  カレンは唇を噛んだ。  すぐには言葉にならない。言葉にしようとすると、喉の奥で何かが引っかかる。  鳴は、隣を離れなかった。カレンが顔を背けても、布を持ち替え、髪に付いていた砂を指で払った。指先の動きは、とても静かだ。 「……戦うのが、怖い」  ようやく言った。 「また、私が殺さなきゃいけなくなったらって。あの時のことが、何度も……」 「うん」 「ソルメラモンを殺したのは私なのに。私がこんなこと言ってたら、駄目なのに」  声が揺れた。 「皆だって困ってる。分かってるの。でも、もう嫌なの。私、あんなこと、したくなかった」  布が、頬から離れた。  鳴は何も言わず、それを自分の膝へ置いた。  代わりに、カレンの手を取る。――その手は、思ったよりずっと温かかった。 「……鳴も、私が戦わないと困るでしょ」 「困るよ。皆で帰りたいもん」  カレンの指が縮こまる。 「カレンも一緒にね」  鳴が、その手を握った。指が、ゆっくりと絡む。 「だから、怖いなら、あたしにも言って。どうしたらいいか、皆にも考えさせてよ」 「考えても、どうにもならなかったら?」  鳴は少し黙った。  そのままカレンの肩へ、自分の肩をくっつける。骨と骨が、こつんと当たる。 「そしたら、また考える。あたしだって、そんなことになってほしくない」 「……私、一人でできなきゃ」 「なんで?」  あまりにすぐ返されて、カレンは顔を上げた。  鳴がこちらを見ている。目を逸らさない。 「誰が決めたの?」 「だって、私が……」 「カレンが強いのは知ってる。さっきも見た。でも、あたしまで仲間外れにしなくていいでしょ」  握られた手が、軽く揺すられた。 「あたしにも、カレンのこと心配させてよ」  カレンは息を詰めた。  鳴の顔が滲む。視界が、水で歪む。 「こんな私でも……?」 「『こんな』って、あたしの大事な友達に、ずいぶんな言い方」 「私のことだよ」 「知ってる」  鳴は、少し得意そうに顎を上げた。 「あたし、見る目には自信があるの。毎日こんなに可愛い顔を見てるんだもん」  カレンは瞬いた。 「……自分の?」 「そう。他に誰がいるの」  あまりに堂々と言われて、息が漏れた。  笑ったのか、泣き損ねたのか、自分でも分からなかった。胸の奥で、固まっていたものが、ほんの少しだけ緩む音がした気がした。  鳴がにっこりする。 「だから、あたしの選んだ友達のこと、勝手に駄目って決めないで」  涙が落ちた。  拭こうとした手は、まだ握られている。 「鳴……」 「うん」 「私、あの子を……」 「うん」  続きは、もう言葉にならなかった。  鳴が腕を伸ばした。カレンの頭をそっと自分の方へ寄せ、背中を撫でる。手のひらが、背骨の線をゆっくり往復する。 「泣いていいよ。今日はあたしがいるから」  カレンは、その肩に顔を伏せた。服の匂いがする。焚き火と、少しの汗と、鳴自身の匂い。 「ただし、あたしの服で鼻をかむのは禁止ね」 「そんなこと、しない……」 「ほんとに? 今、ちょっと怪しかったよ」  答えようとして、また声が詰まった。  鳴はそれ以上からかわず、背中を撫で続けた。  同じことを何度話しても、途中で何も言えなくなっても、鳴はそこにいた。相槌を打ち、時には自分まで腹を立て、カレンが顔を上げると、その目をまっすぐ見た。  焚き火が小さくなる頃、カレンはようやく息を整えた。頬の腫れは、まだ少し熱い。だが、胸の詰まりは、さっきよりは薄くなっている。 「……明日、皆と話す」  鳴が頷く。 「アルクトゥルスモンのこと。どうやって戦うか、私も考えたい」 「うん。あたしも行く」 「そばに、いてくれる?」  鳴は、握っていた手を持ち上げてみせた。 「もういるでしょ」  カレンはその手を握り返した。――この感触だけは、後になっても、指を開けば戻ってきそうな気がした。  ある晩、二人で見張りをしていた時のことだ。  夜気は冷たく、焚き火の残り火が、ときどきぱちりと音を立てる。星は、都会では見られないほど近く、多く、冷たく光っていた。 「旅が終わったら、カレンの予定、ひとつもらうね」  鳴が言った。  カレンは隣を見る。 「何をするの?」 「まだ決めてない」 「決めてから言ってよ」 「あたしと一緒なんだから、きっと楽しいよ」  そう言って、当然のように笑う。  カレンも、つられて笑った。 「私の予定が空いてるかどうかは?」 「空けてよ。あたしも空けるから」 「強引ね」 「うん。知ってる」  鳴は悪びれなかった。少しして、カレンは夜空へ目を戻した。星の光が、目の奥で瞬く。 「じゃあ、私の分も、ひとつ空けておいて」 「何するの?」 「まだ決めてない」 「あ、真似した」  肩を小突かれる。カレンは笑いながら、その肩を押し返した。  旅が終わった後の、何もない一日。  そこへ鳴を誘うことを、自然に思い浮かべられた。――その「自然さ」こそが、あの頃の二人の、すべてだったのかもしれない。 「カレン?」  小さな声に、顔を上げた。  目の前には白い卓があり、HALが記録を確かめている。隣ではウッコモンが、こちらを見上げていた。白い光が、現実の輪郭を急に取り戻す。 「……ごめんなさい。少し、考え事をしていたの」  カレンは微笑んだ。微笑みの裏で、胸がまだ少しだけ痛む。  ウッコモンはその顔をじっと見てから、体を寄せる。 「あたしにも、カレンのこと手伝わせてよ」 「十分、手伝ってもらってるわ」 「でも、カレンのお願い、まだ叶えてないもん」  その声には、小さな体に似合わない自信があった。根拠のない自信ではない。やると決めた者の、まっすぐな自信だ。 「MEIの力を、誰かを傷つけるために使わせたくないんでしょ。世界を守りたいんだよね」  カレンは頷いた。 「ええ」  卓の上で、照合中の記録が切り替わった。カレンが預けた資料には、かつての旅で蓄積された戦闘データも含まれていた。  その一つに、見覚えのある炎が映る。赤い。熱い。目を逸らしたくなるほど、よく覚えている炎だ。 「……ソルメラモン」  ウッコモンが、卓の上へ顔を向けた。  しばらく、その記録を見つめている。炎の粒が、光の中でゆっくりと渦を巻く。 「ねえ。その力、カレンが使えないかな」  カレンの指が止まった。卓の縁に置いた指が、わずかに震える。  ウッコモンはHALを振り返る。HALは、データへ伸ばされたその小さな手を一瞬だけ見つめた。初めて触れる者の仕草ではないように見えたが、HALは何も言わず、少し考えてからカレンへ視線を移した。 「デジコードが残っているなら、力を組み直すことはできます。処理と安定化は、私が引き受けます」 「ソルメラモンの力を……」  カレンは自分の手を見下ろした。  あの時のことも、鳴が握ってくれた手のことも、ずっと自分の中に残っている。  その力で、これから守れるものがあるのなら。――殺めた力で、守る。言葉にすれば矛盾している。だが、カレンの手は、もうその矛盾から逃げようとはしなかった。 「剣に、できるかしら」  顔を上げて、尋ねた。 「私が使うなら、その形がいい」 「うん。やってみる」  ウッコモンは、はっきり答えた。 「カレンも、手伝ってね」 「ええ。お願い」  HALの操作に応じ、卓の上に新たな光が浮かび始めた。  ウッコモンが身を乗り出す。カレンは椅子を寄せ、その小さな体を支えた。 「近くで見たいの?」 「うん。カレンも見て。ほら、ここ」  指し示された光へ、カレンも顔を近づける。  隣から、弾むような声が続いていた。――まだ形にならない光なのに、なぜかもう、剣の気配がする。 2  思い出を形にする、と言われて想像するのは、たいていアルバムとか、手紙とか、そういうものだろう。  剣は、まず出てこない。  しかも剣にしてほしいと頼んだのは、カレン自身だった。  我ながら、と思う。  自分らしい、とも思う。  どちらにしたって、今さらだった。  目の前の光には、まだ刃と呼べる輪郭がなかった。赤い粒が集まり、細く伸び、ほどけては集まり直している。まるで、息をしている生き物のように。カレンの掌に汗が滲む。思い出しているだけで汗をかくのだから、よほどよく覚えているのだろう。忘れたいと思ったことまで、律儀に覚えている。  赤い光が、ひときわ強くなった。熱気ではない。だが、視線の奥が、ちりちりと焼けるような気がした。 「でも、今は息しててね」 「……え?」 「さっきから、止めてるから」  言われて初めて、カレンは息を吐いた。胸が、大きく上下する。ウッコモンはそれを確かめると、満足そうに頷く。  光の向こうで、HALが少し笑う。緊張をほぐすための、静かな笑みだ。  カレンが肩の力を抜きかけた時だった。  HALの表情が変わった。笑みが消えるのではなく、奥の方で別の何かが立ち上がるような、切り替え方だ。 「……外に、何かいます」  白い空間の一面に、外の景色が開く。  情報樹イグドラシルの枝が、幾重にも空を渡っていた。白い幹から枝へ、枝から葉へ、光が流れている。まるで、世界の血管だ。その下を、巨大な影が進んでいた。影が動くたび、地面の光がゆっくりと潰れていく。  最初に見えたのは、長い顎だった。  剥き出しの歯列。鯨を思わせる頭蓋。腐った皮膚をところどころに残した胴から、幾本もの肋骨が覗いている。  死んだものの形をしていた。  死んだものの歩き方は、していなかった。  白と黒の帯が、腹の下で絡まっている。  束になったそれが脚を作り、巨体を持ち上げていた。関節が曲がる場所も、地面を踏む場所も、一歩ごとに変わる。生き物を歩かせているというより、死骸を無理やり運んでいるようだった。歩くたび、地面がぐしゃりと沈み、帯が這う音が、遠くからでも想像できた。 「バシロモン……? でも、あの姿は――」  HALが言い終える前に、顎が開いた。  喉の奥で光が膨れる。光は、まず点になり、次に塊になり、そして――  次の瞬間、放射熱線が空を薙いだ。音は遅れて来る。光の筋が空気を裂く、鋭い音と、熱で空気が膨らむ重い音が、ほぼ同時に耳を打った。  情報樹の、低く張り出した枝。  その縁を、光が掠めた。  白い表面が赤く染まる。そこを流れていた文字が途切れ、枝の先が、葉をつけたまま落ちた。破片が入り混じって、火の粉のように散っていく。  掠めた、という言葉の軽さに、景色が追いついていなかった。枝が落ちる音は、意外なほど静かだった。――いや、静かなのではない。大きすぎるものが壊れる時、音はまず「遅れて」やってくるのだ。  床が跳ねた。  カレンはよろめいたウッコモンを抱き寄せる。小さな体が、腕の中で一度だけ震えた。作りかけの剣が大きく歪んだが、HALが手を伸ばすと、赤い粒はどうにか元の位置に留まった。粒が、ゆっくりと元の渦へ戻っていく。 「……こちらまでは届いていません。大丈夫です」  HALはもう片方の手を上げた。  外の景色に、防壁が重なっていく。光の膜が、何層にも重なる。 「でも、次は止めないと」  八千代が立った。椅子が、ほんの少しだけ音を立てる。  HALも、すぐにそちらを見る。言葉は要らない。視線のやり取りだけで、役割が決まる。 「お願いできる?」 「行ってくる」  短い返事だった。  HALの肩が、ほんの少しだけ下がった。――送り出す者の、ほんの少しの安堵と、ほんの少しの心配。 「気をつけてくださいね」 「うん」  灯も立ち上がり、肩の横でピコデビモンが羽ばたいた。黒い羽が、白い空間の中で一度だけ大きく広がる。 「お前は我を休ませる気がないのか」 「僕だって休みたいよ」  灯の手の中で、デジヴァイスが光った。  ピコデビモンの輪郭が膨れ上がり、黒い装甲が組み上がる。金属の噛み合う音、布が引き裂かれるような空気の音、そして静寂。灯の前に降り立ったタクティモンX抗体が、長い刀を手にした。  背後へ展開した砲群が、揃って巨体へ向く。砲口が、一斉に角度を変える音が、かすかに重なる。  その隣で、八千代がバーストチャージを発動した。  融合進化の光が身体を包み、ジエスモンX抗体の姿へ変わっていく。刃が白い床に光を落とし、周囲に浮かぶ刃も、進む方向を定めた。光が収まった後、そこに立っているのは、もう「八千代」だけではない。だが、視線の芯だけは、変わっていない。 「僕らが口を狙う。あっちを向かせるから、横をお願い」 「分かった」  外周へ続く通路が開く。白い壁が、音もなく割れる。  灯が一度、カレンを振り返った。その目は、少しだけ先生を見上げる、昔の少年の目に戻っていた。 「先生、こっちはお願いしてもいい?」 「ええ。任せて」  教室で頼まれたことより、ずいぶん大きな頼まれごとだ。  それでも、返事に迷いはなかった。――いや、迷いがなかったからこそ、カレンは少しだけ笑った。頼られることは、ここではもう、重荷ではなかった。 「ルーチェモン。HALとウッコモンの傍をお願い」 「まさかボクがイグドラシルを守るなんてね」  ルーチェモンが二人の前へ進む。歩き方は悠然としている。だが、その手の位置だけは、すぐにでも光を放てる場所にあった。  灯と八千代は、すでに通路へ走り込んでいた。足音が、遠ざかっていく。  間を置かず、外で砲火が閃いた。  タクティモンの砲群が、ゾンビバシロモンの顎へ集中する。骨を穿ち、残っていた皮膚を吹き飛ばした。肉片と骨片が、空中に散る。  巨体が頭を振る。その口が情報樹から離れた瞬間、八千代が側面へ踏み込んだ。  刃が、帯の脚を断つ。  黒と白の束が千切れ、巨体が傾く。――だが、倒れきる前に腹の下から新たな帯が伸びた。地面を掴み、沈みかけた胴を押し戻す。まるで、倒れることを「知らない」かのように。 『……脚が再生している』  灯の通信に、短い呼吸が混じった。  骨の背に、無数の光が灯る。背中の光は、ひとつひとつが小さな目玉のように見えた。  今度の熱線は、一本ではなかった。  八千代が跳び、砲群が散る。  別々の角度へ放たれた光を、砲火が追い、刃が遮る。その隙間を抜けた一本が、情報樹へ伸びてきた。  ルーチェモンが手を上げた。  外に開いた光の壁が、熱線を受け止める。光と光がぶつかり、火花のような粒が散る。足元へ、重い振動が伝わった。床が、低い音で唸る。 「こっちへ来る分は任せて。キミたちは、そちらに集中していいよ」 『助かる。八千代、右から!』  通信が砲声に紛れた。砲声の合間に、かろうじて名前だけが聞き取れる。  ウッコモンが、カレンの腕をそっと離れる。小さな手が、袖から離れる時の、ほんの少しの冷たさ。 「無理はしないで」 「カレンもね」  すぐに返されて、カレンは口を閉じた。  言いつけるのは簡単だ。言いつけられた途端、難しくなる。――どちらも、同じことを思っていたのだろう。 「……ええ」 「約束ね」  小さな手が、また赤い光に添えられる。  剣は、まだ出来上がっていない。光の粒が、まだ刃の形をためらっている。  カレンはその傍を離れた。  灯たちが出ていった通路は、もう閉じている。白い空間に残るのは、外から伝わる衝撃と、赤い光が揺れる音だけだった。――揺れる音、というのはおかしい。だが、光が揺れるたび、空気がほんの少しだけ震える気がしたのだ。  そこへ、別の光が差した。  奥の白い壁に、細い裂け目が走る。裂け目は、音もなく、まるで紙が裂けるように広がった。  HALが顔を上げた。 「7E8です」  カレンの視線が、裂け目へ向いた。背筋が、自然に伸びる。 「権限を止める前に、カーネルへ通じる道を通過していたようです。カレンさん、気をつけて」  白い床に、靴音が響いた。――ひとり分の、よく知っている歩き方だ。  ひとりの少女が歩いてくる。  知っている姿だった。  肩の揺れ方も、こちらを見つけて少し目を細める仕草も、カレンは知っていた。知っているからこそ、足が止まる。 「やぁ、愛しいカレン」  声まで、よく知っていた。声の調子、息の混じり方、語尾の跳ね方まで。  少女が笑う。  カレンはその顔を、真っ直ぐに見た。目を逸らしたら負けだ、と身体が言っている。――いや、目を逸らしたくなるほど、その顔は本物に近かった。 「鳴の顔で、何をしに来たの」  少女の足が止まった。靴音が、ぴたりと途切れる。 「……え?」 「聞こえているでしょう」 「聞こえてるけど。聞き間違いかなって」 「じゃあ、もう一度。何をしに来たの」  カレンは歩み寄った。  HALたちと少女の間に、立つ。自分の身体が、壁になる。――壁になることだけは、迷わなかった。  少女はカレンの顔を見た。  次に、自分の指を見た。  見比べるものを間違えているようにも見えたが、何と何を比べているのか、カレンには分からなかった。分からないことが、かえって不気味だった。 「ひどーい。久しぶりに会えたんだから、もう少し喜んでほしいんだけど」 「喜ぶ理由がないもの」 「あたしの顔、忘れちゃった?」 「覚えているわ。だから腹立たしいの」  少女の笑みが、僅かに止まる。止まった笑みが、ほんの一瞬だけ、本物の鳴のものではないことを曝け出す。――いや、曝け出したのではない。カレンが、そう「見た」のだ。見抜いた、というより、見抜くことを自分に許したのだ。  顔。  声。  カレンを呼ぶ、その調子。  どれも、本当に同じだった。  胸が痛むほど、同じだった。痛む、というのは比喩ではない。肋骨の内側が、実際にきしむような痛みだった。  少女の目が、開いたままの入り口へ向いた。  7E8の権限で通った道。  MEIが持っていた、ここへ来るための権限。 「HAL、久しぶり。……もしかしたら、直接会うのは初めてかしら? どう見ても正真正銘のMEIよ」 「カレンさんの警告通り、あなたはMEIの権限で入ってきた。イグドラシルの掌握を狙ってるんでしょう」 「もう。二人とも、怖い顔ばっかり」  少女は唇を尖らせた。  それから、困ったように肩をすくめる。 「あたしの可愛い顔を見てるんだから、もうちょっと優しくなれない?」  そんなことを、本当に言う子だった。  自分の可愛さを疑わず、相手の機嫌にも遠慮せず、勝手に隣へ座ってくる。  煙たがられても、次の日にはまた近くにいた。  そして、誰かが一人でいる時には、なおさら近くにいた。  目の前の少女は、その笑い方をした。  よくできている。  そう思ったことに、カレンは腹が立った。――「よくできている」と評価してしまった自分に、腹が立った。 「ねえ、カレン」  少女が声を和らげる。声の温度が、一段だけ下がる。 「約束、覚えてる?」  外から衝撃が届いた。  床が微かに鳴る。カレンの目は、相手から離れなかった。瞬きすら、惜しい。 「旅が終わったら、カレンの予定、ひとつもらうねって」  覚えていた。  忘れたことなんて、一度もなかった。忘れようとしたことすら、なかった。 「結局、何をするか決めてなかったでしょ。あたし、今からでもいいよ」  少女が少し身を乗り出す。 「カレンの予定、空いてる?」 「その約束は、覚えているわ」 「よかった。じゃあ――」 「あなたとした約束じゃない」  言葉の続きを、カレンが切った。断ち切った、という方が近い。刃物のように、すっぱりと。  少女は口を開けたまま、止まった。  何かを考え直すように、唇を閉じる。――その「考え直す」仕草自体が、偽物の証拠だった。本物の鳴なら、考え直す前に、もう次の言葉を口にしていただろう。  少女の指が、少し動いた。  言葉。  笑い方。  カレンしか知らなかったはずの、何でもない約束。  盗まれたものがどれだけあるのか、まだ分からない。分からないまま、盗まれたものの重さだけが増していく。 「……昔のカレンは、そんな言い方しなかったよ」 「昔の私を知っているふりをしても、無駄よ」 「……カレンって、頑固だなあ」  少女が髪を払う。  声は、まだ鳴のままだった。声だけが、まだ。  カレンは、相手の肩と足元を見た。  表情より、先に動く場所を。――剣士の癖だ。顔を見れば、感情に引きずられる。肩と足を見れば、次の一手が読める。  少女の視線が、カレンの向こうへ流れる。  HALへ。  その隣で、光に両手を添えているウッコモンへ。少女は、小さく息を吐いた。 「本当に、ちょっとも通してくれないんだ」 「分かってもらえてよかった」 「あたしは、ちっともよくないんだけどな」  笑みが浮かぶ。  鳴の顔で。  鳴の声で。 「やっぱり、どの世界でも最後に頼れるのは力ってことね」  青白い火花が、少女の足元を跳ねた。床に、小さな焦げ跡が残る。 「ハイパースピリットエボリューション」  カレンは半歩、位置を変えた。  HALへ向かう線の上に、自分を置く。半歩の移動が、守る範囲を決める。  電光が走る。  肩へ、腕へ、胸へ、重い装甲が次々と組み上がった。砲身が伸び、武装が重なり、その表面を細かな火花が伝っていく。  床の破片が浮いた。  見えない力に引かれ、装甲の周りを震えながら巡った。破片は、磁力の流れに沿って、ゆっくりと円を描く。  マグナグルルモン。  並んだ砲口が、カレンへ向いた。  その向こうから、変わらない声が届く。 『そこに立ってると可愛い顔が傷付いちゃうわよ、カレン』  カレンは静かに息を吸った。息を吸う音だけが、白い空間に響く。 「私の前にその姿で現れたことを後悔させてあげる」 3 「ハイパースピリットエボリューション」  白い光がカレンを包み、氷の装甲が組み上がった。  ユキカイゼルグレイモン。  装甲の表面を、冷気が薄く流れる。息が、白くならない。ここは、もともと冷たい場所だからだ。  全力を保てるのは三分。それを過ぎれば、凍結の力も落ちていく。  ――三分。短い、と感じるか、長い、と感じるか。それは、戦っている者の立場で変わる。カレンにとっての三分は、剣を振るための時間だ。敵にとっての三分は、耐えるための時間だ。同じ三分が、まったく別の重さを持つ。  カレンは龍魂剣で、撃ち込まれた光を斜めに受け流した。砲撃が頭上を抜ける頃には、もう踏み込んでいた。光の筋が、視界の端を掠める。熱気が、頬を一瞬だけ撫でる。  マグナグルルモンがスナイパーファントムを引く。  銃口がこちらへ戻るより早く、カレンは剣を横へ払った。剣先が空気を切る音は、ない。あるのは、凍結が広がる、微かなきしみ音だけだ。  離れた砲身に霜が走った。白い氷が根元へ達し、溜まりかけていた光が消える。光が消える瞬間、砲身の内部で何かがぷつりと途切れる音がした気がした。敵がもう一方の腕を向けると、今度はその足元が凍りついた。床の白さと、氷の白さが、見分けがつかなくなる。 「ちょっと――」  ストライクファントムが火を噴く。  カレンは銃口の内側へ潜り、柄で相手の手首を押し上げた。連射が頭上を通る。熱い風が、髪を揺らす。その腕を盾にする位置へ身体を入れ、胸へ蹴りを叩き込んだ。蹴りの衝撃が、装甲越しに足裏へ返ってくる。  敵の踵が床を削る。白い床に、薄い傷が残る。  左へ逃れようとしたところを、氷柱が塞いだ。氷柱は、床から音もなく生え、敵の退路を斜めに断つ。  カレンは右から斬り込んだ。咄嗟に差し出された肩の装甲を龍魂剣が割り、その下へ冷気が流れ込む。凍結が首元へ広がる寸前、装甲が弾け飛んだ。破片が、床に散らばる。  キャストオフ。  スナイパーファントムと凍った肩の装甲を置き去りに、残る武装も身体から離れる。重さが抜ける音が、する。細身になった本体の両腕へ、二本の光刃が伸びた。  マグナブレード。右の刃が龍魂剣を受け、左がカレンの脇へ走る。光刃の音は、金属音ではない。空気が焼ける、鋭い音だ。  カレンは剣を立て直し、左の刃を外へ流した。同時に敵の足元を凍らせる。踏ん張りを失ったところへ剣を返すと、相手は磁力で身体を引いた。身体が、見えない糸に引かれたように後ろへ滑る。  カレンはその進路へ先回りした。――先回り、というのは簡単な言葉だが、実際には相手の速度と自分の速度と、床の摩擦まで計算した上での、半歩の賭けだ。 「――っ!」  龍魂剣が脇を裂く。マグナグルルモンは両刃を交差させて追撃を受け、床へ片膝をついた。膝が床を打つ音が、鈍く響く。  カレンが剣を振り下ろすと、そこから離れた敵の周囲にも凍結が広がった。腕に、脚に、白い霜が浮く。  放電。  装甲の表面が赤熱し、凍結が進む前に蒸気を噴き上げる。蒸気が、視界を一瞬だけ白く濁らせる。  カレンは斬り込んだ。右の光刃を押し下げ、左が回る前に剣を返す。敵は二刀で受けたが、足元へ広がる凍結に押され、身体を反らして刃を逃れた。  これで終わらせる。  踏み込んだ瞬間、背後で砲声が響いた。砲声は、背中の方から来た。――背中、というのは、守るべき者たちがいる方向だ。  残されたストライクファントムが、HALたちへ銃口を向けている。浮遊する砲口が、ゆっくりと角度を変える。  カレンは剣を返した。射線に生じた氷壁が連射を受け止める。氷壁に、ひびが入る音がする。その間に、マグナグルルモンが壁の向こうへ逃れた。氷の向こうで、敵の影が小さくなる。 「……本当に、容赦ないなあ」  親友の声に、乱れた呼吸が混じっていた。声の調子は、まだ鳴のものだ。だが、呼吸の乱れ方だけは、戦っている者のものになっている。  カレンは龍魂剣を構え直す。凍った武装は二つ。まだ使える砲は、敵の周囲に浮いている。  三分以内に仕留める。  そのための距離を、もう一度詰めなければならなかった。――距離を詰める、というのは、ただ走ればいいという話ではない。砲の射線を読み、磁力の流れを読み、二刀の間合いを読み、そのすべてをかいくぐって、ようやく届く距離だ。      *  外では、ゾンビバシロモンの顎を砲火が跳ね上げていた。――こちらは、こちらで別の時間軸が流れている。カレンの三分と、外の戦いの時間は、同じ時計では計れない。 「八千代、今だ!」  タクティモンX抗体の声に、八千代が走る。ジエスモンX抗体の刃が帯の脚を断ち、傾いた首へタクティモンが蛇鉄封神丸を振るった。刀が、骨を断つ音がする。骨の音は、木の音に似ている。だが、ずっと重い。  頭蓋が地面へ落ちた。地面が、鈍く震える。  巨体が数歩進んで崩れ、背に並んでいた光も消える。光が消える順番は、ばらばらだ。まるで、息が途切れるように。  少し離れて見ていた灯は、ようやく息を吐いた。握りしめていたデジヴァイスが汗で滑る。汗で滑る、というのは、つまり手のひらがずっと力を入れ続けていたということだ。 「……倒した?」  八千代が頷きかけ、動きを止めた。頷きかけた首が、途中で止まる。その「止まり方」だけで、事態が分かった。  落ちた頭の下から、細い帯が這い出していた。胴の切断面でも同じものが蠢き、伸びた先同士が絡み合う。帯と帯が絡む音は、ない。だが、見ているだけで、ぞわりとしたものが背筋を這う。  頭蓋が引き戻され、首の隙間が埋まっていった。骨と骨が、音もなく繋がる。 「相棒」 「見えておる」  タクティモンが刀を構え直す。  ゾンビバシロモンは脚を立て、再び口を開いた。口の奥で、光がもう一度膨らむ。      *  ストライクファントムの連射を、カレンは氷で塞いだ。そのまま凍結を砲へ及ぼそうとすると、武装は本体から離れる方向へ飛ぶ。磁力の糸に引かれて、砲が滑るように逃げる。  剣先を返して本体を狙う。  敵の表面に霜が浮いた途端、電光と熱がそれを押し返した。霜が、蒸気になって消える。消えるたび、カレンの呼吸がひとつ分だけ重くなる。  カレンは間合いを詰めた。  凍結を防ぐために出力を使っている今なら、斬れる。――出力を使っている、ということは、つまり敵の注意が防御に割かれているということだ。そこが、隙だ。  龍魂剣が、浮遊する背部装甲に阻まれた。装甲が、盾のように割り込む。  斬り割った向こうで、敵が距離を取る。  逃げる速さだけではなかった。武装を盾にし、射線を散らし、こちらが凍結へ力を注ぐたびに攻撃を重ねてくる。  カレンが踏み込む機会を、一つずつ潰していた。機会が潰れるたび、床の氷がひとつ分だけ薄くなるような気がした。 「カレンさん、こちらは大丈夫です」  HALの前には、ルーチェモンの光壁が広がっていた。外から届く熱線も受けながら、空いた手をカレンたちへ向けている。光壁は、二重にも三重にも重なっている。 「こっちは気にしなくて良い。キミに心配されるほどボクは落ちぶれてない」  カレンは短く頷き、剣を振った。  敵の左右に氷柱が立つ。上へ逃げたところを追い、刃を突き出す。  マグナグルルモンは右のマグナブレードで突きを逸らし、左をカレンの腕へ振った。  カレンは身を捻り、龍魂剣の鍔元で左刃を受ける。踏み込もうとした敵の膝を凍らせ、剣を押し返した。  空いた下段へ龍魂剣が入り、腿の装甲を削った。  凍結が傷口へ広がる前に、相手は自ら装甲を剥がして投げつけた。装甲が、空中で回転しながら飛んでくる。 「急いでるね」  カレンは飛来した一枚を斬り落とした。斬り落とした装甲が、床で跳ねる。 「付き合う気があるなら、逃げるのをやめなさい」 「嫌ー」  敵は短い斬り合いを仕掛けては離れた。右で受け、左で牽制し、カレンが押し切ろうとすると浮遊砲の射線へ誘う。  カレンは二刀の間へ龍魂剣を通し、傷を増やしていた。それでも、凍結を防ぐ加熱と磁力による退避を使い分ける相手を、仕留めきれずにいた。傷は増えている。だが、決定的な傷には、まだ届いていない。  カレンは呼吸を整えた。  二分近くを使っている。――三分のうち、二分。残りは、一分を切っている。数字にすれば、たったそれだけだ。だが、剣を振る者の身体にとって、一分は長いようで、短い。 「あと、どれくらい?」  装甲の間から声がした。 「三分って、あっという間だよね」  カレンは剣を握り直した。  維持限界を、知られている。知られている、ということは、敵が時間を見ながら戦っているということだ。こちらの焦りを、敵は計算に入れている。 「心配しないで。終わらせるわ」 「うん。あたしも、そのつもり」  銃口がHALたちへ動く。  カレンはその前に氷を置き、踏み出しかけた足を戻した。――守るために、攻める足を止める。その繰り返しが、じわじわと時間を食っていく。  敵を止める別の一手は、まだある。  だが、今は止めた一瞬を、二刀と浮遊する砲への対処で使い切ってしまう。見せるなら、一度で仕留められる時だ。――温存する、というのは、使わないことではない。使う瞬間を、研ぎ澄ませることだ。      *  二度目は、八千代が胴を割った。  タクティモンの砲群が頭を押さえ、その隙に背へ飛び移る。刃を深く差し込み、長い胴を切り開いた。刃が肉を裂く音は、重く、湿っている。  露出した黒と白の束へ砲撃が集中する。内側から爆ぜた巨体が崩れ、頭も背の砲撃器官も動かなくなった。  灯は近づかず、散らばった破片を見ていた。破片は、まだ温かい。熱線の余熱が、地面から立ち上っている。  数秒もしないうちに、帯が這い出した。  骨を掴み、皮膚を引き寄せる。砕けたはずの頭蓋が持ち上がり、その口に光が灯った。光が灯る順番が、早くなっているような気がした。気のせいかもしれない。だが、気のせいだと言い切るには、少しだけ早すぎる。 「撃たせるな!」  タクティモンの砲火を追って、八千代も飛び込む。  再生途中の胴へ刃が入り、頭の内側で熱線が爆ぜた。爆発の光が、視界を白く染める。  灯は腕で顔を庇った。土煙が押し寄せ、骨片が足元へ突き刺さる。骨片が地面に刺さる音が、ぱちぱちと続く。  戻ってきた八千代の装甲には、焦げ跡が増えていた。焦げ跡は、戦いの回数を数える刻み目のように見えた。 「……三回だよね」 「数え違いであってほしいがな」  タクティモンは刀を下ろさなかった。  煙の奥で、また白い帯が立ち上がる。帯が立ち上がるたび、地面の破片が少しずつ寄り集まっていく。 「ちゃんと倒したのに」  八千代の声に、灯は頷いた。  首を断ち、胴を砕き、再生の途中でも潰した。その都度、確かに動きは止まっている。止まっているのに、止まらない。――その矛盾が、この敵の正体だ。 「普通に倒すだけじゃ、終わらないんだ」  灯は巨体から、その足元へ視線を移した。足元には、帯が這った跡が、何本も残っている。 「何か別にある。倒し方か、その前にしなきゃいけないことか」 「ならば、確かめるぞ。我らの方が先に力尽きては笑えん」  タクティモンの砲群が散った。  八千代も構えを変え、立ち上がる巨体の側面へ回る。  灯は、破片が戻っていくところを見据えた。――破片が戻る速度と、帯が伸びる方向。そのふたつを、灯は目で追い続けた。      *  龍魂剣が、ストライクファントムの射線を断った。  カレンは剣を振り切り、敵の全身へ凍結を及ぼした。細い腕に霜が広がり、膝の動きが鈍る。  赤熱した装甲から蒸気が噴く。冷気と放電がぶつかる中へ、カレンは踏み込んだ。  剣を引く暇はなかった。  柄で腕を払い、そのまま肩口へ刃を落とす。  背後から、武装が迫った。  プットオン。  呼び戻されたストライクファントムがカレンの脇を抜け、同時に胸部装甲が正面へ割り込む。――呼び戻されたのは、まだ使えるものだけだ。凍りついたものも、割られたものも、その場に残っている。そこが、この戦いの「管理」の厳しさだ。  カレンは剣の角度を変えた。装甲を斬り裂き、続けて砲を凍らせる。  白く染まった銃身が、床へ落ちた。落ちた銃身は、もう浮かび上がらない。  戻ったのは、残る装甲と肩の火器だけだった。凍りついたスナイパーファントムも、割られた装甲も、その場に残っている。  敵は確実に削れていた。  だが、カレンの息も上がっていた。息が上がるたび、凍結の広がりが、ほんの少しだけ遅くなる。  少女の声が笑う。笑い声の奥で、呼吸が少しだけ整っている。 「でも、もうすぐでしょ?」  敵は戻した装甲を再び散らし、マグナブレードを展開した。  カレンは答えず、龍魂剣を振った。  敵の脚を凍らせる。動きが止まったところへ踏み込み、胴を薙ぐ。  その直前、脚が動いた。  凍結が、弱い。――弱い、というのは、凍らないということではない。凍るのが、遅いのだ。遅い分だけ、敵は動ける。  敵が身を捻る。龍魂剣は胸を逸れ、右の光刃に絡め取られた。  左が、下から来る。カレンは腕を引こうとしたが、間に合わなかった。  光刃が脇腹の装甲を裂いた。装甲が裂ける音が、鋭く響く。痛みは、遅れて来る。  カレンは数歩退き、剣を立てる。背後に浮く火器の砲口が光った。  氷壁が生まれる。しかし、先ほどまでの厚みがない。氷壁は、薄く、透き通っている。  砲撃が壁を穿ち、カレンを打った。  白い床を身体が滑る。床の冷たさが、背中に伝わる。龍魂剣を突き立てて止まり、片膝をついた。膝が床を打つ音が、身体の内側まで響く。  三分を過ぎていた。  進化は解けていない。剣も握れる。  ただ、凍結が追いつかなくなっていた。敵を止めるまでにかかる僅かな時間が、そのまま反撃の隙になる。――僅かな時間、というのは、ほんのコンマ数秒の話だ。だが、剣戟において、コンマ数秒は生死を分ける。  マグナグルルモンが歩いてきた。  両腕の光刃を構え、それまでより深く踏み込んでくる。足音が、一段ずつ近づく。  カレンは立ち上がった。息を整える余裕はなかった。息を整える余裕がないまま、剣を構える。 「やっと、こっちを向いてくれたわね」 「うん。待たせちゃったね」  マグナグルルモンが、右の光刃を振るった。  カレンがそれを弾くと、左が追ってきた。  カレンは龍魂剣を引き戻して受けた。敵の足元へ走らせた凍結は、踏み越えられて砕ける。氷が砕ける音が、細かく散る。  二刀が間を置かずに振り下ろされた。 「少し、休んだら? その剣、重いんでしょう」  カレンは剣を下ろさなかった。  敵の武装も減っている。装甲には亀裂があり、斬った脇を庇って動いている。  まだ、倒せる。  けれど、それまでの攻め方は通らない。――通らない攻め方を繰り返すことは、ただの消耗だ。カレンは、攻め方を変えるのではなく、攻める「瞬間」を変えることを選んだ。  背後で赤い光が揺れた。  ウッコモンとHALは、まだ作業を続けている。光の粒が、ようやく刃の形に近づいている。  カレンは足を引き、二本の刃を視界へ収めた。視界の端から端まで、二本の光刃と、浮遊する火器と、敵の足元。そのすべてを、一度に見る。 4  ゾンビバシロモンの顎が、再び持ち上がった。持ち上がるたび、地面が少しずつ削れていく。  タクティモンX抗体の砲群が、その喉へ集中する。熱線が逸れ、空へ抜けた。その間に八千代が首へ刃を走らせた。刃が骨を断つ音と、砲撃の音が、交互に響く。  頭蓋が地面へ落ちる。すぐに、切断面から黒と白の帯が伸びた。帯は、まるで生き物のように、切断面を探っている。 「八千代、頭を胴から離しておけ」  繋がりかけた帯を、ジエスモンX抗体の刃が断つ。断たれた帯が、地面でしばらく蠢いてから、力を失う。  タクティモンが側面へ回ると、落ちた頭蓋がそちらへ向いた。残った帯を脚のように使い、顎を持ち上げる。頭蓋が動くたび、歯列ががちりと鳴る。  歯列の奥に、光が灯った。  灯は離れた足場から身を乗り出した。足場の縁に、指がかかる。  頭と胴の間には、まだ八千代がいる。――八千代の位置が、ちょうど頭と胴の間にある。そのことが、灯の喉を詰まらせる。 「繋がってないのに、撃てるの?」  タクティモンの砲撃が口へ叩き込まれた。  光が爆ぜ、頭蓋が砕ける。砕けた骨片が、雨のように散る。八千代の背後では、組み上がりかけた胴が脚を伸ばしていた。  彼がかわすと、帯はその着地点へ向き直る。まだ肋骨も揃わない身体を引きずり、追っていく。――追う、という動きに、ためらいがない。まるで、身体が壊れていることを、知らないかのように。 「身体が戻るのを、待ってもいない……」 「先ほどもそうであった。胴が崩れておるうちに、口には光が灯った」  タクティモンは、頭蓋の破片へ砲口を向けたまま言った。砲口の角度は、少しもぶれていない。 「首を落とし、胴を砕き、再生の途中も潰した。それでも、戻りかけるたびに我らを狙う」 「もっと細かく砕いても、同じかな」 「それを試す間に、情報樹を焼かれては敵わぬ」  タクティモンが刀を構え直した。刀の角度が、わずかに変わる。それだけで、次の一手が決まったことが分かった。 「八千代。お前の剣なら、あれの闘争本能を断てるか」  八千代が、迫る帯を斬り払った。斬り払った帯が、地面で跳ねる。 「究極戦刃聖覇剣なら、できる」  灯が、離れた足場から声を上げた。 「――身体じゃなくて、戦う気そのものを断つんだね」 「そうだ。衝動が断てれば、戻る身体もただの残骸だ」 「分かった。道を作って」  砲群が散り、巨体の正面へ射線を集めた。砲火が、帯の動きをひとつずつ潰していく。 「灯、下がって見届けよ」  灯は頷き、デジヴァイスを握り直した。握り直した手が、少しだけ震えている。震えているのは、怖いからではない。見届ける者の、責任の重さだ。  八千代が、刃を構えて走り出す。走り出す足音が、地面を叩く。      *  交差した二本のマグナブレードが、龍魂剣を挟んだ。光刃と龍魂剣がぶつかり、火花が散る。  カレンは剣を捻って抜いたが、敵の左刃がすぐに戻ってくる。受けた腕へ電撃が走り、足が床を滑った。滑った足が、床に薄い跡を残す。  押し返すだけの凍結が、間に合わなかった。――間に合わない、というのは、凍結が消えたということではない。凍結が、敵の動きに追いつかなくなったということだ。 「カレン!」  背後で、ウッコモンが呼んだ。声は、小さい。だが、カレンの耳には、砲声よりもはっきり届いた。  赤い光が、剣の形をしていた。  幅広い刀身。その根元を飾る金色の日輪が、柄を抱くように広がっている。日輪の光が、赤い刀身の上でゆっくりと回っているように見えた。――回っているのではない。光の粒が、日輪の形に沿って流れているのだ。 「できたよ!」  HALが手を添えると、剣の周囲に残っていた光が刀身へ収まった。光が収まる音は、しない。だが、空気がひとつ分だけ、すっと軽くなった気がした。 「ソルメラモンの力、形になりました」  カレンが息を吸う。  その前へ、マグナグルルモンが割り込んだ。割り込む動きは、速い。だが、速さの中に、焦りが混じっている。 「よそ見は――」  二本の光刃が振り下ろされた。  ルーチェモンの光弾が二人の間へ滑り込み、マグナグルルモンを吹き飛ばした。光弾が当たる音は、重い。敵の身体が、床を滑っていく。  カレンは後ろへ退き、龍魂剣を鞘へ納めた。鞘に収まる音が、かちりと響く。  ルーチェモンが追撃の光弾を放ち、起き上がろうとする敵を牽制する。光弾が、敵の足元で次々に弾ける。もう片方の手で、赤い剣をカレンの方へ送った。剣が、空中を滑るようにして、カレンの手元へ届く。  柄を掴む。  柄の感触は、温かい。いや、熱い。だが、握った手を離したくはならない熱さだ。  赤い刀身に炎が走った。炎が走るたび、刀身の赤さが一段だけ深くなる。  その熱に、あの日の記憶が蘇る。炎の中で向かい合った姿も、自分が振るった一撃も、忘れたことはなかった。忘れたことはなかったのに、今、その記憶が、別の意味を持ち始めている。  カレンは柄を握り締めた。 「火之迦具土」  ウッコモンが、剣を見上げて言った。声は、誇らしげだ。だが、誇らしさの奥に、少しだけの心配が混じっている。 「これで、守って」  カレンはその顔を見た。  小さな手は、まだこちらへ伸びている。その手が、剣の光に照らされて、ほんのり赤く見えた。 「ええ。ありがとう」  息は整わない。腕の重さも消えていない。  それでも、剣を握る両手は定まった。――定まった、というのは、震えが止まったということではない。震えていても、握る場所がぶれなくなったということだ。  戻ってきた敵の右刃を、火之迦具土が打ち上げた。打ち上げられた刃が、空中で光を散らす。  返した剣で左の防御も押し開く。刃先から走った炎が、胸の装甲に溶けた筋を刻んだ。装甲が溶ける音は、じゅっ、という小さな音だ。  マグナグルルモンが足を止め、間合いを広げる。間合いが広がる分だけ、カレンの呼吸が、ひとつ分だけ楽になる。      *  ゾンビバシロモンの口へ、タクティモンが刀を突き入れた。  顎が閉じかける。蛇鉄封神丸がそれを押し留め、砲群が背へ回った。光り始めた箇所へ、次々と砲撃が叩き込まれる。背中の光が、ひとつずつ消えていく。  帯の脚が地面を掻いた。  巨体が暴れ、タクティモンの足元を砕く。足元の地面が、ひび割れる。 「今だ、八千代!」  ジエスモンX抗体が跳んだ。跳んだ身体が、空中で一度だけ大きく弧を描く。  振り上げられた脚をかわし、巨体の正面へ入る。腕の刃に集まった光が伸び、大剣となった。光の大剣が、巨体の影を切り裂く。 「究極戦刃聖覇剣」  刃の光が巨体を貫き、肉体の奥に渦巻く闘争本能を断ち切った。――断ち切った、というのは、肉を切ったということではない。戦おうとする「衝動」そのものを、刃が通り抜けたのだ。  巨体が震えた。震え方が、さっきまでとは違う。暴れるための震えではなく、力が抜けていくための震えだ。  顎を閉じようとしていた力が抜け、タクティモンが刀を引く。背中の光が消え、地面を掻いていた脚も垂れた。垂れた脚が、地面に音もなく触れる。  八千代が着地する。着地した足元で、土煙が小さく立つ。  崩れかけた胴の下で、帯が動いた。  灯は息を詰めた。息を詰める音が、自分の耳にだけ聞こえる。  だが、それは骨を掴まなかった。  伸びかけた先端から崩れ、黒と白の粒になって散っていく。粒が散る様子は、砂が風に飛ばされるのに似ている。頭蓋を支えていた脚が潰れ、長い顎が地面へ落ちた。落ちた顎が、地面を鈍く打つ。  今度は、首へ戻らない。戻らない、というのは、帯が伸びてこないということだ。――その「来ない」ことが、どれほど大きな変化か、灯はすぐに理解した。 「闘争本能は断った」  八千代が言った。声は、短い。だが、その短さの中に、確信がある。  灯は、散らばる骨へ目を走らせた。  何度も破片の下から這い出してきた帯が、今度は現れない。現れない、というのは、破片がただの破片に戻ったということだ。 「……再生も、止まってる」  タクティモンはしばらく残骸を見据え、それから砲群の狙いを下げた。砲口が下がる音が、かすかにする。  肋骨が折れ、腐った皮膚とともに崩れる。兵器に作り替えられた巨体は、その形を保てなくなっていた。崩れる音は、静かだ。大きなものが崩れる時、音は意外なほど静かなのだ。  灯は降り積もる破片を見つめた。  砲声が止むと、辺りはひどく静かだった。静かさの中に、風の音と、自分の呼吸だけが残る。 「……終わったんだね」 「うん」  八千代は、最後の帯が崩れるまで刃を下ろさなかった。刃を下ろさない、というのは、油断していないということだ。――油断していない者の、静かな礼儀のようなものだ。      *  火之迦具土が、頭上に浮く最後の火器を斬り落とした。斬り落とした火器が、床で跳ねて、静かになる。  マグナグルルモンが二刀で斬りかかる。カレンは右の刃を弾き、胴へ剣を返した。  左の光刃が割り込む。炎と電光が弾け、カレンの足が止まった。足が止まるたび、床の氷が薄く砕ける。  敵が間合いを外す。追おうとしたカレンへ、また右の刃が伸びてきた。  剣の威力は上がっても、二本目を捌く腕は疲れたままだった。疲れた腕は、剣の重さをそのまま伝えてくる。 「いい剣だね。でも、持ってるカレンはもう限界でしょ」  脛の装甲が外れ、床へ突き立った。突き立った装甲が、床に小さな振動を残す。  マグナグルルモンの身体が浮く。その装甲との反発を使い、カレンの横を抜けようとしていた。身体が浮くたび、装甲との間に、目に見えない力が走る。  カレンは剣を引いた。  敵の身体が、加速を失った。加速を失った身体が、ゆっくりと床へ近づく。  足が床へ落ちる。落ちた足が、床を打つ音がする。  マグナグルルモンが姿勢を戻そうとした。火花は散っている。装甲も赤熱している。  それなのに、装甲との反発が起きない。――起きない、というのは、力が消えたということではない。力が、「止められた」ということだ。 「……何?」  カレンが凍らせたのは、装甲ではなかった。  敵が退避に使う、磁力の作用そのものだった。――装甲を凍らせるのではない。装甲と装甲の間で働く、反発という現象そのものを、一瞬だけ凍らせるのだ。  長く止めておく力は、もう残っていない。止められるのは、ほんの一瞬だ。だが、剣戟において、一瞬は十分すぎるほど長い。  それでも、火之迦具土なら、この一瞬で斬り抜ける。  カレンは踏み込んだ。踏み込んだ足が、床を強く蹴る。  火之迦具土が右のマグナブレードを弾き、胸を斬り上げた。斬り上げた刃先から、炎が走る。  炎が装甲の裂け目へ入る。裂け目の中で、炎がじゅっと音を立てる。  左の光刃を外へ流し、カレンはさらに剣を振り下ろした。  胸の装甲が割れた。割れた装甲が、床へ落ちる音がする。  床へ落ちた身体を、炎が包む。炎は、激しく燃えるのではなく、静かに包み込むように燃える。  カレンは剣を構えたまま、その輪郭が崩れていくのを見た。輪郭が崩れるたび、鳴の顔が、少しずつ歪んでいく。  進化が解ける。  そこに、鳴の顔があった。――あった、というのは、まだそこに残っているということだ。だが、その顔は、もう笑ってはいない。 「カレン……」  呼ぶ口元が、歪んだ。歪み方が、人の顔の歪み方ではない。  白と黒が皮膚の下から溢れ、少女の形を押し崩していく。顔も、髪も、見慣れた服もほどけ、その奥にあった異形が露わになった。異形の表面は、白と黒のまだらだ。  それが腕を伸ばした。  伸ばしかけた腕が床へ落ち、ほどけた身体が動きを止める。動きを止めた身体が、床に静かに横たわる。  火之迦具土の炎が静まった。炎が静まる音は、しない。だが、熱気が、ゆっくりと引いていくのが分かった。  カレンは剣を下ろした。  膝から力が抜けかけ、柄を握ったまま踏みとどまる。踏みとどまる足が、床で少しだけ滑る。 「カレン!」  ウッコモンが駆け寄ってきた。駆け寄る足音が、小さく、速い。  カレンは空いた手を伸ばし、その身体を受け止めた。小さな体温が、腕の中に戻ってくる。 「怪我、してる」 「……ええ。少しね」  言ってから、息を吐いた。息を吐くたび、胸の痛みが少しずつ薄くなる。  ウッコモンの小さな手が、欠けた装甲へ触れる。触れる手つきは、とても慎重だ。  HALが傍へ来た。足音は、静かだ。 「もう大丈夫です。休んでください」  外を映していた景色には、崩れた巨体の残骸と、立っている二人のデジモンが見えた。灯も、その傍にいる。  もう、熱線は飛んでこない。熱線が飛んでこない空は、ひどく静かで、ひどく明るい。  カレンは火之迦具土を支え直した。  ウッコモンが、その腕にしがみついていた。しがみつく力が、少しだけ強い。――強い、というのは、離れたくない、ということだ。  HALは、その様子を見て、ほんの少しだけ目を細めた。それ以上、何も言わなかった。 エピローグ  椅子に座ると、立ち上がるのが億劫になった。椅子の背に身体を預けると、背骨のひとつひとつが、ようやく自分の重さを思い出す。  進化を解いた身体には、まだ痛みが残っていた。手当てを受けながら指を開いてみると、剣を握っていた形に戻りたがる。指が、無意識に柄を探している。  カレンは膝の上へ手を下ろした。手を下ろした途端、指の力が抜ける。  灯と八千代が戻ってきたのを見て、腰を浮かせかける。腰を浮かせかけたところで、身体が「まだだ」と言う。 「先生、無理して立たなくていいよ」  灯が、空いた椅子を引いた。椅子を引く音が、静かな空間に響く。  その隣で、八千代も椅子を引いている。二つの椅子が、ほぼ同時に引かれる。 「僕らも、しばらく休みたいから」 「ええ。そうしましょう」  灯の傍らへ、ピコデビモンが降りた。羽ばたきが、ほんの少しだけ乱れている。疲れているのは、灯だけではない。 「ようやく休めるか」 「相棒も、お疲れさま」 「とんだ休暇になったものだ」  ルーチェモンが灯の隣へ腰を下ろす。腰を下ろす仕草は、悠然としている。だが、肩の位置が、さっきより少しだけ下がっている。 「ボクを除け者にして楽しんだ旅行はどうだった?」 「……悪いことばかりでは無かったよ」  灯が椅子の背へ身体を預けた。預けた身体が、ゆっくりと沈む。  その様子を見て、カレンもようやく肩の力を抜いた。肩の力を抜くたび、痛みが少しだけ前に出てくる。だが、その痛みも、今は「生きている」証拠のように感じられた。  HALが、卓に浮かべていた記録を閉じる。記録の光が、ゆっくりと消えていく。 「侵入に使われた道は、内側も封鎖しました。残っている記録も、引き続き調べます」 「お願いします。ほかにも、あの子の情報を持っている相手がいるかもしれません」 「分かったことがあれば、お知らせします。あなたも、今日は休んでください」  カレンは頷いた。頷く首が、少しだけ重い。  火之迦具土を収めたディースキャナーへ、カレンは目を落とした。ディースキャナーの表面は、冷たい。  あの日、ソルメラモンを殺めた手で、今日はこの剣を握った。  握ることができたのは、ウッコモンとHALが力を貸してくれたからだった。――力を貸してくれた、というのは、剣を作ってくれたということだけではない。そばにいてくれた、ということだ。 「カレン」  ウッコモンが、隣の椅子から覗き込んでいる。覗き込む目が、まっすぐだ。 「まだ、痛い?」 「少し。でも、大丈夫よ」 「じゃあ、ここにいるね」  隣で、ウッコモンがくるくると身体を回していた。回るたび、小さな服がふわりと広がる。その動きが、妙に落ち着く。  静かになると、あの声が耳に残った。  ――カレンの予定、空いてる?  カレンは俯いた。俯いた視線の先には、自分の膝がある。  鳴と過ごすはずだった一日。  何をするのかも決めずに、互いの予定だけを欲しがった。  出かけてもよかった。  どこへも行かず、くだらない話をしているだけでもよかった。  そういう日が、まだ何度も来ると思っていた。――来ると思っていた、というのは、つまり「来るはずだった」ということだ。来るはずだった日が、来なくなった。その事実だけが、静かに残っている。  膝の上の指が、また縮こまった。縮こまった指が、自分の掌の中で小さくなる。  その回転が止まる。  小さな手が、椅子の縁に置かれた。置かれた手が、ほんの少しだけ震えている。  カレンは、その手へ自分の手を伸ばした。伸ばした手が、ゆっくりと小さな手に重なる。 「少し、このまま一緒にいてくれる?」  ウッコモンが顔を上げる。  握られた手を見てから、カレンを見た。見た目が、少しだけ驚いた顔になる。 「うん。帰るときも、一緒でしょ?」 「ええ」  小さな身体が近づいてきた。  カレンは手を握ったまま、隣へ座り直す。座り直した椅子が、少しだけ音を立てる。  外を映す光の向こうでは、情報樹の枝に細かな光が流れていた。  熱線に削られたところは、まだ欠けたままだった。その先へ続く枝にも、少しずつ明るさが戻っている。――欠けたままの部分と、戻りつつある明るさ。そのふたつが、同時に存在している。それが、今のカレンの心と、よく似ていた。  しばらくして、カレンは隣を見た。隣の顔が、こちらを見上げている。 「帰ったら、一緒にご飯を食べましょうか」  ウッコモンが、ぱっと顔を上げた。顔を上げる速さが、とても速い。 「あたしが選んでいい?」 「一緒に選びましょう」 「うん。カレンの好きなのも、教えてね」  カレンは頷いた。  何が食べたいか。  何なら、この子が喜ぶだろうか。  幾つかの店を思い浮かべながら、握った手を少し持ち上げた。持ち上げた手が、少しだけ温かい。      *  リアルワールドでは、『novenbar』の扉が開いた。扉が開く音は、軽い。だが、その軽さの中に、夜の店特有のざわめきが混じっている。  源浩一郎は、グラスを拭く手を止めた。拭いていたグラスが、光に透けて見える。 「いらっしゃい」  客はカウンターの席に着き、写真を一枚差し出した。写真は、少しだけ色褪せている。差し出す手つきは、丁寧だ。 「この人について、調べていただきたい」  源は写真を手に取った。写真の表面が、指先に少しだけ引っかかる。  写っている男に、見覚えがあった。  ――灯君の保護者だったか。  写真から顔を上げ、客を見た。客の顔は、まだよく分からない。だが、依頼の重さだけは、写真の重さから伝わってくる。  客が、源の顔をうかがった。 「……見覚え、ありますか?」  源は写真をもう一度だけ見てから、布巾を置いた。 「さあ、どうでしょう。まず、お話を伺いましょう」      *  陵介の端末に、通信が入った。通信音は、短い。  画面に映った顔を見て、陵介は作業を続けた。作業を続ける手が、止まらない。止まらない、というのは、相手を軽く見ているということでもある。 「今度は何だい」 「最初のご挨拶ばかり、長引かせることもないかと思いまして」 「――偽名に偽の経歴、それに実在しない相棒のシューモンまで揃えて、よくもまあ『最初のご挨拶』なんて言えるね」 「君も、デジタルワールドが陥ちる日を待っているのでしょう?」  陵介の手が止まった。止まった手が、端末の上で静止する。 「それで?」 「行き先が同じなら、初対面の行き違いばかり大事にしておくのも、勿体ないでしょう」 「初対面、ね。こっちは二度目だと思ってるんだけど」 「水に流して、手を組めと?」  空が微笑む。微笑み方が、丁寧だ。丁寧すぎるほど、丁寧だ。 「あなたにはシンパシーを感じています」 「私の同類なんて最も信用できない人種だ」  陵介は手にしていた部品を置き、端末へ向き直った。部品を置く音が、かちりと響く。 「話だけは、聞いておこうか」 (了)