生駒氏 http://ja.
無題 としあき 10/02 18151

生駒氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9...
生駒の名字は大和国平群郡生駒(現在の奈良県生駒市)を本貫とする。
藤原忠仁公(良房)の子孫が生駒の地に移り住み本拠とするようになり、後に生駒を名乗るようになった。

藤原鎌足(中臣鎌足)--藤原不比等--藤原房前--藤原真楯--藤原内麻呂--藤原冬嗣--
 --藤原良房--藤原基経(元は藤原良房の兄、藤原長良の実子。養子縁組)--藤原時平--藤原顕忠--
  --藤原元輔--藤原信義**--藤原為義--藤原家広--生駒豊政--生駒家宗(家宗の娘、吉乃は織田信長の側室)

**藤原信義が荘園制下で荘官(庄司)に就き、後に生駒を名乗る

無題 としあき 10/02 18153
讃岐生駒氏(矢島生駒氏)
生駒豊政の妹が嫁いだ土田氏より子親重を養子に迎え生駒姓を与え養子分家としたのが始まりであり、元は六角氏傍系の土田氏、土田甚助である。
土田氏には信長の祖母いぬゐ、母土田御前、信長・秀吉に仕え重用された親正が出る。讃岐国6万石余りを与えられ丸亀城に移り大名となる。
初代親正が豊臣政権の三中老として遇されるなど重用されていたが、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは家門の存続を図るため親正が西軍に属する一方で、
親正の子の生駒一正が東軍の徳川家康に属して戦う。戦後丸亀城から高松城に移る。
1640年(寛永17年)親正のひ孫高俊の時お家騒動(生駒騒動)が起こり、騒動の責を受け出羽国由利郡矢島***へ配流となり堪忍料として1万石が与えられた(矢島生駒家)。
高俊の次男俊明に2000石が分知され、嫡男高清が8000石の旗本となり、以後幕末まで続いた。

生駒豊政--生駒親重--生駒親正--生駒一正--生駒正俊--生駒高俊--生駒高清---(子孫)---生駒里奈

***現在の秋田県由利本荘市
無題 としあき 03/22 19022
あんた誰?

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